富士宗学要集第九巻

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第四章 千葉

宝永三年の多部田落井両村の法難は強ちに自讃毀他的に政府の方針に触れて他宗と争論したる結果にあらざれば、法難の因由稍軽きやに見え殊に領主の圧制苛酷を見るに足る即ち四人の死罪七人の中追放百餘人の軽追放は罪少科多の甚しきものなれども、其当時こそ悲惨を歌はれたるも次第に郷党にも忘れられて福正寺畔の記念碑も苔蒸す計りか草莽に蔽はれて香華の手向けすら断へ果てたるを、近年の寺主が漸く世に出すに至りしもの、此の当時の記念塔の外に四通の関係文書西山本門寺に在るを今は福正寺の常什として本山より下附せられ一は四通一軸に装演せられ一は其央にあり、今左に之を掲ぐ、福正寺は西山末の大寺にして千葉市曽我野町今井にあり。
本文書等に依れば多部田村(千葉郡白井村)の名のみにて落井村(同郡椎名村)の名無けれども実地は隣接し殊に碑には明に両村の名ありて又四人の死罪の内二人づづ両村より出でたりとなり。
文書に出づる主要の人名は日意上人は西山本門寺廿一世、一道房は時の西山末なる江戸芝の上行寺の住持本因坊は同末伊豆国大見村地蔵堂上行院の住持日寿にして本件に直接奔走肝煎したる人、戸田土佐守は宇都宮の戸田家の支族忠章か但し分明ならざれども何れ小藩主と見ゆ其外の人名は格別の用無ければ不問に附す。又各通の中に見ゆる評定所を煩はせし永年の出入の事は大石文庫にも見ゆるが、此は宗義上の関係にはあらずして西山に近き山林を村民が伐採せるより起りて出入となり遂に三百余戸の離檀者を出すに至りし事件と聞く、此の災難が同時に本末に起りて西山にて世間出世間を兼ねての大難なりしなり。
猶本件の顛末に付いて罪科は極重にあらず領主代官の糺断は厳格ならず処刑は頗る苛酷なりし事明細に文書にあれば敢て編者の贅辞を加へざるなり。
上行寺一道坊状   多部田村より新檀七軒福正寺に移りたるに地頭に手続きせざりしとて閉門申し付られたる通申、及び本山出入対決評定所にて首尾能しとの事を本山西山貫主への状、外三通と一軸にして何れも正本福正寺に在り。尚々御機嫌能く恐悦に存じ奉り候心事跡より申し上ぐべく候。
御飛脚遣はされ候に付き御書並に御茶二袋頂戴仕り有り難く存じ奉り候、厳暑の趣に候へども御機嫌能く恐悦奉り候、爰元寺檀異儀無く拙僧無事相勤め申し候。
一、昨廿五日御評定所え雙方召出だされ三人と検使衆と対決御座候成就首尾能く御座候、委細は三人中より申し上げらるべく候御事。
一、下総福正寺へ当春多部田より七軒檀那参り候、然れども地頭戸田土佐守殿え願ひ仕らず候て、福正寺檀那に罷り成り候科により七軒閉門仰せ付けられ候、内壱軒子共相果て申し候に付き、右の死人取置き申したくと福正寺より願ひ候へども閉門の内は埒明き申さざるの由村方申し候に付き、段々願ひ候へども在所にて埒明き申さず候、之に依て去る十二日より福正寺も爰元へ罷り出で相談申し候、何とも仕るべき様之無く其分にも指置き難く候て土佐守殿え訴訟に福正寺出でられ候、拙僧も立添ひ罷り出で候て様々訴訟仕り候へども曽て以て承引無く、剰へ達て訴訟仕り候はば寺社奉行所へ断り公儀への御沙汰に仕るべくとの儀に御座候故、先づひかへ申し未だ相談究まらず候、本山の御出入に又候や福正寺出入に何とも取合ひ公訴の趣き然るべからずとも存じ奉り候へども夫共に相談仕るべく候、縦ひ無調法に罷り成り候とても是非無きとも存じ奉り候、委細福正寺より申し上げらるべく早々申し上げ候、恐惶敬白。
   (宝永三)五月廿六日              上行寺一道坊日□在り判。
   御本山日意御聖人様、御近習御披露。
福正寺状   福正寺より本山に多部田村件に付ての細状なり。
尚々申し上げ候時分柄暑気甚しく御座候弥御機嫌能く御座遊ばせられ候由恐れ乍ら大慶に存じ奉り候、以上。
御飛脚罷り帰り候に付き恐れ乍ら謹んで啓上奉り候、先以て先頃は御尊書下し置かせられ有り難く拝見奉り候、御尊前には増す御機嫌能く御座遊ばせられ並に御満山御別条御座無く候由惶れ乍ら恐悦至極に存じ奉り候、且又御山御出入の儀段々御首尾好く御大悦遊ばせらるべくと存じ奉り候、爰元に於ては拙僧どもに至るまで三宝諸天の御加護と有り難く大慶に存じ奉り候。
一、先頃上行寺より御尊前へ御申し上げ候多部田村七人の新檀那の儀、先日御書に仰せ下させられ候通り当春段々願□(出で)候間三月檀那に抱え置き申し候所に、此度地頭戸田土佐守殿より地頭へ願ひ申し上げず条目を相背き我儘に寺替仕り候段不届に之有り候とて、右七人の者並に名主源右衛門共に四月廿二日に閉門仰せ付けられ罷有り候所に、七人の内長十郎忰五月九日に相果て申し候則刻拙僧罷越し弔ひ申すべく存じ候所に、土佐守殿知行の役人罷り出で閉門の内に候間此儀相済申さざる間は曽て弔らはせ申す儀成り難く、閉門埒相済み其上殿様より仰せ付けられ次第何方へ成りとも弔らはせ申すべしと達て弔らはせ申すべしと達て弔らはせ申さず候、左候はば江戸屋敷へ其段訴へ申され弔らはせ給はるべく候それも成り難しと申し候間、之に依て先月より出府仕り上行寺拙僧とも同道仕り土佐守殿屋敷へ罷り出で御訴訟仕り候、然れども今に未埒に御座候、先頃書状指上げ申し候節此儀申し上ぐべく候へども、長々御出入にて御苦労に思召させられ候処に、是式の儀申し上げ奉り御気の毒に存じ奉り指扣え罷り有り候故言上奉らず候、先頃仰せ下させられ候如く御尊意心長く訴訟仕り候はば終には相申すべくと存じ奉り候間恐れ乍ら御気遣ひ遊ばされまじく候、爰元御役人衆中跡々の御相談仕り候間追付け相済目出たく申し上ぐべく候条詳に能はず候、恐惶頓首。   (宝永三)六月十五日             下州今井村、福正寺在り判。
   日意御聖人様、御近習御披露。
上行寺一道坊状   上行寺より本山へ本山出入の事、部多田の出入の事其外雑々の具申なるが、爰には雑々の事を省く。
(二箇条の雑件を省く)。
一、御出入の儀七月十四日に弾正様より検使衆了簡書此方へ遣はされ了簡書に返答書仕り候様に仰せ付られ候故只今其書付け支度仕り候、前々の百姓の返答書とは違ひ候て六つかしく日比は毎日会所相究め寄合候て随分吟味仕り書物支度仕り候大形は出来仕り候、委細三人より申し上げらるべく候。
福正寺出入の儀多部田村七人の者ども名主源右衛門大名主平七最福寺外に宮守両人呼び候て土佐守殿屋敷にて吟味之有り候由にて候、首尾如何に候や惣じて人を寄せ付け申さず候故吟味の義しれ申さず候。一、去る十七日長尾全庵参られ候間対面仕り候所に全庵より様子相尋ね申され候間具に物語り仕り候、全庵申され候は秋本但馬守殿用人の□(人)達埒明き候様仕るべく候間公儀の沙汰□以て無用にて候と申され候多部田村の者ども江戸へ呼び出され候は七月廿九日にて候、全庵申され候故但州殿よりの内詮義故、土佐守殿にても吟味之有ると存じ奉り候、然る上は首尾能く御座有るべく大慶仕り候、此吟味の次第前後の様子委細に書き付けがたく御座候故本妙坊に申し含め候間御尋ね遊ばさるべく候、福正寺よりも申さるべく候間委悉に能はず存じ奉り候。
(雑件十条を省く)。
一、御出入書き物出来候はば弾正様に指上げ申すべく候、大形は出来仕り候へども検使衆の条目付け廿一箇条と覚え申し候、夫に五箇七箇或は十箇条程づつの難問仕り候故中々急には出来仕りがたく何とぞ十三日前に公儀へ指上げたく、何も精出し候へども左様には出来仕るまじく候今日随分精出し候ても返答書下書まで出来仕るべく、左候て又々清書等に言葉前後何角とも五七日と懸り申すべく候間十三日の日柄心元無く存じ奉り候、是は日柄を暮し候故自然御気遣遊ばさるべきかと恐れ乍ら其為め申し上げ候、書き物出来次第早々御左右申し上ぐべく候、目出度恐惶敬上。
   (宝永三)八月五日               上行寺一道坊日□在り判。
   御本山日意御聖人様、御近習御披露。
上行寺浄園坊等状   多部田村四人斬罪追放等百余人等法難の報告書なり、巳上正本四通一軸福正寺に在り。
態と智見を以て申し上げ候趣き多部田七人の新檀那並に名主源右衛門、勘左衛門、甚左衛門等呼び寄せ候て屋敷にて様々吟味の様に仕り候、其上強問いたし無理にあやまりに申し掛け口上書など心儘に取り候由にて御座候承り及び候へども、此元の申す旨一円承引仕らず福正寺より訴訟仕り候へば右の者ども科重く罷り成り候由役人ども申し候故、延引の訴訟然るべしと相談仕り候内、去る廿六日の暁天に源右衛門勘左衛門甚左衛門、七人の内理右衛門と以上四人首を切り申し候、残り六人の外に組頭壱人以上七人追放申し付け候段廿七日の夜に入り候て追放の者両人参り候故驚き申し候、早速飛脚を以て申し上げべき処此儀に相談取り込み候内廿九日の晩方下州より飛脚参り候、在所え地頭の代官参り候て追放の者の妻子等悉く領分追放仕り候死罪の者の妻子等は十里四方追放仕り候故、多部田大乱にて候故上下両総の取沙汰中々申し尽し難く候、其上与四郎病死仕り候所家主五右衛門と申す者閉門手錠に指置き候、源左衛門と申す者も同前に候、是以て心許無く存じ申し候、与四郎儀只今最中吟味の由承り及び候、然れども只今何とも申し出づべき様之無く候故先づ其通りに指置き申し候是非無き事に存じ奉り候、委細智見口上に申し上ぐべく候条一二に能はず候、恐惶敬白。
   (宝永三)九月二日
猶以て本因坊義も今日福正寺え罷り帰り申され候。
一、追放の男女等百人余と申し伝へ候へども未だしかとは存ぜず候、尤他所に奉公いたし候者まで右同前。                 上行寺印、 浄円坊印、 華光坊印、 義□印。
   御本山日意御聖人様、御近習御披露。
本因坊状   福正寺什と成る本因坊の正本に依る、本因坊日寿は福正寺の看坊にして前の福正寺状と同筆なり、日寿は本件直接の関係人にて熱原法難に於ける日秀日弁に類したる者か。
尚々此度土佐殿の致され方理不尽の罪科申し付けられ愚僧面目を失ふ、在俗の身に候はば土佐殿屋敷に踏込み指違へ候程に存じ奉り候へども是非無き仕合に存じ奉り候、以上。
態と恐れ乍ら飛札を以て啓上奉り候、然れば多部田村檀那の儀五月より八月まて両寺とも段々土佐守殿へ訴訟仕り罷り在り候処に、去る廿六日朝名主源右衛門、七人の内利右衛門と申す者其外勘左衛門並に組頭甚左衛門と申す者四人死罪、組頭五右衛門と申す者巳上七人武総下総両国追放、妻子老父母百余人領分十里四方追放□□□(致され候)、両寺訴訟数度仕り候所理不尽の片手打成る仕方にて御座候、其上同村五左衛門と申す者源左衛門と申す者古よりの檀那手鎖閉門申し付けられ候、之に依て御公儀え罷り出で段々右の趣き願ひ奉りたく存じ候へども、爰元に於て上行寺御役人中とも談合仕り候へども御本山の出入未埒の内は公儀へも成り難く存じ奉り候間其分にて罷り有り候、皆々申され候も右の通に候間先々下総へ罷り帰り候様にと相談に御座候間今日罷り帰り申し候、夫れとも拙僧下総に罷り有り候ては寺の為に宜しく御座無く候はば如何様にも愚案仕るべく存じ奉り候、先々今日下州に罷り帰り申し候、福正寺にて様子次第御仏法寺のために存じ奉り候間如何様にも下総の様子次第に仕るべく存じ奉り候、委細智見口上に申し上ぐべく候条早々申し上げ候恐々謹言。
   (宝永三)戌九月朔日                   本因坊在り判。
   御本山日意御上人様、御近習御披露。
福正寺境内の供養塔   本因坊の建つる所高三尺二寸五分巾一尺二寸五分の角形の中に五輪を劃したるもの、文は漢

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