あぜみちの会ミニコミ紙

みち17号

(1998年春号)

桜の龍翔小学校
写真:坂井郡三国町 古道 豊


シグナル


福井市 中川清


 皆さん、今冬風邪を引きませんでしたか。
 今年の風邪は、香港型だか何か知らないがなかなかしつこいらしい。近くの学校でも学級閉鎖で 休みがあったとか聞く。
 風邪は、冬に多いが、春風邪、夏風邪というのもある。油断した時引く風邪である。 ぞくぞくとした寒さ(寒気)に合わぬのが予防の方法のようだが、着物を重ね着するのも大切だが、人の体はうまく出来ていて、外気温が下がると体内の血管が収縮し、体温を調節する働きがあるらしい。この働きが大切という。
 風邪ひきの原因には、いろいろあるだろうが、うたた寝をすると風邪を引くともいう。 とくに飲酒して、うつらうつら寝ていると体温調節の自律神経が働かないので、急激な周りの温度の変化についていけなくて、風邪引きの原因になるということらしい。
 冬山の遭難の時も眠ると凍傷にかかったりひどいときには凍死するから寝ないように注意するという話も聞いた。
 考えてみると今の水田農業も、これまで作りさえすれば良いという慣行にあぐらをかいて、うたた寝のような状態で昨今の急激な環境の変化についていけなくなり、風邪を引いてしまった状態なのかもしれない。
 風邪の引き際には発熱があるが、熱の出ないのは免疫力が弱いから(無いから)で自覚症状が乏しく余計恐い。
 今の農業には、この発熱も無いのかも知れない。  昔から、「精農は草を見ずして草を取る。中農は、草を見て草を取り、堕農は草を見ても、草を取らず」とか云う。
 病気は、早期治療が一番だというが、本当は、早期治療は二番で、一番は、病気にならぬための対策が一番であることを、私は一年余前の自分の胃ガン発見で身をもって知った。  農業はもう風邪で発病してしまったのだから、二番でも三番でもよい、私の胃ガン発見の時みたいな適切な手当が必要なのではあるまいか。
 しかし、「病気」は医師と本人が一体になって治るものというから「病気」の「病」は治療できるが「気」の方は本人の意識が大事で、その気にならず、うたた寝をしていたのではどうにもなるまい。
 意欲の無い患者には、良薬も効きません。
 もう春です。
 寝心地が良くても、目を覚ましましょう。

一九九八年我が家のトピックス第一号

福井市 名津井萬


 私は毎年一月に、前年の「我が家の十大トピックス」をメモ書きしている。  過去には、十二、三程あった年もあったが、最近は平々凡々で「孫の学校成績が落ちた」も上げなければ数が足りない
。  平成十年、最初のトピックスが誕生した。
 三月初旬、一人の女子大生が春休みの期間に酪農実習をしたいと、私の牧場(乳牛三二頭)を訪ねてきた。Y大学農学部獣医学科一回生のE子さんである。早速、私は快諾した。朝夕二時間づつ実習してもらう事にした
。  私は今日までに、長期農業実習生(三ヶ月から一ヶ年)三名、短期で数十名をあづかった経験がある。
 E子さんは、福井市内の有名な洋菓子店「S」の長女で、子供の頃から動物が好きで、動物病院を開きたい夢があったそうだ。
 朝夕、車で来場し、私の牧場では濃厚飼料、粗飼料の給与、糞の始末、敷料入れ、子牛の哺乳、牛舎内の掃き掃除などを担当してもらった。
 一輪車、フォーク、クワ、スコップ、竹ぼうき、手カギ、ナタなどを使うのは初めてという。最初に、それぞれの使い方を教えた。三日目頃には見事な使いこなしには驚いた。  E子さんは、中学では剣道をやり、高校ではソフトボール部の投手で四番打者だったそうだ。道理で腰がしっかりと安定している。それに体格もよく、おまけに美人である。  また高校のクラブ活動では、生物と園芸のクラブに所属していたそうだ。生あるものへの愛情と、命の大切さを身につけた心やさしい理想の女性である。
 牧場実習は約二〇日間ほどの短期間であるが、朝食は私の家族と一緒に食べ、酪農家の自然の生活の一部を味わってもらった。
 私の信念として、人は共に食事をすることこそ、お互いを理解し合い、人と人の最大の人生教育の場と思っている。そしてE子さんに伝えたいと努力したつもりだ。乳牛への人工授精も初歩の段階だが体験してもらった。でも乳牛の分娩の時の助産を体験してもらえなかったことが残念だった。
 私の牧場で、農家での経験が長い人生の中で、少しでもE子さんの「糧」となってくれればと願っている。そして素敵な女性獣医師として、福井県内で活躍してくれることを祈っている。
 私の牧場に時折、幼稚園や小学校の児童が先生に引率されて見学に訪れることがある。そんな時、私はどんなに農作業が忙しいときでも、喜んで対応しているつもりだ。そして私の牧場を訪れた児童達が、将来どんな道に進むかしれないが、私の言っている純粋に一生懸命の農のこころ、命のある稲や牛への思いやり、感謝の気持ち、責任感、そして農への理解が少しでも育ってくれれば、宿ってくれればとの願いが私にある。
 昨秋、あぜみちの会の収穫祭が織田町の山崎農園で開かれ、私は生後間もない子牛二頭を同伴した。ワラの中に坐って、子牛の肌に頬すり寄せている姿は感動の一言である。  子牛は小さな子供にも絶対に危害を与えない動物である。
 今年から私たちの所属する酪農会議では「酪農教育ファーム」が発足することになった。乳牛とのふれあいと農作業をすることで、命の大切さや自立心を養ってもらい、日本人のこころの荒廃を防ぎ、農業の教育力を発揮させる目的のためである。
 農業は人間教育の原点、と私は信じている。

黒 米

福井市 増田弘子


 先日、友人からとても珍しい食べ物を頂いた。
 一見、赤飯のようであったが、説明によれば黒米を炊いたものだという。黒米については、以前テレビで見たことはあったが、わが口に入ることがあろうとは、思ってもみなかった。
 しげしげと眺める。少し細長で、あずき色をした米はつややかで一粒一粒がしっかりと形を主張し、しかもパサつかず、弾力に富んで光っている。
 よく見ると、中に小さな豆が入っている。薄緑色だ。顔を上げ、友人に目で問いかける。すかさず「これはね」と話してくれる。友人が中国から持ち帰った一握りの豆を、黒米を栽培している人が、年を重ねて育成し、ようやく人様に配れるだけの収穫ができるようになったのだ、という。友人は、このほかに自家製のみそを私の手に残してにこやかに笑って去った。
 さっそく孫を呼び、一緒に試食してみた。米はかみしめると甘い。豆は小豆のようでホロホロとおいしい。古代の人もこんな風にして食べたのであろうか。孫は、「昔は、神様にささげた食べ物だろうね」と、少しずつ味わっている。
 いつものほほんとしている私にも、これを作った人、届けてくれた人の黒米ご飯に込められた心が、とても重く感じられた。いつもスーパーで手軽に食べ物を求めている自分を見つめ直すきっかけになった黒米。これを作った人に会ってみたいと、今思っている。

自分流唐詩散策(五)

福井市 細川嘉徳


 青天の霹靂と云う言葉を実感するようになったのは最近のことです。大切な親友が次々と入院しています。尊敬する友人Oさんもその一人。会社勤務を定年退職され、いよいよ人生の佳境に入られた昨年の初夏、突然の脳梗塞で入院。あっと云う間に右半身麻痺、身障者の仲間入りを余儀なくされた本人は勿論、周囲の方々の心痛は量り知れません。そのOさんが奥さんの車で退院挨拶に来られました。近々に退院との話は聞いていましたが、こちらの突然は本当にうれしいものです。
 車の窓越しに明るい笑顔を見せているOさんとは、趣味を通じてかれこれ二〇年のお付き合いをさせて戴いています。温厚・実直で豊かな経験から滲み出る人柄は、人生の良き先輩として、時にはご意見番としていつも教えられることが多いのです。
 一昨年の秋、Oさんから頂いた会報の原稿の内容について自宅にお訪ねしたことがあります。数多くの国内・海外旅行の写真を見せて頂きながら話がはずむうち、Oさんは時々「絵日記」を書き、特に旅先では必ずスケッチをして、それを日記にしているとのことです。何ともうらやましい心の「ゆとり」です。すばらしい意外な側面を感じました。そして原稿の内容の纏めについては、旅先のスケッチ一枚と「Oという人間が居ると云うことを書いてもらえればいい」との重いお土産を頂きました。
 ここにOさんから中国旅行のお土産で戴いた「掛け軸」があります。大好きな王維の詩が隷書でどっしりと書かれています。時々掛けて楽しんでいますが好きなものは何回見てもいいものです。
  送元二使安西  王維
 渭城朝雨A軽塵
 客舎青青柳色新
 勧君更尽一杯酒
 西出陽関無故人

 元二の安西に使するを送る
 渭城の朝雨 軽塵をAし
 客舎青青 柳色新なり
 君に勧む 更に尽くせ一杯 の酒
 西のかた陽関を出づれば  故人無からん

 別れの朝 渭城の町は夜来の雨が軽い土ぼこりをしっとりとうるおしている/旅館の前の柳は芽吹いたばかり/それが塵を洗い落とされ水を含んでよりいっそう青青と見える/いよいよ旅立つ元二君 さあもう一杯酒を飲みたまえ/西のかた陽関という関所を出たならばもう一緒に酒を酌み交わす友達もいないのだから

   人生は「旅」であると云われます。Oさんの入院もある意味で「旅」かも知れません。最初に見舞いに行ったとき「人生は何時、何が起きるかわからないから気を付けるように」と反対に激励されました。その後数回の面会の度に厳しいリハビリの成果が確実に出ています。リハビリの成果は一に本人の気力と希望にかかっています。
 先日退院したOさんを訪ねると、奥から杖を使って自力で歩いて出られたのには驚きました。また仲間に入れてほしいと瞳を輝かせています。
 Oさんには何の手助けも出来ないのが残念ですが、Oさんの「旅」を見守り、時には楽しい話題を持ち寄って心の応援を続けたいです。そして何時の日にか互いに美酒を酌み交わし「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」を詠いたいと思います。
 Oさんの「旅」はまだ続いています。

後世に残る「かたち」と「こころ」

上志比村 前川英範


 先日、小学校の修学旅行以来一六年ぶりに奈良へ行って来た。
 きっかけは、「木のいのち木のこころ(天)」という、法隆寺宮大工の最後の棟梁西岡常一氏の本を読んだことであった。法隆寺の五重塔の大修理、薬師寺の金堂と三重塔の建造の際の棟梁である。木と職人の性質(癖)をうまく組み合わせ、本物の建物をつくる。この本を読んで、法隆寺を実際にみたくなったのだ。
 法隆寺五重塔は建てられてから千四百年近く経つのに、今でもその美しい姿を変えていない。五層の屋根の端が一直線で並び、また各層の四隅の柱の間隔も上に行くほど狭くなっている。すべての点を結んでいくと、空の一点を頂点にして二等辺三角形をかたちづくっているようで、地から空へとつながる美しいかたちであった。仏教伝来の地である中国にも塔はあるが、屋根は短く全体としてずんぐりした印象がある。雨が多い日本では、屋根は長くなければならない。この長い屋根が五重塔の美しさだと思う。
 境内の一角に、五重塔に並び建つ金堂の構造を示す模型があった。その構造をみていると、昔理科の時間に習った「てこの原理」を思い出した。長い屋根の中心より内側下方にある柱が支点となって、上の階の柱がその屋根の内側を上から押さえ、屋根の支点より外の部分とのバランスがとれている(図)。実際にはもっと複雑な構造をしているとは思うのだが、おそらくこの構造を5段繰り返してできたかたちが、世界的にも美しい五重塔になっているのであろう。
 以前法隆寺の五重塔は地震がきても、程良くしなり地震の揺れを吸収できる構造になっていると聞いたことがあった。柱と屋根が各層毎に独立しているので、地震にも耐えられるのだろう。もし鉄筋コンクリートのビルのように頂上から地下部までまっすぐの柱であったなら、地震の時には揺れに耐えられず、根本からポキンと折れてしまうだろう。  また木にもそれぞれの性質があるらしい。いつも右回りの風を受けていた木は柱にすると左回りでねじれようとする。多々ある木の性質を知った上で建てるから千年二千年経っても、そのままのかたちなのである。飛鳥時代の宮大工の知恵と技に感激しきりであった。  現代にこれだけの塔を建てた人が先の西岡棟梁である。薬師寺にはもともと奈良時代から残る建物は東塔しかなかったが、金堂再建の後、西塔も再建したのだ。三重塔とはいえ各層に裳階(もこし)がある六重になっており、法隆寺五重塔に匹敵するほどの高さがある。建造当時を偲ばせる朱色の柱と、金色の装飾の美しい塔だ。東西の塔を見比べると、再建した西塔の石の台が五〇センチほど東塔より高くなっている。これは塔の重さで少しずつ沈んでいき、一〇〇年か二〇〇年後に東塔と同じ高さになるのだという。今だけ良ければいいのでなく、将来のことも考えて今出来る最高のことをしておく。おそらく飛鳥、奈良時代の宮大工も同じ思いだったのであろう。長く残る「かたち」には、そのようなかたちにあらわれるべき「こころ」があるのだと思う。「かたち」だけではいけない、「こころ」がともにあってはじめて意味を持つのだと思う。
 農業・農地は祖先から永く受け継いできたものである。現在、経済効率を優先の近代農法への反省としていろいろな取り組みが試されている。また子孫に農地を残すためとして、土地改良も行われている。今私たちはどのような「こころ」をもって、それをどのような「かたち」ににして残せばよいのか。今出来る最高の「かたち」とはどんなかたちなのか。福井への帰り道、そんなことを考えた。

坐百姓

宇野 肇


大地での上に人が二人、それは男二人でも、女二人でもない。男と女の二人である。 これが坐という文字である。もっとよく見よう。
土はつちとよむ。分解すると+と−つまり陽と陰である。もっと分解しよう。
+の縦軸、これは悠久の時間だ。+の横軸は、地上の空間である。この+するところが只今の如、正に生かされている瞬間だ。
百姓の上に坐を冠すると坐百姓となる。男と女が大地の上ひたいに汗しての農にいそしむ。それが文化だ。

平成十年一月一九日
今年初の雪、天も地も生きている


大地と生命

宇野 肇


生命 この響、この鼓動
全宇宙の奇跡がこの一点に集中
人智、文明がいかにすぐれていても
この生命には太刀打ちはできない
生命は如来である
幼児は観音様である
文明は地球を破壊する
文化は大地と生命にやさしい
それがいまやっとわかってきた
地球上のどんな生命でも
太陽と大地の両親から生まれた
それも幾十億年もかかって
それは万余の条件が偶然に
しかも必然に又奇跡的に
一つになった時生命は生まれた
平成十年一月十一日


読者からの便り(1)

宇野 肇


 中川先生、みち十六号をお送り下さいまして有り難うございました
。  先生の光に向かってのシグナルすごいです。
 編集も写真を入れて立派です。できあがったものは一見できますが、一字一字編集の努力は大変なのです。大いにがんばって欲しいです。
 先生の年賀状の写真良かったです。孫に囲まれてほのぼのです。孫は大人に済度してくれる観音様と私は思います。孫は家の宝、国の宝です。
 同封の「大地と生命」の中にも孫のことがあります。
 昨年六月に中国の長江三峡下りの一こまも読んで下さい。
今年も又、米は生産費以下の値段ですけれど、こつこつと土の上で汗を出します。
二月一日


米屋から読者の皆様へ

立矢米穀店 代表 山本茂司


一、おいしいご飯の炊き方の最大のポイント
〈蒸らしが終わったら即ほぐす〉
 信じられないことですが、現実に全体の二〇%の消費者が実行しているにすぎません。二〇年間取り組んで実感しております。八〇%は×。
 皆さんの精進込めたおいしいお米ですが、炊き方アドバイスは電器店、米穀店、スーパーそして母親も教えておりません。
 米屋同士も話しても判らない。
電器店に言っても、今のお釜はIHなのでほぐす必要がないのでは?
 メーカーのセールスマン(生産事業本部)に話すと、そういうことですか!と理解下さり、全国で説明しているとのこと。
 パンフレットにこのことを明確に入れて欲しいと神戸へ電話して了解を得る。
 洗う、水加減、炊く、ほぐすは消費者の心に託しております。
 当店は、初めてのお客様には必ず炊き方を聞きます。
 地道ですがこつこつやっていきます。
 もっともっと教えて上げたいと思う昨今です。
 また、正しく炊かなければお米の良し悪し、水加減できません。自信を持って言い切ります。
 ご飯炊きアドバイザーとして同志を募っております。
二、ダイオキシンを分解するピロール農法
 福井の地で二〇年前より地道に育ってきたピロール農法とは!
 人類に酸素を与えてくれた光合成微生物「らん藻」、またの名をシアノバクテリアといい、ピロール資材を土壌に施すと活発な光合成活動により酸素と有機物を産出する。
 土壌を豊かに作り換え、朝鮮人参が七年かけて作る有機ミネラル結晶をいとも簡単に作り上げてしまう。
 水溶性で、抗菌力、抗酸化力の強い血液や細胞水となって抵抗性免疫力を高めてしまう。
 アトピー児の栄養相談の担当をしている栄養士より、三年前より米アレルギーの子供が増えてきた。アレルゲン物質を除去した米などを食べています。特に農家の子・孫の場合、生産した自家米が食べられないため、嫁・姑のトラブルがあるので困っているとのこと。
 ピロール農法は自家生産できるので、希望がもてるし、不和解消に役立つので勉強したいと言われました。
 農村部にもアトピー、アレルギーの波が寄せている。
 ピロール米、ピロール作物は、農薬分解朝めし前、サリンの一〇〇倍の怖いダイオキシンを数週間で半減させてしまうピロール農法により、アレルギー持つ方に食していただいております。
 今立在住酒井理化学研究所酒井弥博士により
○ピロール農法(農文協出版)
○食卓革命(晩聲出版)
○環境革命(仮称)平成一〇年出版予定
高ミネラル、高亜鉛
ミネラルの体内吸収率が高い。
弱アルカリ性の作物(血液を丈夫にする)
 これだけの機能的作物ですが、いとも簡単な作業でできるのです。私はこれまで米屋として、おいしい、まずい、高い、安いしか考えていませんでしたが、健康、安心を得られるピロール作物に出逢って、環境の悪い中、お客様に健康と安心を提案していきます。  生産にあたる皆様にお願いがあります。
@アトピー、米アレルギーの子供達が安心しておいしく食べて下さる作物を作っていただきたい。
Aダイオキシンを分解する方法があります。今までに排出されたダイオキシンを地表から消すためにどうしたらよいか?
ぜひこの二点を考えていただきたいのです。

編集後記・ひじ掛け椅子のトゲ

福井市 屋敷紘美


 昨年四月に、勤める職場で人事異動があった。僕は「次長」という辞令をいただいた。強がりでなく、僕はあまり「椅子」にこだわってはいないので特別の感慨はなかったが、悲しいことに、日本の組織では相応の地位につかないと自分の満足のいく仕事ができない仕組みになっている。その意味では有り難いことだと思っている
。また、同じような年齢の同僚がスイスイと僕の上の階段を歩いていたりすると、多少はさみしさやあせりも感ずるから、我ながら「悲しい性」と言わざるをえない。
 ところで、次長に昇進した時真新しい机と椅子が与えられたのだが、運ばれてきた椅子にどっこいしょといった調子で腰を落とし、ひじ掛けに腕を預けた途端、右腕の付近くにかすかな痛みが走った。驚いて腕をはずし、それらしい付近を指の腹でなぞってみるとビニール製のカバー越しに小さな突起物がある。
少し強く押すとビニールが破けて鋭いトゲのようなものが顔を出した。新しく買ったものだろうし、取り替えてもらおうかと考えて、受話器に手を伸ばした時、ふとある思いが頭をかすめた。
 「いや待てよ。このままにしておこう。」

 僕はこれまで「理屈」で仕事をしてきた。いや、仕事だけではなくて自分の人生をも「理屈」で割り切ってきたように思う。「自分の進む道はこうあるべきだ、こう考え、行動するのが正しい」といった具合だ。何かの加減で自分の意に反する言動を余儀なくされたりすると、あとでひどい自己嫌悪に陥ったものだ。
 この性格というか、信念は僕の社会生活に時として手ひどい打撃をあたえることになるのだが、中々変えられなかったし、今では軌道修正は不可能だとあきらめてもいる。この生き方は他人から批判されたりすると、自分の実存を脅かされることになり、批判には非常に敏感にならざるを得ない。多分第三者からは「批判拒否体質の男」という印象をもたれるだろう。本人はいたって小心者なのだが……。
 かくして、僕は自分の「理屈」を補強するために少しでも他の人より勉強したり、知識を広めなければという脅迫観念にとり憑かれてきた。年を経た今はもう「人生の習慣」になってしまった。
 こうした長年の「努力」が実ってか、最近では滅多に他人に言い負かされることがないばかりか、納得させられるかは別として、むしろ言い負かすほうが多くなった。  人は皮肉をこめて、僕を「理論家」などと呼んだりする。

 最初に書いたように、僕のような者でも年功序列の企業社会の恩恵を受けて、課長、部長といった地位に預かると当然、自分の下で仕事をしてくれる人と議論したり、指示したりする場面が多くなる。自分としては議論するときは対等にと思うのだが、やはりに相手にとっては威圧的に写るらしい。
ましてや僕は「理論家」である。次第に彼らは沈黙するようになる。逆に僕はワンマンになる。しかし常に僕だけが正しいわけではない。
僕が正しいのは僕に対してだけである。仕事や職場がスムーズにいったり、緊張感を持続させるために、若い時にあれほど恐れていた自分に対する批判や諫言を、今はむしろ求めている。しかし、だれも言ってくれない。
ただ、妻だけがその役を引き受けてくれているのだが、彼女から厳しい言葉を浴びせられると、甘えもあってつい不愉快な顔をしてしまう。
新しい椅子にトゲを発見した時、電話から手をひかせたのは、このトゲを自分に対する批判者にしようという考えがひらめいたからである。
われを忘れた時、この神経にヒリヒリする痛みで自分を取り戻そうと考えたのだ。
この回路があれば他人に不愉快な思いをしなくてすむ。これも多分僕の憶病さのあかしなのだろうけれども、いまのところは順調に作動している。

一九九八・四・一


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