富士宗学要集第九巻

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第七章 大納言件

 北山も日妙後葛藤ありて歴代整はざるの批難あり、日国は佐渡一谷を復興せし程の又他山を排して国主今川家より本門寺を公称するの特権を有せりと門末より云はるる偉材なるに晩年振はざりしか又他に事由ありしか、遠江の豪族里見某の童児を後董と定めて寺蹟を相伝せるより日耀其他の寺家と紛争八箇年を過ごして日源の脱走に依て解決せる本件なり、此間少年貫日源の伝佐は何僧なりしや大石西山が大納言に党せし等は文書に見えずと云へども、正に北山の不詳事なりしなり。
妙本寺衆より日源へ状   年代不明の古写本妙本寺に在り。
一、存ぜられず候の処一翰を啓せしめ候、仍て本門寺御住の日権実雑乱候て離山成され候の旨仰せ越され候其由日我上人へ披露致すべく候と雖も両方未決の沙汰と云ひ遠国隔異の注進に候の間爰許大切に候か、其上当寺入学の懇志後代還住の趣き更に以つて他の分別に在るべからず候、其故は上人貫首の尊躰に老いても謗法の軽重罪障の浅深等上古の規則当今の格式尚更一準に非ず候の間、一方の伝語に任せ候て是非の旨兼日相定め●く候、去り乍ら御心底真実当宗趣向の御志は代々の勤め数年の習学、多日の行功を積まれ候て、其後当門婦入の有否滅罪生善の是非仰せ出さるべく候、其時に莅み上聞に達し候はば定めて御報に及ばるべく候か、只今の事は天魔外道の禅門に交はり阿鼻獄卒の浄土を願はる、剰へ当日亦本迹雑乱の一致に還り義道落居せず候て小師を軽んじ衆徒を蔑り其外不信の俗義謗法の張行累年聞え一に非ず、抑久遠本門両寺の事は本尊御影両堂の契状能開所開不二の誓約諒に以つて三国第一の道場日域無雙の霊場御存知の前に候か、然る処血脈の法主たる此の如きの御執成し他に異り候、然りと雖も御還住の有無、血脈属付の評判は本門寺の衆議に在るべく候、此方より擬ひ申すべき事譬へば豢を以つて虚空を擲つの躰たらくに候か、衆定に候間書礼の式一二に能はず候、恐々謹言。
日我より日出への状   前の第六章北久の関係の下に具文を引く、今略称なり。
○、大石西山は大納言負贔なり○、当寺より日耀嫡たるべく申す故安堵成され候、○。
今川義元の判物   天文十三年の判決なり史料類聚一の一五四頁に具文を引く、今其中より省略す。
○、大納言度々に及び宗旨法度に背く上○、大納言懸落の上は永く本寺へ競望有るべからざる事、○。
日辰記    永禄二年の記か祖滅二百七十八年、写本要法寺に在るより抄録す。
○同(永禄二年二月)七日同座(重須本門寺大坊にて)にして重須の檀那井出右京亮盛家の云はく大納言日源は(或人云く日源は十三歳なり)日国の付属を受け給へども誤り給へば寺檀一同して擯出申し畢んぬ、日代上人も又然かなりと、日辰問うて云はく大納言日源は童形か亦何等の謗法ぞや、答へて云はく日源は生国は遠江なり天文六丁酉の年に伊豆より駿州を改むる時最初に富士の諸郷を滅す、其時の大乱に依つて日源を遠州に移す日源の母死去なり、父母の親族等日源を勧めて位牌を持つて荼毘所に往かしむ、日源幼少にして是謗罪となる事を知らずして位牌を持つ、後に重須の宗檀之を聞き日耀深く之を遮る、○。
久遠本門一味の由来   第六章北久の関係の下に具文あり、今省略す。
○日我日耀と御入魂なり大納言と日耀と本門寺諍ひ此時も小泉は日耀に荷担なり、○。

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