日常の災難(前編)
時は深夜。
飯も食ったし、湯も浴びた。
そう。今日という今日こそはっ!!
ギィ〜………
「ただいま〜……天化……」
「コーチ!お帰………!」
「ごめん……もう寝る……」
ぱったり。
へろへろした言葉通り、男は床の上に倒れ込んだ。
そして、否応なく場に流れたしばしの沈黙の後。
「………っだぁぁぁぁぁぁぁっ!!!コーチのあほぉぉぉぉっ!!!」
既に日常と化した泣き叫びが、紫陽洞を突き抜けて夜空にまでこだましたのだった……
天化は苛立っていた。そりゃもうこの上ないほどに。
………何故かと言えば、少し前の話になるが。
ある日、ある朝。何も変わりなかった道徳真君の洞府に、突然あの天才道士が訪れてきて……
「こんにちは、道徳師弟」
「へ?楊……ゼン?なんでここに?」
「はい。ひとつお願いがありまして」
「お願い………オレにか?」
「ええ……あなたにしか頼めないことです」
「そ……そうか?まあ、オレにできることなら何でもするが………」
「有難うございます。それでは早速ですが道徳師弟、僕の修行相手になってくださいませんか?」
「はっ?」
「僭越ながら、十二仙以外では、もう僕の相手になる者がいないのですよ」
「そ……そぉか。随分な自信だな。で、でもそれなら君の師匠の玉鼎が………」
「ああ、師匠は今何やら忙しいそうで……手が離せないのです。…お嫌ですか?僕なんかの相手をするのは」
「いや、あのそうじゃなくて……オレにも天化の修行が……」
「そうですか、駄目ですか……それはとても残念です。それでは、僕は一人寂しく大した稽古にもならないコトを………」
「ちょっ……だ、誰も嫌とは言ってないだろ!わかった!する!相手をするよ!」
「(にやり)本当ですか?ありがとうございます。それでじゃ、この山では天化君の邪魔でしょうから……玉泉山でお待ちしていますよ、道徳師弟」
こんな感じで言葉を挟む隙もなくぽんぽん会話が進んだ。当然のように自分は憤慨して師に詰め寄ったが、一度約束したことをおいそれと破れない道徳の性格と……何より天才と名高い彼の相手をしてみたいという彼の純粋な闘争心に根負けして、渋々それを承諾したのだ。
それから道徳は毎日のように玉泉山に赴き……そしてずたぼろになって帰ってきた。
この驚異的な体力を持つ道徳を、ここまで疲労させるとは、一体どんな手合わせをしているのか、恐るべきは天才道士である。
「−って、そんなことはどーでもいいさっ!問題はコーチが俺っちの相手をしてくれないってことさっ!」
そう、そこで再度爆発したのは天化である。
自分の留守を狙って師を横取りされた上、ほとんど丸め込むようにして迫りまくって、ようやく夜の遊びにまでこぎつける事ができた道徳との関係が、一向に進まなくなってしまったのである。
演義でもなんでもなく、帰ってくるなり爆睡されれば、天化とて手の出しようがない。
そんな毎日が続けば、若い彼の煮詰まりが最高潮に達するのは当然だと言えた。
今夜こそは……と意気込んだものの、結果は相も変わらず、である。
「ちっくしょー………」
扉口でうつ伏せに倒れている道徳の身体を、天化はそれでも不機嫌な顔で抱き起こしてやる。
途端、
「うっ………」
思わず呻きがもれた。
天化の腕の中には、すーすーと無防備にも寝息を立てる道徳がすっぽりと収まっている。
激しい疲労故に、警戒心も何もない彼の寝顔は凶悪に可愛い。
元々、どうしてこれが何千年も生きている仙人の容貌なのか、と真剣に考えてしまうほどなのだ。
ぶかぶかのジャージの下の、華奢な白い身体に柔らかい髪に………
と、そんなことを思い巡らせればキリがなくなってくる。
天化は乏しい理性を掻き集めて、ぶんぶんと何とか妄想を振り払い、
「ほんっとにコーチは………」
と、溜め息をつきつつ呆れながらも、優しく師を寝台へと運んでやった。
「うー……ん………」
その間、道徳の掌はずっと天化の袖を掴んでいた。
ザシュゥゥッ!!
「ぐ………!」
地を這うようにして伸びてくる三筋の風圧を、道徳は指の痺れに眉をしかめつつも、なんとかすべて受け止めて蹴散らす。
その結構常人離れした荒技を、上空から哮天犬に跨りながら眺めていた楊ゼンは、
「さすが道徳師弟……そこいらの仙人とはわけが違いますね」
にこやかに笑んで、また変化を繰り返す。
「ちょ……ほ、誉めてくれるのは嬉しいがなっ……!」
だからといって、この猛追はちょっとヒドすぎる。
第一、接近戦用の道徳の宝貝で、どうやって雷震子の起風やナタクの宝貝諸々を受けろというのか……
「しかもとてつもなく範囲が広いときたもんだ……交わすのも一苦労だよ、まったくっ」
そうはいってもさすがは十二仙。今までしっかりとかわしてきたのだが。
……しかし連日コレでは、いかに道徳と言えど身体が保たない。加えて楊ゼンに容赦する気色は泣きたいほどに窺えない。
かといって、自分から「休ませてくれ」とは口にできないソンな性格の道徳であった。
「うわっ……たっ……!」
ごばぁぁっと盛大な爆音が空気を裂き、道徳が飛びあがった後の岩地が派手に抉り取られる。そして体勢を立て直す間もなく、第二波が火を吹いた。
「ちょっ……楊ゼン!ちょっと待ってくれっ!」
それをかろうじて回避してすぐ、本気で生命を危険を感じた道徳は焦りを含んだ声を張り上げる。
「なんですか……降参ですか?」
「いや……というか……今気づいたんだが、どうせオレを相手にするなら、接近戦の練習をした方が……」
(ちっ、気づかれたか)
口篭りながらもずばり突いてきた正論に、楊ゼンは心中で舌打ちするが、
「そんなことはありませんよ。僕が大前提としているのは、あくまで十二仙であるあなたに勝つこと、ですから」
さすがは性悪な天才、そんな焦りなどおくびにも出さず、にこやかに返答した。
「うっ………」
何やらプライドを刺激するような言葉を浴びせられて、道徳は何も返せずに上空を見上げるしかない。
散々自分を引っ掻き回してくれた相手は、優雅にも愛用の宝貝の上だ。
………何か不公平だよなー、これって………
実際ものすごく不公平なのだが、単純な道徳がそこまで気づくはずもない。小さく愚痴をこぼしつつも、再開の合図とばかりに彼は宝剣を握り直し、
「よし、楊ゼン、こーなったらオレも本気で行くぞ!」
疲労死する前に勝ってやろうと、自暴自棄気味に呟いたのだった。
そして、もう日も沈みかけた刻限。
「っっはーっ!ぜーっ、はーっ!」
けして大げさでない呼吸を繰り返しながら、地面に大の字で転がっている道徳の姿があった。
あの後延々五時間弱。もはや修行と言うよりは死闘っぽいことをしていた二人である。怪物なみの体力を誇る道徳とはいえ、既に気絶一歩手前まで意識が踏みこんでいた。
だが、
「大丈夫ですか、道徳師弟」
もはや指一本動かす元気すらない彼に、それでも爽やかな笑みを浮かべて近寄ってくる人物がいる。
………道徳はさすがにそれを苦笑しながら見つめるしかない。
「……よ、楊ゼン……君って、ホントにすごいなぁ………」
もうそれ以外に言いようがなかった。
数時間ぶっ続けで変化を行っていたと言うのに、何一つ疲れらしい痕跡が窺えないのだ。
余裕さもここまで来ると感服ものだろう。
「そんなことはありませんよ……でもやはりあなたはすごいですね」
嫌味ですらある微笑みを浮かべつつも、楊ゼンは心からそう思っていた。
師、玉鼎真人に薬をもって、太乙真人に売り渡す際(外道)、交換条件として譲り受けた体力増強の秘薬。副作用も一切おとずれないという逸品だ。
しかし、今それを服用しているにも関わらず、この人を負かすまではいかなかったのだ。
(ここまで粘るなんて計算外だなぁ……でも、まあいいか……)
軽く唇を指でなぞりつつ、楊ゼンはへばっている道徳をひょいと抱き起こす。
「ん……何……?」
肩で掠れた呼吸を繰り返しながら、道徳は眼前にある楊ゼンの方へと顔を合わせる。
途端、楊ゼンの眦が僅かだがひきつりを見せた。
汗で潤んだ瞳に、気だるい表情。
このまま押し倒してしまいたいぐらい、凄まじい色気がある。なまじ自覚がないだけに始末が悪い。
そんな不埒な衝動を、しかし楊ゼンは持ち前の我慢強さでぐっと堪えると、
「いえ、どうします。……もう、終わりにしますか?」
「え?あ、ああ……そうしてくれるとありがたいな……この頃、天化の修行を見てやってないから……」
「でも、こんなにお疲れじゃあ、黄巾力士を動かせないでしょう」
「う……それは………」
楊ゼンに余裕があるのが悔しいのか、道徳は俯いて唇を噛み締める。そんな仕草が酷く幼く見えた。
(まったく、天化君が羨ましいよ……)
「!楊ゼン!何すっ………!」
軽い溜め息をつきながら、俗に言うお姫様抱っこで地面から身体を浮かされて、道徳は焦りながら頓狂な声を上げた。
「え?だって立てないんでしょう?」
白々しくとぼけられて、彼はぐっと顎を引くが、
「う……で、でも……ちょっとこれは恥ずかしいぞ……」
手を貸してくれるのはありがたかったが、肩を貸すなり何なり方法はあるだろうに。
そう思いつつ顔を染める彼を、楊ゼンは笑いを噛み殺しながら見つめていた。
(本当に面白いぐらい素直な人だ………)
焦りや狼狽とは無縁な性格の師匠を持っているだけに、楊ゼンは楽しくて仕方ない。
(これなら思ったよりやりやすいかな)
「まあいいじゃありませんか。どうせ僕達以外は誰もいないんですし」
「いやそういう問題でも……って楊ゼン!おろせってば!」
慌てふためく道徳を後目に、蒼色の道士は相変わらず笑ったまま洞府へと向かっていった。
眩しいほどに、空は明るい。
「あーーーーっ!!もぉ腹立つさぁっ!!大体何さ!何で直弟子をほっぽっておいてまで、違う洞府の道士に稽古つけるわけっ!」
紫陽洞。
数時間前より更に煮詰まった状態で、天化は苛々と地団太を踏んでいた。
卓の木皿の上には、タバコが山のように積みあがっている。
「コーチのばかやろぉ………これで何日目だと思ってるさ……」
今日だって朝起きたら既に師の姿はなかった。
直に帰ってくるだろうと待つことかなり。少なくとも、日が真上に昇って更に下りてくるぐらいの時間は待っている。
むかむかむかむかむかむかむかむか………
「だーっ!駄目さ!いい加減キレ…………!」
どっごーん。
だむっ、と床を踏んで椅子を蹴倒し、立ちあがって。
近くか遠くか判別し難い距離から、鈍い轟音が響き渡ってきた。
「へ………?」
勢いを削がれて、天化は頬を掻きながら扉を開け、外に出る。
蒼くて白い空のした、なんとか眼の届く茂みの向こうに、見慣れた丸くて黒い物体が不時着しているようで………
「………って黄巾力士!?まさかコーチ!?」
僅かではあるが灰煙をふいているそれに、天化は慌てて駆け寄った。
細い樹を何本か薙ぎ倒して、鉄球にも似た宝貝が横倒しになっている。ちょうど腹の辺りの文字が地面に隠れるような形で。
タン、と大きな手を踏み台にして、天化は焦りながら操縦席の真横に着地した。
複雑な機械に囲まれたそこには、確かに黒髪の…………
「………え………?」
長い、黒髪。
道徳の普段着であるジャージとは似ても似つかぬ、ゆったりした装い。
どこからどう見ても、同じなのは髪の色ぐらいで………
「ぎょくっ……てい真人、サマ………?」
う〜ん本当に久しぶりにギャグを書いた気がします。しかし変な話ですね(汗)
何か宝貝を使った修行風景を入れたかったんですが……これじゃあ修行というよりはイジメのような……(笑)