風邪の功名(前編)







「う゛〜〜〜…………」
 とある、武成王にのみ賜れた執務室。
 その隅に置かれた簡易な夜具の上で、武成王こと飛虎はただならぬ呻き声を発していた。
 意外に整ったその顔は青白く、呼吸も荒い上に冷や汗も酷い。加えて常人ならば普通動けなくなるような高熱がある。
 典型的な風邪の症状………そう言えば簡単なのだが、飛虎が風邪をひく、何てこと自体が非常な珍事であった。
 何せ音に聞こえた天然道士。頑強さでは右に出るものはいない。
 風邪はともかく、病気のほうが裸足で逃げ出すさ、と親不孝な子供にかわかわれるほどなのだが、そんな彼でも必ず年に二、三回は風邪をこじらせた。
 更に決まって薬も効かない、原因もわからない、結局は治るまで大人しく寝ているしかない。
 それでも仕事を溜まらせるのは……と、よれよれ出てきたのはいいが、やっぱり夜具に沈んでしまっている。
「う〜……くそったれ、何なんだよこの風邪は………」
 枕に顔を埋めてぐちぐちと悪態をつきつつ、飛虎はごろごろ億劫な寝返りを繰り返す。たかが風邪なんかで倒れてしまう自分が情けないのだ。
 …………いや、それともう一つ。風邪をひいたら必ず強いられるコトがあった。
 彼が嫌がっているのは、むしろそっちの方である。
「あ〜あ〜、早く治してぇよなぁ………」
 ゼエゼエと擦れた息を吐き出しながら、彼は卓子の上の水に手を伸ばそうとして、


 コンコン。


 嫌味にすら聞こえるその音に、飛虎の指はぴたりと静止した。
 元々最悪だった顔色が、それに輪をかけてどんどんとヒドくなってゆく。
 それというのも、
「飛虎、入るぞ」
「入ってくんな」
 ガチャッ。
 ………すべてがすべて、今鷹揚な態度で入室してきたこの男の所為であった。
「……何の為に扉叩いたんだよ、お前は………」
 一気に押し寄せて来た頭痛に、飛虎は大袈裟でなく頭を抱え込んだ。今一番見たくなかった…というか会いたくなかった人物。
 殷の父、聞太師。
 聞こえ良く言えば、飛虎の朋友である。が、
「つれない奴だな、折角激務の合間を縫って会いにきてやったのに」
「そうか。そりゃ礼を言うぜ、すげぇ嬉しいよ。だからもう帰れ」
 ミもフタもなく聞仲を突っぱねて、飛虎は頭から布団をかぶった。具合の悪いとき……つまり抵抗力の落ちているときにこの男の側にいると、かなりロクなことがない。
 じっと安静にして、自分としては早急に風邪を治してしまいたいのだ。
 それなのに、
「そうか……まあ、そこまで警戒心剥き出しだと、こちらとしても罪悪感が薄くてすむな」
 しゃあしゃあとそんなことを呟いて、聞仲はばさっと無遠慮に掛け布を取り去ってきた。
「な………っ!」
「どうせ覚悟ぐらいできているのだろう?なら大人しくしていろ………気分次第では早く終わらせてやらんこともないから」
 無茶苦茶な台詞を囁きつつ、聞仲は無造作に飛虎の服の仲に手を突っ込んでくる。その異常な指先の冷たさに、毎度のことながら彼の身体はびくりと震えた。
「ふ、ふざけんなっ!ヒトが熱出す機会ばっか狙いやがって!お前卑怯だぞっ!!」
 だるい手足を必死にじたばたと動かすが、半減した力では聞仲に適うはずもない。普段であれば、対等以上に渡り合えるはずなのに。
 悔しさと情けなさで、惑乱した視界が薄く霞んでくる。
「人聞きの悪い……お前が常時から素直であれば、こんな事をせずに済むのではないか」
「てめーの言ってることは根本的におかしいんだよ……ッ!いいから触るな!とっとと政務に戻れっ!!」
 力の限り罵声を飛ばしながら、飛虎は何とかこの場を凌ごうとした。
 ……一体いつからこんな関係になったのか、あまりよく覚えていない。
 大体普通は立場が逆だ、とごねて逃げまくっていた所為で、いつしかこうして体調を崩したときを狙われるようになっていた。
 よくこんな外道なコトできるな、と散々怒鳴り散らそうと、当の本人は至極あっさりした様子で、


「では日頃の態度を改めろ」


 と、完全に自分を棚にあげて、のたまうだけだ。
 そんなことを言われても、ただでさえ衰弱している時に、あんな負担のかかるもんを強いられてはたまったものじゃない。しかも風邪をひいている期間ずっと、だ。どれほど辛くて苦しいものか想像に難くないだろう。
「………っとに、信じらんねー……よっ………!この馬鹿野郎が………っ!」
 無理に身体を進められ、あまりの激痛に喉が痙攣する。悪態すらもまともにつけない。少しは手加減しろと言ったところで無駄だった。
「まったく……口だけは減らん奴だな。優しくしてほしいのなら、それだけの余裕を普段から私に与えろと言っているだろう?」
 お前の聞き分けが悪いから、平時はずっと我慢を強いられているのだ。
 無理矢理にでもなければ、絶対に思い通りにはならないくせに。
「……っ……ぁっ………!も……やめ……気持ち悪……ぃ……」
 元々の不調に並走して襲ってくる不快感に、飛虎は耐えきれず弱音を漏らした。
 が、勿論それを汲んでくれるような男であれば苦労はしない。
 どころか、いっそう深く押し入ってきた。
「――――っ!ぁ……か、はっ………」
 衝撃に喉が詰まって、意識が薄れかける。
 しかし、すぐに強く身体を揺さぶられ、痛覚と共にそれは引き戻されて、
「こんなに早くくたばってくれるな、飛虎………少なくとも、あと数日は付き合ってもらわねばな」
 そんな酷いことを平然と囁きつつ、なおも聞仲は肩を引き寄せてくる。
 病人の自分に対して労わりも何もない直情な台詞に、飛虎は揶揄でなく目の前が暗くなるのを抑えられなかった。
 幾度も体感したこの悪夢に、今尚抗う術はない。


「………お前なんか、大っ嫌いだ聞仲………」

「ああ、よくわかってる」

 

 

 

 

 




「武成王、これが火急の裁可を要する書簡ですが………あの、本当に大丈夫ですか?」
 昼時の執務室。
 おずおずながら、部下がそんな無理もない言葉をかけてくる。
 彼の目の前には、いっそ死人の方がマシなぐらいの状態でいる上司の姿。
 見ているだけでこちらが辛くなってくるほどだ。
「………いや、心配いらねぇ………で、これだけでいいんだな?」
 うつろ〜に視線をさまよわせつつ問い掛けて、飛虎は数本の書簡を指差した。
 言うまでもなく体調最悪である。
 どこぞのバカ太師が明け方まで遊んでくれた所為で、全身という全身が悲鳴をあげていた……が、それと執務とは別問題だ、武成王として最低限の職務ぐらいはこなさなければならない。
 こういう妙に律儀なところが、飛虎が部下達から慕われている所以の一つであった。
「は、はあ………それならばよいのですが………では失礼致します」
 心配げに飛虎を見つつも、部下は辞儀をして部屋を出ていく。
 それからしばらくは気力尽きたようにバッタリと机に伏していた飛虎だが、やがて観念したように書簡をゆるゆると紐解いていった。
「え〜と、何だ………先の遠征で欠如した人員の穴埋めに、上への進言書……んだよ、こりゃ聞仲の仕事じゃねーのか………?武人に細けぇコトさせるなってんだ、ったく……」
 と、ぶつぶつひとりごちながら、それでも飛虎は書簡を易々と片付けていった。どうも外見から無骨者と見られがちな彼ではあるが、政に関しての能力もかなりのものなのだ。
 何より、この集中力と精神力には賞賛に値するものがある。
 そうして、一刻ばかり後。
 緩慢に走らせていた筆が、突然ぴたりと動きを止めた。
「……………」
 頬杖をつきつつ、ざっと文章に眼を通して、
「あ〜あ、やっぱりこれ資料がいるな………面倒くさいけど、早々に可決しねーといけねーし………仕方ない、取りに行くか」
 これだけのことで、部下の手を煩わせるのも気がひける、と飛虎はがたりと気力を振り絞って立ちあがる。
 が、
「ぅ、わ………っ」
 途端、視界に激しい紗が走った。がたんっ、と咄嗟に手をついた机が揺れる。
 思わず沈み込んでしまった膝は相も変わらずがくがくとして、腰に響く鈍痛も酷い。
「だぁ、情けねえなあ、もう………」
 いっそ泣きたくなると、飛虎は壁伝いによろめきつつも歩み出した。
 それでも辛い。とにかく辛い。
 ひとつしかない身体に悪条件が重なりすぎている。
 つくづく聞仲を恨まずにはいられなかった。
 が、とりあえずこの周辺は兵卒がうろうろしていられるような所ではないので、飛虎も安心して回廊を進んでいく。さすがにこんな姿を衆目に晒したいとは思わない。


 そうして、千里の道のりを行くような思いをして、ようやく保管庫にたどり着いた。
「う〜……気持ち悪い〜………」
 ずるずると思い通りにならない足を引きずりつつ、飛虎は倒れこむようにして扉に手をついて、


「武成王」


 背後から、どこか高い声がかけられたのは、まさにその時だった。

 

 

 

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ああっ!すみません!また前後編にしてしまいました!
何だか具合の悪い武成王って好きなんです……ええv(こら)

 

 

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