あぜみちの会ミニコミ紙

みち27号

(2000年秋号)


シグナル27

福井市 中川清


この程、機会があって北朝鮮農業を垣間見てきた。九月二〇〜二二日、有機農業国際会議が北朝鮮ピョンヤン(平壌)市で開かれ、世界中から多くの人が集まった。日本からも、北は北海道から沖縄まで各地から代表が参加し、福井市からもJA福井南部の青年部会の小林君らと一緒に私も参加した。
 名古屋空港から高麗航空のチャーター便でピョンヤンまで一二〇〇キロ、飛行時間約二時間の旅である。
 飛行機の窓から見えたピョンヤンの郊外は、まだ刈り取りの始まっていない黄金色の水田が一面に見えて、食糧危機とか聞いていた事前学習の印象が嘘のようだった。ただ区画を仕切る畦にはどこも「あぜまめ」が植えてあったし、少しの空き地も、そばの白い花が咲き乱れていたり、玉蜀黍の収穫した跡が見られた。集合住宅の庭にも野菜が作付けしてあった。
 それは、終戦後の日本でも「あぜまめ」を植え、学校の校庭まで「さつま芋」を植えていた風景を思い出すに充分だった。
 飛行場の滑走路の隣や、道路の横の街路樹の下の空き地にも大豆とそばの花が見られた。あとで通訳に聞いた話では「食糧問題は、この九月で大体見通しがついた」と言っていた。
 しかしピョンヤンから郊外へ通じる道路はきれいに舗装され、その両側にはコスモスの花が整然と咲き乱れ、とてもきれいだった。
 これは国際会議のために整備されたものだろうか? でも、市内を流れる川の水の透明度や、出会った子供達の明るい笑顔まで、この日のために用意されたものではあるまいと思った。
 農作業は、ほとんど人力によるもので、稲刈りは大勢の人が並んで鎌で刈っていたし、朝鮮の赤褐色の牛が耕起作業や、牛車を引いているのも見かけた。そこに働いている人は若者が多くて、老人の姿は農村も町中でも見かけなかったのが強く印象に残った。町中を歩いている人達はみんな両手を振って胸を張って颯爽としていた。


What's "IT"?
                                    庚子の虎


 最近、「IT」という言葉を見聞きするようになりました。情報技術 = information technology の頭文字で、生活の中でパソコンや携帯電話、インターネットなどを利用して効率化を図ったり新しいサービスや価値観を生み出そうというものです。特に政府から発せられる言葉の端々に登場してきます。(なかには、内閣の何某が「IT」をイットと読んだ、という報道まで。)
 現代は高度情報化社会であり、米国では学校教育にもパソコンやインターネットを積極的に取り入れている、といいます。日本も諸外国に追い付け、追い越せとの意気込みでがんばろう、というのです。
 未来学者アルビン・トフラー氏も彼の著作「第三の波」や「パワー・シフト」などのなかで、これからは(といっても二十〜十年くらい前ですが、)情報の重要性が格段に増し、情報が力(パワー)の源となる、というような論を展開しています。
 彼の言葉どおり、パソコンが家庭内にも普及し、携帯電話でもインターネットが利用でき、日本のインターネット利用者が二千万人を突破する情報化時代なのだから、政府が進める「IT」は、誰もが異論はないところではないか?と思われるでしょう。
 しかし、天の邪鬼な私は、ここで、ちょっと考えてしまうのです。たとえば政府で「IT」の主担当大臣は誰か知っていますか?私の情報が間違っていなければ、なんと堺谷太一経済企画庁長官なのです。通産大臣や文部大臣、科学技術庁長官ではないのです。
 ここに、政府の思惑を感じてしまいます。政府は単に「IT」を景気対策のひとつとしか見ていないのではないか?米国の好景気は情報スーパーハイウェイに代表されるインターネットの基盤整備政策によってもたらされたという意見を鵜呑みにして、情報関係の設備投資やイベントの開催で景気を良くさせようと考えているだけではないか?真剣に情報化社会の構築に取り組むつもりがあるのか?等と勘ぐってしまうのです。下衆の勘ぐりでしょうか?(きっとそうでしょう。)
 だからといって、この「IT」の波に乗らないと言うことではありません。施策や事業は振り回されるものではなく、上手に利用して自分の想いを実現させるものなのです。
 農業分野でも、情報化は進展しており、情報の取得や発信だけでなく商取引に活用されている事例も見られます。
 皆さんも、何かやりたいことがあり、それが「IT」とつながりそうならば、研究してみる価値があると思います。もし、これに乗ってみようと考えるときは、振り回されないよう、自分の想いをしっかりと持つことが大切です。何か出来そうだからではなく、「これ」がやりたいから、という自己責任です。
付記
 政府が「IT」といいだしたときの担当は経企庁長官でしたが、現在の担当は内閣官房長官が務めています。


収穫祭
    福井市 高屋町 田谷 美千代


 収穫祭をやる事に決まったけれど、さあ、どういうふうにやればいいのだろう…とチョッピリ困っていた時、これを聞きつけた悪友の1人が「喫茶店やろう、仲間集めて楽しくやろうよ」と助け船を出してくれた。それから、打ち合わせと云っては、何回彼女たちと集まり飲んだことか。
また、ハウス仲間、飲み仲間も夫婦、子供づれで集まった。
焼肉パーティー、マッタケよりすきやきパーテイを、こちらも肝心の打ち合わせより飲んだり食べたりがいそがしい。
「収穫祭で人が集まるのなら、もちろん子供達も来るよね、子供広場を1つ作って楽しく遊ぼう、まかせておいてね」といってくれる友達がいる。
「当日手伝いに行くから、私の家のチラシを配ってもいい?」と石川より電話。
そばをやりたいというおじも集まった。
「野菜カクテルみたいなものをつくってみようか、おもしろそうだから。」と乗ってくる店のオーナー。
「何だかわからないけれど、楽しそうだから行くね。ついでにみんなで踊っちゃおう。」と真美体操の仲間達。
「ホルン演奏させてもらいます」とダンナの友達。など、いろんな所で、ワイワイと、いろんな人達が集まって手伝ってくれるという。
しかし、肝心の打合せはいつ?
そのうち「いつ打ち上げやろうか?」などと言い出すしまつ……。
こんな状態ではあるけれど、一一月二三日当日はみんなで楽しく盛り上がる予定です。
皆さん、私達と一緒に遊びませんか。
                          H一二.一〇.一五 みちよ



ミレニアム干ばつ・奮戦顛末記
清水町・島津一郎(自営専業


一.転作展開中の水との関わり
 干ばつは何年かに一度は到来するものだとは認識しているが、平成六年からまだ間もない。異常気象というより他はないだろう。さてさて、水不足は農作物にとっては大きな影響を受けるものだが、平成六年に比べて一寸、違ったとところが見られる。もとより、干ばつの影響は山間部から始まり徐々に川下に広がっていくのが通常なはずだ。しかし本年の現状から見れば、これだけ少雨であってもあまり騒がないようだ。
 この背景には、大河川はそれほど、水量が減少していない……山岳部は降雨が結構あったせいだろうか……
 いや、もっと違った視点もある……農村地域も下水道が整備されて、生活排水が小さな河川には流れなくなった事も影響しているようだ。
 大河川の恩恵を受けられない中山間地域になるとその様相は相当に異なってくる。
 小さな谷水を利用しているところでは、とっくに干し上がって手の打ちようがない。棚田は畦畔沿いが極端に乾燥が進んで萎凋が起こり、不稔現象も起きている。この程度はまだ良い方で極晩生の日本晴では出穂不能になったところも見ている。
 まぁーこの程度で終わりたいものではあるが、これまでに持ちこたえたのは転作の影響によって、少ない用水でも有効に活用できたといえるのも皮肉なものだ。
二.古き時代の知恵を生かしながら……
(一)真夏に田圃を乾かさない工夫
 先人の教えの一つに、干ばつの年には畦畔や土手の雑草は刈り取るな……というのがある…この事を知っている人は中山間部に多いが、意外と忘れられているのも現実のようだ。
 この意味は、田圃が乾燥してクラックが起きて来るのは畦畔沿いからで、これを防がないと水管理なんかできないことから、少しでも乾燥を防ごうとする知恵である。これは果樹園の草生管理に見ることができる事からも理解できようし、古き時代には敷藁や別の所で刈り取った雑草も敷いたりしたものだ。一方では畦畔大豆栽培もこの辺の知恵に起因しているのではないだろうか。
 ところがだ、雑草を放任すれば厄介なカメムシ殿がお住まいになっている。この二つの接点を見いだし、雑草処理体系なるものが必要なことだが……一般的には稲の穂が出るまでに除草が必要な事も余り理解されてはいない。……この二つの対応接点はだれが教えていくのかなあー……技術の伝承はとぎれようとしているとしか思えない。
(二)水管理&乳白米
 福井米のGUP(グレードアップ)が提唱され、本年は総仕上げの年になる。GUP提唱の背景は形質や食味をもっと高めたいと言うことだろうぐらいは理解されているようだ。
 具体的な取組の中ではカメ虫等の被害粒追放、乳白粒の低減、胴割米の解消、粒度の向上等に集約されようが、とりわけ乳白米については古き時代より「福井米」の課題となっていることはご承知の事だろう。
 これまでの事例からは日照との関わりが大きく、不足気味の時には多発し、本年のような多日照の状態では少ない傾向は認められるところだ。
 しかし、この事は気象の影響ばかりにしているわけにはいかないのが、今日的課題となってくるものだ。もとより、乳白粒の発生は成熟途中に養分吸収が損なわれるものから生じてくるものである事からすれば、出穂以降の養分をどの様に維持すればよいのかと言うことになる。
 従来の技術体系からすれば、現在は穂肥の施用量が可なり少なくなってきている……一つの疑問
 晩期までの水管理によって乳白米が解消されるのか……これも大きな疑問
 先人は気温の日格差が大きくなる程、穀実作物(稲は代表的作物)の登熟状態がよくなることを殆ど承知しているが、この事を本県のような高温多湿の地域では古来より「夜水(よみず)をひく」(夜間に水を入れる事)と言って夜間目掛けて入水することで少しでも日格差を大きくしようとした。
 ところが、今日の世相の中で夜水(よみず)まで取り込むような努力をする人が極めて少なくなったことも事実だ。
 世相の変化への技術的な対応……これも疑問
 ここでは三つの接点を提起したつもりだが、どの様に組み立てていくのか……時代変化の中で考えてみたい。
三.今の時代に取り入れたこと……事例紹介
(一)少ない水でも使い方次第
 棚田地域では干ばつ現象が生じてくるのは、畦畔沿いから始まる(平坦部では排水路沿い)中央部はそれ程、干ばつの影響を受けることは少ない。畦畔沿いは現象として成熟後半であれば赤くなって枯熟(かれう)れ現象みられる。
 これが後には倒伏してしまう……腰折現象……これを解消していくには畦畔沿いにのみ水分を供給すれば良いことになる……しかし、この対応には水口からの入水に頼ると圃場区画が大きくなった事も相まって、とんでもない水量と時間を要する。こんな事繰り返していると喧嘩腰になってしまう……水喧嘩のはじまりは自己中心主義からのもの
少ない水を最大に生かすにはポンプによる導水で、小生は畦畔の中でも漏水が激しい箇所にたいして数十米のホースによって導水することに努めてきている。……ポンプはインチ物で十分だ…そしてこのホースを引きながら散水もしている。今年はポンプの燃料も馬鹿にならないほど使用した。……こんな努力は今の時代はダァーレもしないが……
(二)菜園畑の灌水にも一工夫
 家庭菜園畑がほぼ一か所に存在し、約六〇アールに四〇戸程度が関わりをもっている。一戸の規模はともかくとして家庭菜園のメインである馬鈴薯、大根、白菜のパターンのなかで8月のお盆過ぎても雨は降らない。硬くなった土壌は、軽量の管理機位いでは耕起もできない。何時降雨があるか分からない……大根が播けない…なんとかならんかのう……相談相仕切り……こんな連続のお盆過ぎ
▽耕起の方は逆転ロータリ付きのトラクタの威力発揮……耕起料はもらわないがお気持ちとしてビールの何本かは頂くことにした。……ビールが美味い夏でしたなぁー
▽潅水のことだ……集中している菜園畑は水田の余り水が利用できるようになっている。この水を利用していくには、それなりの潅水装置が必要だ。
 ガーデニング用の小さなスプリンクラーを二個求め、動力噴霧機の戻りパイプに接続すれば良いわけだ。時間を区切りながらよそ様の畑も活用して適期に大根も白菜も十分に生え揃った。今年はガソリンを田畑共に多く使ったものだ……夏場で約八〇リットル位使ってしまったかなぁー
 動力噴霧機を所有している事は稲作主体の農家では、ごく希なことでこのようなことは出来ないと思い込んでしまうのが一般的となろうが、一寸工夫して見ることがある。
 農業機械をお持ちの家なら、機械などの洗浄のためにインチサイズの可搬式のポンプは備えてある。
「これの活用方法を提案しよう」
第一はガーデニング用のスプリングクーラーは水量が少なく、一般の水道水程度だから、この水量に減量する装置としてバルブを取り付けること
第二はバルブの先に一般的なホース(ビニール製)が取り付けられるよう取付口を設ければ良いことになる……こんな工作は水道屋さんならやってくれる。
又、バルブの取り付けによってチューブ潅水やノズル潅水も可能になってくるから一つやって見てほしいものだ。
 如露(じょうろ)ぐらいでやっていたのでは、全体が濡れないから乾燥が早いし、浸透する深さも十分でない。この繰り返しは発芽が揃わないものだ。
 お陰さんで、玉葱もそろって発芽し、キャベツ、ハクサイ、大根も順調に生育している。生育の観察は毎朝の行動になっている。
四.農業災害評価活動から教えられるもの
 評価業務に携わるようになってから四年にもなってきた。評価の任務自体は被害の状況から物理的な捕らえ方として減収量を推定し、被害量を導き出していけば良いわけだ。
 しかし、長年、生産活動に関わってきた者としては満足できないものが一杯ある。
その一 被害の発生原因を曖昧にしていること。原因追及は原則的にしない主義……このことは近年農作業に対する感覚も大きく変わってきていることから災害にも、もう一寸努力してくれればこんな程度は防げるのになぁーと思われるものが数多くある。……共済でカバーするだけで良いものか?? この事の代表的なものに畔際や排水路沿いの干ばつ現象だ。……今は小形で軽量のポンプかあるではないか
その二 これ以降の再生産に反映されていないこと。……現象把握に止まってしまえば何の発展ももたらされないだろう…一つの現象からこれ以降の技術的な対応を示していくのが、農済面からも大切なこととは思うが…他人の鍋に足突っ込むなの主義なのか?…一共存・共栄ですよ
その三 赤信号でも皆で渡れば怖くないの主義なのか評価に携わる人々がこんなに大勢必要なのだろうか……被害の人気投票みたいな評価がまかり通っているではないか……今少し、専門的に判断を待ちたい。
その四 広がる鳥獣の害のことだ。これまでの鳥獣害は鳥類によるものが大半であって共済の対象になるほどのことはなかった。しかし、近年は獣害として猪の害が取り分け目立ってきている。もとより猪の害は嶺南地域のことぐらいしか思っていなかったが、近年は嶺北地域も広がり、聞くところによれば石川県の能登地域にも広がっているという。もとより彼等の生息地は山の中であることから、山沿いの農作物は格好の餌食になってしまう。最近多くなった原因や二次的被害の事は別途記述することにしておこう。
 これは被害量の問題よりも地域全体としての防止策をどの様に取り込んでいくかのことであって、この事を放置すれば耕作放棄につながるものであり、地域イメージダウンにもなり兼ねない。
 対応への提言をソフト、ハード共に並行して進めてほしいものだ……行政機関の傍観はだめですょ。


池田に来て
               池田町 長尾真樹


 この一ヶ月の間に二回もぜんそくが出てしまった六年生の優輔が隣で寝ている。
 結婚してアスファルトの街で暮らした年月と、大地に生かされていると感じられる池田での生活が、同じ六年になろうとしている。池田に来てからの六年はほんとうに早く、子供に追われ、畑に追われ、借金に追われ、気がつくと私も三十半ばになっている。これでいいのかと反省することが近頃よくあり、これもおばさんになった証拠かと苦笑いしている。
 必至でアトピーと戦っていた二十代。添加物は絶対子供の体には入れないゾ、と決めていた。その勢いで池田に来たけれど、優輔のアトピーは治って症状は出ていないし、弟の拓磨(五才)はいろいろ気をつけて産んだから何ともない。そして調味料のいいのは手に入りにくく、畑にも追いまくられる。となってきて、一汁二葉、一物全体、と心がけていた食事がくずれてきてしまった。「こんなに楽に、みんなは料理してるんだ。」とばかりに、私はその楽しさにおぼれていった。おまけに根っからの甘い物好きな私。子供達にも自然と甘い物が増えていき、チョコレートやあめも許すようになった。体にあわないとわかっていながら続けていった結果、やっぱりぜんそく、という形で出てきてしまった。友達と遊んでいく中で、自分だけ食べない、というわけにもいかないので、せめて家での食事にはもう少し私が気を配らなければ…と思っている。
 大阪にいた頃、「気ぜわしい毎日をぬけだそう。ここにせわしい生活をおいていこう。」と思っていた。ここでの生活は実際めちゃくちゃ忙しいのだけど、基本的には気持ちはゆっくり暮らそうと思っている。福井の人はたいてい共働きだと聞いて驚いた。子供も小さい間から預けて働くらしい。そして家事もこなす。「自分で子供を育てたくないんだろうか。寝る時間をけずって家事をしているんだろうか。」と大阪人の私は思ったりした。子供をヘビーカーで連れている人もいなければ、子連れで歩いている人もいない。公園もないし、子供はみんな保育所に行っている。拓磨と散歩していると白い目で見られたりした。私にとっては何とも不思議な事に思えてならない。だけど、池田の人にとってはそれが当たり前なので、かえって私の方が目立っているのだろう。
 拓磨は今年幼稚園。保育所では五時までだったけど、今度はお昼過ぎには帰ってくる。半日は仕事にならないと今年は覚悟した。おまけに最初の一週問は歩いて迎えに行かなければいけない。「面倒くさいよ。」と間いていた。私も少しそう思った。だけど、子供と歩くことができる時間をもててとても楽しみウキウキしていたのは私だった。「面倒くさい。たいへんや。」と、口では言っておきながら、手をつなぎ、歩いて見る景色はいつもと違い、寄り道も楽しかった。橋の上から「きょうの水はにごってるね。」と、虫がとんでくると追いかけ、石があるとけりながら何げない会話と、拓磨と二人で手をつないで歩くのが何よりの栄養になった。半日つぶれると心配していたのも、畑に連れていってもじゃまにならなくなったり、友達と遊んでいる、と言ったりで、私の取り越し苦労に終わりそうな気配だ。
 そんな私の歩いたり、ゆっくり生活するのを楽しむ姿は、ここでは冷ややかな目で見られているのだろう。だけど、持って生まれたスピードと育った環境は、どうしても変えられないものがある二要するに、私は{口で言うと、どんくさい。肥満児で、運動が何一つできずに育った私は、体力があるわけでもない。そんな事、何も考えずに農業に飛びこんだのは、かなりあさはかだったのかもしれない。
 箸より重たい物を持った事がないと言われていたのに、三十キロの米を持てるようになった。自分なりに精一杯しているつもりだ。夫の何十分の一かもしれないけど、それなりに成長し、努力している。でも、夫のがんばりには頭が下がる。通勤時間に太陽に当たる事も少なく、色白でガリガリだったのが、見違える程まっ黒で筋肉でいっぱいのたくましい体になった。どこから見ても田舎のおっさんになった。本人はそれを喜んでいる。言葉もすっかり池田弁になり、大阪の友達と電話で話すと、「何言うてるか、わからへんようになった。」と、私に友達が言ったりする。さみしいような気もするけど、こうならなければ…とも思う。私は、毎日畑との往復で地元の人と話す機会が少ないので、まだまだ大阪弁だけど、優輔の少年野球のおかげで少し友達ができ、少し語尾がのびるようになってきた。
 何もわからず池田に来て、農業をかじり、小さいながらにも独立して、なんとか自給野菜を食べている。家もない、土地もない、お金もないと三拍子そろっているけど、家族そろってごはんが食べられて、緑に囲まれて生活するのは人間らしいと思っている。
 夫がよく言う。「もうアスファルトに函まれた生活はできないな。」


九十歳婆さんから学ぶ
              福井市 名津井萬


 遠く三十キロほど離れた畑作地帯に、私を我が息子の様に思っていてくれる九十才の婆さんがいる。
婆さんとの出会いは、三十五年ほど前に「さつまいも」を売りに来てくれた時からである。それ以後、牛の餌にしろと言って、大根や人参、西瓜、いものクズを取りに来いと電話が鳴る。先日も区内に百袋ほど「クズいも」があるから取りに来いと電話があったので、トラックで駆けつけた。我が息子が来たかの様に喜んでくれる。その日は家の中で一時間ほども話しがはずんだ。婆さんは「あんさんだから、色々な事を話したいんだ」と言ってくれる。
婆さんからは学ぶ事が多いものだ。二十五年前に亡くなった爺さんとは、親同志がきめた結婚だったと言う。若い頃の爺さんは柔道の虫で、「五段」を取るまで結婚は待ってくれと言われたと言う。爺さんは学歴は無いが、講道館で柔道修行をして、東京の警視庁の師範をしていたそうだ。その頃結婚した婆さんは東京で裁縫仕事に精を出し、作家の山岡荘八の奥さんの母親に習ったと言う。それが縁で、後に婆さんは娘(長女)を山岡荘八家の女中に奉公させたそうだ。それ以後、山岡荘八は女中さんは福井から求むと言われたそうだ。婆さんの家の座敷に山岡荘八の色紙が飾ってあった。
戦時中、爺さんは新潟県高田の中学校の柔道師範として勤務したそうだ。食糧事情が悪かったため、柔道部の生徒は腹がへって力が出ないので、婆さんは近くの農家へ稲刈りや畑作業に走り廻り、男手のない農家は本当に喜んでくれたそうだ。農家でもらった米や野菜で食事を作り、生徒を家に呼び寄せ腹一杯食べさせ、柔道の練習に励ませたそうだ。
戦後、爺さんと婆さんは、教え子連の成長ぶりを見に行った所、多くの教え子連は戦死していたそうだ。爺さんは、「子供達の親を泣かせに行った様になってしまった。」と言って、男泣きに泣いていたと言う。
爺さんは非常に器用な人で、樺の流木をノミ一丁で彫り上げた荒々しいノミ跡を残した達磨大師の木像が三体、玄関と床の間に置いてある。私は思わず木像のノミ跡に手を当ててみた。私も人生の終着駅にたどり着くまでには、一体ノミで彫ってみるつもりだ。
婆さんには娘さんの他に三人の男子がいる。長男はT高等商船を卒業し、三年ほど前に貨物船の船長で停年退職したが、その後も会社の要望で南洋航路の貨物船長として働いている。その船の船長と機関長以外は全部外国人だそうだ。婆さんは、雨が降り風が吹き雪が降ると、兄貴の船が何ともないかなあと何時も心配していると言う。
次男は一橋大学を卒業し、横浜の銀行マンである。夏に西瓜クズを取りに行った時、在学中の次男は地区の児童、生徒を学校に集めて無報酬で勉強を教えていた。
三男は進学校のF高校でトップクラスにいたが、大学進学を断念し就職の道を選んだ。何人もの恩師が進学を奨めたが就職の道を選んだ。当時爺さんが体調をくずし働けず、婆さん一人で働き、経済的に非常に苦しい時だったそうで、それを知って就職の道を選んだと婆さんは涙ぐむ。私の家にも婆さんと一緒に「さつまいも」を持って来てくれた。
戦後は畑作業で働きつづけて子供達の教育に全力を注いだと言う。それは爺さんの強い願いだったそうだ。爺さんは柔道こそ強く師範であったが、学歴が無いために昇給がおぼつかず、残念な思いをしたため、生活の苦しさは口に出さず、子供の教育を主としたという。
婆さんは今も働く事が大好きだと言う。今年の冬、カゼがもとで入院したら足が弱くなってしまったので、退院後畑作業を始めたら少しずつ良くなって来たと喜んでいる。
婆さんは野菜を作り、子供や孫にやるのが楽しくて楽しくて仕様がないと嬉しそうに話している。
私も婆さんを見習い、生涯働き続けたいと思う。婆さんの年までだと二十数年ある。
やりたい事はあれもこれもいっぱいある。


高齢社会としての農村を誰が、どう支えるか
                       福井市 屋敷紘美


一、制度発足の背景
 この四月一日から「介護保険法」が施行され、二一世紀の超高齢社会を支える基本的構造は出来たといえる。この制度運営に必要な経費四兆三千億円の内、国が二五%、都道府県、市町村がそれぞれ一二・五%、四○歳以上の国民負担が五○%である。高齢の国民はそれ以外に利用者負担を五千億円負担することになる。第一号被保険者である六五歳以上の高齢者は乏しい年金生活上、大きな出費を強いられることになる。年金制度が次第に先細りしていく将来、果たして高齢者はこの負担に耐え切れるのか、はなはだ疑問視される中での、不安な制度の出発である。
国や県・市は六百兆円という膨大な借金を抱えて、財政の硬直化、収支のアンバランスは目を覆うばかりである。もはや政府、自治体に福祉を丸抱えする力は残っていない。むしろますます国民負担を増大させる方向にシフトされるだろう。財政再建の切り礼として、おそらく、将来消費税の大幅なアップは避けられないだろう。何故なら、少子化や経済のグローバル化、企業間競争の激化は確実に政府、地方自治体の所得税・法人税といった税収を減少させている。税の財源を国民に広く薄く負担させる消費税に頼らざるを得ない所以である。年金、医療、福祉を消費税でという考えが一部で主張されているが、その場合消費税率は二六%になると試算されている。この負担は当然高齢者にも平等にかかってくるわけだから、彼らの年金はますます目減りすことになる。
二、高齢者のおかれた状況
 母のため、
 いいえ、私のために
 早くお迎えがきて欲しいと
 祈った一瞬があった
 母が死んだ日
 祈りが神に届いて
 しまったことを
 梅やんだ
 ………
 実母を八年近く介護した詩人、国兼由美子の「あの一瞬」という詩の一節である(二○○○年三月二○日付け朝日新聞)。
 詩人の悔恨は肉親を介護した経験のある人たちに共通するものであろう。親孝行とか肉親の情愛といった域を超えて、時には殺意さえ起こるような人間関係をつくってしまうのが介護の現実である。
 少し資料は古いが、一九九二年の「高齢者処遇研究会」の高齢者虐待に関する報告書によると、同居の嫁によるそれは、介護放棄、怠慢が半数、息子・娘・配偶者の場合は直接的な暴力が多いという。政治家がいう「日本の家庭の美風」と称揚するにはあまりにも過酷な現実である。


編集後記


 豊作という言葉は、僕の子供のころは、快い響きをもっていた。その言葉を口にする父も母も心なしか機嫌がよかったし、その顔を見、感ずるだけで、わけもわからず、幸福な世界に浸ることができた。秋の終わりに必ず作られたぼたもちは、もう何よりのごちそうだった。その頃、毎日のように、それを食べなければ自いご飯を食べさせてもらえなかった「おつけだんご」という得体の知れない食べ物は、僕にとっては「ぼたもち」と一対のものとして記憶の底に残っている。
 今、豊作という言葉は、必ずしも快い言葉とは恨らないような気がする。それは米あまりを招くことになるし、米の価格低下に結果するからである。また豊作は農家生活の中でそれほどの重みを持つことも無くなってしまった。
 あの頃、毎日の「おつけだんご」と、季節の区切り毎の「ぼたもち」は僕にとって天と地の落差があって、地が嫌な分、天の楽しみは大きかった。
 今、私たちの生活にあの頃の落差はない。とても平板な日常で、けじめのない毎日である。
 さて、その平板さは私たちにとって幸せにつながることなのだろうか。そしてその平板さは、天なのだろうか、地なのだろうか。収穫時期のこの頃、豊作が「負の話題」になるのをみて、遠い過去を思い出している。
二○○○・一○・一七
                  屋敷紘美


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