あぜみちの会ミニコミ紙

みち33号

(2003年冬号)


あぜみち収穫祭(2002.11.23 福井市足谷町杉本農園)


シグナル33

福井市 中川 清

 JAS有機農業の認定にしても、県の認証農産物にしても、真面目にやっている人ならだれにでも与えられるわけではありません。「ハ〜イ」と手を挙げた人だけが対象になります。意識のある人が獲得するものです。勿論、認証費用は、申請者の負担です。「金出してまで…」「価格に反映できるか?」と疑問視する向きもあります。でも、私はこの制度は、意識ある農業者としての誇りだと思っています。今、農業者に意識が低下してはいないか?

 かつては、日本の食糧を支えるという使命感みたいなものがありましたが、今は夢物語でしょう。でも気持ちが薄らぐと、そこから崩壊が始まります。私は、ガンを宣告されてから、出来るだけ前向きに生きてきたつもりです。病は気からとも言います。気持ちの持ち方こそ大事でしょう。そこで念頭に当たって提案です。今年は三つの「気」を保ちましょう。

一 かがやき
 福井県の女性は全国でも第二位の長生きだと言います。女性は、男に比べて、お化粧などに金をかけて何時も「かがやき」があるからではないですか。
 農業だって、自分を美しく見せることを忘れて駄目になりたくないですもの。

二 ひらめき
 人は、使わない機能から退化すると言います。歩かないと足が弱ってきます。何時も、頭脳を働かせて「ひらめき」を保ち続けたいものです。老化防止のためにも…。

三 ときめき
 何時までも、異性の美しさに触れて、心が惹かれる若さを保ちたいものではありませんか?(惹かれるという字は若い心と書きます)
この三つの「気」を保持すれば、ラッキーな今年になること請け合います


よろしくお願いします
あぜみちの会 会長   北 幸夫(朝日町)


 人間とは、生まれながらにして競争という世界に生きなければならない動物なのでしょうか。
私が就農した昭和三十年代には、増産ということばが、巾をきかせ、あらゆる物が量を作れば売れた時代でした。少しでも多く穫ることに精出し、天皇賞を始め多収穫競争にあけくれていました。最近になり良質物を、いかに安価に提供出来るか。外圧にも耐えられるというか、世界各地からの低価格攻勢にまで巻き込まれ、更に安全、安心、環境配慮まで加わり、我々生産者にとっては、かつてない競技会なるものの舞台に立たされています。
かつての私の人生設計では、六十才を過ぎれば楽隠居して、写経などし感謝の日を送ること、となっているのだが、今も尚今年こそはと精出しているのであります。
山間地での農業経営であり、規模的にも、企業的農業経営からも、ほど遠いものではありますが「環境保全型農業」に共鳴して集まって協力して下さる若い人達と一緒になって、自然を語り、明日の農業を夢見ています。食物の生産基地としての、使命感を秘めながら、年がいもなく「今年こそは」と計画をたてているところであります。後継者のいないことをいいことに、食と農の再生を目指し汗を流しているところです。
図らずも、昨年秋、上良会長の後を「あぜみちの会の代表に!」を安請けしてしまいましたが、昨年十一月二十三日の杉本様にお世話になった収穫祭や中川賞の選考会等、大変な重責で驚いている次第です。
会員の皆様と一緒に考え、行動に結びつけ、新しい風を起こさなければ、と考えています。よろしくお願いします。
 


大、大、大成功に終わった収穫祭
えふ・えい らんど すぎもと

福井市 足谷町 杉本英夫

収穫祭テープカット
収穫祭 餅つき

 平成十四年十一月二十三日(土)勤労感謝の日、この日は私にとって忘れることができない一日となりました。十一月上旬からの天気といったらここ近年にはない悪天候続きとなり、当日の天気がとても心配でした。しかしそんな心配もどこへやら。「こんな良い天気があったの」みたいな晴天でした。もちろん霜はばんばん降りていました。
今回収穫祭の依頼が事務局からあったのは約二ヶ月前でした。私があぜみちの会の収穫祭にかかわりを持たせていただいたのは、平成十一年に行なわれた上良さんの収穫祭からです。あぜみちの会の収穫祭=BIGイベントという観念があったものですから、はたして私の所でできるものだろうかと不安がまず先にたちました。いままで小イベントは何度となくこなしてきましたが、千人、二千人規模で行なわれた平場の大農家さんみたいな事がはたしてこんな山の中でできるだろうか…
 「絶対無理、無理」
 しかし無理を承知で、失敗してもいいから冒険してみようと思い、収穫祭をやらせていただく事にしました。
 前日の準備から後片付けまで多くのスタッフの方々に御協力いただきまして、無事終わる事ができました。
 当初は雨の場合と晴れの場合の二パターンを考えていましたが、中川さん、安実さんから雨の心配はしなくていいと何度となく言われました。それは、いままで八回の収穫際は一度も雨が降らなかったという実績から言われたものです。しかし、私はそう言われれば言われるほど心配で夜も眠れない日がありました。しかし、そんなことは無駄な心配だったのです。
 収穫祭を行った場所は、標高四百メートル弱の桑畑、栗畑、花木などを栽培している所でした。ここからは、三国の雄島が見え、夏は三国花火も見える景色の良い所です。しかし、この場所に来るには道も細く、カーブも多いので、一方通行にしました。駐車場は林道の片側を使い、少し遠回りをして帰ってもらう事にしました。駐車場係の朝日さんからは当日は一台、一台車を止めて説明するのに、てんてこまいだったと聞かされました。また、受付の林さん、小島さんの所へ幾度となく来場者数を聞きに行きました。午前十時からだんだん増えていく人数に、私は喜びを隠せませんでした。地域中の方々はもちろんのこと、地域外からもほんとうにたくさんの消費者の皆様が、それも家族連れでいらっしゃいました。最終的に名簿にご記入いだだいた方は三百人を越え、五百人以上の方にご来場いただいただろうという事でした。その人数の多さに大・大・大満足でした。
 今回収穫祭に出店していただいた、県内でも指折りの約二十の専業農家さんより、自慢の野菜・花・果物・米パン・焼き芋・その他たくさんの品物を出店していただきました。午前中には、ほとんどなくなるほどの大盛況でした。
名津井さんの子牛と古道さんの鶏の所へ子供達が集まって楽しそうにしていました。その様子をケーブルテレビが取材をしていました。
 丸岡町の前田さんの美味しいそば打ちの所へは長い列ができていました。またジャンボ鍋を借りての四百食分の豚汁もあっという間になくなるほどでした。鍋係はJA福井市本郷青壮年部の方々に、鍋奉行は実家の兄にお願いしました。豚肉は十五キログラム、野菜は自家製の物を使いました。
 北会長より美味しいモチ米を提供していただき、きなこモチとおろしモチの振る舞いがありました。
 武生からは東雲堂の阪下さんにみたらしだんごを出してもらいました。武生に私がいた時、一緒に少年剣道を指導していた友達です。私の妻の手作りコンニャクも、多くの消費者の方々に試食をしていただきました。
 越前本郷郵便局さんには、切手の販売などをしていただきました。郵便局のかわいいテントが印象的でした。
 小屋の中での古道さんの写真、名津井さんの水墨画、中川さんの体験学習写真にただただ「すごい」の一言。
 また農文協さんにはたくさんの本を持って来てもらいました。そして中川賞の表彰も盛大に行なわれました。
 今回の収穫祭の影のキーポイントとして「炭」をあげたいと思います。当日は朝からとても寒く何カ所か炭をほこらしました。ほこった炭の回りには、たくさんの人が集まって暖まっていました。口々に「炭はやっぱ暖かいなあ」の声。それと妻の姉にお願いして炭の置物作りを開いてもらいました。たくさんの方々が思い思いの感性で作り上げていました。炭窯、炭焼き体験を今回の収穫祭の一部に入れられなかったのがとても残念です。
 地域を巻き込んでの収穫祭、出店された方も消費者の方もある程度満足されて帰られたのではないかと思います。それもやっぱり天気が良かったからのことで、もし雨が降ったらと思うとぞっとします。ほんとうに天気に感謝・感謝です。
 今回の収穫祭が本郷地区の活性化のほんの一部になったのではないかと確信しています。
 最後になりましたが、今回北会長をはじめ、多くのスタッフの方々に支えられて大成功に終わった収穫祭。心より厚く御礼申し上げます。

杉本さんあいさつ 「炭」の置物作り ジャンボ鍋の豚汁作り


健全な野菜って本当に作れるの?
〜家庭菜園の立場から〜

福井市  酒井 恵美子


五月の終わりごろ、里芋(赤芽大吉)を十球ほどもらいました。時期遅れだったので、どうでしょうかと思ったのですが、とりあえず、自家発芽の長茄子と一緒に堆肥置場の跡地に植えておきました。世話は、水管理だけです。はじめのうちは生長も大幅に遅れていましたが、八月の中頃からは、ぐんぐん生長し、勢いづいた里芋・茄子は、私の背丈を越えるまでに育っていきました。
食材の安全・安心が強く叫ばれている現在ですが、施設や特別の資材を使わずに作物を栽培することが果たしてできるのでしょうか。私は、小面積多品目栽培をしていますが、コスト面で、家庭菜園では施設園芸は向かないと考えています。また、無農薬・無化学肥料栽培は理想ですが、農業者の高齢化や不勉強も手伝って定着には無理があると思います。
虫たちは、容赦なく土や茎・葉に産卵し、天候次第で病気も確実にやってきます。高価な種や苗を購入し、手間をかけて育てた作物が虫に喰われ、病気で枯れていくのを見過ごすには忍びないものがあります。そこに登場したのが農薬や化学肥料です。一発で効果抜群とあれば使わない手はありません。
化学肥料は効果てき面です。見栄えする作物が目に見えて育ちますが、有機栽培ではその効果がなかなか現れません。化学肥料の置き肥でぐんと変わる隣の畑を見ていると、不安と焦りが走って、つい一振りの化学肥料に望みを託してしまうのが私の例年の栽培法になってしまうのです。
話は戻ってこの堆肥の中で育つ作物を見て、物によっては完全無農薬・無化学肥料でも「できるんだ」との思いを新たにしました。昔は、農薬も化学肥料もありませんでしたが、それなりに育ちました。だのに、今は、なぜ?という疑問が残ります。多量の堆肥散布も量的に材料の確保は難しく、労力もたいへんです。一匹ずつ虫を捕まえることも困難です。手軽な農薬がある。すぐ効く肥料もある。除草剤もある。労少なくて実り多ければ、農業は無上の楽園です。害はわかっていたのですが、多収穫、多収入を目前にして目をつむらざるを得なかったのでしょうか。
土も水も空気も汚染され、牛も豚も、人も薬づけで、有機肥料と思っていたわらも牛ふんも、米ぬかまでダイオキシンに汚染されているという人もいるようです。その中で安全な食材を作る手だてはもうないのでしょうか。たいへんな時代になったと思います。
結局、私がたどり着くところは、物事をただ経済効率だけで考えるのは慎もうと。そこから何かが見えてくるのではないかと思います。本物の野菜づくりの夢を可能な限り続けたいと思っています。

酒井さんの家庭菜園 収穫されたかぶ

あぜみち中川賞 受賞
「私の農業」

カメハメハ大農場  藤井 勇 (芦原町)


 一、農業を始めた動機
 高校生の時に農業に興味を持ち始め、農学部に進学した。農業での国際協力に携わりたかった私は、青年海外協力隊に志願しバングラデシュで稲作の指導をしていた(実の所なんの役にも立たなかったのだが)。帰国後は南米移住も目指したが、自信が持てず南米の土を踏むこともなく断念した。農業をやりたいという夢は捨ててはいなかったが、農家出身でない私にはすぐには決心がつかず、かといって農業と関係のない仕事もしたくなかったこともあり、農業機械の販売会社に就職した。会社員生活三年が経ち三〇歳になった時、私は自分自身に決着をつける時が来たと強く感じていた。一生をかける仕事はなんなのか、自分が一番いい顔していられる生き方はどんなものなのか。そして私は危険な賭けに出た。否定的な意見も多く聞いたが行動し始めると応援してくれる人がたくさんいた。決心し行動し始めた時私には全くと言っていいほど迷いがなかった。(だからと言って後悔した事がなかった訳ではない。)

 二、経営内容
春作  スイカ  メロン(ハウス)
秋冬作 トマト 人参 こかぶ

 三、これからの夢
 実はこれが書きにくい。私は当初職業というより生き方としての有機農業を夢見ていた。つまり、作物という商品を生産するより自然循環に身を置いて、自然の力に活かされた農法を自分の哲学として表現するやり方を夢見ていた。だが私は中途半端に妥協してしまった。入植した北潟の農家の人達と協調できる作型にする事を行政にもすすめられ、収入を得やすいであろうスイカやメロンをやることにした。実はこれにはそれほど抵抗はなかった。北潟の農家を見学して回った時に、農家と普及員のレベルの高い会話にすごく面白そうだと感じていた。そして私は自然農法から離れメロン、スイカにはまりこんでいった。三年目にやっと思ったものがだいたい作れるようになり、その頃から脱化学肥料を目指しボカシを作り始めた。発酵段階によって様々な香りや色を見せるボカシ作りはどんなに手間がかかっても楽しいものになった。
 だが私にもつらい時期があった。一年目二年目の貧乏より辛かったのが五年目頃になった鬱状態だった。他人には言えない事が多いので原因は書かないが、生きているのが辛かった。幸い一年以内に治ったのだが、はやまった事を(いろんな意味で)しなくて元気になれてほんとに良かったと思う。そしてその後からお客さんとの接点を多く保とうとして農場便りをまめに出したり(といっても年三回だが)、少しの物でも配達するように心がけている。


昨年から更に私にとって良い刺激になっている事がある。人参を生協に出荷するようになって袋詰めと言う作業が出てきた。注文の数によっては私一人では対応できないので思いついたのが精神障害者の共同作業所だった。以前保健所から依頼されて「心を病んでいる方」を社会復帰訓練として受け入れた事があるのだが、この人が普段通っているのが金津にある共同作業所なのでそこに袋詰めを依頼したところ快諾してくれた。作業所にとっても利益になり、役に立っていることが、私の励みになる。選別が簡単で作業の単純な仕事を開拓すれば頼む事ができるので、次はほうれん草を大きさを揃えずに目方だけで袋詰めして買ってくれるところはないだろうか探ってみようと思っている。肥料を減らし農薬を減らしそして自分も苦しんだ心の病を患った方の力になれることを続けていきたい。

あぜみち中川賞表彰式
左から近藤審査委員長、北会長、藤井さん、
中川氏、安実事務局長

あぜみち中川賞審査講評

近藤万里子


 農業に夢を抱く若者にその実現の一助にと、中川清氏がご自身の農業年金を拠出され創設された「あぜみち中川賞」は今年四回目を迎えた。私はこの賞の審査員の一人として、年に一回の審査会に欠かさず参加させていただき、現地審査ではいつもあふれる夢や情熱を肌で感じてきた。
 今回、中川賞を受賞されたのは、芦原町北潟で主にハウス栽培をしているカメハメハ大農場の藤井勇さん。応募された原稿を読ませていただいたうえで、十四年十月三十一日、あぜみち中川賞審査員等七名で農場におじゃまし、現地にて審査をさせて頂いた。
 藤井さんは脱化学肥料の農業を目指し平成六年に就農。収入の安定するメロン、スイカのハウス栽培を始め、軌道にのりだした頃から、米ぬか、芦原の豆腐のおから、籾殻、魚粉などで作る自家製ボカシ肥料に切り替え、化学肥料の使用は一部堆肥のみとしている。今はほかにトマト、小かぶ、人参、ほうれん草なども作っている。
 ハウスは、北潟区から借りている土地で、ハウス十三棟を利用しているとのことで、主力のメロン、スイカについては季節を逸しているため、ハウスの中には若干植えてある葉物が見受けられる程度だった。少し離れた丘の上では出荷途中という人参畑が十二アールほどある。
 この人参は昨年から生協に出しており、この袋詰めを、施設の共同作業場に持ち込んでお願いしているとのこと。また、メロン、スイカの販売はほとんどを宅急便を使っているが、ピーク以外は少ない量でもなるべく自分で宅配を心がけているほか、ユニークな「カメハメハ大農場便り」を年間三回発行し、顔の見える農業を実践している。特にお客さんの満足度を最重要視するため、糖度に独自の基準を設けスイカは十二度、メロンは十五度以上を心がけて出荷している。

現地審査:ぼかし堆肥作り ニンジン畑で説明する藤井さん


あぜみち中川賞受賞の 藤井勇君

福井市  名津井 萬


 あぜみちの会の第九回収穫感謝祭が快晴に恵まれ、標高四百メートルの杉本農場(えふえいらんど・すぎもと)で開催された。
その会場で、県内で農業に励む青壮年に贈られる、あぜみち中川賞(副賞三十万円)が、芦原 町北潟でハウス園芸に取り組む、藤井勇君に授与された。
藤井君は私の隣集落の非農家の出身である。若い頃から農業に秘かな情熱を燃やしていた人材である。中川賞受賞を私は本当に心から喜んでいる。それは十七年前に私は、彼は何らかの形で農業に生きると直感していたからである。私の細い目も、人を見る目に狂いは無かった。
 藤井勇君は、大学卒業後、昭和六十一年に青年海外協力隊員としてバングラデシュに派遣された。その頃、私は地区の西藤島公民館の機関紙(年・二回発行)の編集・発行を担当していたので、藤井勇君のことを知り早速、記事にしたいと思い、彼のお母さんに彼の近況を訪ねた所「手紙が三通ほど来ているから、それを見て下さい」と手紙を手渡してくれた。それを公民館の機関紙に編集させてもらった。次にもう一度その記事を発表したい。

…※…※…※…※…※…※…

 「バングラデシュで頑張る」  藤井勇君
 昭和六十一年八月、国際協力事業団の青年海外協力隊員としてバングラデシュに派遣され現在当地の農業指導に大活躍中である。
 藤井勇君は海老助町の藤井末五郎、喜代子御夫妻の次男で西藤島小学校―灯明寺中学校―高志高校より東京農大農学部拓殖科を卒業して筑波国際農業研修センターで一年間研修を受けた後、二年間滞在の予定でバングラデシュの農業指導に携わっている。
バングラデシュと云う国を地図で探すとインドとビルマに挟まれた小さな国であって日本の北海道ぐらいの大きさの国である。
 次に藤井君より両親に送られて来た手紙で国情の一部を紹介したい。

 「昭和六十一年九月二十一日発信の手紙」
 前略 今日でバングラデシュに着いて約一ヶ月半以上になる。九月に首都を離れて任地へ赴いたが、だんだん土地の雰囲気にも慣れて来た所だ、筑波で一年間勉強した事は稲作だったが、ここで教えるのは野菜で、あんまり訳が分からないので本を見ながらハッタリで通している・・・(中略)・・・参考になる資料は一杯あるが、今は成功や失敗より、良い仕事をするように精一杯努力しようと思っている・・・(中略)・・・飯は宿舎の食堂とか近くの食堂とかで、休みの日には街の中華料理とかで食べている。
 今のところ食あたり水あたりはない、水にはかなり気をつけている。何かと不便であるが、これも一つの楽しみかも知れない。この土地の人間は何かと時間がかかるのでイライラして怒鳴ったりしているが、いつも後で深く反省して後悔している。二年間のうちにはもっと心の大きな人間になりたいと思っている・・・(後略)・・・

 「昭和六十一年十月三十日発信の手紙」
 前略・・・生活も仕事もやっと波に乗り始めた。バングラデシュの人間も少しずつ理解できるようになり、当初イライラしたり怒鳴りちらしたりしていたのも今では殆どなくなった。不便と思っていたのが不便でなくなり能率の悪さもただ悪いと思わなくなってきた。十一月ともなると日本は大分寒く母ちゃんはもう電気毛布をしていると思うが、こちらは二週間ほど前に乾期に入ったばっかりで、毎日カンカン照りで日中は日本の真夏と一緒である。しかし夜は涼しく薄いかけ布団がないと寒い、この暑さはまだ半月程は続くと思うが、それからは少しは涼しくなるらしい。雨は来年の三月頃まで殆ど降らない。この地域はバングラデシュの中でも特に雨が多く年間降水量は世界一である。今は畑は干上がってカラカラで労働者にバケツで水を運ばせているが、それだけでかなりの時間を喰う。なかなか仕事が進まない。その上初めて植える野菜ばっかりで失敗とやり直しの連続でやっぱり一年は大した仕事ができないと思う。無知を行動でカバーしようと夜明けから日暮れまで畑を見はっている。書物を開いたり人に聞いて廻ったりしている。日が暮れると飯を喰うまで二時間程あって、その間に買い物をしたり水浴びをしたりしている。風呂はなく人々は池で水浴びをしている・・・(中略)・・・洗濯屋はあるけど盗難が多いらしいので水浴びのついでにしている。・・・(中略)・・・心労が重なった時、手紙を読んだり書いたりすると本当に落ち着き元気が出る。・・・(後略)・・・

 「昭和六十二年一月十五日発信の手紙」
 前略・・・シレットという所はバングラデシュでも一番涼しい所でもう日本の秋の様になった。現地人の中にはこの土地が世界一寒いと思っている者もいる。それでも人々は毎日水で体を洗っている。俺もそうしている。この国には正月を祝う風習はないので大みそかも元旦も休みにならない。この前、首都で健康診断と会議があって、その時に大使の招宴があって日本料理が一杯食べられた。半年に一回の大ぜいたくができた。・・・(中略)・・。
送ってくれた荷物は無事に届いた。有難く食べた。しかし大変もったいない。俺は現地の物で良い。辛い食物がまずいとは思わない。喜んで食べている。嬉しかったけどもう送ってもらわなくていい。新しく来た隊員に米の飯を食わせてあげたら泣いているみたいであった。
今は俺の播いた野菜も収穫期に入って来た。最初の穫った大根は肥料が足らなかったか大きくならなかった。白菜は日本なら二束三文の品物だったが、現地の人間は誰も知らんので良いということにした。キャベツは良いのが穫れそうである。・・・(中略)・・・仕事を始めて五ヶ月目であるが慣れて来るにつれて別の事で悩んだり現地の事情を知れば知る程、難しい事ばっかり出て来る。同時に話し相手も増えて楽しみも多くなる。自分で好んで来た道なので苦しくも精一杯やって行く。・・・(後略)・・・

 「姪のあやこちゃんへの手紙」
あやこちゃんへ
おじさんはいま、とおいくにでしごとをしています。子どもたちはがっこうへ行かないかわりにくさむしりをしたり、うしをかったり、バナナをうったりしています。がっこうとくさむしりとどっちがいいかな。おじさんにもおてがみください。 いさむより

 遠いバングラデシュの国から両親に送られて来た手紙を読ませてもらうと約六ヶ月ほどの間に人間として大きく成長している事をうかがい知ることが出来る。反省、後悔、苦しみ、悩み、感謝、決意、やさしさ、今、日本人に欠けているものを一つ一つ身につけている様である。異国の地で活躍する西藤島出身の藤井君の今後の健闘を心から祈念する。
     (文責・名津井萬)

…※…※…※…※…※…※…

 彼のお母さんは、今も「うまくやって行けるだろうか」と、いついつまでも我が子に対して、母の母としての心配をしておられる。
私より藤井勇君へ、両親の恩を忘れず、あせらず、ゆっくりと、正直で真面目に、純粋に一生懸命、農業に取り組んでほしい。


百姓1年生

アジチファーム  義元 孝司 (福井市黒丸町)


 私は昨年四月に長年勤めた会社を退職して百姓になりました。五十一歳、少々年をとりましたが、一年生です。百姓とは、三省堂の広辞林には「@農業に従事する人。農民。ただし、江戸時代には農民の中の特定層、本百姓の称であった。明治時代になって農民と同義になった。Aいなかもの。」と書いてあります。私としては百姓の定義などどうでもいいのですが、名刺には心地よい響きの「百姓」を肩書きにいれました。早速、自己紹介の折差し出す名刺を見ていただく方に、驚きと感動(?)を与えているようで、とても楽しい気分です。
 最近、農林総合事務所のTさんが私の農業者としての調査にこられ、その中で「義元さんはなぜ就農されたのですか」との質問をされました。私は思わず、答えることが出来ず、その場を適当にごまかしたような返答しかできませんでした。私としては、この二十年やってきたことの集大成が「百姓」になるという選択にたどりついたのだとぐらいにしか考えていなかったのです。農を中心に生活全体を組み立ててゆく「百姓」になりたいと考えています。
 サラリーマン生活約二十五年に別れをつげて約一年。振り返ってみると、こんなにいきいきと生活できるものだとは思いませんでした。今までの生活は「時間の切り売り」が基本でした。朝七時三十分に家をでて、八時前に会社の机に座り、デスクワークをこなし、客先との連絡打合せ、企画書の作成、現場の確認、納品、客先からの受注の整理、校正等々煩雑な業務をこなし午後七時頃に仕事を終える。製品や客先とのトラブル、スタッフの業務展開の進捗等々は家に帰宅しても頭からはなれることはありませんでした。
 四月一日就農以来、朝五時頃に起床。日が暮れると家に入りゆったり。好きな本つくりと週二回のパン焼きを省くと、残りは全部自分の時間になる快感は何事にも変えられないものでした。
 百姓仕事は四月の稲の苗つくりから始まり、田の代かき五月の苗配達、田植え、麦刈り。六月の大豆の種まき、キャベツの収穫。七月の大豆の土かけ。八月の大豆の防除。九月の稲刈り。十月は麦の種まき、大豆の収穫。十一月は田の秋起し。十二月は縄ない。こうした一連の百姓仕事は「時間の切り売り」にない楽しいものでした。
 さて、新しい年平成十五年を迎え、これからの百姓に目標をたてました。
一.明るく、楽しく、元気よく百姓をする。
二.百姓として経済的に自立する。
三.百姓仲間を増やす。
四.百姓として地を這う仕事をする。
今年は天候に恵まれ豊作でありますように。百姓仕事はお天道様まかせですから。

大麦播種作業中の義元孝司さん

あれから3年
ますます楽しい田舎暮らし


池田町 長尾伸二


一九九九年夏、あぜみちの研修会に参加中、「八ッ杉千年の森」での宿泊。深夜メンバーの数人と、池田の蛍を見に行きました。数千匹の幻想的な光の中、池田を人に誇れる自分がいました。
「千年の森」に帰り宴もさらに盛り上がりそんなとき農業試験場の前川氏より”あぜみち中川賞”への投稿のお誘いがありました。
「夢」・・・漠然とパソコンに向かい四千字に夢を膨らませ詰め込みました。
第一回の賞をいただき、武生の上良さんの農場での収穫感謝祭で表彰していただいたのがつい昨年のように思い出されます。何気なく素直に言葉を並べ自分の人生を振り返り、これから進むべき道を模索しながら数時間で書いてしまった記憶が残っています。
書くのは簡単なのですが、我が家には妻のチェックが待っています。
 人の文章に山ほどの誤字脱字の罰を入れてくれます。訂正や文章の変更に暫くかかり、結局締め切りぎりぎりの提出だったように思います。
 昨年末、収穫祭の反省会に過去の受賞者も参加さして頂き久しぶりに諸先輩とゆっくり話をしてきました。前日に自分の作文を読み返し、何かとても年を取ったような感じがして、この三年という時間を自分でどう評価すべきか考えています。


この二年ほど、地元池田での活動の場が多く、なかなか町外のイベント参加も遠のいています。農業者(特に稲作)にとって、村機能の低下が進む中、今後の稲作も大きく変化していきます。集落営農、農業の法人化等形態もどんどん様変わりして新しい農村作りが始まって行くことでしょう。
 今池田の農業もそろそろ世代交代の時を迎えようとしています。中山間農業を未来ある夢のあるものにするため、今後も仲間作り、物作り、人作りに次のステップに向けさらなる夢を描いていきます。

 我が家の農業は、今もこれからも夫婦二人元気に楽しく二人三脚・・・・
 家族の笑顔がある限り、池田の自然がある限り、一歩一歩止まることなく
田んぼの”あぜみち”を夢を追いながら歩んで行きます。

収穫感謝祭の反省会



おたより

清水町 宇野 肇


前略、早速に「みち32号」をお送り下さいまして有難うございます。長らく「みち」が来なかったので、中川先生がお健康でおられるのか、心配でお電話させていただき、先生のお元気な、お声をおききし安心しました。
シグナル32の文中「何かしていることが、若さと健康を保つ秘訣」は全く同感です。又「袈裟を着て、経を読む」を「今朝起きて今日を読む」は実に面白い替え文字で真理を当てています。
高橋ひとみさんの安全、安心、安定の自然への探究もすばらしい一文です。
次に名津井萬氏の「農業紳士・・・」も一方ならぬ味のある文章です。「それぞれの農業に対し、一家言を持ち、農業哲学をもった人ばかり・・・故に自分に厳しく、他人に優しく・・・」のさんさんの方々は正に観音様です。観音様は時に厳しく、時に優しく人々を救う菩薩さまですから・・・。
 私ごとですが、いつかの「みち」誌上に「坐百姓の古古路(こころ)」を掲載していただいた事があります。私も八十歳になろうとしています。そこで、家の前の庭らしからぬ庭に大きな自然石(約二トン)が一つどすんとあります。その自然石に八十年生かされて来た証と、天地、家族、社会に感謝のまことを表現するために「坐百姓」と刻字を入れました。その意味は一口にいいますと、泥んこになって百姓をやることになります。道元禅師の「只管打坐」の坐です。坐百姓の坐という文字は土(つち)の上に人が人人二人います。土(つち)は+(プラス)と|(マイナス)から成っています。天地のことです。人二人は男と女です。共同参画で生命を産み育て、人類の食糧を生産している汗する夫婦の姿でもあります。さて、「大江鳴動すれば」の細川嘉徳氏の三峡下りの一文、私も一昨年三峡下りを体験した者として、同氏の文章は一流です。歴史あり、断崖あり、急流ありで並々ならぬ文人です。文武両道とでもいいますか、?うちふるう者はペンもふるうるも大切です。あぜみち中川賞の受賞者の宮本さん、朝倉さん共に農の夢の実現にひたむきな姿は中川賞とともに坐百姓賞です。この賞を企画、実行された裏方の秘められた力にも感動です。
 最後の「おわび」の一文、「正直者の頭に神宿る」とでも申しましょうか、正直の告白、反省は立派です。必ず発展するでしょう。
政治、経済は米作りに苛酷です。米あればこその日本です。


編集後記


◎ 今号はたくさんの方から原稿をいただきました。特に今年度の中川賞の受賞者である藤井さんが年3回発行している『カメハメハ大農場便り』は、その内容、表現が面白く、彼の人柄がそのまま出ていると思われたので、許しを得て、そのまま掲載させてもらいました。皆さんいかがでしたでしょうか。
◎ これからの農業経営者に求められる資質として、体力、知力に加えて、魅力、ネット力が必要ではないでしょうか。新しい時代を切り開く農家の能力としてそのあたりを今後詰めてみたいと思っています。
◎ 国、県、市町村、地域のレベルでとらえると、農業を取り巻く環境は厳しい、農業は低迷しているという決まり文句になるのですが、一人一人の農業経営者と話していると、何か未来が開ける感じがするのです。農業者個人があって、その集積として地域、市町村、県、国があるという流れを大切にしたいものです。
(玉井)

 


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