紅茫ーkoubouー前編






 

 

 

 まだ空気が針のような微かな冷たさを残す、黎明。
 白い吐息を纏いながら、紫陽洞に足を踏み入れた一人の仙人がいた。
 肩までの透いた黒髪。穏やかに輝く明緑の双眸。手には宝貝らしきものを携えている。
「道徳……いないのかい?」
 静かな呼びかけが、清閑とした洞府内に吸いこまれていった。どこの仙人の住まいも似たようなものだが、驚くほど生活感というものが感じられない。
 無言で室内を見まわしながら、待つことしばらく。
 やがて奥まった部屋から、洞府の主……道徳真君が現れた。
 壁に手をついて身体を支え、喉を抑えながら……一目でおかしいとわかる様子で。
「………太乙……どう、かしたのか?」
 普段は闊達で清適な感を抱く彼の声が、今は枯れて酷く濁っている。それでも無理に明るく振る舞おうとしている道徳を、太乙は少し細めた目で見つめながら、
「……頼まれてた宝貝の整備点検済んだからさ、持ってきたんだ。どうせ暇だったしね」
「わざわざ?………悪いな」
 にこ、と灰色の影を落とす微笑を浮かべ、道徳は蹌踉としつつも太乙の側に歩み寄る。
 そして手袋をはめていない白い手で、それを受け取ろうとした時、
「……な………!?」
 ぎり、と驚くほど強い力で手首を掴まれて引き寄せられ、道徳は前のめりになって太乙の腕の中に倒れこむ。いつもならば簡単に踏み止まれるはずのその粗野な行為に、衰弱した身体では全く抗うことが出来なかった。
「………太………」
 その行動の真意を問おうとして。
 自分を抱く腕に、昨夜の悪夢が重なる。
 縲絏された躯。己を裂く弟子の顔。
 ………涙が枯れるまで泣き声をあげ続けた……… 
「ぁ…………」
 道徳の顔は色を失い、カタカタと四肢がさざめいた。
「た……いいつ……は、離してくれ……」
 恐怖を隠せない、微弱な拒絶に太乙はくすりと笑って、
「何をそんなに怯えてるんだい?……僕は天化君じゃないよ?」
「ッ!!」
「驚いた?……君は隠し事が苦手だからね。何があったのかぐらい……すぐ、判る」
 冷えていく声音で穏やかに囁いて、太乙はくい、と道徳の右手を持ち上げた。
 いつも晒されることのない華奢な掌に、まだ真新しい包帯。
 それをそっと包み込んで、ゆっくり唇を寄せる。
「君が怪我をするなんて珍しいよね。………何の傷だい?」
 全てを見透かすような瞳。口調とは裏腹に、それは全く笑っていない。
「っ……は……離して………くれ……頼む、から……」
「駄目だよ。……君が私を振りほどけないなんて、一体毎夜毎夜どんな濫行をしているんだろうね。……こんなところに、痣つけて」
 妖しい声音とともに、衣服の衿に滑りこんできた指が、するりと首筋の一点を這う。
 そのひやりとした感触に、道徳の肌は一気に怖気だった。
「や………やめてくれ………っ!」
 軋む身体を無理に捩って、ばっと太乙の腕から抜け出す。忙しなく振動する胸を抑えながら、道徳は潤んだ瞳で彼を睨みつけた。
「いい加減にしてくれ!俺で遊ぶのがそんなに楽しいか!」
 放っておいてくれ、と震えた罵声を言い切る前に、
「………遊ぶ?楽しい?」
 スッと太乙の声色が変わった。彼の顔から既に笑みは消えている。
「何を言ってるんだい、道徳………その逆だから、私は怒っているんだろう?」
 カツ、と凍った足音が自分に向かって近づいてくる。
 得体の知れない不安に、道徳の身体を知らず後退していた。
「………何……を………」
「弟子に抱かれて、君こそそんなに愉しい?」
 揶揄されるように嘲られ、カッと道徳の顔に羞恥と怒りの朱が散る。
「太………!」
「愉しいわけないよね。……だから、そんなに疲れてる」
 道徳の憤りになど耳も貸さず、太乙は無表情に足を進ませ、やがて壁際まで彼を追い詰めた。
 カツン………と最後の跫音。
 それに、道徳は過剰なほどの反応を見せる。
 自分を見据える、美しい緑の明眸。
 その鮮やかな色さえも、今の道徳には恐怖を煽る対象でしかなかった。
「道徳」
 静謐を含んだ声で名を呼ばれ、ぐっと顎を掴み上げられる。
 逸らすことも適わぬ視線の先に、同じ十二仙の顔が映った。
「………こんな関係を、どこまで続ける気だい?」
「……………」
 深く胸を抉る言に、道徳は何も返せず眼を閉じる。
 その問いの応えを………誰よりもよくわかっていたから。
「君は、ただ天化の激情に引きずられてるだけだよ……愛しい弟子に対する愛情を逆手に取られて、ね」
「………やめて、くれ、太乙……」
「今終わりにしなければ、君はいつか壊れるよ。……わかって、いるだろう?」
 涙を流し、血で汚れて………誰よりも頑なで潔癖だったお前が、禁を侵す罪の重さに耐えきれる訳がない。
 穢い欲望も卑怯な執着も、君は何も知らずに育ったのだから。
「道徳」
「…………」
「………そんなに彼が大事かい?」
「………ああ」
「たとえ自分が壊れても、それでも?」
「………ああ………」
「…………そう」
 す、と顎から手が離れる。
 訝しげに身体を引く道徳を、太乙は哀しげな瞳で見つめながら、
「……疲れたら、私の元においで。………いつまでも、待っているから」
 片膝をついて跪き、道徳の右手に唇を落とした。何か神聖なものにでも振れるかのような仕草で。
「!……太……」
「約束だよ、道徳。………私の、大切な人」
 茫然と眼を見張る道徳の前で、身を翻す衣擦れの音。
 やがてそれは耳で追えないほどに遠退いていって、
 ………淡い残り香の余韻すら、清麗とした静寂に溶け去った頃………
「…………っふ………」
 がくりと、握り締めた両手で顔を覆って、道徳は壁伝いに崩れ落ちた。
 すぐに幾筋もの涙が頬を滑り、ぽたぽたと磨かれた床に落ちる。
 震える肩もそのままに、彼は小さな嗚咽を断続的にこぼし続けた。
「……今更どうしろ、って……っ……」



 どうすればよかった。
 吐き出せないわだかまりが、なお黒く濁って胸に溜まる。
 それが重くて………辛くてたまらない。

『………いつか、壊れるよ』

 友と信じていた者の言葉に、道徳は涙に濡れた唇を歪めて、


「……もう、遅いかもしれない………太乙……」

 

 

 

 

 

 


「ただいま、コーチ」
 その日の深夜。
 泥砂にまみれたいつもの格好で、天化は洞府に帰ってきた。
「ああ………おかえり、天化」
 ちょうど風呂に入った後の道徳は、そんな弟子の様子に微かに笑って、
「今日も熱心に鍛錬を積んだようだな」
「もちろんさ。……コーチ」
 その言の影にあるものを、道徳はあえて知らぬ振りをして彼に背を向け、
「湯を浴びてきたらいい………何か食べるか?」
「ん〜……いや、いらないさ。身体を動かしすぎて何だか食欲わかないさ……それより、早く汚れを落としてくるさ」
「ああ、ゆっくりしてきなさい」
 労わりの言葉をかけてすぐ、天化は髪を掻きながら湯船の方へと向かった。
 再び訪れた、束の間の静寂。
「……………」
 道徳は深い溜息を吐いて、重い足取りのまま自室へと戻り始めた。
 その後姿を冷えた眼が見据えていたことに………気づきもせず。

 

 

 

 

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散々面倒くさいことしておいて、どこが裏裏なんだか……い、一応、前座ということでお許しください。
後編は結構それっぽいと思いマス……ええ、多分……(TT)
それにしてもなんだか支離滅裂な内容だわ(汗)

 

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