十四話ー蟲惑の嫦娥
「ぅ………ぐ………っ………」
どくりと右肩から間断なく溢れ出てくる血に、玉鼎はたまらず膝をついた。
暗い地盤に、ボタボタとおびただしい紅の液体が滴り落ちる。
喉に逆流してきた血を、鈍く噎せながら吐き出した。
咳をする度、肩から新たな血液が吹き出す。
急激な失血の所為で、眼前が紗を帯びて霞んできた。
「どうだ?骨までは斬っちゃいねぇが、さすがにもう利き腕は動かせねぇだろ。………いい様だな、玉鼎真人様よ」
ぐっと顎を持ち上げられ、無理に上を仰がされる。
「……っ………く………」
不自然な体勢の為に、また肩に走った痛みが玉鼎の顔を歪ませる。
絹よりも滑らかな髪が数本、汗の伝う頬にかかり、苦痛に喘ぐ唇は妖しい血の色に濡れて、
………それを目の当たりにした夜叉は、らしくもなくへぇ、と上擦った呟きをもらした。
「まるで誘ってるみてぇだなぁ。……綺麗な顔だ」
「ッ………離せ………っ!」
痛みを堪えて左半身で夜叉の指や身体を振り払い、どん、と岩肌に背をぶつける。
衝撃で、また血が迸った。
「………っは………く………」
ぐらりと視界が反転し、ずるずると岩伝いに崩れ落ちる。
短く荒い息遣いが、玉鼎の胸をしきりに弾ませた。
「おいおい、無理すんなって。……下手に暴れると死に急ぐことになるぜ?………お前は構わなくても、生憎と俺が構うもんでな」
頭を掻きながら夜叉は彼に歩み寄り、今度は振りほどけないよう強く血に濡れた襟元を掴み上げる。
それを拒むように睨みつけてくる眼を、小気味良さげに受け止めると、首の脇を伝う血をねぶるように舐め上げた。
「………な……にを………!」
「大人しくしてろって。………んー、さすがに極上だな。妖怪にとっちゃ、何よりの美味だ」
玉鼎の抵抗を力で封じ込めて、なおも頬や鎖骨に散った血を執拗に舐め取る。
その常軌を逸した狂動に、玉鼎は言い知れぬ不快感を覚えた。
………こんな屈辱を受けるぐらいなら、死んだほうが余程ましだ。
「おっと」
その覚悟に気配で感づいたのか、夜叉はいささか不機嫌そうに玉鼎の唇をこじ開ける。
その中に素早く布を押し込んで、口を掌で抑えつけた。
「舌噛んで死ぬのはいただけねぇな………あんま俺を怒らせんなよ。折角、言い遊び相手を見つけたっていうのに」
息を止められて、苦しそうに身を捩る玉鼎を、夜叉は薄く笑いながら見下ろす。
らしくもないが、まだ実感が湧いてこない。
この手に入るなど、思ってもみなかった。
崑崙の美玉と謳われた仙人を。
「宝貝のねぇお前に勝ち目はない………大人しく、俺の玩具になってろ。そうすりゃ、あのガキを無事に返してやらんこともねぇからよ………」
囁きながら、つい、と離れた場所にいる人影を指差す。
伍と呼ばれた妖怪仙人の腕の中で、まだ十にも満たぬだろう幼子ががくがくと震えていた。
その細首には、牽制するように腕が回されている。
あの様子では、少し力を加えれば簡単に折られてしまうだろう。
「わかったか?………お前が死のうとしても、あのガキを殺す。布を外してやるから、俺の望む通りに喘ぐといい」
低い声で言って捨てて、玉鼎の口を解放した。
「………ッ、ゴホッ………」
「ああ、もっといい声で啼けよ。………ぞくぞくすんなぁ。お前みたいな仙人が血に濡れて苦悶してるのって」
愉悦を宿した眼で笑う夜叉に、玉鼎は蔑むような目線を投げて、
「………悪趣味な、男だ………どうかしてる」
「は、随分と強気だな。………妖怪なんてのはそんなもんよ。てめぇの欲に何より忠実なのさ。血が見たいと思えば人を殺すし……女が欲しいと思えば抱く」
「妖怪だから、ではない。………そんなもの、自我の持ち方次第でどうとでもなる。貴様の精神が脆弱なだけだろう」
「ふん、そうかもな。……だが俺にはこんな本能が気に入ってる。………美しく汚れのないものを見ると壊したくなるのも、妖怪の性だ」
人間だったお前には、きっと理解できないだろう。
血を味わえば悦びを感じ、欲した相手を喰らい尽くすまで満たされぬ………そんな妖怪の本性を。
「諦めろ、玉鼎真人。………どうにもできやしないさ」
静かに諭して、ゆっくりと自分に伸ばしてくる腕を、玉鼎は朧い視界の中に見定めていた。
この男が一体何をしたいのかわからない。
だが、あの幼子だけは………
玉鼎は、汗で湿った左の拳を握り締めた。
斬仙剣は、夜叉の背後に打ち棄てられている。
妖怪仙人までの距離は、そう遠いものではない。
…………機会は、一度だけ。
出血によってほとんど感覚が無くなってきている状態では、それを逃せば、もう自分に勝機は無かった。
玉鼎は、左肩を押さえ込んだ上で近づいてくる夜叉の顔に、ふっと笑いかけると、
「………飛天夜叉」
「どうした?………今更泣きついても遅いぜ?」
「お前は………私の特性が剣技だけだとでも思ったか?」
「玉………」
「だとしたら……それは間違いだ」
消え入りそうな声でそう言い終えるなり、玉鼎は左手で夜叉の腕を荒々しく払いのけ、そのまま彼の首にそれを食い込ませた。
めき、と嫌な音を立てて、頸骨が大きく軋む。
「………が………!?」
そして、宝貝を発動させる間すら与えず、左腕一本で彼の身体を地盤に叩きつけた。
通常の剣では刃の方が欠けるような硬質な岩盤が、その衝撃によって大きな亀裂を生じる。
その外見から想像できるものは少ないが、玉鼎は石をも握り潰すほどの強力を有していた。
「………な………頭………!?」
そして間髪をおかず、完全に虚を突かれてふためく妖怪仙人めがけ、利き手で斬仙剣を風切って投げつける。
それによって、更に出血が酷くなるが、構っている暇は無かった。
そうして、手中の相手が反撃に出る前に、あの黒剣を血で滑る右手に取り、
「………………終わり、だ」
「……………!」
その胸に、最後の力を振り絞って刃を突き立てる。
霞んだ目の端には、斬仙剣に貫かれた妖怪仙人の姿が映し出されていた。
しばらく気を失っていたらしい。
ふ、と黒剣にもたれかかるようにして傾いていた身体をのろのろと起こした。
「…………っ、ぁっ………!」
途端、脊髄をかけた激痛に思わず身を折る。
藍の領布と濃緑の衣には、粘った血で奇妙な紋様が描かれていた。
無茶な立ち回りで、裂けた肩の肉が更に開いたようだ。
熱に浮かされた身体は思うように動かせず、玉鼎はまた岩壁に沈み込む。
そうして、荒い息を吐き出しながら、ゆっくりとに辺りを見渡した。
既に子供はいない。
その場所には、斬仙剣に貫かれた大蜘蛛の屍が横たわっているだけだ。
「……………、」
それを見て、ふと玉鼎は傷を堪えつつ頭を起こす。
眼前には、胸を己の宝貝で串刺しにされた男の姿。
だが、いつまで経っても原形に戻る様子がない。
「………どういうことだ………?」
疑問を口の外にこぼして、玉鼎は左手を緩慢な動作で夜叉の口元に伸ばす。
息が止まっているかを、確認しようとしたのだ。
だが、
「……………!」
彼の表情が、これ以上ないほどの驚愕に彩られた。
確かに息の根を止めたはずの相手の指が、自分の手首を無造作に掴んだのを見て、
「やってくれたたな、玉鼎真人。………俺を殺したのは、お前で二人目だ」
愕然と凝視してくる玉鼎の眼を笑いながら受けとめて、夜叉は剣を何事も無かったかのように引き抜き、身体を起こす。
その部位からは、血一滴すら流れてはいなかった。
「な………ん、だと………?」
さすがに玉鼎は息を呑む。
その血に染まってなお鮮やかな容姿を、夜叉は細めた眼で見つめると、
「どうやら、俺には複数の命があるらしくてな………生憎と、まだ数は尽きないようだ」
そんなことを告げつつ、ぐ、と玉鼎の腕を引き、己の胸中にその身体を抱き寄せた。
「………な、にを………!」
それを拒もうと、彼は力ない身を捩るが、
「………っ………」
不意に激しい眩暈に襲われ、そのまま夜叉の腕の中へと倒れ込む。
紅く淀む眼の先に………何故か、見慣れた蒼い煌きを映した気がした。
「そこまでにしていただけますか?」
玉鼎が刀傷によって気を失った直後、そびえ立つ尖岩の上から冷徹な声が降った。
「…………」
それに夜叉は別段驚きもせず、く、と首を持ち上げて天を仰ぐ。
哮天犬を従え、月光の下で夜風に蒼い髪をなびかせて佇む……一人の道士。
凍てついた紫の瞳が、まっすぐに夜叉を捕らえていた。
「………やれやれ、邪魔が入ったな」
「師匠を返してください」
音もなく岩の上から降り立ち、急くでなく楊ゼンは二人に近づく。
それでも触れれば切れそうなほどに、彼の周囲の気は張り詰めていた。
「玉鼎真人門下、清源妙道真君か………成程、気質があの方によく似ている」
くっと息を吐き、夜叉は玉鼎を手放して立ち上がった。
楊ゼンはすぐさま駆け寄り、師の力を失った上体を抱き起こす。
無残に薙がれた右肩の創傷を見て、ギリ、と唇を噛み締めた。
「ふ……そう殺気立つな。俺だって殺されたんだ。
……しかし、お前の師匠は強いな。その甘さが命取りだが」
「貴様に師の何がわかる?……五体を裂かれたくなかったら、黙れ」
研がれた脅しに、夜叉は怖いな、と肩を竦め、気づいたように宝貝を拾い上げた。
それに少なからず警戒を強める相手に、ひらひらと笑いながら宝貝を振ると、
「安心しろ。今日はこれで退いてやるよ………お前も俺を殺したいだろうが、早く手当てをしてやらねぇと、大切な師匠が死んじまうぜ?」
心を見透かすように嘯かれて、楊ゼンは無言で玉鼎を哮天犬に横たわらせる。
確かに、この男には今すぐにでも生き地獄を味合わせてやりたかったが、師の容態の方が心配だった。
名も知らぬ妖怪仙人を牽制しつつも、楊ゼンは早急にその場を離れようとしたのだが、
「妖怪」
たったそれだけの呟きに、腕が止まる。
相手を振り仰げば、相も変わらず月光に仄蒼く照らされた笑みを浮かべていた。
「………何が言いたい?」
「いや、言葉のままだが……崑崙の中で、人間の振りをして暮らすのはどんな気分だ?血もなく諍いもない……清浄すぎて、お前には辛いだろう?」
その嘲るような台詞に、楊ゼンは内心僅かな動揺を見せていた。
何故、この男が自分の生い立ちを知っているのか。
だがその事実すらも、今はどうでもいいことだった。
「…………………生憎と。上手くやってる。的外れで残念なことだな」
的を得ない会話を打ちきり、彼はザッと夜空に飛び立つ。
叩きつけた言葉に、嘘は無かった。
………無いと、思っていた。
「…………………どうかな。いずれ思い知るだろうが、これだけは覚えておくといい。
妖怪は所詮……血と欲に逆らうことは適わぬ存在だ」
お前は、師の身体に刻まれた傷に憤ったけれど。
直視すれば、きっと耐え難い喉の乾きに気づく筈。
それが愛する者の血ならば尚更………
「………そんなに、この場で殺されたいのか?」
「冗談。………まあ、せいぜい強がっておけ。こんな月の夜には、難しいと思うがな。
………ああ、それと気をつけろよ。隙があればお前のお師匠様、俺がもらっちまうぜ?」
そんな台詞を捨て残して、夜叉は森の奥へと姿を消していく。
静然とした周囲にはたちまち冷えた沈黙が訪れ、楊ゼンは何かに操られるように月へと眼を向けた。
赫い。
まるで師を彩る血のような。
「………っ…………」
その考えを無理矢理に振りきり、楊ゼンは一路洞府へと身を進めたのだった。
金霞洞に戻った楊ゼンは、すぐさま玉鼎の自分の寝台へと運んだ。
血を吸って重くなった上衣を片肌だけ引き下げ、濡らした布でその傷口の回りを丁寧に拭い清める。
「………ぅ………」
それでも、引き攣るような痛みが伝わるのか、玉鼎は時折苦しそうな呻きをもらした。
額には、大粒の汗が次々と滲んでは滴り落ちる。
傷を中心に身体は酷い熱を持ち、唇からはしきりに荒い息が吐き出されていた。
「………………」
直視するのもつらい刀傷。
いくら師の安否を優先させなければならなかったとはいえ、やはりあの男を無傷で帰すのではなかったと、楊ゼンは舌打ちしながら塗り終えた薬を箱に収める。
血はあらかた止まったが、まだそこから白皙の肌を侵食するように紅い色が広がっていた。
「………とりあえずは、これでいいか」
後はこの血塗れの服を取り替え、風邪を併発させないように暖かい格好をさせて……もう少し容態が落ち着いたら、太乙真人様か雲中子様に来てもらおう。なにか滋養のある食事も作らなくてはいけない。
そう思いを巡らせて、楊ゼンがふと窓の外に眼をやった瞬間。
月が、己の頭を射抜いた。
夜天に紅い闇を侵食させて輝く光景が、何かと重なってゆく。
「っ…………」
妖怪は所詮、己の内に巣食う欲望を殺すことなど出来はしない。
こんな月の夜には………血が、恋しいだろう?
聞きたくもない敵の声が眼の奥に響いた瞬間、どくん、と心の中に黒い靄が溢れ出た。
自失したような紫の瞳を、導かれるままに月から外せば、その真下には衰弱した師の姿。
身体が、跳ねる。
………………先程と同じ色の筈の血が、あまりにも鮮やかに眼に映って、
「師匠…………」
小刻みに揺れる指先を右の肩に伸ばし、傷から滲み出た血を掌に擦りつける。
「ぅ…………」
それを余さず舌で舐め取り、師がその秀麗な顔を顰めて身を捩った瞬間に、
今まで、皹を生じながらも守ってきた何かが、完全に奈落へと砕け落ちた。
楊ゼンは無意識の内に、青ざめた玉鼎の唇を乱暴に絡め取っていた。
十三話へ・十五話へ
ああ長かった;;
こんなに長く引いたら、やっぱりいきなり楊ゼンが理性を失うんじゃ
サマになりませんから、月に責任転嫁をしました(死)
というわけで鬱陶しかった中盤は一応終わりです。
次回からは裏な話ばっかりになりますので、どこかに移動する予定です。
でも裏を知ってる方にはすぐわかるような処に……はい。
お察しの通り、今から弟子や友人にとことん玉鼎サマが精神的にも身体的にもイジメぬかれますので、
お心の広い方だけ見てやってくださいませ……(かなりびくついてます)
しかしこれから先をを書きたいが為に、わざわざこんなただれた部屋を作った私も相当腐ってますね、ええ(何を今更…)
嫦娥(じょうが)…月の異称。恒娥ともいいます。中国の月に昇った女性の名前らしいですが…うーん、記憶が(こら)