富士宗学要集第九巻

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第十三章 昭  和  度 (創価学会)

 明治巳後は徳川幕末神道復興の影響を受けて、廃仏棄釈の為に各仏教の勢力減退し、加ふるに明治天皇の神格向上と共に、又形式だにも各旧仏教の繁栄を見ざるに至り、殊に国威の発展と共に益々其勢力を削がるる傾きに陥り、時の政府の愚弄する所と成り了り、殊に昭和度の軍国政府の勃興するや全く神威の下に慚く生息する程度に陥りたり、此を以て古来神社の整理を謀り或は雑乱の社参を禁止せし浄土真宗及び日蓮宗の一部に於いては法難を受けたる事顰繁にして此れが防禦法に苦心惨憺たりしなり、吾宗の僧俗亦此難を免れず殊に真新気鋭の創価学会最も此の難を蒙り殆んど全滅の形状に陥れり、但し当時の国家としては神威に憑み過ぎて大敗戦に及びし為に世界の劣等国と成り対外的にも政策の大変動に依り俄然此等神道偏尊の悪風が一掃せられたるも却つて個人の自由は勿論にて信仰も亦自由公平となりたれば、学会の復興も忽ちに成り意気中天に達し全国到る処に新真なる会員が道場に充満し幸福平和の新天地を拓ければ一時の劣等が又最勝国と成るべきか、各宗教界の羨望甚だしく、本末の仏法興隆を究め法益倍増、法滅の末法忽ちに変じて正法広布の浄界と成り広宣流布の大願成就近きに在り、悦ぶべし喜ぶべし、編者申す。
 (左の一編は小平芳平氏の記に依る)
 一、事件の概要
 昭和十九年七月六日、創価教育学会の会長以下二十一名が治安維持法違反及び不敬罪の容疑により、各地の警察署に留置された、この事件の背景とその概要は次の通り。
 昭和十二年七月七日、支那事変勃発、十五年七月成立した第二次近衛内閣は、新体制準備委員会を作り、高度国防国家建設を声名、十六年十月十八日、東条英機が内閣を組織し、戦時動員体制を整えつつ同年十二月八日、対米英宣戦布告を行つた。
 終戦の陸海軍の大戦果にもかかわらず、アメリカ軍は次第に反攻に転じ、進歩した科学と豊富な物量をもつて次第に日本軍を圧倒し始め、開戦後一年も過ぎる頃からあわただしい空気に包まれてきた。創価教育学会は昭和十二年に発会して、当時(昭和十七年頃)は会員が三千人に発展していたが、牧口会長はこのように未曾有の非常時局を救う道は、日蓮正宗の広宣流布以外にないこと、従つて今こそ国家諌暁をしなければならないと仰せ出さる。
 然るに時局は全く逆の方向に流れつつあり、あらゆる分野において戦時体制を強要し、当局は宗教も各派を合同して一本化し、国家の大目的に応じて進まなければならないとの方針をとるようになつた、軍部の権力を背景とする文部省のこの方針は、日蓮宗の各教団は単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないとし、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達が屡々会合して、この謀略の推進に当つていた、大石寺の僧俗の中にもこれに動揺を来す一類を生じ、小笠原慈聞師は水魚会の一員となり、策謀の一端を担うに至る、而した「神本仏迹論」を唱え、思想的にも軍閥に迎合して総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた。
 大石寺においては僧俗護法会議を開き、身延への合同には断固反対して、十八年四月一日漸く単独で宗制の認可を取ることができた。
 十八年二月にはガダルカナル島の敗戦が発表され、愈々戦局は敗色濃厚となり、国民生活には極度の窮乏が襲いつつあつた。
 牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向かつて来たが、時日の問題で総本山からは、掘米部長がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。
 小笠原師はこの策謀に成功すれば、清澄山の住職とか或は大石寺の貫主を約束されているとの噂もあつた、十八年四月七日には、東京の常泉寺において、小笠原師の神本仏迹論を議題に、堀米部長が対論することになつたが、小笠原師の破約によつて実現しなかつた、又この頃東京の妙光寺らも紛争があつたが、陰には小笠原の策謀があつたといわれている。
この当時、総本山と創価教育学会を訴えた者があるとの噂もあり、正宗と学会弾圧の気配が次第に濃くなつてきた。
 十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔らかにお受した、が心中には次の様に考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、一億一心となつて神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。
 この頃一般日蓮宗に対して、御書の中に神や天皇をないがしろにする不敬の箇所あるとか、お曼荼羅の中に天照大神が小さく書いてあるのはけしからんというような、くだらない警告が発せられ、一部の日蓮宗では御書の一部を削ったり、お曼荼羅を改めるというような事件さえあつた。
 航して合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の祈伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も巳に遅し、殊に十八年の四月には豆北の雪山荘を大善生活同志の本部とするの盛挙を為すほどに発展もしていたが、同じ頃から、学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕され、六月には陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕され、七月六日には伊豆に御旅行中の牧口会長を始め、戸田理事長等が逮捕された。
 それ以後幹部二十一名が各地で逮捕され、治安維持法違反、不敬罪との罪で獄中に責められた、牧口会長は逮捕されて一年半、十九年十一月に老衰と栄養失調のため七十四才で獄中に亡くなられた。
 一方総本山は漸く弾圧を免れたが、戦時体制に捲き込まれ、十九年十二月からは、兵隊の宿舎に客殿を提供せざるをえなくなり、大宮浅間神社の神籬を寸時書院に祀るようの事もあつた、その為か、二十年六月十七日兵隊の火の不始末から失火し、対面所、大奥、書院、客殿、六壺等の中心を焼き、第六十二世日恭猊下は責を一身に負われてか、火中に無念の御遷化を遊ばされる不祥事を惹起した。
 戦事の激化とともに、留置場生活も異常の食糧難や不潔に陥り、残された留守家族も、企業整備、疎開、インフレ、統制配給、応召、勤労動員等々とあわたゞしい動きの中に益々生活難に陥り、或は世の白眼視に耐えかねて退転する者が多かつた。
 最後に戸田理事長は二十年七月三日に保釈され、直ちに学会の再建にとりかかられた、裁判の結果、懲役の判決を受けた者もあつたが、敗戦とともに治安維持法が廃止され、神社に対する不敬罪は大赦により、大多数の者は免訴となつた。
                                       三、拘置所より留守宅への書簡
  1) 牧 口 常 三 郎
 ○ 九月三十日附(昭和十八年)
 去二十五日から当初へ参りました。先より楽で、身体も健全。殊にひざのひい(冷)る病が、去年二十二より不思議に値つたやうです。大へんな御利益と思ふ。就ては朝夕のお経は成るべくそろうて怠つてはいけま(せ)ん。必ず「毒が変じて薬となる」御法門を信じて安心してくらし(て)居ます。稲葉様の御内室へよろしく。十円借りたのを返して、先日の御礼を言ふて下さい。左の通りを差し入れて下さい。洋三は戦地より無事の手紙ありましたか。洋子を大切にそだてなさい。御二人が心を合わせて信仰が第一。間もなく帰れませう。十日に一度手紙出せます。
 一、金二十円  一、着物ヲ合セ一枚(ワルイノデヨシ)一、ざぶとん一枚(オヒヲカケテ)一、御書二冊(日蓮聖人御遺文、書キ入レシナイモノ)
  牧 口 ク マ 殿
  同   貞 子 殿
 ○ 十月十一日附
 貞子さん、八十五円正にとゞきました。ありがたふ。たれで当分安心です。食物は一円弁当を一日一度、あとは当所の分で沢山。たゞ夜が寒くて困りました。左の品を至急入れて下さい。金は漸く六日、ざぶとんと、ちり紙は十日に届きました。早くてもさうですから急いで頼みます。
 まあ、三畳間、独り住居のアパート生活です。お中(腹)をいためて困りましたが治りました。あとは風ひかぬ事を注意して居ります。本も中にありますが、受付にきいてよいものを入れて下さい。渡辺力君に相談して。新しい本でないと入れません。老人には当分こゝで修業します。安心して下さい。一個人から見れば災難でありますが、国家から見れば必ず『毒薬変じて薬となる』といふ経文通りと信じて信仰一心にして居ます。二人心を協はせて朝夕のお経を怠らず留守をたのみます。取調べの山口検事様も仲々打ち解けて価値論(私の分)を理解してくれます。そのため、一週間もかゝりました。仲々当所の中からは面倒ですから、気をきかして、必要の冬衣などを入れて下さい。本間様か誰れかにきいて下さい。そして白金へも、戸田様へも教えて上げて下さい。
 (一) 白毛布一枚(白イカバーが入れてよいなら、かぶしたまゝ。受付できく)
 (一) 綿入一枚(木綿の分、夜着て居たもの)
 (一) 手ヌグイ一枚
 (一) 茶色の毛布一枚
 (一) モヽヒキ(アノ警視庁へ持つて行つた毛糸の分です。之は当所からウチへ下ゲラレタ筈です。もし下がらなかつたら、聞いて下さい。洗濯して)
 (一) 白のハダギ二枚
 (一) フンドシ二枚
 (一)ハンケチ(大小)二
 (一) ハラマキ一枚
 (一) タンゼンハイカヌさうですが、タモトにヌイ直せば、あの夜着て居たのが、冬着又は夜着として入れられさうです。之れもタモトにとぢればよひと思ひます。警視庁への差し入れは折々思ひちがひがあつて困りました。素直に云ふ通り実行して下さい。彼是れ考へずに、洋子ちゃんを大切に、お互いに冬になつたら風ひかぬ様に、風をひいたらゆたんぽで直に治すことが、クマには殊に大切です。あと叉十日も手紙あげられません。差入れできるものは受け付けでよく聞いて出来るものをたのみます。昨日は久ぶりで入浴ができました。理髪もしました。仲々暖か味があります。たゞ独房故、人にきけないので困りましたが、少しなれました。
  牧 口 ク マ 殿
  牧 口 貞 子 殿
 ○ 一月七日附(昭和十九年)
 貞子ちゃん私も無事にこゝで七十四才の新年をむかへました。こゝでお正月の三日間はおもち下さいましたし、ごちそうもありました。心配しないで留守をたのみます。戦地をおもうとがまんができます。
大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません。過去の業が出て来たのが経文や御書の通りです。
 御本尊様を一生けんめいに信じて居れば次々に色々の故障がでて来るのが皆直ります。さて、ハダコとハダギとを宅下げしますから代わり着を早くもって来て下さい。本もネ。秋月翁はどうおつしやつたか。渡辺にきいて知らせて下さい。
 今が寒さのぜつちようです。ゆたんぽをかして下さるのでたすかります。大急ぎで差入れて下さい。ちりかみもとゞきました。ベンゴ士はどうはこ(運)んで居るか。皆さんに相談して(渡辺をして)しらせて下さい。洋三の手紙もこちらへ届けてもらへると思ふ。エビオスはお医者さんが許して下されたのですからそれを云ふて入れてくれ、小栗、尾原の家庭は相変らずか知らせて下さい。日付を必ず入れてね。母と二人で洋子を大切に、留守をたのむ。細かいありのまゝを書いて下さい。その方が戦地でもよろこびます。稲葉の御父さんの病気は直つたか返事に書いて下さい。
  牧 口 貞 子 殿
 ○ 一月十七日附
 この間の手紙三日前に来た。やはり日付がなかつた。必ず日付を名前の上に忘れない事。婦徳をけがします。きまり切つた一般の事よりは昨日は洋子がどんな遊びをした。昨日はどんな配給があつたとういふようの事が、却つて興味がある。洋三の方もさうですから、家ではあたり前の事でも戦地ではそれがなぐみになる。これが却つて上手の手紙です。小栗、尾原の事を何べん聞いてやつても何の返事もない。とり越し苦労もせずにありのまゝに知らせて下さい。シヤツと金五十円と「歴史の進展」の本、忠臣蔵二冊が来た。あとはすべて宅下げした。単衣とハダギも下げた。御守り御本尊、母ののでも入れて下さい。これは特に御願ひして下さい。信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさへして居れば何の不安もない。心一つのおき所で……(註・此の間二、三字が抹消されていて不明)に居ても安全です。こちらの食物だけでまことにけっこうです。本を読むこと一度づつ戸外で運動すること、食事で、極めて単純の生活です身体も丈夫です。又衛君の出征は意外です。白金の御父は病気直つたのでせうね。それが返事がないと却つて心配です。戸田様へは行つたか。手紙を見たらその返事だけは必ず書いて下さい。
 留守中は御前が一番大切の役です。丈夫にして下さい。金は当分入らない。エビオスも無ければよいです。三人で朝夕の信仰を怠つてはなりません。渡辺つな子の事なども知らせて下さい。今が寒の頂上ですが、病気は直つて無事です。心配しないで下さい。本が一ばん楽みです。さつそく入れて下さい。洗濯して代りを入れて下さい。
 ○四月六日附
 暖くなりつばきの花が満開であらう。一日も早く帰りたいが出来ない。これは過去の因果の法則といふもので仕方がないとあきらめる。たゞ経文を以て信仰して居るので安心している。幸に達者ですから心配せずに留守をたのむ。
 三十円也正に届いた。画報、週間毎日、忠臣蔵を宅下げしたから受取て下さい。洋三の手紙も見て喜ばしい。洋子は半年見ないので此頃の遊び方どんなに変わったか、なつかしい。
 弁護士大井氏に一度「係り判事の数馬様に面会して、私に面会することを願つて見て下さい」と、住吉君に頼んで下さい。田利氏の方はどうでしたか。疎開の場所を古河の方へ見付けるをどうしたか、知らせて下さい。是はお上から命ぜられるであらう。早くきめねばならぬ。
   牧 口 貞 子 殿
 ○ 十月十三日附
 十月五日付、洋三戦士死ノ御文、十一日ニ(羽織、袷、タビ、「註三字不明」ヒモノ差入レト共ニ)拝見。ビツクリシタヨ。ガツカリモシタヨ。ソレヨリモ、御前タチ二人ハドンナニカト案シタガ、共ニ、立派ノ覚悟デ、アンドシテ居ル。貞子ヨ。御前ガシツカリシテクレルノデ、誠ニタノモシイヨ。実ノ子ヨリハ可愛イコトガ、シミ●感ゼラレル。非常ニ賢イ洋子ヲ立派ニソダテ上ゲテ、吾等ニ孝行シテ呉レルコト、二人共、老後の唯一ツノ慰安トスル。
 手紙ハ牧口家ノ永久ノ記念ニノコル。頼ムゾヨ。
就テハ此際故、近親ダケニ通知シテ呉レ。北海道ノ叔母ダケハ忘レルナ。信仰上ノ障リガアツタロウ。後デワカラウ。病死ニアラズ、君国ノタメノ戦死ダケ名誉トアキラメルコト。唯ダ冥福ヲ祈ル、信仰ガ一バン大切デスヨ。二人共。
 私も元気デス。カントノ哲学ヲ精読シテ居ル、百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ「価値論」ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビ付ケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ自分ナガラ驚イテ居ル、コレ故、三障四魔ガ粉起スルノハ当然デ経文通リデス。
 十月五日、出シタ住吉、川端氏古島様ノコト返事呉レヨ。週報ハ未ダ来ナイ。
   牧 口 ク マ 殿
   同   貞 子 殿
 (註)次いで翌月(十一月)十八日に御臨終遊ばされた。
  2) 戸  田  城  聖
 奥様幾子夫人への御手紙
差入を受けて読まれた歌(昭和十八年十二月)
  「餓鬼道にうけた回向の嬉しさは
          浮世の宝  極楽の味」
奥様への御手紙(昭和十九年九月六日)
一、生活ノコト心配シテ居ル。会社へ兪々ノ時ハ御父サンカラ相談して貰ヒナサイ。最後ニハ判事サンニ御願ヒシテ私ノ所ヘ来ナサイ。心配カケマイナゾト思ヒナサルナ。私ニハ充分ニ考ヘガアル、安心シテ居ナサイ。
二、決シテ諸天、仏、神ノ加護ノアルト云ウコトヲ疑ツテはナリマセヌ。絶対ニ加護ガ有リマス、現世ガ安穏デナイト嘆イテハナリマセヌ。真ノ平和ハ清浄ノ信仰カラ生ジマス。必ズ大安穏ノ時ガ参リマス、信心第一、殊ニ喬久ノ為ニハ信仰スル様、御両親共信心ハ捨テマセヌ様。
三、御父様ニ「商手ノ仕事」ハ私ガ帰ルト国家的事業ノ一役トシテ、大事ナ事業ニナリマスカラ決シテ廃業ナゾセヌ様、私の帰ル迄持チコタエ願ヒマスト。
四、此ノ手紙ノ着ク頃カラノ宅下ゲノ着物ハ秋ノモノト願ヒマス。コチラハ一段ト寒イト思ツテ下サイ。
五、雑費用ノ金ノ差入レ残金ノ有無ガワカラヌノデ一寸困ツテイマス。五月ノ差入金ハ使ツテシマツテソレヨリ以上五拾円位ニナツテ居ルト思ヒマス。此ノ手紙着次第「弁当券」十枚差入レ願ヒマス、十枚以上ハイリマセヌ。雑巾二枚入ツタ内、一枚ボロボロにナリ、二枚目使用中、差入ガ許サレタラドウカ差入ヲタノム、御部屋ハ御カゲテ大変清潔デス安心シテ下サイ。
六、差入ノ本御苦労様、身体ガ元気ニナツテ来タノデドンナ本デモ読メマス、ドウカ何本デモ本ナラ手当リ次第心配セズ入レテ下サイ。料理ノ本デモ哲学デモ、化学、物理、植物、高級低級カマヒマセヌ。特に読ミタイト思ウノハ「キリスト教」「カントノ哲学」「浄土宗関係ノ経文」「中等程度ノ物理化学」。
七、ネオス……良ク飲マシテ貰イマシテ大変キヽマシタ。只今ノ所「十月」一パイ分アリマス、十月末ニ差入願ヒマス。
八、私ノ身体ノコトデスガ「差入」ノB剤良クキキマシテ、病気ハ奇蹟的ニ全快デス。
皆貴女ノ御カゲト有難ク思ツテ居ル、心配ヲカケタ「心臓」「気管支」「喘息」「糖尿 病」皆全快今ノ所「リユウマチ」ガ九分マデ、悪イノハ「目」ト「痔瘻」ト元気ガヤット「八分通り」ノ回復ト云ウ丈デス。リウマチハ絶対ニナホシマス。但シ「目」ト「痔」ハ精神ト滋養剤デナホルモノカ、一、二ケ月見テ下サイ。修養ト云ウモノハ毎日毎日ノ努力デス(カルシユウムノ薬ハ是非タノム)
九、差入ノ滋養剤ハ全部「血」ト「肉」ト「骨」トニナリマス。ドウカB剤ヲ今一フンバリ頼ミマス。
戦時向ノ「体力」ト「偉大ナ努力」ノ修養デ健全ナ一大精神ノ完成ニ信仰ノ道ヲ邁進シテイマス。
御両親(松尾清一氏)ヘノ御手紙(昭和十九年八月十一日)
 御父様御母様永イコト御心労、行キ届イタ御世話、只今感謝デ御座イマス。ドウカ強ク生キテ居テ下サイ。不幸ノ罪ハドンナニシテモ御返シ致シタイデス。今ドンナニ苦シクテモ貧シクテモ私ノ生キテ居ル限リ「富メル者」トノ自信ヲ失ハズニ下サイ。私ハ貴郎方ノ養子デハモウ有リマセヌ「実子」デスゾ。毎日私ハ「国恩」ニ「御世話ニナツタ方々ニ」御恩を報ジント一心ニ「精神修業」ニ邁進シテ居リマス。「健全ナル精神ハ健全ナル身体ヲ作ル」と云ウ悟リノ本ニ「肺患」モ「喘息」モ「心臓病」モ「リユウマチ」モ根本的ニ「治ス」努力シテ居リマス、非常ニ丈夫ニナリマシタ、精神修業ヲ肇メテカラ一時ハ「生キル」力モナクナツタ私ガ「メキ●」丈夫ニナリ「強クタクマシク」「清浄ニ」「安心シキツテ」生キル工夫中デス、一ツニハ幾子ノ努力デアル滋養剤ノ多量摂取モ「力」アリマス、厚ク幾子ニ礼ヲ云ツテ下サイ。心デ泣イテ飲ンデ居ルト、宅下ゲノ「フトン」大変汚レマシタガ室ハキレイナノデスカラ安心シテ下さい。
1、散紙十月一杯迄アリマス、石ケンハ一昨日新シク入リマシタ有リ難ウ。大事ニ●年内使フツモリデス。
二、五月ノ差入ノ金ツテシマヒマシタガ預ケタノガアリマセウカ、御取調べ願ヒマス。
3、目がねガイヨ●コハレマシタ、右一度弱ク左一度強クガ旨クイカナカツタラ古イノヲ入レテ下サイ。「古イノデモ玉ノ大キイ方」
4、ネオスAハ小ビンガ一週間大ビンガ二週間有リマス、アマラヌ様足ナリナクナラヌ様工夫シテ後ハ、ジミーエビオスヲ今ノ様ニタノミマス。大変丈夫ニナリマス、ビタミンモ「ワカフラビン」モ大変ヨクキキマス、今ノ所沢山慾シイデスガ、精神修養ガ今一歩飛躍シタラ「与ヘラレタ食生活」デ病体ヲ健康体ニ出来ルト確信致シマス、戦時下ソウデナクテハト努力シマスガ「ビタミン」ノ不足丈ハドウカト思ツテ居マス、前便糖衣ビタミンノ件先方サイニ前ノ六個分代金ノ未払アリマス、気掛リデス大至急払ツテ下サイ、昔ノ借リヲ思ヒダシタト。信心第一ニ暮シテ下サイ、科学ノ平易ナモノガアツタラタノミマス、栄養学ノモ。
 同   (昭和二十年三月●三日)
(註、当時は牧口先生は既に死亡され戸田先生も亦獄中で衰弱が甚しかった)
(前 略)
毎度デスミマセヌガオ金ヲ百円調達して両全会ヘ●円私ノ所ヘ八十円差入レテ下サイ、叉々今月初メ来ナクナツテ非常ニ不自由シテ居リマス。至急願イマス。
急ニ衰弱ガ加ハツテ参リマシタ、滋養剤ガ手ニ入リマセンカ。牧口先生の所ガ恋シイ様ナ気持ニ襲ハレ勝チデス。セメテ「差入弁当」と当所ノ滋養剤ヲ購入シタイト思ヒマス。元気ニナルカ知ラント思ツテドウカ両全会ト差入金急イデ下サイ。
 (後 略)
子息喬久氏ヘノ御手紙(年月不詳)
 一ノ関ヘ疎開シタト聞イタ、梅正行公ハ十一才デ御父サンノ志ヲツイダ、オ前モ十ダ、立派ナ日本人トナル為ニ一人デ旅ニ出ル位ナンデモナイ。強ク正シク生キナサイ。日本人ハ「神様」ニナレル、正行公モ神様ニナツテ居ル、男タル以上「神」ニナル決心デ修養ノ大本ハ「丈夫」ニナルコト、強イ男ラシイ身体ヲモツコトダ、丈夫ニナルノハ一心ニ「丈夫」ニ俺ハナルト先ヅキメテ、サテドウスルカハ後ハ自分ノ工夫ダ。御父サントハマダ●会ヘマセヌガ二人デ約束シタイ。朝何時デモ君ノ都合良イ時、御本尊様ニ向ツテ題目ヲ百ペン唱ヘル。ソノ時御父サンモ同時刻ニ百ペン唱ヘマス。ソノ内ニ「二人ノ心」ガ無線電信ノ様ニ通フコトニナル。コレヲ父子同盟トシヨウ、御母サンモ祖父サンモ、オ祖母サンモ、入レテ上ゲテモ良イ。オ前ノ考ヘダ、時間ヲ知セテ下サイ。
子母沢寛への手紙(年月不詳)
 私の留守中御世話只々感謝致して居ります。
 勝安房守の第五巻出版の事心配して居りますが、私が帰るまで一切の交渉事不自由も腹立ちも有りませうが御待ち下さい。留守中大消極策で仕事をさせ、此処で一切を指図しているのですからメクラの下手な碁打の様なものです。しかし事業の大体のカンは承知して居ますから安心して下さい。お役人方がよくしてくだすつて嬉んで居ます。
「我がさばき平等王の優しきは仏の慈悲に娑婆の回向か」
「御国だに安らけくあらばこのまゝに独房住せん暮しよければ」
「煩悩も真如の月も宿らせて独房のふしど夢の円らか」
 村上さんと御奥様と御会わせ下すつて私の家の事何分宜しく、奥様に正月年末の歳暮として組合にあるボンと云ふ甘味滋養剤多量差入を御ねだり下さい。
「差入れに王者の富や感じけり持たざる時の淋しかりせば」
岩崎洋三氏への手紙(昭和十八年十二月四日)
 留守部隊長として万々の労苦御察し致します、私が帰りましたら第一線で万事引きうけるつもりですからどうかがんばつて下さい。家庭の事、会社の事万事頼みます。住吉の相談にものつてやつて下さい。 (中 略)
 僕の心境
「静けさに生命みつめてくらしけり
        独房住ひの朝な夕なに」
  「国の為、君の御為に捨つる身に
        かざらまほしき真如の月かな」
  皆に宜しく早く皆に会ひたい、そして勇ましく働きたい、僕は差入れの薬で丈夫になりつゝある。
   3) 弾圧当時の特高刑事で追放されてから日蓮正宗に入信した木下氏の回想記
        杉並区方南町二六八元警視庁警視 木  下  英  二
 昭和二十一年五月所謂G号該当で追放を受け、退職する迄で二十五年間の大半を特高警察に捧げて来た私が数ある事件の中で最も漸愧に堪へないことは創価学会事件であることをつく●悟らされた。
 史上にも曽て経験したことのない敗戦を味ひ追放から失業、そして生活に総ゆる苦難の十年間は全く虚脱状態に陥つて自分の将来には再度起つ機会は到底来らずと幾度か観念させられたか知れないが、奇しくも亦創価学会の戸田先生に救われると予想だにし得なかつた事であつた。当時は唯創価学会の峻厳なる折伏運動が、他を顧みない我田引水の唯我独尊の行動としかとれなかつたのであるが、斯る考え方が全く間違であつたことである。・大謗法罪を犯したことになる。
 日蓮大聖人が文応元年七月立正安国論を撰て鎌倉幕府の執権北条時頼に上呈し、仏法の邪正即ち、法華経南無妙法蓮華経の正法なることを論じて捨邪皈正を諌暁されたが入られず、弘長元年五月には讒に依り伊豆国伊東に流謫され、同三年二月赦免され文永五年蒙古国の使節到来した時、宗祖は叉内憂外患の原因を論じて愈々立正安国論の必要を説き諌暁され同八年九月に更らに書状を以て極諌されたが遂いに鎌倉竜口に於て斬罪に処せられんとせしが、偶々大雷風雨晦冥に遇て果さす遂いに佐渡に流罪されたのである。
 斯くて文永十一年二月佐渡流罪を赦免せらるゝや、北条の家臣平左衛門頼綱に対し前諌の趣旨を縷述したが頼綱は之に対して
  今後折伏を歇め天下泰平を祈らば城西に愛染堂を建て地頭千町を寄附して、衣鉢の資に供せん
と慰諭説得されたが、宗祖は之を断固斤けて三諌されたが聞き入らず、遂いに袂を払つて身延に入山されたのである。
 惟うに大聖人の御生涯は法華経南無妙法蓮華経の正法護持広宣流布のための徹底的な折伏運動であり、幾度か其身を危機にさらされたけれども、一歩も退かず敢然と遂行されたのである。斯る御業跡を知つて、成程創価学会の峻厳なる折伏運動は決して我田引水式の唯我独尊でないことがわかり、大聖人の足跡を其儘実行実践される真正の宗教団体であることを感得したのである。
 そして戸田先生牧口先師の後を継がれて、現代に於ける学会唯一人の最高指導者として常に吾々人間生活の幸福は、此の正法を護持することに因つてのみ得られると教へて居られるのである。私も終戦以来いろ●の仕事に失敗し、叉就職もなか●好く行かず苦労十年の歳月を閲したのであるが、計からずも戸田先生の御指導を受けるようになつてから不思議にも昨年来急に就職が定まり、其他の事柄に就いても総べてが好く行きつゝあるので、歓喜に満ちた今日を送らせて貰つて居ります。
 而して之に応ふるの道は、唯一つ南無妙法蓮華経の御法即ち日蓮正宗創価学会の御法を信じ叉世の人々にも広く之を信じさせる(折伏)自行化他の信行こそ吾々に果せられた責務であり、叉なすべき正道であると確信して居る次第であります。
 四、官 憲 文 書
(註)本項に入るべき文書は多数あるので省略し、一例として片山尊氏の分を掲げる。
  1) 予番終結決定
      本籍 東京都杉並区上荻窪二丁目八十番地
      住居 同都神田錦町十五番地北方社方
         会社員  片  山    尊
         氏 名(年令)  当二十八年
右者ニ対スル治安維持法違反並不敬被告事件ニ予番ヲ遂ケ終結決定スルコト左の如シ。
  主 文
 本件ヲ東京刑事裁判所ノ公判ニ付ス。
 (中 略)
被告人ノ以上所為中第一ノ点ハ治安維持法第七条ニ、第二の点ハ刑法第二項ニ各該当シ、更ニ同法第四十五条、第十条ヲ適用処断スベキ犯罪トシテ之ヲ公判ニ付スルニ足ル嫌疑アルヲ以テ、刑事訴訟法第三百十二条ニ則リ主文の如ク決定ス。
 昭和十九年八月三十一日
  東京刑事地方裁判所
  2) 判     決
      本籍
      住居
                                                 氏 名  (年 令)
右者ニ対スル治安維持法違反並不敬被告事件ニ付当裁判所ハ検事誰某関与審理ヲ遂ゲ判決スルコト左の如シ。
   主 文
被告人等ヲ免訴ス
   理 由
  (中 略)
以上ノ所為中前記ノ如キ結社ノ指導タル任務ニ従事シタル点ハ各治安維持法第七条ニ、神宮ニ対スル不敬ノ点ハ各刑法第七十四条第二項ニ該当シ、刑法第五十四条第一項前段第十条等ヲ適用シテ処断スベキモノナルトコロ、治安維持法ハ昭和二十年十月十五日公布即日施行ノ勅令第五百七十五号ニ依リ廃止セラレ、神宮不敬罪ニ付テハ同年同月十七日公布即日施行ノ勅令第五百七九号大赦令に依リ大赦アリタルニ依リ、刑事訴訟法第三百六十三条第二号第三号ニ則リ被告人等ニ対シ免訴ノ言渡ヲ為スベキモキトス
 仍テ主文ノ如ク判決ス
  昭和二十年十一月二十一日
    東京刑事地方裁判所二部
     裁判長判事  氏 名

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