富士宗学要集第九巻

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第一章 日代日仙方便品読不の問答

 日仙上人の住所大石寺上蓮坊に重須の日代上人来りての方便品読不読の問答は、相互に勝利の記録あれども、此が為に日代上人は重須を擯出せられ日仙上人亦讃岐に徙るの悲境に陥れりと云ふ、今左に事件直後の史料となるべきものを羅列せん。
一、日満問答記録 略抄、全文は宗学要集第六巻問答部の一の一頁に在り。
建武元甲戌正月七日、駿州富士郡上野の郷大石寺日仙の坊に於いて方便品読不読の問答記録、問答は午の半時より未の半刻に至る、問者は讃岐阿闍梨日仙、答者は本門寺住日代、録者は佐渡阿闍梨日満。日仙問て云く〇、迹門の根本たる方便品を読めば悉皆迹門を読誦すると同き間、一向方便品は読むべからざるなり云々。
日代答へて云く〇、故に先聖より師に至るまで今に読まらせるるなり何ぞ高開両師の義に背いて読むべからずと云ふや。
日仙再び問ふて云はく答の義の如くんば迹門の方便品に於いて得道有りや。
日代再び答へて云はく迹門の方便品に就いて得益の有無を論ずるに与奪破の三義有り〇、再注文底に於いては得益無し真実の得益は寿量品の文底の本因妙に限るなり、先師より此法門聴聞せずして今生に疑惑を生ずるや。
日仙重ねて問ふて云はく得脱無くんば読むも詮なし如何。
日代重ねて答へて云はく読んで詮なくんば高開両師の読ませらるるは謬りか〇。
日仙閉口す、〇。
右問答聴聞衆檀二十余人に及ぶ、此等の諸人等日代を讃め奉り作礼敬座して去りぬ。
二、日●問答記録   略抄、全文は同上三頁に在り。
建武元年甲戌正月七日、重須の蔵人阿闍梨日代〇日善〇日助〇日仙の坊に来臨せり、大衆等多分他行なり居合せらるる人数伊賀阿〇宮内卿〇其外十余人なり。
時に日仙仰せに云はく日興上人入滅の後代々の申状に依って方便品は迹門たる間読むべからずと云々。〇日代問答口となり鎌倉方の如く迹門に得益ありと立てらる云々。
日仙は一向に迹門方便品読むべからずと云々、是亦天目日弁の義と同辺なり。
然して当日の法門は日仙勝たれ申すなり〇 重須大衆皆同列して山より日代を擯出し奉り畢りぬ、末代存知の為め日●之を験るし畢りぬ。
三、日満抄   年代不明なれども日代擯出直後の書なり、阿仏日満は代師へ満腔の同情を棒げたり、今大学民部阿闍梨
 日盛延文四年の古写本より抄録す、正本大石寺に在り、尚日宗々学全集興門集四〇〇頁に具文在り。〇先師の御素意蓋し以て斯の如し、但し此門流の中に於いて迹門の方便品を読みて本迹共に得益ありと云々或はまた得益無きに依って一向に読むべからずと云々、共に以て如来の本意に迷ひて先師の御配立に背ける者なり。問うて云はく此義云何が意得べきや。
答へて云はく方便品を読むに付いて施開廃の三義之有り何ぞ固く迷はんや、〇。
四、日尊実録 祖滅五十八年住本寺日大の記、古写本京都要法寺に在り、今其要点を抄録す、尚日蓮宗々学全書興門集四一三頁に全文在り。
〇一、河合の人々「日善日代日助」の義に云はく方便品に読むべき方と読むべからざる辺と之有り、先づ一往は所破の為に之を読むと云々、次に再往内証の実義は読むべきなり、其故は迹に即して本、本に即して迹と天台釈し給へり、故に本に即して迹なるが故に迹門とはいへども本なる理ある故に読むなりと云々、内証に所破と云ふ事之有るべからずと云々。
一、上野重須一同の義に云はく方便品は所破の為に読むなり、此品は譬へば敵方の訴状の如く寿量品は自分の陳状の如し、然れば先づ敵仁の申上ぐる訴状に捨つべき方此の如しと読み上げて次に寿量品は今家所立の元意当時弘通の至極と存じて読むなり、故に方便品は読んで即捨つるなり、方便品に得道ありとは宛も念仏無間等の如しと云々。
一、上蓮阿闍梨日仙「讃岐国の住摂津阿闍梨御房の御事也」云はく此事諸人の義皆非なり、読んで捨つるも直に捨つるも同じ事なり、爾れば一円に方便品をば読むまじきなり、捨つると云ひながら読み加ふる事は非なり処々の御書に曽て之を読むべからずと見えたり。
 私に云はく此は天目の一義の筋なり云々。
一、仰せに云はく「法印日尊」本迹の法門に於いては諸人皆大聖人の元意を知らず法門に重々ある事に迷惑するなり、本迹の二字の名目をとりつめて法に約し仏に約し機に約し在世に約し滅後に約し説の次第に約し弘通の次第に約する事等無尽なり、何の辺を以って此の如く諍論あるやらん不審千万なり、然りといへども予が存知を以って之を示さん云々、〇。
 編者曰く此下文義意及び三法妙を以って巧釈せられたりと雖も却って肝要を尽さざるやに見ゆるが、深智の士は具文を見らるべし。
五、慶俊問答記録   日●の記を慶俊の写したるなるべし、宗学要集第六巻問答部の一の五頁巳下に具文あり、今此を抄録す。日代云はく方便品の得益こそ本迹の功徳同じき故なり云々。
出雲坊妙性云はく本迹の不同は経文より起って解釈の結判明白なり〇、本門迹門の違目は水火天地なり、〇水火を弁へざる物と云々、功徳斉しと候は大謗法無間地獄の業極り無し云々。
日代云はく迹門は本門には劣りて候〇、開会しては〇功徳斉等と云々。
妙性責めて云はく〇、本門開会の後は迹門に其名字無からん上は何なる迹門あって本門と斉うして功徳を持つべけんや〇、又云はく上行の読む迹門は本門となるなり〇。
阿闍梨日道責めて云はく此の伝教大師の釈こそ迹門を所破の為に読むと云ふ心なれば、開会しぬれば失本名字なれば方便品に云ふとは云はれざるなり、〇迹門十四品に説いて候は皆本門の影なり、又云はく玄七迹が家の本迹は本迹共に迹なり本が家の本迹は本迹共に本なり、然れば方便品則寿量品なれば全く本門の功徳を具するなり、此道理を以って迹門を読むべし、〇。
六、日●上人類集記   祖滅六十七年貞和五年に相伝を類集せるもの正本保田妙本寺に在り今此を抄録す。
〇迹門は所破に読む事、文に云はく迹を借りて本を知ると云々、又下文顕れ巳れば通じて引用を得、或は還って教味を借りて以って妙円を顕はすと云へる心なり、〇迹門の十如実相と云ふも本門の影なるを迹門に在って本門に無しと思ふは誤の中の誤なり、文は他経に在って義は法華にありと云へる此心なり、迹門は邪教覆蔵未得道の経なれば之を破すと雖も彼の文を借るは本門を知るが為なり〇、本迹は不二にして暫くも離るる時無しなる事方々此事を悪く得意て迹門は破るべからずと誤りて云ふなり〇、本迹不二と云ふは躰内の迹の事なり躰外に説く所の迹は未得道の教にして仏因に非ずと破せらるゝなり、躰内躰外を知らざる人が本迹の違目には迷ふなり。
日助云はく「日代と同心」諸法実相の所に本迹無し故何んとなれば所謂諸法本末究竟等の故なり。日道答へて云はく本末究竟の道より垂るる所の諸法実相なり然らば本迹勝劣なり開迹顕本の心と云々。日助閉口返答無し、〇。
七、大石記   宗学要集問答宗史等部一五〇頁に具文あり、今此より抄録す。
日仙云はく「津阿闍梨百貫房」我は大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨堅く聴聞する故に迹門を捨つべし、爾れば方便品をば読みたくも無き由を申さるゝ時。
日代日善日助等之を教訓して法則修行然るべからざる由を強いて之を諌め天目「美濃阿闍梨」にも同じなんどと申しけるなり、此くの如く申すままに後には剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひ成して此義を後には募り給ふままに此法門は出来しけるなり。
日代云はく迹門は施迹の分には捨つべからずと云云、かかる時僧俗共に日代の法門謂れ無き由を申し合ふ、其時石川殿は諸芸に達したる人にして学匠成りしが、我さらば日道上人へ参って承はらん〇、此由を問ひ申す時、日道上人の仰せに云はく施開廃の三共に迹は捨てらるべしと、聴聞して之を感じ。彼の仁重須に帰って云はく面々皆学問未練の故に法門に迷い給ふ、所詮此後は下坊に参って修学し給へと申す、然るべしとて今の坊主宰相阿闍梨日恩其時は若僧にて是も学徒の内にて是へ通ひ給ふなり、さて其時日道上人は本迹の要文三帖を教へ給ふなり〇。
(一五三頁)又河合の坊主迹門無得道の落居は大石寺に於いて日代等の一辺と日仙の一義となり、下御房の御代官は日行上人の若僧にて御出あり、両義は前の如し、さて下の坊の御義は云何と尋ね申されけるに、仰せに云はく三義ありて方便品を読むなり但し問答の時は所破と云ふべし云々、其時日代三義は何にと問ひ申されければ、日仙中に取り所破の義だも立せば其までにてこそ有るべけれと募り給ひければ、弥よ日代の義は立せず、何にのたまひけれども理の推す故ならん、日仙につきくづされくづされし給ひけるなり、其時尾張阿闍梨二十計りの若輩にて、京野御法門は三義に相分れて候とて結判申して立たれけり。八、日●縁起   日向国妙円寺日穏が日●自筆の二十余帖の日記に依って編輯したるを文安六年日安之を書写し永正三年日会之を転写し天文五年妙本寺日我の奥書ある日安日会伝写の古本の中より抄録す。〇京都より上下十八人御供にて富士へ登山之有り、元弘三年癸酉十月より建武二乙亥二月御下向あり、駿州富士大石寺興師の御弟子摂津公上蓮坊阿闍梨日仙の坊室に入りて師弟と成りて法門始めて聴聞し給ふ。建武元年甲戌正月七日重須蔵人阿闍梨日代大輔阿闍梨日善大進公日助其外の大衆等、大石の日仙の坊に来り給ふ、其外の大衆は多分は他行なり伊賀阿闍梨師弟下の坊同宿宮内卿其外聴衆十余人なり、日興上人御入滅後も代々申状披露之有るべし、之に依って日仙の云はく迹門無得道なれば方便品は読むべからず、日代の云はく爾らず迹門に得益有り与奪傍正之有りと云々、日●案じて云はく日仙の迹門無得道なる故に方便品読むべからずと云ふも天目の義か、又日代五十六箇条の法門立てらると云へども高祖並に日興上人の正義に非ず之に依って日仙日代の義を信仰せず之を捨て給ひ、下の坊日道の御使として日●度々日代日仙にも教訓し給ふ〇。

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