富士宗学要集第九巻

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第八章 北讃の争論

 富士の史伝は中世の謬誤に成れるものありて富士と讃岐の関係も明瞭ならず、其闇中模索にも日華日仙は大石に親しくして北山に疎き事勿論なれば時の私情を抛棄するとき大石と通用すべきに、戦国時代の交通梗塞が禍を為して南海に孤立する事久しかりしが、偶四海平定江戸繁昌の声に催せられて東游の宗徒を生じ富士にも参詣するに至る、北山にては此好機を逸すべきにあらず二代に亘りて画策せし末山獲得の意図なりしも此無謀は讃岐の甘受する所とならす、騎虎の勢遂に末寺なりと強いて其伏住を公廷に訴ふ、北山の利は地利と情実とにあり讃岐は二つながら無し、況んや秋山宗家の微禄に伴うて高瀬大坊も開山己来文安文明度の隆盛を失し気息奄々たる時、如何に正理を唱ふとも此を骨張する事を得んや、涙と共に負公事に伏したる後世よりも其残念さ想像するに余りあり、此が為に表面末寺の形にあるも意から其義務を果すことなく再起の機運を持ちつゝあり、石門との提携も慶応度の公事の相手も明治度の分離の希望も恐らくは其原因爰に在らん、若し不幸にして讃岐が衰頽の極に陥らば止む然らざれば何時にも起こるべき問題なりしが、時運到来して六百数十年の原始に帰ることを得たるは、是れ全く仙門永年の努力に依る。
一、正保慶安度の出入   端を讃徒大弐日円の富士参詣に発してより次に三四の寺家僧の登山を優待して買収し内部に種々の工作を施し強制的に末寺分とせしも成らず、却て此の三四者が大坊に屈するを見て傍観する事能はず、末寺として本寺に背くと称して公訴に付せり、高瀬の主日教若年なれども陳弁反駁を極めたるが其勢力続かず、遂に非運の判定に余儀無くせられて万代の禍根を残し開山日仙並に開基泰忠日高の法勲を無にしたること惜しむべき事なり。
本門寺日健状    祖滅三百三十年慶長十七年の正本讃岐西秋山家に在り。
尚以て此己前書き付の勤行次第に油断有るまじく候、大弐坊の御信力有り難く□□に□□くれぐれ来春御登山なさるべく候。
追て大仁公日円と実名進せ候、又々日興日仙の御時代ごとく門徒作法御信力祈り候。
来札の旨具に披見其意を得候、仍て上代日興上人の御筆札に日目日仙日代等は本門寺仏法の大奉行たるのよし眼前に候処、日比は遠国の故仏法断絶本末其是無音筆紙に尽し難く候、之に依て興門所立の化儀化法共に他門徒の如く罷成り候は帰す帰す勿躰無き尽りに候、然る所に今度大仁公不図登山殊に貴所御書状の趣き上代日仙御時代の如く門徒の作法之有るべき旨誠に似て有り難き御所存尽し難く候、其元真俗中御信力日興日仙の御時のごとく是非世間仏法門家繁昌仕り候様に無二無三の大願心を抽んでられ、本末とも尽未来現当二世為楽成就疑ひ有るまじく候、其国皆々富山の作法以下御存知の為出家一人指越し申し候、能能く真俗中へ御談合仏法御改め尤然るべく候か、委細の旨円心坊に申含め候、真俗中御報待入り奉り候、恐々謹言。
慶長十七子四月十一日 本文寺日健在り判。
秋山四郎兵衛殿御返報。
法花寺より北山本門寺へ返状   年代不明なれども正保公事の前なるべきも本門寺よりの状は何れにも見ることを得ず、法花寺とある事如何なれども但し正本にあらず後代の控なれど卒爾に写したるか、写本西秋山に在り。
「ひかへ」尚以て寺家六坊弘僧の為め江戸へ罷上る己後拙僧才覚を以て前々の寺か□(跡)取立て申し候右の方へ□□御覧成され候間様子仰せ上げらるべく候、其上寺家屋敷先年は年貢召上げられ候へども拙僧才覚を以て山崎様へ御理り申上げ御免成され下され候。
御文札忝く拝見仕り候、先以て御院御無異に御座遊ばされ保由目出たく存じ奉り候、当院寺中ども無事罷り在り候慮外ながら心易くせらるべく候、然れば当院寺□破滅□(躰)の物にて二間半に七間の客殿、二間半に九間の台所にて御座候へ、拙僧子の年(日教寛永十三年丙子か)に江戸に罷上り丑歳に寺取り立て五間半に八間のほう(方)ぢやう(丈)を立て、先年は屋敷もせま(狭)く御座候に付き寅年に屋敷の場を広く仕り候卯年に五間に八間の台所を立て辰年に六間に七間の廊下立て同年に二間に二間半の門を立て、申年に五間四面の御堂を立て御堂よりほう(方)ぢやう(丈)はての間壱間半に九間半の廊下を立て酉年に三光の堂上ぶき(葺)致し申し候、後の為に成り申すべきかと存じ苔□六七反ほど松植林仕り申し候、其上此寺に先年寺領御座候処何此より寺領も御座無く寺の異(威)光も御座無くたい(退)てん(転)の様に罷成り候所迷惑に存じ山崎甲斐守様御入国の砌り御理り申上げ寺領荒地八石五斗下され候、右の仕合に御座候へば師匠におく(後)れ申す時は借金の御座仕合せに右の造営寺領旁々拙僧為には叶ひ難き時分に御座候へども当寺開山御本寺への御奉公一廉精をも出し右の仕合に存じ奉り候。
縦ひ結句隠居を致し寺をば使僧へ渡し候へ抔と仰せ下され候義一円合点参らず候、此度拙僧檀那中へ御状に切に御仕置の程御訴訟金仰せ越され候間、先づ寺家中召寄せ御使僧札信坊前にて吟味致すの所に書状差上げ申さざることと其上銘々の制(誓)文仕り候、拙僧所よりは右の仕合せ故に御無音仕る儀に御座候へば終に申上げず候て何方より申上げ候や是似て不審に存じ奉り候間何方より申上げ候とも具に仰せ下さるべく候。
尤貴意に任せ参詣仕りたく存じ奉り候へども唯今も本堂建立仕度の才覚用意仕□御座候条、自由構しき申上げ事に御座候へども今一通り御左右下□□□と御使僧へ申上る事に御座候、御左右の品□より堂材木用意差延べ伺書を以て申上ぐべく候、委細の儀は御使僧仰せ上げらるべく候、恐惶謹言。
(正保三年か)卯月八日 下高瀬法花寺。
富士本門寺尊答。
北山日優状   祖滅三百六十四年正保三年の状当時の古写本法華寺末、中之坊に一括して本件八通あり、前に在る日健は北山十二世にして日優は十五世なれば代数二世を跨げ三十四年を距てたり、此間両山の交渉を見るべき文献なしと雖も本状に依れば昨年讃岐より登山せしが近因にて慶長度の分を遠因として本件発生したりしが如し。
態と飛脚を似て申し入れ候、随て貴寺御檀方中弥似て別条無く候や、本山鎮に繁栄候、次に去年貴院御状を添へさせられ本山参詣の出家衆に先規の例に任せ寺号●に阿闍梨号免許せしむる処に、帰国以後其元にて貴坊退座せしむる由申し来たり候実儀に候や、先年慶長年中に貴寺師匠●に御檀方中本山参詣の砌り、師匠大二位にて参詣致され、当山にて法華寺久遠院日円上人と補佐を蒙り御本尊候き、又源を尋れば正中年中の此吾寺の興上より弟子仙人に上人号を補佐し西国の御弘通を付嘱成され候き、爾しより以来四百年に及びて吾寺の末寺たる事歴然に候、然るに今新に邪義を企て彼の出家を不座せしめ迄ぬ、似ての外の曲事にて師敵仏敵其罪遁れ難き者か、但し子細有るに於ては早速此の使者と登山致され心地を述べらるべく候巨細の旨此の使僧宣説すべく候、恐惶謹言。
(正保三年) 五月廿日 本門寺日優判。
下高瀬村法華寺御同宿中。
高瀬本門寺秋山返状   年月を記せざれども前と同年同月なるべし、秋山は中興日教にして秋山家出身として本件の対手たり、時に京都遊学中と見え弱年ならんが、相当の硬骨にて宗家の擁護もありしか堂々の陳疏の状なり。
今度は遠路の処御使僧差し下され候所に拙僧学問の為め在京せしめ御馳走申さず残心の至りに候、御芳札京都に於て拝誦せしめ候則御報申し上ぐべき旨御使僧迄申し入れ候へども御請取成さるまじき由仰せられ候間是非に及ばず閣せしめ候処に存じ寄らざる条々ども仰を蒙り驚き入り候。
一、御上書に高瀬村法華寺と遊ばされ候事不審千万に存じ奉り候、其故は高永山本門寺の山号寺号は忝くも開山上人御付け成され四百年に及び候処に、末代に至り其名を改め申し候事御開山冥慮の程怖ろしく存じ奉り候間、此方僧檀の内存はい開山上人尊敬仕り候儀深重に御座候間未来永々迄本門寺の寺号易へ申す事は仕りまじき覚悟に御座候、但し先師日円上人去る慶長年中貴寺参詣の刻法華寺久遠院日円の補任遺されの由仰を蒙り候、縦ひ日円本門寺を法華寺と改転仕るべき旨懇望致され候とも貴寺御承引成されまじき儀に候、其故は開山の御付け成され候寺号を御改め候へば開山を軽蔑成され候道理に罷り成り候間、祖師冥慮の程思召され候はば寺号改転の儀御同心成さるまじき事かと存じ奉り候、左様に御座候へば日円誤って懇望致され貴寺又御誤り成され法華寺の御補任遺され候とも誤を改め先々の如く本門寺と名乗り申し祖はんに何の障り御座有るべく候や、其上日円御此師僧檀に対し法華寺と申す事は一言も申し出られず候、守漫荼羅書札以下に至る迄本門寺と書き申され候、左候へば貴寺に於て法華寺と申す補任懇望致され祖事も一座の会釈にして本意とは存ぜられず祖事必然に候、将又貴寺と同名如何と思召るさべく候へども一門徒の内に同名御座候事珍しからざる儀に候、京の妙顕寺敦賀の妙顕寺是は本末同名にて御座候、日興門徒にも重須本門寺、西山本門寺富士の久遠寺、房州の久遠寺加様に富士五箇寺の中に同名御座候上は遠国の高瀬本門寺少しも苦しからざる事に候、所詮高永山本寺は開山上人御付け成され爾来四百年に及び呼び来り候間如何様の儀御座候とも未来永々迄寺号改転仕るまじく僧檀の覚悟にて御座候事。
一、去年拙子寺僧ども貴寺参詣仕り候処に寺号●に阿闍梨等御免し成され候由、是又高瀬本門寺開山己来の式法御存知無き故に候、高瀬本門寺の儀は西国参拾参箇国の導師たるべき旨日興上人仰せ置かれ候事其の紛れ無く候、元より寺僧どもに本門寺大坊より院号坊号日号阿闍梨号等免し申し候事古来よりの掟に御座候処に、彼の寺僧ども此方を閣き剰へ案内を経ず貴寺に於て寺号山号坊号院号日号阿闍梨号等申し請け候事高瀬本門寺の法式之を破る者共に候、貴寺又吾寺家の者共に寺号遺はされ候事本門寺の寺僧誘ひ取り御末寺に成さるべき御心底扨々不似合の思召し立ちに候、左様に候はば住々は脇坊なしの高瀬本門寺と成されたく思召され候や、先代末聞の御企てと存じ奉り候、彼の寺僧ども寺号申し請け候て大坊と同位等行の思ひをなし住持を蔑に仕り候事憎き働きどもに候間急度過申し付くべく存じ奉り候、中ん就く上坊事は別して重々の曲者にて御座候、日円上人遷化己来度々に及び悪逆を企て候事繁き儀に候間閣き申し候、去年貴寺に参詣せしめ帰国仕り何の法へも案内を経ず中坊より座上に居申し候、地盤中坊と申すは御開山日仙上人御隠居所の旧跡にて御座候故、彼の坊跡僧は衆徒中の座上に相極り大坊の左座に居申し候古来より掟御座候処に、彼の上坊重須にて阿闍梨に成り候とて中坊より座上に居申し候、是は古来の法式を破りたる者にて御座候、此の座牌の儀に就き中坊檀那どもの申し分は日仙上人御隠居所の坊跡故昔より中坊は座上に極り候処に、今更下座仕り候事謂れざる次第と内々にて申し候、其風聞承り候故か彼の上之坊当年元日より出仕をも致さず大坊へ札にも罷り出でず候、其様子尋ね申し候へば隠居仕りたる由申し候、惣じて隠居など仕り或いは他国などへ参り候砌りは住持へ案内申す事古来より法度にて御座候処に、其処に其理りもなく隠居仕り候て法度破り申し候事治定にて候、其後理りもなく何方へやらん参り候重々方式違背の咎遁れ難く候、将又上坊には古来より本延寺と申す寺号御座候処に、去年貴寺に於て昔よりの寺号を打捨て浄円寺に改め申し候、是又大なる越度仕り此方諸人の笑草に罷り成り候、其故は浄円と申すは上坊親父の戒名にて御座候、彼の浄円は本門寺大坊の庭婦仕りたる者にて御座候、其庭婦の戒名を寺号に付け候事ためし(例)すくな(少)き事とて諸ひと哢り此事のみにて御座候、加様の不覚仁が懇望仕り候とて御承引成され浄円寺の補任遺はされ、又御堂へ出仕も我と引き候て此方より退座せしめ候様に申し上げ候をも御許容成され、遠路の処迄仰せ越され候段も諸人の褒●如何に御座有るべく候やと存じ奉り候、兎角上坊事は重々逆罪の者にて御座候間追放せしむべき覚悟に候事。
一、今度御使僧下着成され僧檀に対し仰せられ候通りは本門寺大坊●に御堂とも明させ早々請取申すべき旨富士御上人様仰付られ候へども左様の儀は使僧の身として如何と存じ遠慮せしめ候由慥に御申し成され候、貴寺如何様の筋目を以て左様の御下知仰せ付けられ候や誠に案外の至りに候、高瀬本門寺は正中年中の比秋山源泰忠建立せしめ、爾来四百年に及び秋山氏の一家より相続せしめ秋山氏進退の寺にて何方よりも毛頭指引遊ばされ候事成り難き旨、先代よりの書き物ども御座候、左様の段御存知無き故理不尽なる御下知仰付られ候かと存じ奉り候。
一、御使僧より中坊方へ御使遺はされ候由承り候、其趣きは中坊は上坊より下座に居えらるべく候、上坊は重須にて阿闍梨に成り候間上座然るべき旨再三御使立てられ候由承り候、是は右にも申す如くに候中坊は日仙上人御隠居所の坊跡故先代より寺中の上座に相極り、縦ひ若年の僧中坊を持ち候とも別坊の老僧をも下座に置き申す先規にて御座候処に、今度の御使僧古来よりの式法御破り成され中坊に下座仕るべき旨仰せ懸けられ候儀謂れざる事かと存じ奉り候事。
一、御使僧の裁判として西山坊の出仕を押へられ候由承り候、本門寺の儀は某不肖乍ら住持職に罷り成り候故衆徒の糺し方軌賞罰申し付け候処に、某の衆徒に対し我儘に罪科仰せ付けられ候事誠に以て狼籍の至り筆紙に難く候事。
右の趣き思召し分けられ旧盟を●えず未来永々通用を致し仏法興隆門徒繁栄せしむるに於ては大望之に過ぐべからず候、恐惶謹言、言上。
高瀬本門寺 秋山。
重須本門寺殿 回章。
北山日優の訴状   北山本門寺にて再度の使僧も其本山権を行使すること能はず、却て正理を以て反駁せらるるを以て遂に江戸表社者奉行所へ出訴せり此に依り時の奉行松平出雲守勝隆及び安藤右京之進重長より法華寺秀山に出府を命じたるなり、写本住所前に同じ。
恐れ乍ら申し上げ候。 富士山本門寺。
一、駿州富士山本門寺の末山讃州山崎甲斐守殿御領分下高瀬村法華寺中の出家三人、去々年春中富士本山へ参詣仕り候刻三人の内壱人本寺にて阿闍梨号に申し付け候処、帰国以後法華寺に罷り有り候秀山と申す出家彼の阿闍梨号を不座せしめ候、去々年春中迄は秀山も末寺に紛れ無き旨三人の僧に我等方へ状差越し唯今我儘仕り候御事。
一、法華寺什物の内日蓮大聖人同く日興上人彼等の開山日仙自筆の本尊日蓮上人夢の御影、●に某四代己前の本門寺日健上人より出し置かれ候補任の本尊此外重宝ども数多御座候処、近年右の秀山法華寺寺中の出家にも又檀那等にも拝見仕らせず候由申し来り候間、去年夏中両使差し越し寺の什物ども衆檀拝見仕り候様にと申し遺し候へども、秀山承引く仕らず、剰へ本門寺の末寺には之れ無き由申し候御事。
一、先年より法華寺に付け来り候屋敷分の外に高四拾石余の所、彼寺の前住久遠院買取候て付け置き候処其の田地、同く造営仕るべきよしにて調のへ置き候瓦以下、其外寺内の竹木まで秀山切り取り商買仕り候御事右の通り秀山我儘仕り候へば法華寺大破仕り候間召し寄せられ先規の如く仰せ付けられ下さるべく候、以上。
正保四年亥二月三日 富士山本門寺日優判。
御奉行所。
此の如き目安指し上げ候間来る三月中に急度参府致し対決を遂ぐべく候若し遅参に於ては曲事たるべき者也以上。
(正保四年)亥二月五日 右京判、出雲判。
讃州下高瀬村法華寺秀山。
北山日優より山崎家宿老等への状   北山にては兼て高瀬本門寺の領主山崎甲斐守家臣に書通あり、今回更に出訴に依り相手方法華寺の出府を催がされたき由の頼み状を出せり、在所、同上。
一封呈進せしめ候、随て去年七月中回章披閲せしめ候、其に就て法華寺秀山に相尋ぬる子細にて寺社御奉行所御裏判申し請け指し越し候間、若し遅参致し候はば草々下著仕り候様仰せ付けられ下さるべく候、尚詳に能はず候、恐惶謹言。
(正保四)二月七日 富士山本門寺 日優判。
谷田三右衛門殿、新海半右衛門殿、由良外記殿、御小姓中。
山崎家老の返状   同上、同上。
貴札拝見せしめ候、然れば甲斐守殿領内下高瀬村高永山久遠院秋山に御尋ね成さる子細御座候に付き寺社御奉行衆様御裏判御請け成され秋山方へ差し遺はさるの旨、夫に就て私ども迄仰せ聞けられ御紙面の通り申し届け候、委曲秋山より申し入るべく候、恐惶謹言。
(正保四)三月六日 谷田三右衛門判、新海半右衛門判、由良外記判。
富士山本門寺様。
高瀬本門寺より山崎家へ状   以上の写を領主の一見に供ふべく同家中赤田等へ頼みの状。同上、同上。
右の内の証文ども爰元にて殿様御目に掛けさせられ下され候様にと谷田三右衛門殿、新海半右衛門殿、由良外記殿迄申し上げ候へども調のひ申さず候に付き、御次でも御座候はばと存じ奉り写しを仕り指し上げ申し候以上。
正保四年三月十五日 下高瀬本門寺在り判。
赤田七郎右衛門様、谷田弥右衛門様。
高瀬日教より富士本門寺へ状   高瀬本門寺日教より日優に宛て寺社奉行の招喚状受領の事及び懸引無き弁明書中々の誠意なり。同上、同上。
今度は存じも寄らざる儀に寺社御奉行様の御裏判取成され持たせ下され候御裏判今月朔日に頂戴仕り候早々御意に任すべく候へども不如意の私に御座候へば近日罷り下る支度も罷り成らず候、何も跡より何とぞ用意仕り罷り下るべくと存じ候、扨又入らざる儀に候へども御目安の御理り別紙に申し進し候、恐惶謹言。
(正保四)三月九日 下高瀬本門寺 日教判。
富士山本門寺様。
一、御目安に上坊を私不座申し付け候由御座候一円左様にて御座無く候、上坊に古来より付き候寺号本延寺と申すを打捨て主親の戒名浄円と申し候を則浄円寺に仕り候彼の浄円は本門寺大坊の庭掃き仕り候者の戒名を寺号に申し請け候是は御存じ之無きものと存じ候、檀那ども浄円寺を迷惑がり申し候間、其上先年より高瀬本門寺の開山日仙上人御隠居所の中坊を下座にすへ重須にて阿闍梨に成り候間上座仕り候と申し候故、中坊檀那ども古より中坊を持ち申す坊主は縦ひ若年の坊主にても惣寺家の座上に罷り有ると申し候付いて謂れざる儀と申し候、別寺に建て浄円寺と名乗り候へと申し候へば立ち退き申し候事。
一、先(住)持造建仕るべき為に材木瓦調のへ置き候処に先(住)持相果て申す、以後西坊過分に材木を取り寺を建て申し候、瓦の儀は何時にても寺建て申す時は筈に相申払(此の五六字難読なり)御座候●に竹木の儀は守護様より御法度つよく御座候故私儘に少も罷り成らず候。
一、田地の儀先(住)持相果て申し候時高四拾参石余の内、私に高五石壱斗ならでは渡し申さず、西坊●に一門どもにわけ(分)遺し候割帳に庄屋判御座候紛れ無く候。
一、日蓮上人御自筆漫荼羅夢の御影の儀は曽て似て寺の什物にて御座無く候、檀那方の本尊にて御座候を先(住)持預り状仕り候て預り申し候、則預り状に先代生駒壱岐守様御家老中御裏判御座候。
一、私寺本門寺を末寺と仰せ懸けられ候其段は罷り下る砌り直段に申し上ぐべく候。
右の通り入らざる事かと存じ候へども御目安に御座候、私寺家坊主とも遠路故御存じ無き事偽り申し候を実儀に思召候間此の如くに候、其元に居申し候坊主どもに此の通り御尋ね成され候はば私偽りとは申し難く候か、以上。
正保四年三月九日 下高瀬本門寺(判形仕らず候)。
富士山本門寺様。
高瀬本門寺大坊より山崎領主に己上の陳情書   領主の了解を得る事の必要あればなり。同上、同上。
一、重須本門寺より私寺を法華寺と申し越し候儀不審千万に存じ奉り候、其故は高永山本門寺の寺号は開山日仙上人御付け成され四百年に罷り成り申し候、殊に文安年中に高瀬本門寺の寺家中先規の糺し方●証文御座候御事。
一、私寺家本延寺富士本門寺に於て阿闍梨号を取り候処に私不座申し付け候由聊か左様にて御座無く候、日仙上人より定め置かるる座はい(配)を替え●に本延寺を引き替え主親の戒名浄円を則浄円寺と号し申す故寺号を替え候はば別寺を立て名乗り申すべきの旨申し付け候へば立ち退き申し候御事。
一、去々年寺家僧富士へ参詣仕る刻私寺重須本寺とも末寺とも申し入れず候御事。
一、文明年に昔の公方様御判●に当国其時の守護香川殿添状の折紙今に御座候御事。
一、私先師重須本門寺へ参詣仕り候儀は高瀬本門寺の開山の御師匠の寺にて御座候へば参詣仕り候刻、重須本門寺より法華寺久遠院日円の補任遺はされ候由一座の会釈にて御座候や、帰国以後法華寺と申す儀は一言も申さず守まん(漫)だ(荼)ら(羅)棟札瓦ばな(端)書札以下に至る迄先規の如く本門寺と仕り今に御座候御事。
一、日興上人の御弟子六人の内日仙上人西国卅三箇国の導師と申し伝へ候処に、日仙上人の御寺斗り重須本門寺の末寺たる儀御座有るまじきと存じ奉り候、其故は日仙上人弟子兄弟京の法要寺、富士の久遠寺、西山本門寺、大石寺何れも相弟子名別に御座候処に、高瀬本門寺迄末寺たる儀合点参らず候御事。
一、高瀬本門寺の什物日興上人の自筆、開山日仙上人の自筆正五七日七月十日に右の月中掛け置き申し候処に衆檀拝見仕らず候由大きに偽にて御座候御事。
一、日蓮大聖人の本尊壱幅、夢の御影一幅は愚僧先祖より秋山四郎兵衛迄持ち来り候私師日円慥に預かり状御座候、其の砌り日円と秋山一類と右弐幅の本尊に付き出入御座候て、高瀬本門寺は秋山一類より持申す筈に御座候故愚僧罷り有る儀にて是を似て証文今に御座候御事。
一、日蓮大上人の本尊は諸人に拝ませ申し其の施物も御座有るべく候へどもそ(粗)そう(相)に取り扱ひ大事と存じむ(無)ざ(造作)と拝ませ申さず御番を仕り候、夢の御影の儀は檀那方相煩ひ祈念などに望み申す時は一日に両度も今に檀那方へ掛け申し候施物取り申す御事。
一、高瀬本門寺(住)持高四拾参石余買徳(得)御座候先(住)持相果て候刻、右の高の内五石壱斗余ならでは私に渡し申さず、相残る所は人数拾人にわけ(分)付け帳面に庄屋判仕り候、仏具諸道具共に先(住)持甥西坊七拾色取り申し候御事。
一、右の外に西坊三間半に八間の寺を立て申し先(住)持存じ立ちの材木私へ答へ無く取り込み残る材木半足に罷り成り迷惑に存じ候、右の仕合に普請も相延び申し候へば瓦なども拾壱箇上りをのづ(自)から損し申すに不威徳院と申す寺へ少し惜し申し候、材木西坊親類とも少し宛惜し代銀も材木も今に取り申さず候竹木売買仕り候儀は申し上げるに及はず偽にて御座候御事。
一、去年重須本門寺より使僧指し越され候砌り、使僧の裁判として高瀬本門寺寺家の西山坊出仕を押へられ中坊へは再三の使ひを立てられ檀那中を指集め候儀理不尽成る儀に御座候、高瀬本門寺寺の儀は私不肖乍ら住持職に罷り成り候故衆徒糺方軌賞罰申し付け候処に、我儘に罪過申し付けられ候儀誠に以て狼籍の儀に御座候御事。
正保四年三月五日 下高瀬村本門寺大坊判。
新海半右衛門様、谷田三右衛門様、由良外記様。
尚々御次で御座候はば甲斐守殿え御取成しども頼み入り候、尚面を似て申し述ぶべく候、以上。
寺社奉行より秀山へ出府督促状   遠隔の地にある小本山の出府準備容易ならず厳達に遇へるなり、正本法華寺に在り。
駿州富士北山本門寺目安差上け候に裡判せしめ遺し候処、今に遅参不屈に候、目安に書き上げ候什物等持参致し急度対決を遂ぐべく候、若し此の上遅滞に於ては弥越度たるべき者なり。
(正保四)亥五月十日 右京在り判、出雲在り判。
讃州下高瀬村法華寺、秀山。
寺社奉行より再度の督促状   秋山日教出府遅々たるに依つて最後の厳達なり、正本法華寺に在り。
富士山本門寺目安差し上げ候に付き裏判出し候、遅参の故重ねて召状遺はし候処今に不参不屈に候、来る八月九日以前什物等紛失無き様に草々持参致し急度対決を遂ぐべく候、此の上遅参に於ては理非を論ぜず大法の如く追放申し付くべき者なり。
(正保四) 七月九日 出雲在り判、右京在り判。
讃州下高瀬村法華寺。
本門寺秋山より領主へ明細陳状   再度の厳達なれども病気の為に出府覚束なければ先づ領主に願ひ置く方良かるべしとて老臣に明細の陳状を呈せり、正本法花寺に在り。
富士山本門寺より目安差し上げ寺社奉行の御裡判申し請けられ持たせ給はり候慥に頂戴仕り候、其以後両度の御召状是又頂戴仕り候、尤も早々罷り下り御理り申上げべき処に夏中より散々相煩ひ今に然とも御座無く故遅参の段迷惑仕り候、彼の目安披見仕り候処に高瀬本門寺の旧規をも御存知無く、又は悪僧どもの偽を申し上げ候を御承引成され仰せ上げられ候かと存じ奉り候。
一、目安に富士山本門寺の末寺讃岐山崎甲斐守殿御領分下高瀬法華寺等と云云。
凡そ日興上人の御弟子衆諸国に於て御建立成され候寺々数多御座候、京要法寺、房州久遠寺、富士西山本門寺、妙蓮寺、大石寺加様の寺々も何も富士山本門寺の末寺に罷り成り又右の寺々何も富士山本門寺を本寺と仰がれ候や左様の儀は終に承らず候、然る処に高瀬本門寺斗り末寺と仰せ懸られ候事謂れざる義に候、殊に下高瀬本門寺の儀は正中年中の比秋山源泰忠と申す者建立仕り、日仙上人を御住持に請待仕り爾しより己来四百年に及び候へども富士山本門寺の末寺たる事終に承らず候、本寺末寺の筋目御座候には其代替々には本寺へ案内を経て住持を居え申す事諸門徒通同の法式にて御座候、然る処に日仙上人以来十二代御座候へども案内申したる事終に御座無く候間本寺末寺の筋目曽て以て之れ無き事と云云。
但し去る慶長年中の比先師日円●に檀那ども富士へ参詣仕り又其後寺僧ども参詣仕り候間富士は本寺下高瀬は末寺と思召され候や、是は富士は師匠日興上人の御寺、高瀬は弟子日仙上人の寺の筋にて御座候故、師匠を崇敬仕り候故参詣仕りたる迄にて本寺参詣と申す者にては御座無く候、日本国の法華宗の僧俗身延池上へ参詣仕り候事も彼の寺を本寺と仰ぎ候故にては之れ無く候、元祖聖人を崇敬仕り候故に参詣仕り候ことにて御座候、中ん就く下高瀬法華寺と遊ばされ候事不審千万に候、併し高瀬本門寺の由来御存知無き故加様の僻事御座候、其故は高瀬村高氷山本門寺の山号寺号は忝くも開山日仙上人御付け成され候寺号にて四百余年に及び呼び来り候処に、末代に至りて其の寺号を易え申し候事御開山冥慮の程怖しく存じ奉り候、此方僧檀の内在は御開山尊敬仕り候義深重に御座候間未来氷々迄本門寺の寺号易え申す事は仕るまじき覚え悟に候。
但し先師日円上人去る慶長年中貴寺参詣の刻法華寺久遠院日円と補任の曼陀羅遺はされ候故と思召しされ候や、是又承引仕り難く候、其故は先師日円此方の僧檀に対し法華寺と申す事は一言も申出されず一筆も書き申されず候故、寺僧も檀那も法華寺と申す事は曽て似て存せず候、日円の書き申され候守本尊書札以下に至る迄本門寺と書き申され候、其証拠には去る寛永八年辛末年御本尊預り状にも本門寺大坊日円判と書き申され候又寛永廿一年六月八日西之坊泉要坊仕り候一筆にも本門寺大坊参と書き申し候、此書き物の写し左に之を記し候、左様に御座候へば貴寺より法華寺と遊ばされ候補任の本尊も反故同前に罷り成り候、更に承引仕り難く候。
一、目安に法華寺中の出家●人本寺にて阿闍梨号を申し付け候処に帰国以後彼の阿闍梨を府座せしめ候等云云。
此上之坊事は去々年は此方より不座せしめたるにて之れ無く候、我と立ち退き申し候、其故は彼上之坊には古来より本延寺と申す寺号御座候処に、富士に於て昔よりの寺号を打ち捨て浄円寺と易え申し候、浄円と申すは上之坊の親父の戒名にて御座候、此の浄円は本門寺大坊の庭掃仕りたる身にて御座候、庭掃の名を寺号に御つけ(附)候事如何にと其坊の檀那どもも申し候、実に親父の名を寺号に付けたく候はば別に一寺建立候て浄円寺と付けられて然るべしと申し候、又本門寺の寺家に中之坊と申す御座候、是は開山日仙上人御隠居所の旧跡にて御座候故、此の坊主は老若に依らず本門寺惣寺家の座上たるべき旨古来よりの掟にて御座候処に彼の上之坊富士にて阿闍梨に成られ候間惣寺家中の座上仕るべき旨申し候て、古よりの式法を破り何方へも案内を申さず中之坊を追ひ下げ理不尽に座上に居り申し候、是を中之坊の檀那ども聞き候て古来より定め置き候座牌を破り中之坊を下座せしめ候事謂れざる義と申し懸け候、加様に重々の誤りども御座候故我と逐電仕り候。
今度西之坊●に泉要坊追放せしめ候事は、右両人去寛永廿一年の比拙僧に対し無実申懸け候に付き、円亀御奉行衆へ申し上げ召出し対決を遂げ候処に、彼者ども非儀に落居仕り候間其節追放申付くべき処に種々詫言仕り候間一筆をいたさせ宥免仕り候。
一筆の写し。
一、今度は拙僧ども卒爾成る儀を申し懸け候に付き、円亀御奉行中へ仰上げられ候、則拙僧ども召出され対決に及び候処に皆ども不屈の儀に相究り候、其に就いて西山坊同前に仰付らるべく候処に御用捨を加へられ其儘安座仕り忝なく存じ奉り候。
一、寺家中作法の義は先規より定め置かる如く壁書の諸式相守るべく候、自然不作法の儀を仕らば先年の掟の通に御法度に仰付らるべく候、後日の為状件の如し。
寛永廿一年甲甲六月八日 奥之坊判 西之坊判 泉要坊判 上之坊判。
本門寺大坊様。
此の如く一筆を致させ其罪過を許し宥免せしめ候処に、又其後重々旧規を破り申し候、一には高瀬本門寺大坊より坊号院号日号阿闍梨等許し申す法式にて御座候処、此方を閣き富士にて寺号阿闍梨号申し請け候事高瀬本門寺の法式を破り申し候事歴然に候、又本門寺寺僧として守本尊に判形仕候事、此二箇条は文安三年二月七日の法度、又文明三年十月朔日の法度書にも御座候、然る処彼両人守り判形仕り書き申し候。
西之坊判形の写し。
富士山日興聖人日仙上人 誉運山本円寺常住院日信判。
正保三年丙戌七月廿八日関善右衛門授与之。
泉要坊判形の写し。
富士山日興聖人日仙上人遺弟 蓮華山本泉寺日要判。
為現当安全授与之 彦十郎 正保大弐八月吉日。
此の如く判形仕出し申候守数通御座候、加様に旧規を破り申し候次第、●に古来よりの法度書ども持参仕り円亀御奉行衆へ御目に懸け候へば彼両人法度破り候事は歴然に候、此の上は兎も角も其方分別次第と仰せられ候間則追放仕り候事。
付り、今度泉要坊追放仕り其坊跡を此方より闕所仕りたる様に彼者申し成し候由 承り候少しも左様の儀御座無く候、彼の泉要坊円亀より出船仕り候刻坊内の諸道具残らす自筆に書き立て檀那どもの方へ遺し候故、檀那ども相集り候て諸道具改め候砌り、大坊よりも出家一人御出し候て共々道具相改め然るべき旨申し越され候へども使僧一人も遺し申さず候、泉要坊自筆の書き立て●に諸道具檀那衆の分に御座候、此方へは一物も取申さず候。
一、目安に什物の日蓮聖人の本尊、同日蓮聖人夢の御影、此外重宝ども近年は寺中の出家にも又檀那にも拝見仕らせられず等云云、右本門寺叶物の本尊一幅も紛失御座無く候、日興日仙の御本尊は毎年正五九月七月十日には期中懸け置き候て僧檀へ拝ませ申し候、中ん就く日蓮大聖人の本尊●に夢の御影の儀は本門寺の什物にては御座無く候、秋山氏晋代相伝の重宝にて御座候を本門寺の住持に預け置き申し候、則預り状の写し御目に懸け候。
御本尊預り状の事。
一、日蓮聖人の御自筆小まん(曼)だ(陀)ら(羅)壹ふく(幅)堂御影●ふく(幅)合弐ふく(幅)なり右は其方御家重代さう(相)でん(伝)の御本尊にて御座候を相ふう(封)を御付け成され御預け慥に預り御番を仕るべく候、檀那中へ御き(祈)ねん(念)にかけ(懸)申す時は御理り申候まへ(前)にてふう(封)をきり(切)かけ(懸)申すべく候、是はふ(布)せ(施)など無代に成らず候様に我等預り置き堂等のしゆ(修)り(理)のためにも成さるべき良し尤に候、則帳をつくり(造)其ふ(布)せ(施)御座候たび(度)たび(度)に帳に付け拙僧判を仕り相渡すべき事。
一、拾壱代以来相伝のし(師)だん(檀)のあいだの貴殿の御事に候間少もふ(不)そく(足)に存じまじく候事。
一、貴殿御壱もん(門)中の内大坊跡次ぎ住持にさし(指)すゑ(居)成さるべく候事。一、住持相替り候はゞ書物あらた(改)め添状御取り成さるべく候事。
一、自然主持たい(退)てん(転)の時は秋山の子孫へ右の本尊御請取成さるべく候事。一、秋山殿子々孫々まで大坊つづき候間は先代の如く壱檀那に存ずべく候事。
一、大まん(曼)だ(陀)ら(羅)の事何らせう(証)こ(拠)も之れ無く候、其上中なをり(和)の上は何事も以来出入御座有るまじく候。
右七箇条の通り以来相違御座有るまじく候、仍て状件の如し。
寛永八年八月廿四日かのとのひつじ 三野郡下高瀬本門寺大坊日円判。
秋山四郎兵衛殿、同吉右衛門毀、同三郎兵衛殿、同六郎兵衛殿、同次兵衛殿。
此の如く預り状御座候、則此預り状の裡に先代壱岐守殿御家老衆浅田右京殿三野四郎左衛門殿、西島八兵衛殿御判を加へられ下され候。
一、目安に先年より法華寺に付き来り候屋敷分の外に高四十三石余の所、彼寺の前住久遠院買ひ候て付け置き候処、其田地同く造営仕るべきよしにて調のへ置き候瓦以下、其外寺内の竹木まで秀山切り取り商売仕り候御事。
右高四拾三石余の田地の義は高五石壱斗ならでは大坊へ渡し申さず候、其外は西坊へ九石余泉要坊へ八石余徳林へ四石余相残処は一門の者わけ取り申し候則割帳に庄屋判形仕り置き申し候其帳慥に御座候、又先住日円造営の為に集め置かれ候材木を何方へも案内申さず西之坊へ取込み三間半に八間の寺を立て申し候、相残る材木の内西坊親族にかし(貸)置き申し候、則其手形取り置き申し候、瓦の儀は威徳院と申す寺へかし(貸)置き申し候、是も造営の刻は必ず反弁仕るべき旨手形取置き申し候。
又寺内の竹木を切り取り商売仕り候由申し上げられ候、是は国主より御法度御座候故少しもきり(切)申し候事罷り成らず候、皆々悪僧ども申す事偽にて御座候。
右の条々拙僧罷り下り対決を遂げ申し開くべき処に、夏中より散々相煩ひ今に然とも御座無く候故存じ乍ら延引せしめ候、甲斐守様も拙僧遅参の処不屈の様に思召さるべき処も迷惑千万に御座候へども、病気故是非に及ばざる義にて御座候間御次も御座候はば右段々の趣を仰せ上げられ御前然るべく加様御取り成し願ひ奉り候、恐惶謹言。
(正保四)七月廿八日 下高瀬村本門寺 秋山在り判。
赤田七郎右衛門様、 谷田弥一右衛門様。
本門寺秋山より江戸寺社奉行への陳弁状   再度招喚の厳達なれども病中如何とも為し難き御詫び、又訴人目安に付いて一々に抗弁せるもの、正本法華寺に在り。
讃岐国三野郡下高瀬本門寺恐れ乍ら指し上げ申し候。
一、富士山本門寺より目安指上げられ御裏判申し請けられ持たせ給ひ候頂戴仕り候、早々罷下り御断り申し上ぐべくと存じ奉り京都迄罷り上り候所に夏中より散々相煩ひ罷り在り候節、両度御召し状是又頂戴仕り候右の煩ひ故遅参仕り御法度に背き迷惑仕り候、私儀に御座候へば御慈悲と思し召させられ御容免成され下さるべく候御事。
一、私若輩者の儀に御座候間、先規よりの寺法の証文文安文明天正の御座候間憚り乍ら御覧成させられ先規の如く仰付下され候はば忝く存じ奉るべく候、彼の目安披見仕り候所に高瀬本門寺の旧規をも存ぜられざる故、又悪僧どもの偽りを申すを承引致され申し上げ候かと存じ奉り候御事。
一、慶長年中の此先師日円●に檀那ども富士に参詣仕り又其後寺僧ども参詣仕り候間富士は本寺高瀬は末寺と存ぜられ候や、是は富士は師匠日興上人の御寺高瀬は弟子日仙上人の寺の筋にて御座候故師匠を崇敬仕り候故参詣仕らせ候迄にて本寺参詣にて御座無く候、日本国中の法華宗の僧俗身延池上に参詣仕り候事も彼の寺を本寺と存ずる故にては御座無く候、元祖上人を崇敬仕り候故参詣仕り候御事。
一、下高瀬村法華寺と申し懸けられ候事不思議千万に存じ奉り候、併し高瀬本門寺の由来存ぜられず候故加様の僻事申され候、其故は高瀬高氷山本門寺の山号寺号は忝くも開山日仙上人御付け成され候寺号にて三百余年呼び来り候所に末代に至り其寺号を替え申す事開山冥慮の程怖しく存じ奉り候、此の方僧檀の内在には開山尊敬仕り候儀深重に御座候間未来氷々迄本門寺の寺号替え申す事は仕るまじき覚悟に御座候御事。
一、日興上人の御弟子衆諸国に於て御建立され候寺々数多御座候、京の要法寺、房州の久遠寺、富士の西山本門寺、妙蓮寺、大石寺加様の寺々何も富士山本門寺の末寺にて御座無き様に承り及び申し候、然る所に高瀬本門寺斗り末寺と申し懸けられ候事謂れざる儀に御座候御事。
一、日仙上人は西国三拾三箇国の導師を得、殊に高瀬本門寺の儀は正中年中の比秋山源の泰忠と申す者建立仕り日仙上人を主持に請待仕り候爾てより己来三百余年に及び候へども富士本門寺の末寺たる事終に承り及ばず候、本寺末寺の筋目御座候には其代替々々には本寺へ案内を申し住持を据え申し候事諸門徒共に同前にて御座候、然る所に日仙上人以来拾弐代御座候へども富士え案内申させ候事終に御座候無く候、又富士より使僧に頼り申たる事御座無く候間本寺末寺の筋目聊似て御座無く候御事。
一、上之坊事は去々年此方より不座せしめたるにては御座候無く候、我と立ち退き申し候、其故は上之坊には古来より本延寺と申す寺号御座候所に富士に於て昔よりの寺号を打ち捨て浄円寺と替え申し候、浄円と申すは上之坊の親の戒名にて御座候此の浄円は本門寺大坊の庭帰仕らせ候者にて御座候、庭掃の名を寺号に付け候事上之坊檀那どもも迷惑がり申し候、実に親の戒名を寺号に付け度く候はば別に寺建立仕り候て浄円寺と名乗り然るべくと申し候御事。
一、高瀬本門寺の寺家に中之坊と申す御座候、是は開山日仙上人隠居所の旧跡にて御座候故此坊には老若に寄らず本門寺惣寺家中の上座たるべきの旨古来より掟にて御座候所に、彼の上之坊富士にて阿闍梨に成り候間惣寺家中の座上仕るべき旨申し候て、昔よりの式法を破り何方へも案内も申さず中之坊を追ひ下げ理不尽に座上に居り申し候、是を中之坊檀那ども聞き候て古来より定め置き候座牌を破り中之坊を下座せしめ候事謂れざる儀と申し懸け候、加様に重々誤りりども御座候故逐電仕り候御事。
一、高瀬本門寺の什物の本尊日興日仙の本尊、毎年正月七月十月其月中掛け置き候て僧檀に拝ませ申し候、中ん就く日蓮大上人の御本尊●に夢の御影の儀は本門寺の什物にては御座無く候、秋山氏重代相伝の本尊にて御座候を本門寺の住持に預け置き申し候御事。
一、高瀬本門寺先住生持買ひ置き候田地高四拾三石余の田地は高五石壱斗ならでは私へ渡し申さず、其外は高九石余西之坊取り申し候、高八石余泉要坊取り申し候、高四石余林徳取り申し候、相残る分西之坊一門共わけ取り申し候、則田地割帳に庄屋判形仕り御座候て毎年丸亀へ御年貢納め申すに付き残り御座無く候御事。
一、先住持日円造営の為に集め置かれ候材木何方へも案内も申さず西之坊取り込み三間半に八間の寺を立て申し候、相残る材木の内西之坊親類どもに借し置き申し候、則手形取り置き申し候、瓦の儀は威徳院と申す寺へ借し置き申し候、是も造営の砌は必ず返弁仕るべき旨手形取り置き申し候、又寺内の竹木を切り商買仕る由申し上げられ候、是は丸亀より御法度御座候故少しも切り申す事罷り成らず候、皆々悪僧ども申し候事偽にて御座候御事。一、高瀬本門寺私師匠相果て候砌、先住持の甥西之坊仏具に諸道具下人馬等迄私へ無届に取り申し候、殊に上之坊泉要法林徳裁判の為に一同仕り私勘忍罷り成らざる様に仕懸け、其後無実申し懸け候に付て山崎甲斐守様御奉行へ申し上げ対決の上を以て聞し召し分けさせられ候、其砌り彼の者ども追放仕るべくと申し候へども色々詫言申し候に付いて先規よりの式法高瀬本門寺の下知を相背くまじきの由一札を仕り候故案座申し付け候所に、其一札の面を破り程なく又富士へ参り色々偽を申し候御事。
一、高瀬本門寺大坊より坊号院号阿闍梨日号等免し申す法式にて御座候所に、此方を指し置き富士にて寺号院号阿闍梨号申し請け候事高瀬本門寺の法式破り申し候事歴然に御座候、又本門寺寺僧として守本尊に判形仕り候事、此の二箇条は文安三年二月七日の法度書、又文明三年十月朔日の法度書にも御座候、加様の旧規を破り申し候次第、●に古来よりの法度書ども持参仕り、丸亀御奉行衆へ御目に懸け候へば彼両人法度破り候事歴然に候間、此上は兎も角も其方分別次第と仰せられ候間追放仕り候御事。
右私若輩不調法者の儀に御座候、古来よりの証文御覧成らせられ旧規の通り仰せ出され下さるべく候、御慈悲より外頼み申し上ぐる方御座無く候、以上。
正保四年亥霜月 本門寺秋山在り判。
進上、寺社御奉行様、御取次御披露。
下高瀬本門寺日教より寺社奉行へ陳状   先状の補缺なりと雖も此中には北山本門寺が高瀬大坊を末寺として、進退すべき意図の中に、西之が深く侵入する事情を暴露せり、先住日円意中の後継者は其肉甥なる西之坊なりしも、秋山宗家四郎兵衛等との契約に依り秀山に此の特権あるより意の如くならず、相互深く結托しての策動なりと知るべし、但し出入訴答に付いては同一文句を時と場所とに依りて繰り返すが通例なれば、成るべく繁を懸けて其中の一通を取るべきも、各通同文意ながら多少の相違もあれば且らく各通を掲げたり、但し此状のみは直に訴人の肺肝を突くの概あり、正本法華寺に在り。
一、日蓮聖人御弟子数多御座候内にも六老僧と申す御弟子内日興は北山本門寺にて遷化成され、又日興上人の弟子の六老僧と申す御座候、日仙上人は六老僧の内にて一の弟子の故に両国三拾三箇国の導師を得て讃岐国高瀬本門寺にて遷化成され候、右六僧僧の旧跡皆北山本門寺の末寺にて御座候や、高瀬本門寺斗り末寺と申し掛けられ候儀日興日仙の御仕置を只今の北山本門寺違篇(変)到さるの儀に付き色色を申し掛けられ候へども、此方は一円存ぜざるの儀に御座候、私師匠帰国仕り一言の沙汰にも承らず候、帰国以後堂の棟札にも本門寺と仕り檀那方へ遺す数通の守本尊書札以下に到る迄法華寺と在る儀少しも御座無く本門寺と仕り候、私の師匠無法に所望申され候とも日興の旧跡故開山の筋目を糺し申しさるべくと存じ奉り候所に信記(規)を企て候儀迷惑と存じ奉り候。
高瀬本門寺住持を居え申す時も退転の時も北山本門寺よりも否も御座無く候、殊に寛永八年に私師匠と六郎兵衛と出入御座候時、五月より八月迄高松に相詰め公事仕り生駒壱岐守様御耳に立ち相論仕る時、北山本門寺裁判も御座在るべく候へども否やの儀御座無く候、尚以て私師匠より北山本門寺の末寺にて御座無く候故否や仕らず候。
一、私寺家三人北山本門寺へ参詣致し候砌り、私書状遺し候故末寺と申され候儀理不尽に存じ奉り候、日興上人は御師匠、日仙上人は御弟子の旧跡に罷り在り候へば御師匠崇敬第一、私若輩者の儀に御座候へば日興上人御旧跡崇敬と存じ申し入れ候、本寺とも末寺とも努々存じ寄る儀にて御座無く候、私寺家三人の悪逆の者ども申す様は北山本門寺は日興の寺、高瀬本門寺は日仙の寺にて候へば状を遺し候へと申し、私をにく(憎)み三人の悪僧北山本門寺と邪儀を企て只今加様に申しかけ候儀迷惑に存じ奉り候。
一、私寺家の内西之坊、上之坊、泉要坊、林徳此者ども一同悪逆を成し守護様の御仕置を破り北山本門寺へ取り籠り色々偽り申し候子細は、西之坊と申す者は先住のおい(甥)にて御座候、先住持も内証は西之坊に寺をゆづり(譲)度存ぜられ西之坊も望み申し候へども、証文の上を以て私堅くけい(契)やく(約)仕り候に付いて是非無く寺は私に渡し、四人の坊主共に分限の西之坊親類どもとして本門寺へ召使ひ来り申し候下人拾人御座候を壱人も私へつかわ(使)せ申さず、右の者どもとして隙を遺し諸道具どもは庄屋弟三郎左衛門筆取にて西之坊へ卅五色遺し申し候、帳面の外に符付の長持其外卅壱色以上物数六拾六色、又下人壱人馬壱疋西之坊母納所仕るに付き取り申し候、御年貢納所名寄小帳も御座無く私師匠福僧の儀は一国に陰れ御座無く候所に私寺を請取り申す刻銀子にても米にても少も御座無く結句借銀御座候由、以て西之坊親類銀子九拾五匁取り申し候、北山本門寺より目安差し上げられ候四拾三石余の御年貢高の田地私へは五石余書き置きに有りと申し相渡し候、西之坊は能き所を九石取り申し候、色色表裏をたくみ(巧)御堂の出仕仕らず、結句私と同座御仕るまじきなどと申しあげ先規を破り、又或る時は大水出で申す時私屋敷のどて(堤)を切り寺へ大水をき(切)りか(掛)け申し候、何事成りとも私堪忍罷り成らず寺をあけ(明)させ西之坊跡へ仕居べたく(巧)み仕かけ申し候、右の仕合に御座候へば寺破滅仕るに付き迷惑と存じ甲斐守様へ申上ぐべしと申し候所に、西之坊親類庄屋肝煎の由にてりん(隣)がう(郷)の庄屋九人、威徳院を雇ひ瞬に仕り、右の臓物の儀は堪忍仕り候へ、下人は右の内にて三人召し使ひ候へ、田地の高は田地に応じて付け候へ、御年貢を納所申す儀に御座候間万事堪忍仕り候へと申し候に付、私ふ(不)が(甲)い(斐)なく堪忍仕り候所に、其後無法の□名を申しかけ候に付き迷惑と存じ甲斐守様御耳に立て候へば雙方召寄せられ対決を遂げ私理潤に仰付られ候刻、重々不屈の儀以来仕るまじくと一札を仕り、程なく北山本門寺へ参り色々表裏をたく(巧)み私堪忍罷り成らざる様に仕かけ彼坊主どもに安座をさせ末寺と改め北山本門寺目安差上げられ候、御不審と思し召し下され候はば甲斐守様の御屋敷へ御尋候ても知れ申す儀多く御座候、職跡の無法の仕様瞬人御座候間御けん(検)し(使)立てさせられ下され候はば御慈悲生々世々候く存じ奉るべく忝。
一、正保三年北山本門寺より使僧に香雲坊と申す坊主参り五月より八月迄逗留仕り檀那ども(共)を呼び寄せ高瀬本門寺を請け取るなどゝ申し、私寺家の内西山坊は主案内者丸かめ(亀)へ参らず候とて出仕を指し留め申し候、又中之坊は上之坊より下座に罷り候へと色色せん(詮)ぎ(議)を仕り候、其比私京都に一字の物よみ(読)成りとも仕るべくと存じ罷り有り申し候、度々の理不尽迷惑に存じ奉り候。
一、去年十月より北山本門寺御奉行様の御意と申し高瀬本門寺へ仕置の坊主弐人遺し申し候、此坊主は右高瀬本門寺の旧跡を破り甲斐守様御仕置を破り申し候に付追放申し付け候出家にて御座候、甲斐守様家老衆へ北山本門寺より指し遺はされ候書中の文躰も御前様より御意の由に御座候。
慶安元年六月九日 讃岐国下高瀬本門寺在り判。
最後の判決書   出雲右京両奉行の裏判ある判定書の正本法華寺に在り、正保三年五月より慶安元年十二月に至る三年間の公事落着せりと雖も、秀山の陳弁一として採用せられず、僅に北山本門寺の末寺として他の末寺に優れたる位置に在る事及び開山仙師己来の旧式を保持する事を得たるのみ、故に此理不尽の結審に権威無く爾後数回の出入となるも止む無き事に属す、又此に附帯せし秋山宗家の曼荼羅御影の解決は翌年に及びたる事次文の如し、次に秀山の最後の陳状より判決まで半年余あり此間雙方無事なりとは見へざれども文献存せざれば之を知るに由無し、然のみならず北山本門寺にても関係文献多多有るべきに此を得ざる事は遺憾なり。
定。
一、今度駿河の国富士本門寺と讃岐の国高瀬村法華寺と本末寺異論の事、度々穿鑿を遂げ候の処法華寺は本門寺の末寺たるの議紛れ無きの条弥其の旨を相守るべき者なり。向後若し本末の義を違犯せしめば法華寺住持秀山越度たるべき事。
一、古来の寺号を削り新に寺号を援くるは失義の基ひ本寺の過なり、自今以後法華寺門下の僧富士に往いて寺院坊等の新号を請ふと雖も、本寺に於て堅く之を制し縵(漫)りに旧号を改め新号を授くべからざる事。
一、法華寺住持秀山本寺に対して論訴を結び候条追放せしむべきの処、秀山義全く道理無きに非ず、本寺亦小過有り、本末共に同意の故に追放の義を免し法華寺に安住せしめ畢ぬ、之に因て秀山追放致し候法華寺寺僧の先非を赦免し是亦帰寺せしむるの条、向後逆意を飜し法華寺を相守るべき者なり、若し此旨に違背せしめば再犯の過赦免すべからざる事。
一、法華寺は西参拾壱箇国法華の頭領たるべきの旨本門寺開山日興上人之を定めらる、其の旧記本門寺に之を伝へ畢ぬ、然れば法華寺は諸末寺に勝るゝの条本門寺其の義を存ぜば、法華寺門下の僧能く法華寺の寺法を守り、法華寺も亦本門寺の下知に相随ふべき事。一、日蓮聖人の小曼荼羅夢の御影の事、秋山泰忠より高瀬村六郎兵衛に至るまで拾壱代之を相伝して六郎兵衛法華寺に預け置くの旨訴状を捧ぐるの処、法華寺住持秀山預かるの旨申し候、其の上寛永八年八月二十六日法華寺先住日円預り手形六郎兵衛之を持参す、其の手形の裏に伊(生)駒壱岐守家来の奉行西縞八兵衛三野四郎左衛門浅田右京判形を加へ候の条右加判の者に相尋ね裏判紛れ無く候はば本尊は手形の如く六郎兵衛請け取るべき者なり。
右本末異論度々穿鑿を遂げ落着申し付け候条、本末寺とも異義を存すべからず候と雖も、法華寺は遠境たるに依て裁許の要旨を拾ひ此の条目を定めて雙方に与ふる者なり。
慶安元年子十二月十一日
寺社両奉行より高瀬の領主への状 公事中は其証拠物件なる秋山家より預の宝物は一時領主にて保管せるを以て、事件落着せし上は持主秋山六郎兵衛に下げ渡すべきの状なり、正本法華寺に在り。
以上。
一筆申し入れ候然れば讃州下高瀬村法華寺と駿州富士本門寺と出入に付き、法華寺に之れ有り候日蓮聖人小曼荼羅、夢の御影、貴殿家来衆封を付け置かれ候の由、六郎兵衛申し候、右の公事度々穿鑿を遂げ裁許申し付け相済み候、右日蓮聖人小曼荼羅、夢の御影の事は法華寺先師日円六郎兵衛の所より預り置く手形之れ有り、其の手形の裏に先守護生駒壱岐守家来の者三人裏判致し置き候間、則裏判致し候者に相尋ね候へば紛れなきの由申し候間、預り物疑ひ無く候条、日蓮聖人小曼荼羅、夢の御影の封御切り候て下高瀬村秋山六郎兵衛へ御渡し有るべく候、其の為此の如くに候、恐惶謹言。
(慶安二年)二月十九日 松平出雲守勝隆在り判、安藤右京之進重(重長)在り判。
山崎志摩守殿。
                                     二、文久慶応の出入   慶安の判決以後時に依り人に依りて北山に対する態度は異なる事ありと雖も、弾圧的本山なりとの観念強く常に復古の念願を忘れざる讃岐門徒なるが、細草檀林関係より寛保宝暦の交に中之坊に在る敬慎房日精、寛政文化の頃同住保寿院日照が石門に親近し宗史宗義の上より宗祖開山の正義に復古するには宜く大石寺に帰すべしと主張し、敬慎房の如きは此が為に丸亀に牢死するに至れるより一山次第に此に傾きたる為に一層反北山の空気を濃厚にしたり、北山にては讃徒が大石に依るは寺門の一大事として更に此を圧伏せんとし更に黒衣を仏像を継目を真俗の登山等を強制し、此の根源寧ろ大石信仰に在りとして其本尊を申し請くる等を拒みたるも実効挙がらざるを以て、遂に本訴に及びたるが讃徒にありても少数の怯弱者と又北山を形式上本山とするが処世上安全なりとの猾知者とあるが故に奉行所に於ての抗弁に熱意を缺き、一時的にも北山の申立に屈伏したるものなり、如上の文献尚両山に在るべし。
本門寺日信の訴状   明治卅七年六月本門寺日忠が法華寺本末の寺格復旧所轄本山変更請願の抗弁書一括書類の東京稲田海素氏に在るものに依る、但し本書には日忠の継印上封印等あれば本門寺の当時控書類なりしならん、但し寺社奉行にては本件を役寺に扱はすべく本妙寺に引渡されたるに、讃岐にては日住老病にて代人の妙行寺日輝も落欠して行衛不明なれば日昇代人として答書したりし由なれども、此の控蒐集を得ず、其も慶応二年三月の返答書の要略なりしと思ふ。
恐れ乍ら書付を以て御訴訟申し上げ奉り候。
御朱印地、日蓮宗勝劣派本寺、駿河国富士郡北山村
訴訟人 本門寺日信。
不法出入。
同寺末寺、京極佐渡守殿御領分、讃州三野郡下高瀬村
相手 同宗、 法華寺兼帯、同寺又末、丸亀妙行寺日輝。
右訴訟人本門寺日信申し上げ奉り候、拙寺の儀は住古薄墨色衣に同色の袈裟着用罷り在り候処、寛永十八年宝樹院様厳有院様を御懐妊遊ばさせられ候節御安産の御祈祷を拙寺十四世日優に仰付けられ、御安産の御守護として日蓮聖人真筆の漫陀羅献上仕り御祈念申上げ奉り候処、御安産遊ばせられ候後、漫曼陀羅は拙寺え御預けに相成り宝樹院様御満足に思召され日優え御書下し置かれ、且又緋紋白の五条袈裟金入七条袈裟を祖師日蓮聖人並に開山日興上人え御寄附成し下し置かれ、厳有院様御外祖母泉光院様より右の法衣に準じ一派の僧侶一同諸色の法衣着用致すべき旨仰付けられ候一同相改め候、其後万治元年泉光院様関口蓮華寺御建立遊ばさせられ日優え開基拙末に仰付けられ御朱印下し置かれ弥以て有難き仕合に存じ奉り候。
然る処末寺の内右法華寺独り相拒み剰へ自立に本寺と唱へ寺号も本門寺と相名乗り居り且宝樹院様泉光院様御思召に相背き奉り候のみならず本寺に違背し旁た打捨て置き難く余儀無き場合より慶安元年御公儀様え御訴訟に相成り法華寺召出され一言の申訳相立たず寺号本門寺御取上げ其節より法華寺と御名附け本寺の法義承伏いたし諸色の法衣着用仕り、寛政度迄は本寺の定掟相守り僧侶も絶へず本寺え登山致し依て近末の内へ住職致させ候僧も之有り、猶又法華寺檀家の者も折々参詣仕り候儀も之有る処、享和度の頃より僧侶又は檀家の者共をも本寺え登山致させず、追々違背致し勿論拙寺儀も寛政度の頃より甚不仕合にて三四箇年住職仕り候ては遷化致し或いは病身にて隠居後見拙僧迄院代三人差加へ都合十五代相代り永住の者之無く、殊には人少の故相手方え懸合として差遺し候僧侶も之無く終に打過ぎ罷在り候折柄、弥々無本寺同様違背増長の廉等、拙僧先代より度々使僧遺し軽蔑は申すに及ばず先規宗掟相崩し本寺え対し不受不施同様の処業は全く心得違に之有りとて種々申談じ候へども自儘勝手の事申し居り何分承引仕らず、第一法華寺の振舞は宝樹院様御由緒の法衣着用致さず、又は慶安年中の御裁許相背き候のみならず、拙寺十五代目日要申付け釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩四天王の木像勧請致させ置き候処十七八箇年前より悉く破却致し並に鬼子母神堂迄是又破却致し、加之本寺の宗掟相背き白袈裟着用致し、且文化年中寺檀に之有る本寺書写の本尊取り集め焼き捨て扨又檀家え死滅出来候節引導致すべきは宗法に之有る処、文化度の頃より取行はず法要相背き尚又猥りに他門の本尊を受け候儀は本寺制誡に候処、文政度の頃より檀家の者どもえ申附け拙寺同郡上野大石寺の本尊を請けさせ、既に同年頃より石大石寺と拙寺とは軒並同様に之有る処、右法華寺の僧侶ども拙寺え立寄らず大石寺えのみ登山仕り、終始壱両人宛所住致し、檀家の者に於いても年々多人数参詣致し候へども拙寺えは壱人も立寄らず他宗同様の仕来り中ん就く十七箇年前弘化三午年大石寺墓処え法華寺二十六世日逞の石碑を建立し其外僧侶ども並に檀中の石塔迄数本相立て罷在り、且又文政十一年拙寺隠居日東法華寺え罷越し候処他門の僧えは対面相成らざる趣を以て一夜止宿致させ相断り候、後天保十三年正舜院と申す僧差遺し候処止宿相断り、猶其後嘉永三年の夏信学と申す僧是又差遺し候処、寺中の坊え二夜留置き法華寺の日住は他国の者え対面の義は領主より厳しき停止に候とて其の儘雨中に追放され存外至極の取扱ひ、殊更他門の僧侶を引き入れ説法致させ候儀は本寺の制誡に候処、三十箇年己前大石寺の僧侶弁玉弁少と申す者拙寺本門寺の役僧引通に来り候などと領主役場え申し説法致させ、全躰不受不施信仰の者天保度法華寺檀家の内に数多之有り、下高野村太左衛門と申す者大阪町御奉行所え御召捕に相成り御吟味の上法華寺をも終に百日の閉門仰付けらる、右塔の儀を本寺えは必至と押隠し居り候程の取斗ひにて、元来人別帳は七箇年目々に本寺え差出し置ながら法華寺の住職交代の度毎継目は勿論寺変宗俸其外寺務相続方に相拘り候儀は、寺中の坊どもに至る迄本寺え伺済の上取扱ふべきは当然に之有るべき処、本寺えは一円其辺の沙汰も之無く門末数箇寺之有る中右躰不取締の儀追々押移り候様に罷成り候ては行々本末の間柄を忘却致し一派の破滅も覚束無き儀と存じ、是迄相手方御領主役場え前条の廉々申立て候より書翰往復且つ使僧数度差遺し候へども如何取繕ひ置き候や一円相分り難く、且つ先代日住儀は一昨年使僧差遺し候節領主役場より出奔致し候へども当時は差戻し住職致させ置き候趣き粗承り及ぶ、畢竟右等の流幣に及び拙寺へ対し不受不施同様の振舞仕り候は法華寺今節着用罷仕り候薄墨色の衣真白の五条袈裟は全く大石寺派の法衣に相同じ候より事起り、其外法門は勿論法要に至る迄深く信用致し、終に檀家の者どもへ相勧め且つ己等の石碑迄相建て候様の始末に至り候義と存じ奉り候ては、常に黒衣謗法造仏堕獄と唱え諸色の法衣着仕り候を謗法と申し、堂内へ祖師木像の外釈迦多宝等を造立安置候へば無間地獄に堕ち候など申し勧め、右の儀に就き元禄度既に御裁許を蒙り候義も之有り候元来法華寺違背の根本は薄墨衣真白の袈裟に御座候間、其儘差置き候ては右様不法の振舞相働き候間是非無く今般御訴訟申上げ奉り候。
何卒御慈悲を以て相手日輝●に日住召出され前段不法の取斗ひ致し候廉ども逸々御吟味の上、薄墨衣真白の袈裟日輝日住は申すに及ばず所化共に至る迄御取上げ成し下し置かれ行々末々迄永く御用ひず、門中一統同様の諸色の法衣着用致し、大石寺え相立て置き候日逞等の石碑早速取片付け、将又以来住職の義は本寺に聞済の上にて後住取極め必ず継目登山を致し、御公儀様法度の儀は申すに及ばず本寺の規則宗掟申し渡し、開山廟所え参詣致させ本末とも永続相成り候様仰付けられ下し置かれ度、此段偏へに願上げ奉り候、以上。 御朱印地 日蓮宗勝劣派本寺 駿州富士郡北山村
文久二戌年十一月 訴訟人 本門寺、日信。
寺社御奉行御役人衆中。
北山伝灯院日祥の存意書   在所同上、文久二年日昇の答書を弁駁したるもの。
恐れ乍ら存意書を似て申し上げ奉り候。
駿州富士郡北山村本門寺日信煩に付き伝灯院申し上げ奉り候、拙寺末寺讃州三野郡下高瀬村法華寺違背不法出入、去る戌十一月中寺社御奉行所へ願上げ奉り候処御役寺様え御吟味御引渡に相成り、今般相手方法華寺召出され御吟味に付き法華寺御答へ申上げ奉り候廉々に就き恐れ乍ら存意左に申上げ奉り候。
一、讃州三野郡下高瀬村仮住日住病気に付き代同寺後住日昇右御役寺様へ差上げ奉る返答書の儀に御座候間必ず駿州富士郡北山本門寺末と相認め申すべき義と存じ奉り候、且又後住日昇と書上げ奉り候へども本寺に於て更に相弁へざる義三斯様書上げ候も全く本寺をないがしろ(蔑)に仕り無本寺の認め方恐れ乍ら御役寺様に対し奉り不埓の儀と存じ奉り候。
一、拙寺儀は日興上人の直弟寂日坊日華上人正応の度当国那珂郡田村に一宇建立致し高永山本門寺と号し其後南海互に峰起し右本門寺へ軍兵狼籍乱入致し兵火の為焼亡に及び候処、当時拙寺境内は正中年百貫坊日仙上人日華上人の功を嗣ぎ再び寺院坊等を造営し矢張り高氷山本門寺と之を称し無本寺にて罷在り候処、拙寺十四世日円過つて北山本門寺と本末同様に相成り候儀より事起り、拙寺有り来りの寺号を北山本門寺より自儘に取り上げ法華寺と名乗らせ候てより正保の度争論相成り候処、慶安度御裁許にて本末と治定仕り候処、古来の寺号を削り新に寺号を授くるは矢義の基い本寺の過ちなりと右御裁許状に之有り、然るを自立に本寺と唱へ寺号も自儘に本門寺と相名乗り居り候など、事過ぎ候事とは申し乍ら事実不揃の義を申立て。
此段末寺法華寺旧号は全く古住大坊と申し候、其証拠は子午年差出し来り候人別帳に記し之有り、且同寺近郷にても大坊とのみ相唱へ寺号は知らざる者之有り候は現証に御座候、一躰拙寺開山日興上人は祖師日蓮聖人上足第三の弟子にて法華寺開基日仙日華両人とも日興の弟子にて之有り、日興より申し付け法華弘通に西国へ差遺し最初同国田村に方八町に一字建立致させ富士山本門寺弘通所大坊と名付け置き候、殊に拙寺儀は開山日興上人四拾余年の在務、入寂の霊地正墓之有り候間、開山以来拙寺末寺に相違御座無く候、師より弟子へ申付け別に弘通所建立致し候に遠近に拘らず同寺の号差免し候謂れ之無し、然る所日仙没後年暦を経後代の僧侶心得違ひ致し自儘に無本寺と唱へ剰へ寺号も本門寺と相名乗り本寺に違背し旁捨て置かれ難く、終に慶安度御裁許を蒙り奉り候義にて、同寺拾四世日円過つて拙寺と本末同様に相成り候義よりなどと申す義にては之無く、開山己来の末寺に之無く候て慶安度自称にもいたせ旧号にも致せ寺号取上げられ何故に新に本末と相成るべきや、全く拙寺開山日興より弟子日華日仙へ申し付け西国法華弘通に差遺し草創本門寺弘通所、住古より拙寺の末寺に相違御座無く候。
一、継目の義は本末治定後は其都度書面を以て相届け候義に之有り、拙寺より本門寺へ登山の義は本末未分の節は勿論其の後の至り候て先規に之無く、尤も慶安前は年頭状も互に往復致さず候へども、本末治定相成り候てよりは先例に之無く候へども、本末の義故継目並に年頭状は滞無く差出し候へども、先規に之無き登山は仕らず。
一、末寺として不当の申し分本末の道亡失致し先規先例と申し立て候へども本寺より申付け候例法にては之無く皆違背の私例に之有り候間、本寺において取り用ひ難く候只私例を以て我意を相募り候義にて、且つ継目の義書面たりとも届け候義之無く、拙寺先代どもより継目登山の義は度々申し遺し候へども末寺より自儘に相立て候先規を以て本寺より差免し候義は一切御座無く候間、何卒向後の処本末の道相守り継目に本寺へ登山致し開山の正墓へ参詣致し歴代本尊之を受け帰国住職致すべき旨仰付けられ成し下し置かれ度存じ奉り候。
一、拙寺門下の僧侶本門寺の近末へ住職致させ候義は伝聞にも承はらず。
一、本寺近末の内生国讃州法華寺弟子にて永住職致し相果て候者どもの古き石碑等之有り候。
一、拙寺檀家の者ども本門寺へ参詣の有無、多人数の義殊に諸国霊場参詣として立ち出で候に付き参詣の場所拙寺にて彼是差図致し候義は一切之無し。
自儘の申分に御座候、吾本寺と富士裾野に軒を並べ候他本寺大石寺へは檀家の者参詣致させながら吾本寺へは壱人も立寄らざる義不当の義に御座候、右の証書等は慥に御座候。
一、寛政度の頃より本門寺住職拾五代相代り人少旁掛合に遺し候人も之無きに付き打捨て置き候旨申し立て候へども、文政度に本門寺隠居日東、天保十三年に正舜院罷り越し候由、右様人少差支の内何等の用事にて罷越し候や拙寺に於ては存ぜず候事に候へども、申立方とは齟齬致し如何にも其意を得難く何等の用事にても罷越させ候や、本寺違背致し居り候間掛合に及び候へども、掛合詰に相成り候上は御公辺に相成り候義は必然の事に御座候故猶予決せず打過ぎ候儀、且人少と申す義は是迄能々掛合遂に御公辺を人無きの旨申す義に御座候。
一、慶安度の御裁許相背き候旨申し立て候へども拙寺方にては堅く相守り一切背き奉り候儀は之無く、其節本寺に相随ふべき旨決定致し候て本寺の宗掟と相違致し候、何事も先規などと私例をのみ申し募り本寺の下知に違背致し候へば御裁許に背き奉るに相違御座無く候。
一、釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩を勧請させ候旨に候へども、右は拙寺旧記等にも一辺之無く右仏像は勿論鬼子母神堂等迄十七八箇年前破却致し候儀は是又一切覚え之れ無し。
此義は去る酉年拙僧法華寺方へ罷越し候砌り同寺本尊勧請致し方見届け候処、旧来の釈迦多宝二仏其外木像残らず取片付け右釈迦多宝二仏の台座にても之有るべきやと存じ奉り候台座へ坂本尊を建て置き、且つ庫裡物置同様の場所え木像の手足取り散らし置き候、右の訳柄法華寺日輝と申す者に聢と所置申し候。
一、一躰日興門流に於ては諸神諸菩薩等の木像を勧請致し候儀は一切之無く、其故は経文釈祖書に依憑し拙寺開基日仙上人以来の寺法に之有り。
既に日興門流にても造仏の例証御座候、京都要法寺は諸仏木像安置之有り、殊には開山日興上人の時に相成り候心底抄と申す抄拙寺什宝に之有り候、此書に仏像勧請本尊の図の通りと之有り候へども、其外日興上人の書の中に諸神諸菩薩の木像勧請致すべからずと申す事は之無く、祖師の御書拝見致し候へば勧請致し候ても然るべき義と存じ候、然るに末寺として開祖日仙以来の寺法抔と申す条一本寺同様の心得甚だ不当の義と存じ奉り候。何卒己前の如く諸尊木像勧請致し候様仰せ付けられ下し置かれ度存じ奉り候。
一、薄墨衣白袈裟着用の儀は拙寺の什宝夢の御影と唱へ宗祖日蓮聖人自筆の絵像之有り、恐れ乍ら大猷院様御台覧遊ばされ希代の重宝と仰せられ狩野右近を以て御写仰付けられ拙寺へ下し置かせられ有り難く大切に守護罷在り両幅とも薄墨衣白五条の袈裟着用、殊に祖師開山より自門一同着用致し来り候儀は拙寺の法にて既に慶安度御裁許にも法衣の御沙汰は之無く本門寺方にても其辺の儀は申談も之無し。
宗祖自身の像を自筆に画き給ふと申す事如何はしき事に御座候、弟子檀那より尊崇を致し画き奉り祖候に祖へば道理に相叶ひ申すべきやと存じ奉り候、何にも絵像は画き候者に候へば白袈裟着用の証拠には相成り難き者に御座候、袈裟は梵語此には染衣と申し候へば必ず染めて着用致すべき義と存じ奉り候、御台覧の由申し立て候へども此義本寺に於て存ぜず如何なる故あつて絵像差上げ其写しの画像拝領致し候や、慥の事に之無く候ては御公儀様を欺き奉り候義と存じ奉り候、寛永年中厳有院様御由緒にて本寺に於て法衣拝領仕り其節一派相改め同寺独り相拒み候てより其後慶安度御裁許にて本寺へ急度随ふべき旨治定致し候上は法衣の儀等も本寺次第に仕るべきは当然の義に御座候、然るを其砌り御裁許にも法衣の義は之無しなど申し立て御由緒軽蔑致し且つ祖師開山より自門一同着用致し来り候儀と申し候へども祖師開山より真白の袈裟等宗派に急度着用致すべき旨の証書等一切之無く候。
一、天保度の書翰末筆に拙山中古色衣着用の儀は開祖の本意に叶はずと、等職日瑞隠居日穏外々の衆僧も追々先規の通り相改め度き存念に御座候と申し越し。
右書翰の趣き承り候処本寺より末寺へ差遺し候書面の認め方にて之無く如何はしく存じ奉り候、且つ又日瑞儀は乱心者にて役寺様より御内意御座候にて隠居致させ候程の者にて御座候、仮令日瑞如何の心得を以て差遺し候とも取用ひ難く候間御取用ひ之無き様仕り度存じ奉り候。
一、本尊の儀は住古より檀家の者どもへ拙寺より授与致し遺し来り候本門寺より本尊迎え候儀は一切之無く右故に焼捨て候謂れも之無し。
本末たる上は本寺より本尊受け候は宗掟にて御座候、開山日興上人己来の末寺に候へば本寺より受け候本尊数多之有り候に相違之無し、然る間文化年中死去致し候法華寺二十四世日●を法義中古改転と称し過去帳に記し之有り、法華寺日忠弟子にて当時拙寺の近末に罷在り候玄教と申す僧より申立て候、右の節本寺本尊差出し焼捨てられ候者ども中未だ存命にも之有る趣きに付き、若し委細の旨御尋に相成り候はば右玄教と申す僧出府致せ同寺代日昇と対決の上申し上げ奉らすべく候。
一、大石寺本尊受け候儀は銘々の帰依に任せ候儀故数百年来の事にて其故は相知れ申さず、他門より受け候儀は之無く、大石寺は同門の上開基日華日仙両人の旧跡も之有り、旁以て拙寺には因縁之有り、殊に日蓮聖人一期弘法の為の大事本門寺戒壇の本尊之有る故檀家ども住古より一同信仰致し候儀に之有り。
此段悉く違背の旨に御座候本末師弟の重儀を忘却致し大石寺は因縁之有りなどと甚しき軽蔑不法の至りに御座候、末寺たるの上檀家を教導致し本寺へ参詣させ本尊等受けさすべき筈、然るに法華寺の僧侶ども吾本門寺に参詣を関留め他の大石寺へ参詣を勧め候儀不法の至り且つ大石寺に日蓮聖人一期弘法の為の大事戒壇の本尊之有りと申す義は以ての外の義に御座候、既に宗祖聖人上行等の四菩薩書き現はし給ふ十界具足の本尊は都て是一期大事の本尊に有らざるは之無く、将又戒壇の事則是道場に候へば本尊安置の処皆是戒壇に有らずや何ぞ大石寺に限らんや、殊に同寺に戒壇の本尊之有りと申す事疑難少なからず、抑も日興門流においては戒壇と申す事は拙寺に限り候、其聖跡は開山三堂建立せらるる其棟札に、一日蓮聖人御影堂、一本化垂迹天照大神宮、一法華本門寺根源、裏書に国主此法を建てらるる時は三堂一時に造営すべき者なり、願主白蓮阿闍梨日興判と記し什宝に之有り候、是れ即ち戒壇の礎石相定め置かれ候豈大石寺に戒壇の義有らんや、且つ本尊の義拙寺に宗祖真筆の本尊数多之有り、其中に万年救護の大本尊と申し御判の辺に本門寺に懸け万年の重宝たるべしと之有り候間、開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是則ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや、全く欺かれ候義不便に御座候、拙寺方に右真跡の外祖師の本尊御書数多く之有り、尚開山の真書筆記並に日順著述五人所破抄の真書其外述作多く興門諸山に無類の書籍之有り候条、弟子の日仙師匠の日興上人の意に相背き候義は之有るまじく候へば速に交代の僧侶ども前非相改め継目登山致し前文什宝の品々拝見すべく候間、欺かれ居り候檀家の者を教導致し本寺へ参詣致させ候様仰付けられ下し置かれ度存じ奉り候、将又拙寺の者ども大石寺に所従致し候義は更に之無く併乍ら勘気を致し候者自儘に罷越し候や如何之れ有るべく、是迄拙寺より所従相頼み候義は覚之無く、此儀は慥に勘気致さざる者にて大石寺へ添書を持たせ所従相頼み差向け候法華寺日忠弟子玄教と申す僧先年本寺へ便り来り当方拙寺近末寺に罷在り候条現証に御座候。
一、大石寺墓所へ日逞其外の石碑相立て候義は銘々俗縁の者ども建立致し義にても之有るべくや拙寺より建立致し候義は之無し。
既に日逞石碑建立発起西之坊日律と之有り、其外の石碑にも僧侶の名前両三忍之有り、然れば僧侶どもより相勧め立てさせ候義に相違之無く、吾本寺へ立てさすべきの処他本寺大石寺へ立てさせ候義宗掟に相背き甚だ不法の事に御座候、大石寺へ相立て之有り候右石碑引取り残らず拙寺方へ相立て候様仰付けられ下し置かれ度損じ候。
一、文政度日東天保度正舜院拙寺へ罷越し候趣に候へども記録等調べ候へども見当り申さず、尤も嘉永三年夏未聞不見の旅僧壱人参り無添簡に付き止宿相断り候義に御座候。
此段も勝手の申し立て方に御座候、日東正舜院罷越し候に相違之無く候へども不都合の儀故記録等に見当り申さずなど申し立て、嘉永度信学差遺し候節も慥に添簡持たせ遺し候に相違御座無く候、其節同僧より添簡渡し候など開封も仕らず不法の義のみ申し取敢ひ申さず雨中に追出し候、元来法華寺僧侶どもの心得方不束の義と存じ奉り候、既に去る戌の冬御役寺様より御差紙遺し候節すら如何の御請書等差出置き久々等閑にいたし出府も仕らざる程の義に御座候、素より本寺違背致し置き今更不都合に付き添簡無き旅僧は止宿相断り寺法などと申し立て候。
一、大石寺の僧本門寺の役僧と偽り拙寺において説法致させ候旨申し上げ候へども右等の儀一切之無し。
此義も慥に拙寺役僧と申し偽り候に相違之無く候、先年拙僧罷越し候砌り右の段領主役人へ申し立て候など如何にも先年富士より弘通に来り候と申し付け本寺よりとのみ心得られ候趣き申され候。
一、嘉永年中大石寺より弁玉●妙と申す僧中之坊へ罷り越し候由の処、近隣の在俗帰依いたし説法聴聞致し度く依ては塔中において説法致させ候義は先年も之有る由に付、中之坊より領主へ申立て候処聞済に相成候義にて、拙寺において説法致させ又は本門寺役僧弘通などと偽り候儀は勿論他門の僧侶引き入れ説法致させ候儀は更に之無し。
此段本寺違背の根本に御座候仮令塔中たりとも同寺中に御座候、他本寺大石寺より罷り越し候僧侶に説法致させ候儀に候はば吾本寺より弘通等に罷越し候節は説法等致さすべく義に御座候、然るを前段申し上げ候通り文政度日東、天保度正舜院罷越し候ても説法は勿論懸合向すら一切取敢へ申さず、今更右も記録に之無しなど申し立て本寺より弘通等に罷り越し候節説法等致させ候程の義に候へば異論は無く、右申入れ候は又先規に之無しなどと必申すべし、且つ他門大石寺の僧侶を引き入れ説法致させながら他門の僧侶を引き入れ説法致させ候義は之無しなど甚だ不当の申し立て自分の本寺を他門と心得、他門の大石寺を自門と心得候や、大石寺義も拙寺開山日興上人弟子日目開基に御座候へども、開山己来拙寺と大石寺とは法義は勿論法脈寺法悉く相違致し居り候、中ん就く拙寺末寺中において塔中たりとも大石寺の僧侶説法致させ候義は一切差許し申さず、然るを法華寺に限り別に寺法を立て他の大石寺僧侶に説法致させ候事は不当の義に御座候、尚又塔中においては説法致させ候義は先年も之有る由と申し候へども、今般申し上げ候通り年来同寺の僧侶引き入れ懇心に致し候に相違之無く説法致させ候程の義故参詣等相勧め候義は当然の存じ奉り候。
一、拙寺檀家の者ども不受不施信仰の者多分に之有るに付、天保度下高野村太左衛門と申す者御召捕に相成り其節拙寺百日の閉門仰付けられ候砌も本門寺へ無沙汰に致し起き候旨申し立て候へども、其節は勿論以前等も不受不施信仰の者拙寺檀家に之無く、太左衛門義は檀家に候へども其前除帳相成り候者にて如何の次第に候や信仰致し候、其制禁相破り愚俗を同類に引き入れ専ら相勧め候故御召捕に相成り候てより己来拙寺檀家同類の者ども悉く改心致し厚く相詫び候に付き銘々詫書取り置き候、拙寺閉門の儀は太左衛門身分に拘はり候儀に之無く。
此儀も其節は勿論以前等も不受不施信仰の者拙寺檀家に之無くと申し乍ら太左衛門御召捕に相成りて候て己来拙寺檀家同類の者ども悉く改心いたし厚く相詫び候に付き銘々詫書取置き候と申し立て候は不都合の申し立てに御座候、全く檀家に不受不施の者数多之有り御召捕に相成り一同引合致し上坂其上閉門致し候儀は相違無き事に御座候、然るに御公用承り諸末寺へ申し達し候本寺へ宗法に拘はり御公辺に及び閉門致し候程の義を本寺へ相届け候義先例に之無しなど申し立て候段、去りとは極も無き不法の私例に御座候、右檀家に不受不施の者出来候も畢竟法華寺儀末寺として本寺の宗掟を受けず、本寺へ一紙半銭の供養は勿論札節も致さず本寺へ対し実に以て不受不施を相構へ居り候間、檀家より不受不施の者御召捕に相成る様の事出来致し候、猶以て檀家の愚俗帰依に任せ他門の本尊を受け他門の僧を引き入れ説法相聞かせ候儀を相免し置き候は如何の僧を帰依致し如何の勧を信仰致し如何の事出来候か斗り難く、此段御吟味願ひ奉り候。
一、本門寺へ相届け候義は継目年頭より外届け候先例之無し、一躰拙寺住職進退の儀は住古は勿論慶安度後も寺檀一同熟談相掛け候上領主へ願ひ立て住職取極まり候上本門寺へ相届け候、慶安度よりの先例に之有る義にて本門寺へ伺ひ候謂れ之無し。
甚だ不法の申立て方に之有り継目の調書面たりとも本寺へ届け候義之無く法華寺より届け候は人別帳年頭状の外更に御座無く候、且つ諸末寺住職の儀は遠近に拘はらず本寺に於て取極め候本寺の宗掟にて、先佐渡国末寺等は其国御奉行所へ本寺より添簡差し上げ住職願ひ上げ奉り其外国々領主有る末寺は其の領主へ本寺より添書差し上げ住職願上げ候規則に御座候間、本末たる上は右規則の通り向後の所本寺に老いては住職取極め本寺の添書を似て領主へ住職願ひ上ぐべき様仰付けられ下し置かれ度存じ奉り候。
一、仮令本寺より申付けられ候とて先規の寺法相崩し候ては二千余軒の諸檀家不承引の上離檀致候など申し居り、既に今般拙僧出府致候節も右檀家一同より申し出で候は定めて今般の義は本門寺より申し立ての義に之有るべく、左候へば先規の義を相崩し候ては皆々一同離檀にも相成るべく、左様急度相心得らるべき旨●と断に及ばれ候義にて、一同離檀にも相成候様成り行き候ては離渋仕り。
此段自分勝手の申し立て方にて御座候、元来法華寺僧侶ども檀家へ平常教導方相違致し居候より事起り右様不法の義を檀家どもより申候義にて先規先例と申立て候へども、旧来皆違背の私例を以て本末の道忘失致し来り候を、今般本末の道を立て本寺の宗法を受け末寺々檀一同不法の義を相改め正法正宗に帰し先非を改め候に聊も憚る所之無き義に御座候、然れば先僧侶どもより先非相改め一同檀家へ急度申し論すべし全躰在家より寺法を彼是と指図がましき義等申され離檀致され候ては難渋などと申すは檀家に事寄せ猶違背を遂げんと欲し候義と存じ奉り候。
一、慶安度の御裁許状にも法華寺は西三拾壱箇国の法華の頭領たるの間諸末寺に勝るゝの条本門寺其意を存ずべき御旨に御座候間、其迄仕来り通り致し置き候ても本寺の威光にも別段差障りにも相成申すまじく。
全く法華寺儀西三拾壱国の法華宗の触頭寺にても之無く、三拾壱箇国法華頭領と申す義は開山日興上人より日仙を称美致し候義にて法華寺日仙のみにては之無く其外の弟子へも夫々称せられ候義例も之有り、且又諸末寺の内佐渡国世尊寺並に甲州本照寺等は開山日興上人開基にて本寺よりも旧地に御座候、法華寺義は弟子日仙開基に候間両寺より勝るゝと申義は之無く、曽子は不入勝母里の道理にて日仙素より師の開基の寺より勝るゝなど申す存寄り之有るまじくと存じ奉り候、然るに末弟ども其流を汲み乍ら諸末寺に勝るるなどと申す義は師敵対とも存ぜられ只法華寺ある事を仕り外諸末寺有る事を知らずと存じ奉り候、斯様に開山建立の旧地末寺も之有り候へども併し乍ら万治元年泉光院様蓮華寺御建立成し下し置かれ堂内へ妙法院様御染筆厳有院様尊牌安置し奉り御朱印頂戴仕り並に納経拝札等仰付られ、右御由緒柄格別の義を以て御公儀様へ対し蓮華寺を末頭と取定め候上は法華寺儀諸末寺に勝ると申す義決して相成り申さざる義に御座候、且是迄通り致し置き候ても本寺の威光差し障りにも相成り申すまじくなど、此段末寺として本寺を制する義素より本寺において威光論義にては之無く、只本末の道相立ざるを以て自今以後本末の道相立つべき義に御座候其儘差し置くべきは何を以て御願上げ仕るべきやと存じ奉り候、抑も末寺として本寺より差許さざる自儘勝手私の法を相立て寺法など申し立て飽迄本寺違背を遂げんと欲し公然として本寺宗掟に相背き独立致し継目登山も致さず、将又世法に付き仏法に付き本寺へ一紙半銭の礼義供養は勿論末寺役一切相勤めざるは甚だ不法の次第率土の浜王土に非ざるはなく法華寺儀帰する処之無く本寺に背き候は則御公儀の御法に相背き候義と存じ奉り候、然れば諸末寺の制誠相立ち難く候間何卒末寺法華寺方へ右の廉々篤と相弁へ本寺宗掟堅く相守り候様御利解仰せ聞けられ下し置かれ候様偏に願上げ奉り候。
就ては前条々の次第に御座候へども是迄の処諍論を趣意と仕り候義にては之無く、所詮は先非を相改めさせ只今より己後の処本末の道相立ち和順致させ度き迄の儀に御座候、去り乍ら大石寺へ石碑立て置かせ候ては諸末寺制誡の差支へ且つ本寺の瑕瑾に相成り候間、大石寺に立て置き候日逞の石碑其外縁僧俗の石碑等残らず引取り本門寺へ持来り相立て、以来の所釈迦多宝●に上行等の木像勧請致し、僧侶一同法衣相改め且つ法華寺住職の儀は法華寺弟子の内より相撰み本寺にて住職取り定め本寺の添翰を以て領主へ住職願上げ、将又継目に登山致し開山日興上人の正墓へ参詣歴代本尊之を受け法灯相続いたし、将又檀家教導致し本寺へ参詣致させ本尊受けさせ本寺宗掟規則逸々等相守り仕り寺役急度相勧め候様仰付けられ下し置かれ候はゞ有り難き仕合に存じ奉り候、本末一同平穏に法灯相続成り候間何卒慈悲を以て此段偏に願上げ奉り候、以上。
慶応元乙丑年十二月 駿州富士郡北山村本門寺日信煩に付き、代、伝灯院。
本妙寺御役僧衆中。
高瀬法華寺仮住代理日昇及び塔中法善坊より役寺への返答   法華寺に扣あり、北山訴状五箇条の答弁にして開山己来の伝来の制度を存立せられたき願意なり、但し北山にては最初の訴意を改修したるより法華寺も亦答書の意を補修したるものと見ゆ。
恐れ乍ら返答書を以て申上げ奉り候。
駿州富士郡北山村本門寺末讃州三野郡下高瀬村法華寺仮住日住病気に付き代同寺先住弟子日昇塔中法善坊申し上げ奉り候、右本門寺日信より拙寺兼帯同寺又末丸亀妙行寺日輝へ相掛り不法出入の旨、去る戌年十一月中有馬遠江守様寺社御奉行御勤役中御訴訟申上げ奉り候処、御当山へ御引渡し相成候に付き同十二月中右日輝●に日住同道にて早々出府致すべき旨御差紙到来拝見承知畏れ奉り候所、日住義老衰の上大病に付き余義無く出府御猶予を拙寺領主迄歎願いたし置き寮中昨丑三月中寺社御奉行松平中務太輔様より右両僧早々罷出づべき旨の御差紙頂戴拝見承知畏れ奉り候所、右日輝義は出立差掛り欠落いたし行衛知れ申さず、日住義は矢張り大病に付き余義無く拙僧代として罷出で右の次第御届け申上げ奉り候所、御当山へ御引渡し相成り則拙僧へ返答書仰付られ則答書仕り同十一月中差上げ奉り御調べ中の所、本門寺方にて訴状認め替に候間右に基き答書認め替え差出すべき旨仰付けられ先般差上げ奉り置き候答書御下げ相成り候に付き承知畏れ奉り、恐れ乍ら左に御答申上げ奉り候。
一、訴訟方申立て候は拙寺の義は住古薄墨色衣に同色の袈裟着用罷り有り候所、寛永十八年宝樹院様より緋紋白五条袈裟金入七条袈裟祖師日蓮聖人●に開山日興上人へ御寄附成し下し置かるる右の法衣に準じ一派の僧侶諸色の法衣着用致すべき旨仰付けらる、然る所法華寺独り相拒み剰へ自立に本寺と唱へ本門寺と名乗り居り本寺違背旁た捨置き難く、慶安元年御公儀へ御訴訟相成り寺号本門寺御取上げ法華寺と相名乗り都て寛政度迄は本寺の宗掟相守り僧俗ども本寺へ参詣致し候儀も之れ有り、享和度の頃より登山致させ申さず追々違背致し、勿論拙寺義も寛政度の頃より十五代相代り殊に人少故に打過ぎ罷在り候折柄、拙寺先代より度々使僧を以て申し談じ候へども承引仕らず、慶安年中の御裁許に相背き候のみならず拙寺先代申付け候釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩、四天王の木像勧請致させ置き候所近来悉く破却いたし去る酉年伝燈院と申す者法華寺客殿見届け候所、旧来釈迦多宝の二仏其外木像残らず片付け右二仏の台座にも之れ有るべくや台座へ坂本尊建て置き庫裏物置同様の場所へ木像手足取散し置き加之本寺の宗掟相背き白袈裟着用いたし扨また檀家引導文化度の頃より取行ひ申さず、猶又文政度の頃より猥に他門の大石寺本尊を受けさせ、同年頃より法華寺の僧侶は勿論檀家の者ども等も拙寺へは立寄らず大石寺へのみ登山仕り終始壱両人づゝ所従いたし、中ん就く同寺墓所へ弘化三午の年法華寺廿六世日逞の石碑其外僧侶ども●に檀中石塔迄相建て、且又文政十一年に拙寺隠居日東天保十三年に正舜院嘉永三年の夏信学等末寺法華寺へ罷越し候所其都度法外至極の取扱いたし、殊に他門の僧を引入れ説法致させ三十箇年以来大石寺の僧弁玉弁妙と申す者本門寺役僧と申し偽り説法致させ、且つ法華寺檀家の中不受不施信仰の者多分之れ有りに付き、天保度下高野村多左衛門と申す者御召捕に相成候節法華寺も領主より差扣え閉門申付けられ、右等の義を本寺へは押隠し置き人別帳は本寺へ差出し置き乍ら住職交代継目は勿論寺変其外寺務相続方等本寺へ問合の上取扱ふべきを一円其辺の沙汰之れ無く、且つ先代日住義は一昨年使僧差遺し候節出走いたし候へども当節は差戻し住職致させ候趣き、拙寺へ対し不受不施同様の振舞仕り候も今節着用罷在り候薄墨真白の袈裟全く大石寺派の法衣に相同じ候より事起り候旨、其外品々申建て候。
此檀拙寺の儀は日興上人の直弟寂日坊日華上人正応の度当国那珂郡田村に一宇建立致し高永山本門寺と号す、其後南海互に蜂起し右本門寺へ軍兵狼籍乱入いたし兵火のため焼亡に及び候所、当時拙寺境内は転法論三位実蔭卿寿永年中讃岐佐として居住し給ひ御逝去相成り同所へ葬り奉り候御廟脇へ正中年中百貫坊日仙上人日華上人の功を嗣ぎ再び寺院坊等を造営し、矢張り高永山本門寺と称し無本寺にて罷在り候所、拙寺十四世日円過って北山本門寺と本末同様に相成り候儀より事起り拙寺有来りの寺号を北山本門寺より自儘に取上げ法華寺と名乗らせ候てより正保度争論に椎成り候所、慶安度御裁許にて本末と治定仕り候所、古来の寺号を削り新に寺号を授くるは失義の基ひ本寺の過なりと御裁許状に之れ有り候、故に本門寺は全く拙寺の旧号に之れ有り然らば自立に本寺と唱え寺号も自儘に本門寺と相名乗り居り候などの事は過ぎ候事とは申し乍ら事実不揃の義を申立て且つ継目の儀は本末治定後は其都度書面を以て相届け候儀に之れ有り、拙寺より本門寺へ登山の義は本末未分の節は勿論其後に至り候ても先規に之れ無く、尤も慶安前は年頭状も互に往復致さず候へども本末治定相成り候てよりは先例に之れ無く候へども本末の儀故継目並に年頭状は滞りはなく差出し候へども先規に之れ無き登山は仕らず其詮は本門寺法の出仕の節も登山仕り候儀一切之れ無く候程の義故、継目の節登山いたし候謂れ之れ無く、尤も登山の義宝暦年中より申し談じ之れ有り候所、明和年中拙寺より使僧差し遺し先例の振合相答へ候所随一の事に候へども黙止し難き子細にて聞済に相成居り、其余拙寺檀家の者ども本門寺へ参詣の有無は多人数の儀殊に諸国の霊場参詣のために立出で候に付き参詣場は拙寺にて彼是指図いたし候儀は一切之れ無く、且つ寛政度の頃より本門寺住職十五相代り人少旁た掛合に遺し候人も之無きに付打捨て置き候旨申し立て候へども、文政度に本門寺隠居日東、天保拾参年に正舜院罷り越し候由右様人少差支の中何等の用事にて差越し候や拙寺にをいては存ぜざる事に候へども、申立て方とは齟齬いたし如何にも其意を得難く、慶安度の御裁許相背き候旨申立て候へども拙寺方にては堅く相守り一切背き奉り候儀は之無く、且つ釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩勧請致させ候所、去る酉年伝燈院と申す者法華寺へ罷越し客殿見届け候所二仏の台座にも之れ有りや坂本尊居へ置き木像は近来破却いたし庫裏物置等へ木像の手足取り散し之れ有り候旨申立て候へども、右等の義は曽て之無く一躰日興門流にをいては諸菩薩等の木像勧請致し候儀一切之無く、本門寺にをいても寛永以前は矢張法式外日興門流様の法衣に之有るべく、既に慶安度御裁許にも法式の義は何とも御沙汰之れ無く、然らば旧来仏像居へ置き候などの申立て都て拙寺法式異法の様に申し居り候へども、法義に相背き候義には之れなく不二派一躰右の通の法式に之れ有り、右様故素々仏像勧請の儀は法式に之無きを破却等いたし候義之有るまじく、且つ薄墨白衣袈裟着用の義は拙寺什宝夢の御影と唱へ宗祖日蓮聖人自筆の絵像之有り、恐れ乍ら大猷院様御覧遊ばされ稀代の重宝と仰せられ狩野右近を以て御写し仰付けられ拙寺へ下し置かされ有り難く大切に守護罷り在り右両幅とも薄墨白五条袈裟着用、殊に祖師開山より自門一同着用致し来り候儀は拙寺寺法にて既に慶安度御裁許にも法衣の御沙汰之無く本門寺方にても其辺も申し談じ之無き処、慶安度より凡そ百余年も相立ち宝暦度に法衣の義始て申し来り候故、明和度に先規に之無き旨申し答へ候所尤もの趣きと申し一と先承り届け置き乍ら、享和の度違背いたし候旨申し立て候へども明和度より享和度迄は年暦間も之無く、右事済の儀は承知罷在り候や、数代住職相代り候由に候へども何の沙汰も之なく、其後天保度の書翰末筆にも拙山中諸色衣着用の義開祖の御本意に相叶はずと、当職日瑞隠居日穏外々の衆僧も追々先規の通り相改めたき存念に御座候次第に候へば富士五山とは異躰同心門流繁栄の義頼母敷存じ奉り候旨申越し候義も之有るに付き事済に相成り居り候義と存じ奉り候、右の次第故違背の法衣に之無く祖師開山並に派法相守り着用仕り候義にて御座候。
且つ本尊の儀は住古より檀家の者共へ拙寺より授与いたし遺し来り候故本門寺より本尊迎へ候儀は一切之無く檀家死滅出来候節引導致さざる旨申し立て候へども祖師日蓮聖人十界具足の本尊に向ひ奉り仏法僧の三力を以て絶へず引導仕り来り候、大石寺の本尊受け候儀は銘々帰依に任せ候儀故拙寺より差図いたし候儀は之無く数百年来の事にて其始は相知れ申さず、他門より受け候義は之無く大石寺儀は同門の上開基日華日仙両上人の旧跡も之れ有り旁た以て拙寺には因縁之有り、殊に日蓮聖人一期弘通の大事たる本門戒壇の本尊之有る故檀家ども往古より一同信仰いたし候義にも之有るべく、将又拙寺の者ども大石寺へ所従致し候義は更に之無く、然し乍ら勘気いたし候者自儘に罷り越し候や如何之有るべく是迄拙寺より所従相頼み候義は覚え之無し。
大石寺墓所へ日逞其他の石碑相建て候義は銘々の俗縁の者ども建立いたし候義にも之有るべきや拙寺より建立いたし候儀は之無く、且つ文政度日東、天保度正舜院拙寺へ罷越し候趣に候へども記録等取り調べ候へども見当たり申さず、尤も嘉永三年夏未聞不見の僧壱人拙寺塔中中之坊へ参り止宿頼み入れ候所其の砌り当住日住義は同坊住職中折節留守中にて小僧壱存を以て止宿致させ候所、翌日日住帰坊いたし見馴れざる旅僧罷り在り候に付き何国の僧にて添簡持参致し候や小僧へ相尋ね候所無添簡の趣に付き、添簡之無き旅僧は止宿相断り候義は法華寺の寺法に之有り候故止宿相断り候儀に御座候、大石寺の僧本門寺の役僧と偽り拙寺にをいて説法致させ候旨申し建て候へども拙寺にをいて右等の儀一切之無く、尤も嘉永六年中大石寺より弁玉弁妙と申す僧中之坊へ罷越し候由の処近隣の在俗ども帰依いたし説法聴聞いたし度依ては塔中にをいては説法致させ候儀先年も之有る由に付き、中之坊より領主へ申し立て候所聞済に相成候義にて拙寺にをいて説法致させ亦は本門寺役僧弘通などと偽り候義は勿論他門の僧侶引き入れ説法致させ候義は更に之無く、拙寺檀家の者ども不受不施信仰の者多分之有るに付き天保度下高野村多左衛門と申す者御召捕に相成り右の儀に付き領主より差し扣へ閉門申付けられ候砌りも、本門寺へ無沙汰にいたし置き候旨申し立て候へども其節は勿論以前も不受不施信仰の者拙寺檀家に之無く、多左衛門儀檀家に候へども其前除帳相成り候者にて如何の次第に候や信仰いたし御制禁相破り愚俗を同類に引き入れ専ら相勤め候故、御召捕に相成り候てより以来拙寺檀家同類の者ども悉く改心いたし厚く相詫び候に付銘々詫書取置き候次第拙寺差扣閉門の儀は多左衛門身分に拘り候儀には之無く、尤も檀家の中御疑を蒙り奉り候者之有るに付き自分心得を以て伺の上差扣へ罷在り候儀にて別段御察当を受け奉り候儀は勿論閉門仰付けられ候儀には之無き間届け候程の儀も之無きのみならず、本門寺へ相届け候義は継目年頭より外に届け候義は旧記にも之無く、拙寺住職継目寺変宗法其外相続方に拘はり候義は勿論末寺々中坊等に至る迄本門寺へ問合の上取計ふべき旨申し立て候へども、一躰拙寺住職進退相続の義は往古は勿論慶安度後も寺檀一同熟談相整ひ候故領主へ願ひ立て住職取り極め候上本門寺へ相届候慶安度よりの先例に之在る義にて本門寺へ問ひ合せ候謂れ曽て之無く、拙寺々中等の義は慶安度御裁許状に之有り候通り法華寺門下の侶は能く法華寺の寺法を守り申すべき旨顕然と之有り候義故御裁許通り堅く相守り居り候義にて、右故是又本門寺へ問ひ合せは勿論届け候義も更に之無く、拙寺仮住日住義退出いたし候義は安政七申年中本門寺より今般の一条領主へ懸け合ひに及ばれ候処日住へ種々利解之有るに付分別決し難き内拙寺末寺々中等の諸檀家一同挙つて申し出で候は先規寺法宗法等相崩し候義は悉く迷惑不承引に付き、若し右等の義を日住儀相崩し候にをいては悉く離檀いたし候など申し領主よりは穏に事済ませ候様利解之有り、左候とて先規相崩し悉く離檀致され候ては法華寺滅亡は眼前の義故実以て前後分別に差し迫り老年の上右様当惑心痛の余り終に逆上いたし退出の仕儀に相成り候故、門末檀家等其儘に差置き難く所々に行衛相尋ね候へども住所相知れ難く余儀無く領庁へ相届け候所、拙寺末寺妙行寺日輝へ兼帯仰付けられ罷り在り候処、漸く日住行衛相知れ候に付き次第柄之有る上右檀家一同よりも領庁へ日住帰住候の義歎願致し候処、仮住として帰住仰付けられ候次第に御座候、右様一々申上げ奉り候通り拙寺々法且は先規仕来り等相守り居り候義にて本末治定以来其前に之無き人別帳亦々御触れ且は継目年頭の節は書状を以て相届け聊か本寺の下知違背いたし候義は之無くと存じ奉り候、併し乍ら慶安度御裁許にも之無き義且は先例仕来り寺法等を崩させ候様成る義は仮令本寺より申付けられ候とて先規の寺法相崩し候ては弐千余軒の諸檀家右様挙つて不承引の上離檀いたし候など申し居り、既に今般拙僧ども出府いたし候節も右檀家一同より申し出で候は定めて今般の義は本門寺より申立て候義に之有るべく、左候はば先規の義を相崩され候ては皆々一同離檀にも相成るべき間左様急度相心得べき旨聢と断に及ばれ候義にて実に似て薄禄貧地滅罪檀家の合力を以て相続いたし来り外に寺禄等も之無き故、一同離檀にも成り行き候ては寺門末地中滅亡は眼前の義にて正応中よりの旧地茲に至り、一時に滅亡いたし候ては種々難渋至極と非歎仕り候間。
何卒格別の御慈悲を以て前顕の次第柄逸々聴し召し訳けさせられ慶安度御裁許状にも法華寺は西三十壱箇国法華の頭領たるの間諸末寺に勝れるの条本門寺其意を存ずべき御旨には御座候の間、是迄の仕来り通り致し置き候ても本寺の威光には別段差障も相成り申すまじくと恐れ乍ら存じ奉り候間、訴訟方へ御利解の上先規仕来り且は祖師開基以来の寺法ども是迄通りに致し、以来本末の間柄和融相成り無難に寺務相続仰せ付けられ成し下し置かれ度偏に願上げ奉り候、以上。
京極佐渡守領分、讃州三野郡下高瀬村法華寺仮住日住病気に付き、
慶応二寅年三月 代同寺先住弟子日昇印、塔中法善坊印。
御役寺本妙寺御役僧衆中。
法華寺代日昇より北山末頭小石川蓮華寺への状   稲田海素氏に在る本門寺文書の中なり、二月の答申より更に六箇月を閲して役寺本妙寺の調べは多分北山方に贔負したるやうなるべく讃岐の不利又失費崇みたるに困却せる時、丸山にては遂に又奉行所に差出し更に高圧を加へたりと見へ、僅に本尊改●等の一大事のみの猶予を残して、他は全く権勢に服従する事に決して本件終止の取扱ひ方を其末頭及び北山役僧に懇願して漸く承認を得たり、蓋し日昇は穏和の人にて死闘を続くるの気力無きが如く見へたれども其苦悶は察するに余り有りと云ふべし。
恐れ乍ら書附を以て願ひ上げ奉り候。
一、拙寺風儀従来御本寺定掟に相違御座候に付き、右廉々改仕るべく素様先年より仰付けられ候へども旧来の仕来り故御受仕り兼ね罷り在り候に付き、さる戌年寺社御奉行所え御訴訟遊ばせられ此度拙僧ども召出され御吟味御役寺様へ御下げに相成り、御役寺様度々の理解仰せ聞けられ候へども愚僧ども勘考行届き兼ね候に付き、猶又御奉行所へ御差出しに相成候に付き度々厚き御利解仰せ聞けられ恐入り奉り候、此度御本寺より改革仰付けられ候五箇条左の通。
一、寛文不受不施御制禁の節諸末寺え申付け候通り堂内へ三宝四菩薩御木像勘請いたし申すべく、且つ僧俗一同薄墨素絹真白袈裟改め諸色の法衣着用すべき事。
一、継目の節は急度登山致し生御影御尊像●に開山聖人の霊廟え拝礼を遂げ歴代本尊を請け法灯相続致すべき事。
一、檀家を教導致し本寺え参詣は勿論厚く信仰の輩は本尊請けさすべき事。
一、諸末寺制誡の差支に相成候間前に大石寺え立て置き候日逞其外僧俗の石碑残らず引取り本寺え立て申すべき事。
一、本寺宗法宗掟逸々堅く相守り末寺役急度相勤むべき事。
前文申上げ候通り右五箇条の趣御奉行所●に御役寺様に於て厚く御理解仰せ聞られ承伏し奉り堅く相守り申すべく候、去り乍ら諸尊御木像勧請法衣箇条の儀は此度の儀に改革仕り候ては何分檀家の人気調ひ難かるべく左候へば法華寺相続の程とも覚束なく存じ奉り候間、丹誠を抽んで教導致し追々改革仕り度存じ奉り候間、夫迄御宥免下さるべく候、尤も御本山登山の節は申すに及ばず御奉行所●に御役寺様参上の節且又貴寺其外同末寺中え罷り在り候節は諸色の袈裟黒衣の直綴着用仕るべく候、大石寺え立て置き候石碑の儀は夫々施主も之在り候間国元え立戻り懸合の上早々取片付け申すべく候。
右の趣を以て貴寺御取扱ひ成し下され候様仕り度追々日数も相懸り候、御奉行へ対し奉り候ても誠に以て恐れ入り奉り候間、此段格別御燐察を以て御聞済成し下され早速御下げに相成候様御取計ひ願上げ候、以上。
慶応二丙寅年八月 法華寺代日昇印。
御末頭蓮華寺様。
代日昇より本門寺役僧への状   同上、本尊改奠猶予の願ひ及び日祥の承認書なり。
恐れ乍ら書付を似て願ひ上げ奉り候。
一、此度御願立てに相成り候一条、今般御奉行所に於て追々厚き御利解仰せ聞られ候に付、御吟味中御熟談相成り候に付ては右御吟味下げ面箇条の内左の通り。
一、寛文度不受不施御制禁の節諸末寺え申付け候通り堂内え三宝四菩薩御木像勧請いたし申すべく、且つ僧侶一同薄墨素絹真白袈裟相改め諸色の法衣着用致すべき事。
右箇条の儀も前段通り承伏し奉り堅く相守り申すべき候、去り乍ら旧来の儀にて檀家一同深く信仰罷り在り候故此度改革仕り候ては何分人気相調ひ難く左候へば拙寺の滅亡は眼前に御座候間、何卒御慈悲を以て在処の儀は教導致し人気相調ひ候迄是迄通り御聞済に相成り候様願上げ奉り候、尤も御本山登山●に御奉行所御役寺同末等え罷出で候節は諸色の袈裟黒色の直綴着用仕るべく候間、右様御聞済み成し下し置かれ度偏に願上げ奉り候、己上。
慶応二年寅年八月 讃州三野郡下高瀬村法華寺日住代日昇印。
御本山御役僧、伝燈院様。
前書の通り出願の趣き聞済み候間精々教導致さるべく候、其の為め奥文差遺し申し候、以上。
寅八月 本山役僧、伝燈院日祥。
訴人相手連署の一札   同上、蓋し弥よ済口の予備書なり。
差し上げ申す一札の事。
讃州下高瀬村法華寺停住日住儀、触頭本妙寺の吟味を相拒み候由を以て同寺より松平中務大輔様寺社御奉行の節一件一同差出しに相成り御吟味中御退役に付、当御奉行所へ御引送り相成り猶御吟味中に御座候処、掛合ひの上夫々事柄相分り別紙の通り取極め一同申分無く御吟味下げの儀連印御書付を以て願奉り候処、願ひ候通り吟味中御下げ成し下され候段仰せ渡され一同承知畏まり奉り候、仍て御受け証文差し上げ申す処件の如し。
慶応二寅八月十七日 御朱印地、駿州富士郡北山村、本門寺日信代、伝燈院、訴訟人 日祥印。
同寺末、京極佐渡守領分、讃州三野郡下高瀬村、同宗、法華寺仮住日住代、相手方日昇印。
寺社、御奉行所。
前書仰せ渡され候趣き拙僧儀も罷り出で承知し奉り候、依て奥書御願ひ差上げ申し候。
触頭 本妙寺代 法寛院印。
訴人日祥相手日昇連署の熟談済口の状   本門寺文書の中にも法華寺の文書の中にも在り、但し文字に多少の相違あるは相互の写し誤りなるか。
恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候。
駿州富士郡北山村本門寺日信より同寺末寺讃州三野郡下高瀬村法華寺兼帯又末丸亀妙行寺日輝へ相懸り不法出入申し立て、文久二戌年十一年中有馬遠江守様御勤役の砌り出訴し奉り候処、御糺の上一応役寺の取調べ受くべき旨仰せ渡され相手方御呼び出し相成り候中右日輝は欠落いたし仮住日住病気に付き代日昇罷り出で夫々返答書差上げ取調べ中、松平中務太輔様御勤役中御差出し相成り御吟味中当御奉行へ御引継ぎ猶は御吟味中の処懸け合ひの上熟談相整ひ候趣意は。
訴訟方にて申し立て候は拙寺の義は往古薄墨同色の袈裟着用罷り在り候処、寛永十八年宝樹院様厳有院様を御懐妊遊ばせられ候節御安産の御祈祷、拙寺十四世日優へ仰付けられ御安産御守護として日蓮聖人真筆の漫荼羅献上仕り御祈念申上げ奉り候所御安産遊ばせられ候後、右漫荼羅は拙寺へ御預けに相成り宝樹院御満足に思召され日優へ御書下し置かれ、且又緋紋白の五条袈裟金入七条袈裟を祖師日蓮聖人開山日興上人へ御寄附成し下し置かれ厳有院様御外候母泉光院様より右の法衣に準じ一派の僧侶一同諸色の法衣着用致すべき旨仰せ付けられ一同相改め候、其後万治元年泉光院様関口蓮華寺御建立遊ばせられ日優へ開基拙寺末寺に仰付けられ御朱印下し置かれ弥々有難き仕合に存じ奉り候、然る所末寺の内右法華寺独り相拒み剰へ自立に本寺と唱へ寺号も本門寺と相名乗り居り且つ宝樹院様泉光院様御思召を相背き奉り候のみならず本寺違背旁た打捨て置き難く、慶安元年御公儀様へ御訴訟に相成り法華寺召出され寺号本門寺御取上げ其節より法華寺と相名附け本寺の法義承伏致し諸色の法衣も着用仕り寛政度迄は本寺宗掟相守り僧俗ども本寺へ登山いたし候所、享和度の頃より登山致さず追々違背致し、勿論拙寺義も寛政度の頃より不仕合にて十五代相代り殊に人少故打ち過ぎ罷り在り候折柄、弥々無本寺同様本寺へ対し不受不施同様の所業は全く心得違にて之有るべくと種々申し談じ候へども何分承引仕らず、第一御由緒の法衣着用仕らず慶安度の御裁許相背き奉り拙寺十五代日要代に申附け候釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩の木像勧請致させ置き候処、破却致し本寺の宗掟相背き白袈裟を着用いたし法用相背き且つ他門の本尊を受け他門の僧に説法致させ候義は本寺制誡に候処、檀家の者へ申し附け拙寺同郡上野大石寺本尊を受けさせ同寺の僧侶に説法致させ殊に拙寺と大石寺とは軒並同様の処僧俗とも大石寺へのみ登山いたし拙寺へは壱人も立寄らず他門同様の仕来り、中ん就く大石寺へ法華寺日逞の石碑其外僧侶の石塔迄相建て、且つ文政度拙寺隠居日東罷り越し其後天保度嘉永度等に使僧差し遺し候処、其度々法外至極の取扱ひ致し候、猶ほ天保度法華寺檀家の内に不受不施信仰の者之有り御召捕に相成り法華寺をも閉門仰付けられ右等の義を本寺へは押し隠し置き、元来人別帳は本寺へ差出し置き乍ら住職交代の度毎継目は勿論寺変宗法寺務相続方本寺へ一円沙汰も之無く、門末数箇寺之れ有る中右躰の儀押し移り候ては本末の間柄を忘却致し一派の破滅も覚束なしと存じ奉り、是迄相手方へ数度懸合ひ候へども一円相分り難く、且つ先代日住義は一昨年使僧差遺し候節出奔致し候へども当節は差戻し住職致させ候趣き粗ぼ承り及び畢竟本寺へ対し不受不施同様の振舞いたし粗違背の根本は法華寺今節着用罷り在り粗薄墨色の衣、真白の五条袈裟は全く大石寺派の法衣に相同し候より事起り候旨其外品々訴へ上げ。
且つ相手方にては正応の度日興上人直弟日華上人当国那珂郡田村に一宇建立高永山本門寺と号す、後故ありて当寺境内へ正中年中日仙上人再び寺院坊等を造営し矢張り本門寺と称し無本寺にて罷り在り候処、拙寺十四世日円過つて北山本門寺と本末同様に相成り有り来りの寺号取り上げられ法華寺と名乗らせ候てより正保度の争論に相成り候処、慶安度御裁許にて本末と治定仕り候処、古来の寺号を削り新たに寺号を授くるは失義の基ひ本寺の過りなりと之有り候故、全く自儘に本門寺と相名乗り候義には之無く、且つ継目の義は本末治定後継目は其都度年頭状は毎年各書面を以て相届け候儀に之れあり登山の儀は本門寺々法出仕の節も仕らず候上先規に之無き故仕らず、尤も宝暦年中より申し談じ之有り候に付き明和年中先例の振合相答へ候所聞済に相成り折り右様の儀故拙寺門下の僧侶本門寺近末へ住職致させ候儀は伝聞にも承はらず、其余拙寺檀家の者どもへ参詣の場所指図いたし候義は一切之無く、且つ寛政度の頃より本門寺住職十五代に相成り旁た打ち捨て置き候旨に候へども、文政度に本門寺隠居日東、天保度に正舜院罷り越し候由何等の用事にて差し越し候や其意を得難く。
且つ釈迦多宝上行無辺行等の四菩薩勧請致させ候処、右仏像は勿論鬼子母神堂迄十七八箇年前悉く破却致し候旨に候へども一切覚へ之無く、拙寺境内に鬼子母神堂之有り候儀に候はば書留も之有るべきを後巡見の度毎書上げ書類扣にも境内に祭り之有り候儀は認め之無く、一躰日興門流にをいては諸神諸菩薩等の木像勧請致し候儀は之無く開基日仙上人以来の寺法に之有り、且つ薄墨黒衣白袈裟の義は拙寺什宝夢の御影と唱へ日蓮聖人自筆の絵像之有り恐れ乍ら大猷院様御台覧遊ばされ希代の重宝と仰せられ狩野右近を以て御写し仰付けられ拙寺へ下置かれ右両幅とも薄墨衣白五条袈裟着用、殊に祖師開山より自門着用いたし来り候義にて既に慶安度の御裁許には法衣の御沙汰之無く、然るを宝暦度法衣の義始て申し来り候故明和度先規に之無き旨申し答へ候処尤の趣き之を申し一先づ承り届け置き、数代住職相代り候由に候へども何の沙汰も之無く、其後天保度の書翰末筆の文躰の次第も之有るに付き事済みに相成候儀と存じ奉り候右の次第故違背の法衣に之無く。
且つ本尊の儀は往古より檀家の者どもへ拙寺より授与致し来り候故本門寺より本尊迎へ候義は之無き故焼捨て候謂れ之無く、大石寺本尊を受け候儀は銘々帰依に任せ候儀故数百年来の事に之有り、他門より受け候儀は之無く大石寺儀は同門の上開基日華日仙両上人の旧跡も之有り、殊に日蓮聖人一期弘通の大事たる本門戒壇の御本尊之有る故檀家ども往古より一同信仰候儀に之有るべく、大石寺墓所へ日逞其外の石碑相立て候義は銘々俗縁の者ども建立致し候儀にも之有るべく、拙寺より建立致し候儀には之無く、且つ文政度日東天保度正舜院拙寺へ罷越し候趣きに候へども記録等取調べ候へども見当り申さず、尤も嘉永三年度未聞不見の僧壱人塔中中之坊へ参り止宿頼み入れ候所添簡之無き旅僧の止宿は相断り候義は寺法に之有り候故止宿相断り候儀に之有り、大石寺の僧本門寺の役僧と偽り拙寺にをいて説法致させ候旨に候へども拙寺にをいて右等の儀一切之無く、尤も嘉永六年中弁玉弁妙と申す僧中之坊へ罷り越し候由の所在俗ども帰依いたし説法聴聞致したく依ては塔中にをいては先例も之有る由に付き中之坊より領主へ申し立て候所聞済に相成り候儀にて、拙寺にをいて説法致させ候義は之無く、拙寺檀家の者ども不受不施信仰の者多分之有るに付き天保度下高野村太左衛門の儀に付き百日閉門仰付けられ候砌りも無沙汰にいたし置き候旨に候へども、右等の儀には之無く太左衛門儀檀家に候へども其前除帳相成り候者にて如何の次第に候や御制禁相破り候故御召捕に相成り候へども拙寺閉門の儀は右に拘り候儀には之無く、尤も檀家の内御疑を蒙り奉り候者之有るに付き引合として上坂罷り在り候儀故同地にをいて自分心得を以て差扣へ伺ひ奉り罷り候所、七日程相立ち御免相成り候儀にて閉門仰付けられ候儀には之無く、拙寺住職継目寺変宗法其外相続方に拘り儀は勿論末寺地中坊等に至る迄本寺へ伺ひ済みの上取計ふべき旨に候へども、拙寺住職進退の儀は寺檀一同熟談の上領主へ願ひ立て住職候上本門寺へ相届候処慶安度よりの先例にて本門寺へ伺ひ候義曽て之無く、拙寺仮住日住儀退出致し候儀は安政七申年中本門寺より今般の一条領主へ懸合に及ばれ候処日住へ利解之有り候に付き、諸檀家一同より先規寺法宗法等相崩れ候にをいては悉く離檀いたし候など之を申し、領主よりは穏に事済ませ候様利解之有り旁た前後分別に差迫り終に逆上の上退出いたし候故、門末檀家等所々行衛相尋ね行衛相知れ候に付き檀家一同よりも領主へ歎願いたし候処仮住として帰住仰付けられ候次第に之有り、右様逸々申上げ奉り候通り寺法且は先規仕来り等相守り居り候儀にて本末治定以来人別帳且は継目年頭の節は書状を以て相届け聊か本寺の下知違背いたし候儀は之無く、併し乍ら慶安度御裁許にも之無き儀且は先規の寺法相崩れ候ては難渋至極の旨其外品々答へ上げ。
雙方申し争ひ御吟味中の処厚く御利解の趣き相弁へ篤と懸合の上熟談相整ひ候趣意左の通り。
一、寛文度不受不施御制禁の節諸末寺へ申付け候通り堂内へ三宝四菩薩諸尊の木像勧請致し申すべく且つ僧侶一同薄墨素絹真白の袈裟相改め諸色の法衣着用致すべき事。
一、継目の節は急度登山致し生御影尊像並に開山霊廟へ拝礼を遂げ歴代本尊を受け法燈相続致すべき事。
一、法華寺檀家教導いたし本寺へ参詣は勿論厚く信仰の輩は本尊受けさすべき事。
一、諸末寺制誡の差支えに相成り候間前々大石寺へ立て置き候日逞其外僧俗の石碑残らず引取り本寺へ立て申すべき事。
一、末寺宗法宗掟逸々堅く相守り末寺役急度相勤むべき事。
前文の通り対談行届き相手方にて承知仕り候へども、去り乍ら諸尊木像勧請法衣箇条の儀は俄に此度改革仕り候ては何分檀家の人気調へ難かるべく、左候へば法華寺相続の程も覚束無く存ず依て丹誠を抽んで教導いたし追々改革仕り度く夫迄の義宥免いたし候筈、尤も御奉行所は申すに及ばず触頭本寺登山並に同末寺中へ罷り越すの節は諸色の袈裟墨色の直綴着用仕るべく候、猶又大石寺へ立て置き候石碑の儀は夫々施主も之有る間帰国次第懸け合ひの上早々取片付けさせ申すべき筈にて、雙方申分無く熟談相整ひ依ては此上御吟味受け奉り候ては恐れ入り奉り候間、何卒御慈悲御吟味是迄にて御下げ成し下し置かれ度願上げ奉り候、以上。
御朱印地、日蓮宗勝劣派本寺、駿州富士郡北山村本門寺日信煩に付き代、
慶応二寅年八月 訴訟人 伝燈院日祥印。
同寺末寺、京極佐渡守領分、讃宗三野郡下高瀬村、同宗法華寺仮住日住煩に付き代、相手日昇印。
  寺社御奉行所。
 前書の通り御吟味下げ願上げ奉り候処御聞済み相成り候間、後日の為め取替し置き申し候、以上。
右 日祥 印、 同 日昇 印。
                                     三、明治度の争論   明治維新の聖代を迎へて讃徒の欝懐大に暢達し本門寺に迫りて二百余年の桎梏を脱すべきの承認を得たるより、又慶応度の寺社奉行の理解の中にも人機調ふまでと云ふ事は無期限を意味するものとの説を憶念し、北山役僧の斯る面倒な末寺は本山も好まねば機だにあらば何時にても離末せよとの言質に依りてか、明治時代に至り第一の離末願は明治六年七月にして第二のは明治三十四年四月なりしが、今此には三十四年己降及び雑小文献を略して明治六年分を挙げ並に同願人の私状を掲げて参考に便にするのみ。
法華寺日弘の離末本寺換の願   扣へ法華寺に在り、但し此状に始て大石寺に転寺せん事顕はる、又此状に本門寺と古来称し来りしを開創より法華寺と称したりと云へるは本門寺の号は将来の大本門寺にて北山にても西山にても公称すべからずとの見地よりの説なるべし。
恐れ乍ら書附を以て願上げ奉り候。
御菅下讃州第七拾四区三野郡下高瀬村法華寺開基日仙日華の儀は日興が弟子に候処、右の日興は日蓮の弟子の中にも別して血脈正統の附弟と定められ候故、甲州身延山久遠寺後職として正応元年の冬先師の七回忌迄歴然と修業罷り在り候、先師曽て本麻無雙の名山富士山に居住の望み遺誡之在り、依て駿州富士上野南条時光の招待を受け弟子引連れ富士河合と申す処へ引移り、同二年の春大石寺を草創し居住罷り在り候、然るに同三年甲斐国秋山孫治郎泰忠讃岐国へ知行替に付き正導の師を日興に依て託せしにより弟子日仙日華の両僧同年に当国し下向し三野郡高瀬郷の内年暦百有余年前寿永年中恐れ乍ら三位三条実蔭讃岐佐にて任所に逝去之有り右の旧地を片取り一宇造営仕り法華寺と号す、即ち当寺にて廟所衛護致し居り候、然る処の其の砌り日興上足の弟子大石寺に子院を設け候より日仙日華等音信を遂げ百貫坊寂日坊の宿院を草創いたし候節同寺々中に今に歴然と之有り候、当寺三代日寿と申す僧も右大石寺所化より住職致し候儀に御座候、然る処当寺開基より九箇年の後永仁戊戌の春右日興大石寺より東二十余丁程隔て北山の郷に重須と申す処之在り、右へ一宇造立仕り重須寺と名付け、其後三拾二箇年目元徳二年の冬右大石寺を日目に譲り与へ重須寺へ閑居し、其後弐百拾余年を経て永正十二年に同寺日国と申す者より先師の書記に託し猥に寺号を本門寺と改め候即ち今の本門寺是なり、其後寛永十八年より旧法を変乱し緋紋白の袈裟黒衣等を始めて着用いたし宗祖開山の遺風に悖る様成り行き候、然るに往昔は自他宗とも寺院建立も輙く出来本末の定則も之無き事故当法華寺に於ても寺中末寺等追々増加仕り一本寺にて之有り候処、十四代日円と申す候慶長年中右本門寺より過つて一幅の本尊を貰ひ受け候より本末同様の振合に推移り候に付き、正保度住職日教本門寺と本末争論に及び開基己来三百六十余年一本寺に過し来り候処、慶安元年に公裁を経て本門寺と本末の廉合除き兼ね来り候へども、日興の遺書にも西三拾一箇国の法華棟梁為るべきの旨にて之有るに依て公裁に於ても外末寺並に相成らざる旨御裁許相成り、殊に当寺には本尊並に法衣勤行式に至る迄開基己来敢て異犯無く、本門寺方は本尊並に法衣勤行式も追々開基の遺風に悖り候より外並び末同様の廉に致し度き旨にて種々難題申し来り候へども、元来当寺は住職仕り候節本門寺の免許を受け申さず住職いたし候て後に届書のみ差出し自身罷り越し候義も之無き格式に候より度々夫是掛け合ひ之れ有り候へども、其の都度の細科申し争ひ立て候時は相互に紛紜無尽の論のみにて因循罷り在り候。
然る処去る安政三辰の春本門寺より新に十六箇条の難題申来り候て種々懸け合ひに及び候へども落居仕りらず終り同寺より時の御奉行有馬遠江守殿へ訴訟に相成り文久二戌年十二月中呼び状到来仕り候処、当住日住義老衰の上大病に付き余儀無く出府御猶予領庁迄歎願いたし置き療養中慶応元丑の春御奉行松平中務太輔殿より日住早々罷り出づべき旨の御召状到来仕り候処、右日住義は矢張り大病に付き余儀なく日昇代として出府仕り右訴訟十六箇条逸々答書いたし候処、其節は祖師開山の古風の先規先格と申候へば相立つべき筈に候へども本来の廉合に付き熟談に致すべき旨の種々御利解之有り余儀無く十六箇条の内慶安元本末己来之無き継目登山致すべき様相成り、又堂内へ三宝四菩薩勧請の事並に黒衣着用の儀は祖師開山の宗法に悖り候儀に付き承伏致し難く儀に候へども、是れ併ら人機相調ひ候迄と申し候へば百年弐百年過ぎ候ても壱人不承知之在り候へば人機調はざる義に之有りとの御理解之有り、且つ本門寺役僧申され候には右様相嫌ひ候本寺に候へば此度は如何様にも済し置き後に離末申し出で候へば如何にも取斗ひ仕るべく、亦本寺にも右様の松寺は好まざる事と申し候に付き拠無く三宝四菩薩勧請いたし並に黒衣等着用用いるべく候、去り乍ら旧来の儀にて檀家一同深く信仰罷り在り候故此度改革仕り候ては何分人機相調ひ難く、左候へば拙寺滅亡は眼前に御座候間人機調ひ候迄是れ迄通りにいたし置き呉れ候様の書面差出し、本門寺より前書の通り聞済みに候趣きの熟談済に相成り居り候、之に依て明治二年の春檀家ども本門寺へ離末の懸け合ひに及び相談相調ひ書面迄取替はせ之有り候。然る処去る壬申三月中教部省を立置かれ追々大小教院創立の儀に付き各宗より建白の書類熟覧致すべく、将又教院創立に付き入費は本末とも弐円宛に候間急速に持参致すべき旨同八月中申し来り候、之に依り拙僧並に弟子泰英両人罷り越し候処、弐円金は請取られ候へども呼び立ての書面とは大に相反し教義の儀一切論談之無く唯々既往の事申し募り其上封印之在り候荷物の内なる法衣無法に取り上げ、東京大教院へ出勤致すべき旨に付き状況致し候処、右本門寺末高田本住寺へ留め置き大教院へは更に出頭致させず候て空く光陰を過ごし入費相尽き難渋至極に付き拠無く同居の者へ断り置き帰国仕り候処、本門寺より難題筋申し来り之有り候に付き、当寺塔中末寺ども申し出で候には法華寺は本門寺を本寺にいたし居り候間一同服し難く離末仕り度其儀は既に先年も本門寺より数箇条の難題申し掛けられ終に旧政府の御沙汰と迄相成入費大に相掛り今に迷惑仕り居り候処又候私曲の義申し来り候、右に付き彼是申し候時は只々入費に極り難渋仕り候間離末いたし呉れ候様申し出でられ旁た以て今一応本門寺へ懸合いたし度発足仕り途中にて相煩ひ日数相懸り居り候処、右本門寺より静岡県へ申し立て旧香川県へ御懸合に相成り泰英壱人に御添書を戴き静岡県庁へ罷り出で同庁より本門寺日信へ御添書下され同寺へ罷り越し候所、日信並に養運坊其外の者共列座の上申され候には先般法華寺貰善呼び立て東京へ差遺し置き候処出奔いたし此度呼び立てに付き静岡県へ願ひ立て候て殊の外雑費相掛り候へば其方相弁ふべしとて強談に及ばれ、泰英拠無く五円金差出すべく不足の金は国元へ申し遺はしくれたく同人よりも申す遺すべしと演述に及び候へば、然るべくとて彼方より案文差出され此通り書面差出すべくと申し候故承知いたし相認め居り候処、又々目論見相換り候や日信始め坊中列座にて泰英を呼び出し其方余程金子持参致し居候はんとて無法に同人の懐中へ手を懸け候故乱妨なりと大音を発し候所、村役人ども地券に付き同寺に罷り居り候間多人数目を付け候故相静り候段、泰英所化ながらも堪へ兼ね此の事件を静岡県庁に訴訟に及び同伺中へ拙僧参り泰英に面会いたし委細承り候間、右本門寺へ参仕せず直ぐ東京へ罷り越し候て帰国仕り候、尤も泰英訴訟の儀は雙方御利解にて法華寺一条の儀は本門寺より願立ち之有り候へども己後静岡県庁にて取上申さずとの事に付き願書願ひ下げ仕り帰国仕り候、右の次第に付き向後当寺より本門寺へ出頭仕り候者壱人も之無く候、既に御庁より御添書の泰英すら右様の振舞に御座候、其上先般中御布達に相成り候一箇寺に付き弐円金宛大教院建築の入費本門寺より急速持参致すべき旨に付き法華寺並に塔中八軒末寺二箇寺合せて金弐拾弐円前書の通り去る壬申十月に拙僧並に泰英同寺へ罷り越し候節差出し候へども未だ教院へは差出し申さざる趣東京にて粗承り候、前顕の次第旁以て不都合なる事情に付き右本門寺の末寺と相成り候てより弐百拾余年の間本末の差縺止む無き事に候に付き永年離末いたしたき段望み居り候て既に先年同寺へ寺家ども懸合に及び一応相調ひ居り候処其後違変いたし何分承知仕らず寺檀一統後悔罷り在り候間、方今復古の御仁政に縋り奉り前顕の次第之れ有り候に付き本門寺離末仕り大石寺へ入末に相成り候様願上げ奉り候、何卒出格の御仁恵を以て入末命ぜられ下さるべく候はゞ末坊の面々迄も古来より宿望に御座候間、忽ち愁眉を開き如何斗り有難き仕合に存じ奉るべく候、此檀只管懇願し奉り候なり。
明治六年七月 御管下、讃州第七拾四区、三野下高瀬村法華寺住職、小笠原日引印。
名東県権令林茂平殿、名東県参事久保断三殿、名東県権参事西野友保殿。
前書の通り願ひ出で候間、差出し申し候なり。
第七月廿八日 第七拾四区副戸長 小野嘉享印 戸長 高城近太郎印。
法華寺隠居日弘より大石寺日応へ状   写し雪山文庫に在り、日弘は近代に見る質実の信行者にして日霑上己後は石山にて相互の関係史実に精しき者無きを慨してか明細を極めたる所あり又同人の持説を同山日#の伝へたるものあれども且らく爰に記せず、但し此状の起因は現住日芳の離末本寺替願の発企中なれば或は大石よ間合せたる答えにあらずや左は其消息中の一部を掲ぐるのみ。
○、一法華寺が大山中古信仰最初の内幕は法華寺十六代日教本末公事に負けを取り十七八代日研日真の二人造仏をかざり黒衣を着しど(銅)ら(羅)ねう(鐃)鉢をつく(橦)等の大謗法に落込みしこと旧記に見へたり、○
法華寺大山信仰の原因は敬慎坊と云ふ者塔中中之れ坊の弟子なるが江戸下谷常在寺に随従し法門を受け帰り中之坊の住職となり檀中を弘通し法華寺十九世隠居日達を教化して同意してありしが、該檀中大庄屋役真鍋三郎左衛門へ大山の御本尊を申し請け東海道三度飛脚より封の儘送り来る、丸亀脚夫西之れ坊下男え中之坊へ達すべきの依頼せしを持帰り該住持に見せたるを以て住持要玄院なる者法華寺当住日要に持出し何かあやしきとあつて開封致す処、大山の因師の本尊なるより訴訟に趣きし中、敬慎坊の輪転当番に付き法華寺本堂に於て説法の際伝教の所謂教相の法華を捨てゝ観心の法華を取るの意を伸べ、にせ薬を売る者あり長吉番頭に至る迄其記に成つて取行ひをなすなどと、吾は渇かしても盗泉の水は呑まぬなどと其意を伸べて強折せしを、日要の弟子嘉音と云ふ者聞ひて師に告げ会議の上敬慎坊に退院申し渡し終に公所にて対決と相成り法門の義は日達も敬慎坊に同意して申し上るに付き、法門は日要始め満山の衆詰められしも、悲いかな対本寺するの咎として入牢申し附けられ三良左衛門も倶に牢死となりし事哀むべきの至りなり、日要始め満山の悪徒ども上に本門寺を頂き使僧を遺はすやら役僧が来るやら勢力ある故、御朱印直達の公辺の恐れあれば小大名私領の弊害あつて左様の始末となりしなり、敬慎坊はさきに一の箱を出来遺言して二三代歴たれば名僧あるべし其時此の箱を渡すべしと真鍋三郎左衛門に預け置き入牢して廿一日断食し死せり。
其後言ひ置く如く三代頃に当り日遺並に保寿院日照と云ふ者あり、此の時ならんと己前の箱を出し渡せしに大山の秘書十巻余是を披見し信を起し檀林往復の際大阪北野蓮華寺開基日命に附いて法門を請け、日遺は能化資縁金日命師の引立にて寅屋より支弁致されし事なり、此の日命上人は要法寺末蓮興寺の隠居にして大山の清流を教化し与力同心を取入れ檀中に付けて天台宗天鷲寺末蓮華寺として法門は大石寺通用と致す程の大信者なり、日遺は京都妙覚寺の末菴を譲り受けて丸亀農人町妙行寺を建立致し法華寺より御開山の御本尊を得て是を蓮華寺へ譲り今の御本尊は是なりと承り及び候、此の日遺吾日泰に申し入れて祖師堂を建立す、今法華寺御堂是なり、其後法華寺貫主となり造仏取払ひ黒衣ど(銅)ら(羅)ねう(鐃)鉢塔謗法を除去し保寿院と専ら種統の法門を弘通せしは其元敬慎坊の見込みもなきにあらざれども一心決定不惜身命の信心より起りし結果なり、依て今中之坊に於て毎歳三月八月廿二日に右敬慎坊保寿院両人報恩の為め法会を勤る事に之れ有り候。
此の敬慎坊の事大山に於て深く後感賞あつて石碑を立てられし其の写し。
(正面)顕妙阿闍梨敬慎坊日清比丘は讃州丸亀法華寺塔中の坊主、宝暦七丁丑歳八月廿二日。
(左に)清公牢死に寄する古詩。
讃陽高瀬は正法の地、空く異流を汲んで教化衰ふ、僧は理上熟脱の経を崇め、侶は事行下種の仏を蔑にす、叟清出で正を述べ廃を起す、亦邪徒の邪承を慕ふ有り、官に清を訴へ非法の者と謂ふ、官弁へず清を囹圄に投ず、清唯飯食を断じて獄に死す、鳴呼死身弘法の人。
(右に)深く高開両祖の法水に入り堅く日仙上人の流を汲み法の為に獄に入ること三十余日飯食を絶ちて一命を捨て畢る、鳴呼忠なるかな、日元之を感じ功名を末代に残す者なり、造立す日元。
宝暦十叟辰五月に右写しを以て法華寺へ重須より申し来り、大山重須より掛合ひ取り除けに相成る趣き旧記に見へたり、法華寺日遺中之坊保寿院大改正致せしかども一時の事故行届ざる故、元の祖師堂に開基日仙上人を祭る等の残り今に在り、法門にも相違の廉之有りしを、安政年中より重須公事に付き余程改正に至り今法門は大山の相違の辺之無き様に存じ奉り候。
慶応の比江戸寺社有馬遠江守殿御呼出に付き出府し尚々大山の大御隠居様並に霑尊胤尊等態々出府の上妙縁寺檀中寺社御留役き(木)ぐれ(暮)氏へ御内意申上げ終に頭のかげが出来たら拾ふてあげますと迄申し呉れ、是にて立入は御無用、此役は仏参も猥に出来ぬ役柄と迄申されし事なり、其時大将の心弱くして随ふ物甲斐なしとて後にき(木)ぐれ(暮)よりそう弱くては勝利の利覚束なし熟談を申附るに依りよいかげんにして還るべしの御気附けあつて熟談取結びにて事済に相成り候なり、其砌り満山檀中に於て異義を生ずる者なき筈なれども中之坊省教等心弱くして強き者よりはせだして重須の黒方となり内端が二つになりしなり、亦其先蹤は日昇師の心弱きを以て勝利にならず熟談の仕義に相成候。
随分是等の義今以て心得あつて緩和を先とし内輪をはらぬ様悪魔を引き入れぬ様が大事なり。
前にある今先例無き北山の山務費満山より五六拾円毎歳相掛り寺中の者講中へも不信仰にて出財する者なき故に住職の者より出金する事にて出財致さざる旨寺中の者申さるなれども、日芳師吾を責むるとて忽ち内輪の衝突起る故拠無く当春も差出せし事なり。
是等の義は扨置き法華寺には廿八世日住の時まで本尊書きたるを重須公事より日昇改め日睿より相止め候事に付檀中信不信とも大山の御本尊を頂戴せぬ者一人も之無き儀に候、○

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