富士宗学要集第九巻

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第二章 北山西山の反目

 仙代問答に端を発して更に雑事を派生し代師は北山を擯出せられて西山に本門寺を立て興師の正系と称して北山を排斥す、蓋し本門寺の号は未来広布の時までは私に称すべからざるに是止むを得ざるに出づるか、爾来両山の反目甚しければ久妙両山の日我、要法寺の日辰等此が和融を計りしも完成せず、西山は武田勝頼の重臣に憑りて北山の重宝を押収して自山に収得して日代の伝承を回復せんとする央、武田家の滅亡に依り両山より更に後主徳川家康の有司に請うて、互に其重宝を分収したるが如しと云えども、西山は之に満足せず更に駿府の家康に懇願したるも事遂に成らず爾後顕著の文献を見ずと雖も両山の不和は依然たるか但表面世法に縛せられて平和を装ふのみ、本年遂に本門宗七本山が連合して大日蓮宗に合同したるが此に依って衷心よりの平和出現すべきやを知らず、但し真の平和は興尊に復古する時にあるべきか。
一、阿仏日満の誡の状   宗学要集第八巻史料類聚一の一六五頁に具文在り、今此より略抄す。正慶二癸酉十月石川式部三位実忠疫病煩ひし時、彼の枕辺に於て日妙隠密にして陀羅尼と普賢咒とを誦す〇代師云はく日興上人の御修業に背き日妙本迹一致の修行得意迷乱せしむるの間大謗法と仰せられ、日妙に於て連経をなさしめず、深く此を以って遺恨とし御重宝等之を盗賊し御弟子衆同心せしめ談合あり〇。二、日満抄   前に在る大石寺本なり。
〇幸に御遷化に遇ひ奉り〇十々の忌影を迎へて微少の供具を棒げ広大の法恩を謝し奉る者なり、何ぞ御本の人なりと号して強いて正路の仏法を難じ猥りに師檀の契約を妨げ恣に五欲の妄念を起し乍らに十悪の禁網を犯さんや、更に冥顕を恐れず後難を憚らず見聞満座の処雅意に任せ舌端を振って横竪無碍の口徳を残さるるの条他宗の哢り堪へ難き次第なり、仍て本尊勧請に云はく倩ら大聖と富山と二代の遺跡を●るに貴賤互に偏執を懐き所立亦異義を存せり、断り知りぬ一は是余は非に恐くは皆著欲僻案の謂ひか、今時の普合誠に感涙押へ難き者なり。
然るに良円僧今度下国の間、仰せに云はく日満謗法たるに依って即師檀共に無間地獄に堕すべきなり、是非明年佐渡の国に罷り下り法華衆等を助くべきなりと云々、此の条無念の次第なり、抑も愚身の謗法たるの旨は何れの辺ぞや是非向後に於いては相互に法談を遂げて宜しく謗法の有無を定むべき者なり、〇。三、大石記   宗学要集第五巻宗史部二〇七頁より抄録す。
〇重須賀の在所等の付属は上人より日代に付け給ふなり、然るに迹門得道の法門を蔵人阿闍梨立て給ひし程に西山へ退出なり、此法門は始めは我と必死と建立し給はず〇、是の如く有る儘に日代も出で給ふまじかりけるが、剰へ煤掃の時先師の坊を焼き給ひし縁に其儘離散し給ふなり、かうて坊主に成るべき人無かりし程に侍従阿闍梨は日興上人の外戚に入り給ふべき強義の人なり、我が計ひに日妙を坊主に成し給ふなり、〇。四、大内安淨寄進状   宗学要集第八巻史料類聚一の一六五頁に具文あり此より抄録す。〇次に日妙と石川入道との謗法を呵責し日蓮聖人日興上人の御墓所を日代の時此の地に引き移し給ふ、然る上は的々附法の本山並に御墓所と申すべきなり、〇。
五、兵部大輔某の授与状   同上一六八頁に在り、同上。
〇富士重須の法花堂並に坊地等の事、日代上人の所、〇。
六、日代申状   同上、  同上。
日興上人の付法日代申す。当郡重須郷坊職並に御影像の事。
右所は日興上人三十余年弘通の旧跡なり、〇日代を以って付法の弟子と定め置かれ畢んぬ、〇先師の正流妙源寄進する所を立つること能はざるなり〇、子細公方に申すに及ばずして罷り畢んぬ、其の後日妙並に地頭同心の間訴訟に能はず〇、然るに今川家御管領の上は幸に相伝の道理に任せ之を賜はらんと欲す、〇。七、日代申状   同上一六九頁、同上。
日興上人の付法日代申す、〇坊職並に御影像の事。
〇而るに門徒並に先地頭石河式部大夫実忠〇仏法謗法の間、〇其後式部阿闍梨日妙と地頭同心の間多年居住し別して死去の後は彼の弟子分れて相論すと云々、〇、妙源寄進の旨に任せ当堂御影像渡させ給へ、〇。八、今川氏親寺号等の判物   同上一五六頁、同上。
日蓮聖人より的々相承並に本門寺の寺号の証文何れも●証明鏡の上は領掌相違無き者なり、〇。九、日辰より日建に通用の状   同上一七一頁、同上。
〇竊に興師八通の遺書を窺ふに日代は日興付属の弟子当宗の法燈たるべし、〇、日代は日興血脈の正嫡にして門徒数輩の宗領なり、〇。
十、西山の事   祖滅二百七十七年要山日辰の記にして写本同山に在り、今其中より抄録す。〇重須の檀那みの(水)ぐち(口)の藤巻兵庫入道蓮心を奏者と頼み当寺に来って前代の謗法を改悔す、時に玉蔵坊の祖父師の玉蔵坊日秀は当寺のかん(勘)ぢやう(定)「かんぢゃうとはるすゐの事也」にて有りし時なり、時に藤巻兵庫「永禄二年に初め廿六歳」座にあり、日出の云はく兵庫の祖父は蓮心なり有る人云はく伝へ聞く西山の日琳、当寺に参り改悔なり如何、答へて云はく蓮心を奏者と頼みたるは近代なり日出は蓮心を見る此座の諸人も之を見る、日琳の事は百五六十年計り過去の事なるべし、蓮心奏者の時両寺通用の義を定めて云はく、西山の住持、当寺へ参詣の時は当寺の住持磬の緒を取り給へ、重須より西山へ来る時は西山の住持磬を始め給ふべしと約束して事畢りぬ。
十一、読誦論議   西山日辰永禄二年の作にして祖滅二百七十七年に当る、今日宗々学全書本門宗部四七九頁以下の文より略抄す。
〇、問うて曰く日代は是一致同心なり、其証拠は日●の筆記に云く建武元年〇(編者云く此下日●記及び大石記の文を引く既に前に掲げたれば省く)日●日時の筆記分明に日代の迷乱なり何ぞ日代の読誦を挙げて正義の証拠と存すべけんや。答へて云く日代自筆の本迹一致の証文若し之有らば尤迷乱に処すべし、日向の日●の筆記の分を以って本迹一致の迷乱に処すべからず、其故は開山十二通の付属状あり、〇、日辰不敏なりと雖も謹んで日興御付属状を拝見し並に代公の申状を披閲する時は代公に於いて迷乱無かるべきか、〇。永禄二己未年正月十八日重須本門寺日出上人と日辰日玉等と小泉の久遠寺に至り之を拝閲せしめ畢りぬ、日目を大石寺の別当と為し又閻浮提半分の座主と為るなり、日尊は是日目の弟子、開山御授与の本尊に云はく奥州新田蓮蔵阿闍梨弟子日尊と文、日辰既に日尊の末弟たり何ぞ日目日尊を捨てて他門に入らんや、〇。十二、日出置文   祖滅二百八十年、正本北山本門寺に在り。
本門寺と西山寺と通用の事。
甲州妙遠寺成田宗純入道同く本因坊、京都要法寺広蔵坊日辰弟子其外方々本門寺に参詣し数日経て御和融の儀御扱ひ候へども、抑日代の御事は開山上人御立行に御い(違)はひ(背)なされ所立異門別心の御修行に御座候間、両寺の衆中同じ南条石川衆檀一同の連判を以って御擯出御申し候、其巳後西山寺に於いて八代の間造仏読誦なされ候は眼前の事に御座候、日代より八代目の日典と申す代の時、本門寺に詣で本御影堂に於いて改悔候て日興門流の化儀に直させられ候「証人玉蔵坊日秀井出伊賀入道藤巻蓮心とりなみ同西山寺檀方さの三河入道」かやうに数代の間迷乱の衆等に通融の儀覚悟に及ばざる段を申し切り候処、当寺檀方中の儀に門戸広く罷り成り候へば御通融の儀計はさせられ候べきよし承り候間、同心申し候き、但其上に於いて日代御還住の儀承り候につゐては和融を切り申すべきよし申し候間、御扱ひの方連判を以って申し上げられ候間通用申し候、西山寺の代僧本因坊同く檀方佐野式部入道、本御影の御前に於いて年来滅罪生善の改悔を以って出仕申され候、若し以上に於いて日代御還住の扱ひの儀候はば後代の衆檀能々御分別肝要に候、仍て後日の為に一札件の如し。
   永禄五年壬戌四月十日   日出在り判。
(裏書)本堂永仁六年二月十五日の建立、永禄十二暦巳二百七十二年に当て二月四日焼失なり、拾年巳後に建立、願主渋谷伊賀守、御影堂願主和太夫妙満入道、同く天堂は秩父日向守法源入道と号す。編者曰く本項に必要の文字ならざれども有るがまゝに連ね置く他の史料となればなり。
十三、辰春問答   宗学要集第六巻問答部の一の三四頁巳下に具文あり、今之を抄録す。〇日●の記文に云はく〇日代を擯出し奉り畢ぬ巳上、若し此文に拠らば日代上人本迹迷乱か、擯斥に就て多種の義あり、本六人は日目日華日秀日禅日仙日乗なり、新六人は日代日澄日道日妙日豪日助なり、此十二人の中に日目日秀日禅日助等を除く外、義能擯の人に当れり、〇、諸師諸檀越、建武元年正月七日の問答を聞く日代を擯するが故に日代の迷乱か、諸師の昏昧か、若し諸師代公の自出を見て抑留すべきを稽留せずんば諸師の訛謬なるべし、若し駈除すべからざるを●●せば亦応に諸師の怪謬なるべし、若し代公失惑有らば駈遣すと雖も誤謬なるべし、然るに代公重須を退出して河合に竄謫せられ次に西山の辺境に移り寺を立つ後に片隈に●り寺を結ぶ、是重須西山諸人の口伝紙面に載する所なり、代公の諸師に於ける既に敵讐の間なり、建武元年甲戌より永禄五壬戌年の春に迄って巳に二百二十九年の星霜を経、動もすれば干戈を起し通用の義闕せり、代妙両門互に堕獄と称し石泉の両寺更る更る謗罪と説く、惣じて大石重須小泉、日代を以って謗罪に処す、貴公代妙道門を和睦せしむと雖も小泉に於いては和親を作さずして一山卓絶たり、今は日代既に謫せらる貴公若し忠孝を代師に為さば盍んぞ義威を奮って日妙門徒の諸人を駈逐して西山の衆僧を還住せしめざる。〇(三六頁)永禄二年秋富山真俗類聚抄を作る〇、彼抄に云く弘治二丙辰年七月十一日重須本門寺日耀上人、日優日誉宗純寂円幸次久通、日辰に対して云はく日代上人本迹一致心寄せと仰せらるる故に重須大石両寺僧衆同心し南条石河由比高橋同心し日代の謗罪を勘ふ文、永禄二年正月廿七日午刻日辰重須大坊に至る日出云はく日●案文之を見るべし、日辰之を披見し日代に於いて始て疑滞を生ずるなり、若し日耀日出両師の辞に依るときは日代是謗罪なり、若し日代を以って正師とするときは日国日耀日出等は日代の怨●なり、復次に享禄年中日辰西山本門寺に在りし時、小泉久遠寺日是上人書状を日心上人に贈って西山重須両寺の和談を請ふ、日心返●を小泉に贈る其書の略に云はく彼日妙門徒は是盗賊大謗法なり云云、日是の書状今に西山に在るべし日心の御状小泉に在るべし、日辰爾時眼前に見る所なり、若し日心上人の持言●に上来の簡牘に拠る則は日妙門徒是日代門徒の怨仇なり、貴公何ぞ日心に反戻し日妙門徒の大謗法と倶に和談を作すや●師敵対にあらずや。
復次に貴公〇、重須に於いて日代を法燈として崇敬あるべきの由決定たる間西山重須は両寺一味の分なりと今問ふ重須の日出、日妙乃至日耀を捐捨して、西山門徒に帰伏するや、〇、況んや復去年四月の和談は日代を以って法燈となさざるなり、何んとなれば彼輯穆の地を尋ぬれば粟原口の東の河原に在り、〇、故に其中間を測量し両寺の衆一度に此所に参著せしめ同時に各 を操り同時に始めて醪を漱ひ須臾も先後有らしめず我執突兀たること此の如し、争か重須の衆檀日建を以って日出の上座に著せしめんや、〇日建重須の堂内に入る時初めて磬を鳴らさざる者は日代を以って法燈となさざるなり、〇。(三九頁)永禄二年春王正月十八日同廿六日重須日出上人予に告げて云はく、当時日浄日国日耀代々申し伝へて云はく西山日琳、当時正御影の宝前に参詣して先師日盛の謗罪を改悔す。(四六頁)(編者曰く日春の第二答の中なり)三には日尊実録の事、〇、捨つると云ひながら読み加る事非なりと成せらるる日仙の一義に応同せらるるか、日仙の法立邪義なるに依って其後日代へ日仙の改悔の書状を進献せらる其本文東光寺に在り(編者曰く今其写本だも見る能はざるを憾らむ)〇。
次に代公重須を出で〇、今重ねて謂はく本六新六人の由来形の如く知る所なり〇、然りと雖も世事の遺恨強盛にして殊更俗縁を以って事を建武正月の問答に寄せて檀越押掠して日代を擯出し奉り畢んぬ、邪敵は多勢正衆は無勢、理非の勝負に及ばず離山を成さるる者なり〇、諸師昏昧の証拠既に興上八十歳の時節より兼て重宝二箱等盗み取られ畢んぬ是一箇の謬なり、次に建武元年正月七日の問答是又邪義を以って押し伏せらるる事二箇の誤なり、此の如く之有るに依って西山に移り寺を立つ、〇、元より僻人の族古今に於いて数多は大石重須小泉一列不通せしむ、〇、然りと雖も法王運を啓き嘉会至る時は〇、往日の諍論之無く争でか富門をして中絶せしめんや、尊公再三歩を富山に運び興門の和睦を請うと雖も時機未熟の故に本意を遂げず之を棄捨せしむ、而るに今通用を難ぜらるる事聾●の至りか、〇。
(三九頁)(日辰の二の問の中なり)永禄二年春余西山の本因坊に問うて云はく西山小泉何の時通用し何の時通ぜざるや、本因坊答へて云はく昔時通用なり然るに万養坊日春、西山を出て草庵を富士下方に結び彼に於いて逝去す、西山の僧衆葬送を作す故に小泉久遠寺衆の云はく六代断破の大将日春は是大謗罪なり、謗罪の骸骨を葬ふ是与同罪なり与同罪の僧衆と倶に題目を唱え難し、故に云はく通用すべからずとして義絶を作すなり「巳上本因坊の直説」〇。
編者曰く此の一項と次の日我状とは本篇北西の反目に入るべからざるも、特に久西の一篇を設くる程の事にあらざれば此中に掲ぐる事とせり。
十四、日我より日春への状   首尾缺如の妙本寺古写本より抄録す、文中に日春の難問を日我が反詰するの趣き見ゆ、今日我の問目は大に之を省略して七条を掲ぐ、祖滅二百八十余年頃のものか。〇一、日●種姓の事乃至人に許さず会通を加ふる事第一邪義なり云々(編者曰く西山日春の問目なり。)今会して曰はく日代日仙問答の事方便品の一品を読むと読まざると捨つると捨てざるとの相論なり、日代は之を読むべし日仙は一向に之を読むべからず、乃至日●其座に在り之を聴聞するなり、雙方雌雄是非兎角一方に之有るべし如何、当時貴僧人に許さずとも興門の是非糺明を加へらるるが如きなり、今の御勤学若し過●に非ずんば往古●師の会通を加へらるる事も非道に有るべからず、抑も雙方の偏立を捨て正理に帰し御本意の助行所破の勤行、口唱本因要法の一念なり、●師の流類日弁天目日仙を用ひざる事眼前なり善く能く正信正見を以って御遠慮有るべし、今春子独り日●一人を以って八通の御遺状を破らるる由強いて之を募らるべからず、迷乱御立名の上は料簡無し、此方全く弁天仙の流に非れば累劫に於いて少しも驚くべからず恐るべからざる者なり。
一、上目上より下日我等に至るまで代公を以って法燈と崇めず補処と敬はず付法と知られずば因果表裏有りて種脱傍正に迷はるる者か、乃至曲会私情なりや云云。
今私に疑を会して云はく日目日郷と日代日助等と問答之有りや〇、既に仙代道等の問答口往古巳来今に此の如し謹んで案ぜらるべし、日目は御円寂、郷上は坐し給はず●師は捨邪帰正なり、我門流代々混乱せず未だ一致の山寺に同意せざる処は正意か将た非義か、若し是非義有らば貴僧所論の筋目重ねて対面を以って実本を聴聞せん者か、筆墨を労はず所功無きなり、〇、故に今の和融之を思ふに上件の智識付法補処法燈等、興上御存日の如く之無き事互の意情晴れ難し、〇爾りと雖も迷乱立名の故に法燈闇々冥々たるものか、日目久遠常住祖承の玉章、別当、遺跡、惣領分、嫡祖、東国管領の旨、冥顕の両益迷盧八万妙高の如く、是信行証糸乱れざる故に嫡々の次第根源天真独朗なり、〇、所詮万年救護の重宝親く拝見せしめば尽未来際要法嫡々遺跡を信敬し奉るべきものなり穴賢々々。
右上来回答の一巻首末塵沙の如く正理金銀に似たり、伝へ聞く貴僧は本因自行の俊傑、法戦場の英雄、夫れ天然発明の智眼は●子目連に異ならず二八信敬の工夫は代善助印に劣る事なし、〇、重ねて返翰件の如し。楮葉余り有り智者に対して法を求むる事は学者の情か、故に三十二箇条の問端を捧ぐ。
一、仏法嫡々の正義を全うせんとせば富山に於いて高祖開山仏法の根源とは誰人を指すべきや。一、日目に於いて蓮興御正意の仏法に之無くば何等の人師の所釈に依らるるや。
一、八通の遺状の中に惣嫡の二字代公に於いて之有りや。
一、本迹迷乱の立名、本六新六の中に昔より巳来誰人を指すべきや。
一、本門三大秘法高祖学法の直授日興、祖承の付法誰人を指すべきや。
一、高祖上首以下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡々付法の上人を以って惣貫首と仰ぐべき者なり、爾らば嫡惣の二字八通の中に誰人を指すべきや又之有りや。
一、興上久遠寺別当職と日目別当職と同意か将各別なりや、〇。
十五、富士山本門寺申状の案   祖滅二百九十九年当時の案文正本北山本門寺に在り。謹んで申し上ぐる条々。
一、今度西山日春虚言を相構え明に御上意を申し掠め言上せしむる子細に依って、御奉行として増山権右衛門並に興国寺の奉行衆は御朱印を以って寺内並に坊中門前まで押入り闕所せしむるの事。一、当寺の開山日興より弟子日妙に本門寺の本尊等の授与三百年に及び顕然たる事、付たり八通の置状に超過の証文相承等数通之有り。
一、本門寺仏法の奉行本六人新六人、其中に日代八通の置状、是は惣門中へ披露の儀、但本六人の第三番目日秀阿闍梨の跡並に本尊授与之有り、然れば何ぞ本門寺の上人たるべけんや。
一、日興帰寂以後弟子中先師の法理評定の時、日代は本迹迷乱、師敵対の故に惣門中より一同に之を擯出す仍て西山に引き籠り寺を立つ、近年より末弟本門寺と名乗る返って誑惑の段、  付たり日代迷乱を致す故彼の嫡々□□□□□しかのみならず今本門寺と改め名乗るは謬の中の誤たる事。
一、先方今河の代に此条落著の旨氏親の証判之有り、当御代は前々の如く御判形下され候者なり。右此等の条々早速御披露仰ぐ所に候、以上。
   天正九年辛巳三月廿八日                  富士山本門寺。
   御奉行所。
  (裏書)天正九年辛巳六月、中納言え、学頭日因自筆なり。
十六、本門寺日殿申状の案   同上年代、案文同寺。
本門寺日殿謹んで言上す、  当寺住職並に相伝書物の事。
一、今度西山より申し掠めらるゝ理不尽の御印判を帯び、去る三月十七日御奉行として増山権右衛門尉並に興国寺の奉行其外西山衆、当寺へ押寄せ寺家門前悉く闕所候、上意を恐れ存ずるの間是非に及ばず彼等の雅意に任せ、同く廿七日参上今に在府仕り候事。
一、日蓮日興御筆本門寺重書の事、今年に至り二百五十余年相伝歴然に候、往古失却臓物の沙汰に及ばるる段誠に非拠の至りなり、其上彼の筆記並に絵像、御遷化の記録等、重須に之無く剰へ日代授与の裏書無きの条、日殿言上相違無きの旨曽根下野守も存ぜられ候事。
一、西山八通の置状に日代に本門寺授与の沙汰一切其証拠無く候、並に二箇の相承血脈の次第是又日代に授与無く候事。
一、日代重須退出の事、建武元年甲戌正月七日日興立つる所の法理に違背の罪科に依り本六人巳下の弟子衆並に檀那南条石河列山擯出せしめ候、之に依って日代門派の儀富士日興弟子中義絶の事。一、彼日代は往古日秀の遺跡を日興より相続すと雖も法理違背の間譲状所詮無し、遺跡今に□□寺と号し□□□に之在る事。
一、本門寺日妙上人授与の段末代の為に日代を証人と定めて之を書写する証拠歴然に候上は争か異論に及ぶべけんや、此証文委く高覧を遂げられなば紛れ有るべからざる事。
一、日妙上人本門寺三堂本尊並に寺家は唯授一人相伝の間衆檀議定分明に候、猶以って右言上の如く弐百五十余年巳前の儀、今度の造意第一御国法違背の罪科旁以って軽んずべからず、法門付属の儀は一向混ずべからず、本門寺譲与、五人を以って配当の付属の証文明鏡たるべき事。
右の条々御不審に於いては富士門派の諸寺に御尋成され早く非拠の族を棄置かれ、重書等返し下され本門寺安堵の御下知に預らば●く畏り入り存ずべき者なり、仍て粗謹言言上件の如し。
   天正九年辛巳六月日                    本門寺 日殿。
   御奉行所。
十七、本門寺日殿申状の案   同上、 同上。
謹んで言す富士山本門寺日興日妙の遺弟日殿。早く上聞に達せられ且は西山日春非拠の競望、謀計の梟悪を止め、且は高祖開山の日妙本門寺授与相伝血脈次第の正理に准じて御筆本尊等帰し給はり、往古の記文の如く本門寺の重宝として守護し奉らんと請ふ子細の事。副へ進ず一通、  此本尊日蓮が大事なり在判、日興上人に之を授与す、日妙に之を授与す日興判、正中二●十月十三日。
    一通、  重須本御影堂に於いて唯授一人日妙に相伝す秘すべし秘すべし、同月日。    一通、  日妙三堂本尊守護申すべき事、末代の為に日代を判証人として之を書写す我門弟等以後に於いて諍ふ事之有るべからず、本門寺日妙に授与するなり。
右、旧規を検ふるに彼西山代々既に本迹優劣に迷倒し興師の本意に背き今新に非拠の案を構ふるの条殆ど猛悪の至りか、是は高祖の御筆血脈授与の相伝、日興帰寂の後弐百五十余年、重須本門寺に安置し奉り並に三堂附属相伝の筆跡明鏡なり、然れば則此の漫荼羅は一閻浮提に於いて正像末三時未弘の本尊なり、聊爾なく開山建立の道場に安置し奉り本六人並に日妙巳下の弟子等崇敬し奉る事、是偏に天下広宣流布の時至り帝王将軍御受法の時を待つ処の由緒是なり、蓋し富士山本門寺は一宗の根源諸門の最頂天庭奏聞の遺跡末法弘通の戒壇たり、高祖開山日妙等の奉状之有り、抑も爰許に於いて往古巳来の相伝授与を廃失せらるるに於いては普天率土の風聞旁悲哀を懐き畢んぬ。
所詮速に西山日春の妄情自由の謀計、迷迹失本の阿党の退散を致し本願日興日妙本門血脈相伝授与の旨趣停滞の儀無く之を遵行せられ、御筆本尊等返し給ひ安堵の面目を開き弐百五十余年巳往の如く日興建立の本門寺の重宝として之を守護し奉るべき者なり、恐惶頓首。
   天正九年辛巳林鐘十三日                   本門寺日殿。
   御奉行所。
十八、本門寺宝物目録   祖滅五百四十七年の集なり北山本門寺にあり、此の抄録の文書は年月日あれども当時用ひたるものとも見へず、又入文に怪しむべきありて全く其の正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ。
一、日蓮聖人御直筆漫荼羅大小弐十幅。
一、日興上人御真筆漫荼羅大小五十幅。
一、日蓮大上人御真筆本門寺額。
一、日興上人御真筆日妙聖人へ御遺状二通。
一、日蓮大上人御真筆一部八巻御経。
一、日蓮大上人御真筆紺紙金泥御経一部一巻。
一、日蓮大上人御真筆御聖教。
一、日興上人 同 上 同 上。
一、日蓮大上人同 上 貞観政要一部七軸。
一、天 神  同 上 法師功徳品。
一、日蓮大上人同 上 二箇の相承。
一、日蓮聖入所持御珠数一連。
一、日興上人     御申状三通。
一、同 上      御自筆本尊授与目録一巻。
一、同 上 同 上  日澄聖人御遺状一通。
一、日 代 同 上  五人立義抄一巻。
一、日 源 同 上  安国論二巻。
一、日興聖人同 上  本尊七箇相承一巻。
一、同 上 同 上  教化弘経七箇の口決一巻。
一、同 上 同 上  産湯相承一巻。
一、同 上 同 上 文底秘法相承一紙。
一、同       本門寺御棟札一枚。
  以上。
右の通に御座候処先文に相誌し候天正九年武田勝頼家臣理不尽に奪ひ取り候に付き御注進申上げ候。  天正九年巳三月十七日 富士山本門寺、本妙寺、行泉坊、西之坊、養運坊、大乗坊。  増山権右衛門殿。
十九、本尊巳下還住の目録   同上、同上、同上。
一、日蓮大上人御真筆漫荼羅大小十一幅。
一、日興聖人 同上 同上 大小三十九幅。
一、同上  同上     御聖教。
一、同上  同上     日澄聖人御遺状一通。
一、日代  同上     五人立義抄一巻。
一、日源  同上     安国論二巻。
一、日蓮大上人      数珠数一連。
一、日興聖人 同上    開目抄要文三巻。
一、同上  同上     内外要文二巻。
右は東照神君様より本田弥八郎殿、西山を闕所に仰せ付けられて候て御取戻し下され候、本田弥八郎殿、西山より当山へ御持参誠に以って東照神君様の御政徳を以て当山永く仏法護持の霊地に罷り成り候、後生忘失有るべからざる事、  天正十一年未二月廿六日。平岡岡右衛門殿より御帰し成され候覚。一、日蓮大上人一寸一分の法華経一部八巻。
一、同 上  御真筆紺紙金泥御経。
一、同 上  同上 一部一巻開結共。
一、同 上  同上 貞観政要一部今は二巻不足。
一、菅丞相御筆秋津虫表具一幅。
其外、百六箇、旅泊辛労書、三大秘法書、本門宗要抄、本因妙抄は御本書紛失写のみ御座候。二十、二箇の相承紛失の由来   年月不記の案文妙本寺日我の筆に依る、祖滅三百余年のものか。二箇の相承紛失の由来を後代存知の為に之を記す。
抑も駿河の国は久しく今河殿の分国なり、而るを隣国甲斐の国主武田晴信出家の後信玄と号す、去ぬる永禄十一年戊辰十二月駿府へ打ち入り一国皆押領して信玄同く子息勝頼二代の間首尾十五年之を持つ、其十四年目の辛巳三月、富士の西山に日春と云ふ大悪僧あり、年来様々の邪義を構へて重須本門寺と取合ふなり、然れども事成らざる処に甲州に有徳の檀那あり是を語らひ巧言令色賄賂を先として奉行国主に之を訴ふ、本門寺の御大事殊には二箇の相承を取らんとす勝頼許諾なり、仍て人衆百人ばかり日春に指し添へ本門寺へ向けらる、日春は門前に在って俗衆数多中に指し入りいはせけるは甲州より御使なり、勝頼の御掟に云はく身延山の重宝本尊等此程失せたり、之に依って分国中の諸寺を御尋ね候当寺の御大事箱直見申し候云云、時の住持日殿の云はく当寺には全く左様のもの之無し云云、使衆云はく是非分明に見申すべしと云云、日殿地躰は臆病にして又工夫浅き人にてあり尤に候とてふるいふるい座を立ち御大事箱を取り出し蓋を開け一々に是を見せらる使衆云はく此箱急ぎ蓋を収め符を御付け候へこなたも封を付け申すべしと云云、其故如何、使云はく日春訴に依って御披見有って是非の判決あるべしと御掟なり、急ぎ甲府へ越し申すべしとて其儘押取って行く間、住持も衆徒も力及ばず、然して甲府へ取よせ舘の内に毘沙門堂とて持仏堂あり之に納めあり、翌年壬午三月十一日織田信長甲州へ打ち入り勝頼父子御前女房衆其外武田一族類宿老眷属皆悉く滅亡し、新羅三郎義光の嫡子武田冠者義清巳来五百余年安堵の国一日の中に跡形無く成り畢りぬ、悪人の訴に依って悪行を極め蒙むる処の現罰同前なり、有る経に云はく仏教を破れば亦孝子無く六新和せず天神も祐けず疾疫悪鬼日に来って侵害し災恠首尾し連禍縦横すと云云、死して地獄餓鬼畜生に入る若し出でて人となるも兵奴の果報ならん響の如く影の如しと「経文」之に依って墜悪疑ひ無し。
其日の乱入に彼の二箇の御相承並に大聖開山御筆の漫荼羅三四十幅濫妨に取られたるか、何所に御座候とも誰人の所持なりとも大聖開山の御血脈相承富士門家の明鏡たるべし後世此旨を存ずべき者なり、仍て之を記す。
                    日長、 日正、 日提、 日侃、 日我。
二十一、妙本寺古記   無題の記録なり筆者年代不明なれども祖滅三百二年後のもの、但し転写のものにあらず、其中より抄録す。
一、重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事。
天正九年辛巳高祖三百年忌なり、西山日春邪義を企て辛巳三月十七日武田勝頼の印判を以って増山権右衛門西山衆と重須へ押し寄せ、御尊形を荒縄にて結びからげ大宮寺地まで下し申す、是は西山へ御尊形を奪ひ取るべき為なり、然りと雖も河東代官鷹野因幡守、大宮の重須の末寺に抑留し西山へ落ち著かせず、興国寺城代曽禰下野守の前にても澄み行かず、結句甲州に越山在府し富士門中の太途に成り畢んぬ、重須日殿三月上旬より十月中旬まで在府之有り、甲府近習小路中河与三兵衛の所に宿するなり、然りと雖も両方決判無く無躰に米銭等の失墜迄にて落著無し。
翌年壬午二月五日、日殿他界是非無き次第なり、同十八日巳来兵乱起り織田信長、徳川三河守家康、今川氏真其外北条氏政関西東国信甲駿遠乱入し武田勝頼壬午三月滅亡し西山荷担の大竜寺、小山田備中守是も西山贔負なり、是皆滅亡し其外武田一家中悉皆滅亡なり、其時御大事紛失せり。
然る処に甲州商人岡田宇賀右衛門と云ふ者不思議に御大事を過半警固し奉り乱中に駿州に越山す、重須より調法有って本門寺檀那井出甚助、当住日健巳下駿府に於いて西山日春と出相対決なり、然りと雖も家康私無く往古より三百年巳来重須本門寺に安置し散失無く之有る上は重須本門寺正理の由、出言成さるる故に其時落居なり、西山日春面目無く擯出の上の重罪は八通の遺書二箇の重書今に見えず、興門廃失の悪鬼入其身は彼日春に非ずや後代の為に之を記す。
二十二、久遠寺の古状   祖滅三百余年、久遠寺日珍の筆か、尾缺のもの妙本寺に在り、今前半不用の分を省く。〇、一、重須の御大事西山に納り候 処に乱取り仕り候甲府の岡右衛門と申す者目安を上げ申し候所に則西山より取帰し江尻に籠め置かれ候、時に又西山も目安を以って所望申され候、其時重須と西山と駿府に於いて対決候、然りと雖も重須も西山も兎角の儀之無き所に、家康の云はく御僧達は如何様の義有って踞まれ候やと御尋成され候へども、両住持共に相互に辞退有って兎角之無し、又家康云はく世間と仏法とは同か異かと云へり御傍に他宗の長老二人有って云はく同と云云さては二十年過ぎ候、公事は入るべからず候、其時西山日春の云はく釈迦の説教は二千五百余年に罷り成り候夫々沙汰至って以って仏法と云ふ時は異なり、家康の云はく其説教は衆生利益に自他の宗旨を立つると聞く加様の六かしき公事をせよと云ふ仏説は珍しき次第なり、とかく我は無智なり破戒なり此沙汰は知るべからず其上今川御先祖に御器用の守護等之多し、其時落著する所を只今我が分別として三百年持ち来る重宝などをとかく云ふべからず、勝頼の如き物数奇なる事は智恵有っての事なり家康は是非の沙汰は申すべからず、御大事は三百年持来る。(巳下缺失)二十三、武田勝頼状   宗学要集第八巻史料類聚一の一七三頁より抄録す。
〇、上代に重須方に於て全く盗賊明白の義に候 ○勝頼の扱を以って重須へ日代御還住候、夫に就いて押領の書き物等之を穿鑿し日春に附与せしむる処実正なり、〇。
二十四、本多作左衛門状   宗学要集同上一七四頁、同上。
今度大乱に就き日蓮の御筆拙者改め出し申し候処、黄金五百両の御礼〇、末代のために候間五百両の金を取り申さず候、彼の日蓮の御筆新寄進として永く進せ置き候、〇。
二十五、日春請文の案   同上、 同上、 同上。
日蓮御自筆物数合せて六十六、此の内御筆の本尊八通請取申し候〇、又六十六の外日蓮の筆金泥の法花経弐部並に御珠数一連請取り申し候、〇。
二十六、重須衆檀より徴収すべき案文   同上一七五頁、同上。
〇、一、重須の僧檀〇末代に至る迄代上を尊敬し奉るべきの事。
一、年月を経と雖も今度日代上人重須へ御還住成さるるの事。
一、知識血脈付法の代に列するの事は高開両師の御筆跡に任せられ日春上人御存分の次第たるべき事、〇。

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