あぜみちの会ミニコミ紙

みち24号

(2000年冬号)

長尾伸二氏とご家族


シグナル


福井市 中川清


 「明けましてお目出度う」「おめでとうございます」
 暖かく穏やかにあけたミレニアム(千年紀)の元日、わが村の鎮守の神様の境内は、大勢の善男善女で賑やがである。神前でお神酒を呼ばれて、お互いに自然と挨拶がかわされる。
長いこと病床にあった友人とも久しぶりで会って、正月の挨拶をしたら「うん、辛うじて息をしているよ」というので「イキをしている?結構じゃないの!行き(イキ)とは、目的に向かって歩んでいることで、歩いていても目的を後にしているのは、帰りであるし、目的もなく歩いているのは行きとは言わない。人は生きている限り息(イキ=行き)をしているのだから、目的をしっかり見据えていなくてはいけないんだよ!。正月だよ。生きイキとしょうよ!」と励ました。
年の始め、とにかく前向きに行きましょうや!米作りをして五十年、私は経営を次の世代に譲って年金を戴く昨今で、ガンの手術をして三年を経過した今、あらためて達者で長生きしたいと思っています。
高齢化社会の中で高齢者が元気で長生きすることが、社会に経済的負担をかけない最良の道であります。
そのためにも人生、目的を持って「明日への夢」を描き続けたいものです。八十八と書いて米と言う字になりますが、それに加えること二、すなわち九十ですが、米編(へん)に九十と書いて粋「イキ」と読みますが、米づくりを隠居した私のこれからは少しおしゃれなどもして、村の中で出来れば「人生イキ=粋にも過ごしたい」ものだと思っています。
 今年もよろしく!


わが農場に集まり、散じて


農場主 上良 茂


.......
 当会恒例の収穫祭は、前々日祭と共に良い日に恵まれ予期以上の成果が得られ、有り難く思っています。
 特に今回は「あぜみちの会」と「土といのちの会」との合同収穫祭ということで、テーマも「消費者と共に、生産者と共に」で出発しました。
 出店も多く、品物も皆さんそれぞれの自信作の販売だけに、アッという間に品切れの一幕もあり、こんな風景に接すると、矢張り「地域でとれたものは地域で消費するのが基本」ということを強く感じます。しかし現実は多くの輸入品を含めての大量生産と広域流通です。年々、自給率低下の中にあっては「地産地消」とか「身土不二」とかいうことで地域に昔から根づいている伝統野菜等の地場流通に、尚一層、声を高めていかねばなりません。その為には、昨年、制定された新農業基本法で、はっきりと打ち出された消費者重視の視点からも、今まで以上に共生の道を探っていくことが大事なことだと思います。
 また、今回特筆すべきは、若手農業者に呼び掛けてのシンポジウムと「あぜみち中川賞」の立ち上げです。前者は「世代をつなごう」のテーマで、地域、消費者、環境をキーワードに「“やめないで”といわれる、これからの農業経営」の姿をみんなで考えようというもの。延々三時間に及ぶ長丁場と軽妙に取り仕切った司会者のもとで、確固たる経営指向を抱いて、農業に寄せる熱い思いを説く各パネラーと会場の皆さん入り交えて行われた討論は、実に得難いものに感じられました。後者は、昨年四月にあぜみちの会で創設された「あぜみち中川賞」の表彰式です。式の後、受賞者の記念スピーチもあり、有益で老境に入りつつある私自身の励みにもなりました。今まで、何々賞というと、ほとんど実績評価が優先されますが、中川賞は若い人で、実績はなくても、常に希望や夢をもち、孜々として農業に励んでいる人であれば誰でも応募できるということで、近来にないユニークな賞です。どうかこの度の出会いとふれ合いが契機となって若い農業者の皆さんが、更に飛躍されんことを願っています。
 最後に、一連のイベントの立ち上げから、終始、たいへんご苦労になりご支援いただいた両会のスタッフの方々、また、期待してわが農場に集まり、散じていかれた皆様に心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。


「あぜみちの会」&「土といのちの会」合同収穫祭を終えて


土といのちの会事務局 大久保恵子


 「土といのちの会」は、「武生市の航空防除を考える会」を母体として九十二年に発足し、"地域の農・食・環境を生産者と消費者が{緒に考え行動する会"としてこの間、有機循環型社会を目指して活動しています。私は、会の前身の「武生の航空防除を…」に参加するまでは全くの消費者で、作物を作ったこともなく、親戚に農家もなく、減反・米価といっても他人ごと、周りに田んぼは広がっていても私の意識の中に田んぼというものはなく、農業とは全く無縁の世界に住んでいました。それが、その活動を通じて、それまで緑のなかった農家の人や農協、農政担当者と出会って話を間く中で初めて農業の大切さを知りました。そして遅れ馳せながら“農業の問題は生産者だけが考えれば良いというものではなく、消費者も一緒に考えなくては解決が付かない問題がいっぱいあるんだ”という事に気づき、生産者と消費者が“交流を通して一緒に考え行動しよう”という現在の「土といのちの会」が誕生しました。
 ということで、今回の私達の八回目の収穫祭を、『消贅者と共に、生産者と共に』というテーマで「あぜみちの会」と合同開催できた事は本当に嬉しい事でした。上良さんの農場での開催ということで、子牛やにわとりなどの体験コーナーなど私達の収穫祭にはない企画もでき本当に画期的な収穫察を開催する事ができました。
 今日、私違の体を作るはずの食べ物で、健康を害するといった矛盾が起きています。これからも農の大切さ、食の大切さ、そして環境の大切さを生産者と消費者が一緒に考え発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。


「あぜみち中川賞」審査講評


菊沢正裕


 収入が安定したり、仕事に慣れてくると人間は退屈するものです。夢は、その退屈な人生を深みや広がりのある楽しいものにしてくれます。とくに若い時の夢は人生でなにより大切なライフワークにつながり、また生涯の友を授けてくれます。適正な夢は夢ではなく、実現できるものです。しかし若いときに夢を実現するには、より多くの人の支援が必要です。
 このたび、中川清氏より、若者が夢をもち、その夢を実現させる励みに使っていただきたいとご自分の農業者年金を拠出したい旨の申し出があり、「あぜみち中川賞」が創設されました。若者の夢が、農村の夢となりすばらしい地域づくり、ひいては二一世紀の福井を築くだろうとの夢を抱くのは、中川氏だけではないでしょう。
 充分周知されていなかったのか、あぜみち中川賞の第1回の応募は2件にとどまりました。しかし、応募原稿を読んだ審査員7名全員が、この2件を対象に面談と現場審査を行なうことで合意し、十月十一日、体育の日の振替休日に応募者である稲澤宗一郎氏宅(坂井町)、続いて長尾伸二氏宅(池田町)にお邪魔しました。そこでは、書類では窺い知れない応募者の気迫や「夢の次ぎの夢」といった抱負までお伺いできました。その後、審査委員会で厳正な選考を行った結果、満場一致で第1回「あぜみち中川賞」の受賞者として長尾伸二氏を選考しました。長尾氏の応募原稿(後掲)をお読みいただく前に、ここで簡単に原稿の裏話をご紹介し、審査講評に代えたいと思います。
 長尾氏が、大阪からの転地・新規就農を決心されたきっかけは、子供のアトピーだったようです。氏によるとアトピーは化学添加物を含む食材だけが原因ではなく、そのほかに仕事や育児による両親のストレスが子供のアトピーに悪影響を及ぼしたとのことです。ご両親の努力の甲斐あってご子息のアトピーは治癒されました。しかしその間の体験が、氏の生き方や、人生の場を変える契機となったようです。新天地では、大阪で培った生きる姿勢と豊かな人脈によって、県外者ならではの農業を展開されています。「大阪の顧客は百人までにする。十数種類の有機野菜をセットにして提供しているが、自分の生産能力を超えた顧客拡大をしない方針」だそうです。応募原稿にある「集まれ、元気なアトピー村」、民宿経営を含む壮大なこの夢は、五十歳くらいから始めたい。今無理をすると大阪の二の舞になる。そんな気持ちからか、民宿は「いまある夢のつぎの夢」と笑いながらおっしゃる氏の明るい笑顔には、この新しい地域にしっかり根ざし、ゆっくりと着実に夢を実現していく力強さがみなぎっていました。有機農業もまだ緒についたところのようですが、氏の夢はきっと消費者としての大阪の人達の息吹を福井にもたらしながら、福井における新たな農業・農村の展開に大きく寄与するものと期待されます。大阪時代はけんかばかりしていたとおっしゃるお二人ですが、そんなことが想像もできない、すがすがしいご夫妻に審査員一同、満足した次第です。
 ところで、今回「特別賞」を設け、稲澤宗一郎氏に授与することにしました。転職でもなければ転地でもない。ましてや兼業農家で育った稲澤氏が農業を始めるのは大したことではない。多くの方はそうお思いになるのではないでしょうか。大学生だった稲澤氏が、いろいろ思い悩むなかで大学を中退し、農業大学校へ進み、静岡、和歌山、福島の研修の中で自然循環型農業の夢にたどりつきました。豊かに育った現代の若者の多くは、悩んでも結局はサラリーマンになっていく。大学を出ても3年同じ職場を続けられない若者が多い、そんな世の風潮のなかで、自分で考え、そして自分のやり方を模索し、そして夢をもち、それを実行し始めた稲澤氏。まだ現実の困難に戸惑っているようでした。稲澤氏にいま一番必要なのは、先輩や同じ夢をもつ若者との連携だと思います。多くの人のなかに入っていき、着実に前進して欲しい、稲澤氏の成功は、第2、第3の稲澤氏を生み出すことになる、ぜひそうなるよう頑張って欲しい。審査員のその願いが、奨励賞を意味する「特別賞」を授与しようとの声になりました。現地審査の日、審査を終えた稲澤氏から長尾氏宅へ審査員と同行したい旨の申し出がありました。常識的には、競争者である長尾氏宅に稲澤氏をお連れすることはできないことです。しかし、無口な稲澤氏から出たその申し出は審査員を一瞬驚かせましたが、いやよくぞ言ってくれたという気持ちに変わるのに時間はかからず、同行が許可されました。若者が夢を実現する励みを作ることのほかに、農業を始めた若者同士がコミュニケーションを図る契機をつくるということが、中川賞創設の意図でもあったからです。
 第1回「あぜみち中川賞」と「特別賞」を授与されたお二人の今後のご活躍を期待するとともに、夢をもつ多くの若者が第2回「あぜみち中川賞」に応募されることを願ってやみません。審査委員長の大役を果たせたかどうか分かりませんが、審査を通じてこのすがすがしい若者達に出会えたことを喜んでいます。最後に、ご多忙の中、時間をおつくりいただき精力的に審査をいただいた審査員各位(お名前を公表できないのが残念です)、木目細かい段取りと事務処理を行っていただきました事務局の前川英範氏、そして常に有益な助言と事務処理をいただいた安実正嗣氏に、この場をお借りして感謝申し上げる次第です。


「あぜみち中川賞」応募論文


「夢の途中」


長尾伸二 (池田町藪田 三四歳)


 夢、その時その場で変わるもの。でもその時々で夢が無いのはちょっと寂しい。
 多くの夢・小さな夢、人はそれぞれ夢を持つ、自分が主人公。これからも楽しい夢を見続けたい。平成十一年夏。僕は、妻と共に#_という夢の舞台に立っている。
 昭和六三年春、結婚。平成元年長男「優輔」誕生。くるくると時代が動き始める‥‥
 それまで珈琲専門店の雇われ店長として九年間接客業に明け暮れ、自ら経営者になりたく商売の勉強も含め人間関係、経営戦略を学び店舗開店を目指していました。コーヒーひとつに於いても本物志向の人が多く、当時一杯のコーヒーが四〇〇円〜六五〇円と非常に高い価格にも関わらず、地域では一番の店として繁盛しておりました。しかし本物の味に興味の無いお客様が、時間つぶしにお見えになるとその価格に驚きを隠せず、困惑されていたのを思い出します。長年の経験と商売がらか、いつもニコニコするのが身に付いてしまい、現在でも田んぼでニコニコ、畑でニコニコ、野菜達と話している僕です。
 僕が商売で二つの大切なことを学び、今も、これからも非常に役に立つであろう事、そして子供達にも教えていきたい事があります。
 ひとつめは、日々の挨拶‥‥
 とても簡単なようですが、現在ではなかなかお年寄りでも出来ない方も多くおられます。何度も店に足を運ばれたお客様なのに「コーヒーひとつ」と、注文の言葉以外愛想笑いも浮かべない方がたくさんおられました。コーヒーの味を吟味し、新聞を読み、お金を払い「ごちそうさま」も言わず帰られます。商売上それでも良いのですがやはりどこか寂しく感じた僕は、いつかこういうお客様に「ごちそうさま」と言わせてやろうと思い、来る日も来る日も「いらっしゃいませ」でなく「おはようございます・こんにちわ」と声をかけるようにしました。そうすると大概の方が十回目位には照れ笑いを浮かべ、「おはよう」と言って下さいます。そのうちに年輩の方であれば昔の話や、家族や孫の話をされます。同世代や少し上の方は仕事・ゴルフ・野球・競馬・趣味、色々と話に華が咲きます。皆さん照れ屋で、話し下手な方は、特に挨拶を嫌う方が多いように思います。少しのきっかけを作ることで非常に多くの方と知り合いになれ、そうすることで気持ちが通じ合い、いらない気使いが不要になります。例えば、店がたて込んだとき等、こちらの気持ちを汲み取り相席やカウンターでの席の移動もお客様同士でやっていただけるようになります。九年間本当に楽しい気持ちでコーヒーをいれる事が出来たのも全てお客様のお陰であったと思います。今でもそんな多くの仲間が、遠く福井まで遊びに来てくれています。僕にはとても、大切な財産です。
 ふたつめは、人の話を良く聞く‥‥
 当然店には、年齢、職業、性別を問わず、いろいろなお客様がこられます。しかし残念な事に僕の店には若い女性(ギャル)は来ません。むしろ七〇代のおじ〜さん・おば〜さんに人気がありました(下町の商店街の店)。この方達の中には、むかし教職をされていたり、大きな会社の役員であった方等がおられ、学生時代より遙かに多くのことを学ばせていただきました。勉強の出来が悪く本を読むのが嫌いな僕は自然と耳で学ぶことが好きになったようです。常に会話をすることで、生きていく上で必要な知恵やヒントが、その話の中に有ることを知りました。時には息子のように怒り諭して下さる方もおられ、今でも時折ファックスや手紙を頂きます。自分の中に沢山の教科書を持たせてくれた皆さんに、非常に感謝しております。僕の店を持つ夢は終わりましたが、この教科書を次の世代に伝えていく事が新しい夢に変わりました。又その教科書が僕を新しい舞台へと送り出してくれる大切な贈り物になっていると思っています。
 そして、そろそろ百姓への夢の始まりです。
 「アトピー性皮膚炎」現在では聞き慣れ耳にする事が多くなりました。十年前、今ほどアトピーの子がそんなに多くないころ、優輔は生まれ、三ケ月ぐらいから、全身じゅくじゅくの湿疹にになりました。夜も寝られない程ひどく、妻も色々病院通いをし現代医学(西洋医学)の限界を痛感し、薬漬けの治療ではなく、体の治癒力を高める東洋医学系(漢方や食事療法)の治療方法に換えることを勉強しました。全ての食事に命のめぐみのある物、無農薬や有機栽培の野菜、無添加の調味料で、自然の摂理にかなった、陰陽の調和を基本とした食生活をすることで、半年程で全身の湿疹が消え他の子供達と変わらなくなりました。
 現代の食生活・経済優先社会の人間らしくない生活に対して少しずつ疑問を持つようになり、都会での生活がとてもいやになってきました。安全なもの、本当に美味しいものを食べたいという、欲望がどんどん膨らみ、最終的に自分達の手で子供の食べる物を作りたいと思うようになりました。
 そんな夢を描いている時に、池田町の事業によるふるさと十字軍と言う、%〇年間農林業に従事した者に新築の家を与えますそんな新聞記事が目に止まりました。即、次の週、池田町の伊藤弘文さんを訪ねることになり、それから三年間大阪から福井へ日帰り農業体験を月一回程度訪れ、とうとう伊藤さんに新規就農の受け入れ先になって頂き、僕達家族の百姓生活が始まりました。伊藤さんは、早くから有機栽培を取り入れ食の安全性や環境問題などにも力を入れ、農業を営まれておられ四年間に渡り、私の就農の手助けをして下さって今春より、田んぼなどを分けていただき、未熟ながらも独立の運びとなりました。
 借金・借金又借金!!!やはり農業を少しばかり甘く見ていた処もあったせいか、農機具の購入金額には、大変驚かされます。毎月来る請求書には、思わず寝たふりをしてしまいそうになったりします。この件にかぎっては、現実ではなく夢であってほしいものです‥‥。
 現在の耕作面積は、水稲四f(内転作田一f)の面積のうち減農薬有機米を二f、越のルビー二e、無農薬野菜三〇eです。本当に手探り状態で、仕事に追い回されなかなか計画どおりにいきませんが、いつも野菜の契約栽培のお客さんに励まされてばかりいます。毎週宅配便で送る野菜は、まだまだ虫食いやかっこの悪い野菜ばかりですが、いつも心温まるファックスやお手紙を頂き感謝の気持ちを畑や田んぼに注入しています。セット野菜の中に青虫やだんご虫が入っていることもあり、気に病んでいたところ、子供さんがおられる家庭の人からうれしい手紙がありました。「先日届いた野菜の中に、青虫と丸虫が入っていました。」僕はてっきりおしかりの手紙かと思いながら続きを読むと、「子供が大喜びで飼育箱を買って、小さな青虫を育てています。それからというもの野菜が着くと一番に子供が目を輝かせて箱を開けています。」そんな微笑ましい手紙でした。今、都会のマンション暮らしでは、小さな昆虫もいなくなってしまっている現実が悲しくなり、次の週沢山のクワガタ虫を送ってあげました。こんなつながりを大切に、農業を都会の低年齢層に少しづつ発信していける様、楽しく、明るく、元気良く長尾農園は、毎日二人三脚で頑張っているところです。
 まだまだ自然に恵まれた、ここ池田町。蛍の乱舞する六月、クワガタやカブトが電灯の下を飛び交う八月、子供にも大人にも感動を与える自然が一杯のこの土地が、私は心から好きになりました。田んぼで汚れた顔を、用水で洗える素晴らしい水、雪深い山々が与えてくれるこのめぐみを、いつまで守られるのか?これからの農林業の課題です。後継者不足もピークに来ていますが、次の世代を担う、本当の豊かさを求める若者を作り、僕たちIターン農家が、都市へ向け発信するのも重大な仕事の一つだと思っています。

*この土地に 足を運びて  七・八年
 今ではすっかり 田舎者

*社会人 あくせく働く   社会人
 土をいじれば 気も和む

*かーさんや
 疲れてやつれて
 スマートに
 もうすぐぽっちゃり 
 させてやる

 夢‥‥多すぎてとても四〇〇〇字では語れない、そんな気がします。
 一番の夢、この夢をかなえるのはずーっとずーっと先のような気がします。この夢の舞台にいつも主演女優として出演していてくれている、妻$^樹 三四才に農業のアカデミー賞をあげたい、そして二人の子供達に助演男優賞のオスカーを手渡してやりたい。本当に家族というのが、いつもどれだけのパワーを僕にくれている事やらわかりません。きっとこの三人がいなければ私も現在リストラに脅えるサラリーマンであったと思います。  「優輔 アトピーで苦しんだあの三年間、お父さんは仕事ばかりで気にしてやれずお母さんと二人で良く頑張ったね。今こうしてお父さんが色々考えたり、喜んだり頑張れるのは、優輔のアトピーのおかげだと思っている。お父さんはお母さんと農業で暫く頑張ります。お父さんのもう一つの夢は、優輔が「本当の豊かさとは何か?」と、教えてくれたように、今度は人に伝える役をしたいと思っています。
 【集まれ元気なアトピー村】
こんな情報広場を作りたい。
又、お父さんに力を貸してくれ!」

 現在三四才  就農五年目
 果てしなく長い人生精一杯楽しみます。
       一九九九年


○受賞者の言葉○


長尾伸二


 今回「あぜみち中川賞」の応募で、自分自身の農業に対する*イや、家族に対する*イについて書き綴る内に、漠然とした夢が少し現実に近くなったように思います。普段何となく考えることが、自分の気持ちの整理にもつながり、自分自身への励みとなり、いつしか夢の中にいる自分を考えていました。
 収穫祭において、表彰していただいたときに、私達若手農業者に対するご支援、ご期待を痛切に感じました。あぜみちの会の皆様の気持ちに答えるよう、一歩一歩ゆっくり、広い視野を持ち、夢の実現へ向け、家族とともに、農業や自然を愛して行こうと思います。  今回は本当に、良い機会をいただきました事、中川清様はじめ「あぜみちの会」の関係者の皆様に感謝いたします。
 これからも色々ご指導お願いいたします。


「あぜみち中川賞」・特別賞


豊かな農家生活を求めて


稲澤宗一郎 (坂井町若宮 二八歳)


 そもそも私が農業をやろうと決心したのは今から六年前のこと。それまでは大学を中退し、特別やりたいと思うこともなくアルバイトに精を出す毎日であった。今から考えるとこのまま何も自分のしたいことを見つけることができないまま卒業し、就職してしまうことに不安を感じ、自分の本当にやりたいことを探求していたのだと思う。農業という自分のライフワークを探し出せたという点では、その時期は自分にとって必要だったのだと思える。その動機も今となっては、はっきりとは覚えていない。実家が農家であるからという、安易な発想である可能性はかなりある。特別な情熱があったということはないと断言できる。しかも、私にとっての唯一の農業経験は、兼業農家としてわずかな土地で米を作る実家のみ。そういうわけで、農業に対しての知識や問題意識は何もない状態であった。  そういった状態であった私が、六年後にたどり着いた結論とは、自然の法に限りなくのった自然循環型自給自足的農業である。自然の他はなるべく依存しないで、食べるものはなるべく自分で作る。農薬や化学肥料は当然使わない。生活面においても、無駄なものは極力省き、必要とあらば自分で作る。こうした中にこそ、農家生活の本来の豊かさがあると私は考える。あらゆるものが大量に生産され、大量に浪費されている現代では、お金と引き換えに簡単に欲しいものを手に入れることができる。かって今日のアメリカ社会を予言したドロシー・レ・メイヤースは次のように警告した。「浪費を人為的に刺激しなければならないような社会は、屑や無駄の上につくられた社会である。そうした社会を砂上の楼閣という。」この言葉は今日の日本にもそのまま当てはまる。日本の社会はまさに砂上の楼閣。こうした社会を可能なかぎり否定し、安易にお金で解決しようとしない、必要なものは、できるだけ創意・工夫そして知恵を総動員して作る。このようなあり方こそ、人間としての本来の姿であり、その中には、様々な感動が満ちていると思う。そして、こうした生活を一番可能とできるのは、農業だと思う。
 こうした考えに至るまでには、六年間に経験した様々なことが基になっている。その中で、特に重要なものを三つ挙げたい。最初は私が農業を何も知らない状態で研修に入った愛知県渥美町でのこと。その農家は、トマトを専業とする農家で、経営規模は約一〇〇e、農薬・化学肥料は使用する。初めてこの農家を訪問した時の驚きは、今でも克明に覚えている。広々としたガラス温室の中に、整然と植えられているトマトを見た時は、冗談ではなく″H場だと感じた。こういう農業もあるんだと思った。ここでの一年間の研修は、農業について様々なことを考えさせてくれた。農薬や化学肥料のことは当然として、特に感じたのは食生活について。私の実家は兼業農家とはいえ、食生活はかなり豊かであった。米は当然のこと、野菜も季節の旬の野菜は食べあきる程あった。多少の農薬や化学肥料は使われていたと思うけれども。それでも旬の野菜の味は格別であり、それを十分に食べられるということは、本当の贅沢ではないかと思う。ところが、その農家では、効率化追求のあまり、トマト以外の農作物は全く作らず米も野菜も購入する。農家が米を買うということには本当に驚かされた。その農家も田んぼがないわけではないので、自給用だけでも作れるはずである。それを放棄するということは、農家であることの豊かさの一つの要因を自分から排除したことと同じであると思う。農家のあり方ということを考えさせてくれたという点で、この研修はとても意義があったと考える。
 二つ目の体験は、私が農業者大学校二年生の時の半年間の農家研修。場所は埼玉県北企郡小川町。きっかけは、ゼミで一度見学させてもらったときの印象の強烈さによる。渥美の研修を終えて、自分の求める農業を模索していた時のこの人との出会いは、今日の自分の農業に対する姿勢をほぼ決定づけた。経営規模は水田一五〇e、畑一〇〇e(季節の野菜年間約五〇種)、平飼養鶏(二〇〇羽)、搾乳牛一頭というもの。特徴は、全て無農薬・無化学肥料の有機栽培。家畜と飼料は吟味されている。その基本となる考えは、有畜複合の有機農業を実践することで、自給と自立を目指し、その延長線上に消費者の自給をはかろうとするものである。消費者も、有機農業に深い理解のある人である。つまり農薬・化学肥料を使わないことによる生産リスクを理解し、多少なりともリスクを背負ってくれる。このような有機農業に対しての基本的な考え方の他、技術はもちろん様々なことを学ぶことができた。自分を有機農業に目覚めさせてくれた貴重な研修だった。
 最後は和歌山県那智勝浦町での有機農業実践農家での研修。その経営は、水田三〇e、畑三〇e、搾乳牛一頭、平飼養鶏四〇〇羽。紀伊山脈の山深い中での農業はまさに自給農業で、専業農家としては極めて小規模なもの。際だった特徴として次のことがある。それは多品目生産。牛乳・卵といった畜産物・米・野菜は安全で美味しいものを豊富に生産し、その他醤油やパン・チーズ等の加工品も年間合わせて八〇品目にも及ぶ。これらは全て自給が出発である。その他にも、興味があるものは、炭焼きや石がま、そしてついには家も建ててしまう。農家においては、牛・鶏の糞尿を堆肥とし、それを畑に利用し農作物を作る。その残渣や畑、牧草地の草を飼料とするなど、この農家では自然循環の仕組みが確立している。つまり、人・家畜・農地がそれぞれの働きを持っている。こうした結果、自然以上に対しての依存度が極端に落ち、自給的生活をすることになっている。経済的には豊かであるとは言えないが、人間本来の豊かさについて教えてもらった研修であった。このような経緯をもって現在の自給的自然循環型有機農業という考えが確立した。
 しかし、現実には、二町分の田畑をつくるには、様々な機械や、生活する上での基本となるお金が必要となり、自給自足だけで生活するのは、今日不可能といえる。そうした中にあって理想と現実の折り合いをつけ、現金を得ていかなければならない。それで今試みているのは次のものである。無農薬・無化学肥料によって作られた米・野菜を会員を募り販売する。つまり、農薬・化学肥料を使用しないことによりかかる労力や減収、そして有機農産物を正しく理解してくれ、本当に必要だと感じる消費者を見つけ、生産者と消費者との間に有機的人間関係を築いていければと思う。私は消費者に安全で美味しいものを提供し、消費者は私が農産物を生産することに全力を傾けられるような環境を作ってくれればとても素晴らしい関係ができると思う。
 そのような夢とは別に、今秋より親しくさせてもらっている農家の人達と様々な試みが実行される。まず豆腐作り。そもそものきっかけは、昨年一反程の大豆を作り、自分で豆腐加工して販売したところ、評判はおおむね上々。無農薬大豆と天然にがりだけの豆腐作りは、手間も確かにかかるけれども、それはとても楽しい作業であった。それに味をしめて、今年は約三反程大豆を作付した。最近では、遺伝子の組み換え問題もさかんに論議され、こうした問題に関心のある方もかなりおられると思う。そういう状況下では、自家採取した種を無農薬で作った大豆を材料とする本当の豆腐の需要はきっとあると思う。
 又、遺伝子組み換え関連として、菜種を蒔き菜種油を搾ろうという話も実行される。
市販の一般的な食用油のようにノルマルヘキサン(搾油用)や硫酸・カセインソーダ(精製用)・リン酸・クエン散(酸化防止剤)を使用しない昔ながらの圧搾法による油は、本来もっている強い香りも楽しめ、きっと素晴らしいものになると確信する。
 豆腐にしろ、菜種油にしろ、自分一人ではなかなか実行不可能であるが、幸いなことに協力してくれる人達が数名おられ、そのおかげで、豆腐を作る資材や油を搾る機械も手に入った。こうした人の和を大切にしながら、自分の農業に対する夢を一つずつ着実に実現できれば、きっとすばらしい農家生活を送ることができると思う。


自分流漢詩散策(十)


福井市 細川嘉徳


 今年も「あぜみちの会」の収穫祭が武生で行われました 同級生のNさんと二人恋人に会いに行くような気分で車は一路会場へ急ぎます やがてピンク色で書かれた「99秋の収穫祭」の大きな看板が見えて来ました
 「あぜみちの会}の収穫祭の大きな特徴の一つは 主催者が自分の農場を開放してお客を迎えるということで 他の業界では見られない農業者ならではの暖かみがあります そしてこの日のために解放された農舎は 一夜にして一大イベントの会場となるのです  会場には会員の収穫した海の幸 山の幸 里の幸が並べられ値段は無茶苦茶に安く その中で 手打ちソバや挽きたての黒米餅の試食に長蛇の列が出来 畑ではモミガラでの焼きイモで故郷の味を賞味 野菜の収穫体験など会場至る所に笑いが聞かれます 一方解放された農舎では会員の演奏会の他 写真 水墨画 水彩画 手芸など盛りだくさんの作品が展示されています 作品はいづれも玄人はだし 忙中閑有りの言葉通り まさにここは別天地の趣があり「あぜみちの会」の深みが感じられます 作品の苦労話を直接聞くのも楽しみの一つ 話が弾むうちミニコミ誌「みち」の話にまで及びます そもそもそのはず来客の殆どは「みち」の愛読者です 多くの読者の顔があり声があり もう一つの出会いがここにもあったのです 自然の恵みに感謝する収穫祭は 生産者と常連や地元の人との出会いと再会があり お互いに友情を確認する場所です
 収穫祭の喜びは出品の有る無しに関係なく集まったものには楽しいものです 生産者は自分の作ったものに人々の喜ぶ顔を見ることは 生きがいを感じるときで たまに厳しいやりとりはあるにしても それは自分の苦労が報われた証であるからです しかしそれぞれの収穫には 人の知らない厳しいプロセスがあることも事実です
 中国の田園詩人陶淵明は「西田に於いて早稲を穫す」という試のはじめに 収穫の喜びを次のように詠っています
 人生帰有道
 衣食固其端
 孰是都不営
 而以求自安
 開春理常業
 歳功聊可覩
人生有道に帰するも
 衣食固より其の端なり
 孰か是れ都て営まずして
而も以て自ら安ずを求めんや
 開春常業を理むれば
歳功聊か覩るべし
 人間は結局は道を修めた人としてあらねばならぬが/そのはじめはやはり衣食を満たすこと/誰が一体少しも労働しないで/自分が安らかでいようなど出来ようか/春になったら農作業をきちんと行う/そうすれば秋の収穫もまずまずであろう
 時は移って千六百年 全部で二十句に及ぶこの詩は 農業に関わる者の如何を問わず読む人の心をひくものがあります 千人以上の人々が集まった収穫祭は 様々な出会いと感動の一時でした 何十年ぶりに餅を搗くことが出来 少しばかりの参加意識 これが今回の嬉しい収穫でした (今回は表題を漢詩散策とさせて頂きました)


我レ以外全テ師


名津井 萬


 私の農閑の期は、十二月から二月までの三ヶ月ほどある。

 年の暮、私の地区のJA支店で、少しゆっくりと待ち時間に日経新聞の「私の履歴書」を読んでいた文の中に、「居は人を変える」という字句があった。「居は人を変える」とは、ある時、リーダー的な地位についた時に他人を見下げた対応をとったり、他人の意見に耳を貸さずに放漫になったりすることらしい。
 私も○○長と名の付くものをしているが、この文を読んでいて、ハッとした。私にも「居は人を変える」そんなことがあった様に思えてならない。
 たまたま○○長の席にあるだけで、私以上の優れた一面を持った人は大勢いる。わかっている。だったら対等の立場を考えるべきかと思う。
 時には閑のひととき、自分の歩みの原点に戻り、反省、自省の時間が必要だなと思っている。

 同じく年の暮れのひととき、テレビで感動のスポーツ映像を見ていたら、オリンピックで水泳競技の女子二百米平泳ぎで、世界の強豪を抑えて、史上最年少の十四歳で優勝した岩崎恭子の感動のシーンが映し出されていた。
 中学一年生の孫娘に、あまりにもソックリなのでいつも岩崎恭子には、私の頬も緩み、親しみを感じています。
 優勝した直後のインタビューで、うっすらと涙を浮かべながら「今日まで生きてきた中で一番うれしいです」という言葉に、何故か一寸こみ上げるものと、頬笑みを感じる。  十四歳の中学生の年齢で世界を制する。その影には素質と共に、言語を絶するような猛練習、猛訓練があったはずである。
 六十数年も生きている私の全く経験したことのない経験を、十四歳の少女は経営し克服したのだ。私にも六十数年の生活の中には、他人が経験、体験したことのないものを持っている。
 人はそれぞれに、全く違った体験知識を持っていると思う。その自分にないものを相手より学び得る。心と姿勢が大切だと感じている。
 剣豪の宮本武蔵の言葉の「我レ以外、全テ師」の言葉を改めて自分の肝に銘じている。


お世話になります。あぜみちの会様


勝山市北谷町木根橋 伊藤直史


 経済成長前に産まれて育ち、経済成長の波にのり、農業をいとなんで来られた人。経済成長後に産まれ育ち、低成長期、バブルの中または後に農業をいとなんでいる人。それぞれの経験、思いを語っていただいたセミナーだった。
 食い物が不足し、他の色々な物質・サービスが、今の時代より低いレベルの時代、前へ前へとすすめた成長期。その時代の人はその時で大変難しいこともあったとか、思うように規模拡大ができなかった、とおっしゃる。
 今は今で、物量が大変多く、何かにつけ物が余っている時代。作っても売れない、再生産に見合う価格がつかない。そして規模拡大もなかなか難しいようだ。
 物量を確保すること、生産量を伸ばすだけが要求された時代の産物(?)として産まれた豊かな社会。その現代で、「本物志向」また「食の安全性」などの言葉が、一人歩きしている。
 その社会の、また個人の思いから実践されている有機農業、有機農産物の生産。個人個人で研究、検討され、行われているから、組織がついて行けない。でも、それで良いのか。皆が皆、有機農業、直販で良いのか。有機農業、直販農業が成り立つ条件とは何かを考えたことはありますか?
 世の中が大きな変化をする時には必ず、生きる人々と落ちこぼれる人々がいるようだ。今の日本の農業に携わっている人々は、まさにその大変化のまっただ中に暮らしていると思う。他の産業に従事する人々も同じかな。
 地域からも、家族からも、お客さんからも、原料の仕入れ相手からも、見放されない農業。完全に自然生態の中から産み出された有機農産物の生産販売だけでは、経済社会の中で暮らすことは、ほぼ無理であろう。だから、「自己責任」という言葉で表される、自分自身の選択の中から行われる、生産、金儲け、暮らしが大切かな。それらに必要な人々、地域、組織とのかかわり。いずれにしても、人のつながりが、数十年前までより多様化した分、難しくもなっていると思う。
 今までいろいろあった農業。これからもいろいろある農業。実践し続けている者が、より苦しいが、より強くなる日本社会じゃないですか。何かにつけて、少量多品目周年買いの社会志向の中で。


編集後記



 長尾さんが第1回の「あぜみち中川賞」の受賞者に決まりました。  彼の応募作を読んだり、受賞記念のスピーチを聞いていると、農業や農村に新しい風が吹いていると感じます。
 農業後継者のほとんどは「家が農家だから」という事情がア・プリオリに存在します。しかし長尾さんの場合は、都会生活の中で「食」に突き当たり、自ら理想の食を作り出すために生活を賭けるという中での農業の選択でした。
 あくまでも、個人的な経験が彼をして農村に向かわせしめたのです。もちろん農家出身の農業者がいけないというつもりはありません。しかし活力を失った農業・農村に、今、新しい血が必要であることも一方で認めなければなりません。
 長尾さんが池田町に住み着いて以来、習慣や風土の違いにとまどいを感じたことは容易に想像できることですが、また彼とその家族がそれらの壁を乗り越えるたくましさを備えていることも知っている僕らとして、彼らの存在が農村の新しい風として認められることを切に願っています。

(屋敷紘美)


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