富士宗学要集第九巻

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第一章 熱 原

 撥乱反正破邪顕正の反面には間々濁悪の緇素ありて百方清新の弘教を妨げ遂に官権に頼 りて暴圧を加ふるに至ること新真宗教の常に蒙むる所の横難なり、大聖人の門下時と処 に此殃を受けざる無し、熱原は其尤なるもの地域は僅に富士郡の中の熱原郷の一部にし て関係僧俗五十人に過ぎざれども、当時新進の日蓮全門徒駿河甲斐相模に亘れる人々を 驚かしたる大難なりしを以て、大聖人は此を直に自己の被れる法難と目して全門下を戒 飾奮励せしめられたり、然るに後世此事蹟の考査記録疎浪にして或は関係人名を誤りて 我田引水し或は由緒の土地を謬りて其事を紛糾せしむるに至り、重要の古文書を高閣に 束ねて伝奇小説にす、今予が苦作の熱原法難史中の史料等に依りて本篇に概要を掲げて啓蒙 に供す。
甲、当時の文書等
一、熱原弘教の大概の御書
浄蓮房は駿河の人興津氏、興上の写本大石寺あり。
浄蓮房御書(縮遺一二六七頁)返す返す駿河の人々皆同心と申させ給へ。
三沢殿は駿河国富士の人、正本大石寺にあり。
三沢抄(同一七〇二頁) 返す返す駿河の人々皆同し御心と申させ給ひ候へ。
此御書は賜主年代共に不明。
異体同心事(同一〇五四頁) ○伯耆房佐渡房の事、熱原の者どもの御志し異体同心なれば万事を成じ同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定って候、○。
窪尼は富士郡西山の人。
窪尼御前御返事(同一七二六頁) ○さては熱原の事今度を以て思しめせ前も虚事なり、○。
四条金吾等の鎌倉方面の人々に下された、正本中山法華経寺に在り。
聖人御難事(同一八七五頁) ○清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此法門申し始めて今に二十七年弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給ふ、其中の大難申す計りなし先先に申すがことし、余は二十七年なり其間の大難は各々かつ知ろしめせり、○彼の熱原の愚痴の者ども言ひ励まして嚇す事なかれ、彼等には唯一円に思ひ切れよ善からは不思議、悪るからんは一定と思へ、餓るしと思はば餓鬼道を教へよ、寒しと云はば八寒地獄を教へよ、恐ろしと云はば鷹に遇へる雉、猫に遇へる鼠を他人と思ふ事なかれ、○。
二、佐渡房三位房についての御書 佐渡房は民部阿闍梨日向で一般の日蓮宗では此人が滝泉寺の主であるやうに宣伝せるは大なる誤りで、実は其初の寸時の関係だけに留る、三位房は日向より長期であったけれども、却って反逆僧となり終を能くせず、此等を明かにする為に此項を設けしものなり。
異躰同心事(同一〇五四頁) (前に掲げたり)。
松野殿は駿河国富士河西岸に在り。
松野殿御返事(同一五二五頁) 此三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬ひて法門を御尋あるべし、依法不依人是を思ふべし、○。
六郎次郎は高橋家の人なるべし。
六郎次郎殿御返事(同一五三七頁) ○明日三位房を遣すべく候、○。
四郎金吾殿御返事(同一七九二頁) ○三位房が事、さう四郎が事、此事は宛も符契符契と申しあひて候、○。
聖人御難事(同一八七八頁) ○此は細々と書き候事は斯く年年月月日日申して候へども、名越の尼、少輔房、能登房、三位房なんどのやうに候。臆病物覚えず慾深く疑ひ多き者どもは、塗れる漆に水を懸け空を切りりたるやうに候ぞ、三位房が事は大不思議の事ども候しかども殿原の思ひには智慧ある者を嫉ませ給ふかと愚痴の人思ひなんと思いて物も申さで候ひしが腹黒となりて大難にも当りて候ぞ、中中散散とだにも申せしかば助かる辺もや候ひなん、余りに不思議さに申さざりしなり、又斯く申せば痴人どもは死亡の事を仰せ候と申すべし鏡のために申す、又此事は彼等の人々も内内は怖ぢ恐れ候らんと覚え候ぞ、○。
 三、大進房についての御書 大進房は下総の人で前項の三位房と類型の人物であり本件でも二人共に師命に背ひて叛逆僧となり主将の日興の敵となって法難の火の手を強くした、併し下総方面に多大の縁類を信者に有って居たので大聖の用心も一方ならぬものがあった事が各御書に見ゆる。
尚本項所引の御書に付いて禀権書は富木常忍の賜はり、聖人等御返事は鎌倉の惣信徒への賜はり重須に日興上人の写本がある、曽谷殿は下総の人で大進房の縁者なり。
禀権書(同一六四九頁) ○又此沙汰の事定めて故ありて出来せり、加島の太田次郎兵衛、大進房、又本院主も何にとや申すぞ能く能く聞かせ給ひ候へ、此等は経文に仔細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障るべきにて候、○(一六五〇頁) 大進房が事先先書き遣して候様に強強と書き上げ申させ給ひ候へ大進房には十羅刹の憑せ給ひて引返しさせ給ふと覚え候ぞ、又魔王の使者なんどが憑き候ひけるが離れて候と覚え候ぞ悪鬼入其身はよも虚事にては候らはじ、○。
聖人御難事(同一八七六頁) ○太田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱、大進房が落馬等は法華経の罰の顕はるるか、罰は総罰別罰現罰冥罰の四候、日本国の大疫病と大飢渇と同士討と他国より攻めらるるは総罰なり、疫病は冥罰なり、太田等は現罰なり、各々師子王の心を取出して如何に人威すとも怖づる事なかれ、○。
聖人等御返事(同続一九八頁) ○、此事宣ぶるならば此方には科なりと皆人申すべし又大進房が落馬顕るべし顕れば人人ことに怖づべし、○。
四条金吾殿御返事(同一七九二頁) ○、又大進阿闍梨の死去の事末代の耆婆如何でか此に過ぐべきと皆人舌を振る候なり、さにて候けるやらん三位房が事さう四郎が事此事は符契符契と申しあひて候、○。
曾谷殿御返事(同一八七二頁) ○、故大進阿闍梨の事歎かしく候へども此又法華経の流布出来すべき因縁にてや候らんと思召すべし、○。
 四、法難顛末についての文書 熱原の法難は直に大聖人の御一身には関係ないが、御自身では一期の大難として法難終息として其普賢色身の表徴として本門戒壇の本尊を顕して末法万年に残された、其法難の時と処と人とは本頂所引の滝泉寺甲状、聖人等御返事、伯耆殿御返事に又当時富士の総司令たる興尊の弟子分帳、追弔本尊の脇書に明細である、甲状の正体は越後房日弁上人が下総に持参して今は中山法華経寺に現存する、初は日蓮大聖人の御自筆で中後は日興上人の自筆である即ち身延にて能所合作と云ふべきであるが、此に依って問註所への甲状は写されたが此筆者は無論日興上人であらう、此本が余りに秘蔵せられたせいか坊間の流行本は殆んど誤字だらけで読めぬ所が多い、次に聖人御返事等の二書は日興上人の写本が重須に現存してをる、弟子分帳も亦然りであるが目今のは破損の為に文字が缺失してをる、追弔本尊も亦重須にある、已上の五本は一を缺いでも不可である能くも好材が満足に残ったものであるが慾にはまだ少し慾しい文書がある。
瀧泉寺甲状(同続二〇〇頁) 駿河の国富士下方滝泉寺の大衆越後房日弁、下野房日秀等謹んで弁言す。
当時院主代、平の左近入道行智、条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事。
訴状に云はく日秀日弁は日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経、或は真言の行人は皆以て今世後世叶ふべからざるの由之を申す云云、取意。
○此の条は日弁等の本師日蓮聖人去ぬる正嘉以来の大慧星大地動等を観見し一切経を勘へて云はく当時日本国の躰たらく権小に執着し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし、所謂自界叛逆難他国侵逼難なり、仍って治国の故を思ひ兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す「立正安国論と号す」勘へ申す所皆以て符合す既に金口の未来記に同じ宛も声と響との如し、外書に云はく未萠を知るは聖人なり、内典に云はく智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る云云、之を以って之を思ふに本師は豈に聖人なるか巧匠内に在り国宝外に求むべからず、多書に云はく隣国に聖人有るは敵国の憂なり云云、内経に云はく国に聖人有れば天必ず守護す云云、外書に云はく世必ず聖智の君有り而して復賢明の臣有り云云、此の本文を見るに聖人国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり、諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし、君既に賢人に在まさば豈聖人を用ひずして徒に他国の逼を憂へん。仰も大覚世尊。に末法闘諍堅固の時を鑒み此の如きの大難を対治すべきの秘術説き置く所の経文明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間身毒尸那扶桑等一閻浮提の内に未だ流布せず、随って四依の大士内に鑒みて説かず天台伝教而かも演べず時未だ至らざるの故なり、法華経に云へ後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す云云、天台大師云く後五百歳と妙楽云く五五百歳と伝教大師云く代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋れば唐の東羯の西人を原れば則五濁の生闘諍の時と云云、東勝西負の明文なり、法主聖人時を知り国を知り法を知り機を知り君の為め民の為め神の為め仏の為め災難を対治せらるべきの由勘へ申すと雖も、御信用無きの上剰さへ謗法の人等の讒言に依って聖人頭に疵を負はせ左手を打ち折らるゝの上、両度まで遠流の責を蒙り門弟等所々射殺され切殺され殺害刄傷禁獄流罪打擲擯出罵詈等の大難勝て計ふべからず、●に因って大日本国皆法花経の大怨敵と成り万民悉く一闡堤の人と為るの故、天神国を捨て地神所を辞し天下静ならざるの由粗ぼ伝承するの間、其仁に非ずと●も愚案を顧みず言上せしむる所なり、外経に云く奸人朝に在れば賢者進まずと云云、内経に云く法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なりと云云。
又風聞の如くんば高僧寺を崛請して蒙古国を調伏すと云云、其の状を見聞するに去ぬる元暦承久の○○叡山の座主東寺御室七大寺園城寺等の検校長吏等の諸の真言師を請ひ向け内裏の紫宸殿にして呪詛し奉る故に、源右将軍並びに故平虎牙の日記なり、此の法を修するの仁敬って之を行へば必ず身を滅し強いて之を持てば定て主を失ふなり、然れば則○○○○○○○○沈没し、叡山の明雲は流矢に当り○○○○○○○○○○○捨られ、東寺御室は自ら高山に死し比嶺の座主は改易の耻辱に値ふ現罰眼を遮れり後賢之を畏る聖人山中の御悲は是れなり。
次に阿弥陀経を以て例時の勤と為すべき由の事。夫れ以れば花と月と水と火と時に依って之を用ゆ必しも先例を追ふべからず仏法又是の如し時に随って用捨す、其の上汝等の執する所の四巻の阿弥陀経は四十余年未顕真実の小経なり、一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者多年の間此の経を読誦するも終に成仏を遂げず、然る後彼の経を抛ち末に法華経に至って華光如来と為る、況や末代悪世の愚人南無阿弥陀仏の題目計りを唱へて順次往生を遂ぐべけんや、故に仏之を誡めて云く法華経に云く正直に方便を捨て但無上道を説く云云、教主釈尊正く阿弥陀経を抛ち給ふ云云、又涅槃経に云く如来は虚妄の言無しと●も衆生の虚妄の説に因るを知ればと云云、正しく阿陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く但楽って大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれと云云、妙楽大師云く況や彼の華厳但以て此経の法を以て之を化する同じからざるに称比せんや故に乃至不受余経一偈と云ふ云云、彼の花厳経は寂滅道場の説法界唯心の法門なり上本は十三世界微塵品中本は三十九万八千偈下本は十万偈四十八品、今現に一切経蔵を観るに唯八十六十四十等の経なり、其外の方等般若大日経金剛頂経等の諸の顕密大乗経等尚法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云ひ或は留難多きが故に或は門を閉ぢよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや唯大山と蟻岳との高下師子王と狐莵との角力なり、今日秀等専ら彼等小経を抛ち法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱へ奉る豈に殊忠に非ずや、此等の子細御不審を相貽さば高僧等を召し合せられ是非を決せらるべきか、仏法の優劣を糺明致す事は月氏漢土日本の先例なり今明時に当って何ぞ三国の旧規に背かん。
訴状に云はく今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は馬に乗り熱原の百姓紀次郎男を相具し、点札を立て作毛を刈り取て日秀が住房に取り入れ畢んぬ云云取意。
此条跡方も無き虚誕なり、日秀等は損亡せられし行者なり不安堵の上は誰人か日秀等の点札を叙用せしむべけん、将又●弱なる土民の族日秀等に雇ひ越されんや、如し然らば弓箭を帯し悪行を企つる者と云ふに於ては、行智云はく近隣の人々争て弓箭を奪ひ取り其身に召し取ると、子細は申さざるや矯餝の至り宜く賢察に足るべし。
日秀日弁等は当時代々の住侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致す処に、行智乍に当時霊地の院主代に補し寺家三河房頼円並に少輔房日禅日秀日弁等に仰せて、行智より法華経に於は不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申すべきの由を起請文に書かば安堵すべきの旨を下知せしむるの間、頼円は下知に随って起請を書いて安堵せしむと●も、日禅等は起請を書かざるに依て所職住坊を奪ひ取るの時、日禅は即離散せしめ畢んぬ、日秀日弁は無頼の身たるに依り所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間、此四箇年の程日秀等の所職住坊を奪ひ取り厳重に御祈祷を止むるの余り悪行猶以て飽き足らざる為に、法華経の行者の跡を削り謀案を構へて種種の不実を申付くるの条豈在世の調達に非ずや。
凡そ行智の所行は法華三昧の供僧和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り彫紺形(三字義不明)堂舎の修治を為す、日弁に御書下を給ひ構へ置く所の上に搏一万二千寸を造り内八千寸を私用せしむ。
下方の政所代に勧めて去る四月御神事の最中に法華経信心の行人四郎坊男を刃傷せしめ、去る八月弥四郎男の頸を切らしめ日秀等に擬して頸を刎ぬる事を此中に書き入る。
無智無才の盗人兵部房静印より過科を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしむ。
或は寺内の百姓等を催し鶉狩狸殺狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食ひ、或は毒物を仏前の池に入れ若干の魚類殺し村里に出して之を売る、見聞の人耳目を驚かざるは莫し。仏法破滅の墓悲みても余り有り、此の如きの不善悪行日日相積むの間、日秀等愁歎の余り依て上聞を驚かさんと欲す。
行智条条の自科を塞がんが為に種種の秘計を廻らし近隣の輩を相語らひ遮って跡形も無き不実を申し付け日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり、冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや、所詮仏法の権実の沙汰は真偽淵底を究めて御尋ね有り、且は誠諦の金言に任せ且は式条の明文に準じ禁●を加へられば守護の善神は変を消し擁護の諸天は咲を含まん。
然れば則不善悪行の院主代行智を改易せざれば将又本主此重科を脱れ難からん何ぞ実相寺に例如せん。
誤らざるの道理に任せて日秀日弁安堵の御成敗を蒙むり堂舎を修理せしめ天長地久御祈祷の忠勤を抽でんと欲す、仍て状を勒して披陳言上件の如し。
   弘安二年十月 日  沙門日秀日弁等上つる。
伯耆殿御返事(同続一九九頁) 大体此趣を以て書き上ぐべきか、但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等は別に問注有るべからざるか、大進房弥藤次入道等の狼籍の事に至りては源と行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり、若し又起請文に及ぶべき事之を申さば僉く書くべからず、其故は人に殺害刄傷せらるる上に重ねて起請文を書きて失を守らば古今未曽有の沙汰なり、其上行智の所行書かしむる如くならば身を容るる処なく行ふべきの罪に方ぶるもの無きか、穴賢穴賢、此旨を存じ問注の時強強と之を申さば定めて上聞に及ぶべきか、又行智証人を立て申さば彼等の人人行智と同意して百姓等が田畠数十苅り取る由之を申せ、若し又証文を出さば謀書の由之を申せ、事事証人起請文を用ゆべからず、但し現証の殺害刄傷のみ、若し其義に背く者は日蓮が門家にあらず候、恐恐謹言。
   弘安二年十月十二日  日蓮御判。
   伯耆殿、 日秀日弁等に下す。
聖人等御返事 (同続一九八頁) 今月十五日酉刻の御文同き十七日酉時に到来す、彼等御勘気を蒙るの時南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平の金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みるか、例せば雪山童子尸毘王等の如し、将又悪鬼其身に入る者か、釈迦多宝十方の諸仏梵帝等の五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓は是なり、大論に云はく能く毒を変じて薬と為す、天台云はく毒を変じて薬と為すと云云、妙の宇虚からずんば須臾に賞罰有らんか、伯耆房等深く此旨を存じて問注を遂ぐべし、平の金吾に申すべき様は文永の御勘気の時の聖人の仰せ忘れ給ふか其殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るかと最後に申し付けよ、恐恐謹言。
   (弘安二年)十月十七日  日蓮御判。
   聖人御返事。
 この事のぶ(宣)るならば此方にはとが(咎)なりとみな(皆)人申すべし、又大進房が落馬あらはる(顕)べし、あらはれ(顕)ば人々ことにおづ(怖)べし天の御計ひなり、各にはおづる(怖)事なかれ内よりもてゆかば定て子細いで(出)き(来)ぬとおぼゆるなり、今度の使いはあわ(淡)ぢ(路)房を遣すべし。
弟子文帳(僧弟子の下) ○、富士下方市庭寺下野公日秀は日興の弟子なり、仍て与へ申す所件の如し。
駿河の国富士上方河合少輔公日禅は日興第一の弟子なり、仍て与へ申す所件の如し。
○、富士下方市庭寺越後房は日興の弟子なり、仍て与へ申す所件の如し、但し弘安年中白蓮に背き了んぬ。
○、在家人弟子分。
富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
富士下方熱原郷の住人弥六郎。
此三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年信じ始め奉る処舎兄弥藤次入道の訴に依て鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢んぬ平の左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官「十三歳」ひき(蟇)め(目)を以て散散に射て念仏を申すべき旨再三之を責むと●も、廿人更に以て之を申さざる間張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと●も終に放ち畢んぬ、其後十四年を経て平の入道判官父子謀反を発して誅せられ畢んぬ「父子」、これ(是)たゞ(但)事にあらず法華の現罰を蒙れり。
興師筆漫荼羅脇書 徳治三戊申年卯月八日書写、駿河の国富士下方熱原郷の住人神四郎法華衆と号し平の左衛門尉の為に頚を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道法華衆の頸を切るの後十四年を経て謀反を企つるの間誅せられ畢んぬ其子孫跡形なく滅亡し畢んぬ。
 五、日秀日弁下総についての御書 小湊誕生寺に御正本在り、弘安二年(推定)十一月二十五日の御状なれば法難より二箇月後にして両師も余波を受けた形である。
富木殿女房尼御前御書(同一九一六頁) ○、さてはえち(越)後房しもつ(下)け(野)房と申す僧をい(伊)よ(予)どの(殿)につけて候ぞ、しばらく(暫)ふ(不)びん (便)にあたらせ給へと、と(富)き(木)殿に申させ給へ。
 六、法難後の事どもについての御書 法難後即弘安二三年以後には富士郡一円の信徒は全部其余波を受けて困難を究めたであろうに御書に顕著なるは南条七郎次郎平時光で処は熱原より四里の北にある地に在り乍らも郡内唯一の豪族であり青年の意気沖天の勢で遭難の信徒を陰に陽に庇護したので、殊に地頭の職分にあるより鎌倉より虐待せられた事が御状中にある、斯の如き事が三四年に亘つたらしい、猶此中に引用の御書は大聖人の正体又は興師の写本大石寺に在り。
上野賢人殿御返事(同一九六〇頁) ○、此はあつ(熱)わら(原)の事のありがたさに申す御返事なり。
上野殿御返事(同一九六〇頁) 去る六月十五日のげ(見)さん(参)悦び入って候、さてはかう(神)ねし(主)等が事いま(今)までかかへ(抱)をかせ(置)給ひて候事ありがたくをぼへ候、ただし(但)ない(内)ない(内)は法華経をあだませ(怨)給ふにては候へども、うへ(上)にはた(他)の事によせて事かづけ(托)にくま(憎)るるかのゆへに、あつ(熱)わら(原)のものに事をよせて、かしこ(彼処)ここ(此処)をもせかれ(塞)候こそ候ぬれ、さればとて上に事をよせて、せかれ(塞)候はんに御もちゐ(用)候はずば物をぼへぬ人にならせ給ふべし、をかせ給ひてあしかりぬべきやうにて候わば、しばらくかう(神)ぬし(主)等をばこれ(此)へとをほせ候べし、め(妻)こ(子)なんどもはそれ(其)に候ともよも御たづね(尋)は候はじ、事のしづまる(静)までそれ(其)にをかせ給ひて候わばよろしく(宜)候ひなんとをばへ候、(同一九六一頁)しばらく(暫)の苦こそ候ともつい(遂)にはたのし(楽)かるべし、国王一人の太子のごとし、いかでか位につか(即)ざらんとおぼしめし候へ、恐恐謹言。
   弘安三年七月二日  日蓮在り判。
   上野殿御返事。
人にしらせずしてひそか(密)にをほせ候べし。
上野殿御返事(同二〇一九頁)○、貴辺はすで(既)法華経の行者に似させ給へる事猿の人に似もちゐ(餅)の月に似たるがごとし、あつ(熱)はら(原)のものどものかく(斯)をしま(惜)せ給へる事は承平の将門天喜(慶)の貞当(任)のやう(様)に此国のものどもはおもひて候ぞ、これ(是)ひとへ(偏)に法華経に命をすつる(捨)ゆへなり、またく(全)主君そむく(背)人とは天御覧あらじ、其上わづか(僅)の小郷にをほく(多)の公事ぜめ(責)にあて(充)られてわが(我)身はのる(乗)べき馬なし妻子はひき (引)かかる(懸)べき衣なし、○。
上野殿御返事(同二〇四九頁) ○、又かう(神)ぬし(主)のもとに候御乳塩一疋並に口付一人候、○、なを(猶)もなをも法華経をあだ(怨)む事はたえ(絶)つとも見え候はねば、これ(此)よりのち(後)もいかなる事か候はんずらめども、いま(今)までこら(堪)へさせ給へる事まこと(真)しからず候、○。
乙、後年の述記ほ 熱原の法難を記する後年のものに自門に御伝土代(日道上人)穆作抄(日教)日蓮聖人年譜(日精上人)家中抄上興師伝、同中秀師伝同下弁師伝(巳上精師)大石寺明細志(日量上人)別頭家決疑篇上(日霑上人)等あり、他門に熱原本照寺由緒、日蓮照見記十六、境妙目録、祖書証議論五、高祖年譜、同攷異、高祖累歳録、日蓮大士真実伝五が在り、又本化仏祖統紀十が有り、稀覯書には入山瀬滝泉寺由来伝記有り、又普通の地誌として駿河新風土記国府上又此を引用した大日本地名辞書がある、尤此外に幾十百の著書あるべしと●も巳上の書に依れば日蓮宗の自門他門又此に影響せられたる地誌ども皆悉く大誤謬を羅列してをる、此は該法難の史科が悉く門外不出の重書であるからにも困り存外著者方が孫引の懶惰を好んで校査に努めなかったのに困る、巳上の中に特別に正史を伝へてあるのは吾師霑上の決疑篇の文である此は重須の弟子分帳に依られたからで、将に一正百誤と云ふ事にならう、予が熱原法難史を著してから爰に二十年此等の啓蒙に幾何の効を奏した事であらう。
御伝土代、 日興上人伝の下 宗学要集第五巻宗史部の一頁に在り、再記せず。
編者日く事後四十年なれば誤り少し唯断罪三人が二人と総員廿人が廿四人と誤まられ  たるのみ。
穆作抄 宗学要集第二巻宗義部一の二四七頁に在り、再記せず。
編者日く事後二百余年後なれば特伝が書かれてあり廿人が廿三人となり斬首二人次に  女の悲壮の決心の為に首は此にて止まると記してあるが誤りは甚だ少しである。
日蓮聖人年譜 宗学要集第五巻宗史部の六七頁より一四六頁に至る、再記せず。
編者日く精師の著せる富士の史伝殊に此年譜と家中抄は他門にも伝播し自門では其巳  上に波及して此の著巳来漫然此の謬説を伝へてをる、明細誌の如き他の一般の史談家  は何の考察も加へずして鵜呑である。
家中抄 宗学要集第五巻宗史部の一四七頁一八三頁二二六頁二六七頁等に在り、再記せず。
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大石寺明細誌  宗学要集第五巻宗史部の三一九頁に在り、再記せず。
別頭家決疑篇上  五十二世日霑上人の作、写本雪山文庫に在り。
〇、(富士戒壇の下)其後興師に命じて彼地に専ら大法を弘通せしめ給ふに多く帰依の人ありといへども猶弘安二年に至り法難乍に起れり、所謂富士郡熱原の郷神四郎国重等の二十人の信者等、謗者弥藤次入道並に大進房等の讒訴により平の左衛門の下知として鎌倉に引かる、其時興師より宗祖の許へ此旨を言上し給ふに其御返事あり、文に云はく今月十五日酉の時(前に具文を引く故に畧す)弘安二年十月十七日と云々、〇、録内廿二聖人御難抄と拝し合すべし、是弘安二年に至るといへども怨敵充満し日々倍増し、其後神四郎等講首三人終に斬罪せられ十七人は追放せられし趣き興師自筆の御記録に見へたり、若し爾らば宗祖の暫くも富士に寄留し給はざる事は只偏に信者将護の慈念のみなる事顕然なり、何ぞ是を以て築壇の聖意を疑ふべき、〇。
 巳下他門の文献。
熱原本照寺由緒  明暦元年三世日誠の記なり、本記疑誤の点多し信ずべからず。
熱原神四郎国重、法名法喜日住禅門は当村の郷土なり、時の名は熱原弥太郎、宗祖の教化を受けて帰伏の後神四郎と名づく、不惜身命の行者三人あり所謂熱原神四郎、田中次郎、広野弥太郎、右三人法の為に鎌倉に於て死罪に行はれける故に家断絶に及ぶ、〇。
日蓮照見記十六  著者不明二十巻あり写本雪山文庫に在り。
日法日弁を日興に付けらるる事、〇、実相寺訴訟並に強仁状聖人御返事の事、〇、熱原田中の人人捕るゝ事並に聖人より熱原田中の人人へ御状遣さるる事、〇、本門戒壇板本尊の事、並に聖人の御影を日法送らるる事、〇、熱原の人人首を刎ねらるる事、並に平の左衛門頼綱滅亡の事。
編者曰く目録をのみ掲ぐ記文は精師の大聖人年譜等の転写と見ゆ。
日蓮聖人御伝記  延宝九辛酉季春下浣京都中村屋五兵衛の開板、絵入十一巻あり著者を記せず、通俗に国字伝と称するもの、是亦精師御年譜等の転写にして前の照見記との前後を知らずに何れにせよ精師の史伝の影響の大なるに驚く、是れ二書とともに富士門関係の人の著作にあらざればなり、此書亦目録のみを掲ぐ。八巻第四、日法日弁を日興へ付けらるる事、第十一、実相寺厳誉訴訟の事、第十二、強仁状聖人の御返事の事、第十三、熱原田中の人人とらはるる事、第十四、聖人より土の籠の内熱原田中の人人へ御状を遣はさるる事、第十五、本門の戒壇板本尊の事、第十六、聖人の御影を日法つくる事、第十七、熱原の人人くびはねらるる事、第十八、平の左衛門頼綱滅亡の事。
富士下方入山瀬滝泉寺由来伝記  慶長中性善院日応の記、静岡市感応寺に在り、極端なる妄誕不稽の記文にして呆然として此筆を抛つ。
〇、此地や往昔は七堂伽藍〇、県内に七房あり真如房は最其一なり、維時弘安二年宗祖日蓮大聖人〇大弟子日秀日弁をして法華は諸経の最上たることを旋説せしむ〇、真如房豁然として自覚し〇忽に真言の密法を抛棄す〇改めて清浄阿闍梨大乗院真如日典と号す、〇時亦雨らずして〇農民困窘大に憂悩す〇日典甚悲哀して〇読経して●す〇●然と雨を降らす、〇故に天人感応に縁って山を感応と号し精舎を滝泉寺と改む〇、宗祖大上人日典の勤行徳実を感じて什器を賜ひ永く寺宝とすと云ふ、〇。
本化仏祖統記   享保十五年六牙院日潮の作卅九巻後刊本となる、此書近古に於いて多くの妄誕史伝の源泉となる、但し長文の中一も法難を記せず。
(同十、日向伝の下) 〇駿州富士郡に滝泉寺あり真言宗の雄刹なり会上に百余人あり〇、板首五個一時の英を簡び〇会下の僧時時身延山に至り宗義を詰らんと〇亡国の徒と為し耻しめて止まず、板首の僧聞いて快とせず〇、五僧欝を含んで至り真言亡国の理を問ふ〇、速に旧衣を捐てて弟子の礼を執る其首三人に日弁日秀日禅の名を賜ふ蓮海頼円は協はずして去る、寺の檀越熱原国重等悉く身延に来り戒を受けて徒となり他日高祖を迎えて法規を一新せんことを冀ふ、高祖起たず師に命じて之に趣かしむ師往いて大に利す、高祖書を以て賀して曰く駿河国滝泉寺は上古浄行菩薩所住の地なり子其諸を欽めと師之に居ること年あり法子日慧に付して退く。
(同二十四、甚四郎伝の下) 日住禅門に日弁日忍両師の父熱原氏甚四郎国重なり駿州富士郡に農耕を業と為す家世豪富頗る才識あり邑の小吏となる、又一女あり天目を産む、児孫三人高祖に投ず其人と為り知るべし、弘安四年辛巳高祖六十歳賀島蓮寿山を築きて之を祝すと云ふ。
境妙目録   明和七年玉沢三十三世日通の作二百九十四番上野抄の下、写本雪山文庫に在り。〇、熱原騒動に付て神主の子、時光隠くし居り時光は不惜身命の講頭にて此時大に働くなり。祖書証議論   玉沢日通の記十巻無年月但し宝暦安永の交か、此師の説非常に独断なり。五巻(聖人御難抄の下)此抄に太田親昌長崎次郎兵衛時綱と之有るは二人共に正執権の御内の者にて富士の賀島に住し、初は宗祖方にて賀島騒動にて還って敵と成り現罰を蒙むる者共なり。
(同七月二日)上野時光へ御返事賜はる、是熱原騒動にて神主佐野氏が子難儀に及ぶ故なり。高祖年譜   安永八年水戸談林日諦等の著にして刊本一巻攷異三巻あり。
(弘安二年の下)駿州熱原甚四郎国重来りて檀契を結ぶ且象駕を迎へて以て教を受けんと請ふ、大士日向をして代り行かしむ向大に宗風を振ふ書を賜うて之を嘉みす。
同攷異 国重は賀島の人高橋氏に仕ふ弁忍二公の父富士郡信者の魁なり、弘安中に法の為に獄に下り斬せらる戒号は妙諦妻を妙常と号す。
年譜(弘安二年十月の下) 十二日弥四郎等の請に応じて本尊を板に書す、日興嚮きに命を奉じて郡の賀島に行化す化に帰する者甚多し、実相寺の主厳誉●忌して官に讒す官二十四人を鎌倉の囹圄に囚ふ、大士書を賜うて諭す。
同攷異 弥四郎とは駿州の人なり行状未だ攷へず、旧記に曰はく南部実長、一は実長の長子と曰ふ皆不審なり、本尊傍書に曰く本門戒壇の願首弥四郎国重法華講衆等敬白、版は法公之を造る今大石寺に在り。化に帰する者甚多しとは、国字伝に曰はく大士日興弘化の盛なるを聞きて日法日弁に命じて之を扶助せしむ実相寺厳誉其化を●んで官に讒す陰謀覚はれて逃亡す寺因て本化の道場と為るなり。
二十四人とは、熱原甚四郎田中四郎広野弥太郎其他は旧記に姓字を記せず。
年譜(弘安三年の下) 官厳誉が讒を信じて往に囚ふる所の魁三人を戮す、大士之が冥福を薦め切に其徒を諭す、然して実相寺遂に本化の道場と為る。
高祖累歳録   深見要言の記五巻刊行せらる年月不明なり。
(弘安二年十月の下)日興嚮きに師命を奉じて駿州賀島に行化す宗を改むる者多し、実相寺厳誉等●み忌んで遂に公辺に讒す役人をして其徒廿四人を捕へこれを鎌倉に送り以て地牢に下す、高祖致書してこれを諭す。
日蓮大士真実伝   安政七年小川泰堂の著なり刊本世に行はる、此人博学の誉あるが本項に付いては亦何の研究を施さずして古書の孫引の為に惜いかな謬を遣せり。
同五、〇ここに駿州富士郡に真言宗の檀所滝泉寺と云ふあり、その学頭五人身延山に登りて難問す大士一言のもとに説き破り給ふに五人の口鉗んで唖の如し、〇。
編者曰く何れも滝泉寺申状及び法難関係の当時の文献を見ざるが故に史実を誤解する者多し、同寺は天台宗なること、学頭らしき者無き事同寺家僧及俗人は身延に来りし者無き事、日秀日弁等は興師の弟子なること、滝泉寺件は全く興師の管掌の下に在りし事、厚原件は土地接近せるも岩本件とは直接の関係なき事等惣てを詳解せざる人々は一人も無しと云ふ事何たる不祥事ならずや。
俗間の地誌。
駿河記 文政元年桑原黙斎の著十九巻なるが昭和七年に刊行せられたり。
(同一府中の下) 常住山感応寺、日蓮宗甲斐身延山末、塔頭、三河房、越後房、下野房、和泉房、少輔房、開山日向聖人佐渡阿闍梨、中興日朝上人。
伝に曰く当寺始め富士郡下方庄真言宗滝泉寺と云ふ古寺なり、弘安の頃日蓮初めて法花の題目を唱る頃当寺の学頭日弁塔中日秀、日禅、和泉房、三河房、蓮海、頼円と共に日蓮聖人の弟子となる、後蓮海頼円は旧宗に復す、日弁真言の学匠なるを以て日蓮聖人と問答数多度にして終に吾宗をすて弟子となる、其問答を日蓮手づから録し滝泉寺申状と名づけて今下総国正中山に蔵む、斯て日弁其寺を師に奉り日向を以て開基として自分は越後坊に住し日秀を下野房といひ日禅を少輔房といひ日海を和泉坊日円を三河房といひて共に寺家となる、其後許多の星霜を経て寺一度廃するの処、明応年岩越刑部少輔某富士郡の領主たりしが、身延山の日朝聖人に帰依し師を請て父の為に一寺を建てむことを乞ふ、滝泉寺の旧地に一宇を立て父の名を取て滝泉寺を改て常住山感応寺と号す感応院常円居士と称するを以てなり、後に寺を駿府の内耳度小路(或は耳敏小路と云ふ)に移し(寺にては今草深大榎と云ふ所なりと云ふ小路の地未だ詳ならず)、又天正年台命を以て今の地を給はり移る、寺伝に云く此寺富士郡下方荘厚原にありしと、彼滝泉寺の界状に法照寺といひしが、しばしば火災ありしかば其時の寺僧法照の文字は水去て火照すると云ふ字なりとて改て滝泉寺といひしと云ふによりて思へば類聚国史百八十巻仏道部に貞観五年六月壬辰朔二日癸巳、駿河国富士郡法照寺を以て之を定額に預るといへるは此寺にあらざるか、〇。
駿河新風土記  府中新庄道雄の著作なり廿五巻あり、駿河記の著者と同時代にして成本は或は少し後れたるか。
国府巻上に出づ引文全く同文なり、此新風土記に云ふ「元禄丙子七月二十一日日進の自記に見へたり」と云ふに其に依りたるか、蓋し他に何等の知識無くして一に寺記に依りて誌面を汚し後生を煩はしめたるは共に篤学者に似合はぬ事なりと云ふべし、殊に日蓮上人日弁日秀申状等の記事は大なる誤謬なるを以てなり。大日本地名辞書  明治四十年吉田東伍の著なり。
(富士郡厚原滝泉寺址の下)巳上の全文を引けり、此の篤学も亦前述の責任を負はるべし。

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