あぜみちの会ミニコミ紙

みち37号

(2004年春号)


シグナル37

福井市 中川 清

 アメリカでBSE牛が出た。輸入禁止!…。山口県とタイで鳥…何とが発生したまた、鳥肉輸入禁止…。その度に、自給逼迫とかで大騷ぎ…。
それで右往左往する、マスコミと国民!。何とかならないのか、情けない日本国!。
 目頃からまさかのために備蓄し「備えて」おくことと、もうひとつは、それが無くても、代わりのもので間に合わせる心がけの「備え」の問題だろう
牛内が無くなる……?と、「牛丼屋の前に長蛇の列ができた」と、またそれを報ずるマスコミ…それを逆手にこの際と、商魂を発揮する者もいる。もう少しみんな冷静になれないものか。
 「鳥肉や卵から、人に病気が移った例はありません。安心して下さい」と役所の発表があったと報道した同じ紙面に、「鳥肉、卵を販売店がら回収する」と大々的に報じている。一体どっちを信じればいいのだ。
 昨年暮れも「不作不作」だったが、今年も年頭から「食の問題」は、騒がしい限りだ。そんな中で、いよいよ春到来、県内各地で春の農作業が始まった。
 このところ、農業を真面目にやっても、なかなか財布の中身は豊かにはならない。でも、農作業をやっていると、心は和むし、なぜか「こころゆたか」になる。ゴルフをやって、財布が豊かになるのは、賞金を稼げる一部のプロの人で、他の多くの人は、「こころゆたかさ」を求めて、ゴルフコースに出て、汗を流していると解説していた。
 農業も本物のブロになれば、財布も豊かになるのだろうが、プロに徹しきれない私達は、今年もお客様の理解を得て、せめて汗と共に精神の豊かさを満喫したいものだ。


酪農哲学三話
福井市    名津井 萬


 私は乳牛のホルスタイン種と出会って五十年になる。牛飼い年数は、福井県内ではトップクラスだと思っている。今日まで酪農の経営、技術は多数の大先輩から教えられたり、話をきかされて今日に至っている。しかし、大多数の先輩が故人となられてしまった。酪農のF先輩と畜産技師のK先輩からのN牧場々主の話を記してみたい。

(一)四十数年前、N牧場は県内でトップの牧場であった。N牧場主は、毎年、正月には天神様の掛けられた床の間に、前年に使った草刈鎌を三宝に乗せて飾ってあったという。その草刈鎌の刃は約三センチほどの刃幅の鎌が半分ほどにすり減り細くなっていたという。
 いかに毎日、愛牛と牛乳生産のために草刈を続けていたかということだ。その横には、その年に使う新しい草刈刃鎌も三宝に乗せて飾ってあったという。
 一丁の草刈刃鎌に対する酪農家の心意気の哲学である。

(二)ある時、F氏がN牧場に用事があり、牛舎にN場主を訪ねたとき、用件も終わり、一人で牛舎内の手入れの行き届いたみごとな乳牛を眺め歩いていたところ、小用をもよおしてきた。仕方なく、ちょっと失礼して牛舎の傍らで、小用を始めた。すると遠くか大喝一声「誰だっ!、そこで小便する奴は!」と響き渡ってきた。F氏はピックリして半分残っているのを押さえて、どんな思いで外に飛び出したかわからないと述懐する。
 後で、N場主はF氏に、「牛舎は乳牛の寝起きする場である。乳牛が大小便をしても、人が小用を足すところではない」と語ったという。
 私は、その話を聞いていたので、N牧場に乳牛の人工授精で立ち寄ったが、決して小用はしなかった。現在、私の牛舎にはトイレを設置してある。N牧場は天皇陛下行幸の折には牛乳を献上する牧場であった。

(三)元畜産技師のK氏の話乳牛のホルスタイン共進会は、五十数年前から、村、市、県などで開催されて今日に至っている乳牛の「ミスコンテスト」である。理想のホルスタインの体型を求めて、お互いに愛牛の優秀さを競い合うものである。
 昨今のミスコンテストでは、ミス日本となった女性の身長は一メートル七五センチにもなるが、ホルスタインも同様で、体型バランスと同時に、発育が標準以上でないと見栄えがしないし、上位に人賞するのは難しい。
 昭和三十年頃、県ホルスタイン共進会が開催された。N牧場のN場主が愛牛を引き出してきた。乳牛の発育を見るための測尺が始まった。
 若い畜産課職員が巻き尺で胸囲を測る。大声で記録員に「一メートル八五ッ」と告げると、N場主「もう一回測ってくれ」と言う。また測り「一メートル八五ッ」と言うと、「もう一回………」と言う。すると遠くから先輩の畜産課職員が走ってくる。若い後輩より巻き尺を受けとり、N場主に告げる。「もう一回測ります一メートル九ニッ」と声を張り上げると、N場主すかさず「それくらいは有るだろう」と言って悠々と愛牛を引き上げていく、先背職員は後輩職員に片目をつぶってニヤリ。

以上の三話は、N牧場々主の酪農哲学の一端である。私は時折、大先輩のN場主やF氏、K氏のことを思い出し
て酪農経営の糧にしている。

飛騨自由大学セミナー・講演録(連載第3回)
「人と人」、「人と自然」の新しい繋がりを求めて

                  福井市 玉井道敏

 その経験も非常に大きかったと思うんですけれども、そういう中でですね、その新しい人と人との交流の在り方というものを、どういう形で具体的にやるかというようなことで考え出したのです。やはり組織でなしに、個人を、私なり、個人を墓本に据えようと、そこから物事を考えていこうと。個人から考えるというのを、具体的にはどうするかということです。思い付いたのが、はがき通信だったんです。はがき一枚にですね、自分の思いを書いて、自分の知っている、自分の意思を伝えたい、そういう方に送ろうということを思い立ったわけです。それがちょうど平成元年で、早速四月からそれを始めたということです。部厚い資料があると思うんですけれども、厚い資料のずーっと、何枚目ですかね、五枚目ですか。
 そこに書いてありますけれども、そういう形ではがき通信を出し始めたということです。
 現在、八三号まで出しておりますけれども、約一三○○枚、送付しております。最初は一六○枚から始めたんですね。だいたい年に六回出します。
 ということで、こういうはがき通信を、自分の思いなり、いろんな経験をしたこととかですね、そういうことを箇条書きの文章にして出し始めたということでございます。これがやっぱり、今の僕の活動の原点というようなことになるかと思います。非常に一方的なんですけれども、自分の思いを勝手に相手に伝えるわけですが、相手の了解はなんも得てないわけです。相手は非常に迷惑をしておられるかもしれません。一三○○人今、出してますけれども、宛名は全部手書きで出します。これは別に深い意味は無いんです
 けれども、年に六回ですね、一三○○人の人の宛名書きをしておりますと、だいたい頭の中に入るんですね。この人はどこに住んでおるとかですね、そういうことで、今も続けております。近々、八四号を出す予定でございます。ところがですね、一六○枚の時はいいんですけれども、一三○○人で一号出すとですね、はがき代だけで六万円ぐらいかかりますし、印刷代が二万として、だいたい八万円ぐらいかかるわけです。それを年に六回ぐらい出しますと、五十万円くらいかかるわけです。
 それは僕の薄給では、とても身が持たないということですけれども、現在、はがぎ代はほとんどカンバでまかなっております。そういうことで、実際にかかる費用はですね、それほどたいしたことはないということです。ただ寸鉄と言うのは、僕から一方的に出すわけですから、非常に片方向なんですね。それを何かその、双方向の形でですね、それに対して何ら小の反応をですね、皆さんもその寸鉄に対して何かものが一言いたいだろうしというようなことで、六十号になった時に、皆さんからの感想とかそういうものをもらって、この本にしたんです。これは双方向の、私とAさん、Bさんのその双方向の交流の場として、この本を作ったんです。それほど難しい本作りではなかったんですけれども、これで一区切りがついたと。次は、百号に達した時に、第二集目を作りたいなと思っております。
 その寸鉄を基礎にしてですね、その寸鉄の場合は、私と誰かの関係ですので、その読者の方が、交流する場を作れないかということで、始めたのが、寸鉄塾でございます。
 一九九五年の十一月から始めました。どうも寸鉄というのが、何かというのがよく分からん。『寸鉄人を刺す』いう諺があるんですけれども、短い一言葉で人の急所をつくというような意味なんですけれども、そこから寸鉄をとっている。寸鉄塾という名前を、つけましたところ、これは右翼ではないかと、そういう評価がありました。なんかそういうイメージを持つみたいなんですね。ぜんぜん関係ないんですけれども。現在は、年間十回ほどやっております。現在七回目ですかね。おそらく、何人か、毎回毎回参加者が、テーマによって変わりますけれども、今までだいたい延べ二千人ぐらいの方が参加したんじゃないかなと思います。寸鉄を基本にしまして、その読者の交流の場を作ったと。これはですね、先ほどの部厚い資料の十一ページのところに書いてあります。十四ページを見て欲しいんですけれども、最初に私が考えた寸鉄塾、講師名とテーマというものがございます。十四ページにで
すね三一四○人の名前が挙がっております。この方には、こういう話をして欲しいということで、最初寸鉄塾を立ち土げた時に、こういうものを作ったわけです。県外からですね、有名人を呼ぶんでなしに、ごく身近に我々が付き合っている人が、やってることとか、なんかそういうことを紹介したい。また普段は特別なことを考えずに活動されてますけれども、そういう人の気持ちを発掘して、表に出したいというような意味で、基本的に著名な人は呼ばないということを基本にしています。ごく身近な県内の人を中心に、こういうテーマで話しをしたり、またフィールドの現場でですね、いろんな活動をして欲しいというようなことで、二四○人の名前を挙げてます。まあ、この通りにやってないんですけれども。今七十回です。
 最初、この二四○人の時には、年四回ぐらいやろうかなと、そうすると六十年はかかるということを思ってたんです。
 今は十回くらい、毎月やってますので、スピードは速まっておりますけれども。例えば今年の五月の時点での計画をですね、その右に載せてあります、二○○二年度の寸鉄塾計面と。まあ、実は今回もですね、今日みえておられます久々野町の長瀬さんの果樹園へ、明日行くんですが、それも寸鉄塾としてカウントしております。福井から六人一緒に来てますけれども、そういうような形でやっております。
 今は現場へ行くということが非常に多くなっております。登山も含めてですね。最近やりました馬頭観音、飛騨の方にあるんですかね。若狭には十一体、馬頭観音があります。そのうちの一体がですね三一五年ぶりに開帳したというようなことで、高浜の馬居寺というお寺があります。そこへ馬頭観音を見に行きました。
 そんなこともやっております。
 これからやりますことは、京野菜の品評会とかですね、そういうのも見に行きたいと思ってますし、関西地区の寸鉄読者の交流会を十一月二三日にやる予定をしております。あと、越前水仙の探訪とかですね、大阪の黒門市場へ見学に行くとかですね。ほとんどは自分の興味でやっております。
 初めはスタッフ会議を開いてやろうと思っておったんですけど、そんなんもう、まどろっかしくてですね、自分で全部やっている状況でございます。
 こういう寸鉄から始まって、寸鉄塾の開催というようなこともやっております。
 あと、Eメール通信。今年から始めたんですけれども、『ほっこり徒然草』を発信しております。今までだいたい、週一回、通算三五回ぐらい発信してます。だいたい二百人に送付しているという状況です。この、ほっこり、という意味は、若狭弁なんです。今、拉致のですね、拉致でよくテレビに出ますけれども、浜本さんや地村さんのお父さんとか、お兄さんの言葉を聞いておりますと、あれ完全に若狭弁です。ああいうその、ありのまま若狭弁、、ほっこり、は、京都でも使うらしいですけれども、なんか一生懸命仕事をして疲れたと、満足感を持って疲れたというような場合に、使うんですね。、ほっこりしました、そういうような意味です。そういう方言を使って、今、Eメール通信を行っております。
 その次のページですけれども、これは半分は仕事と解釈していただければいいんですけれども、奥越の農業改良普及センターの所長を三年間やっておりました。その時に、「おくえつ農業・農村フォーラムーを実施いたしました。ここで私がやりたかったのはですね、千円の会費を集めて来てもらうこと。たいてい行政とか、そういうところがやるのは、ただなんです。農協は物を与えて来てもらうようなことをやってますけど、私は干円を取りたかったんですね。干円の会費を納めてでも来てくれる人を対象に、こういうフォーラムをやりたかったということです。それと、そこで議論されたことを本にして戻すこと、来てくれた人全員に、それを戻すこと、その二つを自分としてはやりたかったわけです。京都大学名誉教授に渡部忠世という、稲作の起源についての大家の先生がいらっしやいますけれども、その先生と一緒にですね、このおくえつ農業・農村フォーラムを、四日間やりました。
 その中で、千人集会というのをやりましてですね、地方のそういう、普及センター単位で、千人の集会をするというのは、なかなか大変やったんですけれども、それを実行しました。その結果としてまとめたのが、これなんですね。
 『干人の喝采,農』というこの本をまとめて、参加者全員に返したということでございます。千円もらったんだから、やっぱりこれぐらい作って返さなあかんということもございました。この時はですね、予算は何もなかった。自分で六百万円、いろんな団体、市
町村、農協なんかも出してくれましたが、六百万円の金を作って、フォーラムの実施とこの本を作ったということでございます。これをやりましたのが、五年ほど前ですかね。
 今はできませんね、もう。今の普及センターというのは、耕地事務所と林業事務所と一緒になって農林総合事務所というような形で、合体してます。普及センターが独自でこういうことをやれるということは、まずもうできないだろう、最後の良き時代だったなと。そういうふうに思っております。そういうようなことを一九九七年の七月にやりました。
(以下、次号)





玉井よろず道楽研究所を開所します
福井市   玉 井 道 敏


 昨年の三月に、三六年間勤めた福井県庁を定年退職し、はや、一年が過ぎました。この間、多くの方々から有形、無形の励まし、ご支援をいただき、個人的にどうしてもやりたかった還暦・退職記念事業を計画通り実施することができました。皆様のご厚情に心より感謝申し上げます。
さて、記念事業の一つであった私設研究所の開設は、昨年の八月に入れ物である建物が完成し、その後、備品や書籍、資料を運び込み、整理整頓を行ってきました。現在もまだまだ整理途中でありますが、新年を迎えて既に百人以上の来訪者があるなど、実質的に開所したと同様な状況となってきております。そこで、より幅広い方々の訪問受け入れと、多くの皆さんに研究所を活用していただくため、この四月一日(木)を期して、玉井よろず道楽研究所を正式に開所することといたしました。
特に開所式は行いませんが、皆様方には今後、気軽に研究所にお立ち寄りいただくようご案内いたします。なお、研究所の位置図と建物の写真を添付しておきます。
(一)住所など 住所九一八 八二〇四 福井市南四ツ居九―一―三
TEL・FAX (〇七七八)五四−八一○○
Eメールアドレス douraku3@agate.plala.or.jp
(三)研究所の概要
研究所の周りは田んぼで囲まれていて、田んぼの周りは住宅団地に囲まれていて、風景として団地の周りは遠く山々に囲まれていて、大変見晴らしがよろしい。北側には何枚かの田んぼを隔て廃棄自動車の処理場があり、廃棄自動車がうずたかく積まれています。
周りはそんな風景です。原則として、九時から十八時まで、土日なしに玉井が毎日研究所に詰めていますが、いないこともあるので、来られる時はあらかじめ電話で確かめてくださると確実です。駐車場に青色で後ろがへこんだアルト車があるか、南の玄関口に自転車がある時は確実にいます。自宅から時々歩いてくることもあります。
その時は、西側の事務室のブラインドが上がっているか、玄関のカーテンの向つて右側が半分開いている時は来ています。暖かくなったら窓は全部開く予定なので、よりわかりやすくなると思います。駐車場はうまくつめれば七〜八台入るスペースがあります。
少人数の時は事務室で応対します。小集会は十畳の部屋で行います。書庫は自由に見て使ってもらって結構です。
書庫の窓を開けると、夏などはいい風が入って、ひんやりとして快通です。読書するには最高です。貸し出しもOKです。お茶とコーヒーは常時用意しています。茶菓子は差し入れしていただけるとありがたい(常時用意しておくと食べ過ぎるのです)。
この研究所で毎日何をしているか。あぜみちの会や福井の伝統野菜・るるぶの事務作業、メール通信の作成と発信、頼まれた原橋書きや読書をしていると、一日があっという間に過ぎてしまいます。これに、今、一服している寸鉄の発行や寸鉄塾の開催、さらに、立ち上げに参画しているNP0法人での事業実施が加わるとより多忙となります。「退職してヒマやろ?」とよく言われるのですが、自分にとっては的外れな質問です。
ということで、いかに有限の時間内に、丁寧且つ完全に事務作業をこなすかということが、今後この研究所を運営していく上でのポイントとなりそうです。
この場所を拠点にして、最低でもあと二十年間(もう一年経ってしまった)、自分のやりたいことに取り組んでいきたいと思っています。今後、自分ともども研究所を可愛がってください。
皆さんのご来場をお待ちしています。


編集後記


◎今号から、表紙に、石塚博岳氏のペン画が登場します。
季節感あふれる緻密にして繊細なスケッチにご期待ください。
◎大野市在住の写真家、松日宗一氏の写真と文による『ふくいの専業農家・その群像』の連載を始めます。その心は次の通りです。
福井の農家の多くは兼業農家である。一家挙げて、農業、農外で働いて得る一農家あたり平均農家所得は、全国都道府県で四位に位置するほど高い。そのように利にさとい福井の農村風土にあって、日夜、土や自然と格闘しながら農業だけを生業として生きてきた、生きている、生きようとしている人々がいる。専業農家といわれる人達である。
これまでも、今も、そしてこれからも、農業、農村、いや都市にとってさえ何よりも大事な人達である。これからしばらくの間、松田宗一氏の写真と文で、そういう大事な人達を紹介していきたい。
(松田宗一氏略歴)
一九四五年東京生まれ、法政大学社会学部卒業。記録映画制作、地方新聞社編集局勤務を経て現在、大野市にある社会福祉法人『紫水の郷,地域生清支援センター』勤務。
・写真集「紅と紺」「川の流れは絶えずして」・写真展「空塊」「福井に生きる女性群像」「越前の土に詩う−陶芸家との邂逅」「田舎のヒロイン日記」ほか
◎早春、芽吹いた野草が味わえる季節。先日、大野の朝市にでかけたら、フキノトウやアサツキがたくさん並んでいました。我が家の狭い庭にもカンゾウ、ニラ、ミツバ、ギボウシなど食べられる野草があるのですが、つい採る時期を逃してしまい来年こそと思うのですが、毎年その繰り返しです。昨年は知人からゲンノショウコの若草をもらったのですが、うまくこなせず、胃の中に収まるまでには至りませんでした。
(玉井)

 

 


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