月下木蓮<1>



 春宵。
 冷たい光沢を宿す月は、遥か闇の彼方。
 玉鼎真人は木蓮の花咲く枯木に背を預けながら、晧晧と煌くそれを見るとはなしに眺めていた。
 右肩に斬仙剣を掛け、その鞘に白い頬を寄せる。
 少し傾いた黒曜の瞳に、ただ闇と月とが映し出されて、

 ……もう、幾晩をこのように過ごしたことだろう。

 限りない静謐に彩られた岩場で、木蓮の香りを愛で、月を拝しながら……夜が白けるのを待ちつづける。
 何も心に抱かず……ただ空虚な刻を。



「満月……か」
 血が通っているのか、整った唇から透明な美声がもれる。
 その呟きはすぐ、ゆるりと涼気のなかへ溶けていった。
 円かな白光は、まだ中天にすらかかっていない。
 ……洞府には、そろそろ弟子が戻っているだろうか。
 彼がまたそこを後にするまで、玉鼎真人はこの場を動かないつもりだった。
 このところ、毎日をそうして歩んできた。
 あの蒼い容姿と……向き合うことを拒んで。





「師匠」
 静寂が、突然怜悧な称呼に破られる。
 玉鼎真人はびくりと身体を強張らせた。
 振り返らなくてもわかる、慣れしたんだその呼び声。
 今は、怯えの対象でしかない……
「……楊……」
 月に顔を向けたまま、渇いた喉で弟子の名を微かに紡ぐ。
 そうしている間にも、木蓮の幹の脇から、ザッザッと粗野に砂を刷く足音が近づいてきた。
 やがて、それは玉鼎信人の真横で止まる。
 そのひやりとした威圧感のせいか、触れられてもいないのに、体温がスッとさがったような錯覚にとらわれる。
「師匠」
 もう一度、名を呼ばれた。
 背筋が凍りつきそうなほど冷淡な声色に、玉鼎真人は頭上の容貌を仰ぐ勇気すら持てず、頭を垂れてじっと固まっていた。
「……どうして僕の方を見てくださらないんです?」
 少し苛ついたように言って捨てて、異彩な容貌を持つ蒼髪の道士は、玉鼎真人の長い髪に指を絡ませ、強引にそれを引き上げる。
「……ッ……」
 髪と顎とを掴まれ、否応無しに重ねられる視線。
 何の感情も表れていない……静かな瞳だった。
 だが、そんな瞳を彼がしているときが一番恐ろしいのだと、玉鼎真人は誰よりもよく理解していた。
 無言で、しかしどんどんと青ざめていく玉鼎真人の顔をその弟子……楊ゼンは冷笑しながら包み込んで、
「何を怖がっているんです?酷い人ですね、師匠……僕が夜しか洞府に帰ってこれないのを知って……」
 言い留め、乱暴に玉鼎真人から斬仙剣を取り上げると、そのまま遠くの茂みへとそれを投げ捨てた。
 際に触れた木蓮の花が落ち、ふわりと薫香を舞い上げる。
「あ………」
「……長い夜を、こんな所で過ごしているのだから……」
 端正な顔が、怪しい笑みの形に歪む。玉鼎真人は、いずれこうなるだろうと承知していたはずだった。だが、直面して湧きあがる怖の念に、知らず身体が打ち震えだす。
「そんなに、僕と二人きりになるのが嫌だったんですか……?」
 応えはない。顔を固定されながらも、たどたどしい逃げを打つ玉鼎真人を、擁ゼンは忌々しげに舌打ちして、力任せに地面へと突き飛ばした。
「なっ……」
 抵抗する間もない。絹糸ような漆黒の髪が、芝草の上へばらりと散り落ちる。楊ゼンは起き上がろうとする師の手首を捻り上げ、完全に彼を組み敷いた。
 すっかり色を失った玉鼎真人の顔に、楊ゼンはゆっくりと唇を寄せて、
「貴方が憎いですよ、師匠……どこまでも、僕から逃げようとする」
「楊ゼ……」
「僕は、あなたを誰よりも愛しているのに」
 押し殺した囁きを耳に吹き込まれ、首筋に噛み付くように口づけられる。
「………ッ!」
 カリ、と音がして、小さな痛みに玉鼎真人は喉を反らした。
 生暖かい感触がそこを伝いだす。
 楊ゼンの唇は、鮮やかな真紅に濡れていた。
「楊ゼン……やめろ。手を放してくれ」
「そんなことを言う権利は貴方にはありませんよ。大人しくしていてください……罰なんですから、これは」
 僕から逃げようとする、離れようとする。
 その…………罰。
「楊ゼン!」
 衣服の裂ける、不快な音。
 抗うがまったく報われずに、次々と身体を覆うものが地に撒かれていく。
 本気で抵抗をすれば、あるいにはどうにかなるかもしれない。
 だが、そうなると楊ゼンを傷つけてしまうだろう。
 ……玉鼎真人にとって、愛弟子の血を見ることは、何よりも苦痛を伴うことだった。
「……………」
 半ば諦めた様子の玉鼎真人に、楊ゼンは満足げに微笑みかける。
「そう、そうしていて下さい。僕に逆らうことなんて許しませんよ、師匠……あなたは、僕だけでのものなんですから」
 諭すように脅されて、玉鼎真人は辛そうに眉根を寄せ、眼を閉じる。
 冴え冴えとした月光の下(もと)、思うがままに陵辱される痛苦に、彼はただ衣服を握り締めて耐えることしかできなかった。
「………ぁ………」
 ……木蓮の甘く優しい香りがする。
 その芳香に心の奥を刺激され……玉鼎真人は強く目頭を抑えた。

 

 

                                                           

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