富士宗学要集第九巻

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第五章 石要の関係

 要山の開祖日尊は石山に在りては久成坊の開基にして又日目の徒なるが故に郷貫を同うするが故に日道日乗日盛等と親交ありし事勿論なり、一時日尊が富士を擯出されし時日道は其供養をうけたとて日郷門徒より謗法呼ばわりせられ、又建武二年の状の如き相互の交誼を見ることを得、爾後大石の日有の晩年に要山より三位阿闍梨の来投するあり本是院の帰伏あり、要山日辰の富士通用は北山西山の歓迎を得、下条小泉の交際も開けたるが如しと●も大石とは遂に成らず、然れども門下の交通は少からざりしと見え日●と日主との時に西山の清彦三郎の周旋奔走によりて両山の通用全く成り以来公私の往復繁くして後世に両山門末統治便宣として東方は大石に西方は要山に互に委托したりとの伝説を生ずるに至る、蓋し或は其史実ありし所もあらん、日昌より日啓まで大石九代の山主は要山出身たりと●も初めには大僧来り後には小僧を教養せし傾向あり、兎も角多少の新儀を輸入し、殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが、日俊巳来此を撤廃して粛清に勤めたるのならず日寛の出世に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加えたるを以って要山本末に不造不読の影響甚だしく通用に動揺を生ぜり或は和し或は離れ寛政の法乱も此等が教義の上に行政の上に種々の渦を派生するに至る日躰の往本寺件日命の蓮華寺件、長時に亘る仏眼寺件、大教院件、立子山件、末法権心論件大石寺の分離独立件此に伴ふ興門正義件等大小の波瀾重畳両山の交渉は殆んど寧歳無しと云ふべし、遂に本来の大合問題の時本門宗七山は始は勝劣三教団に更に此を破約して今の大日蓮宗とかに併合せられて欣然たるが如く、何れも其主動は要山にありは云ふ、但し要山内稀に富士の合同を叫んで大石総本要法大本の説を為せる人ありしも多数の顧みる所とならずと聞く、但し両山の関係は此にて全く御破算となるべきや。
猶両山の始終の交渉に就ては日将の独一本門の大観(別刊)を、寛政法乱は日震の寛  政法乱(日宗新報一二一八号より一二六四号に至る)に在り。
一、日道日尊の交誼
宗学要集第五巻宗史部の二一六頁に云はく二には玉野太夫阿闍梨日尊は日興の御勘気十二年なり、其間日道日尊の供養を受くるなり。
日蓮宗々学全書興門集二六五頁より転記す。
 追て申し候、紫小袖一つ送り給ひ候畢ぬ、尚目出度候新春の御慶賀自他申し籠め候、尚以て幸甚幸甚。抑も日目上人御入減の後は御音信無く候条心元無く思ひ候処に此の使者悦び極り無く候云云、日興上人御跡の人人面面に法門立て違へ候或は天目に同じて方便品を読誦せず或は鎌倉方に同じて迹門得道の旨を立て申し候、唯日道一人正義を立つる問強敵充満候、明年の秋は、御登山と承り候へば世出申し談ずべきの条事毎に後信を期し候、恐恐謹言。
建武二正月二十四日 日道。
謹上 太夫阿闍梨御房。
二、日有は三位阿蘇日芸 前に第四、石泉の離反の下に日会記の大石寺久遠寺問答の事の前半の中を抄出す但し要山僧の大石住山を証せんが為のみ、巳下二文同じ。
日会記 、且く有つて出雲の国日尊門流三位阿十四五人の衆僧引き具し出仕して日中を始む。
鎮師御本尊 宗学要集第八巻歴料類聚一の一九七頁に出づ。
長亨二年、日鎮二十才、三位阿日芸に授与す。
日鎮状 祖減二百八年首●の正本大石寺に在り、此時三位阿は富士を辞して四国に在りし事前項の如し。
直筆を進覽せしめ候只偏に其方□御存知の内に一度参会申したきより外は他事なく候、然れば早々富士山へ参り候て愚僧の助縁にも立ち候はん事大慶たるべく候、心事対面を期し候多年の本懐申し述ぶべく候恐々謹言。
延徳弍年庚戌六月廿九日 僧日鎮在り判。
謹上 三位阿梨御房御同宿中。
三、日有本是院日叶 要山末に於いて山陰道唯一の雄刹たる馬来大坊安養寺に住せし本是院日叶は兼ねて日印日大の上行住本両系の末徒の行為に慊焉たるものあり(百五十条に依る)しが、遂に富士に投じて日有上人の門に帰入し、顕応房、左京阿闍梨日教と改名して大聖人本仏、余仏菩薩不造、一部不読等の富士の教義を骨張し、穆作抄、四信五品抄見聞、五段荒量、類聚翰集私、六人立義破立抄私記等の宗書を著して大石の教義を助顕せり、又帰入巳前の百五十条にも巳に此とう主張を見る、以上の諸書を日辰が富士にて一見して此が動機となりて造読論が成稿したる以外に、左京日数は石要両山を結ぶ紐帯となりして見るを得べし。
類聚翰集私 宗学要集第二巻宗義部の一の三○三頁巳下に全文あり、今其中より抄録す。(三○五頁)過ぎし比邪流に執しける時内々不審に思ひけるは法花宗の法門は天下に大略之を知れり、近来当寺へ参り信の道を聴聞して信心に身の毛立ちて、さては以前の修行は只仏法の讎敵なりけるにこそ有れ法華宗にはあらず。
六人立義破立私記 宗学要集第四巻疏釈部の一の二七頁より、抄出す、有師迂化後七年弱貫主日鎮に望まれて五人所破壊抄を註釈せるなり。
時に延徳元年己酉十一月四午の時、貴命に依り恐々翰林を贅す、左京阿闍梨日教耳順余。辰春問答 宗学要集第六巻問答部の一の四○頁に在る文を抄出す。
顕応坊日数初め大石寺に止住し後重須に帰入す此の人盛んに造仏読誦謗法の相を記す云云。
四、日辰より日院へ通用不成 祖滅二百七十六年、古写本要山に在り、辰師富士各山糾合に大志あり再三足を嶽亦に運び西及び北山の渇仰を受く小泉墻此に雷同す、但し蓮山に往きしも其結果文敵に見えず、石山にはさいご時に使を以て通用を謀る成らず既に目睫の間を往来して互に相見の機無かりしは、深く心裡に墻壁ありしを見るべし、況んや前頁の如き開山の道交及び門末の交通ありしに於いてをや。
謹んで一百六箇本迹の奥書を拝見するに高祖聖人は即ち上行の再誕広宣流布の日は大賢臣と為り開山上人は無辺行の再来彼の時に大賢王と為り日目上人は浄行の化現彼の砌に大導師たるべきなり、何ぞ日興門徒の一隻眼を得て別途の穿鑿を作さんや。
爰を以て高祖開山の代と為つて鳳闕の奏聞鎌倉の訴状既に四十二度に及ぶ、帝王即ち奏状並に三時弘経の図を得られ園城寺の碩学をして讎校せしむ、碩学上書して云く三時弘経の勘文殆んど以て符合すと取意、帝王観悦して御下し文を賜ふ其の文に云く朕若し法花経を持たば富士の麓を尋ぬべし取意、右二通は是れ開山の眉目当門の名称なり若し目公の勤労に非ずんば争か三井の許諾に預らんや。
又頃年を経て上聞に達せんと欲し進んで濃州に趣き宿望未だ遂げずして滅に入る、湛然云く乃至本門に位無垢に登れども毫末も差へず其の往因に称ふ、若し爾らば天奏の懇志豈に唐捐ならんや、謂つべし広布の待時の師範頗る往囚に称ふと我が祖師日尊は目公の弟子として寿量の妙法を八荒に弘通す、開山慶懌し正五九斎の祈祷の本尊を書写す十二の星霜を逕て合して三十六鋪なり、新所建立其数六々なり若し凡見に約すれば奇特の勘定と謂つべし、若し権化に約する時は何ぞ難とするに足らん、鳴呼開山目公の本意を募らんが為に花洛六角に於て本門弘通の道場を構へ両度の奏状を捧ぐ、法水の膏沢要鄙に施し蒼生日月に荏苒たり、然るに日辰生を京師の民間に受け竹馬に騎つて尊師の門に入り年忘学に至り八軸の真文を諷誦し年不惑に向ひ自ら一代蔵経を披覧す、三時弘経の証文四依の区別論釈甚だ以て符契聊も疑滞を存せず是れ祖師の芳恩なり是れ本山の鴻徳なり、蓋思はざらんや、難ぞ謝せざらんや旃に●つて知命の今本寺に参詣し法水の●渭を諮問するに富士京都繊毫の異無く化儀隠顕せり。
倩ら尊師の内証を推するに造仏誦は且は経釈書判の亀鏡に依憑し且は衆生済度の善巧を施設するか、願くは憐●を垂れ通用の御一札を賜はば本末の芳契慈尊の暁に及ばん者なり、恐惶謹言。
右一紙は日辰の作なり大石寺に贈つて彼の返報を聞かんと欲す所以に左の一紙は日辰の問に答るなり時に永禄元年戊午十一月九日使者寂円入道なり。
文に云く。
仰せに云く諸仏の国王と是の菩薩の子を生ずと、御血脈の奥書内証本門戒壇弘通の正導 師範疑滞無き者なり、此の金言に応じ法水を汲む輩争か之を信ぜらんや、茲に囚つて後五百歳の説文扶桑に到らん時は速疾に四大御涌現有るべき処ろ法門既に二途に分る門流の本意に帰せざる故か、●かしきかな多宝の証明世尊の舌相泡沫とならんかと愚胸を焦す、終に神力の瑞相に依憑し時節相待つの外他無き刻み三聖の法を移し尊流の辰公鳳魂に奏聞を発んと欲す是れ則ち賢聖の再来る此の時に有るか、然りと●も迷妄救助善巧方便の為め造仏読の執情不審なり、四重の興廃綱首題の主・恐は日蓮の行儀に天台伝教も及ばず、然りと●も仏は熟脱の主・某会下種の法主なり、彼の一品二半は舎利●等が為には観心と為り我等凡夫の為には教相と為る、理即但妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる妙法蓮花経是れなり又云く迹門妙法蓮花経の題号は本門に似たりと●も義理を隔ること天地にして成仏も亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮花経の朽木書の故を顕さんが為に一と釈するなり、末学疑網を残すこと勿れ、某会上多宝塔中に於て親り釈尊より直授し奉る秘法なり甚深々々、然る間本囚妙日蓮聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり照り光りの仏は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり、教弥権成れば位弥高き是れなり此の仏の所説を受くる機は終に等覚一転して妙覚に入るなり、去て高祖の化導を受け奉る機は元より理即なり、長遠果地の妙法を理即の凡人に与へ給ふは等覚一転して理即に入るなり、在世並に正像二千年の賢聖国王大臣等よりも聖人御出世の時分に生をうけ無作法を飽く迄唱へ奉る不浄の身に喜の涙袂を潤し応中胸を焦す者なり、然れば下種の導師と脱仏と並び立て要の修行・広の読誦は時機迷惑か経釈の明鏡大聖の金言・貴公知命の英才を以て発明の他無きか、所詮三聖の御内証違背無き様に善巧方便有らん者か。
鳴呼憂なるかな財を求めて利あらず貧賤の家に生るとの金言の如先生の修囚●くに他なし、然りと●も富める者は日蓮なりと遊され候間、●無く本意の修行法水を乱さず師口両相承・三箇の秘法無根に当て四聖涌現の刻を相待つ者なり、縦ひ此の如く山林に斗薮し万人に対せずとも義理に違背之れ無くんば折伏の題目と成り普く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是則ち大聖の仰せ云云。
然りと●も仏爾前高祖未だ一機一縁の方便たるを勘へざれば宜く辰智の胸憶に有るべきか、幸に知命に至り思無邪の英才●くは無似讃郷岡偽者信に以て依憑他なし是れ全く辰智を疑ふに非ず但辺鄙の胡乱を露す者か、且つ再度歩を運ぶをなすと●も忝くも高基云云、閻浮未曽有の無類の勝山亦●きこと無く洛水の処信仰之れ無き事は謂つべし悖真悖礼と然りと●も暫く方便の行ならば終に広流の正導師に帰せらる者か、恐恐謹言。
永年元戊午年十一月十五日
謹上 要法寺日辰 御報
右一通は大石寺当住日院・日しん問に答ふるなり、然るに此の一紙日辰の本意に応ぜざる故に加判を請ふに及ばずして義絶するのみ。
日院状の二 要法寺に在る年月不明にして浸水せし難読の状にて多分辰師と破談巳後のものにて要法寺は日辰寂後日●の代にあらずやと思う。
御状の如く去歳は不思議に御下向の刻立ち寄らせられ候処、良に田舎の躰たらく御目に懸け愚僧不慮候、然りと●も大法未流布の刻に候条善悪に及ばす候か、殊更当寺より無候、一到来珍重に存じ候、巨細の段定めて御使僧聞達せしめらるべく候条審に能はず候、恐惶謹言。五月朔日 僧日院判。
要法寺御返報。
(封皮裏に「駿州富士より」表に「要法寺御報 僧日院」とあり)
五、日主と日●との通用 石山と要山との通用は日辰の富士に於ける威望を以ても遂に成らずして各其次代に漸く成る其間三十年なり、但し単に両山主の意図を以てのみ成立せしめたるにあらず西山の檀徒にして地方の有力者たりし清彦三郎の熱意の奔走周施が或は然かせしめたるかと思ふ。
日●状の一 祖滅三百五年頃か正筆大石寺に在り、●師は辰の辰師門の高足にして其跡を受けて十四代の山主なり、彦三郎は西山本門寺の檀徒にして富岡村の豪士たり、文中に其前より多少通用の工作ありしが如く見ゆ。
未だ申し通ぜず候と●も幸便を以つて一翰啓達せしめ候、然れば富山興文悉皆御馳走の由承り候条感じ入る計りに候大石寺の儀に就いて先年より別して申し通じ候、然りと●も其地相応の人之無き故に延引、本意に背く躰に候、当時文流習悦等其国往復候へば先々興味目上人の思旧跡御見廻ひ申さる●の儀然るべく候、万端貴公御意見尤に候、此の方よりも書中を以つて門徒衆へ申し理り候、定めて尊い応ぜらるべく候か、将又御上洛に於いては面拝を以つて申し述ぶべく候、関東表国柄に於いて御才覚の段珍重に候、尚嘉会の期を期す、恐々謹言。
三月十日 要方寺日●在り判。
清彦三郎殿玉床下。
日主より要法寺に授与する目師本尊の裏書 宗学要集第八巻史料類聚一の一九九頁にあるを再び抄略す。
今度世出申合に就て要法寺貫首日●の時に臨み要法寺に授与せしむる者なり。
 日●状の二 祖滅三百六年か、正本大石寺に在り、去り乍ら末行名宛逸失す、此盟約の証として要山よりは御開山の御本尊を石山に送り、石山よりは御三祖の御本尊を送り更に後住に学徳無●また世雄房日性を迎へんとし、日性も亦数々富士に登られたやうであるが、性師の晉山は遂に成らずして爾後八年を経て日昌上人が赴任せり。
尊書拝閲欣悦の至り珍々重々殊更紬二畳芳恵斜ならず候。
抑も去暦世雄坊登山の処御直談其深の段誠に以つて広布の先序なり、中ん就く前代未聞の真宝日目上人御筆拝領の儀万年久住の嘉瑞なり、即僧侶を以つて謝詞を伸ぶべきの処遠路の故に遅延し本位の外に候。
今般世雄坊尊意に応ぜらるべき砌り当寺本堂供養に就いて自由ながら延引候、夏中参詣を企て申し上げらるべく候。御堅約の為に開山上人御筆一幅拝贈御納受に於いては欣懌たるべく候、尚此の御僧演説有るべき者なり、恐惶頓首。
   李春十九● 日●在り判。
 日●状の三 祖滅三百十四年後か正本大石寺に在り昌師石山に晉みし後の祝ひなるべし。是好並に寿山両所化参詣に就いて一翰啓達せしめ候。
抑も当山の繁栄学問の興行誠に以つて広布の洪基神妙の至極に候、先般は両僧上洛候則ち返章を以つて申し演べ候、弥よ貴寺の中興専一に候なり都鄙御弘通の大願殊勝の至に候と●も、先以つて本山御興隆肝要の儀式にて当代の方●末世の亀鏡たるべく候、後住むの儀は重ねて意見を加へ貴意に応ずべく候、猶取締役の僧申さるべく候条巨細に能はず候、恐恐惶頓首。
孟夏廿六日 日●在り判。
拝晉 大石寺高座下。
 日●状の四 祖滅三百二十五年、本状現存せず家なか抄就師伝の分に依つて之を推するを得るのみ、即ち左に抄録す。宗学要集第五巻宗史部の一の二六○頁、慶長十二年昌公病気の時付属を定めんと欲し書状を日就に賜ふ、師匠の日●の云はく、師弟合して本末相承を継ぐ●慮に相叶ふ者か、即日●領掌して返札を賜ふ、堅約以後猶昌公在位なり。
六、日精の造読等 要山より晉める山主は始め日昌就日盈の時は著しく京風を発揮せざりしが、但し其人柄に依らんも日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山には其弊を及ぼさざりしは●心の真情か周囲の制裁か、其れも四十年成らずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し富士の古風を発揚せるより却つて元禄の事件を惹起するに至りしなり。
随宜論 祖滅三百五十一年精師の正本大石寺に在り、原本無題なるを以て後師仮に題するか、今其末分を掲ぐ本分は造仏読誦の文証議論なり、猶此等の説は同師の大聖人譜にも出づ参照せられんも可なり、宗学要集第五巻宗史部の一一八頁一二八頁一二九頁一三○頁一三一頁。
右の一巻は予方詔寺建立の翌年仏像を造立す、●に因つて門徒の真俗疑難を到す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。
   寛永十戌年霜月吉旦 日精在り判。
第一浅草鏡台山方詔寺、第二牛島常泉寺是は帰伏の寺なり、第三藤原青柳寺、四半野油野妙経本成の両寺、五赤坂久成寺浅草安立院長安寺、六豆州久成寺本源等是は帰伏の寺なり。編者日く巳上精師関係の寺にて現存のものは常泉寺と妙経寺とのみ他は何時代に廃転せしや不明なり、猶精師の造仏は他寺に及びし事次の日仁記の如し。
 百六対見記の種の廿五の下 祖滅三百十八年、寿円日仁の著(後の要山主日●)にして 写本要法寺に有り、時代の参考の為に全文を録す但し付録なり。
一一、付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四薩高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師後施主、又京要法寺本堂再興の時日精人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏堂を破す一笑々々。
一、又重須本門てら日優上人両尊を造り彼の客殿に安置し末寺漸々に造仏す、日要上人刹堂を建立す、今時衣色法事等の外儀大形要法寺に同じ最も本末惧に千部執行なり。
一、西山本門寺日数上人の時甲府御前は当近衛殿の御息女なり、日教御意旨を受け蓮祖の像と観音の像とを作りて上らる又近衛御前の品の宮様此時水尾院の御息女なり、御経全部を書写し給うて西山本門寺に収まる、是日順上人の代なり。
 七、日躰の住本寺等 天文法難後の要法寺の開創に伴ふ上行院住本寺両系及び其相互間に日在の関心の如き問題起らざりしや未だ顕著成り文献を見ざれでも、上行院系の会津伊豆の両実成寺が要法寺に緊密ならざりし観あり、住本寺徒にして円教坊に在りし日躰が別に古住本寺を復興せるは要山にて云ふ破門以後の虚勢反逆とのみ見んは如何にや、但し日躰の徒には不純の者ありしか九条の住本寺も一時石山より離末せられたる事あり、殊に数箇の新寺の中に一は(五条坂日躰寺)本国寺に属し他は消散し住本寺のみ富士系に残る是れ開祖の僥倖なるか、今現存する文献に付いて其開創当時を見るのみ、猶此の外は唱導誌上に在る日震の記事を参照すべし。
日永の本尊脇書 京都東山住本寺に在り。
元禄十一年戊寅の歳十一月十三日、富士山大石寺末流京九条良円寺を改めて住本寺と号す、中興住持山城阿闍梨円教坊日神持仏堂常住。
元禄十一●寺の歳十一月十五日、富士山大石寺末流京九条住本寺住持、二十四代目永弟子山城阿円教坊日神。
 良円寺沽● 同時代の写本住本寺に在り。
 請取り申す礼銀の事。
一、良円寺の礼銀として銀百枚なり。
右慥に請取り申す所実正なり、自今巳後良円寺屋敷とも少も申し分御座無く候依つて後日の為め礼銀請取の状件の如し。
   元禄拾壱年戊寅十二月十三日 請取主 東九条村権左衛門印、同 勝蔵印。
証人 油小路通四条上る町 道悦印、同 円茂印。
   良円寺円教坊様。
 同上 同上。
 永代譲り渡し申す寺屋敷の事。
一、当村無本寺の良円寺後住に日蓮宗円教坊へ寺屋敷共に譲り申す所実正明白なり、然る上は此方に永々別条御座無く候、若し万一何かと出来候はば貴僧に少も御苦労掛け申すまじく候譲り主加判人罷り出で埓明け申すべく候。
一、高倉寺やしき壱畝 高弍斗、表口拾弍間裏行拾七間余、東北大道、南西九品寺限り、御本所は九条様入の御田地なり。
一、御年貢は毎年惣百姓次に御上納成さるべく候。
一、御公儀様御法度の儀は申すに及ばす諸事所の作法に成さるべく候。
右の通り永代譲り渡し相違御座無く候、仍て後日の為め譲り状件の如し。
   元禄拾年戊虎十二月十二日 東九条村良寺譲主時の住持、利教印。
同 権左衛門印、同 勝蔵印。
請人 同村甚兵●印、町中。
   良円寺円教坊様、惣檀那衆中参る。
寺号届の一札 控住本寺にあり。
一札。
一、今度寺号改名の義御地頭並に庄屋中へ御尋申し候へば寺号の儀は(五十余字略す)、去る九月廿一日に御公儀様へ御願申し上げ候、安藤駿河守様水野谷信濃守様御立合にて御役人棚橋八郎左衛門御取付にて先月十月廿六日御赦免成し下され候、之に仍て寺号を住本寺と改め申し候、右の趣毛頭相違御座無く候、仍て後日の為に証文件の如。
   元禄十四年辛巳年十月三日
   御領町庄屋中、御町中参る。
平岩七之助用人の状 年代不明なれども前とは稍後れて正徳五年頃か、正本東山住本寺に在り、旗士平岩家は江戸下谷常在寺の檀方にして躰故に依りて円教坊日宛は日永上人の弟子となりたるか永師曽て常在寺の住持たりしが故に、又宛名の中に日下部八兵衛の外五人は何れも住本寺の古過去帳に其名を留め三浦宗意は要法寺塔中実成院の檀家、松尾左兵衛は同塔中信行院を一建立せし人なれば、共に同山の有力者にして又日躰の住本寺に深き関係ありと見るの外に未だ明細の事情は判然せず。
一書啓達致し候、然れば住本寺日躰義一寺を取り立て申し候出家、其上若狭守七助親子共に由緒之有り懇意に到され候此度日躰儀末々住本寺願の義七之助へ段々物語り申され候、日躰場一寺の開山にも成り申され候出家故尤に存ぜられ末々法流の為と存ぜられ此度上京を幸に平岩の家門差し遣し申され候、則ち拙者どもに右の段申し付けられ候之に依つて拙者どもまで法流故に大悦に存候、委細は日躰物語御座有るべく候、御聞成さるべく候、将又日躰の物語りに各の御世話にて段々寺も相続致し日躰も大悦申され候、右の通り御座候間報せ申し候申す迄はは御座無く候へども祖師への御奉公と思召し弥よ此上ながら寺の儀御世話拙者共ともに頼み奉り候、法流故檀那にも弥よ懇意に存ぜられ右の通御咄し候、毬者共大悦に候故申し達し候、委細は日躰より咄し御座有るべく候、猶御音の時を期し候、恐惶謹言。
十月八日 平岩七之助内菊池太助政深在り判、同断 関戸彦右兵門昌吉在り判。
  安良宗清様、三浦宗意様、東半右衛門様、日下部八兵衛様、久保市兵衛様、松尾左衛様。
追啓、松尾氏へ申し入れ候、住本寺儀は其元方内御支配の由、申す迄は御座無く候諸事御公儀躰取持願ひ奉り候、以上。
松尾左兵衛寄附状 正本住寺に在り。
寄附状の事。
祖師御消息の切れ二行余壱軸、慈母心浄院栄春日芳菩提の為に住本寺に之を寄附す永く退転有るべからざる者なり、仍て証状件の如し。
   正徳三癸巳五月十五日 松尾左兵●守業在り判。
   山城国紀伊郡東九条住本寺日躰上人御房。
 日因の御本尊脇書 住本寺に在り。            
宝暦四甲戌年閏二月十一日、洛陽の外九条住本寺日躰寺兼帯住持顕阿闍梨大宣坊日淵比丘。蓮華寺日命 要山末大阪天満蓮興寺の生蓮院日命は醇乎たる信行者にして住本寺の日躰一味の不純野心の気分寸毫もなく、永年恪勤の極り臨終亡後の処置等至れ尽せりの行動特筆すべき事多く其料蓮華寺に残れり●も、今は且らく蓮華寺開創に関する文献をのみ引用す。
   恐れ乍ら願ひ奉る口うえ覚。
  辻六郎左衛門殿御代官所、摂州西成郡北野村、日蓮法花宗自明院住持、日命。
  一、拙寺儀往古より無本寺にて有り来り候所、此度駿州富士郡大石末寺に相成り申したく候に付き、去る廿二日御断り申し上げ奉り候処後聞届け成し下され有り難く存じ奉り候、右自明院と申す寺号彼の寺差支え御座候に付き蓮華寺と相改め候様申し来り候、之に依りて自明院を蓮華寺と相改め申し度く存じ奉り候、願の通り仰せ付け下され候はば有り難く存じ奉り候、巳上。
   明和八年卯十一年廿五日 北野村自明人印・住持日命在り判。
   御奉行所。 同村庄屋、弥次兵衛印。
 過去帳● 日命自筆の過去帳には蓮華寺の創立に関する雑記あれども之を略して左記のみを掲ぐ、蓮華寺に在り。
当山建立の翌年「明和九年辰年なり本山御隠士元上人阪之に依て堂供養等願ひ奉る此の時当寺開山と請じ奉る者なり。」
維時明和八年辛卯年九月仏生日、駿州上野大日蓮華山大石寺末流、摂●西成郡北野村仏生山自明院「蓮華寺」什、
開祖妙光阿闍梨日命在り判。
 大石寺より触頭への届所 蓮華寺開創関する文献少し此を以て補料とす、写本蓮花寺に在り。
 口上書を以て申し上げ候。
一、辻六郎左衛門殿御代官所摂州西成郡北野村真言宗無本寺自明院儀至つて貧寺にて其上病身に相成り寺役等も相勤め兼ね候処、譲るべき弟子等も御座無く候に付き、大阪天満東寺町法花宗蓮興寺隠居日命儀は右自明院肉縁の者に御座候に付き此の僧へ相譲り自今法花宗にて相続仕り度き旨、右自明院住持秀善●に同村庄屋弥兵衛同村年寄甚助右の者ども連印の書附を以つて、明和七年寅九月廿三日西御奉行所神谷大和守様へ願ひ上げ奉り候処願の通り仰せれ候、尤蓮興寺隠居日命よりも右の段委細願書相認め何卒右寺の義譲り受け向後法花宗にて相続仕り度き旨、日命●に連興寺看坊顕澄坊連印の願書を以て明和七年寅九月廿三日神谷大和守様へ願ひ上げ奉候処、同年十月朔日願の通り仰せ付けられ候。
一、自明院儀は往古より無本寺にて御座候に付き此度駿州富士上野大石寺末寺に相成り申し度き旨、明和八年十一月廿二日神谷大和守様へ願ひ上げ奉り候処、同年十一月願の通り仰せ付けられ候。
一、自明院儀往古より無本寺にて有り来り候処、駿州富士大石寺末寺に相成り候に付き自明院と申す寺号は彼寺差支え御座候に付き蓮花寺と相改め候様大石寺より申し来り候に付き、自明院を蓮花寺と相改め申したき旨、明和八年十一月廿五日自明院住持日命願ひ上げ奉り候処、同年十二月八日御召に付き罷り出で候処、大和守様仰せ渡され候趣きは寺号相改め候儀は容易に相成らざる事に候へども拠ろ無く申し立て之有り候に付き御城代へ御窺ひ成し下され御処、願の通り仰せ付けられ候自今以御蓮花寺と相改め申すべき旨仰せ渡され候。
右の通り大阪表御奉行所へ願ひ上げ奉り候処願の通り仰せ付けられ候、然る処蓮花寺儀は唯今まで無本寺に御座候間此度大石寺末寺に相成申したき旨相願ひ候に付き末寺に指加へ申し候、尤先住秀善儀は改宗仕り蓮花寺に居住仕り候、之に依て右の段明和旧年辰七月土屋能登守様へ役僧蓮東坊を以て御届け申し上げ候処、御役人中近藤兵太夫殿仰せ聞けられ候は此儀大阪表へ御掛合の上仰せ渡され候間暫く手間取り候に付き先づ帰国仕り候様仰せ渡され候。
一、安永二年九月十六日御召状到着仕り候に付き早速出府仕り候て同月廿四日着府仕り候、  翌廿五日御奉行所へ御役僧同土仕り罷り出で候処重ねて御沙汰あるべき旨仰せ渡され候に付き罷り帰り其以後十月五日御伺ひに罷り出で候処、明六日土岐美濃守様御内寄合う罷り出づべき旨仰せ渡され候に付き則ち罷り出で候処左の通り仰せ渡され候。
駿州富士郡上野大石寺病気に付き代、寂日坊。
摂州西成郡北野村真言宗無本寺自明院住持代日蓮宗に宗旨替え大石寺を本寺に取り蓮華寺と寺号替えの儀、大阪町奉行所へ相願ひ候処願の通聞済み候に付き末寺に加え候旨去る辰七月中届出で候儀に付き、右障る儀之無くに付き届の趣を聞届く。
右の通り仰せ渡され候別紙御渡し下し置かれ候、右の通りに御座候、以上。
   安永二癸巳年十月 駿州富士大石寺役僧 寂日坊印。
   九山本妙寺御役者中。
六、日眷法令 亀檀出身にして元禄十五年要法寺に普矢し直に諸末寺に条目の差定を発して訓戒を加へ爾後頻々として門末を厳訓したる故か、塔中住職の反感を買ひたるも屈せず、殊に左記の法令は著しく山風を戒飾したるものなるを以て之を掲げ他の小条目は之を略す、但し諸文要法寺に在り。諸末寺へ申し渡す式法。
一、仏壇の躰たらく中尊両尊菩薩四天追うを安置し奉るべきの事、但し余尊造立の儀は外縁の力に任すべきなり。
一、今経一部修行は尊門の常式の事、但し廿八品傍正の意味を却すべからざる事。
一、朝夕の勤行は方便寿量陀羅尼品賢呪を読誦すべきの事。
一、門流の輩は黒衣を着す平僧の袈裟式方の事。
 但し住職の僧の僧公界の時は鼠職の素絹を着すべきなり、附り聖号の輩は補任の階品に依るべきなり。
一、門流の僧の院日号は本山より免許せしむるの事、但し檀越の院日号は信心の功に随ひ是れ又免授の事。
一、諸末寺後住評談の砌りは本山に窺ひ指図を受くべし最継目の礼式には本山に詣る可きの事。
一、本山貫首入院の節賀儀式之を廃すべからざる事。
右の条数開山巳来の旧規なり然る処近年に到り諸末寺門流の式方之を弊廃するか、倩ら起を案ずるに他門横入の僧自門に来り或は無学府鍛錬或は尊門の奥儀を知らず或は同門の族たりと●も漫りに偏に執し私懐を縦にするなり。
●を以て今般本山先規の大旨に任せ教●を署して勧誡せしむ所なり。門葉の輩聊か妄意無きを欲する者は名判印を●し本山の三宝に捧げ奉るべし、●くは最是れ仏法の興隆本末和合の正心なり。仍て一紙件の如し。
   正徳元卯年四月 本山要法寺貫主、日眷印、役者寛行院印。
   諸末寺中。
右条目の通り毫末も違背仕るまじく候、最も後代の為に印形指し上げ申し候なり。
   宝永八年卯四月 石州邇摩郡銀山本法寺印、律師日忍在り判。
横田安右衛門印、中村善兵衛印。
編者日く同文の法令に諸末寺住職及び檀頭等の連署せるものあり。
日眷蓮恭興寺に申し渡し書 日眷は当時要山末に富士流の不造不読の風が侵入し来れるを以て巳に正徳元年には仙台仏眼寺日敬を厳誡し、同四年には蓮興寺止善院を召喚し、享保旧年には松江妙興寺に富士流の吟味を厳達せり仙台、大阪、松江の三所は同山の重要末にして最も大石寺流の感化著しき心遂醒悟の地、殊に仙台の如き永久に堅き伝統を作り天満の如又幾代からの石徒を生じ生蓮院日命の蓮華寺建立となれり、今其中の一文を掲ぐ。
一、黒色の布袈裟衣を著致すべし、尤門流諸事相背き申すまじき事。
一、他流の道心者共を集め祈祷の読誦等は勿論御符抔認め遣すまじく候事。
一、右の通り違背の族之在るに於ては急度門流追放申し付くべき者なり。
   享保三戊戌六月八日
日眷、学専坊。
   天満蓮興寺。                               九、日全日慈日良等の法令 日眷の後董日●は細檀出身にして石門と道契ありしが故か日眷の規定を漸然改め大石寺と和睦したるが如しと●も未だ顕著なる文献を見ず、其後住日全に至りて更に法令を発して日眷の造読を改めたり、更に日慈日良に至り全く富士流に還減し日住日立等に至つて益す堅実となりて他の致劣十五山の怨嫉を蒙むりて寛政法難を惹起せり、今要山に在る三法令を掲ぐ。
定。
一、当山の化儀は天文法乱巳来暫く諸山に準じ造仏並に黒衣等著用を致し来り候処却つて門流の本意を失ふの間、今般御堂再建の序に衆評せしめ往昔の通り仏壇の躰たらく相改め候、主伴並に檀中我意を以て永々此の義違乱申すまじく候、後代の為に衆伴一統連判仍てけ件の如し。
   宝暦十庚辰年十一月 要法寺評定、 日全判。
定。
一、寺面法用の砌り黒衣堅く禁制の事。
一、御貫首の外金紋の袈裟に並に華美なる地合の衣堅く停止の事。
一、本山化義免許を被むるの人、檀林能化の外白縫紋の袈裟堅く無用の事、但し四師の御紋並に菊桐葵之を除く。
一、本山老僧学室玄能の外袖袗付の衣堅く無用の事。
一、本山中老学一上座の所化以上の外惣紋紗の衣堅く無用の事。
一、本山塔中二字名学室新説以上の所化は無地絹の衣以て著用すべからざる事。
一、新説巳外の所化は布衣に限るべきの事。
但し臨時御用之有るに於ては免許あるべき者なり。
一、諸末山の住侶登山の砌り右の条眷に相随ひ法衣著用すべき事。
右の条々堅く相守るべし違背の輩に於ては急度沙汰に及ぶべき者なり。
   明和二年乙酉正月十五日 廿九代日慈在判、役者、法性院印。
本成院印、本行院印。
法令。
一、諸末寺の本堂仏壇の躰たらくは本山三堂の内御影堂を移し日興上人書写の御本尊大聖人の尊像を安置し奉るべき事、但し客殿建立等は外縁出来の時を待つべきのみ、一切流義の作法を守るべき者なり。
一、末派一統朝暮の勤行等は本山行法の規矩の如く方便寿量を以て助行と為と題目口唱を以て正行と為すべき事、但し修学弘通の辺に於ては広く一代の聖教を窺ひ普く八宗の章疏の旨を習学すべし高祖巳下勧誡し給ふ処なり、況や今経て一部真訓両読等聊も等閑為るべからざる者なり。
一、門流の相侶法用勤行等の時必ず薄墨素絹五条の袈裟を著用すべし、尤も衣躰の●妙は位階に随ひ猥りに花美を好むべからざる事。
右の条々御書判並に開祖の置文等に任する所なり。然るに中世の歴祖造仏読誦の製作又諸末山へ下知の式目等之有り、此の段未だ大法興隆に至らざるの時の故に且らく随他施化の一分なる者なり、併し内鑑冷然外適時宜の深意を以て仏法興隆の時を護ると謂つべきのみ、惣じて仏法は五々の数を以て正像末等を論ず況や下種仏の弘法も惣従浅至深の次第あるべきなり、今暫く吾祖出世の本懐発軫の時を得るに似たるか、故に当門御相伝の大旨に任せて法令せしむる所なり、是偏に本末和合大法広布の元由たるべき者なり。
   安永五丙申歳二月十六日 本山要法寺印、卅世日領在り判。
学頭信解院、役者法性院印。
本地院印、信行院印。
諸末寺中。
右御法令有り難く異体同心に信行奉り候、仍て判形左の如し。
(末徒の氏名等之を省略す)
右法令勧物等雲石両国芸州等唯信院巡行之を調ふ。
十、妙縁寺出入 石要世出申合巳来往繁く漸く両山本末の分際鮮明ならざるもの生ずるに至り親密の時は事無かりしも間隙を生ずるや紛争の因となる妙縁寺其一例なり、而して文書の存在する石山側は不整束ながら其当時の儘を平面に記列して毫も主意を加へず、要山側は或は日生の主観が熱記せらる、故に対照する時稍合致せざる如き観あるべし、而して監督菅著にては石山に利を与ふ、此を以て明治初年に再び此争を再現せんずる要山当局の計画なりしも、石山の温情の為にや実現せずして止みたり。
                                      甲、要法寺と出入文献   当時の記録抄縁寺に在り無題なり但し安政二年の夏よりのものにして嘉永七年より安政二年春迄の分は大石寺側には其扣見当らず、且らく要山側の文献に依るの外無きなり。
上巻の御請書の通り最応出仰せ付けられ候に付き御定の趣き本山へ申し登せ候所、大石寺当住日霑上人六月三日出府役僧了性坊供奉にて下谷常在寺へ着仕り候に付き、左の通り御届仕り候。
恐れ乍ら書付を以て御届け申し上げ奉り候。
一、大石寺日霑儀、先達て出府仰せ付けられ候所大病相煩ひ居り候に付当隠居日英儀出府仰せ付けられ来る十日出の御日延願ひ置き候処、右日英儀老年多病の所別して当節持病差起り必至と難渋仕り出府行き届き難く之に依て右日霑病中の所追々快方に趣き候に付き今般出府仕り候間、恐れ乍ら書付を以て御届申し上げ奉り候、以上。
安政二卯年六月九日 駿州富士郡上条村大石寺日霑煩に付き、代観行坊。
寺社御奉行所。
(十三度目御差紙) 駿州富士郡上条村、大石寺日霑。
右のものへ尋る儀之ある間明十三日四つ時差し越すべく候、 六月十二日。
別帋御書付の趣き安藤長門守殿より仰せ渡され候条、其意を得らるべく候、以上。
六月十二日、 本妙寺 駿州大石寺。
(右請書前文の通り)
右御差紙に付き霑師観行坊了性坊一同罷り出で候所、要法寺日生と対決に相成り数刻談判仕り候所大勝利を得たる事に御座候、右に付き口上にては前後仕り候間書付を以て申し立つべき旨仰せ渡され候に付き日延廿日迄願ひ置き左の書面差し上げ申し候。
恐れ乍ら書附を以て御届申上げ奉り候。
一、御府内本所中の郷妙縁寺儀はで拙寺十九代日舜寛永六巳年建立仕り其後寛文八申年諸寺院新古御改の節拙寺末寺と書上げ仕り候て、其後諸寺院末寺御改めの砌り延宝元禄延亨天明と四箇度迄重々の御改の度毎に拙寺末と書上げ仕り候事に御座候所、天明六午年京都要法寺方にて右妙縁寺を大石寺に預け置き日精より一紙の書附取り置き候趣きを以て理不尽に末寺帳へ書き加へ差出し候より事起り、触頭長応寺方にて一寺両本寺にては相済まず候間聢と要法寺方へ掛合の上末寺取調べ差出し申すべき旨申し渡され候、同年十月四日右長応寺より妙縁寺家内本尊仏其外古跡書三通諸道具等迄見分を請け候所、此通りにては大石寺末寺に紛れ之無き趣き申し聞けられ、要法寺末寺の儀は更に相見え申さず同寺書上げ延享度の末寺帳には妙縁寺之無く勿論預け置く等の儀も之無き処、今般書加へ差出し候儀不届の至りに候此方より咎め遺はすべき間大石寺より使僧を以て掛合ひ候様長応寺より申渡され候に付き、右掛合の為に要順院に上京申付け要法寺方にて妙縁寺を末寺帳へ書加へ差出し候趣意並に開基何人にて年号月日歴代法縁等急度承り届け候様申し含め遺し候所、同人上京仕り同寺方へ聢と掛合に及び候所、年も経候事故委く相知れ難き旨返翰左に申上げ奉り候、日精並に妙縁寺より出し置き候三通是にて御勘考尚宜き様万法頼み上げ候旨に御座候書面順院持参仕り披見に及び候所。
一、武州牛島妙縁寺事元来京要法寺末寺にて候へども御公儀より本末書付け仕り候様仰せ付けられ候時、遅々仕り候へば如何と存じ候に付き大石寺末寺分に仕り候て判形仕り候条其通り御心得成され候、其為め此の如くに御座候以上、延宝四辰年六月廿二日、日精判。と御座候、只日精と計り御座候て大石寺日精とは御座無く候に付き、甚だ不審に存ぜられ種々取調べ仕り候所、大石寺十八代日精は寛永十五寅年下谷町常在寺へ隠居仕り妙縁寺開基日舜同年大石寺後住に相成り候事に御座候、若し右日精の書附正筆に御座候はば大石寺隠居後三十九箇年過ぎて延宝四辰年の書面に之有るべく存じ奉り候、左候へば全く大石寺より差出し候書附けには之無く候所別して要法寺役者より何分宜き様万法取計ひ頼み上げ候と申す連印の一札も之有り、且は御公儀様へ御苦労掛け奉り候儀恐れ入り触頭長応寺も、万端取扱ひ種々心痛致しくれ候に付き、日精書面の善悪には拘らず両寺申し分相立ち候様取計致しくれ熟談内済仕り候趣意左に申し上げ奉り候。
右妙縁寺儀は元来京要法寺末寺に候所延宝四辰年大石寺末寺に仕り候と妙縁寺へ肩書仕り末寺明細帳差上げ候はば両寺の趣意も相立ち大石寺方にて進退仕り候はば向後違乱之有るまじき旨申し論され候に付き、其意に相任せ一件落着に相成り、同年十二月中要法寺方へ右済み方の趣意書通におよび其旨承知、翌末正月中要法寺日住より返翰左に申し上げ奉り候。
右書面の写遺はされ畏り奉り候此の趣き役者共にも申し附け置き候様仕るべく候向来両山より此通あさ(あさり探か)書仕り差出し候はば何の違乱も之有るまじき旨、一札今に所持仕り候、巳来連年拙寺方にて進退仕り其義相弁へ居ながら押し隠し事実相違の儀取り巧み一昨丑十一月中又候末寺帳へ妙縁寺書加へ触頭本妙寺へ差出し候趣き、昨寅二月中拙寺方へ申し越し候様は。
今般関東御府丸山本妙寺より諸末寺御改め厳密の御触れに付き旧例の通り当山直末寺に書附け諸御役寺向へ差出し候間此段御承知之有るべきとの、書状到来驚き入り兎も角も先般堅く取極め候議定も之有り是非に内済熟談仕り度く、同年四月中塔中理鏡坊上京申附け熟談の掛合仕り候所、此方役者ども先達て出府仕り候間江戸役寺表にて挨拶申すべきなど之を申し一円取敢へ申さず京地の権威を振ひ愚昧の拙寺を見●り寺檀押領仕るべき悪意より出で右様の不法申し掛けられ難渋当惑仕り候間、何卒出格の御慈悲を以て訴訟人要法寺へ御利解仰せ聞けられ先規仕来り通り拙寺方にて一円推退仕り候様仰せ付けられ下し置かれたく、偏に願ひ上げ奉り候、以上。
安政二卯年六月廿日 駿州富士郡上条村大石寺 日霑、同寺塔中役僧観行坊日教。寺社御奉行所。
(十四度目御差紙)駿州富士上条村大石寺 日霑。
右のものへ尋の儀之有る間明廿五日四つ時差越すべく候、七月廿四日。
別紙御書附の趣き安藤長門守殿仰せ渡され候条、其意を得らるべく候、以上。
七月廿四日 本妙寺、駿州大石寺。
右受書先前の通り、  右御差紙に付き霑師御病気名代観行坊罷り出で候所仰せ渡され御御書の趣き。
一、天明度妙縁寺一条に付き要法寺日住より書面之有り其巳前文通の扣有り候や。
一、日精日舜日典日堅日●日泰日純の入院●に死去の年号の事。
一、天明六午年閠十月晦日付け要法寺役者寿遠坊法性院本地院より大石寺役者寂日坊蓮仙坊宛の本紙之有り候や。
右の趣御書附を以て御尋ねに付七月廿五日より同廿九日迄右書類取調べ申す御日延願ひ上げ奉り帰寺仕り候。
右三箇条の御尋ねに付き左の通り。
態と使札を以て啓上致し候、先以て其御地御山内御繁栄各様愈御勇健に御法務成さるべくと珍重の御儀に存じ奉り候、随つて当境山内一統別障無く法務致し候御安慮下さるべく候、然れば当夏巳来末寺御改め御座候に付き此方よりも前々の通り書上げ仕り候、然る処江戸妙縁寺儀貴山末寺にて大石寺へ御預置き成され候旨御証文之有る申御書出しに付き、江戸触頭長応寺より今般日純納経拝札に出府成され候砌り尋ねにて御座候、之に依て日純より右の趣き尋ね越され候へども此方に於て焉と相知れ申さず候、先年貴山より御預り申し候等の趣意●に此方より出し置き候証文御写し御越し下さるべく候、此等の趣を以て触頭へ相答へ候様に日純まで申し遺はすべく候、委細相分り候様に仰せ聞けられ下さるべく候。
猶具には御使僧に申し含め候御尋問下さるべく候、右の段御意を得たく此の如くに御座候、恐惶謹言。
壬十月十五日 大石寺役者、 寂日坊、 蓮仙坊。
要法寺御役者中。
尚々貴山の御証文●に妙縁寺の両通本紙、住尊師同役立合にて則内見に入れ申し候、尚 写し要順院御主へ相渡し候間御一覧下さるべく候、何分宜き様万法頼上げ候以上。
態と今般御使札に預り逐一拝見致し候、先づ以て其御地御山内御繁栄貴体方弥御勇健に御座成され候間珍重の御儀に存じ奉り候、当許山内一統無異法務致し候御安慮下さるべく候、然れば当夏巳来末寺御改め御座候に付き貴山には前々の通り御書き上げ成され候由、然る所江戸本所妙縁寺義に付き拙山よりも書上げ候儀委細仰せ聞けられ候通り相認め遺はし候、先年延享年中書上げ候控の通りに書上げ候処、先年の帳に之無き旨長応寺より申し来り候故甚だ不審に存じ候へども、控の通りにて右貴山へ預け置き則証文も所持の趣き帳面にも断り書御座候に付き其通り書上げ候段返答に及び申し候、夫に付き此度納経拝札と日純尊聖師御出府成され候砌り江戸触頭長応寺より御尋ねの趣きに付き、日純尊前より御尋問成し遺はされ候旨然し貴山にて焉と相知れ難く之に依て貴山へ御預申し候趣意御尋に候へども年も経候事故委くは知れ難く候へども、貴山より出置かれ候御証文並に妙縁寺より出置き候証文都合三通御座候に付き則写し進せ申し候間是にて御勘考尚宜き様御取計ひ成さるべく候、猶具には御使僧へ篤と申し含め候間御伝聞下さるべく候条余は省略致し貴報迄此の如くに御座候、恐惶謹言。
閠十月卅日 京都要法寺役者、寿遠坊印、法性院印、本地院印。
駿州富士大石寺御役者、寂日坊師、蓮仙坊師貴酬。
一、武州牛島妙縁寺事元来(巳下全文前の安政二卯六月廿日の届書に出づる故に省略す)日精判、右の趣きを以て今般本末改帳へ、
 此妙縁寺儀元来京要法寺末の処延宝四辰年大石寺末寺文に仕り候。
の如く肩書仕り差出し御公儀表相済み候巳来左様に御心得下さるべく候、以上。
天明六丙午十二月 大石寺日純。
要法寺役者中。
尊書有り難く拝見奉り候、然れば先達て仰せ越され候江戸妙縁寺の儀滞無く相済みの由大慶至極に存じ奉り候、即御書上げの写し遺はされ畏り奉り候此の趣き役者共にも申し付け篤と相記し置き候様仕るべく候、向来両山より此の通りあさり(探)書仕り差出し候はば何の遺乱も有るまじく候事に存じ奉り候、貴山にも篤と御控え御申付下さるべく候、憚り乍ら希ひ奉り候、右尊報申し上げたく斯の如くに御座候、恐々謹言。
(天明七)正月十日 日住判。
日堅御上人尊師、日●御上人尊師玉床下。
右の通り本紙控とも相違無く所持仕り候、以上。
安政二卯年七月廿九日 駿州富士郡上条村大石寺。
右の通り相認め御奉行所へ差出し候所追て呼び出し候間其時右本紙控とも残らず持参仕るべき旨仰せ渡され帰寺仕り候。
日精上人 入院、寛永九壬申年、寂、天和三癸亥年十一月五日。
日舜上人 入院、寛永十五年戊寅年、寂、寛文九年己酉十一月十二日。
日典上人 入院、寛文三癸卯年、寂、貞享三丙寅九月廿一日。
日堅上人 入院、安永元壬辰年、寂、寛政三辛亥年十月三日。
日●上人 入院、安永四乙未年、寂、享和三癸亥年九月廿六日。
日泰上人 入院、天明三卯年、寂、天明五巳年二月廿日。
日純上人 入院、天明五巳年、寂、享和元酉年七月卅日。
右の通り上本紙写しとも御奉行所へ差上げ申し候、以上。
日堅上人日●上人の入院相知れ申さず候に付き本山へ使僧差立て申し候事、尤廿五日八月八日迄日延べ願ひ置き候事。
常在寺旧記弐巻、妙縁寺旧記壱巻。
右は御奉行所より御尋の趣きに付き持参仕るべく候様本妙寺役僧点衣子より申し越され候に付き当廿七日常在寺持参仕り差出し申し候。
(御差紙) 駿州上条村、大石寺、妙縁寺。
右のものへ尋の儀之有る間明四日四つ時差越さるべく候。八月三日。
別紙御書附の趣き安藤長門守殿より仰せ渡され候条其意を得らるべく候、己上。
八月三日 本妙寺。
大石寺 妙縁寺。
右御請前書の通り。
追て刻限退遅滞無く罷り出で且御用の趣き此方へも届らるべく候、己上。
右御差紙に付き大石寺病気に付き代観行坊、妙縁寺煩に付き代完順同道仕り候所、観行坊へは日号其外品々御尋御座候、完順へは要法寺より妙縁寺の文通其外因縁等の御尋ねに付き、右文通有無等旧記取調べ申来る九日まで日延べ願ひ上げ奉り帰寺仕り候。
一、妙縁寺開基日舜儀何の所に居住罷り在り候や御尋に御座候処、右日舜儀は拙寺末鳥越法昭寺日感弟子に御座候て大石寺へ往復仕り亦は関東筋宗門弘通の為に巡行仕り候由に御座候、右法昭寺と申すは恐れ乍ら東照神宮様御孫二代将軍様御養女にて阿州家へ御入輿遊ばせられ御法号敬台院殿妙法日詔尊儀と称し奉り候、右御方様深く大石寺を御信仰遊ばされ候に付き阿州家より右法昭寺を御建立成し下し置かれ候所、正保二年に阿州徳島へ御引寺に相成り心蓮山敬台寺と寺号御改め下され寺領弐百石頂戴今以て拙寺末寺に御座候、日精日舜の両僧も敬台院殿より厚く御慈恵を蒙り大石寺へ入院仕り候事も全く右御方様の御引立の由に御座候右両僧法昭寺に罷在り候節敬台院日詔尊儀より右両人へ下し置かれ候御文数通拙寺方に所持罷在り候、日精へ下し置かれ候御文には了玄さま日詔と御座候、日舜へ下し置かれ候御文にはかくゆうさま日詔と御座候、了玄かく(学)ゆう(優)は日精日舜の所化名に御座候、且延宝年中日精より要法寺へ差遺し候書中に右妙縁寺儀元来要法寺末と申し候事は日舜妙縁寺開基己前にても之有るべくやに存じ奉り候、昨寅四月中要法寺より申し越し候様妙縁寺開基の趣旨は御存知も有るまじき筈の事に御座候、当山においては開山己来慥なる相伝も之有り且又彼の精舎寺号頂戴の支証等も候故、延享天明の度御改めの節当寺より書上げ候趣きは慶長年中校正の末寺帳に准じ当将軍家御代に相成り寛永中御公儀様へ書上げ候通を以て先般も又此度も同様に書上げ候趣き申し越し、尚昨寅六月中丸山本妙寺へ差出し候願書には天正年中大石寺十四代日主の時真俗一同の願に付き妙縁寺は大石寺へ頂書を候趣き申し立て、右文面通りにては寛永以前に歴然と妙縁寺相続罷在り候様存じ奉り候、拙寺においては寛永中日舜開基己前の儀は一切相分り申さず候、開基己後は拙寺末にて一円進退仕り寛永六己年開基四拾年の後妙縁寺三代日安の時寛文八申年諸寺院新古御改め仰せ出され候節大石寺末と御奉行所へ証文差上げ弐百年来拙寺方にて進退相続仕来り候事に御座候。
寛永年拙寺十九代日舜妙縁寺開基前後の儀恐れ乍ら御賢察成し下し置かれ何卒出格の御慈悲を以て開基己来仕来りの通拙寺末寺に仰せ付られ下し置かれ度く偏に願ひ奉り候、以上。
安政二卯年八月十三日 駿州富士郡上条村大石寺、日霑。
寺社御奉行所。
大石寺、常在寺、妙縁寺。
右のものへ御差紙頂戴九月十八日四つ時一同同所に罷出で、右の通り仰せ渡され候。
一、同日天明度京要法寺妙縁寺本末の儀に付き来書弐通袋へ入れ公用人元木栄助殿へ差出し候。
恐れ乍ら書付を以て願ひ上げ奉り候。
一、妙縁寺一件御吟味中に御座候所、今般大石寺は日舜何才にて死去日典は所化名三玄と申し候や、常在寺は日精何才にて死去仕り候や、妙縁寺は歴代所持の補任本尊取調べ差出し申すべき旨、仰せ渡され承知畏り奉り候、右取調べ中来る廿一日迄の日延べ御猶予願ひ奉り候、以上。
安政二卯年九月十八日 駿州富士郡上条村大石寺煩に付き代、観行坊、常在寺、妙縁寺看主泰
祥煩に付き代、完順。
寺社御奉行所。
一、拙寺十九代日舜儀は寛永六年に妙縁寺開基、同十五年大石寺へ入院、寛永九年酉十一月十二日駿州富士郡下条村下之坊にて死去仕り行年六十才と過去帳に御座候。
一、拙寺廿代日典儀は十六代日就の弟子にて所化名は三玄日典と申し候、寛永十九年阿州忠英公御母堂敬台院殿妙法日詔尊儀御施主大檀那として上総国に於て細●村に宗門の檀林御建立の砌り最初発願勲功の僧十八人御座候内の壱人に御座候、右檀林縁起過去帳に記し御座候、其御拙寺塔中蓮蔵坊へ入院、寛文三年に大石寺へ入院、貞享三年九月廿一日大石寺に於いて死去仕り行年七十六才と御座候。
安政二卯年九月廿一日 駿州上条村、大石寺。
寺社御奉行所。
恐れ乍ら書付を以て申し上げ奉り候。
一、拙寺二代日精上人、  天和三癸亥年十一月五日八拾四歳拙寺において死去仕り候。
右の通りに御座候、  年月日上に同じ、下谷町常在寺、寺社御奉行所。
右の通り九月廿一日大石寺日霑師煩に付き代観行坊、常在寺、妙縁寺看主泰祥煩悩に付き代完順同道にて御奉行所へ罷出づ、尤完順補任本尊持参目録別紙の通り右三人一同書面差出し申し候所壱通り御一覧の上先づ書面預り起き追て御沙汰之有るべく候間、勝手次第引取申すべき旨仰せ渡され候に付き、一同帰寺。
(御差紙)駿州富士郡上条村大石寺日霑。
右のものへ尋の儀之有る間明廿四日四つ時差越さるべく候。
別紙御書の趣き安藤長門守殿仰せ渡され候条其意を得らるべく候、以上。
九月廿三日 本妙寺、大石寺。
追て刻限遅滞無く出でらるべく候且御用の趣き此方へも届けらるべく候。
右請書前の通り、  右御差紙に付き廿四日四つ時大石寺煩に付き代観行坊罷出で候所、妙縁寺歴代所持の本尊補任等御一覧相済み御下げ成し下され、妙縁寺看主泰祥儀差替の儀兼て願上げ奉り置き候所此儀常在寺より差出し候ては宜からず、大石寺より伺書にて書付差出し然るべく候様仰せ渡され常在寺より差出し候書御下げに相成り、右両様請書差出し申すべき旨仰せ渡され左の通り。
差上げ申す御請一札の事。
一、本所中の郷妙縁寺看主泰祥儀大病相煩ひ居り御用向は勿論寺内取締等も行き届き難く候に付き、看主差替へくれ候様度々同人より願出で候に付き常在寺より先達て書付を以て願上げ奉り候処、右書面御下げ成し下され慥に請取り奉り候、外に妙縁寺歴代所持の本尊補任合せて拾幅差上げ奉り置き候所御用済に相成り今般御下げ成し下され是亦慥に請取奉り候、後日の為め御請証文差上げ申し候所依て件の如し。
九月廿四日 駿州富士郡上条村大石寺煩に付き代、観行坊。
恐れ乍ら書附を以て御窺申し上奉り候。
一、本所中の郷妙縁寺看主泰祥儀当夏の此より腫物相悩み候上疳症にて公用は勿論寺内取締等も行届き難く候に付き、看主差替へくれ候様兼て申し出で候へども同寺一件御用弁の差支にも相成るべくと差扣へ精々療養差加へさせ罷在り候所、此節弥以て疳症差重り起居動作も自由相成り難き程の事故迚も御用弁相成り難き旨度々相歎き申し出で当惑仕り候、右に付き泰祥法類完順と申す僧妙縁寺弟子にて同寺院式等諸事心得居候へば泰祥病中の所万端右完順にて御用向御請申上ぐべき様仕りたく御用向如何仕るべきや、恐れ乍ら此段書附を以て御窺ひ申上げ奉り候、以上。
九月廿五日 駿州富士郡上野村大石寺。
寺社御奉行所。
恐れ乍ら書附を以て願ひ上げ奉り候。
一、本所中の郷妙縁寺一件御吟味中に御座候所、昨寅十一月中大地震にて御霊屋始め堂塔地中大破損に御座候所、右一件に付き去る五月中御召出しに相成り右大破の儘隠居日英へ頼み置き候所、今般の大地震にて日英大に相驚き老病差し重り九死一生の趣き飛脚を以て申し越し候間、来る十一月十日迄御日延べ帰国御猶予願ひ上げ奉り候、以上。
安政二卯年十月十三日 駿州富士上条村 大石寺。
寺社御奉行所。
恐れ乍ら書附を以て御届申上げ奉り候。
一、拙僧儀先達て隠居日英儀今般の大地震に相驚き老病差重り九死一生の趣き且は寺内取締等右日英へ頼置き当六月御召出し相成り候間、今般一先づ帰国日英生死見届取締等聢と取極め仕り度く先達て当十一月十日迄御日延御猶予願上げ奉り帰国仕り候所、右日限相立ち候に付き今般出付仕り候間、恐れ乍ら此段書附を以つて御届申し上げ奉り候、以上。
卯十一月十日 駿州大石寺。
御奉行所。
恐れ乍ら書附を以て御窺申上げ奉り候。
一、本所中の郷妙縁寺看主泰祥儀当夏頃より癇症相煩ひ罷居り御公用は勿論寺内取締方とても相成り難き次第に付き拙寺におゐても甚心痛当惑仕り候、之に依て看主差替へ完順と申す僧へ御公用●に寺内取締り方申付けたく存じ奉り候へども要法寺へ相懸り候一件中の儀に付き恐れ乍ら御賢慮伺ひ奉り候、以上。
安政二卯年十一月十九日 大石寺。
寺社御奉行所。
各書面御奉行所へ差上げ申し候所公用人仰せには明廿日昼後に窺に罷出で候はば大概妙縁寺看主の儀相分り申すべき旨、仰せ聞けられ帰寺す、丙大石寺煩に付き代観行坊罷出で候。
右仰に付き廿日九つ後大石寺煩に付き寂日坊罷出で申し候所滞り無く妙縁寺看主完順へ仰せ付けられ帰寺仕り候、翌廿一日完順常在寺同道にて両役寺へ看主届に罷出で滞り無く相済み申し候。
(御差紙)駿州上条村大石寺 日霑。
右のものへ尋の儀之有る間廿二日四つ時差越さるべく候、  十一月廿一日。
別紙御書附の趣き安藤長門守殿より仰せ渡され候条其意を得らるべく候、十一月廿一日、本妙寺、大石寺。
右請書前文の通り。
右御差紙に付き廿二日四つ時大石寺●に差添観行坊泰順罷出で候所、本妙寺へ要法寺罷出で訴答御吟味の上本妙寺へ取扱仰せ付けられ候に付き彼是延刻に相成り、其日の夜五つ半時一同引取り仰せ付けられ帰寺仕り候。
(十一月廿六日本妙寺呼出し差紙) 駿州上条村大石寺日霑。
右のものへ尋の儀之有る間明廿七日四つ時罷出づべく候、以上、 十一月廿五日 本妙寺、大石寺。
右呼状に付き廿七日四つ時罷出で申し候処、本妙寺云く大石要法両寺一派の儀に候間妙縁寺を要法寺へ譲渡し趣意金請取申すべき旨申し聞けられ晦日迄挨拶申すべき旨日延べ帰寺、尤大石寺差添観行坊泰順罷出で申し候、右の通り本妙寺より扱ひに預り法中●に江戸惣講中妙縁寺檀頭中へ一同不承知に付き十一月晦日本妙寺へ破談断に大石寺●に差添泰順罷出で申し候。
一、辰二月十二日御差紙に付き大石寺●に差添観行坊罷出で候所、寛政年中京要法寺常在寺へ止宿仕り候記録●に正徳文化両度焼失の記録等と聢取調差出し申すべき旨仰せ渡され候に付き、十六日迄御日延べ願置き帰寺仕り候。
一、右日延仕り候所寛政十午年十月廿四日要法寺役僧自成院一円坊小梅常在寺へ著、止宿中松平右京亮様、松平周坊守様へ御訴訟申し上げ其後脇坂淡路守様へ御引渡に相成り候趣き記録御座候。
一、寛政十一未年四月九日要法寺日立御召出しに相成り常在寺へ著、同五月七日要法寺隠居日住御召出に相成り常在寺へ著止宿罷出在り候記録御座候。
一、妙縁寺類焼の儀正徳二年二月八日焼失仕り候記録御座候。
一、同寺文化七午年正月四日中の郷元町太子堂より出火家財諸道具残らす焼失仕り候趣き記録御座候。
右御尋に付き取調仕り候所前書の通り相違御座無く候、以上。
二月十六日 駿州富士郡上条村 大石寺。
寺社御奉行所。
三月七日御差紙に付き大石寺並に差添観行坊罷出で候所、大石寺廿代日典寛文三年入院何月何日に候や取調べ差出し申すべき旨仰せ渡され候に付き九日迄日延願置き帰寺種々取調べ仕り候へども相分り難く候に付き左の通書付差上げ相済み申候。
恐れ乍ら書付を以て御届け申上げ奉り候。
一、大石寺廿代日典儀同寺へ入院寛文三年の処何月何日に候や御尋に御座候所、昨卯八月中申上げ候通り種々取調仕り候へども年も経候事相分り申さず候間、恐れ乍ら此段書付を以て御届け申上げ奉り候、以上。
三月九日 駿州富士郡上条村 大石寺。
寺社御奉行所。
三月十七日御差紙に付き大石寺差添妙縁寺看主完順同道罷出で候所、要法寺並に法性院も罷出で訴答へ仰せ渡され候趣き、一昨寅七月中より訴答より差上げ候書面廉々残らず能遍(のべ)美濃七拾枚計に相認め御読み聞かせられ相違の有無御糺し御座候所、相違御座無く候段申し立て候所、追て御沙汰之有るべく候間今日引取申すべき旨仰せ渡され一同帰寺仕り候。
一、三月廿二日御差紙に付き四つ時罷り出で候所、尤大石寺並に観行坊妙縁寺八つ時此より訴答へ先日仰せ聞けられ候御書へ請印せしむべき旨仰せ付けられ、一同口書印形仕り帰寺仰せ附られ候。
一、京都要法寺地名の事。
京都洛外二条河東新高倉と申す処の由申し立て候事。
(御奉行書御直筆)明六日六半時自宅内寄合へ罷出づべく候、四月五日。
四月五日御奉行所へ一同御差紙に付き罷り出で候処明六日六つ半時御内寄合へ罷出づべき旨、右の御書付を以て仰せ渡され候、訴答一同安藤長門守様御下屋敷大塚へ罷出で候所御裁許仰せ付けられ一同承知畏り奉り候御請印差上げ奉り候左の通り相違御座無く候。
差し上げ申す一札の事。
京都二条川東要法寺日生儀、駿州上条村大石寺日霑相手取り中之郷妙縁寺本末の儀申し立て候出入再応御糺明を遂げさせられ候処、相手方の儀妙縁寺は寛永六巳年大石寺日舜開基己来の末寺にて弐百余年の間都て一手にて指揮進退致し候、寛文度を始め末寺とも新古並に本末御改の節は大石寺末と書き出し候程の儀にて要法寺より預り末寺等の儀には之れ無く、延宝度日精等の書附けは不都合の次第も之れ有り何分会得相成り難き旨申し立ると雖も天明度本末帳に妙縁寺は元来要法寺末の処延宝度より末寺分にたいし候趣きの頭書も之れ有り、妙縁寺旧記の内大石寺隠居日堅より現住日純へ相贈り候文通に妙縁寺は住古要法寺末と相心得候旨の文意も之れ有る上は申し立て通りとも御治定相成り難く、要法寺大石寺は法義の筋其の外格別相違致し候近代は勿論住古とても通融懇志に致し候義は之れ無き旨申すと雖も、己前は檀林も同様にて同寺廿一世日忍廿二世日俊要法寺山内より住職の節大石寺塔中の僧侶並に檀中連印にて要法寺へ差し出し候を請待状も之れ有り候上は、右申し分も御信用遊ばされ難く候へども、訴訟方の義妙縁寺は正安正和の間要法寺日尊開基致し妙因寺と唱へ末寺に差し加へ候所追て廃絶同様に相成り候に付き、寛永度大石寺日舜要法寺に随身中同人に再興致させ追て延宝四辰年大石寺日精の斗らひに任せ其砌りより妙縁寺を大石寺へ相預け支配致させ候儀にて、右は日精並に妙縁寺日応外弐人より差し出し候書面其の余同寺無住の節日舜大石寺陰居の後同人へ寺役其外取扱方の儀頼み遺し候節、大石寺日典より要法寺日祐への返書にて顕然致し末寺に相違無き旨申し立ると雖も正安正和の頃開基にて寛永度に至つて再興致し候程の儀に候はゞ同十酉年同寺より差し出し候本末帳に書き載せ之れ有るべき処相漏れ居り候段も不都合にて、一躰日精書付には寺号も之無く殊に同人義大石寺隠居後三拾九箇年目に差し出し候年暦に相当り、右躰の身分にて他山の末寺を勝手に進退致し候次第も如何に相聞へ、日典の返書も同人は寛文三卯年大石寺へ入院日祐は前年寅十一月七日病死の趣に付き是亦不都合に之れ有り、仮令ひ住古は末寺に候とも数十年の間住僧は勿論万端大石寺にて進退致し仏前の荘厳衣躰等迄同寺門派の如く執り行ひ来り候段は相違無く、既に天明度本末御改の節も大石寺と示談の上本末帳妙縁寺の廉へ頭書致し候迄にて其己来も前々の振合に据へ置き候上は今更に至り取戻し古復いたし度との申し分は相立難く、之に依て今般出訴の趣は此上御吟味の御沙汰に及ばれざる段仰せ渡され一同承知畏り奉り候、仍て御請証文差し上げ申す処件の如し。
安政三辰四月六日 京都二条川東日蓮宗要法寺 日生印。
相手方 松平新七郎知行所、駿州富士郡上条村御朱印
地同宗大石寺日霑印。
御吟味に付き召出され候、中之郷、同宗妙縁寺看主完順印。
寺社御奉行所。
前書仰せ渡され候趣き拙僧儀も罷り出で承知奉り候、依て奥書印形差し上げ申し候、以上。
触頭本妙寺病気に付き代、忍行院印。
乙、大石寺と出入文献  写本大阪蓮興寺に在る分より抄録す。
一、嘉永六丑年本田中務大輔御奉行書より本末書上げ御達に付き両寺の書上げ天明度の如し、然る処本妙寺より役僧一人出府致し何にても一方に相形付け申すべき旨なり。
一、(七年寅)五月廿九日本妙寺へ著届け六月朔日に願書持参文言不束に付き三日に認め直し差出す、尤三通証書旧記抜出し相添へ出す。
一、廿三日大石寺より内熟に来る相調ひ申さず。
一、廿五日返答書差す。
一、廿七日本妙寺にて吟味、大石寺代本住坊常在寺妙縁寺出頭、此方三人吟味に相成り候処、相手方無法の虚談を相構へ候に付き種々理解に相成り候へども聞き入れ申さず候に付き、右口書取り置かれ雙方引き取る。
一、七月朔日旧記抜書出す。
一、同二日本妙寺より内伺に相成る、  口上の覚え。
拙寺配下本所中郷妙縁寺本末の儀に付き京要法寺より駿州大石寺を相手取り候一条一住相調へ候処、相手方虚談強情のみ申し募り拙寺手限の裁断迚も覚束無く存じ奉り候に付き、恐れ乍ら差出に仕るべきや御内慮伺ひ奉りたく存じ奉り候、以上。
寅七月二日 丸山本妙寺。
寺社御奉行所御役人中。

一、第壱番、要法寺願書。
一、第二  延宝四年大石寺日精より要法寺へ渡し置き候証文の写。
一、第三  妙縁寺日信同隠居日応より要法寺廿六世日眷に差出候証文の写。
一、第四  同寺日隆より要法寺廿七世日●へ差出候証文の写。
一、第五  要法寺旧記書抜き。
右は訴訟方要法寺より差出し候書類に御座候。
一、第一、大石寺より返答書。
一、第二、大石寺末下谷常在寺より当三月中触頭長応寺へ差出し候旧記書抜に御座候。
一、第三、妙縁寺由緒書等の写し常在寺より当三月中長応寺へ差出し候書抜に御座候。
右二番三番の書類も大石寺末の祥子には相成申さず却つて要法寺の潤色に相成り申すべきと存じ奉り候。
一、第四、妙縁寺歴代書、 一、第五、大石寺本末帳、 一、第六、大石寺より差出候口書。
右は相手方大石寺より差出し候書類に御座候。
右の通り御座候、以上。
寅七月二日 本妙寺。
寺社御奉行書御役人中。
恐れ乍ら書付を以て願ひ奉り候。
拙寺配下本所中郷妙縁寺本末の儀に付き京要法寺より駿州富士大石寺を相手取り候一条、拙寺方にて一往取調べ候処、相手大石寺方強情のみ申し募り迚も手限の理解行届きかね候間恐れ乍ら差出しに仕るべく候、何卒御威光を以て穏便に相成り候様仰せ付け下されたく願ひ奉り候、以上。
嘉永七寅年七月 丸山本妙寺。
寺社御奉行所御役人中。
一、同十日日俊請待状並に旧記書抜差出さる。
一、七月十八日奉行所より雙方呼出しにて滝沢喜太郎殿御吟味なり、喜太郎殿御尋。
一、開基、答ふ日尊東国弘通の砌り草創と申し伝へ候、後日舜へ修理申付け候やにて日精の手翰に其由相見へ申し候、尤も大石寺にても寛永己来寺跡之有り候様申居り候なり、何分三通の証文明明白に候上は拙寺末寺に相違之無く天明度之に依て新に頭書仕り候、猶常在寺妙縁寺記録の趣にては彼山に於て拙寺末寺の旨治定の義にて寛政年間に至る迄本末の礼式勤め来り候上は疑ふべくも之有るまじく、彼山より支配いたし居り候は両寺一寺の通用僧救合の親切の振舞に御座候なり。
一、通用の義、答ふ天正十五年午五月より寛政年中に至る迄通用致し候、尤衰廃に付き文禄三午八月より九代百十有余年の間拙寺一手にて大石寺を相続致し遺し候、然るに寛政年中存外不実の事件之有り以来通用仕らず候。
一、何故妙縁寺を捨てて置き候や、答ふ拙山に於ては京十五山に相手せられ寛政享和九箇年の間の大論、爾後本末居り合ひ悪しく漸く此程に至り寺法聊相立ち申し候に付き折角調査申すべきと存じ候折柄、一方に相形付け申すべしとの事に候間幸に出府仕り御願ひ申し上ぐる処なり。
大石寺へ御尋(本住坊観行坊)。
一、開山拙寺十九代日舜の開基として則石塔に開山日舜上人と之有り、以来数代拙寺一手にて相続致し御公儀表宗門証判等大石寺末と書上いたし候処にて全く拙寺末寺に相違之無く候。
一、三通の証文は、答ふ日精義は大石寺隠居後常在寺居住の節右様相認め要法寺へ遺はし候へども、大石寺へ問合せも之無き故証拠には成り難く三通とも大石寺には存知申さざる所に御座候。
一、然らば何故天明度に奥書印形を差出し新たに末寺分と頭書いたし相納め候や、答ふる事能はず、喜太郎殿云く其分に候はば全く横掠の筋に相当り候、猶追々に吟味を遂ぐべし、雙方当三月中往復の書翰差出すべく申渡され引き取る。
一、七月十九日奉行所へ差出す。
一、大石寺より本法院日俊請待状の写し壱通、 一、右に付き日典より書状写し壱通、 一、両寺通用の支証の写し壱通、 一、大石寺より返書の写し壱通、 一、理境坊添書の写し壱通。
右差出し置き候者なり。
一、廿七日雙方御呼出し長門守殿直御吟味、拙寺へ理解の趣き証拠物仮令数通之有り候とも内輪の義故表へ立て難く公儀諸帳面は如何様の儀之有り候とも改め難きに付き此段篤と心得べき旨申渡さる、豈図らんや此理解に預からんとは尤も三通の支証明白の上拙寺末に相違無き旨申し立て候故なり、是全く井上新右衛門殿の策略に成るか言語道断の理解なり、如何躰に申し立て候とも採用之無きに付き御理解承状仕りかね候旨口書を差し出し引き取る。
一、後七月二日御呼出し七日迄猶予願ひ置き出頭。
去る二日御調べの砌り三通の証拠物通屈相糺しに付き、則ち天明度の本末帳に符合いたし候上は決して内輪の義にては之無き条申立候処、井上新右衛門殿如何様天明度の本末帳に末寺分と申せば暫く預物の姿にて其元を尋ぬれば要法寺が本寺と申す者に候はん、何は兎もあれ公辺の御帳面は決して直りかね候に付き此段承状の上口書を差出すべき旨強暴に申し付られ候に付き猶予相願ひ引き取る。
一、後七月六日本末帳末寺分の御糺しにて全く拙寺末寺の段分明の旨有り難く承状仕るとのみ相認め持参候処、十日御呼出にて公用人元木栄助殿云く六日に差出し候書面にては御理解不伏の趣きに相見え候間、今少し模様を替え認め直し差出すべき旨申し渡さる。
一、廿日雙方御呼び出し、拙寺計りへ理解之有り其趣意は元来要法寺本寺に候へども百数十年来大石寺より世話致し居り候事故、同寺へ勘弁致し遺はすべき旨強いて申し渡され候へども承状仕りかね候趣き強く申し募り種々と御叱りを蒙り候へども取り用ひず、拙寺本寺と定まり候上は異念無く戻しくれ候様達て歎願いたし置き引き取る。
一、後七月廿八日触頭並に雙方とも御呼出し、触頭のみ御用之有り候て引き取る、後して本妙寺より拙寺へ理解の節承り候へば井上滝沢両人列席にて両寺出訟一条見込の筋御尋に付き別段見込と申す義も之無く先日御調べの節訴答乖角の筋相尋ね候処、大石寺方●談のみ申し募り迚も切手の裁断覚束無く候に付き内伺ひ奉り候、其上拙寺方において猶取調べ候様仰せ付られ候はば時々御伺ひ申し上ぐべき心底故彼是見込も之無く去り乍ら要法寺証拠物並に旧記類、大石寺方旧記類取調べ候に元来は要法寺末寺に相違之無きやに存じ奉り候、猶寛文以来大石寺の趣き書上げ置き天明度に至り頭書仕り候も畢竟は右の証拠物之有る故に候へども、寛文己来大石寺より相続仕り候にも相違之無き申し上げ候処、井上殿申され候には公儀諸帳面の表には大石寺末に相違之無く、仮令要法寺方証拠物之有り候とも自己の事に候間御帳面は改め難く候、若し改め候の義に至ては両寺の間柄は扨て置き外々の例にも相成り御奉行に於ても数多迷惑の筋出来候間、決して要法寺末に相成らざる趣き種々利害申聞け候へども曽て取用ひ申さず、然ればとて代人に候へば警め申付け候義にも成り難く此上重ねて強情申し募る事に候はば要法寺日生呼出し候より外之無く、去り乍ら法中の様子柄も之有る事に候へば其寺にて要法寺代へ篤と申し含められ理解の筋承状いたし候様に相斗ふ心底に候はば四五日猶予致すべしと申され候に付き、則猶予願はれ廿九日呼出にて種々理解に及ばれ候なり。
一、触頭にて再三理解にて承状の請書差出すべき旨に付き一先帰京の上一同へ申し聞け候上請書差出し申したく八月六日願書差出す、趣意は重々御理解恐れ入り候へば速に御請書差上げ申すべき候、右一条は元来末頭の者ども累年の間彼是申し居り候義故止む事を得ず今般願ひ上げ候処に候へば、我等ども一己にて承状の請書差上げ候ては門中惑乱の程も斗り難く貫首始め難渋仕るべく候間、一先づ帰京の上御理解の筋末頭の者ども始め一同を諭し門中熟談の上御請申上げ候様仕り度く存じ候間、何卒三箇月の間御猶予成し下され帰京仰せ付けられ下さるべく奉行所へも差出し候処。
書付を以て申上げ奉り候。
妙縁寺一条に付き御理解の旨帰京の上一同へ申し諭し若し不伏の者之有り候はば何人にても其当人を召連れ参府仕るべく候様仰せ付けられ承知畏り奉り候、以上。
嘉永七寅年八月十六日 要法寺代 本住院。
寺社御奉行所。
同廿三日発足、十月自成院出府、十二月本住院真如院出府一同不伏の旨申し立て候処、日生直呼出しに相成り申し候なり。
一、安政二卯(十二月)十三日、日生並に法性院出府申し立て前顕の如く候なり。
一、安政三辰年数度の理解不伏に付き二月十二日御呼出しにて、妙縁寺義己後住持交代の筋並に年頭暑寒等相勤めさせ且大石寺向き等相勤め且大石寺向より是迄不筋のみ申し募り申訳之無き趣き平伏致させ候はば承引致すべきやとの理解に付き、拙寺にも外に末寺も之無く難渋の至り既に三年の間冗費も少からず何卒御燐察下され拙寺末に相定まり候上は是非とも受取り申たき旨申し上げ引き取る。
一、三月十七日雙方御呼出しにて白州に於て一昨年来願ひ立ての趣意等始末悉く御読立の上、弥此趣きに相違之無きや御尋に付き雙方とも一言半句も相違之無き旨申し上ぐる。
一、三月廿二日雙方御呼び出しにて先日の口書に調印申し付けらる。
一、四月六日御呼び出し、御奉行中内寄合列席にて済口証文御読み立てにて尚小白洲にて御読立の上奥書調印申し付けらる、此時日生上衝中にて兼ねて聞えず猶以て相聞えず然し乍ら雙方の申立て明白に御書取にて御所置の上は子細有るまじく安心にて引き取り写し熟覧いたし候処、存外の義に候なり泣血して調印せしを悔ゆるとも詮なし、趣意は雙方の申立て採用し難き間此度は出訴は一切取上げに相成り申すまじきなり、猶公用人より触頭へも申入候趣き妙縁寺は従前の通り大石寺より支配申すべし本末帳は要法寺方除帳いたし申すべしとの事なり、右は触頭より申達し之有り候。
一、其後済口の旨帰京の上申し諭し方出願に及び候処、小俣滝沢両人にて叱られ候斗りにて一毛の申諭しも之無く候なり。不条理。
一、触頭並に滝沢殿最初吟味の通り三通の証文天明度の本末帳に符合候、猶両寺の旧記分明の上は大石寺申立て横掠に相違之無し、第一其筋の利害之無き事。
一、井上新右衛門既に相成らざる旨重々に叱られながら拙寺除帳申付けられ候条、帳面相改まり候事。
一、三通の証文三年相用ゆ、之に依て妙縁寺より天明以前の通り相勤めさせ大石寺に重々不埓申し募り候段平伏致させ候間、従前の通り差置くべき様理解に及びて候て書抜に採用しがたき旨申渡され候事。
一、三年取上げ候て理解追々相替り種々苦しめ置き候後、一切取上げに相成らずと申し渡され候条言語道断なり。
編者曰く要法寺に在る如上一件の済口請書は大石寺側に残るものと無論同文なれば之を略す。
附記、爾後明治の初年に至りて日蓮各教団の分合問題盛んなりし時同山の玉野日志各山に奔馳の余勢を以て妙縁寺を取戻すべく計画せしを八品五山か和協の意にて石山に交渉せしも埓明かず、遂に日志自ら大石寺役僧に掛合ひたる書伏等要法寺に扣あり、其明治六年十二月一日付の中の一文を抄記して余地を略す、但し此の交渉は成るべくも無し互に不快の情を遺せるのみか。
○互に相救ひ合ひ候協和親切の振舞に候事故何卒現今当惑の事情御推察下され兎角穏便に御返し下されまじくや此段念の為引合に及び候なり、弥よ御返し之無き事に候はば僧分の好む処に非れども一月以来出頭即今の当惑申し尽し難く候へば、止むを得ず其筋へ判然と一新文明の御裁判を相願ひ申すべく候間此段左様御承知下れるべく候○。
要山に在りては日志以後其志を襲ひたる勇道日義興門八山の主座たるの観あり、其の興門清規の如きは殆んど要山の山法観あるを以て石山より出でたる委員の俊旭日樹は門中に改められて悶死すとの説あり石山末小梅常在寺の一支院なる興門大教院までも勇道院の私坊の如き感ありしが、其失脚に当りては石山より日応出でて八山の主領となりて要山義を顛履せしめたるやにて勇道院の義憤となりしと聞く、日応の興門宗制より八山連盟脱退一山独立此等最も要山の関心する所、勇道の興門正義の浩翰も驥尾日守の暴論も敵は一に石山に在り、安良日将の本門の大観も山風の書清を計りたる忠誠を認められずして、却て石山に阿党するの罪を被せられたるか、其他要山末立子山一円寺に石山末僧慈頼房の請ぜらるゝや間も無く大問題を起し、仙台仏眼寺の如き長年の訴訟となりて法的決定のみを為せども要山の甘心する処とならず、其他三四の未決の箇所あり、此等の史料多々あるべきも余りに近世の小事件なれば茲に其発表を略せるも、間も無く仙台の仏眼寺及び日浄寺と会津の実成寺と妙福寺との大小古寺が共に大石寺に完全に合同せるは、慶幸と云ふべきである。

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