あぜみちの会ミニコミ紙

みち23号

(1999年秋号)

ケルンの大聖堂

シグナル

 

福井市 中川清


「人」という字は、両方から寄り合っている形だという。
 正に象形文字の見本だ。
 今年の上良農場での収穫祭のテーマは、「消費者と共に 生産者と共に」である。
 農業を成り立たせているのは生産者の力だと、これまで思われてきた。そして、生産者相手の生産対策がなされてきたし、農林水産省とか市町村の農林課とは生産者の立場を護る代表機関だとされてきた。
 しかし、考えてみれば農産物というのは、消費(需要)があっての生産物で、需要のない生産はゴミを作っているようなものです。現に米作りのあとの「わら」がそうである。
 かっての昭和初期は、「わら」の需要には大変なものがあった。最近少し見直されてはいるが、一時期は邪魔者とされてきて、田んぼで焼かれて、その煙は公害視されていた。
 アメリカ農業を視察した時も、わら焼き公害が問題とされていたのを思いだした。
 需要のない生産物は哀れである例である。農産物の生産には、需要と消費を併視しなくてはならないことに直目する収穫祭にしたいという願いがある。そのために消費者の立場からも収穫祭の企画に参加してもらいたいと願っていたのが、今回実現しました。
 立場の違うもの同志が協力して何かをなすことの意義を感じるのです。
 例えば、JAグループが県民生協と共同で統一祭りをやるとか、老人会が地域の子供会と一緒に運動会をするとかなどである。
 協同組合とは、同じ立場の人が己れの利益を護るために結成されているが、違う立場の人たちとも協同出来る点はないか模索することがこれから必要になってくると思う。
 私は、これまでに、田のあぜを取り払う運動を提唱してきました。垣根を越えて目的を達成しようではありませんか。
 今年は、あぜみちの会と土といのちの会、すなわち生産者のグループが消費者の人たちと統一して一緒にやる収穫祭です。何かを、おおいに期待して来てみて下さい。
<hr>
私の食料自給率の向上策
福井市 名津井 萬
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 私は稲作と酪農の複合経営をしている、一畜産農家である。
 現在の日本の穀物自給率の低下を招いているのは、我々、畜産農家の家畜に与える飼料からである。麦、大豆、トウモロコシ等すべてが輸入穀物から成り立っている。おまけに二五%の減反をして、まだ米が余るのにミニマム・アクセスで米の輸入だからたまったものでない。
 新しい農業基本法のスタートと同時に、これから、麦、大豆、飼料作物を水田営農の戦略作物として取り組み「稲作所得並の所得が確保できる経営」と指導者は言う。そこで稲作専業の安実正嗣氏が噛みつく「稲作所得並と言うが、ここ数年で稲作所得を一〇アール当たり四〜五万円も下げていて稲作所得とはいくらを指しているのか」私も同感である。米の所得がドンドン下落していて稲作所得並とは理解できない。
 普段は、おとなしい私も憤怒やるかた無しである。
 日本農業は稲作が基幹である。
 減反施策で、まずは調整水田、遊休田を作らない事だ。私は、転作として麦、大豆、飼料作物の他に、遊休田などを出させない施策として「飼料米」の作付生産を主張したい。飼料米の生産で日本の水田は青々と甦るはずである。
 飼料米の生産は、稲作そのものである。トラクター、コンバイン、乾燥調整、貯蔵などすべて現状の稲作過程で対応出来る。これほど効率の良い日本農業は無い。
 日本の農家の水田は、米(稲作)と転作(麦、大豆、飼料作物そして飼料米)の地域輪作体系で調整水田、保全管理、遊休田の水田すべて解決されるはずである。
 そして飼料米は、我々畜産農家の牛、豚、ニワトリの餌として利用できる様に研究体系を整えるべきである。
 米の豊作の時には飼料向けにする計画だと言うが、我々畜産農家や家畜を馬鹿にするにもホドがある。健康な家畜の飼養は餌を年中通して満遍なく一定の養分を保った餌の給与が最適である。我々畜産農家は出来るだけ餌の内容は変化の無いように組み合わせて使っている。餌の飼養変更をする時は、日数をかけながら少しずつ切り替えている。家畜の胃腸内のバクテリアに対する飼養管理技術である。
 畜産経営は一つのリズムである。
 米が余ったら餌の中に米が多く入ったりしたのでは有難迷惑である。飼料米は最初から計画的に配合して行くべきと思う。
 そこで食用米の備蓄だが、食用米の備蓄は必要ナシである。「逆もまた真なり」備蓄米は飼料米で充分対応できる。たとえ不作の年があったとしても、不足分は三ケ月分ほどである。麦、飼料米、食用米の混合で充分である。 
 問題は、飼料米だから販売価格は相当に安くなる。その差額の価格の補償は、国土保全管理助成として補充すべきである。国土保全と言う国家福祉である。それと、足りない差額は、稲作経営の経費として帳簿に上げる事だ。
 日本の食料自給率の向上対策は飼料米の生産に限る。
 今後、必ず飼料米生産が話題になると思う。
 日本の国土を救い、自給率の向上は飼料米しかない。
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寸鉄集をいただいて
武生市 上良 茂
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 福井農試の玉井氏の寸鉄集を頂いた。
 私が「寸鉄」をいただいたのは第九号からである。
 この寸鉄集についての感想文を書くようにとのこともあり、早速、読み始める。
 表紙をめくった途端、思いがけなく第二号に「南越地区農業士との交流」なる文字が目に入った。以下次のとおり
 専業農家の持つ的確な眼、ユーモアをもった素晴らしい表現力、やさしさ、包容力等々、人間としての肺活量の大きさに圧倒される。
 ふとここまで来て、これは、いつ、どこでということでと直ちに一九八九年の日記を繰ってみる。これもすぐ見つかった。平成元年七月六日南越地区農業士会経営発表会とある。
 場所 農業研修館
 一四:〇〇〜一七:〇〇
 経営発表 河野、上良、川崎
 出席者 普及所長以下職員、青年農業士 二二名
 コメント、まとめ 玉井経営課長
 一七:〇〇〜二〇:三〇
 懇親会、Hの茶屋二階 出席一九名
 二〇:三〇〜〇:三〇
 二次会 M家 七名
 〇時三〇分は酔いが目覚めてタクシーに乗った時刻だろう。
 ところで文中に見られるユーモアと豊かな表現力の持ち主は、やさしさ、包容力、また、人間としての肺活量の大きいのは誰と誰というふうにすぐに思い当たる人達もおり、また、出席者の中でいろいろと当てはめてみるのも一興でもある。しかし、常に的確な眼を備えているのはやはり課長の方であったろう。
 それから、玉井語録の中で強烈に触発されたのは次の一文。
 「大事な場面での沈黙の罪は、あとでどれだけ言い訳をしても償えるものではない」
 私の胸にグサッときた。まさに寸鉄のひと突きというヤツ。もともと、私は会議の場所はほとんど口を開けないで済んでしまうことが多い。名指しで話しかけられれば、仕方なく、口を開ける程度であるから推して知るべし。確かに後悔することも多い。また、書くことにおいても同じ。いづれも哀れむべき我が性なれど致し方なしと諦めている。
 とにかく、読むことや書くことから、だんだん離れていく今の私にとって「寸鉄」は氏が日頃より経験し、勉強されたことを適切にダイジェストして伝えていただけるということで、常に重宝なものとして大事にしている。既に読者は一、三〇〇人を越えているといわれる。それをひとりひとり手書きで宛名書きをきちんとされているとのことだから、これもまた 大変な仕事である。
 どうか お身体に気をつけて、持ち前の実行力と透徹した理論と筆力で、今後とも寸鉄ならぬペンでもって「寸鉄」を続行して下さい。
<HR>
未来志向の国ドイツ
案山子
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 九月の末から十月の始めにかけてドイツを訪れるチャンスに恵まれた。ボンで開催された会議に出席するためだが、その前後に農家を訪れるなど、ドイツ人の暮らし、文化に触れていささかカルチャーショックを受けて帰ってきた。いまさらドイツといってもそう珍しくないのだが、初めての私にとっては、目を見張ることばかりだった。
一 改札口のない国鉄
 まず驚いたのは、小さな田舎町の駅ならともかく、ミュンヘンとかフランクフルトのような大きな都市の中央駅にも、改札口がみあたらない。日本で言えばホームへの連絡通路のようなところを誰でも自由に行き来できるし、そこから直接列車に乗り込むことができる。無賃乗車しようと思えば、できないこともないだろう。車掌も三〇分に一度くらいしか検札に来ないから、短い距離だったらバレずに済むかもしれない。
 聞いた話だが、検札で切符がないと理由の如何を問わず高額の罰金を取られ、車掌から買う切符は通常の何割か増しということでした。罰金の有無は別として、改札口がいらないということで人件費の削減ができるのは間違いなく、合理的な感じがした。それよりも、きっとドイツ人はお互いを信じている性善説の国なのだろう。
二 褐色の屋根、白い壁
丘陵や山が多いドイツ南部の村々では、一見して同じ様な外観の家が目に付きます。褐色の屋根に白い壁、そしてその窓辺には花の鉢。集落の回りのゆるやかな斜面には牧草があり、牛がのんびりと草を噛んでいる。我々旅行者にはヨーロッパの典型的な原風景として目に焼き付いてくる。住民一人一人が自分の家の手入れを怠っていないように思われた。
 大きな都市では、夜になるとネオンサインが点灯するのだが、色は白や緑系が多く、点滅して歩行者の注目を引くようなものは見なかった。ましてやパチンコ店のようなどぎついネオンは、ドイツ中を探しても見つからないだろう。きっとドイツ人は保守的にちがいない、と言うよりは何でもありの日本と違って、節度をわきまえているのであろう。
三 大聖堂
私たちが訪れたグリーンツーリズムの農家がある小さな田舎にも、集落の中心とか、目立つところに必ずと言っていいほど教会がある。少し大きな町になると、その町の目立ったところに他の建物よりも一段と高い尖塔があるのが常だ。会議のあったボンからライン川沿いに列車で二〇分いったところにケルンがあり、その駅前には、世界的にも有名な大聖堂がそびえ立っている。高さはなんと一五七mだそうだ。大きさもさることながら、建設のいきさつを知ってまた驚かされた。着工が一二四八年で、途中三〇〇年にわたり工事が中断され、六〇〇年以上経った一八八〇年にようやく完成したらしい。日本では、一つの建物を六〇〇年以上もかかって建てたということを聞いたことがない。ドイツ人というのは計画的で、一度こうだと決めたら何百年かけてもやり遂げるという強い意志を持った人が多いのでしょうか。とにかく時間の捉え方が、自分の生きている現在だけでなく、長い先の未来をしっかりとらえ、そのために何をいますべきかということを把握できる民族ではないかと思った。
 現在、ドイツは他の国に先駆け、国を挙げて環境問題に積極的に取り組んでいるが、これも未来を見据えた現在の行動であることにちがいない。
四 農業政策
 ドイツ人の合理的で未来を見据えた物の考え方は、農業政策にも現れている。それは環境問題と条件不利地の保全に取り組んでいることだ。
 たとえば環境保全でいうと、環境に負荷を与えない農業を積極的に推進している。多くの州では減農薬栽培を支援しているが、ドイツ南部に位置するバイエルン州では、どの程度実施されているかはわからないが、農地や緑地に対する農薬・殺虫剤の使用停止まで政策としている。
また、農村と都市の調和のとれた発展のため、条件不利地への政策的支援をしており、農村から都市への人口流出を抑えている。具体的には農業や耕作景観の保護、グリーンツーリズムの農村や農家に対する補助などがある。
これらの政策費用は税金でまかなわれることになるが、国民がこれを支持しているからできるのであろう。
ここでもドイツ国民の、百年、二百年先を意識した、未来志向の考え方をかいま見た気がした。


あぜみちの会結成十周年記念講演
パート2(平成一一年七月一〇日、於今立千年の森)
日本の有機農業運動の展開(その背景と成果)
講師 京都精華大学人文学部 槌田 劭

(命の産業)
 農業の問題についてお話ししますと、先ほどいいましたように、昭和二〇年代は本当に農村は明るかった。農村は元気だった、しかし昭和三〇年以降日本の農村は暗くなります。それもまた、お金によって世の中動くようになったからです。これははっきりしているんです。農業は金儲けには不適当な仕事です。金儲けするなら農業やめた方がいいと、誰も言わなくても天がいうてますから、農民達は農業をやめていっています。当たり前のことが起こっている。何故かと言いますと、農業はいのちの産業だからです。命というのは、命の論理に従って、我々の思い通りにならないけれども、非常にありがたい仕組みによって支えられているわけです。まさに神秘的な力に導かれている。それに逆らって何とかしようと思ったら無理が起こるというのは当たり前のことな訳です。
(お金の時代)
 けれども、お金で払うような形になった途端に無理を強いられることになった。高度経済成長時代になって労働者の賃金が年々上がるんです。
ちなみに労働者の賃金というと、春闘・秋闘のスケジュール型労働運動というものがありましたね。それが始まったのは、先ほど申しました昭和30年。そしてそれが、昭和三〇年から始まった春闘・秋闘のスケジュール型労働運動が始めなんです。経済要求中心にして動く、それによって労働者の賃金が上がったときに欲求不満の日本の社会ができてきた。農民まで欲求不満にとりつかれている。テレビジョンにはこぎれいな都市生活が映し出される。それを見て、あの電化製品、あの家具が欲しいと当然思います。ところが農業ではお金が入ってこない。
(出稼ぎ・兼業)
 お金のために農家はどうしたか。出稼ぎ兼業に出ざるを得なくなるわけです。出稼ぎ兼業というのはパートタイマーの労働力です。戦前の日本が徴兵制によって人を引きずり出していたとすれば、赤紙の代わりに、お金の魔力によって農民たちを一時的に兵力にして利用するそういう出稼ぎに駆り出されていったことになります。そして出稼ぎだけでは追いつかないことから、兼業化が始まります。当時の流れで言えば、専業であった農業ができなくなって、父ちゃんは兼業に出たわけです。その結果、ご存じのように、「さんちゃん農業」という言葉が昭和三〇年代の半ばに登場します。じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの三ちゃんによって農業が支えられている。そして父ちゃんは兼業です。
(片手間農業)
 農業に全力投入する一番頼りになる父ちゃんが、農業を離れるのですから、片手間になるのです。日本での産業の基盤からいうと、日本人の食べる食糧は片手間にやってよろしいと、そういう時代に昭和三〇年代の半ばにはなっていくのです。ちょうど一九六一年には、第二種兼業農家の数と専業農家の数が逆転しているのです。そしてその流れはその後も続いていて、もはや今日専業農家というのは数えるほどしかいない。この町にも何人の専業農家がおられるか私にはわかりませんが、おそらく十指に余るほどあったら喜ばしいくらいだと思います。
(後継者難)
 テレビジョンに映し出されるこぎれいな格好をした都会の娘さん、女性たちの姿を見て、あの人より私の方が美人なのに、どうして私は惨めに朝から泥にまみれ汗かいて真っ黒になって働いて、しかも金にならないのかと思うわけですから、農家の嫁になったことを嘆きますよ。でも、明日からやめるわけにはいかん、連れ添うた父ちゃんと離れて逃げるわけにいかんとなって我慢するわけでしょう。そんなことを聞いている娘さんが農家の嫁になろうはずがないんです。嫁飢饉が始まるのは当然です。農村の女性に見放されて、農業を続ける若者たちが農業はつまらないと一層思うのは当たり前です。後継者難ですよ。今日後継者難は惨憺たるものです。
 ちょうど一九六〇年には、ないちっちという流行歌があったのをみなさん覚えておられるでしょうか。「♪僕の恋人東京にいっちっち、僕の気持ちを知りながら、どうしてどうして、なんでなんでかな、東京がいいんだろ、僕はないちっち♪」ですね。この痛切な社会を描いているユーモラスなメロディーに乗せて歌った世の中というのは、どういう世の中だったのか。
(生産性の向上)
 朝鮮戦争で、隣の国の人達が血と涙を流しているときに、「もうかりまっか」と浮かれていた。千載一遇のチャンスと財界の指導者が言う。冷たいですね。それが高度経済成長です。そういうふうに進んできた中で、農業は変わらざるを得なかった。何とか農業生産性をあげなければならない。工業と農業の所得の格差どうして是正するのか。これが一九六〇年頃の大きな課題です。その課題に答えたのは農業基本法です。昭和三六年ですね。この年に池田内閣が所得倍増政策を本格化してます。このときに農業生産性を何故上げられたのかというと、農業の化学化であり、機械化、施設園芸、季節はずれの野菜、そして選択的拡大です。経営形態として大規模指定産地となって、卸売市場で有利な値段で売れるような条件を作ろうということです。これは農民同士を競争させることになるのですよ。要するに、全体の市場の大きさが決まっていて、抜け駆けを奨めていることだけなんですよ。だから、施設園芸をやった場合でも、農薬使った場合でも、最初はもうけることができるんです。しかしみんながやったらだめになります。
 あるブドウ農家の嘆きを私は聞いたことがありますけれども、ブドウ農家がジベレリン処理で種なしブドウを作ったときは、出したては高く売れたわけですよ。ところはこんな技術はすぐ多くの人が真似ますね。その結果なにが起こったかと言いますと、値段は元に下がって、種なしにする労力と農薬代だけが負担として残ったという。オーバーかオーバーでないかわかりませんけれども、笑い話としては深刻ですね。
 農業生産性を上げるといったって、結局は農民の数を減らして、機械化して、省力化して、その形でいくしかなかったんです。それでなるほど生産性は上がりましたけれども、やっぱり農業では食えないという嘆きをなくすどころか、母ちゃんまでがパートへ出ていくようになったわけです。
(近代農業のつけ)
 そういう近代化の延長線上で、一九七〇年代に入った頃には、地力が低下して、こんな状態が続けていくとどうなるのかという疑問が出てきます。とりわけ農薬中毒で、何年も苦しんだ農民の中には、農薬を使って農業するくらいなら、農業やめようか、だけど農業をやめてはならないのだと強く思った人が少数現れます。農薬中毒のことを今ふれましたけれども、一九六〇年頃はほんとに大変でした。パラチオン、いわばホリドールですね。もう見事な殺虫効果があったでしょう。あの毒性は大変なものですよ。防毒マスクをしても、夏の暑いときのハウスの仕事になったら、たまったものではないですよ。その結果つい油断したりして事故につながった。農薬は便利だった。卓効があった。だからその交換に毒性、危険性を知らなかったら、巻き込まれて犠牲者がたくさん出た。農薬散布中の中毒は大変なものです。散布中に死んだ人も数え切れないですし、慢性中毒になって苦しんだ人も数え切れない。特に悲劇だったのは、お嫁さんです。お嫁さんが慢性中毒になったら姑さんや家族から、なまけ病にとりつかれたといわれるわけですよ。それで自殺者が続出しました。パラチオンをあおって自殺です。だいたい農薬散布中の事故と農薬自殺併せて年間数百人、毎年死にました。そういう状況を重ねて、六〇年代から七〇年代に入って、このままではどうにもならないと自覚した人たちが有機農業を積極的にやる。金のためではなく命のためだ。命あっての物種だと昔から言った言葉ですけれども、そういうことで有機農業運動は始まっています。
(ゆうき農業)
 先ほど保守的な農村の中で有機農業を始めるということは大変勇気がいるということを申しあげました。「ゆうき」という文字は二つあります。憂うという字を書く憂気と勇ましい勇気と二つあります。その「ゆうき」があって有機農業運動を始めたんです。有機農業の先覚者達は人格的にも非常に優れた人たちです。私はそういうみなさんを先生として勉強させてもらっています。ここにもたぶんそういう人がおられると思います。
 それから、子供達に安心なものを与えたいという家族に対する優しさ、その優しさが有機農産物を受け取りたいという消費者の気持ちとなって、有機農業運動は支えられました。
 世の中お金回りで動いたら、小売りがなくなるんですね。農産物がスーパーとかそういうとこで扱われるようになった。八百屋さんが町から消えていった。これは大変なことなんです。
(虫食い野菜)
 けれども、こういう決まった流通では、虫食い野菜は扱わないですよ。もちろん有機農業だったら虫食いになるという意味ではないですが。
 ここ二十何年間の有機農業の成果として、土をちゃんと立派に育ててきました。土は有機、生きているもんです。土が育っていくんですね。そしていい土になると、常にというわけにはいきませんけれどもほんとにほれぼれするような魅力的な作物が育ちます。もちろん季節によっても違う、時によっても違う。そういうことで、虫食いがあるから無農薬で、虫食いがないから農薬漬けだと単純にいうことはできないということだけは知って下さい。二〇数年間の有機農業研究会の活動の成果として確立していると思うので確認しておきたいと思います。
 だけども、なれないあいだ、歴史がまだできていない間、とりわけ虫食いだらけだし、大変なんですよ、収量が落ちるだけではないんですよ。それを理解する消費者がなかったら扱ってもらえないんです。
(農薬のかかった野菜)
 私は今、消費者グループの代表取締役社長なんですけれども、金は一文ももらってないボランティアなんです。そういう仕事を通じて、農薬のかかっている農産物を感謝する気持ちを持たない人間に、あるいは消費者に、無農薬の野菜を食べる資格はないと言っています。要するに、一緒に育てていくものであって、金を出して買うものとは違うということを言い続けている。別の言い方でいうと、農家のおばあちゃんがおじいちゃんが、自分のかわいい孫に食べさせているのと同じものを出してくれているんだな。いただきましょうと農家の人に感謝することになるわけです。無農薬を願っていますが、どうしても農薬をかけざるを得ないときには、かけてはならんなどと人を号令し、縛り付けるようなことを私はしてはならんという立場でいますから、私は無農薬を要求はしていないんです。ただ、無農薬をお願いし続けているんです。そしてどうしても使われたんなら、使った農薬を言って下さい。そしてなぜ使ったのかを考えて、二度と農薬を使わなくてもいいような農業をどうしたらできるかを考えて下さい。研究会活動をするということですから、それをお願いしています。同じ釜の飯を食うのが親愛の表現とするならば、一緒の畑でとれたものを食べるんだという考え方で望みたいというのが私の基本的考え方であったわけです。しかし、農薬のかかっている農産物に関与すると言ったらキョトンとされる有機農業の流れが、やはり全国の中心的流れです。私は今も、技術的には、やる気になったら無農薬はできると思います。でも、現実に農家のみなさんが無農薬に一気に進むことがどれだけ大変かということを私はいろんな事例で見ていますので、簡単な話ではない。これを有機農業研究会の幹事会で発言をすると、おまえは有機農業の可能性を知らんからだ。日本の有機農業は無農薬でできるんだ。確かにそのとおりですよ、ということになって、省農薬、減農薬ではダメだという批判に私はさらされることになるのです。けれども、自分の意見は変わらないです。
(いきいき有機農業)
 農家は自分の農業を、自分の考えで、人に命ぜられることなく、お金に振り回されることもなく、ほんとに納得できる農業を展開していただきたいというのがお願いです。愚かな人間が、正しいことを押しつけあって、正しいことの奴隷になるよりは、間違ったことの主人公で生きる方が、私は人間の幸せだと思っているから農家を攻めるようなこと、要求するようなことを私はようしません。私が優しさというのを強調しているのは、人を支配することではなくて、ダメな人間同士が思いやることだろうと思っている。日本の有機農業運動が、憂うる気持ちと、勇敢な勇気とそして優しさの優気に支えられて進んできた。そしてそういう動きの中には、実は喜びがあるんです。なぜ喜びがあるのか、私はいろんな有機農業農家や有機農業以外の農家とお目にかかって話をして、どちらに喜びがあるかということについていえば、はっきりしていますね。
 普通の近代農業をやっているみなさんが、農業では食えない、農業はつまらんということを、一時間話したらいわない人はいないですね。しかし有機農業で、いい農業をやっておられる農家は、一時間、二時間、三時間話しても、そういう話が出ないことはしばしばです。まったく出ないとは言わないけれども、ほとんどないに等しいほど少ないんです。そして自分がやっている農業の工夫を生き生きと喜ばしくうれしそうな顔をして話している。こうやったらうまいこといったとか、こうやってしくじったという話までにこにこしますね。要するに、しくじりまでが喜びになるようなことが、頭を使い、自分が奴隷となってしているんではない、自立的自覚を持ってやっている場合には喜びとなり得るんだということですね。国に命ぜられている訳でもないし、消費者から要求されているわけでもないけれど、自分が納得してそれを選んでやった場合、金にはならんかもしれんけれども、喜びがあるんですよ。有機農業の一番大事な点は、この喜びありですね。私はそうだというふうに思います。こういう原理に導かれて、日本の有機農業運動は、有機農業研究会を中心として進んできたんだと私は自負しております。これは程度とか場面によってもいろいろありますよ、有機農業運動の中にも、分裂はあるし、争いはあります。様々な有機農業運動というか、特に消費者の中に分裂があったりします。農業にとってほんとにつらいなと思うのは、有機農業の農家でも、需要が順調にいったことは喜ぶ、だけどみんなと一緒に苦労をすることに喜びを分かち合うということについていうと、人によりけりですね。だけど支えられているのは何かというと、自覚的であって、支えあえる協力しあってやっているその動きの中で始めて進んでいるんだということは間違いないと思います。そういうふうにですね、命の原理に基づく有機農業運動は、進められてきました。その中でどういうことが問題だったかということを次にお話ししたいと思います。
(顔の見える関係)
 有機農業というのは、生産技術の問題であるし、有機農産物の問題ではあるけれども、それを食べてくれる人との関係を抜きにしては考えられないではないかということです。
 日本の有機農業運動は提携という言葉を作り出しているわけです。提携というのは手を携えるということですね。生産者と消費者とが手を携えるものだということです。顔と顔とが見える関係というわけです。顔と顔の見える関係というのは、農村で顔をきかせている顔役の関係ではなくて、お互い人間を知り合っていることです。人間を知り合っていることによって心と心が結ばれるというところに価値があるのですね。顔と顔の見える関係というところだけでいうのはわかりやすいのだけれども、その本質は心で理解し合う世界、それは先ほど話の中で、あなたの作ってくれる農産物なら何でもいただきますといいきれる関係。農薬使っているとか使っていないとかそんなことをこだわらない関係。それから生産して出荷してくださる農家の側からいえば、自分の孫にも食べさせているもの、いわば同じ釜の飯の関係に結ばれているそういう関係が大事なんだという思いをもって、出荷してくださる。だからそういう意味で家族の延長として苦楽をともにする関係でありたい。そういう関係の中で有機農産物が取り扱われたいという考え方が、提携という言葉で表現されるものなんです。
(縁農・援農)
 そういうことで、全国各地にかなりのグループができました。そして日本有機農業研究会の会員の約半数が消費者です。少なくとも私の近辺でいえば消費者が多いということは確かです。生産者と消費者の関係の中で、消費者が、ものを受け取るだけでなくて、畑の様子にも思いをはせる。そのためには、時には畑へ行って、草取りの手伝いもする。というようなことを心がける。この場合、縁農か援農なのか両方かけていいと思うんですけれども、縁も大事、応援ができるなら手助けも大事という援農も含めて、家族同様のつき合い方をしていく。作物育てていく場合でも、どういう生産物を、野菜をどの程度必要としているかということを生産者も消費者と考えていく、そしてその作体系を作っていく。つまり、循環です。生産されたものが完全に消費者に届いて、まわっている。そして消費者からお金として戻って帰ってくるわけです。
 お金のためでないといいながらお金がないと成り立たないわけですけれども、そういうふうにぐるっと回っていく関係だと、品物があまっても困るし、足らなくても困る訳です。
 しかし足らぬ余るは常にあるんです。それをどう解決するかというときに、生産者は生産者の都合、消費者は消費者の都合、それぞれの都合だけを押しつけあっていたのでは、その関係は続かない。
 価格一つとっても、値段をどう決めるのか、相談の上で決めていかないといけないんですね。一方的な要求だけでは決められない。というところでその関係がさらに親密にもなるし、時には緊張をはらむこともあります。私は理想的な関係でいると、生産者がこんな高い値段でなく、もっと安い値段で喜んで食べて欲しいというふうに生産者が言う。消費者は生産を続けていただくのに、それでは大変でしょう、もう少しいい値段にしましょうよと言う。普通は、生産者は高く、消費者は安く言うんですけれども、逆の関係が起こるようだったら理想的だと思います。私のやってきた二十数年間の中では、そういう経験も何度かあります。何度かというだけでずっと関係が変わりますね。最近はだんだん変わってきていますけれども、そんなにあまくなくなってきています。
(生産物の流通)
 全国の有機農業のグループはだいたい生産者が直接配達しているみたいです。これについては私は少し違ったやり方をしています。どういうふうに考えたかといいますと、農業するだけでも大変なのに、しかも農村ではお年寄りの農家が増えて大変なのに、運搬まで農家にしてもらうのは農家の仕事ではないのですね。むしろ農業を一生懸命やってくださる方がうれしい。そこで、運搬については、消費者と生産者で一緒に共同組合のような流通組織を作りましょうということで、専従の職員を、雇用して、生産物を消費者会員に届けるという形を取っています。もちろん私のところでは流通組織の職員も会員です。生産者も会員、消費者も会員、流通担当者も会員という関係の中で、回すということをやっています。
(組織は株式会社)
 そしてその流通組織は株式会社です。なぜ株式会社にしたかといいますと、協同組合というのは非常に創りにくかった。それと、京都、大阪、滋賀と三県にまたがっているので、会員が協同組合を作ろうと思うと、全国の協同組合との関係が必要になります。そこで、一番政治的な干渉、制度的な制約の少ない株式会社が便利だというので株式会社を選んだ。出資金は生産者も、消費者も、流通担当職員も応分の出資をして創るから、株主の数は、今二千数百人いるのではないでしょうか。それでまわっているわけです。株式会社ですから、本来利益が上がると株式配当するんですけれども、ここ二十年間、株主配当は一円たりともしていません。配当は何かといわれれば、それぞれの納得が配当です。納得が得られるなら配当は少ない。大きな配当を得ようと思ったら、大きな納得を得るためにその輪の中に積極的に加わり動いていただきたい。要するに配当金をもらうのではなくて、動いてもらうと、そういう原理ですから、株式会社であって、実質株式会社ではないのです。だけど形式的には株式会社です。
(納税意識)
 従って、商法の手続きに従って、きっちり税金を払っています。税金払ってやらない仕事というのは続きません。この世の中で、霞を食って生きられないように、個人にせよ法人にせよ社会的に存在する以上社会のお世話になるんですから、税金を払って当たり前なんです。全国の有機運動の中で、有機農業産物は税金を払わない形で動いているのがほとんどです。なぜかといいますと、いちいち生産物がいくらで売れたのかいくらで扱われたのか記録なんて正確に残すこともないし、おおざっぱにしかいかない。それを扱っているときに消費税をつけて扱わなければならないけれども、小さな消費者グループだったら、消費税をつけて扱うようなきっちりした扱いはなかなかできない。
 私どもは消費者の消費税も払っています。くやしい消費税を払っているということを意識することの方が、払わないで済ますよりまともだろう。そういった考え方で、私の場合はさせてもらっています。
(全国の事例)
 私どものやり方は、全国的に見るとちょっと変わったやり方です。これに似たやり方は、愛媛の有機農産共同組合です。これは愛媛県の中だけでやっていますからできるし、消費協同組合に農産協同組合をつけただけで、生産者も消費者と一緒に参加しているんですと言うことで、これは非常に賢いやり方ですね。こういうやり方でやっているものが熊本にも例外的にあります。
 一般的には、一人一人の生産者と、二、三〇軒の消費者とが、グループを作ってやっている場合とか、数人の生産者が生産者グループを作って、消費者グループと提携する場合とか、いろんな形で進められています。いずれにしてもここではただ単なる商取引ではなく、人間の関係を大事にして進められています。そしておおむね共同購入でやられてきました。というのは、生産者が届けるにせよ、職員が届けるにせよ、一回届けにいってまとまった量を下ろせるのと、少しずつたくさんのところを下ろすのでは、コストの問題だけでなく、労力その他を含め大変なことになります。
(共同購入と人間関係)
 従って、共同購入のグループでやることになります。共同購入、グループでやることの意義は、ここでもまた、人間関係をそこで形成できるということです。今、地域社会が消えて、年代の違う人と話をする機会はほとんど持っていません。都会で人と人とのつき合いは、職場は別として、本来なら町内会だったらいいんですけれども、そんなものも今は形式的でほとんど消えていっています。そして唯一残されるのは小学校のPTAです。PTAは非常にいい活動をしているそうです。いい活動しているというか、そこしかないという悲しい現実の中で。これも同じ年代の人に限られてくるわけです。年代を超えてということはないわけです。ところが有機農業の提携の運動は、年代を超えて、様々な人が一緒に助け合うことになるわけです。
(食文化の伝承)
 このことで、今まで食べたことのない野菜が届いたときでも、どう食べたらいいのかということを知っている人が知らない人に教えあっていけるわけです。今スーパーマーケットに並んでいる野菜を買ってくるときには、食べたことのない野菜は手は出さないということに原則的になっているようです。つまりこれをやっていると、食の文化はやせ細っていきます。好き嫌いがあって食べなくなっていく、減っていくのに、新しい知識は入ってこないわけです。だから日常の食の文化を守る意味においても、そして食を通じて年代を超えた知恵を交換していくことについても、提携の運動で作られる共同購入の動きは極めて意味を持ってくるわけです。人と人とがつながることの楽しさも、煩わしさを越えて実現する。そのことによって、生活の暮らしの文化が向上していく。そういう世界を有機運動は担ってきたんだと私は思うのです。
 農家のおばあちゃんは、昔の暮らしの中に抱えていた大事な生き方を、身につけておられます。その農家のおばあちゃんの知恵が、都会の若いお母さんと交流したときに伝わっていくわけです。これは大変な文化運動です。ただ単に農産物を売買する関係にとどまらない意味を持ってきます。そういうふうに、多様な人が、多様な関係を複雑に入り組んで、しかも楽しい関係を作ることができたら、これは人間社会にとって、大変幸せなこと、喜ばしいことではないだろうか。そんなことで、運動の展開を大事にしていきたいというふうに考えられて進んできました。
(有機農業ブーム)
 ところが、今、困難に遭遇し始めています。有機農業研究会の会員数は年々じりじりと減っています。しかし世の中は有機農業ブームです。一体これはどうしたことだろうか。ここに私たちは注目すべき現実がたくさんあると思います。福井県でこうやってみなさんが集まっていただいて有機農業に関心を寄せて下さっていることを非常にありがたく思うのは、その現実を何とか乗り越えていかねばならないと思うからです。有機農業研究会の会員は減っている。そして、有機農業と有機農産物はブームである。一体どうしたのかという問題ですけれども、はっきりしていることはいくつかあります。
(世代交代)
 一九七三年オイルショックがあって、高度経済成長は低成長時代に向かうのだといわれた。そして一時期はマイナスの成長をする年も間に一、二回挟んだ。全体としては低成長状態できています。押せ押せのお金儲けでは回りません。ところが人間の生活の意識はそう変わっていないわけです。そうだとすると何が起こるだろうか。時が流れるということは非情です。これは確実に世代を入れ替えていくわけです。そうすると、一九七〇年代の始めに、こういう動きに喜んで入ってきたお母さん達も、二十何年三十年近く経つと、いいおばあちゃんに変わっているわけです。子供達は家を離れて、その夫婦家庭の家族構成は小さくなっている。年寄り二人では食べるものも大したことはないわけです。この人達の中の熱心な人たちでいまだに続いている。
 若い人たちは残念ながらなかなか続きにくい。何故かというと、煩わしいことはいや、お金ですべてが解決する方がいい、というふうに世の中変わってきています。高度成長以来すべてのものがお金で動いて当たり前という時代がきたわけです。その中で育った若い人たちが、骨の髄までそうなっていると思いたくありません。けれども、少なくともその時代の子供として育っているわけですから、そこの制約は受け続けているわけです。そうするとですね、共同購入のように煩わしいことはいやということ、どこか手軽に売っているところから買いたいというふうに当然なります。それが一つです。
(関心事の変化)
 それだけではなくて、若いお母さん達は時間があったらパートに、時間があったら遊びに行く、そちらの方に関心が強い。もちろん例外があるわけで全てではない。そうなると、共同購入の担い手として、届けにいっても留守がちになる。
 自分で共同購入やろうと思ったら、人の世話をすることが楽しい、人の世話を受けることに感謝する。その気持ちが要るんですけれども、そういった気持ちもまた、いまの世の中では薄いわけです。薄くなっているからしょうがないとあきらめるかどうかが次の問題です。
(運動の困難さ)
 私はだからこそあきらめないんだ。だからこそ大事なんだ。困難でない運動ならする事はない。世の中に受け入れられて、ちやほやされることなら言う必要がない。受け入れられないし、誉められもしない。だけど意味があるから、そして意味があることを担うことによって、生きているという実感もある。つらいことがあるから生きているという実感がある。それを実感することで幸せを感じられるということを大事にしてもともと運動というのをやってきたのではないのか。いろんな運動はそうしてやってきているのではないか。そうすると、困難なことを並べたことは、何も絶望的だといっているのではなくて、そこに課題があるということをいっているんだというふうに私は申し上げているつもりなんです。けれどもものすごく厳しい。だから今までと同じような形ではなかなか増えていかない。そういう状態に遭遇してきている。
(生産者との関わり)
 従って、有機農業の生産者は困っています。生産した生産物を食べてくれる人の数が減っていったんです。やっぱり、スーパーへださなしょうがないのかな。やっぱり農協へ集荷して市場へださなしょうがないのかな。そういうふうになりますね。これは深刻な事で、私は、生産者に対して、有機農業の物流も取り上げようと判断するときに、農家にはしごを掛けておいてあとで梯子をはずすような残酷なことはしてはいかんと言うのです。私はうちの子供がアトピーだったので無農薬の野菜が欲しかった。だけどはしごをかけてはすずような無責任なことをしてはいかんということで慎重にいった。最初は飛びつかなかった。むしろ反対だったわけです。そういう意味では、日本の有機農業運動は、提携というかっこいいことをいっても、結果において農業者の梯子をはずすような、流れの中に今立っているんだという厳しい自覚を私は持つ必要がある。その責任をどう取るのかということを自覚する必要があるという意味です。しかし責任なんか取りようないです。現実ってそんなあまいもんじゃない。これは悪意があってやってきたわけではなく、誠実にやってきたわけなのにこうなんだから、ここで知恵を働かせて、一緒にどう越えていくかということが課題になります。そういう意味でそれを受け止めるしかないと思います。
(有機農業の認知)
 いずれにしても有機農業の提携運動は今困難になってきています。そして、そういう状況の中で、有機農業は認知され、世の中に認められます。有機農業という言葉を使っても、一体何の事という人はいなくなってきたわけです。そして有機農産物なら安心だろう。有機農産物ならおいしい。そういうことはかなり理解されてきている。そこで、有機農産物売っているところないかという声はかかります。声がかかったら、共同購入ですからグループに入って下さい、会員になって下さい、といったら、考えときますという返事です。で、なかなか会員にはなっていただけません。ましてや有機農業研究会の会員になってくれといっても、会員になって下さる人はほとんどいないのです。
 そういう中で、スーパーマーケットへ行っても、有機農産物とか、生産者の写真が張って並べられている品物が売れるようになりました。それからレストラン、外食産業でも、うちの食材は有機農産物を扱っていますということを、メニューの片隅に入れて売りにしている。要するに有機農産物が付加価値を持ってきた。生産者の側からいうと、有機農産物だったら高く売れるかもしれないし、そういう付加価値を持っていれば、市場がそれだけ広がる、売れるチャンスが多いというような思いもあるんでしょう。何とかならんもんかと相談を受けることがあります。
 しかしそんなあまい話はないのです。あまい話はないけれども、世の中はあまい話で進むんですね。受け取る方もあまく感じる。それをお金に換える錬金術師達が世の中を支配していますから、スーパーマーケットでまじめに有機農産物を誰もが買えるようにしょうと思って、店に並べようとしている職員もいるでしょう。だけど、今はそういう時流だし、そうしとかんかったら人が来ないから並べようということでしょう。そういうふうに並べられたときに、お金の論理で動いているわけですから、当然ウソがあるのではないか。こういう疑問が出てくるわけですよ。そして今、有機農産物が認知されてきたから、有機農産物とは何かということの定義をしなければならない。基準を決めねばならない。栽培基準を定めていかねばならない。栽培基準を定めるということは、有機農業の生産者にとっては、この基準に沿って農業をしなさいということで、自由を縛られることになる。私は、基準を決めて、それで農家を縛るようなことをするには反対という意見です。
(法律による認証)
 しかし、世の中の現実がそういうふうに進んでいるとしたら、反対といって横を向いているのもまた大問題。流れには逆らうのではなく、流れを見つめて、流れに乗せられないで、懸命に流れの中で泳がねばなりません。だから単純ではない。しかし少なくとも乗せられてはならない。政府は数年前にガイドラインというのを作ったわけです。要するに三年無農薬、三年無化学肥料の圃場で作った農産物は、有機野菜と、有機農産物と名乗ってよろしい、そうでないものは転換中と言いなさい。三年ですよ。だからいま急に思いついて無農薬にしたからといって、有機と名乗ってはいけません。そのことは、今国会中には決まると思います。だからこれまでの有機は名乗れなくなる。
 何故そうする必要があるかといいますと、消費者から説明を求められたときに、有機名乗っているけどどういう基準でつくっているかわからへん、これでやっているから確かですと言うための技術なんですよ。要するに消費者の不審に答えるためなんです。そういう形で有機農産物の定義と基準と栽培基準が決まってきた。そしてその基準を満たしているかどうかを、政府の法律で定められた確かな認証機関が検査して、認定したものが有機農産物と名乗れるようになります。というのがいまの検査・認証制度です。いま法律化されようとしています。
(認証で生じる問題点)
 前半で私が話したのは、厳しい世の中でおおらかな人間関係そして様々な意味で、社会的にも文化的にも価値ある仕事と思ってきた有機農業運動は、いまや認知を受けた結果、しかも経済社会の認知を受けた結果、いまのような状況になってきたということですね。しかし、そこで不審を解くために、そういう基準を決め、検査して認定認証したとして、それで果たして不審が解けるんだろうか。いくら素晴らしい警察と素晴らしい刑法とがあっても、犯罪が絶えない。人間てそんな仏様でもないわけですよ。そうすると、裏をかく人間も出てくれば、だます人間も出てくる可能性を否定できない。また、人はだます人間だからこそ、だまされることについて警戒することになります。疑いの目で見ることになります。その結果、まじめに一生懸命やっている人が疑われることになるかもしれない。これはえん罪ですね。いい加減にやっている人間がいい加減である故に誉められてみたりします。しかしいつかはばれて、あいつはそうやったのか、だからこいつもそうではないかという形でですね。本来人間の関係の中でおおらかに展開されるべき有機農業運動が、扱っている有機農産物が、どうなるのかわからないというふうになってしまうおそれを私は持つんです。もちろんこれは持ったからといって、反対だけ言っていると言うことではありません。だけどそのことは考慮の中に入れておく必要があります。
 そうなって有機農業運動の具体的困難はすでにでています。買いに行けば店先には有機農産物がもう出ているでしょう。そうすると、運動で苦労するのはいやだということで一層消費者会員は増えない。生産者としては安定した出荷先を作りにくいという状況になってきているわけです。だから「難しいですね」というため息で終わったのでは何をしているのか分からない。要するに難儀な状況に入ってきています。
(認証制度への対処)
 そこで私は、今日も夕方から京都で会議があるのは有機農業研究会の幹事会なんですけれども、そこではこの認証制度の問題について、どういう考え方でどう動くかという事について考えているわけです。研究会活動に積極的に参加して努力している生産者の生産物を有機農産物と名乗っていかんのだったら名乗らなくても結構。だけど名乗っておいた方がいいにちがいないから、先の基準に従って作られているものを認証する必要があったら認証したらいい。しかし、いわゆる検査して認証するという制度ではなくて、研究会活動に参加し、研究会会員であって、自分の圃場を他の生産者や熱心な消費者にオープンにする。そして農薬をもし使う人があったら、何を使ったか、何故使ったか、今後どういう努力をしたら使わなくてすむかということについて他の生産者、消費者と一緒に考えながら、生産活動を続けるような生産者の生産物を尊敬し、取り扱えるような流れを作ろうと考え始めています。この様な考え方は、他の有機農業運動の中ではまだ出ていないと思います。少なくても、有機農業研究会の幹事会でそんな話をしても、農薬を使うことを認めているのかというレベルで受け取られてしまうことがあるみたいです。
(現実への配慮)
 このまえ、有機農業研究会の幹事会で発言してひんしゅくを買ったことがあります。今の農村では、平均年齢六五歳を越えようとしているんです。その農民に、田の草取りを炎天下でせよと誰がいえるのか。そんなら、除草剤使ってでも米作りが増えて欲しい。それが私の希望だと言ったわけですよ。これはとんでもない発言ですね。農薬を使うことを認めているととられます。だけど僕は、認めているといった意味でいったんではありませんよね。今の日本の農業の現実からして、日本の食糧自給を守ることの方が大事だ。無農薬よりもそっちの方が大事だ。それだけのことなんです。だけど、化学肥料を使って、農薬を使ってやっている農業は長続きしないから、有機農業の意味を真剣に考えて、無農薬無化学肥料の方向に向かって、みんなで努力しあっていこうよ、そういうことなんです。
(有機は命の働き)
 いま、ますますお金の時代になって、有機の表示が問題になっていますが、有機農業の基本的定義の問題も、いままでの話を整理する形でまとめさせてもらうと、有機農業の基本は「有機」にある。「有機」とは何かというと、命の働きにあるということです。
 有機堆肥を入れれば有機農業になるというのは、技術的な一面を表しているにすぎないんです。間違ってはいないんだけれども、それだけでは不十分なんですね。何故不十分かというと、ただ単に生産物を作るために入れているんであれば、命の働きを忘れてしまっていることになるわけです。命の働きのために有機堆肥を入れるわけですね。土の中の有機物が持つ働きが土の中の生き物たちの豊かな世界を作ってくれる。その豊かな世界に幸せな白い根を伸ばして作物が元気に育ったときに、いい野菜が育つ。そのために有機堆肥を入れるのであって、いわゆる野菜を大きくするために入れているのではないのです。命の働きのその大事な点を重視していく有機農業。命の働きというと、人間の関係を含めて、様々な物が入り組んで助け合っていくのが命を支え合う関係として大事です。そこにいわば売り買いでない、お金で済まない関係があったんです。生産者の立場、消費者の立場、お年寄りの立場、若い人の立場、それが協力しあっているところに、有機農業の意味がある。多様な物が補いあい、励まし合い、助け合う世界。それが共生の世界。そういう世界を大事にして、作り上げる関係、作り上げられる動き。それを私たちは大事にしてきたと思うし、これからも大事にしていきたいと思うわけです。
(身土不二)
 その原点にいまこそ戻らねばならない。商品か食べ物か。お金が命か。風土にあった食。風土というのはどういう物か。その土地が与えられた条件の中で様々な命が緑の世界を作っていく。それを大事にし、その世界の中で生み出された命、食べ物は命、その食を育てるのが、そうするとその命をいただく食もまた、その一つとして重要となってきます。一九七一年に有機農業研究会が設立したときに、食べ物をとることを重視した。「食べ物と健康」というのが雑誌の名前になっていると最初紹介しましたけれども、その世界、そのことを、知恵を交換しあい、助け合うことを皆でやることによって、作られる関係が大事だということが、提携の問題であった。そしてさらにもっというならば、食糧の自給を忘れて、農業の自立を忘れて有機農業はないのだと言うことも強調しておかなければなりません。生きるということは食べ物あってのものです。これは敗戦の時に食べ物がなくて困った経験を持っていますけれども、そのことは忘れて、ほとんど問題になることもない。しかし、食べ物がなかったら生きられないというのは、命の根本に関わる事です。そうするとその食べ物というのは一体どういう人から来るのか。いまはお金を出して、世界各国から買えば困らないではないか。
 輸入オーガニックという言葉あるんです。オーガニックとは有機ということです。無農薬、無化学肥料で三年たった農場で作った農産物なら、有機農産物なのです。それが輸入で入って来るんだから、輸入オーガニックだ。その方が日本の有機農業の農産物より安全性が高いのだと言う説明を聞いたなら、モノの世界で考えているなら、お金の世界で考えているなら、たぶんそっちの方が安いですから、人々はそっちへ流れるんです。しかしこれは命の働きを根本的に忘れてはいませんかということです。命の働きの根本は何かというと、身土不二です。身土不二というのは、土と体は不可分、一つの物なんです。土というのは、そのときは何を意味しているかというと、四里四方とか、三里四方とかいわれるその土地です。地場生産、地場消費ということです。
 いまでは、ガソリンを燃やして自動車を走らせ、あるいは野菜は飛行機で入るようになった。ほんとはないんですけれども成田空港農協、関空農協という言葉があります。そういう物が、有機物で、化学肥料、農薬を使っていないというだけで有機の名に下にどんどん入ってくる。
(最後に)
 そこを問う必要があるわけです。そういう意味でいうと、有機農業の問題はただ単にいまの基準認証で議論されていることだとか、いままで二十数年間やってきた有機農業のレベルを超えて、日本の農業をどう守っていくのかということを視野の中に入れながら考えなきゃならない。これはドンキホーテみたいな話です。もともと農業それ自身が衰えていく時代、そして有機農業なんてごまめの歯ぎしりほどの力もない。にもかかわらずやはりそうではないか。要するに人に受け入れられなくても、確かな物を確かと呼びかける運動があってよいと私は思います。
 そしてもう一言。有機農業運動をやっている人は幸せだと言いましたけれども、ほんとにそうだということを重ねて申し上げたい。いい有機農業をやっていられる方は、夫婦仲が良いです。例外がないとは言いませんけれども。私はほとんど例外を知りません。もう一度言いますけれども、有機農業には喜びありなんだということで、自信を持って進みたい。ありがとうございました。
    
<HR>
編集後記
<HR>
今年の収穫祭は武生を拠点として、、農業生産者と消費者を結ぶ先駆的な活動をしている「土といのちの会」のみなさんとの合同開催となりました。
 私たちの収穫祭は、農業とそれを担っている農業者が地域の中で共感を得、尊敬をわかちうるという願いを込めて行われてきました。そしてこれまでのどの会場でもたくさんの地域のみなさんに参加をいただき、私たちの願いや期待はかなえられると共に、会場となった農場主の方達の地域での存在の大きさも実感できました。
 国の政策もあって今ほど農業が軽んじられ、批判にさらされた時代は過去にないと思います。今回の合同開催が、生産者と消費者の連絡を通じて、農業の大切さをお互いに確認できればよいと思います。ご来場をお待ちしております。
        (屋敷)
 
<HR>
お詫び
前回(一九九九年9月一日)発行の「みち」が二三号になっていましたが、正しくは二二号でした。お詫びすると共に、訂正をお願いします。なお、今回お届けするものが二三号となります。
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│お詫び        │
│  前回(一九九九年 │
│ 9月一日)発行の「 │
│ みち」が二三号にな │
│ っていましたが、正 │
│ しくは二二号でした。│
│ お詫びすると共に、 │
│ 訂正をお願いします。│
│  なお、今回お届け │
│ するものが二三号と │
│ なります。     │
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