富士宗学要集第九巻

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第二章 岩本四十九院

 日興上人の岩本実相寺に居られたる事は史実なりと雖も、蒲原四十九院と実相寺との関係は現存の文献より見るとき錯綜して明見し難く、此等短章に尽くすべきにあらざれば委くは増補熱原法難史の新刊すべきに譲り、本編には四十九院寺と実相寺とは広域の同境に入れて共に岩本の法難として熱原の法難と甄別す、所引の四十九院申状は未だ家中抄巳前の古写本を見ず本山現存の家中抄は不幸にして此が掲げある上巻は全部逸失せるに依り精師後の写本の雪山文庫に在るものに依る、然れども精師の写本には依拠を示さずして大に疑議すべき点有り、即ち四人の列名の下に殊更に房号を加へたるは後人の加註なる事明にして平左衛門等の宛名も如何しきものなれば、日蓮宗宗学全書本には此等を削りて完躰に帰せりしが妥当なり、故に爰には家中抄の儘複写すと雖も此等の名称は態と之を正せり此の法難は家中抄を始として熱原と混一する者多けれども前に引く滝泉寺申状の末にも明に「何ゾ実相寺ニ例如セン」とありて、彼は日秀日弁が訴人にて此は日興日持が訴人なり、此賢秀の下に後人が下野房と註したりとて其は滝泉寺寺家の下野房日秀にあらずして日源の賢秀であり、又下野日秀は決して岩本にも四十九院寺にも関係の人にはあらざるなり。
今此法難の文献甚だ乏しきが故に文外に熟ら考ふれば岩本及び四十九院等は何れも官憲の保護を受けをりし故に又官憲に左右せらるる傾向あり、文永五年の大衆の愁状(要集宗史雑部三九一頁)の起因も、次の建武五年の今川国宣も皆是に因す、況や中間不明の年月に此に類する事ありて専ら宗門にて左右し能はざる事多々ありしと思はる、殊に同寺には史料皆無又他方面にて之を補ふべき料も亦無し、単に歴祖名のみ伝へたりとて何するものぞや、何れ他日の研鑽に俟つの外なし。
四十九院日興等申状  宗学要集第五巻宗史部の一四九頁より再抄出す。
一、駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧日興等謹んで申す。
寺務二位律師厳誉の為に日興並に日持承賢賢秀等所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪ひ取り寺内を追出せしむる謂れ無き子細の事。
〇、而るに厳誉律師の状に云く四十九院の中に日蓮が弟子等居住せしむるの由其聞え有り、彼の党類仏法を学し乍ら外道の教に同じ正見を改めて邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり云云、茲に因って日興等忽に年来の住坊を追ひ出だされ巳に御祈祷便宜の学道を失ふ、法華の正義を以って外道の邪教と称するは何の経何の論ぞや、〇、仍て款状を●して各言上件の如し。
   弘安元年三月 日                承賢、賢秀、日持、日興。
禅僧を以て実相寺の寺務職とする国宣  宗学要集第八巻史料類聚一の一四六頁に出したるを再出して一種の法難なりしと認む、但し実相寺に此の今川範国の正文書と外に一通あれども、国主の権力に依り禅師を住職としたる法華宗一山の内紛の事に付ては何等の文献の徴すべきもの無きを遺憾とす。
駿河の国岩本郷の内実相寺寺務職の事。
右、法東侍者禅師彼の職として先例に任せ管領せしむべきの状国宣件の如し。
  建武五年六月廿七日               (国主今川範国の判在り)。

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