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 日本海の小さな漁村の自主講座

「泊の歴史を知る会」のあゆみ

   --- 国境を越えた友情「韓国船遭難救護の記録」を出版 ---

 

 

 

ハア〜

 とまりゃ(泊)な〜 よいとこな〜

 朝日をうけて

 お山な〜おろしはな〜 そよそよと

 アリャ アネサン ヤレコノ

 オイヤサノサ〜イ                「泊音頭」から

 

                       


海幸山幸の村
 泊は、若狭湾に蟹のハサミのように突き出した半島の先にある僅か23戸の小さな漁村。村人はこの半島の海の幸、山の幸の恩恵を受けて生計を立ててきた。

 村の中心に、彦火々出見之尊と豊玉姫を祠っている「若狭彦姫神社」がある。海彦幸彦や竜宮にまつわる伝説、朝鮮半島からの渡来に関わるような話も伝わっている。

 つい二、三十年前までは、半農半漁の村で、魚から米、野菜まで自給自足でまかなっていた。村の衆は山仕事、海仕事を通して、たいていは顔をつきあわせていた。しかし、漁業の不振、観光ブームなどの到来、高度経済成長による消費生活の変化など、村の産業や生活は著しく変貌していった。顔をつき合わせることも少なくなり、地域の連帯感も希薄になってきた。村の伝統行事や伝承も廃れ、小さな漁村のもっていたいい雰囲気を失いかけてきていた。

 開発という美名に誘われて、緑の畑にアスファルトが敷かれ、美しい海岸にゴツゴツとしたテトラポットが乱立し、釣りの客の食べ残した発砲スチロールの弁当殻や空き缶が海岸端の墓地に捨てられている風景をみるたびに悲しくなる。

 都会の人ばかりを責められる訳でもなく、この村人の意識にも原因がある。儲かれば何をしてもいいといった風潮が、村の風景を壊し、心を荒廃させていっている。

 父は昔からの伝統漁法「磯見漁」という漁師を続けている。この漁をするのは村でただ一人になってしまった。箱眼鏡で海の底を眺め、4メートルもある長い竹の竿をさしてサザエやアワビを採って生計をたててきた。ずっと50年間海の底(竜宮城)ばかりを眺め続けてきたから、海の変化は手に取るように分かっている。「泊はいいとこやで、美しいところや」そういい続けてきていた父の側をレジャーボートが油をこぼしながら甲高いエンジン音を響かせて走り回り、大きな波を小舟に被いかぶせていく。

 アクアラングを付けての密漁も増えた、村では厳しく禁止しているにも関わらず、密漁は無くならない。村の中でも村の決議を破る者もいる始末。それでも父は、貝の居なくなった海の底に竿を差し続けている。一日でも海へ行かないと落ちつかない。

 このままではこの村は荒れはててしまう。どんどん変わって行く村を憂う声も多く聞いていた。そんな危機感をいだいていたときに風が吹き始めた。


風の吹いてきた村

 平成6年に、古くなった寺を再建する話になり、建設委員会が組織され私もその一人になった。20軒ばかりの檀家で6千万もかかる寺を新築することは大変なことであった。1年間で70回を越える会議や委員会をして何とか寺を新築した。小さい村にとってこの莫大な費用の調達は覚悟のいることであった。途中で計画が難礁に乗り上げたとき、この計画を何としても全員が乗っていける船(寺)にすることを願い、何度も話し合いがもたれた。

 位牌座をどうするかで話し合いが続いた。くじ引きで平等にすることを提案。しかし年寄りからの抗議があってなかなか進まない。位牌座によってランクがつけられている。身分制度と同じ様な封建的な体制に疑問を感じていた40代を中心に相談を始めた。位牌座の歴史も調べ、現存の位牌座の上下の根拠はいい加減なものであることが分かった。

 いよいよくじ引きである。それでも不満を言う人間が無きようアイデアを凝らした。くじ引き札には、番号ではなく「薬師如来」「観世音菩薩」などと記し、これを引いてもらうことにした。いただいた場所がありがたい場所。

 寺新築をくぐり抜けてから、村の中にあった重たいものがとれてすっきりとした。若い層まで発言できる雰囲気ができあがっていった。


「泊の歴史を知る会」発足 

 平成8年、寺新築の中心になったメンバーを元に「泊の歴史を知る会」が結成され、村の歴史や民俗を調べる事業が始まった。

 世話役のメンバーは、漁師、会社員、公務員などの7名。村の期待も大きく、村の会計から9万円ばかりの予算もついた。

 「最近のレジャーブームで美しい村の環境が汚れ、村人の連帯がが失われかけている。村の名勝や史跡なども、観光会社によって新しい名前に変形されるなど、時代の波に流され始めてきている。地名を失えばふるさとを失う。村人自身が村の事を知らないことが一番問題である。」とそんな思いから始まった。


村の自主講座開講 

「大いなる泊の歴史」と題して、郷土史研究家の杉本泰俊氏の講演会、「泊の民俗と信仰」と題して、民俗学研究家の金田久璋氏の講演会、村の古老に集まってもらい「古老と語る会」といった学習会を開くなど勢いよく活動を開始した。23軒の村だが、毎回30名を越える参加者があった。

 自主講座の内容は、広報係が「かわらばん」を作成して配布し、参加できかった村人にも読んでもらえるようにした。また「泊オリジナルカレンダー」を毎月発行し、村の行事が分かりやすい様にした。これが好評で、茶の間の話題に村の歴史のことがのぼるようになる。それまでのテレビの話題中心の生活に少し変化が起き始めた。子供がカレンダーやかわらばんを見て質問すると、おじいさん、あばあさんが昔の話をする。昔の話などに関心のなかった子供たちも少しずつ変化し始めた。

 いつかギニアの大使オスマン・サンコンさんの講演での話を思い出す。「ギニアでは、お年寄りが一人亡くなると、大きな図書館が一つ無くなったのと同じと悲しむ。」と。

 村の自主講座は、もう、自分自身の生き方になってしまっている。村での講座や取り組みは、即、村人の表情となってかえってくる。茶の間の話題になって広がってゆく。私自身、生涯学習センターで講座を運営しているが、それを突き詰めていくと結局、村の自主講座になる。自分たちの村を知り、子供たちに伝えていきたいという思いが強くなっていく。


韓国船遭難救護の記録

 韓国船遭難救護の話を祖父から聞いてきた。

 明治33年1月12日、ウラジオストクを出発して帰路に向かう韓国船が暴風に遭って漂流、泊に漂着し、村人総出で93人の韓国人全員を無事救助、保護し帰国させた話。しかし、この話についての詳細は村の中で知らない人が多かった。

民家の土蔵から韓国人の礼状二通

 村の土蔵から、韓国人からの礼状が2通発見された。

「貴国の恩は山の如く海の如し」

韓国人の崔卿汝ら3名の連名で、村人に宛てた感謝の文書である。

 今まで実感のなかった話が初めてリアルな歴史として登場。

「私たちは商用で露国海三歳を出発しました。その日の夕方急に嵐になり、船は大海原の中を木の葉のように流されました。船は破損し船内には海水が入りいつ転覆するか分からない状態になりました。必死の思いで積荷の十分の七を海中に投げ捨てました。

 嵐の海を、私たちは不安な昼と夜を繰り返し、凍り付く寒さに震え体を寄せ合いながらも、懸命に生きようとする意志を確かめ合いました。暖をとる薪も食料も水も無くなり、飢えと寒さの極限の中で死を覚悟しました。僅かになった乾米を分け合って食べ、海水や、しまいには自分の尿を飲みながら生きる望みをつなぎました。

 夢のような光景でした。私たちは、あなたの国の泊という村についたのです。」

(韓国人の礼状から)

内外海役場文書を解読

 事件当時、内外海村役場が処理した文書関係のファイルが小浜市立図書館に保管されていると聞く。半日がかりで郷土資料の中から発見。会のメンバーは、宝を掘り当てたように飛び上がって感激した。

 時の関係書類(乗船名簿、救護に関わった人員の名前、問答、救護の顛末の記録等)が几帳面に記録整理されていた。

 早速この多ページにわたる文書の解読をすることとなる。担当者がまるでとりつかれたような勢いで集中作業、約2カ月かかってこの作業をやり終えた。

「露国海三歳(現ウラジオストク)を出発し、大韓国咸鏡道明川沙浦に向かって帰途の韓国船「四仁伴載」が暴風に遭い、真冬の日本海を漂流。船内には鄭在官船長以下、商人、軍人、船員など93人の韓国人が乗船していた。」

泊区長文書を発見

 解読が進み、会の例会で読み合わせを始めた頃、ある家の土蔵から「韓国人遭難漂着歴史」という題のついた泊区長文書が見つかった。

 役場の記録とは性格が違い、村の当事者の立場から表情豊かに記録された貴重な資料であった。初めて遭遇するこの事件に対する村の表情、韓国人との習慣が違うために起こる問題点、官吏の非情な応対に対して見るに見かねて韓国人を助ける村人の人情、そして、村を離れる日、泊海岸での韓国人と村人との別れの場面など、事細かに表情豊かに記録されていた。

 救護の8日間、泊区民一同は、昼夜を分かたず韓国人を保護した。しかし、宿泊生活が続く中で困った問題も出てきた。

 「韓国人達は彼らの習慣で草鞋のまま家の中に上がったり、囲炉裏の中へ唾を吐くのである。日本では囲炉裏は火の神様のいる所であり、家の中で草履をはくのは、今まで村人が体験したことのない実に不潔な経験であった。困り果てた村人は、韓国人の宿舎を納屋や土蔵に遷し、役所と警察にもその理由を届け出た。官吏が派出してきたものの、村人も官吏も朝鮮語のわかる者が一人も無く、韓国人で日本語のわかる者もなく、お互いに言葉が通じないので甚だ意志疎通が困難だった。とにかく身振り手振りで話し、日本語を教えたところ、韓国人は直に日本の習慣を理解し、清潔な生活ぶりとなった。韓国人たちは自分たちの止宿している家主にはそれぞれ種々の礼物を進呈した。朝鮮国はもとから義務心も深く礼儀正しい国だと村人の意識も変わった。

漂着して最初の4日間は泊区の適当な処置により白米を一日に一升五合宛食べさせたので韓国人も満腹していた。しかし、五日目からは「一日に七合 五勺宛にすること」という官人の命令がきた。韓国人たちは食料が足りず満腹しなかった。腹のすいた人間の思いは誰しも同じである。村 人は見るに見兼ねて気の毒に思い、内緒で飯餅や薩摩芋・大豆煮や朝鮮人の好物の生大根・生カブラなどを与えた。韓国人達は大層嬉しそうでだった。それを見ると実にかわいそうで村人も涙をこぼした。」(区長文書より)

 八日間の内に韓国人達はすっかり元気を回復。そしていよいよ別れの時が来た。

「それから、十九日午前十一時、船小屋下浜へ区民一同老若男女子供に至るまで全て集まり、韓国人達に別れを告げるが、その様子は実に親子の別れと同じであった。韓国人らが眼に涙すると区民も共に涙を流し、袖をしぼる程に泣きながら別れを告げ…」(区長文書から)

 読み進んでいくと映画のクライマックスを想像するような感動的シーンが記録されていた。言葉はもう必要ではなく気持ちがあふれていった。

区民自主講座で中間報告

区の集落センターにて村の自主講座を開講。解読した区長文書を区民全員に配布し報告会をした。村に実際あった人道の歴史を初めて知った区民は胸を熱くした。海を越えてつながっている村。いつか同じ気持ちで再会したい。このちいさな村の歴史が平和に向けての小さな風になればと思った。


大いなる記録を出版へ

 この記録を自費出版、歴史資料として村人、近隣の村、韓国の関係者、関心を寄せてくださる方に配布し、次の世代へ伝えていきたいと話し合った。日本海の小さな海辺の村が、遭難という事件を通して韓国の民と交流したこと、この史実を未来に伝えていくことの意義は大きいと考えた。

 九十七年前の漂着事件当時、大韓国は一つの国であった。事件の十年後「日韓併合」。その後半世紀の間に、いくつもの戦争、悲しい歴史を経て二つの国に分かれた。

いつか国境を越えて手をつなぎ合い、日本海が和の海になる時が来る。小さな村のこの歴史が大きな意義をもつ時が来るに違いない。その日を願いこの記録を出版したいと考えた。


日本海の夢--ロジン・パーク(路真朴)氏との出会いから--

 「韓国で映画化したいね。この話を元にして子供たちが交流出来たらいいな。

この人道の記録が世界に広がっていくよ。日本海を通してつながるネットワーク、友好、交流が生まれるいい材料になる。韓国出身で現在はスエーデン在住のロジン・パーク氏がそう言った。彼は戦前戦後の激動の時代を生きたアジア史の生き証人。戦後ヨーロッパで声楽家として活躍後、現役を退いたあと、世界旅行を重ね、日本へもたびたび来ていた。山の上でばったり出会った。若狭から来たと言うと「若狭湾はナポリ湾のように美しいところですね」と言った。彼のその言葉を聞いてすっかり感激した。ふるさとをこんな風に表現してくれる方に初めて出会った喜び。また彼の歌も聞いてみたいと思った。

 国際理解講座の講師として彼を呼んで講演をしていただくことになり、結びつきもどんどん深まっていく。韓国と日本をつなぐ想いは強く、いつも熱っぽく話してくれる。

 韓国では、日本人に対する本当の理解がされてない。悪い話ばかりが伝わっている。この泊の歴史は、いい話として今後21世紀の両国の架け橋になるかも知れない。」

 日本海の夢を実現することは、出会うべくして出会った課題であると思うようになってきた。一隅を照らせば世界に広がる時代である。民衆同士の想いをきちんと伝えたい。

「若狭湾はナポリのようだ」ロジン・パーク氏の言葉。泊の岬からの風景はまさにその通り。こんな素晴らしいところに生まれ育った自分を幸せに思う。課題は海や山、このふるさとを子供たちに残していくこと。今、本当の道を見つける。あふれだす嬉しい気持ち、幸せの道。

 

 
大いなるいのち大いなるふるさと           ( 詞.曲  KAZU)

  大いなる この海よ 大いなる この山よ

  大いなる この土よ 大いなる ふるさと

   手を合わせ 祈りこめる 今日ある この歴史

   手を合わせ 祈りこめる 今日ある このいのち

 

  大いなる この河よ 大いなる この空よ

  大いなる このみどり 大いなる 大地よ

   手を合わせ 祈りこめる 今日あるこの歴史

   手を合わせ祈りこめる 今日あるこのいのち

 


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