あぜみちの会ミニコミ紙

みち19号

(1998年秋号)

写真:坂井郡三国町 古道 豊


シグナル

福井市 中川清


 今年も、収穫の秋たけなわである。そしてまもなく勤労感謝の日(国民の祝日)がやってくる。
 あぜみちの会では毎年、この日「収穫祭」を催している。今年は永平寺ファームで開催することになっているが、大勢の方々に来て頂きたいものだと思っている
。  私は、勤労感謝の日は、働いている人に感謝する事だけだとは思っていない。むしろ働ける事を感謝する日だと思っている。即ち働いている人は働ける事を感謝し、働いている周りの人達はその人に感謝する事で、「みんなが感謝しあう事」が出来れば一番すばらしく好い事だと思う。そういう意味では、日本の農業を支えているのは、農村で頑張っている農民だけの力ではないのかもしれない。農民に働く意欲を与えている影の力を考えるのである。農業の後継者が、年々少なくなっているということが指摘されて久しい。農業先進地では未だしも、一般的には、若者に農業で働く意欲をかき立てる物が無いからだと思う。農業生産の意欲は、生産した物の需要があるかどうかにかかっている。即ち消費者が決定権を持っていると思っている。先日、山村で老夫婦が美味しい豆腐を作っているのに出会った。「朝早くから大変ですね」と言ったら、細い目を一層細くして「わしらの豆腐を待っていて下さる人がある限り、健康で頑張れますよ」と笑って言っていたのが忘れられない。炭焼きだって山村で焼く人が無くなったのではなくて、炭を買う人がなくなって窯が閉じられたのだと思う。需要こそが生産の最大の母なのだと信じます。毎日の食事だって作る人にとっては、食べてくれる人(美味しそうに、嬉しそうに)があってこそだと思う。
 食事は美味しいと思って感謝して食べると「唾液」の出がよくて消化も良いし、また唾液の免疫力が食中毒予防などにも好い効果があるという。食物が最初に入る胃は大事にしなくてはならないが、だからといって消化の好いものだけを食べていると胃が怠けてしまうので、時には繊維質の物も食べて刺激してやることが大切であることも知った。私は胃の摘出手術をしてから、食べられる事に特に感謝しているこの頃です。無くしてから、希少価値(感謝)を実感した訳である。なにはともあれ、この勤労感謝の日、生産者は食べていただける人に、また消費者の方も生産に汗を流す人に、お亙いに感謝の気持ちを再確認したいものです。


農業と教育は一体である

福井市 名津井萬


 私の親戚のIさんは、秋田県の大潟村(八郎潟干拓)に入植し大型稲作を経営している。  名刺には「あきたこまち」と刷り込んである。
 子息は東北大学農学部を卒業し、大型稲作経営の後継者として就農している。大潟村には数多くの大学卒業の後継者が稲作経営に参加しているそうである。
 最近、私のまわりにも大学卒の農業後継者が次々と誕生している。
 農業にこだわっている私にとって、誠にたのもしい限りである。
 私が二十才(昭和三〇年)前後の頃は、専業農家の青年は「ホウキ」で掃いてすてるほどいたと思う。それが何時の間にか、私は数少ない専業農家として生き残ってしまった。
 去る、平成五年の春頃、書店で「実業之日本」と云う雑誌を立ち読みしていたら、ある作家が「現在の日本の専業農家と云っている者は、ハンドルの切り損ねた者達である」と切って捨ててあった。私もハンドルを切り損ねた社会の落人かと、何か力の抜けるむなしさを感じた。
 その年、日本は冷害で米の大凶作に見舞われ、外国の米を緊急輸入までしている。あの作家はどうしているかなあと思った。
 二一世紀は、世界の人口増加に伴い食糧の生産が追いつかず、価格も急上昇すると云う見通しがあるそうだ。
 私は個人的に、心秘かに食糧難時代の到来を待ち望んでいる。そうでないと私は、どうも胸につかえたような物が下りない。  それによって、日本の農業問題はすべて解決を見ている。と同時に日本の教育問題もすべて解決するはずだ。
 農業と教育は一体のものであると思っている。
 昭和三六年に制定された日本の農業基本法が見直され、現在いろいろと検討されている。私も一農家として私見を述べさせて貰う場を与えてもらった。世界の二一世紀をよく見きわめ、日本の食糧の自給率をはっきりすべきと思っている。
 私はここ四年ほど続けて、福井県の新規就農者である青年達と語り合う「農業青年と語る会」の司会をさせてもらっている。現在、低迷する農業だが、農業への取り組みの意志の強い青年が続々と誕生している事は、本当に嬉しさと、たのもしさを感じている。
 特に最高学府出身の青年達に、小さく固まらず、のびのびとした大型の夢の農業経営を実現してほしい。何としてでも。
 彼らが農業に失望した時、日本農業の崩壊である。


自分流唐詩散策(7)

福井市 細川嘉徳


 「日本人は歩くのが早いですね。」通勤途上、京福越前線追分口で下車して一〇〇m程一緒に歩くようになった中国の青年 陳さん(二六才)が笑いながら話しかけます。「中国人は時間に余裕をもってゆっくり歩きます。」と話を続ける彼は、昨年一〇月から一年間浙江省から福井県に派遣された研修生。
 八月の末、会社から帰る途中待合室で一人電車を待って居た彼に、中国人と知らずにかけた「今晩は」の一言がきっかけで、以後通勤の途中(福井口から追分口まで)会えば必ず挨拶を交わすようになり、そのうち互いに名前を呼び合う仲となりました。僅か二ヶ月間の日本語訓練を受けただけと言うのに上手に話す彼と、色々と話をするようになり、時には簡単な中国語も習いました。
 中国では、正月元旦に皆でお母さんの実家へお祝いに行き、後一週間は親戚を行き来するということ、浙江省の気候は日本とほとんど同じで、梅雨があり夏は暑く台風もくるし冬になれば雪も降る。生まれは農村で水田が4反、畑が1反ほどあり、父は家で働き母は陳さんと同じ会社で働いている。作物は米・麦・大豆をはじめ、果菜類も福井とほとんど同じとのこと。そして何よりスイカが安くておいしいと自慢する。中国の田舎にも近年機械が入り楽になったと言っていましたが、農繁期には四川省から来る出稼ぎの人を雇うとのことです。追分口駅の近くで動いているコンバインを見て「これ便利ですね。中国はまだ導入に時間がかかります。日本は何をするにも便利ですね。」とも言います。このように通勤の時一〇分程ですが中国の香りを運んでくれます。
 「ハァ〜イ ホソカワさん・・・・・・。」必ず先に笑顔で声を掛けてくれる陳さんは、電車の乗り降りも私より先にすることはないし、空いている席を勧めてくれます。路上で別れるときも進路を譲るなど、年長者を大事にするさりげない気配りが自然でさわやかです。
 研修があと二日で終わるというとき「これ中国で使っています」と言って名刺を取り出して、中国への電話の掛け方まで教えてくれるのです。もう恐らくは再会出来ないとの共通した思いの中に、ついに最後の日(九月二二日)が来てしまいました。「帰りに駅で待って居る」との陳さんの言葉は、空しく台風七号でオジャンになってしまいました。
 人生出会いと別れはつきもの、ふと彼を思う惜別の情は何だろうと自問するとき、その理由が解らないままに李白の「友人を送る」が胸を過るのです。

青山横北郭
白水遶東城
此地一為別
孤蓬万里征
浮雲遊子意
落日故人情
手揮自茲去
蕭蕭班馬鳴

青山 北郭に横たわり
白水 東城を遶る
此の地 一たび別れを為し
孤蓬万里に征く
浮雲遊子の意
落日故人の情
手を揮って茲より去れば
蕭蕭として班馬鳴く


わが解体 高橋和巳に導かれて@

福井市 屋敷紘美


 一九六〇年代の半ばから一九七〇年始めにかけて、僕は青春時代の真っただ中にいた。
 この時期、世界的にも若者を中心に猛々しい興奮の中にあって、世界が変革しうるものとして現れていた。「造反有理」という旗を掲げて、既成の存在すべてに異議申し立てが行われた。
 当時、学生や知識人は誠実にこの問題提起を受け止めて、自己に向けた異議申し立てを試みた。高橋和巳氏はその中でも最も過激に自己告発を実践した作家であり、京都大学の助教授であった。彼はその苦悩のために健康を害し、一九七一年に三九歳で夭折した。肝臓ガンであった。
 高橋和巳氏の作品の中で、一読以来三〇年余にわたって僕を呪縛し続ける言葉がある。僕は自分の人生のあらゆる時期に、この言葉に捕らわれて、進路を選んできたように思う。  評論集「わが解体」の中から引用する。   「私が自己批判せねばならないことがあるとすれば、その第一は、元々それが解っておりながら、〈浮き世の義理〉とでもいうか、それ自体は悪いものではなかろうが、自己の営為の原理とは抵触する別な法則性に従って身を処し、懸命に異質な原理の間の調和をはかろうとしていたこれまでの自分の精神のありようであった。」
 勿論、平凡な一市井人である僕が高橋氏と同じ道を歩めるはずはない。必ずしも愉快なことばかりではない世の中を、ただ迷いながら生きているだけである。いつしか〈浮き世の義理〉にどっぷりと漬かってしまうことを恐れ、そこで自分のアイデンティティが失われることに脅えて、自ら〈浮き世〉と距離をおきながら生活する習い性になった。そして自分の原理に照らしてギリギリのところで譲れない時以外は「懸命に異質な原理の間の調和をはかろうと」つとめてきた。かくて僕は、「硬い、近づきがたい、暗い」といったあまりかんばしくない評価を周囲からいただくことになったのだが……。
 僕が生活の糧をいただく農協や農村の世界は日本社会のなかでも、〈浮き世〉的要素が色濃く残っている所であると思われているが、人が想像するほどではない。たしかに、年齢が高くなるほどその傾向がひどくなることはあるにしても、若い人や、積極的に他の世界と交わりを持とうと努めてきた人々は、相手の心に土足で踏み込むような粗野なことはせず、快い距離をたもちながら付き合いを維持し続けている。農民の間にも確実に村のしがらみから距離をおいて自分の世界を構築している人が増えている。一面寂しいことかもしれないが「個」の尊重の上にたった新しい農村コミュニティーが形成されつつあるのだと思う。
 今、世の中を席巻している「市場原理」や「競争原理」は決して人類普遍の原理ではなく、社会主義体制やその思想が現実社会で破綻した反動として、その対立軸にあった資本主義の原理がむき出しで主張されているにすぎない。それは早晩いきづまりが来るだろう。一九二〇〜三〇年代の歴史も、今現在の状況もそれを証明している。
 地球上では数万年にわたって自然や人間同士が共生してきた。この共生こそ普遍の原理だという主張が最近一部協同組合主義者によって行われている。僕自身もその主張をする一人である。
 農村では長い歴史の試練を経てこの「共生」を実践してきた。そしてこれまでの閉鎖的な共生ではなく、民主主義を思想的な原理とする共生が芽生えつつある。戦後農村が自己解体の過程で、若い人達が力を得て、漸く新しいコミュニティーが形成されようとしている。古い革袋に新しい酒が盛られようとしているのだ。
 僕は農村の「わが解体」が、長い時間をかけて実を結びつつあることを感じ、なかなか解体できない自分が励まされているように思う。いずれにしても、僕が彼岸に行くときは「わが解体」を小脇に手挟んでいることは間違いない。

ボランティア再考:その4(最終回)

清水町 小野寺和彦


▽ オウムとボランティアが照らし出す現代社会
阪神・淡路大震災や重油流出事故に参加した多くのボランティアとオウムの信者に共通している部分がある、というと多くの方はいぶかしく思うにちがいない。次の文章は両者の背景の同質性を指摘したものである。
「どこからともなく湧き出るように現れた多数の献身的な若者たちは、突如出現したいわば「苦難の共同体」への参加者であった。被災住民と連帯し、救援活動に没頭することで、はじめて(?)生の手応えを実感できたともいえる。非常時における若者たちの生き生きとした活躍は、日常生活でままみられる生気のなさと矛盾するものではない。このことはオウム真理教に入信していった若者たちも、チャンスさえあれば賛嘆され感謝される「愛すべきボランティア」になり得たことを物語っている。また、地震被災救援の若者たちも、ことと次第によっては大人たちが顔をしかめる、オウム真理教の「恐るべき出家者たち」になっていたかもしれないことを暗示している。」(芦田徹郎「愛すべきボランティアと恐るべき出家者−生の手応え求めて若者はどちらへも」毎日新聞 1995.6.7)
芦田氏は多くの若者が震災ボランティアに参加した背景とオウムへの出家者を生み出す背景にある共通点を見出す。それが生きる「意味への飢え」であるというのだ。この記事の最後は「私たちは、日常の普通の生活の中で、若者たちが生きる意味を確かに実感できる社会を、再生できるであろうか」と結ばれている。
福井新聞のアンケートによると、今回の重油流出事故に参加した感想の中で「海がきれいになった」の他に、「他の仲間との一体感があった」「自分の成長につながった」という答えがかなりの高率を占めたという結果が出ている(福井新聞1997.4.26)。このほかにも「三国で人生が変わった」「人と触れ自分再発見」(福井新聞1997.4.18)などの感想も聞かれた。今回の重油流出事故は大変不幸な出来事ではあったが、自分が生きることの意味、自分と社会(もしくは人と人)との関係性を取り戻す格好の機会だったのではないか。しかし、裏返せば日常の生活において自分の存在価値や無意識的にでも生きることの価値を見出せないでいる方々が多くいることにならないだろうか。こういった非日常的な災害でもない限り生きる意味とか、他者との関係性を取り戻すことが困難な私たちの社会とは何といびつな社会であることか、と思う。

▽ 近代の矛盾を超えるためのボランティア
 実はボランティアが向き合っている個々の問題の背景には近代が生み出した様々な矛盾があるのではないだろうか。阪神・淡路大震災のあとNHKがとりまとめた報告の中に、取材の趣旨が次のように述べられている。
「しかし、日本人は戦後五〇年を、物や情報を大量に作りだし、消費し、捨てさるという忙しさの割には幸福を得られない虚のサイクルでやってきた。言葉や思想さえ流行のように消費される。ボランティアを行政の下請けとか、たかがボランティアと冷笑的に語るのは簡単だ。だからこそ、この本はせっかく生まれた小さな希望を育て、大きな流れに結びつけることを願って書かれている。もちろん、もちあげるだけではあまり意味がない。ボランティアが日本社会の変革の力となるための条件を考え、拓き得る地平を展望したい。」(NHK取材班『ボランティアが開く共生の扉』NHK出版1995 「はじめに」より)
 ここでは、ただただ経済成長のためだけに突っ走ってきたこの戦後五〇年をもう一度問い直す―その役割をボランティアに求めている。
 そのためにはボランティアが「困っている人たち」「困った状況」に対する直接的な支援をするというだけの単なる労力奉仕にとどまっていていいわけがない。なぜそういった事態が起こるのか、原因は何か、それを根本から改善するにはどうしたらよいのか、といったことまで思い巡らす必要があるのではないか。これまで問題を生み出す仕組みにはタッチせず、根源的な問いかけもしないで対処療法的な活動に専念するのがボランティア活動なのだという通念があった。しかし様々な問題を「餅は餅屋」とばかりに専門家に任せておいた結果が近代の様々な問題を引き起こしてきたのではないだろうか。現場で、組織にとらわれることなく自らの自発的な意志でボランティア活動に関わる人たちこそ、今の社会の矛盾や問題点を肌で素直に感じることができるはずである。だとすれば、彼女や彼らこそが「日本社会の変革の力」になってしかるべきではないか。その意味では先のNHKの取材の視点は大胆にみえて、極めて本質を突いている。誰もが注目するような大きな問題が起きたから、よっこらしょと腰を上げるのではない。みずからの問題意識でもって、ひとりでもよいから行動を始める。それがボランタリー精神の基本である。

▽ 新たな価値観の模索−個人レベルから社会のレベルへ
タンカーの漂着した三国町安東で和牛を飼う山崎一之氏は地元の重油回収に関わった体験からある雑誌に次のように書いている。
「この重油流出事故はたしかに安島地区の海の汚染問題には違いないが、むしろ、私たちの便利な生活を支えている下の部分で、日本の海が、自然環境そのものが危ないのだという、より大きな視点でこの事態をとらえる必要性を感じはじめていた(下線筆者)」(「重油に襲われた町からの報告−ひどい話」 『地上』3月号 1997) 
このようにして山崎氏らは「後世に残して環境問題を考えるきっかけにしたい」という目的などからナホトカ号の船首保存運動を始めている。ただ地元では重油流出事故は早く忘れてしまいたいいまわしい事件ということで、山崎さんらの提案に反対の声も多いという。
ボランティアが個々人の生きることの意味探しや特定の問題への対処療法的(これが必要でないといっているのではない)活動にとどまっているのであれば、単なる労力奉仕活動に終わってしまう可能性がある。しかし、地域社会(場合によってはグローバルな視点)レベルでの新たな価値観の模索・創造へと高められ、力量をつけていく過程で行政や企業との対等なパートナーシップを結ぶ―つまり本当の意味での市民参加の方向性が見えてきたときに、私たちはボランティア活動に未来社会の理想を託すことができるのだと思う。単なる"ボランティア"活動から一歩踏み出そうとする山崎さんたちの発想はそういった新しい流れの萌芽である。だから今、ボランティア活動をやっている若者たちは(中年もいるだろうが)、潜在的な未来の世直し仕掛け人なのだ、と考えたい。


編集後記

 新しい農業基本法に関する調査会報告が出されて、二十一世紀の農業・農村の方向が示された。あくまでも政府のそれであるけれども……。
 旧基本法が構造改善と選択的拡大、農業者には勤労者並みの所得という比較的明解な方向性をもっていたことと考え合わせると、少しくぼんやりしているというのが編集子の第一印象だ。何事も先行き不透明な世紀末であってみればやむを得ないのかもしれない。  むしろ、農業者側から見てその方が選択の自由が確保できることもあるだろう。また政府に頼りっぱなしだった農業が自立を要求されているとも解釈できる。要はその人自身ということだろう。
 あぜみちの会恒例の収穫祭は今年は永平寺の道下さんの農場で開かれます。道下さんを含めてこれまで5回の収穫祭で会場となった農場の農場主の方々は、それぞれ方向は違っても自分の頭と足で農業を担ってこられた人達です。新農基法に左右されることなく、これからも独自の世界をもたれることでしょう。
 その道下さんとたくさんの仲間の世界に読者の皆さんをご招待します。(屋敷)

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