富士宗学要集第九巻

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第七章 仙    台

  仙台の法難は覚林坊日如の遠島廿七年が主なり浄性順等亦稍此に従ふ、爾後八十余年を経て玄妙房日成あり正史料乏しく且小難たるを以て第十章猫沢の下に於ける玄妙房の分に合記す、覚林坊に至りては能文能筆殊に特異の天質に依りて随処に奇蹟を残し漁村農民其慶に頼り今に所縁の地に崇拝せらるるを以て其材料甚だ夥多なり、浄性の賀川家必ず史料あるべきも末裔に至りて法縁絶へて調査の便宜なきを惜しむ、浄順は是れ賀川家の傭夫にして能く文を属し筆を執る事を得たるは、一に浄性の教養と覚林の指導に依りしものなるべし、覚林坊廿七年の消息各所に殊に多くは洞の口浄順の家に其手沢の書籍と共に数百枚の書状が珍蔵せらるれども、流謫の細き苦労を見るの料は至つて少く各地の門弟信徒を指導するの料のみ多ければ今其法難の大概を知り得るのは全く浄順の記文に依ると云ふべし。
一、続家中抄の記事  宗学要集第五巻宗史部の続家中抄の文を再掲すべし、覚林坊の分は史料多々なれども賀川権八の分は少ければ聊之を知るに足るべし。
二八五頁(真師弟子の中)頂受坊日如、覚林と云ふ壮年の頃仙台に於て法難長渡島に流罪、在流廿年赦免の後登山す、生国磐城妙法寺に住し仙台洞の口にて寂す。
二九二頁(相師伝の下)○仙台宮城郡南宮村に生る。父賀川権八と云ふ「二男」法号浄性坊日顕比丘、彼地弘通の大信者なり、法難に依て所を追はる後赦免あり、○。
二九二頁 父浄性坊日顕比丘、天明八戌申年九月廿三日、賀川権八、本山方丈奥に於て●師再往の刻南宮賀川の聟に入り改宗す、生家仙台蔵元氏。
二、浄順の事光堂の演技 自筆のもの洞口加藤甚六にあり、浄順の子孫なり、浄順名を了助と云ふ、事光道場今に其家の右目に在り、此記間々擬字不明の分あり殊に冗長なりと●も却て梗概を知るに便なれば且らく全文を掲ぐ。
 事光道場縁起
抑も道(洞)の口信者御当家帰依の始めは三国の名山駿州富士大石寺三十四代日真上人の御弟子覚林日如と申し御年廿四五才の時明和元年の春当国え御下り北山同宗日浄寺え御入り暫く御逗留成し置かれ候所、加川浄性は元来信心者の事なれば子共未だ幼稚には候へども日真御上人の弟子に御契約申し奉れば弟子兄弟の御縁にて浄性宅え御出で成し置かれ、御法門御伝授の上直に御帰山の御心中を浄性常に一寺建立の念願故に尊師の御出でを幸と是非是非に御留め申上げ右の企て申しけり、其比天童備後殿御家老に中沢富沢両三人内々帰依にて候へば主人方えも相達し八幡村下屋舗に宜しき空地候へば此処え庵室を建て、日如師を請待申上げ祈祷所と名付け奉り其時の御名をば東有台と改められて大法弘通ましませば主人備後殿にても少々帰依の思召し段々それに相続き城下其外信者老若男女に至るまで有り難き宗旨ぞと悪口誹謗の輩も目を驚かす風情なり、其中の坊弟子に乾中乾左乾右とて三人の丁(聴)衆にて月に六度の御講釈誠に広宣流布の前表かと心ありし人々は不惜身命の信心起こしけり、其比浄順は浄性に相順ひ家の風儀に候へば信心もいたしけり折々御法聞丁(聴)聞の上有り難く罷成り誠に生死を離れ現当二世を祈るには一乗法花にあらんずば無始の罪障何の世にか滅すべき、生死無常の事なれば此上は両親を進めずんば我等が修行の甲斐もなく不孝の咎に至らんと其年(明和元年)十月廿日の事なりしか両親え直談に品々咄し候へども、悪業の因縁にて一向に聞き入れられず縦ひ善にても悪にても親子の故に申すなり此儀を用ひ無き上は親とも思ひ申さずと折入て申し候へば是非無く尤いたされけり、即造仏等を取退けて八幡庵室え参りつつ御札壱枚戴いて持仏堂に安置し奉る寔に有縁深厚にや家内一同の信心に相成れり夫よりも見聞の人々は如何様子細有るべしとて病身の者どもは心見(試)のためにとて題目修行候へば速に病気平癒いたすなり、欲の鈞を以て引いて仏道にいたらしむとの御方便にやありがたき御宗旨とて翌年(明和二年)正月中旬までに四五軒の信者と相成りけり、其時の人数は加川浄性初として同権之丞文蔵、備後殿御家老中沢三郎左衛門富沢惣右衛門同助同右衛門何れも学力利発の信者なり、道の口どもは甚六甚之助市郎兵衛吉郎兵衛治三郎三五郎其外数多候へども是等は後の信者なり中にも権之丞富沢は必(筆)頭の者なれど末に退転いたすなり、先は右の人数にて八幡庵室え罷り越し御講等を相初め異口同音に修行あり、浄性は常々の念願ゆへ一寺建立の企て候へども新寺新宮は御停止ゆへ中奥森の浄(上)行寺近所にて加賀野と申す所あり、此所に庵室あり本道寺と申して昔は大寺の由何つの比か捨たりけん系図は御本寺に有りとなり、是を引寺に取立てんと一迫柳目妙教寺同森の浄(上)行寺え談合あり日如師は妙教寺塔中東陽坊に成らせられ右心願の趣きを備後殿へも相咄され其外時の役人にも内々伺ひ候へども別して障りもなきやうにて、巳に願書を認めんと心慮をめぐらす折節に行解巳に勤めぬれば三障四魔競ひ起るの道理にや執権謗実の罪人ども誹謗嫉妬の思をなし切支丹或は魔術の様に言ひなして上え訴ふ者もありしにや自然の表裏にて候や。
明和二年三月七日の事なりしか御小人四五人相下し法花帰依の者どもを御僉議之有る事なりとて甚六市郎兵衛次三郎右三人を召して御目付宅え相出す、城下の伊勢屋平兵衛も信心者の事なれば日如師は此所え御出入り折りしも御滞留の時なりしが御看経最中に御小人二人参りつつ御上よりの仰せとて同宅え相出でられ御僉議之有り候へども正法の事なれは科の次第も定めず、翌年八日と申すには勿躰なくも日如師先立にて三人の御籠舎と相成りけり加河浄性中沢も頭人の事なれば同く籠舎と相成りけり、少しも帰依の者どもは段々に引き続き評定所に召出さる其中にも臆病の者どもは信心いたし申さざるよし仏前等も相仕廻ひ膽魄も消はてゝ命助かる程ならば金銭は惜からずとて胸を焦がす者もあり、或は退転或は浪人いたす者もあり、御僉議日と申すには引張の多きこと城下にては仏眼寺日浄寺、一迫妙教寺、岩切の東光寺、南宮の慈雲寺、両村の肝入始として加河一党相残らず塩釜よりも謗俗一人召出され諸親類は申すに及ばず、其村々の謗俗ども口々に申す様此度法花の滅亡とて見舞心に出るもあり見物心に出るもあり、御僉議日と申すには評定所の式台より門外まで席間もなく誠に仙台始つてよりかほどの大沙汰有るまじきと見聞有りし人々はみな一同に申しけり。
中にも哀れに思はれしは跡に残りし男女どもが纔か一月二月の信者にて法の道理も弁へず平信心の事なれば村中挙つて申す様信心相止め申すべし此度の御沙汰の義は前代未聞の事なれば厳しき事と承はる、村中の申す事相背き候て信心相止め申さずば跡に残りし者どもも後日に御籠舎いたすべし万一村の者どもも御僉議有りし其時は言晴らし其ために斯の如く申すなり、命を惜しまぬ事ならば勝手次第にいたすべし悪き事は申すまじ余りに不便の事なれば角は申し待べるとて眼を嗔らし顔を赤めて申しけり。
まことに御仏意ありしをや愚痴妄念の老若男女に至るまで少しも騒ぐ気色なく常よりも嬉し気に笑顔にて申す様、各の心ざし忝くは候へども大切の御法ゆへ相止めがたく候と数珠爪繰りながら申しけり、親類組合の者どもも何を申し候ても塊法花に候故合点いたさぬ事なりとて是非なく達しに相成りけり。跡に残りし者どもは大肝入方え呼出され内々にて申し聞かすべき事候し先づ此度の御沙汰の義は軽からざる事にて候なり其上親類組合村中の申す事を用ひずして直の達しに候はば重罪に沈むべし達しにならぬ其中に信心相止め申すべし、内分ゆへに申すとてさも親切に申しけり。
されども何れも驚く風情なく縦ひ重罪に沈むとも是非無き事にて候なり有りがたき事なれば相止めがたく候と一同に申しけり、経文には遊行無畏如師子王と候へば其勢に恐れ候や又不便と思ひ候や達しにも相成らず打捨になりにけり。
兎や角と申す内に月日移りて行く程に秋の初に至りけり御寵内の人々は数度の御僉議候へども容体顔色心よく苦労とも相見えず修行計りの力にて飯に紙を押合せ面々数珠を拵えつつ縦ひ身命におよぶとも息の通はん其内は妙名口唱いたさんと皆高声に唱へけり、獄屋に在りし者どもも不思議の思ひをなすとかや誠に当位即妙の御利益ゆへと感じけり、其時の奉行には松岡長門必(筆)頭にて厳しき事にて候へば召出さるる其中に身情を申す者もあり或は偽り或は実を申すもあり同様にあらざれば弥よ上にて疑ある事六かしく成りにけり其比大石寺日真御上人にては此事を御聞成し置かれ秘蔵の弟子の御事なれば御案事成し置かれ沙汰の次第を聞かんと思召され候て御学頭師を御頼み遊ばさる、比は七月中旬に当国へ御下向あり即日日浄寺え入らせられ廿日余りの御逗留にて奉行所まで御出で成し置かれ候て、覚林儀は大石寺の弟子にて候よし仰せられ候へば時の役人ども大石寺の格式等尋ねられ候へば一々次第に仰せらる誠に驚ける風情なりと、学頭師は沙汰の起り不明にてましませば信者どもを召集めて事の次第を御尋ねあり、正法帰依の事なればかやうの事はあるべきなり奥州は東北の国なれば此国より仏法起り初むべし奇特の事にて候ぞとて御法門等仰せられ随心の人々は有り難き事なりと弥信心憎さりけり、学頭師にては幸成るかに仙台え相下り一つの手柄をいたさんとて思案をめぐらし御座します。折しも八月下旬の事なりしに日真上人御迂化成し置かれ候に付き急々御帰山成され候様にとの御状到来あり、学頭師には沙汰の安否も見届けず帰る事を残念と思召され候へども御跡続の事なれば一大事と仰せられ右の趣き奉行所えも通達ありて即御帰国成し置かる時の至らざる事に候や。
彼の評定の役人ども学頭師の御帰を聞きしより悦びの思をなし沙汰の落居をいたさんとや思ひけん九月十日と申すには皆評定に立にけり、其科付けに云く邪法等の教をなすと云云、御本山三十一世日因上人師の曰く目邪なる人は直なる木をも曲木と見るべしと仰せられしごとくにて、真直なる正法正師の大法を目邪に付き故に邪法に等しと申すべし誠に惑耳驚心の者どもなり、勿躰なくも日如師は遠島の罪となり給ふ、浄性は三郡(都)の御追放、中沢は他国御追放、道の口三人は壱年奴と相成れり覚林師は御馬に召しつつ足軽二人附人にて九月十日四つ時に城下表を御出立ち随身の人々は残らず御供仕る其時御馬の上にて御詠歌に。
 みちのくに久遠をうつす後の月。
と遊ばされ随身の者どもえ下し置かれ候思召有り難き御事にて、其日は高城御留り、翌日は渡波(わたのは)御留りなり、此所より御船に召されつつ御供の人々は渡海の事は叶わず渡し場にて御暇乞ひ互に御分れの悲しさは姿の見へし其中は御跡を振りかへされ誠に祖師の御在世も角やあらんと皆信心の涙を催しけり、折しも波風静にて十二日と申すには長渡(ひたわたし)真崎の浜に著き給ふ、此所に佐渡が島とて昔しより云ひ伝へし所あり誠に不思議の景地なり、日如師は根組と云ふ所に埴生の小屋を御住居にて極悪深重の者どもに御法縁をぞ結ばせらる、既に年月重れば近所の浜の者どもも帰依の思ひをなすとかや仏種従縁起是故説一乗の金文は有り難き御結縁と心有る人々はいよいよ信心いたしけり。
浄順は加川を相出で候へば住居とても定まらず信者どもを力とし徒然に暮し候へば寂と考ふるに、道(洞)の口の信者ども一文不通の事なれど御沙汰の節も退転無く信心いたし候へば執権謗実の輩も障碍をなす事ならざれば嬉しき事は一眼の亀の浮木の穴に逢ふがごとく、又陸奥には法花帰依の初にて本因妙修行の鏡とも末代までも流布すべし、然りと●も其証なくんば何を種として子々孫々に伝ふべき其身計りの修行にて跡にて退転いたすなら御沙汰に及びし甲斐もなし、終に三途の旧巣に帰るべし六道輪廻の苦しみは貴賤貧富の隔てなし適に人界に生を受けて此度生死を出でずんば無量劫を尽すとも浮ぶ期更に有るまじき、されども貧なる者どもにて仏道供養も成りがたく過去の善根薄き事今こそ思ひしられたり、金銀だにもあるならば七堂伽藍も立つべきにそれは及びのなき事ぞ心ざしさへ有ならば七堂伽藍に劣るまじ、皆一同の信者にて御講堂を建立す後五百歳中広宣流布於閻浮提無量(令)断絶の経文虚しからずば次第に繁昌致すべし、広宣流布の其時は最初に寺ともなるべき未だ時機もあらざれど無疑曰信に無二の信心あるならば諸願も成就いたすべし。
御開山の掟にも大石寺は御堂といひ墓所と云ひ修理を加へ勤行をいたし広宣流布の時を待つべしと仰せ置かれし事なれば大石寺の仏法を奥州仙台道の口え御移し申し奉り修理を加へ勤行いたす事なれば即理の道場と申すべし、事理不二の事なれば事光円と名付け奉る、世間の浅き事なれど枯木を拝し河水を念じて神仙となる李広が念力石をも射通すと申すなり、舜を学ぶ者は舜の従なりと騎を学ぶは騎の類ひ仮初にも賢を学ぶ者は賢者と云つべし仏道も左の如し仮にも仏法修行なす者は即仏の輩なり増(況)して説かんをや、月漢日未曾有の大仏法を朝夕不退に信じ奉り理の戒壇堂を建立あり月十五文の燈明銭纔の事には候へども是にて法燈相続いたすべし、法の燈消えずんば愚痴妄念の者どもも無始の罪障消滅し広宣流布には逢ふべきなり、善事を行ふ所には必ず福来るべし悪事を好む所には必ず災至るなり果報なり冥加ぞと弥信心励まして仮にも悪事を退けて異口同音に善事を好むほどならば子々孫々に至るまで必ず福ひ至るべし、生者必滅の道理にて老少不定の事なれば名のみ計りも残さんと信心修行の人々の御沙汰に及び候事どもを一々次第に書き記し末代に伝ふるなり、何れも貧者の学道修行も成りがたく只心底に任せつつ後見を恥ぢずして愚筆せしむるものなり後の信者ども必ず疑を生ずること勿れ南無妙法蓮華経。
事光庵建立は明和八辛卯九月廿九日に成就す、爾前迹門謗法対治一天四海皆帰本因妙、覚林日如師帰山の為同行一結異躰同心倍増、本末一雙寺檀繁栄、当国仏敵対治、一寺建立令法久住大願成就なり、次には同行中先祖代々の諸聖霊謗罪消滅菩提の為、三界万霊二十五有有縁無縁謗罪消滅の為なり、乃至法界平等利益、南無妙法蓮華経。
  安永七戊戌正月七日         浄順日善在り判、謹で書す。
 編者云く此の縁起の中にある文句に就いて少々解説を加ふべし。
浄性の子供幼稚とは、後年の活如尚道院にて常泉寺十七世総本山四十三世の日相上人なり。
天童備後とは出羽最上氏の族にして伊達家に仕へ準一家の待遇を受け千四百石を給せられ仙台の西北八幡村に住したる人なり。
御小人(おこびと)とは、軽輩下級の卒にして各種の雑仕を為すもの。
評定所とは、瑞鳳殿の北西旧花壇に在る高級の役所なり。
仏眼寺日浄寺妙教寺は本宗の寺院なり。
岩切東光寺とは、了助(浄順)の檀那寺にして宮城県岩切村にあり曹洞宗なり。
南宮慈雲寺とは、権八(浄性)の檀那寺にして同郡塩釜町にある臨済宗なるべし。
御学頭とは、遠妙院にして後の総本山三十五世日穏上人なり。
処刑申渡書は存在せざれども、覚林坊日如の遠島は史実昭々たり、田代島網(あ)地(ぢ)島は古来藩の流刑地にして日如はあぢ島の南武にある長(ひた)渡(わたし)浜に流されたり、此のヒタの音を仙台にてはフタと称する為にや罪人を長持の蓋(ふた)に戴せて流せりとの巷説も此訛音より成れるものか。
浄性は三郡御追放とは、郡は恐らく都の誤りにて京都大阪江戸の三大都市に立入る事を禁ぜられたる重追放なるべし、重追放とすれば勿論在所は御構ひなれば在家人としては無上の刑罰なり、此人の家は有名の豪農の由なれば当時の裁許申渡等の一件書類も存在せんに、調査の縁無き事遺憾なり。
中沢は他国御追放とは、天童備後の老臣三郎左衛門は身分ある者にして日如の弘教に全幅の援助を為したりとて、在所御構ひ他国へ追放の軽罪なりしならん、此人の後日の事前と共に判明せざる事を憾む。
道の口三人は壱念奴とは、道の字は今の洞なり、浄順の了助は又甚六とも称したるか、壱念奴とは壱年間の官奴たりしものにて軽懲役とも云ふべきものか。
渡(わたの)波(は)とは、石巻港の直東にありて今本宗の教会所あり幾分覚林坊の法縁を引けるか。
根組は島の最南面にあり太平洋を望む所、謫居の址あり竜王碑あり、訪問の時予は文書を写すに急にして●に至るの暇なく真道勘蔵此を訪へり、今は民家無し、日如のときに喜惣右衛門、利喜蔵兄弟●在りて其化に服し兄は旭元堂、弟は要声堂と賜ひて信行を励みたるなりる
本縁起に見ゆる八幡の東有堂(今は無し)も洞口の事光堂も、又根組の要唱旭元の二堂も古川町の本寿堂(今は無し、但し古川教会の信徒には日如の法水通ひをるが如し)も、覚林坊の切なる大願に基きて建立せられたるものなり。
三、 覚林坊謫居よりの状の一   大正五年十月に洞口加藤甚六を訪ひて其珍蔵の日如の手沢本小長持一杯書状数百枚を拝見して其中より拾数通を抄録したる中より同六年一月より三回に亘りて大日蓮誌に掲げたるものを再訂して此に編入する、但し何れも書状に依りても遠隔の地にある信徒を誘導し激励する熱烈と周到と醇信とを兼ね備へたるものにて、自身流謫の苦辛は文上に顕れをらず法悦に浸りたる羨しき心境裡である。
殊に本状にありては、洞口の事光新道場に御本仏御尊像(大聖人御影)を安置し奉りたるを聞いて、其奉仕の心境所作細大と無き教訓中々凡僧の及ぶ所にあらざるなり。
末文に八幡の小庵とは、最初の八幡村天童家の下屋敷内に成りし法難前のなり。
裁判評定一箇一条等とは、其裁許申渡を何れにしても見る事を得ざれば巨細を知了する事能はざれども、長渡浜の流刑が厳重に決定せられあるものの如し。
観生とは、本師の別名なり。
事光主とは、事光堂場の主にて随一の門弟なる加藤了助浄順日善なり、同堂は此伏より九年前に成れる事前の縁起にあり。
今朝の寒き事□□代々寒中に覚えず、未だ火焚き付け申さず匁々両年こらへ候。
御本仏御尊像安置奉る後は毎朝御仏供失念有るべからざる事、忘却に於ては未来永世の罪過たるべき事、信行者の読誦する妙経口唱する題目を法味に備へ奉る功徳の多少によつて御利益に御厚薄有る事、平日御供養怠慢□□切断の席に至り候ては御感応も之無く御利益も薄く、或は改門匁は修行に怠り候面々多々、水なきに月なにを縁として移り給ふぞ、信心清潔の水あれば天月も皎々と影を移し給ふ、それこそ一月も降り下らず万水も昇り登らずといへども感応道交境智冥合なり、信心供養の智水ばかり通ぜざるよふ天月いつとても住居は転た変し給はず更々その水にばかり減満変化あり、随分心得有るべき事、根深ければ枝葉しげし源遠ければ流ながし、其方へ申し聞け候事には之無く当時初心不和新受浅識の者どもの兼知心得のため御講臨席の時々耳に触れさせ申すべき事、右は本師なる真師因師の御尊談に候を幼稚のむかし随従側座の節の事にて候、内に智恵の弟子あり外に信心の檀越あつて法燈相続あればこそ大事の仏法も広令流布なり、いかほど生死の長夜を照らす大燈明なりとも信心の弟子檀那の法油継続なければ光明或は絶へ或は薄し、是等皆信心供養の多少たるべきか、家裏に一日一夜も妙法口唱の音声絶ゆれば三世の仏々法味に飢へ悪魔破旬邪威を得る等、右の事々努々軽卒に心得べからず候事、本山廿六代寛上師は別して斯様に当門に細密に僧侶へ聴文に備へ候僧は有まじく、自讃には似たれども其方への如く数年の書翰にひとつ事ばかり繰返し巻復し申し遺る様も有べく候、全く左様に御座候事誰文には聴文の耳口なく尚更当門法度かた相応と存慮せしめ申遣はし、今度現当両世勤行の逐一聞損じ候てはいつの世にか程も知らず、其方は用の日如と心得候へば二つはなけれど余子は未だ心得ず随分予がかはりに申し聞くべき事。
仏聖像御奉公を懈怠せざるを所作仏事未曾暫廃といふぞ御本尊聞かせこれを●近而不見の者の今の世間に多し或は口にいへとへ心に観ぜず或は心に存ずれども身業の所作に至らずいづれ三業不相応に聞へ候、三業相応とは口に本因修行、意に観念観法の業、身には合掌散華捧水揚香の業、身口の二業は色身有相の成仏、意業は心法の成仏、仍ては色相の成仏即意業心法成仏の指南により心法成仏即身相が仏なり、色即心の成仏、即身は色の成仏、即心は心法の成仏、ここを以て即身成仏といふ速成就仏身「色の成仏、心の成仏」心即色の成仏頓で色即心の成仏、色心不二成仏は是なり、臨終の時の容儀色相身体の成仏を以て心法の成仏をあらはす当体義抄に云く能居所居身土色心倶体「意業」倶用「身口、平常所作仏事」無作の三身当体の蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり南無妙法蓮華経、毎度も此法門数度書き遣はし候つる其方へ随分聞に入れ候へども当門初心の方々え。
一、水を捧げ奉る事、久遠元初の法水末法流布、尤御代々●瓶の御法水絶えず洩れずして御繁栄、又は謗法の濁を洗滌してし信心清凉の信水等、身体は変化あれども心法魂魄三世に変らず魂魄の大清気は未明の井水にある等、此身体の変化即心法の不変になるは御当家、余家は一も知らず儒道も神道も身体は身体、心法は心法所隔二(而)二なり二(而)二不二は当門に限り候と覚ゆべし毎度申入るる事に候、昨夜も自我偈弐百返不眠にて今朝出帆にせかれ早々認め候乱筆容赦一見の後火中、御仏供の事にて図らず筆を尽し候。
一、今般味噌ちかい先々遣はされ候塩噌は十五年在島中の滋味匁々賞味候、東家より参り候と存ぜられ候味噌宜しく候へば身上繁栄候と諺に申し候金持に成られ候か。
一、御尊像の御事、八幡の小庵に於て余り委悉申聞け候ばかり、猶裁判評定一箇一条となく当浜に処るべく候へども尅つて教訓せざるは未来万世に陟つての罪障となるか。
   (安政八)臘月廿一日              観生在り判。
    事光主え。
四、覚林坊謫居よりの状の二   同じく洞の口に在り、初の分は文句に依れば全く事光堂の了助に宛てたる如けれども、完結の宛名なき所に、次の「法花文句科解の事」より終り「要唱堂観希」に宛てたる分を連接したるにやとも思はる、但し此状の寛政元年頃即ち在島廿五年目には根組に在りし要唱堂利喜蔵も生計の方便にて一時仙台方面に上り了助講中と合体したる事ありしか、文意全く島外の人々に宛てたるものなればなり、さるにても初には全く了助に宛てたる如くして其宛名も記せずして、次には全く利喜蔵の観希にと明に記名すること如何にやと思ふ、土地遠隔殊に覚林坊の義之様の走筆を自在に読了し得る知己の者もあらざれば且らく不審を残しをく。
万吉帰宅遅しと待請け候処、五日午時故障無く着岸返書披見全く面謁の如く大慶に候、霜凄の頃と●も先づ以て御堂場御常住御利益広大有り難く候、其方始め同行中異躰同心に信行の旨承知なり歓喜少からず候、随て当島静然野生堅身勤行候間安意たるべく候。一、研師に知音之無き旨申越され候先々急ぎ申さぬ事御仏意御感応時節を相待つべきか、固より高金の入り候品にても之無く凶民扶助のため毒鼓結縁の一筋有縁無縁御内証に同一帰入九界即仏界の御利益に預り奉りたく追ては御堂場御法燈相続の一助と念願の事に候間時節を待受け申すべく候、仮令当年罪障の大難に逢ひ候へばこそ少分も遣し申し候、左無き事には来春其方渡海の上に心がけ置き候仏事御用の品物残り無く相渡し申すべくと損し存じ居り候、微少にても金銀成り候はば御仏供料壱弐俵捧げ奉る田畑相求め置き候はば後世には出家の一人も坐主にもと心慮をめぐらし候、是等は其方え生涯の苦労に預り候間知恩の一分且は其方と申し我等謗罪消滅惣じては洞の口同行中旧霊断迷開悟仏法増進現在信行の面々には信心倍増のため重て願くは我等俗家先祖代々の多霊出離生死の追福の一分、我等臨終の後は誰れか予が祖先の霊等の年忌月忌命日を訪ふべきと偏に愚昧の一慮より打捨て候とて去る事には先々控へ置くべく候、当時万物交易高値相互存知居ながら企て候事無益の段其方至誠の世話を以て弐切の繰合せ憐愍にて当急困苦は消除残て壱両之有り候へば満足に借用金返済仕り候、是は松之助万吉商上段に候へば壱切充供養仕り候筈左様候へば弐切位は如何様にも工夫仕るべく候、必ず必ず少しも辛苦致され四切は還て信行の故障に罷成り候へば我等観心の故障に罷成り候、今般の弐切も供養に預るべしとは努め努め存慮致居らず候、此方にて借用致し候はば出来致さざる事も有るまじく併し現在其方存命中は隠顕善悪共に申し遺して調達致さぬ時はと一通りは申越し候、当年は御宝蔵様御普請にて多々の物入りも之有り此方より寸志の御供養も奉上せぬ事不覚の専一還て不法の無心にて其方は一心を労はし候事予が罪障今更恥入り候事許容に預り申すべく候、拾切と申し候は七切返済金、三分は衣衾調へたく是も道覚信士虚峯よりの供養を以て寒冷を凌ぎ候へば宜しく候、平服薄衣夜勤誦経巻舒讃歎凡身覚束無く候所、原町の信者たる壱人よりの覚林が寒事を憐れみ尚紙衣の贈物にて昼夜不断乍ら皆夏日の如き炎熱当庵は狭小の矮屋と●も南面にして陽光朝中夕相受け行往坐臥寒冷の気色之無く候有り難き事に候、諸天昼夜影の形に随ふ如く寒中には暑気の御利益誠に心肝に銘じて有難く、嚢中大虚の如く一銭の貯之無く候へども不自由と存じ候事曽て以て之無く候、当身堅固眼耳□□身意鉄石の如く一心魂魄金剛の如く以諸神通力云云、大聖法主廿六代の寛上師の御仏齢に任せ奉り候へば十弐三歳も延寿仕るべく候、左様現在に候へば其方我等両人共に大概心願満足開山上師の尊年に任せ奉り候時は向年三十年に候、予仏意天道を勘へ候に予も其方も八拾才は在娑婆と勘考候、我等帰参満願は久修業所得の大事並人平者の容易の帰参とは心得べからず、仏命遅き事予が心中の観念に之を見え候此事疾に申入たく候へども凡夫の耳根え触れ候事御仏意恐多く候間是まで相控へ候、臨終用意の事は多年の行功にと聖人大法主の御金文寛上師も御当家秘伝の御書記に臨終用心抄と遺典之有り候、死生の内生は現前の光陰貴賤無二日夜の用意、死は要意致さぬ事に候、当門生死大事の家に生れ出で万一即刻頭の死莚に及び見聞の人の冷笑平日の覚悟無き批評も拠無き故に候、生の今日は誰も知る死の幾くを計るに付けてこそ当家只我一人の御大事も他宗の曽て到らざる久遠より第三末法までの仏事の大秘、御本山唯仏与仏の御内証御壱人に限るの一大事あり々々、有難くも末葉となりて此上の歓喜有るべきやそれもなんぞ六つかしき教訓もやある、一代八万宝蔵十二部経も入らず外典三千余巻も六経十三経二十一史も入らず只知らず斗らずの五字七字の首題信心強盛に唱へ奉れば主師御親修の御内証に協ひ奉り現当両世の大願成就する事匁々如何なる前生宿福深幸の各や我等かなと有難し、しかるに此等の甚深希有をば余所外の事の様に意得今日の名利に奔走する事斗り我等を始め短世の光陰を千万亀鶴の思惟をめぐらし貪欲愚癡斗りに昼夜は送り知恩報恩の大事は忘却候、皆人覚知之有るべく候へども或は教諭のため費に筆事を頼み候。                             一、御登山の事、其方え頼み候事甚料簡有る儀に候余人にては成り難し併し来八月まで観念、右は洞の口御堂場大事、我等阿闍梨号坊号未来本尊の御願も壱通り御座候、御堂場庵号も内々御願ひ幾万劫に一寺精舎にも御仏意斗り難く、是等逐一余人にては成り難き筋尤其外大切成る要件申付くる事に候へば此の儀は其方に限り候、万一仏意を以て来秋は帰参願ひ成就候へば同道にて願ひ奉る事に候是とても治定し難く候来春に罷成り一天の伺ひ奉る上の事に候、金子五十切調達相成らず候ては其願ひ済み難く候へども八月までは我等方にて懐金調のへ申すべく候、固より其方余同行中施を受け候事には生死の大事御本山え申上げ奉る事に之無く候、余事の金銀とは違ひ事相成り候はば完嶽御学頭御方丈に坐主成らせられ候て其節願上げ申したく候。
一、未登山輩は老少によらず随分取立候て年々に御登山の願望成就はたせ申すべき事登山の面々より其方の功徳広大に候、自他の外聞洞の口了助講中の余慶我則歓喜諸仏亦然は余事にあらず南無妙法蓮華経。
一、御本山え差上げ候風波の渡り幾日がかりもさ候へば彼此物入り島へ渡り候金銭を以て少しも余慶に役立たす候事、何人登山とても島へは渡海は無用に候只書通を以て申入らるべく候。
一、法苑文句科解の事、是は談所にては文句聴聞所化の外入らざる事に候、此外科註と申す御座候、併し此科註など申すは末の抄に御座候学者は多く須ひず、談所学の本意は大元台門法花教観本迹の学問の外には之無く法花経廿八品六万九千三百八拾四字理の一念三千己心中に収めよと学ぶは止観の修学、首題の妙法蓮華経の五字を名体宗用教の五重玄に属するは是則玄義の修学、六万九千余の文字一々文々句々委細丁寧に修学するを文句の所化の学問と申し候へば法花経の根元大科段は文句十巻天台大師又末抄釈籤(疏記)十巻にて割出し候大科細科どもに候、其末抄は叡山証真の真記身延山日遠の随聞或は●釈考拾記崇抄先は是等を以て大小二科を判断分釈候、科解科註は随分初心の小僧の所見と覚えられ候へども先は文句巳上の翫と申しちらし候、台宗の学者科解位は平常戯れ咄に諳んじ申さず候へば法花経の家の恥辱に罷成る事に候、身延山日遠作の文段経に付ての抄に候右様は承り候へども中々我等如き分明には存ぜず先以て談所勤学の節に博識多聞の旁々の御咄に候、都て当経科段の伝は皆知るは本迹両門に経に候序正流通の三段因縁約教本迹観心の四釈又来意釈名入文判釈の釈、世界為人対治第一義等法譬縁の三周上中下の三根等句々の下通結抄名品々之内咸具体等と云云、是等は六つかしき事の様に候へども脱益一遍の沙汰に候、下種文底の眼目を以て見る時は去年の暦の如く入らぬ事に候、只今此は台門十五年昼夜眼目をつぶし身意を研ぎ候事残念観心の唱題一遍に御座候、度々申入れ候通り大聖人の金言の如く比叡山の証真源平八島の戦を知らずとや経蔵に入り十二年十六遍一切経を巻舒讃歎候へども予が一遍には如かずと仰せられ候も有難く候、談所にて寛師三大部御講釈の御記草鶏記、啓師の御記等にならひ予見聞の筆記二拾五巻昼夜を分たず修学候て編集候、今にも小僧達時々は電覧笑草とするよし先年完元渡海の節物語り候、斯様流罪となることを存じ候へば左は骨を折らざる事に匁々口悪しく候、是等は序乍ら紙の費を知らず斗らず書き立て候、右直段事は好手候へば壱両半仕り候望人之無く此方より売りたき所存の時は壱切か強て壱切半に通用候、斬様の書物売買は江戸表に修学仲間寄合ひ仏書本屋と納得相談上にて相場を立て候もの只今時分の談林往復の所化ども中々能はざる事に候、江戸本屋は通油町丹波屋甚四郎に候、我等此方え参らざる時分の仲間相場法花大意科解科註啓運抄は壱両半古本は三切位只今比は有書無見に候へば万物書籍は殊の外安く下り候、只神抄当世流行の徂徠が徒の書物ばかり高値に候弁名新刻蒙求論語徴学則等の類都にて小冊に高値に候時勢を聞候事、併し科解不足物如何様にて見当り候や法花持経の家にはほしき事に候其方申す如く荘厳にもよろしく壮頚の他観も具し候、又後世出家の庵主成り候ても修務にもよろしく壱切半位に求めたき事に候、当時不自由の処春まで相待申し候はば此方より金子遣すべく候、先は余所へ抔申さざる様専一、日浄寺へは久四郎を頼む事に有るべく中々南宮の如き博学と●も科解の智恵は無き事に候か、しかし国には類無き学(者)に罷成り候、有難き事は一党の信者学人皆博識高才のよし段々承り候、俗学広大も仏法繁栄是も広宣流布に候、我等学問など悉く災ひよふに咄し候も聞き得候尤成る事少々勤学候も多年海風をいとはば今は砂石とばかり変化候、和談にても致し老後稽古遅くは候へども朝に道を聞いて夕に死すとも可なり云云、一は随身修行仕りたくしかし知らず斗らず御当門の御教訓に任せ奉り候時は予が学道も沢山には存知候はん。
一、大智度論の事、竜樹菩薩の御製都て存知の手前には有るべく候へども経論釈書は仏の説を経といひ菩薩の説を論といひ大師の説を釈といひ凡師の著述を書といふ、其方は存の上へ申すもはづかしく候へども初心の面々へ御教訓然るべく候比御論は仏道の大部外に法苑玉林とて大部御座候、匁々当国に珍しき事に候成程先年牢居の節蘆幸七弟子の内壱人幸蔵と申す人同牢博学の人に種々儒仏神の物語り候折節大論はなし候所竜鳳寺経蔵に之有り候を去年中無心候て電覧の由外に有まじきとのはなし尤も右本は上古は五両位中古は四両位我等勤談の節は売買候へども、迷惑に談所も讃岐大樹寺慈観慈雲両人の外拝見候学僧も之無く、師範真師三人の外御見も万人の勤学に之無く候凡見輙く及び難き事に候、我等書籍出入役を勤め候へば折々のぞき申し候、併し斬様の書物は見る人之無く候へば先は遠ふきのみ申す様成る事候へば此方より売りたく咄し候へば殊の外に安き事に候、如何程安く候へども弐両位に相場立て置き申し候、三切半位ならば弐切遣も候へば跡金壱切半に出る事候はば求むべく候、都て書物は信謗によらず調のへたき事に候金子を動ざる物に候へば人ごとに口に申し候へども成らざる物に候、我等は書物てとう成る事も夥しき書籍国に捨置き申し候、談所にも真師我等師弟広大の書物皆人の宝物に致し候、不思議の大部候ても御仏意見難く候様に候へども文字読の百遍義理自ら得候へば段々見候へば後には弁明成り候事に候、多は是脱益の書と申すにても見当は御付成さるべく候惣じて脱益の書儒典文面は難字にて中々初心の学業難解に見へ候とも、本種の学者は久遠の大事を観念候へば文面は難思文底は易く、御当家の書記の有難き事は文面は随分易く文底難く又勘考候に補処の弥勒の智力だに知らざる文底の大事なれば尤なり、仏若不説弥勒尚闇何況下地何況凡夫、斬様の家の各々我等なれば必ず如何様の書にても第一脱益の抄浅き凡々の仏書なれば見識は儒抄なれ随分手柄にも難字文章重く其より外致し方之無く、文底は三世甚以て希有の学表難字に張り出し候も現在一旦雲晴れ天気応対饗応家の学日は、久遠第一より建長五年まで無量劫と申す内復倍上数と申して劫数年限無量無辺の月日の学問久修業の所得永劫の難字常々観心修行如何様の難抄候も第一番に見下し候て電覧すべき浅伝々々秘すべし々々々々、外珠林と申す書に候へば大部は入らざる物に候、大論珠林は仏書学識のほしき書に候匁々不思議なる事求不求の事不求自得是なり、二乗の断惑証理五十二位の階級六即歴位皆悉く発明自然の大論に追々伝与致すべく候先は御求め候様頼み入り候、法花科註は当阿長浜には候へども山伏大事の書と存じ候てはなし申さず候、是よりは法花経文段経啓運抄これは和泉屋勘左衛門方に八幡堂かの方に都て台当の両家の書物御代々の折御本尊壱長持之有り候、珠林と右を本屋見かけ専一に候珠林大論は容易には之無き事に候、先は大部書一通りは御堂場に納むべく候御仏意を願ひ成さるべく候、啓蒙も当詰に来春正月箱調ひ候へば極内々にて御奉納申上ぐべくと兼て信敬候、是も沙汰中紛乱に三安医者盗み置き候今程は大富者の内もとより悋惜者に候へば返済仕るまじく候、三巻不足候三巻不足にても苦しからぬ事に候、島に渡りて一度も電覧仕らず候殊の外煤け候間何卒片時もはやく遣申したく候、此抄見候時は儒仏神三道は光明破闇の弁自ら備はり候来年は緩々熟見候て其心を慰むべく候、匁々不図無益の長文いそがしく認め候へば文章前後齟齬も多く尚万縷後声の時を期し候、不具。
   (寛政元年頃か)霜月七日               生在り判。
   要唱堂観希え。
専之助方え書認め置き失念、松之助え念入頼み遣し候間如才有るまじく候へども。
伝助え別帋と存じ候へども慮外ながら頼入り候ほうてふ代弐百文毎度厚情の段よろしく。
三五郎久五郎、別帋遣したく候へども紙これきりに候間後音に謝礼差上げ申し居るべく候。
先々以て繰合せて候此方首尾万事相調ひ身心安楽に候偏に御助力の事と歓喜身に余り候、中ん就く三五郎事は久五郎手前までを立替えくれ候心底忝なき殊に候、尚近々謝礼申居るべく急使早々と端書を以て御申聞かせ下さるべく候。
                         此日   生在り判。
  三五郎久五郎両人え。
編者云く前半了助宛と見るべき文中について解説をしく。
洞口同行中とあり、又当年は御宝蔵御普請にて多々の物入等とあり、此れ即ち後の文化御沙汰の中に出づる倉庫の中に仏間を作りたる事なるべしと思へども、或は御本山御宝蔵の事ならんか。
道覚信士虚峰より供養、又原の町の信者なる一人の何れもの人名末詳なり。
御本山登山の事其方へ頼みの事洞口御堂場大事及び我等阿闍梨号坊号未来本尊の願も云々とあり、長年に至るまで此程の法難の辛苦もあるに如上の恩命を受け居らぬは師と頼む真師も因師も法難四年の内に遷化せられ十年ならずして法難救護に来りし事ある穏師も遷化せられたる等の為に等閑に附せられし不幸なりしか。
完嶽御学頭等とは、要行院任師にして天明六年に学寮に入られ五年を過ぎて寛政三年七月に大坊に晋山せられたるが、覚林坊も亦同年四月に赦免にて任師御代替りに登山せり、日如は磐城の日任は岩代の出身にて外に黙契する所ありしものかの文意あり。
登山せざる者を勧めて登山せしめよ、其功徳は登山者に勝る、島に渡りて予を見舞ふ金銭を以て御登山の費用に補へ等の訓辞あり誠に有難き志かな。
後半観希の利喜蔵等に宛てたる中には。
法苑珠林、法華文句同科解、大智度論等の指導あり、日如の在家の門弟には文字ある者多く信行の当面は勿論の事、余乗にも亘らせたるものと見へ便に乗じて此方面までの指導中々の事にあらず、信士の中にも文通にては満足せず熊と渡海して終日終夜聴聞の耳をそば立てたであらう、加之必要の仏書は成るべく購ひ置きて道場の後住僧の修学の科となし、又自らの研鑽にも供せんとの文もあり。
中々南宮の如き博学○国には類無き学に○一党の信者学人皆博識高才のよし○俗学広大も○広宣流布に候とは、多分南宮出身の相師の壮年時代の風聞を書きしものか、今何等の文献の徴すべき無きも加川家一門には有識の信者多かりしと見ゆ。談所にて寛師○草鶏記○にならひ予見聞の筆記二十五巻○編集候とは、今其残本をも見る能はず本師細談に於ける階級も判明せざれども廿七歳にて下仙せし事なれば文句部に近ツかれし事と思はる。
沙汰中三安医者を盗み置き候とは、明和二年の御評定中八幡東有堂内にての出来事なり。
三五郎は縁起の中にある洞の口の信者か、久五郎其他の人々の事末詳なり。
五、覚林坊赦免後の文献  遺憾ながら官辺の文献は存在せず、巳下三通は昭和四年四月長渡浜阿部吉次を訪ひたる時、熊と深夜を冒して里余の山越を為して将来し示されたる各文献の中のなり。尚吉次氏は利喜蔵の後裔なり。
 其一、妙教寺より長渡浜庄屋に日如請取の状  正本なり、大守御官位の御赦とは八 代斉村寛政二年封を襲ぎ従四位以下に叙し左近衛少将兼陸奥守に任ぜられたる祝賀に て赦罪の恩典にあづかりし為なり。
(上封)長渡肝入、善五郎殿、用事、柳目村、妙教寺(黒印)。
未だ貴意を得ず候へども其御地御堅勝に御座成され珍重の御事に存じ候、将又拙寺塔中覚林坊此度御大守様御官位の御赦に付き、流罪●に本所城下口に御免成し下され候に付き、拙寺弟子等にても指下し受取り申すべき儀に御座候所用事之有り遠方へ遣し置き候に付き、檀中の者相頼み遣し申し候間相渡され下さるべく候、其為紙札を以て申達し候、以上。
   (寛政三)五月十六日
 其二、妙教寺檀中より同状  正本なり、東陽坊とあるは事光堂縁起にある一寺建立の運動の為に日如柳目に在りし縁に依るものなり。
 一迫柳目村妙教寺、塔頭東陽坊、覚林。
一、右の僧此度流罪御免成し下され候、妙教寺直に罷越し受取申すべき処、外檀用御座候に付き檀中指遣し受取らせ申す処実正に御座候、仍て檀中受書手形此の如くに御座候、以上。
   寛政三年五月廿八日             妙教寺檀中、与七(黒印)。
肝入 伊惣兵衛殿。
 六、根組要声堂の譲り状  利喜蔵完立の直筆なり月日の記入無きも文化九年日如渡 島の後に二代完札に付属の状と見るべし。日如の寂年は其翌年文化十年十月廿四日洞 口にて遺骨は妙教寺に葬れり。
 記。
駿州富士山大石寺三拾一世日因上人三拾四世日真上人両弟子和合阿闍梨頂受坊覚林日如師他寂。
明和二年九月十四日当島え流罪。同年十月十三日万年苦(救)護のため根組両家の□(堂)□(場)御開基寛政三年四月廿二日流罪御免、其節我等御供申し上げ江戸小梅常泉寺□(え)□(到)□(着)、常泉寺御当住要順院日厳上人なり、日夜法行勤学仕り日如師に御供致し直に□(御)□(代)□(替り)虫払の節登山、御本山四拾世日任上人御代なり法式に勤学し、御開山御形影御本尊□□元帥堅師の御本尊を頂戴し、大杉山に参詣し日有師の御影頂戴す。寛師相師の御□(本)□(尊)日如師より頂戴す。
文化九年八月日如師島え御下り御道場再度の御開眼□□秘伝の巻物御書秘書御口伝授与成し下され日夜怠慢なく、五座三座の御勤め□□の通完齢に相伝、御本尊御道場残らず相譲り申し候、其身並に子孫末世まで□(怠)□(慢)無く相勤め申すべき物なり、誠に万年苦(救)護の妙法不思議の御道場なり、疑ひ無く信ずべし一心欲見仏□□の金言崇むべし恐るべし信ずべし、御堂譲状件の如し。
    月   日          要声主 完□(立)  後主 完□(齢)。 編者云く缺字は破失等の為なり推読して註を加へをく。
猶明治二十年十月十六日付の三代完要勝三郎より仏眼寺に主管せし佐藤慈要への状に「私共信心の初は喜惣右衛門利喜蔵にて明和五年二月より信心」とありて、今文の「明和二年十月十三日」と三年の相違あるが如し、或は時の情状より見て明和五年の方宜しきかと思ふ。
                                     七、浄順御沙汰記録 自筆なり洞口にあり、明和二年の法難は軽微なりしも文化の今度は六月二日より七月廿四日の仮り出牢より更に十一月十日より十二月二日まで押籠めにて忰甚六も十日計り同罪なりしなり、委曲文に在り冗長なるが如しと●も徳川幕府時代の微罪の構成犯罪者の意構を見るに足る。
(表紙)文化元歳甲子御沙汰記録、浄順一期の終難。
予日蓮宗信心の義は駿州富士大石寺の仏法にて明和二年御沙汰に及び候て御本尊仏具一字(具)召上げられ御改めの上御評定所え召出され邪法抔の風説相尋ねられ候へども、元来正法の宗旨に紛れ無く内信心には御構ひ無き事故文化元年まで四拾年来引続き相持ち居候所、行解既勤三障四魔競起の道理にや同年四月拝所東光寺より五人組頭を以て相尋られ候には日蓮宗信心に付き太鼓等打ち候事は如何様の訳に候や申し出づべき油断はられ候に付き、子細之有りて明和二年より引続き仏具と相心得只今まで打ち居り候段書き物にて指出し候処七月末まで何の沙汰も之無き所に、夫より段々甚六が初信心の者ども呼寄せ候て日蓮宗内信の義は天下一統御制禁ゆへ堅く相止め申すべしと再三申し渡され候へども、四十年来相持ち罷り在り候へば今更相止め難き事にて候と一同に申し候へば、然らば檀那寺の申す義相背くに於ては向々へ相達し候間其心懸け然るべしと書状を以て相廻し候、初太鼓巳来某方へは何の沙汰も之無く肝入方へ呼出され日蓮宗信心に付き東光寺より相達し候趣き、尤も其元道場抔相立て御講抔と申して大勢人寄いたし候事聞届け候様申され候に付き是まで其通り構はず指置き候へども、此度は村方よりも相達し候間信心相止め候て道場等相片付け申すべし其義相成らざる事にては信心初めより家作の次第御講其外人寄の次第一々書き物にて相出し候様申され候に付き、初よりの次第指出し申し候、委細は別帋に之有り、其頃より懸合に候へば自分に太鼓も相止め御講抔も相止め罷在り候て御上より相止められるには之無く候へども是等は信心より外の義に候へば土蔵拝殿相下げ候上は又以前の通り太鼓を打ち御講抔も詮無き事と今は相止め申す事に候、兎や角申す内に御大会に罷成り例年の通り異口同音の御供養申上げ候、夫より十一月廿日東光寺より達書相出し候に付き肝入方よりも同日に相達し候趣きに候、大肝入御代官の僉議は十二月廿日前後と覚え候、塩釜会所へ呼出され候へども外に申上ぐべき事之無く書き物の通り相違無く口書相出し罷帰り申し候、其翌日廿一日と覚え候御小人弐人大肝入方へ参り僉議之有り騒動に及び大肝入病気相達し候へば仮大肝入佐蔵方にて相勤め申し候、彼是と申す内押詰り候へば翌年(文化二年)二月まで沙汰無く罷在り候所同月七日御会所へ呼出され早速祈念所相頽し候様大肝入手代ども四五人居候て色々申し含め候へども承知成り難き事にて、直に御郡奉行方へ相登せらるる筈に候所其夜四つ過に相成り肝入方の預りに相成り候て内へ罷帰り、翌日は五人組頭組合中肝入方へ寄合申含められ候へども承知成り兼ね候に付き又以て口書相出すべしと申され異義無く経文杯相引き候て指出し申し候、初より書き物是まで七枚相出し申し候委細は別帋に之有る間相記し申さず、夫より田植過に相成り五月廿九日には御郡奉行石川伝吉と申す人の指帋にて国分町菊地屋平三郎方へ町宿に居候て、六月二日に石川の宅へ召出され御僉議に相懸り申し候村役人御代官等の申含めも用ひず甚不届の次第百姓躰に似ず道場等相立置き候段大に呵を受け早速取頽し候様申渡され候、兼ねて御郡方にては相分り申すまじき義と存じ是非に御評定に相出で申すべき覚悟にて承知成りかね候段申上げ候へば直に御牢舎と相成り七月廿四日まで一向召出しも之無く、初には新二と申す悪しき牢え召籠められ莚七枚敷へ拾五人居り候て某は新入故雪隠の側に居り候て、先牢脇番走り番其外の者どもに一々に礼儀を述べ候へは沙汰の様子問はれ候間大方相咄し候、覚内と申す者走り番にて弁口よく長大に大疱貌山伏抔の様にて大音にて申すには新入の衆は御牢内の格式等之有る事にて定めて覚悟之有るべく候間延引無く相咄すべきの由申すに付き、某儀は努努此所へ参るべしとは存じ申さず候間覚悟と申すは更に之無き事と申し候へば、左様の事にては相分り申さず付人にても之無きやと申すに付き、付人は跡より参り候町宿の指図にて書立を以て相調へ参り候様に相聞え申し候間押付け参るべしと申し候へば小遣等は是非相入り候様申越すべしと申して一義相済み候間、夫より夕飯の御賄ひに相成り申し候空腹故に御賄不足の様に給べ申し候、夫より七つ過ぎ暮れ方まで思ひ思ひの勤めに騒がしく某抔も法華の勤気遣無く致すべしと申され候へども臭穢絶(堪)忍びがたく余り勿躰無く候間表へ顕さず心中にての修行致し居り候平常口鼻を覆ひ塞ぎ居申し候、二三日過ぎ候て通し相入り候へば何れも悦び申す事に候間もなき中に三度振舞ひ相済み候へば誠に地獄の沙汰も銭金と申し乍ら牢大将申すには押付け牢替も之有るべく候間、其時は某同席致すべき間夫まで忍ばるべし然し朝夕の勤は我等と同席にて致すべしと申され候近頃忝き次第と申して朝夕の勤の節は先牢と並び居候て勤いたし居り申し候、一向牢替の沙汰も之無く待居り候狭く闇き所にて蚤虱蚊沢山にて悉く難儀に及び候。
三日(六月)晩には大地震いたし候間心中にて有り難く罷在り弥増信心いたし候処六月も末に相成り候へども一度も呼出しも之無く修行計りの力にて暮し居り候所、同月廿四日昼過ぎより雷雨にて夥だしく降り申し候雷電鳴り渡り牢中へ響き渡り候て寔に人々恐れ奉り蹲踞り居申し候近年に覚え申さぬ事にて不思議成る事に咄し合ひ其夜は臥し申し候、翌朝定付者ども申し候は昨日の雷火にて御城中残らず焼失いたし候と相咄され牢中の者ども奇異の思をなし様々評判にて候、某も心中にて三宝の御報恩申上げ観念仕り候処日本紀等にも忽に雷火災を動し大殿諸宮残り無く疫気弥盛にして死者多しと、仏は大慈大悲にして罪業を怒ること無しと●も人有るとき讎を為し罪を為る則は護法の神天之を罰する業縁なりと、某身不肖たりと●も法華経を持ち奉る御利益にて金剛身を得たれば如何様の罪科に相行はれ候とも苦しからざる念力にて凶年よりは別して仏法繁栄広宣流布を念じ、近年に至っては当君御幼歳故に御武運長久国家安全にて本因妙の題目広令流布大願成就と余念無く祈念し奉る事にて外に願望は之無く、朝夕修行の場所取頽し申すべき御上の御意と仰せ付けられ候へども承知相成りがたき故斯様の獄屋え押籠られ候て朝夕の勤行も懈怠に及び候と口惜き次第と存じ候へども、詮方無き過去の罪障深重の故にかゝる苦痛に逢ふ事よと明らめ居候事にて只心中に奇代(態)不思議と存じ表へ顕さず候へども、不図一言法花の行者をかかる獄屋へ押籠め候て苦痛致させ候故に不思議の事も之有るべし法花経を拝見候へば知れ申すべしと空言の様に相咄し申し候、何れも無言にて如何とも申さず候、同牢十五人の中に遠藤三右衛門と申す者只壱人空言とも思はず候や段々近付き法花の次第尋ね候間大方に申し聞せ候所信心致したき旨申すに付き、余念無く只一筋に御題目を唱へ日天子を拝み上ぐべしと申し候へば夫より朝夕勤め居り候、極熱の頃故に牢替にても致したしと咄し居候処。
七月朔日に相成り早朝にて臥し居て起ざる者も之有る時に鍵の音聞へ候へば何事にて候やと臥したる者どもを起し待居り候処、今日より御●替と申さる扨て扨て閙しき事言ふ計り無く久しく居候者色々諸道具も之有る事にて取仕舞ひ埓明き申さず漸く相片付き何にても残さず一字持参申し候、六中と申す揚り屋の前え莚を敷き此所へ諸道具指置き候て其身は丸裸にて牢内に入れられ改め過ぎまで待居り候て一字受取り候躰騒しき事に候、夫より座席次第割合を以て相済み此日より先牢同席に致され候、此牢は湯殿四方一間雪隠も四方壱間にて壁にて仕切り臭みも之無く宜しき座敷畳八畳敷外弐間縁がわ(側)有り流しの外に三人斗り居候ても宜しく表は開きたる所にて明るく候、右の所割合候て転し持前の所へ諸道具等相片付け候て御賄ひに相成申し候、朝夕の勤めも心能く候て日中は壱万遍充の修行致居候、盆前には呼び出し之有るべしと待居り候へども一向に之無く盆中の規式も相過ぎ最早七月も末に成り候へども何の沙汰も之無く、七月廿四日は平常休日にて呼出等之無き故髪も結ばず飯後即臥し居候処了助御呼出と申され、又長五郎と呼ばれ候此者は米岡の百姓にて旧冬より相入り候て初めての御呼出しに候、存じも寄らざる御呼出しにて牢内閙がしく衣装も著替申さず相出申し候、米岡の百姓四人某と五人本のごとく石川の宅へ出づべしと存じ候処外記町の屋敷へ参り候間門前にて付人御足軽に承り候処、石川伝吉様は御役替に成り先頃江戸へ相登り跡役には高成田要七様にて此人は是まで拾箇年来御記録相勤られ候所跡役御郡奉行に成られ候由相咄され不思議の事と思ひ乍ら御屋敷へ相入り中間部屋に暫く待居り候処、四人の者ども壱人づつ呼出され次には両人づつ相出で候て弐度目には縄免さ候、此者どもの咄にも今度の御問ひ方格別御丁寧の事にて口上申上ぐるに宜く定て貴方にも御免之有るべきかと様子見届たしと暫く待居り候へども呼出し間遠にて付人足軽に引立てられ町宿に相送られ候夫より某呼出しにて相出で候処甚六添人了助かと沙汰の次第一々申し上ぐべしと申され候間前々書き物を以て申上げ候通り外に申上ぐべき様御座無く尤老躰にて前後失念等も御座候由申上げ候へば、我等初めての事故初めより荒増を申上げ聞かせ候様仰せられ候に付き、明和二年の沙汰の次第荒々申上げ東光寺より信心相止め申すべしと再応申渡され候へども信者ども承知仕らざる趣き、村肝入方より百姓地に似ざる家作道場等立置き候に付き東光寺より聞届け候様申付肝入方へ呼ばれ候て信心相止め道場相片付け叶はざる義に候はば一々の次第書き物にて指出し申すべき由申され候に付き、異儀無く書き物等相出し候義申上げ候へば、成る程其方申上げ候義尤に聞へ候然し道場と申すは居家より何程相隔て立置き候と御尋ね故壱間少余相隔り候由申上げ候、其方申上げ候通り新寺道場にも之無く朝夕勤行所にて持仏堂同様に心得候段尤に聞へ候へども此節広大に相聞へ少しにても居り家離れ候ては末々ともに遠国他国の者参詣等之有り候ては騒動の基に相成るべく候間本尊仏壇等居宅に引移し候ては如何に候と仰せられ候へども、答も申上げず無言に居候へば、日蓮宗邪法にては之無く正法成る故宗旨相立置かれ候内信心の義は御構ひ無き事故居家へ引移し信心申すべし尤其方心願も之有る様に聞へ身の為にも之無く国家のため一切衆生の為の故と候へば大を小に致す斗りにて信心の妨には成るまじく其方念力次第時節至らば心願も成就致すべき間工夫いたし申上ぐべし、右相背き候ては又以て御牢舎いたし遠からず今一度も召出し表へ相廻し申すべき事に候へども其間も老躰の苦痛詮無き事と仰せられ先以て下って休息の上申上ぐべしと仰せ渡され候、此時無言にても叶はず何程工夫仕候ても外に申上ぐべき様御座無く候段申上げ候へば、暫く有て然らば御意通り承知仕る事かと仰せられ候間、詮方無くアヱと答へ候へば即縄相免され候、扨々余り残り多き躰にて相立ち申し候、夫より町宿まで足軽に送られ申し候、町宿に一宿もいたし内えも飛脚相立て利(剃)刀にてもいたし申すべきと宿の亭主相頼み候処、夫は安き事に候へども此方には何の用事之無し原町までもそろそろ参られ候ては如何と申され、余儀無く出立つ銭も之無く候へば手拭にても調のへ申すべき様之無く暑に照らされ寺小路通いたし候へば行き来の人足を止め見ざる者之無し誠に哀とも申す斗りなし、漸く原町へ参著候て元服衣装著替其日暮方に道場に参著致し候先以て内へ参り候ても家内其外何れも信心に退転も之無く堅固にて対面いたし悦び申し候、夫より仏前取移し間も之有るべくと存じ候間肝入方へは病気相達し延置き候て其間に大工相懸け造作いたし仏前取移し八月十三日には居家にて御膳上げ申し候、村方よりは土蔵下げ方余り延引に候間早速に引下げ申すべしと病気にて自力に成りかね候はば組合村方より手伝ひ申すべき由にて五人頭組頭一日の中には両三度充参り責申され候、御村方より手伝受け候事も拠ろ無く候間拙者方にて人相頼み四五日中には下げ方いたし御見分を得申すべく候間右の段肝入殿方えも通達下さるべく相頼み候て夫より下方いたし材木等取散らし置き候て見分願ひ候処、肝入参り候て此風にては御見分は成り申さず候間諸材木一字片付け置き土台石までも相片付け御見分得申すべしと申さる、又以て一両日相懸り漸く片付き候て八月末大肝入手代肝入組頭五人頭参り候て漸く見分相済み申し候、跡には木小屋相立て材木等片付け候て彼是致す内に九月末に相成り御大会も近詰り毎度なれば御花にて閙く候へども其支度も之無く気を痛め罷り在り候折節、御本山御隠居日相上人様九月廿日頃荒町え御著成し置かれ候と承り候、南宮へは廿三日比御出で成し置かるべき様子に相聞へ候へども御迎等に相出で候者も之無く御通の節表にて御目見仕り候処、明日登りがけに一寸立寄申すべしと御意遊ばされ候に付き万事取乱し置き候間取すべ漸く相片付け候て翌日待上げ奉り候処、昼過ぎに御出で成し下され候て沙汰の義御尋成し下され候間次第申し上げ候、未だ牢舎致居り候や如何様相片付き候も床しく相下り候処先以て首尾好き方にて対面致し目出度候と仰せらる、御勤御初め遊され御供には江戸より教好様御小僧大黒屋七兵衛仏眼寺小僧二人連経にて寿量品読誦成し下され候て城下表へ御出立成し置かれ候、廿六日には塩釜松島御見物に御下り松島御一宿にて廿七日晩方南宮へ御帰著成し置かれ夕飯後当場へ御入成し下さるべき由仰せ下され候間、御迎ひ指上げ御請待奉り候御仏前の御経相過ぎ候て日有様尊像拝し申すべしと御意成し下され候間蔵へ御供申上げ候、即寿量品読誦成し下され候上にて御面相よく御出来成され候と仰せらる誠に金口の御尊意肝に銘じ有り難く存じ奉り候、夫より夜半時分までの御説法にて誠に臨終近き頃に未曽有の御法門等居乍ら聴聞奉る事冥加至極、是までは過去の罪業深重の故に種々の心苦候へども此度は草露の恵日に消ゆる如く罪障消滅致すべしと有り難く観察奉り候。
此度の沙汰に付ても名聞名利にて御郡奉行の仰せらるる事相背き候はば獄屋の住居にて金口の明説も聴聞致さず其上当場へも御入り遊さるる事も有るべからず、其思ひもよらざる事にて不図室 (出)牢致し居り候へば某一人の身に有らず異躰同心の信行者女子童部までも唯我一人の尊顔を拝し奉る事偏に御仏意御感応の故と只今までの苦痛の義は忘れ果て弥増し信心倍増の心地に相成り申し候、我身の成仏即法界の成仏と仰せられ候へば自身の得道肝心にて別に教化弘通の念慮は之無く候願くは同志の信行者睡を覚し予が拙き行躰を見て嘲哢ふ事なかれ、其夜御法門も相過ぎ夜半斗に南宮へ御帰り遊ばされ候て翌日廿八日には城下へ御登り遊ばされ候、廿九日には仏眼寺にて御説法成し置かれ日浄寺其外信者どもの御請待も之有る様に聞へ彼是と申す内御大会に相成り三日の御説法にて老若男女群集を成し聴聞し奉る事前代稀成る事と信心の輩は弥よ信心倍増せり、正く御出立は廿七日(十月か)に相極り天気快晴にて御門送り人々大勢之有り誠に有難き事と恐敬奉り候。
夫より十月も相過ぎ候へど沙汰の落居も之無く候へば如何の咎め仰せ付けらるる事と今日か明日かと案事居り候処、十一月十日頃と覚え候大肝入方より仰せ渡され候事之有る間甚六了罷出づべくと組頭を以て申付けられ候、某に湿瘡にて歩行叶はずと申して甚六遣し申し候、大肝入書き物を以て申渡し候、村役人御代官等の申含も用ひざるのみならず御郡奉行宅にても申募り候義軽からず仍て両人共に押籠申し渡され候、日数事之無き故何時までかと存じ居候処十日目に甚六斗り免され某は居り候、十二月二日に御免の品渡され落居致し申し候。
次に入牢の節は思ひ寄り候て通し等数々相贈られ候へば牢中悦び候事にて某も心能く候て人にも敬まはれ候躰是等も偏に諸天三宝の御計ひにて了助を憐み給ふ事と存じ日々壱万遍修行の余を御報恩に備へ奉り候へば志の面々の功徳にも相成るべきかと他事無く候て外に謝礼申すべき様も之無き仕合にて候、御経には諸天昼夜常為法故而衛護之と御座候へば何事も御仏意に任せ奉るのみ予が一期の終り大難にて地獄の苦みも即仏果に至る道理にや無間地獄当位即妙と仰せ置かれ候事感心絶(堪)へ候儘覚ゆる所の苦覚の分記し置き候て未来の資糧にも致したくと修行の間に愚筆せしむる者なり。
  文化二乙丑六月仏生日
 八、了助より村役人等に提出せる状
長渡阿部吉次方にある了助の自筆に依る、此種の案文数通あれども其中の整備の物を採る、但し月日順は前の御沙汰中に挿入すべきものなれども其余地なければ且らく前後を咎むる事勿れ。
一、仰せ渡され候趣き承知奉り候、拙者儀本尊安置の仏前の義は前々口書に申上げ候通り凶年の筋心願御座候に付き造立仕り候、火難等の為め用心の土蔵を立置き候て朝夕勤行罷在り候所にて御法度の家作には之無く尤も講寄合所にも御座無く候、講寄合の義は集会に准ずると旧冬廿日御代官様より御僉議の節仰せ渡され候へば相止め罷り在り候。
右心願の義は御上様にて御尋成し下され候節は委細申上げ奉るべく候、御法度の家作にては御座無く候火難等の為用心の土蔵の中に立置き候条凶年よりは弐拾年来に罷成り、拙者義も老年六拾壱歳に罷成り独身にて是まで懈怠無く朝夕勤行仕り罷在り候へば修行斗りの力に御座候条、何卒御憐愍を以て宜しき様に成し下されたく存じ奉り候、仍て親類組頭五人組頭連署を以て願上げ奉り候、以上。
   (文化二)正月廿四日  岩切村百姓甚六添人、了助。
   同村 御百姓、甚六、同、親類、庄之助、同、五人組頭、久治、同、組頭 与惣治。
肝入、長太郎殿。

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