富士宗学要集第九巻

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第十章 異流義

 富士には古来宗義摩擦の為に分裂して異流義に陥りたるもの現在●越の各山の外に殆んど無しと雖も、隠然蘖派を生じて遂に其宗其山の異流の如く見做れたる者あり、大石寺精師の系を引けるらしき三鳥日秀流是なり又換骨奪胎して神道と化したる者あり、現今の扶桑教に属する統一教即ち明治年間に都鄙に旺盛を極めたる蓮門教是なり、其教祖は小倉の人柳田素人島村光津にして西山本門寺系の信徒、其の事の妙法とは富士義の事の一念三千の妙法蓮華経の唱へを以て主神を天照皇太神に仮りたるものと聞けり、但し其好適の文献無く爰に掲ぐる能はざるを憾みとす、次に他の日蓮宗より横入して濫りに其山を攻撃して止まず強義折伏のみを以て自ら其正統と●持する特異性の人、即ち堅樹日好及び後藤増十郎臨道日報の如きもの是なり、此中に三鳥派は全く潜行的弘教の傍ら世罪を犯したる為に死罪等の極刑に処せられて徳川幕府の末に全く潰滅したり、堅樹流は強ちに潜行にあらず進んで公に各山の軟弱摂受の化義を責めて行政上の処分を受くるを、大聖人の法難に擬して●钁尚辞せざるの気概を有したる者多し、此等を徳川幕府は国禁の切支丹に準じて不受不施悲田の徒と供に長期に亘りて禁圧を加へたりと雖も根絶に能はず、思ふに当時各山本末の宗徒は迎合安逸を貧りたるも猶少数の純信ありて随所に入牢追放遠島斬刑を被る、日好に共鳴せし石倉善六の悲惨極り無きが如き是なり、然りと雖も能化者には却つて不純漢あり強義殉難を看板にして密に法悦に浸る等の者の如き本編には且らく此を法難の中に加へず、単に此下に於いて彼等の主張及び行実及び行実の幾分を列して、一は時代の反影を示し又各本山の方針に誤無かりしやの反省に供し、一は将来類似の宗風信仰を以て愚民を眩惑せしめて私利を逞うする徒の絶へざる事の規鰔と為さんとするのみ。
一、三鳥派   坊間には三超とも三鳥とも欠けるあり切支丹に準じて幕府禁断の邪宗なるが故にや、大石寺にては其関係を明にすべき文献殆ど無く漸く宝永三年と弘化二年との役寺へ答申書を見るが、其すら既に数十年を過ぎて事蹟明瞭ならざりしが如く、況んや官憲及び焼く寺に於ては猶更の事なれども、今同派より押収したる依用の典籍を宗縁に寄り身延山に下附せられたるものに依れば、其十六種多くは富士伝来の書なりと雖も、派祖日秀己後の伝承者に傑者無く生田五郎兵衛日使の還告史記の如き一潮日浮の行為の如きヒモロギマスラ男ノ鏡の如き、殆ど宗祖の精神を伝へず猾智以て愚迷を鈎りたるのみならんを、敢て富士の予蘖と云はんは宗祖開山に憚りあれども将来の非違の徒を誡めんが料に爰に列す但し便に乗じて幕府の法例をも略称す。
幕府の仕置   古事類苑宗教部の下より抄出す。
御定書百箇条   三鳥派不受不施御仕置の事。
(前々よりの例)一、三鳥不受不施類の法を勧め候もの、改宗致すべき由申し候とも、遠島。
(延享元年の極め)但し勧め候もの俗人に候はば、其子共改宗致すべき旨申すに於ては、所払、妻は構ひ無し。
(前々よりの例)一、同く伝法を請け其上勧め候もの止宿いたし候もの、 遠島。
但し改宗致すべき旨申すにおいては重追放。
同上、一、同く伝法を請け候内、勧め候ものの住所等世話いたし候もの、右同断。
但し改宗致すべき旨申すに老いては、田畑取上げ所払。
同上、一、同じく伝法を請け候もの、改宗を致し自今宗旨持つまじき旨証文致すにおいては、構ひ無し但し改宗致すまじき旨申すにおいては、 遠島。
同上、伝法を請けず帰依致さず候とも、勧め候もの村方に差置き候、名主組頭役取上げ、但し伝法を請け改宗致すべき旨申し候とも、名主は軽追放、組頭は田畑取上げ所払。
徳川禁令考後聚 三鳥派不受不施御仕置の事。
三鳥派の例、 一、是は享保十六亥年、玄了儀武州吉祥寺村成宗村関村田畑村百姓どもえ三鳥派勧め候に付き、遠島。
成宗村甚兵衛小十郎儀、玄了疑はしく之無き旨偽の証文差出し候に付き、改宗の上所払。吉祥寺村杢右衛門、玄了を世話いたし村方え引越させ候に付き、改宗の上所払。
田村組頭権左衛門、改宗の上役儀取上げ所払。
同村文治郎儀、持畑の内え玄了引越させ候に付き、所払。
吉祥寺村組頭作兵衛、一存にて玄了差置き候に付き、五十日戸〆。
同村名主組頭、右の旨存ぜざるに付き、名主、五十日戸〆、組頭、過科三貫文。
関村田畑村名主組頭、右同断。
成子町市郎右衛門、玄了店請に立ち候に付き、過料三貫文。
其外帰依のもの、改宗の上構ひ無し。
成宗村名主、早速右の旨訴に付き、御褒美銀五枚、組頭八人え八貫文、同村百姓六拾四人え三拾二貫文之を下され候例を以て相認め申し候○。
三鳥派立て方の儀の趣き得と相分り兼ね候、此段恐れ乍ら丸山本妙寺え御尋ね成し下され候はば相分かり申すべき筋かと存じ奉り候、以上。
(寛政三)亥七月 宗延寺、善立寺、瑞輪寺。(身延山の触頭なり)
三鳥派の事。寛政三亥年七月、久世丹後守より問合之在り候節、触頭え御尋の答書。
御尋に付き書付を以て申し上げ奉り候。
一、三鳥派と唱へ来り候事は三鳥院日秀と申す道心者弘法仕り候に付き三鳥派と唱へ申し候。
一、右三鳥儀、元来拙寺配下駿州富士大石寺日精隠居仕り候後末寺の内下谷常在寺に罷り在り候、其節三鳥儀日精脇に折々大石寺派の法義聴聞仕り候、其後右門派の法式相背き候筋御座候に付き大石寺門派離門仕り候、其以後三鳥類族御吟味の節菴室に於て祖書講談仕り候義、寛文年中条目に相背き候に付三鳥類族残らず御仕置仰せ付らるるの旨、拙寺旧記に御座候。
一、右三鳥弘法の儀は如何様に相弘め候や、邪法と計り旧記にも相認め相分り申さず候、以上。
(寛政七)七月廿七日 丸山本妙寺。
弘化三午年御渡内藤紀伊守伺ひ。
武州成沢村菴室に罷り在り候、日浮事一潮、異法執行候一件。
美濃部筑前守知行、武州大里郡成沢村菴室に罷在り候道心者日浮事、一潮。
右のもの儀、大坂天満日之上町善吉方同居道心者日寿所持の還告史記、同人死去後善吉より貰ひ受け、右は俗名生田五郎兵衛事日使著述の書にて一宗普通の教方と相違いたし異流の段相弁へながら、書中の大意即今凡身え引き当て手近き教方と存じ猶当時の人気に叶ひ候様取捨いたし、諸人え解き聞かせ候はば帰依のせのも相増し身分の営み方にも相成るべきと其自身自得の躰に仕成し、題目の五字を妙法の二字に折略いたし呼吸に託し数遍相唱候へば心中の邪念濁気を払ひ悪気消散いたし候抔と申し散らし、其上一宗僧俗の議論を厭ひ壱人宛伝教におよび親子兄弟えも口外を禁じ身元の暑薄に応じ米金等貰ひ受け、殊に宗掟の趣き弁へ罷在りながら道心者の身分にて自己に日浮と名乗り妙法の二字を観心本尊と号し、軽文白毫を放つの意を凡身に引き立て其身を宗祖に匹敵いたし日蓮は迹門にて五字七字を弘め此ものは妙法の二字を以て本門弘通の由、或は釈迦日蓮滅後未曾有の妙法と其身を比し無辺行菩薩の再誕の趣に自称いたし、右本尊●に著述の書等え仏躰の開祖無辺行者日浮と相認め帰依のものどもえ授与いたし、其余右還告史記に解き顕はし候次第に基き新義を企て諸人を●惑いたし多分の金子を貧り取り公儀を恐れざる仕方、尤吟味の上右は則三鳥派の段相弁へ相待つまじく申し立て候へども、右不始末に付き、遠島。
編者云く日浮一潮の化を受けたる深川三十三間堂町住の哲門が江戸払になりたる事、又此と関係があるが如き武宗上川田谷村文献等の神儒仏三道奥義の呼吸の法又は文献著述のヒモロギマスラ男ノ鏡と云ふ小冊子板行の関係者一同江戸払所払になりたる、及び挫日蓮、塩尻、出定笑語に載せある五家衆旨相派の事、享保度の生田五郎兵衛が●刑に処せられた事は取材稍不審なるものあれば爰には之を省けり。
常在寺より役寺へ答申書   下谷常在寺は江戸に於ける触次寺なり、三鳥弟子吟味に依り大石寺系に属する由を以て御尋に答へたるもの、尚此に大石寺流儀の宗義衣躰等を記き添へあり、今此には此分をば少々略称す、古写本雪山文庫に在り。
差上げ申す一札の事。
今度三鳥弟子等御吟味に付き拙寺共門流法儀の趣に御尋に預り候処、則別紙書付け指出し申し候且つ又自今以後他門の出家、私共門流え帰依仕りたきの旨願ひ申す品之有り候とも曽て契約仕るまじく候、若し拠無き趣に御座候はば其節窺ひ御両寺まで御吟味の上御指図次第に仕るべく候、尤も拙寺ども支配末々まで右の趣急度申付くべく候、仍て件の如し。駿州富士大石寺末寺、 常在寺判。
本妙寺、長応寺。
駿州富士大石寺流儀。
一、本尊は、十界勧請の大漫荼羅、 一、祖師 日蓮聖人の木像、 一、開山 日蓮弟子日興上人の木像。
(依経衣躰の記文は通例なれば省略す)
右の条々祖師開山己来の法式にて御座候故只今に至る迄急度相守り申し候。
宝永三丙戌年十月五日 常在寺判。
御奉行所。
日量より金沢信徒に送りし状   直筆及び写しとも雪山文庫に在り、三鳥派の事については大石文献には前文及び此中の江戸三箇寺より役寺への答申に初めて見ゆるのみ、前文禁令考所載の寛政七年の時には本妙寺の役僧に聊か本件を知る者ありて、大石寺に照会せずして済したるなるべし、量師の状意に依れば悪しき縁由なれども之に催されて殆ど埋もれをる本山の宗義が世に顕るる動悸となる事を悦ばれての信徒への御状と見ゆ。
異流一件の事。
一、近年武州熊谷宿在壱里程南に成沢村と申す所に他宗寺隠居所の小庵あり赤城(あかぎ)房と号す、近年法花宗の発心者躰の房主住居手習師匠致して法花を弘通し近村は勿論御当地に信仰の者夥しく出来、名は日普と申し候由怪しき勧め方致し暗闇に長線香燃し息を止め口の内にて題目を唱へ数日観念を凝し功を積み候へば、向の方へ追々宮殿桜閣等顕れ信心の厚薄によつて種々不思議の事之有る由に付き、信仰の人年々倍増庫裡座敷土蔵等美々しく造立去冬頃より本堂建立の心懸けにて当地講中よりも四五百両寄進、近郷近在より材木等伐り出し候に付き、八州廻り役人に召捕られ寺社奉行内藤紀伊守殿御懸りに相成段々御穿鑿の処、中古宝永の頃御成敗に相成り候三鳥院日秀と申す異流僧の末葉の由に御座候、右三鳥院と申すは是又中年剃髭の僧にて寛永の頃本山拾八代日精上人師下谷常在寺御取立の為本山を十九代日舜上人へ譲り江戸へ出で説法教化の刻、三鳥此を聴聞帰伏得道し御弟子と成り御経御書判等の習学四五年御随身の処法義に違背の儀之有り換気を受け門中放に相成り、夫より自ら三鳥院日秀と号し江府は勿論在々処々相模伊豆駿東辺弘通信仰の者数多出来に付き、東海道原宿の在足高山の麓根古屋と申す所興国寺の古城跡へ本寺建立の心懸けにて在々所々より材木を取集め、且又武州相州辺より月々参詣夥しき往復之に依て箱根御関所にて不審に改められ公儀へ注進の由にて御手入御僉議之有り候処、新義異流に落ち出家は遠島在家は所払と夫々御成敗御停止に相成り申し候、然るに三鳥日秀は右一件前年に宝永三丙戌年八月朔日死去法難には逢ひ申さず候、同人位牌に本因妙の行者日秀と之有り又自分書写の御本尊に本因妙の行者日秀と之有り候に付き御当地法花宗触頭弐十軒余に本因妙の行者と申す名目宗旨に之有りや否やと御尋の処、触頭ども一同会合の上法花宗において本因妙の行者と申す名目曽て御座無き条返答申し上げ候に付き新義異流に相落ち御成敗に相成り候由歎き入り候事に御座候。
之に依て今般役寺本妙寺より等門三箇寺へ左の通り尋ね之有り候。
第一、三鳥日秀の法門勧め方●に事跡の事。
一、俗名生田五郎兵衛法号還告院日使は三鳥の弟子なりや師匠なりや●に事跡の事。
一、還告史記と申す書に円融院了達日悟云くと申す事所々に之有り右日悟事跡の事。
一、銘々修行の題目は本因妙に候や本因妙に候やの事。
其外都合八箇条の尋之有り候へども取るに足らざる事故之を略す。
三鳥日秀事跡は荒増前書の通り、生田五郎兵衛法号還告院事●に還告史記と申す書、了達日悟の事一向存じ申さず。
一、因果両妙の事、拙寺門流は宗祖の遺命にまかせ開山以来因勝果劣と相立て本因妙の題目を以て宗門の簡要と致し候故に題目を唱へ候事を本因果妙修行と申し来り候、此の一段は宗候出世の一大事一期弘教の最要と存じ奉り候、以上。
弘化二巳年九月日 三箇寺。
右九月十三日下谷中郷拙寺(小梅常泉寺)代義典丸山へ罷り出で候処、本妙寺対面申され候は還告史記と申す書右日普拾巻所持公議へ差出し候処、其中に大石寺上人云くと申す事処々に之有り、且又此度本因妙の題目立不立の一大事の場に候へば特異の法門聢と証拠に相成り候書類夫々書き取り差出し候様申され候に付き別冊の通り取綴り差出し申し候、丸山にも本因妙抄一百六箇血脈抄等は所持の由に御座候。
一、此度の御尋至極有り難き事に御座候、当門流興隆の基態とも申し上げ奉りたき事に候、以上。
別紙書物今般御尋に付き差出し申し候、尤大事の法門に御座候へども各へ御目に懸け申すべきかと存じ竹内本寿殿に書写頼み差送り候間、御信者中へ御読み聞せ給り候はば化導の一助とも相成申すべきと存じ候、尤秘蔵の法門に御座候へば猥に他見御無用に存じ候、己上。
(弘化三年か)十月廿三日 日量在判。
木村法好殿、窪田善領殿、中村玄達殿、坪内詮貞殿、石津得量殿、大橋秀音殿。    二、堅樹日好流  通称に異流と伝へるもの今此を●するに元祖の堅樹日好に材料多々、関東の後藤増重郎より京都の臨導日報に材料少々なり、三鳥異流は大石系を引けども殆ど本末関係無きに反して、賢樹異派は一致門派より横入して本末の縁稀薄なるに拘はらず、自ら蓮興の正統視して大石の本末に容れられざるを以て本山に判噬咆哮する事百二十年漸く其残骸無きに至れり、今其門人等が編纂せる日好上人聖語即ち堅樹書記等に依り大概を知らしめ、又他材に依て之を補ふ、皆雪山文庫に在るものなり、但し既刊の聖語綴り輯は此を除く。
日好及び同志の略歴  堅樹書記目録より抄出す。
越後阿闍梨堅樹院有善日好上人麟角は越後国沼垂郡沼垂村の人、元文四年己来生摂州島上郡梶原村源覚寺住持永井虎之助後飛騨守領分、明和七夷寅九月二日領主より擯出せられ生年三十二歳、明和九壬辰五月十一日古丑時獄中に貶せられ囹圄四箇年、安永乙未十一月乗船三宅島え遠島三十七歳、寛政六甲寅五月上総国法難に依て利島え島替五十六歳在島三十八年、去る文化九壬申十二月十七日行年七十四歳にて寂す。
(安永四より寛政治六まで三宅島十九年謫居、寛政七より文化九まで利島十九年謫居。)日好尊者者元文四年己誕生、仏滅後四百五十七年に当る、右は文政元寅年御七回忌に付之を撰す(実教日悟日好上人父)完器講中。
同志面々。
日巧上人、備前産、大坂曽根崎法清寺先住河内国鯛の城暫居して後に寂す。
日達上人、備後産、京都東山上行寺先住小梅常泉寺にて寂す。
日行上人、石州産。
日浄上人、越後国沼垂郡の産、相州鎌倉松葉谷妙本寺にて寂す。
日照上人、下総国海上郡飯岡村産、コウツ(神津)島にて寂す。
(明和三戌十一月二十二日常信坊日悦照師弟子牢死。)
日教上人、備後国産、浅草にて寂す。
(文政十二年己正月十九日長遠日種、同所浅五郎。)
日好師御弟子、菩提房日寛、了厳房日信、唱題房日悟、成臨房日終、山田伴右衛門●富五郎文化三年八月六日寂す。
大坂曾根崎、蔦屋新兵衛、三河屋幸助。
武江、盛折院源寿日量、安永二癸巳年六月五日、上総屋善六。
長松院永樹日良、天明五乙巳年三月十九日、山田伴右衛門。
延寿院妙本寺潤日底、文化二乙巳年六月十五日、同人妻茂登。
宗受日賢、四月十六日、土佐屋文右衛門。
編者云く己下全国に亘り百余名の信徒之を省略す。
日好出訴に付いて法華宗寺院に念状等  堅樹書記第一起源より抄出す。
拙僧出訴仕り候に付き態と申し上げ候。
一、去る丑年妙旨一件の節延山御先代日●師の時、自讃毀他の説法御停止の旨触れ渡され候事は法莚の節喧嘩等之無き様に相守るべきの趣にて、折伏説法毀讃と申す事にては御座無く候とて印形指し上げ申さず候に付、妙旨事御呵を蒙り死去仕らず候はば遠島の由承知仕り候、然るに延山御三箇寺並に妙法寺蓮華寺等折伏毀讃の旨御請印形にて相済み候由承り候。
一、本国寺末和州郡山妙善寺日康、本満寺末大坂曽根崎法清寺日巧、折伏説法仕り其の上朝夕勤行に四箇の名言を唱へ候に付き御咎を蒙り九箇国三道中御構へ、日康は一宗の寺院徘徊相叶はざる段、本国本満両寺より諸末寺へ触れ出し候事披見仕り候、之に依て野生往到其処の説に候故に憚り乍ら申上げ候、国は法に依て昌へと申し候、右折伏毀讃に相成り一宗既に単論雙翼にて有名無実に候へども差して御倒惑の躰も無く宗門の瑕瑾とも思召さず時勢に任せられ其儘に指し置かれ候上、開帳興行通途説法の砌は折伏成され候事御上へ御請の趣と相違仕り候躰、唯口腹の為にて狗犬に陥り候事痛心仕り候に付、何卒異体同心に申し合はされ折伏毀讃の御請け御願ひ下げ成され国家長久国恩報謝偏に庶幾がふ所に御座候、何れにも御報願ひ奉り候、恐惶謹言。
(明和九年)辰二月 摂州島上郡梶原村、源覚寺元住日好。
法華宗 諸寺院御中。
右一札持参にして江戸寺院廻られ候処、或は留主亦は病気適々対面の者は御尤至極客来取込み候抔と申して退く。
二月二十三日、橋場妙高寺隠居日修に対面之有り候処、羽織を著し片膝を立て幾世留を杖に突き左も大へゐ(柄)に挨拶致し候へども、法門を以て一一責められしかば口をして鼻の如くし、小石川辺の者共に此れを承る、則ち法門の次第別書に之有り候に突き之を略す、然して後右書付を以て日好申され候は好旨己来骨目たる四箇の名言折伏は自讃毀他の旨三箇寺等公儀へ印形指し上げ候事日蓮門弟たるべき者豈是を悲しまざらんや、然れども口腹の為には高席にて四箇の名言を唱へ候事是れ上を誑惑するにあらずや、此度異体同心に申し合せ何卒右印形願ひ下げ候様に致すべき旨日修へ申され候処、日修答へ申すには是まで一向左様の事承り申さず尚亦三箇寺等に篤くと承り合せ候上にて御返答に及ぶべき由、之に依て其の日は旅庵へ帰へらる。
二月二十九日、大風富士南にて目黒行人坂より昼時比出火江戸八分通り類焼の旨人死ぬる事数知らず、右出火に付き日好上人築地辺に町宅。
四月二十三日、日好上人橋場へ参られ約束の通り返事承り度き段申し入れられ候処、深川浄心寺千部興行につき助説に参り候由、之に依て深川へ参られ右の趣き申し入れられ日修に対面致し度き旨役僧堪道を以て申し入れられ候処、今日は殊の外取り込みの由にて逢ひ申さず候間、途中にて記録を認められ候て説法聴衆の中に交り控へられ候処、勧化之有る間其の隙に高座へ右の記録差出さる。日修色を変じ返答もなく黙し居る聴衆是れを見て立騒ぐ、日好上人高声に成仏不成仏の一大事なるぞ静り給へと声懸けらる各々聴衆はしづまりぬ、然るに信者共騒ぎ立ち或いは拍子木を以て頭上を打つ又は塔婆にて打擲す、見兼ねて供に参り候俗二人飛び入り囲い申して漸く勝手へ退き是非日修に対面の事申され候へども、堪道申し候は近所に出火之有り夫れ故殊の外取り乱し取り込み候間明日四ツ時に御来駕下さるべく候、拙僧御取次申し是非日修に逢はせ申すべき由に候間其の日は帰られ候処、門前道々聴衆の者共夥しく取り囲ひ或は悪口雑言亦は道心者坊主を付け途中にて悪口致させ既に喧嘩にも相ひ成るべき処、漸く旅庵へ帰へらる。
同く二十四日、約束の通り朝四つ時比浄心寺へ参られ右堪道取次にて日修に対面の上法門之有り候へども、何事も至極御尤併ら四箇の名言御停止と申す事は拙僧は勿論等寺抔も承り申さざる由、此の儀は何れにも三箇寺共に相糺し其の上急度御挨拶致すべき間、近頃御太儀乍ら来月二日に拙庵まで御来駕下さるべく候、其の砌は間違無く急度御返答に及ぶべしと堅く約束を極め帰へられ候。
然るに同月二十九日に寺社奉行土屋能登守殿より柴崎惣治と申す仁築地旅庵へ参られ日好上人家主に御預け五月二日橋場へ参るべき約束の処土屋能登守殿より御差紙にて家主五人組付き添ひ罷り出る、則ち横谷幸之進殿掛りにて浄心寺参会の儀一通り尋ねにて其日は相済み、翌三日御呼出にて本郷近江屋谷右衛門方宿に仰せ付けられ、同八日町奉行牧野大隅守殿へ御呼び出て一通り尋にて帰る、同十日亦候牧野大隅守殿へ呼び出し一通り御尋之有り其の上法門の次第御聞き成され度き旨之依て一一法門仰せられ候処尤の由にて相済み、其の後町掛り、同十一日土屋へ御呼出し身延三箇寺橋場妙高寺隠居日修浄心寺大堪道、好師俗文右衛門治郎右衛門罷り出づる。
右は四月二十三日日好大勢の俗人を召し連れ高席を妨げ其の上あばれ諸道具等迄損ざし候様申し上る、然れども一一返答相済み候始終浄心寺の事は脇に相成り唯奉行の申し付けを違背の由にて其の日揚家へ仰せ付けられ、俗二人は町預け委しくは末に出す。
一、爰に富士大石寺流下谷常在寺檀方に石町二丁目石倉屋善六と申す者は生国上総国にて一体貞実の生れ世間によろしく其職を守り商売繁昌にて家内大勢に暮し今日に不足なく、其の上経文論釈御書大石寺一大事に委しく信心は地にこへ富士門流俗の独り、去るに依て大石寺の貫主を始め其外ともに片腕と致され数年信心を励みぬ、然るに右日好上人に近寄り段々御訪問聴聞の上当時大石寺を初め日本国に日蓮宗門数多之有りといへども、宗門の根源を尽し太祖の御本意並に富士開山日興上人の御遺誡を守り修行致し候僧一人もなし既に経文御書の如く謗法によつて近来の天災殊には内外に至り賢聖は五百年千年に一度見へたり、然るに五百年親り此度生死を離れずんばいつをか期すべし、御書に云く我れ身命を捨て仏法を得べき便りあらば身命を捨て仏法を学べし、迹門には我不愛身命但惜無上道と云ひ本門には不自惜身命と説き涅槃経には身軽法重死身弘法と見へたり、本迹両門涅槃経共に身を捨てゝ法を弘むべしと見へたり、此れ等の禁めに背く重罪は目には見へざれども積て地獄に堕つる事は譬へば寒熱の姿形もなく眼には見へざれども冬は寒き事来つて草木人畜を責め夏はあつきこと来つて人畜を熱し悩すが如くなるべしと云云。
右御金言の如く信心強盛に修行し唯好尊をしたい奉り既に六月にも相成り候へども牢屋敷へ見舞物等送り候事もなし、世間すら夫々の見舞等遺し候由何卒奉行所へ願い候て送り申したき旨宿近江屋谷右衛門を以て願ひ申し上げ候処、早速相済み候て六月十二日牢屋敷へ品々送る、同二十一日築地旅宿に奉行所へ差し出し候様に致し書物封じ之有り候、店請権右衛門本郷宿谷右衛門方へ右書き物奉行所へ差し出す是れ御諌言書の由同七月朔日石倉屋善六権右衛門両人土屋へ呼出し、尤も家主五人組名主代一人付き添い罷り出で候処、右書物並に見舞物に付御尋ね之有る由にて町預け。
八月二日大風にて江戸中近在所々家潰人死ぬること夥し、老者覚へ之無き由物語り●に天災ならんと爰に記す。
十一月十日上総国善六弟善左衛門御差紙、同十四日惣方御呼出し善左衛門罷り出で一通り御詮議にて相済み同十五日国元へ帰る。
十一月二十五日惣登城年号仰せ出され同二十六日安永と改元之有り。
浄心寺一件 同上。
深川浄心寺一件申し上げ奉り候。
二月二十三日、橋場妙高寺へ参上仕り隠居日修に対面仕り候て書き付け相ひ見せ候へば甚だ尤の事と申し、右折伏四箇の名言は宗門の肝心なれば此を御停止と申し上げられ候延山三箇寺は仏祖に対し恐れ入り候事に御座候、爾し乍ら此の日修などは漸く月並に説法等相勤め候事随力の修行にてとても三箇寺共を責め候程の事も相成り申さず候間此の書附けは返し申し候、拙僧申し候は其の月並説法等成され候とも善事修行には相成り申さず、そのゆえ如何となれば其の元存知の通り法の滅せん時は縦令公命たりといへども随ひ奉らずして宗義の軌則を申し上げ奉るべき由仏祖の厳誡に候、其の上持戒精進の大僧等法華経を弘むるに似て而も失ふならば此れを知つて責むべしと開祖日蓮誡めおかれ候、然れば延山三箇寺より自門弘通の骨目たる折伏四箇の名言は御公制と申し上げ奉り印形指し上げ候上は宗義既に隠没仕り候間、台聴にも申し揚げ奉らず三箇寺共を責めずして月並説法等勧められ候とも邪見背祖の罪人なるが故に群生済度には相成り申さず候のみならず説法読誦等は決して相成り申さず候、其のゆへは法華経一部の惣躰は悉く折伏にして文々句々皆爾前の得益を許さざる経躰なるが故に、法華経方便品に正直捨方便と説かれ、天台大師は妙とは絶と釈せられて法華経起らば爾前の経を捨てよと申す事にて法華経と申し候へば其の儘折伏と申す事にて御座候故、折伏御停止の印形を指し上げ候上は説法読誦等成され候ては公命を誑惑し奉ると申すものに候間、説法読誦等成され度候はゞ折伏御停止不承知の段申し上げ奉り候上にて三箇寺をも責め込み申さず候はでは日蓮一宗にて嫌ひ候処の与同罪も免れず、内信と申すものに相成り申すべく候間篤くと分別もあるべき事と日修に申し聞かせ候処、否やの挨拶もなく黙し候故、拙惣申し候は唯今其の元の身分にて説法等成され候は寔に活命市売の法とて仏法の制禁に候、此の仏の誡を破り候て修行仕り候ものは狗犬の僧と釈迦仏は説かれて候上、開祖の書の中には法師の皮をきたる畜生にて法師と云ふ名を盗める盗人なりと、かく申すことを背き給はば後生は日蓮も助け申すまじく候と誡め置かれ候上は、日修既に開祖日蓮の立義に差謬せし故に其の身は勿論帰依の檀方まで堕獄免るべからず、故に寔に後生の事を心掛けられ候はゞとても功徳に相成り候様に成され度事と申し聞かせ候得共一言の返答も御座無く候故、又候重て貴意を得べき段を申し罷り帰り候て、其後先月二十三日妙高寺日修方へ右ぎ篤と法義談話仕るべくと存じ奉り候て参上仕り候処、取次の者申し候は日修義今日は深川浄心寺千部興行に付助説に参り候、之に依て右浄心寺にも一札持参仕り差し置き候間傍々相ひ兼ね浄心寺へ推参仕り役僧堪道に右一札の返答承るべき段申し入れ候処、役僧申し候には此の義に付き彼此と申し候ては公辺にも及び其上此の如きの大地を領して罷り有り候事故非理なる事も其儘に差し置き候躰の殊に御座候へば、此の書き付けの趣き至極尤の事に候へども先づ返し候とて一向に会釈申さず候故、拙僧妙高寺に対面致し度段申し入れ候へども取り込み彼れ是れと申し立て其義に能はず、暫く差し扣へ候内最早説法も始まり候故承り居り候処、座中聴聞の者共に金子を相勧め候間に説法者も暫く相ひ休み候躰に相見へ候故に、其の間に二箇条の疑問を日修に遺し候、其の文に曰く第一に問ふ末法は専ら折伏の一門に限るや将た摂受を兼ねるや、若し但折伏といはゞ折伏既に公制た如何がこれを通ぜんや、若又但折伏は公制たりといへども二門兼雙は官の制する所にあらずといはゞ摂受所兼の折伏は少分権乗得益を許すと云ふべきや、拍掌にたへたり、所詮兼否の不同剛柔の異ありといへども破権の法躰に何ぞ二門を分別せんや、爾るときは二門共に公制たることや必せり、否ならば其の故を聞かん、第二悪王ありて正法を制止せんときは王と論じて命を軽ふすべしとは祖説に顕然たり、今や既に我宗弘通の柱礎たる四箇の名言折伏説法公制たらば●んぞ将軍家と諍はざるや、亦た邪僧等方人をして共に正法を失ふときは獅子王の如くにして責むべしとは祖誡赫々たり、而るに今延山三箇寺公命を誑惑して折伏毀讃を証伏せりなんぞ此を責めざるや、しからずんは法蓮処を如何ん所詮呵すべきを呵せず橋拱無為にして衆中に講演すとも得脱あたはざる由祖責明々たり、否ならば邪見背祖の罪人なり、与所悪人倶堕地獄如何ぞ免るべきや、しからずんば市売の法にして活命たること必然の道理なり、なんぞ群生済度と云ふことあらん、祖説に当世の学者等畜生の如し王法の邪をおそれ智者の弱をあなづるとは汝が如きの庸僧を呵責し玉ふなるべし、今や此の金章を以つて当世の僧侶を見るに掌中の庵羅果の如し瞋恚腸立の●言兀々然たり、無益の戯論をなすことなかれ慎むべし慎むべし、此の如くに相認め講席に差出し祖て披見致しくれ候様に申候へども披見に及び申さず候とて一向取り上げ申さず候故、拙僧申し候は先月申し入れ候通り宗門の一大事を捨て置き候て此くの如き大衆を集め講演すといへども、仏事修行と相成り申さず候是非披見の上挨拶に預り度く申し込み候処、日修申し候は先日より其の元申され候処の折伏御停止と申す事御座無く候間返答に及び申さず候、之に依て拙僧申し候は然らば慥かなる証拠出し申すべしと彼れ此れ申し候間に説法取持の俗人共大勢集まり拙僧を引き立て塔婆拍子木等にて散々に打擲仕り頭上に大瘤五箇所出来仕り候へども、拙僧事元来世間の事には人々如何様に仕り候とも貧著仕り申さず候故、浄心寺よりは世間の喧嘩口論と申し立て候積り故か、修行房主の悪る者を相頼み候様子にて拙僧異を種々悪口仕り其上同宿共も種々悪口仕り候へども、法義未練の傭僧共の事に御座候故其の分にて差し置き候へば事由無く其の義は相済み候へども、是非日修に対面仕り右の段承知仕り度く説法後相待ち候処、役僧堪道申し候は所詮説法も未だ暫く間も御座候上折節近所出火の沙汰之有り候て殊の外今日は取り込み候間、先づ今日は御帰り成され明日四つ時御出で成され候はば日修に対面取り次ぎ仕る可くと申し候故に、二十三日には罷り帰り候て翌二十四日四つ時参上候て右堪道取次にて日修に対面仕り右の段申し候処、日修申し候は貴師申され候折伏御公制の事当住職にも承り合はせ候処当寺へも触れ来たり申さず拙僧共も存ぜざる事故、当寺説法仕舞次第右の義に付き三箇寺へも篤と聞き合せ候上にて御返答に及び申すべく候間、来月二日には近頃御苦労ながら拙庵迄御出で待ち入り候と申す事故、五月二日を相末処に二十九日には御用の筋御座候に付き家主に御預け遊ばされ候故、右の趣き日修方へ申し遺し御用相済み候はば右挨拶承るべき段使僧を以て申し入れ日修方より右の請取書き付け拙僧方に之有り候、所詮日修を始め諸寺院院拙僧より遺し候一札の返答仕り候へば其の儘相済み候事にて曽て彼れ等を相手取り御公辺に御苦労を掛け奉り候事にては御座無く候へども、彼れ等を始め多くの人々彼れ等が僻見によりて未来悪道に堕ちんこと不便に存じ奉り候故、一往は寺院共に申し聞せ候上にて彼れ等は宗義を失ひ候上御公命を誑惑し奉り候へとも、拙僧一人は随分宗法を相守り一派の●則たる折伏四箇の名言を唱へ修行仕り候、とても日蓮宗立て置かせられ候上は一派の立義も宗法通り折伏四箇の名言強盛に修行仕り候様に仰せ付けさせられ候はゞ有り難き事に損じ奉り候へども、堂塔のみに立て置かせられ候とも其の宗の骨目を御停止に罷り成り候ては伽藍は空く魔縁の栖家となり僧侶は名のみにて何宗とも相しれざる恠しげなる者に罷り成り寔に御国の費へ民の歎きにて有名無実の宗門と罷り成り候事歎き入り奉り候、之に依て何とぞ拙僧一人なりとも開祖の掟を相守り念仏無間等の四箇の名言を唱へ折伏修行仕り候段御訴へ申し上候、己上。
(文政四辛巳九月十七日 高橋義知之を拝写す)
編者云く堅樹書記四十四巻六十余編の中には一般仏教各宗に対して折伏強義を主張せるもの及び流刑中の書状等最多く、富士興尊に付いては本門寺大意抄を始として大聖人の正系として絶待に尊信し殊に富士諸山の中に大石寺に傾倒しながら当時稍摂受の表現行あるを悦ばず、折に触れて此を攻撃するの諸論左の十編に散在す、是亦当時の山風を顧みて深く之を味ひ以て万代の鑑とせば国家に宗門に稗益少からざるべし、今宗史宗義●究の為に其の編目と要旨を年紀を追うて左に記す。
卅八官、置文註解、流刑前にして常泉寺に在りし専光院純師に開山の廿六箇条に註解して贈りしもの、増田重兵衛を使として回答を迫りしものなり。
十七、別頭数扨抄、 鶴岡七兵衛に案内せられ大石寺に行き字頭久成院●師に面して折伏強義を主張したる記事あり。
十、折中抄、 大石寺は現下摂受主義なれば御開山の法魂存さず妙法却つて念仏と同じ等と各所に破責せり。
廿四、戒壇略記、 大石寺隠師の三大秘法の説は取るに足らずと破せり。
廿五、不受大義、 日蓮宗の諸寺院廻責の助に大石寺に滞留し学頭久成院に国家諌言を勧めたるの記事あり。
廿八、再報決疑、 大石寺の一党は折伏の法薬に摂受の毒を雑ゆる故に其山は信敬するに足らざれども、此弊の為に戒壇の本尊に法魂無しとは云ふべからずと云へり、但し此編廿四難中何れにも破大石論あり。
廿一、解惑、 富士山は山主既に謗法なれば法魂存まさずと破せり。
十三、具謄妙潤問答記、 大石寺は謗法の知となれる故に参詣すべからずと云へり。
四十二、千寿庵後室へ状、大石寺本尊に法魂無しと云ひたるを増田重兵衛が憤慨したる事、並に石倉善六が曽て重兵衛は大石寺の執情離れずと評したる事の文あり。
四十四巻、阿許へ状、糸切歯を抜かれたるが広宣流布の時の聖天子の御歯に合致するとの不思議説及び鶴亀松の三師の紋などは大石寺徒が強折の辛苦を厭ひて信徒を引かんとする猾策と批難せり。
日好帰伏等  堅樹書記中の文に依るときは日好と大石寺とは一時たりとも師弟の縁ありし記事を見ざれども、各文は明に大石寺に日興上人に心酔する度高きにあり、此を以つて一時たりとも入門したる事ありと思はしむるが当然なり、次の三通は弘化四年正月に康祥日喜が記しをける中にありて(前々諸文共に各々実印之有るものなり)と奥書せり、本記雪山文庫に在り、但し此の三通に依れば稍不可解の点あれども入門後間も無く絶縁となりたるが如し。
一札の事。
一、此堅樹僧の儀、御門留帰依仕り候に付き、尊上師様御弟子に成し下され有り難き仕合に存じ奉り候、然る上は御門流の法式化儀化法共に相背かせ申すまじく候、自今此僧の儀に付き如何様の儀出来候とも私引き請け尊師え少しも御苦労掛け申すまじく候、後日の為仍て一札件の如し。
明和九年辰三月 上総新堀町、平兵衛印。
日隠尊上師。
一札の事。
一、私儀御門流帰依仕り候に付尊師の御弟子に罷り成り申したく願ひ奉り候処、願の通り仰せ付けられ有り難き仕合に存じ奉り候、然る上は御門流の御法式化儀化法とも相背き申すまじく候、若し違背仕り候はば如何様にも仰せらるべく候、其節一言の儀申すまじく候、仍て帰伏件の如し。
明和九年辰三月 堅樹印。
日隠師え。
差し上げ申す一札の事。
一、私ども此の度彼僧ども教戒仕り御門中え引入れ申すべく存じ奉り候所、始終の処勘弁無く還て御疑を請け迷惑仕り候、之に依て始終とも彼僧どもに付き一切相構ひ申すまじく候、万一此儀に付き虚言仕り己後彼僧等に貧著仕り候はば永劫無間の業積み受け奉るべく候、後日の為一通指上げ申し候、以上。
明和九年辰二月 善六印、茂兵衛印、源蔵、 半左衛門、 藤八印、 十兵衛印。
日隠尊上師え。
蓮門成敗条々  高橋義知の写本雪山文庫にあり、転写の為に誤脱を生じて難読となりたるのみにあらず原文尤も不文晦渋にして奥書には日好上人御箇条の写とあれども、或は滅後の門下の条目にあらずや、修訂に骨を折たるは成毀を成敗とし簡条を箇条としたるのみならざれども、如何とも成し難きもの三四所あるを憾む、但し全日蓮宗について大石寺を総本山とするの説、又は各本山の弊害を衝きて革正を●る等の意気大に可なるものあり。
蓮門成敗条々。
一、四箇の名源を以ての折伏説法勤行邂怠の事、附り万事を閣き謗法を対治せざるの事。一、哀音の唱題誦経は正少助多の為急読疾誦し且華●蝦蟆鳴たる事、附り助行の誦経十分の一たるべき事。
一、其力に随て能く邪正を糺す時、非義の者恨を結び狼籍と申し立て悪者を頼み喧嘩等を恠へ巧む事、附り論議の時独見を執し将に詭弁を飾り無躰に堕負せしむる事。
一、本山多きは諍論の基たるに仍り富士の大石寺を以て惣本寺と為し余寺は悉く末寺たるべし、但し旧跡の前後に仍り座配を設くべし、然れば則僧俗寺院共に改派は其意に任すべし其節本山の届は書状を以て幸便に相達し専ら弘通を為すべき事。
一、貧福に依らず諸堂を構ふる事。
一、縦ひ公方より官職の儀に付き催促之有りと雖も左右無く之を請くる事、附り何の官位に昇進すと雖も袈裟衣は薄墨の外堅く著るべからざる事。
一、仏具世具寄附の者たりと雖も後紋付等の事。
一、本尊の開眼は本山たるべき事。
一、上下に依らず袈裟衣及び共に堅く制す天須菩提に令すべからざる事。
                                     一、薄墨とせず尚織地模様の物を用ゆべからざる事、但し病中及び老衰は山駕を許用する事。
編者云く但項本条に応ぜず条者の滅裂か又は脱条あるか。
一、本末に依らず境内に於いて別に坊舎を立て及び門前に在家を立つる事、附り堂内等に於いて正画せざる事。
一、贔負を以て住職せしめ吟味を成さざる事。
一、信施を受け乍ら寺院等に於いて僧俗とも●応する等の事、附り寺院檀林歌舞伎遊覧酒●●房の事。
一、修理造営は大山小寺に依らず寺院より寄進物勧むる事、但し檀越より相応に修履すべき事。
一、仏前勤行己後に依経机閣く者は供養経巻の文に違背する事。
一、唯座配を用ふべし貫長たりと雖も二畳台の事、但し季縁に円座を許用する事。
一、門前の石碑に首題出し置くは不敬なる事。
一、大小長短に依らず塔婆の事。
一、石碑に首題且つ荘り誇耀なる事、通途の平石を用ふべし。
一、妙経祖像及び銭塔に絵馬を掛くる事。
一、幡打敷等惣じて寄附の物に猥りに経文等を書き撒らし且つ千箇寺の帳に首題遺はす事、附り檀賦伽の貧施に相習ひ既に服せる物を以て幡等に認むる非礼の事。
一、経論の反古を以て襖屏風に粘る●忽の事、附り貴賤に依らず門礼戸守等之を出し又沙弥等経文等に楽書せしむる事。
一、新たに諸尊を造る事、附り祖師の尊儀を除く。
一、開帳及び千部興行等の事、附り万巻陀羅尼等にて祈祷を致し且つ女を起す事。
一、惣じて説法の節財宝を摂●する事、附り聴衆の煙草の事、諷誦文の事、賽銭箱の事。一、仏門の徒たる者は僧俗共に位牌を取持する事、但し首題無き過去帳を用ふべき事。
一、盂蘭盆祭は在家を正意の躰とする事、附り親師君として子弟臣の墓へ参るは非礼なる事、堤燈に首題を認むる等其下にて雑談の事。
一、諷経棚経在家の縁を以て他門の霊檀にて妙経読誦は非礼の事、附り自坊に於いて回向を致すべき事。
一、死骸牌前にて唱題読経は正境に混ずる事。                   一、牌前の設供を以て俗子を誑惑する事。
一、貴賤に依らず信者に猥り院号の事、附り法名は二字に限るべし、但し公家武家は生前の号位を除く。
一、葬式或は過不及の事、附り六道銭等惣じて其節不益を致し猥に歎徳の事。
一、初放心者鉢 ひさしきの事。
一、猥りに出家せしむる事。
一、昇階は護法の為なりなどと申し立て在家を迷惑せしむる事。
一、在家の仏事に寺院僧房に於いて俗子に肴膳を出す事、附り沙弥を以て僧どもに給仕せしむる事、著衣にて道俗衆を迎ふる事。
一、僧たる者は世間の勤を以て専らとする躰の事、但し入院退寺火災等の節止むを得ざる則は自他高下に依らず手札たるべき事。
一、会式の供物尊●等は非札の事、付り供物を在家に配る事、年始歳末暑寒進物等の事。一、寺院に於いて軽賤の●物等を致し愚俗を招集する事。
一、鳴物打ち様非札の事。
一、珠数を揉み鳴らす事、附り念珠取扱ひ●末の事。
一、在家の輩差有るの者に於いては尤礼儀を致すべき事。
一、宗儀宗風を存ぜざる僧侶は寺院の住持たるべからず、附り新義を立て奇怪の法を設くべからざる事。
一、猥りに山法を立る事。
一、縦ひ本山役寺たりと雖も宗義に背き及び宗風に違ふ則は余寺の宗僧並に末寺仲間より急度吟味し早速其職を改易せしむべき事。
右守護法の為に縦ひ由来有りと雖も堅く之を禁じ向後更に異義及び由緒など申し立つべからず、右檀越及び寺院衆僧事に記し留むる中違犯之有るに於ては自檀地檀を簡ばず在家より尚申し達すべき者なり。
編者云く此次に寛文五年七月十一日の後触書条々八箇条を載すれども今之を削る、又次の奥書は此の条文堅条書記中に編入せられざるも或いは日好の定書なりと見るべきが為に態と之を掲ぐ。
右は堅樹日好上人御箇条の写し。
文化第八乙酉の春拝見五月初日尾州小牧に於て岩田利蔵より恩惜し写し畢ぬ、通義門。
同年の秋右義門師より拝借し病中に写し畢ぬ、淳養敬白。
天保五甲夏五月井上氏より拝借し之を写す、武州江戸青山、高橋義知拝写。
堅樹及び勇為の献言  年月を記せざれども流刑前明和九年三月頃に本山に献白せし自筆なるべし、雪山文庫に在り、文意前の蓮門成敗の●略なるものなり此等の献言も大石寺の容るる所とならざりしか或いは此が離山の直因となれるか。
書に云く義分当たれりと云ふとも縦ひ善たりと云ふとも先づ名を忌むべしと、況や目前に躰質在る物をや。
之に依て今恐れ乍ら。
一、重須の色衣御山より御咎無きやの事。
一、馬に召すべき乗物に召す事。
一、鳴物打ち様喧しき事。
一、念珠に附いて総及びもみ鳴らすは経説に未だ見ざる事。
一、修理造営の時の勤め物の事。
一、諸坊は方丈の衰微にして且つ狗犬の基なる事。
一、仏前の二畳台は世礼にも相違の事。
一、牌前の霊供は御書と相違の事。
一、御末寺仏壇に位牌を置くのは経文と乖角の事、付り院日号の事。
一、葬式の事、付り死骸及び牌前にて合掌唱題誦経は正境を立る意と相違かの事。
一、袈裟の裏、過去帳に玄号の事、付り袈裟の白きは御書と相違の事。
一、塔婆石塔の玄号を御本尊と同例成るべき事。
一、尊像の異なる事。
一、序品神力五重玄の事。
一、知識経巻相承と云ふ事。
一、五人所破抄の事。
一、延山より御移転の事。
一、本因妙抄と百六箇寺の事。
一、大師講御書の事。
一、本尊抄の御文脱益の妙経は毒発不定かの事。
一、本門寺法華経の取扱ひ●末なる事。
一、正行口唱は少く助行誦経は多し其上句義但しからず且つ疾舌なる事。
一、要法寺の事、付り折伏は権実相対一往と申す事。
一、第十の御歴代より諌暁相止む事。
一、当時諸山時勢に任せらるる躰の事。
一、書に求めて師とすべしと而るに贔負を以て住職せしむる事。
堅樹、 勇為。
堅樹異流当初の概況  文化十一年十一月廿三日金沢の木村法好が日宣上人の直話を記せし中より抄す、本書雪山文庫に在り。
同年は日好流刑より四十三年め利島●死より三年目なれども話は宣師の少年時代の記憶なるが故に、日好流刑中の江戸の同流の概況を知るに足る。
一、又仰に吾等小坊の時に江戸へも来りし異流といふ者あり西国には大にはやるなり、本は一致方の僧中に器量すぐれて其中にまご付いて居られざるゆへに当流へも恥ぢて来らず、一派のつもりにて四箇の妙言をとなへ上をいさむる時なり余り法花宗は腰弱し命を惜しまずして諌むべしと云て大に流布す公儀へも訟へ出づるなり、其時の御あつかひも御じよさいなし乱心にして御さばきなり、四箇の妙言は御法度なり其方はいづれの出家ぞとありて本山を御呼出し御預けになる故に無宿となりといふよつて禁牢するなり、先達て入牢せし者(名失念仕り候)此二三念跡に牢死せしなり、又外の異流願ひ出でて入牢するなり、不惜身命の者どもなり、宗門の躰にはあらざれどもほこりたるものなり、今にては衣も著ず俗人のごとくして処々に居るよし此間も讃岐の僧来りての●しなりと御意なり。
僧十郎妙聴等異流一統処分の請書  寛永元年十一月十六日江戸寺社奉行の裁断に請書せるもの当時の写し雪山本庫に在る分より略抄す、猶天保十五年十二月小梅有明堂(本行坊)に於て増十郎夫婦一党と便妙日謄学頭等との問答にて此等閉口の事、弘化四年二月妙縁寺にて日英上人より辰五郎一超俸純等が教化を受けたる其他の文書多々あれども且らく此を省略す。
差上げ申す一札の事。
無宿増重郎異流の法義相持ち候一件、引合の者どもをも召し出され再応御吟味の上左の通り仰せ渡され候。
一、つぎ義、夫増重郎付添ひ諸国霊場に参詣いたし出府途中等道中御関所之有るの義をも弁へず、従来旅人の教に任せ脇道通行いたし其上自讃毀他は先年御制禁仰せ出され候処、同人数趣き帰依致し如何の義とも心附かず四箇の名言相唱へ、又は武州加倉村吉兵衛方等にて増重郎の講日を定め異流諸人え説聞かせ候説諸世話重立御計御吟味の上、異流の段相弁へ回心いたし以来右教の趣きに相持つまじき旨申し立て候へども右の始末不届に付き江戸払仰せ付けられ候、但し御講ひ場所俳徊仕るまじき旨仰せ渡され候。
一、吉兵衛義、増重郎を無宿とは存ぜず候へども得と身元も相糺さず同人並に女房つぎを宅に差置き、其上自讃毀他は先年御制禁仰せ出され候処、増重郎教の趣き如何の義とも心附かず帰依いたし朝暮仏前に向ひ四箇の名言相唱へ、殊に毎月講日を極め宅又は村内銀五郎其外の者ども宅に於いて増重郎義先年御仕置に相成り候、摂州梶原村源覚寺元住持日好著述の書類等を引用して説き聞かせ候趣を帰依いたし四箇の名源等相唱へ、御吟味の上異流の段相弁へ回心いたし以来右教の趣き相持つまじく申し立て候へども、右始末不届に附き田畑(七拾町歩と承り及ぶ事)御取上げ所払仰せ付けられ候。
一、藤兵衛儀増重郎を無宿とは存ぜず候へども得と身元をも相糺さず止宿致させ、其上自讃毀他は先年御制禁仰せ出され候処、同人教の趣帰依いたし如何の義とも心附かず四箇の名言相唱へ、御吟味の上異流の段相弁へ回心いたし以来右教の趣き相持つまじき旨申し立て候へども、右始末不届に付き役義取り上げ過料銭五貫文仰せ付けられ候。
編者云く弥左衛門、銀五郎、平八、亀次郎、初五郎、七五郎、勇蔵、惣右衛門の所払、栄蔵、弥左衛門の過料近三貫文、笠原村名主藤兵衛及び宮下村市宿町田中町名主等は過料銭三貫文、加倉村組頭及び各町村組頭等は急度叱り置き等を略す。
一、長吉義、四箇名言相唱へ候義御制禁の段菩提寺本所常泉寺より再応差留め候をも取用ひず、其上同寺知中本行坊弟子演妙と宗意の義に附き口論に及び取合ひ候を押包み、同人へ酒狂の上取り留めざる義を申し懸け理不尽に打ち懸り、其砌り演妙取落し候法衣請取らず抔と事実相違の義出訴に及び、御吟味の上四箇の名言相唱へ候義御制禁の上は回心いたし以来右躰の義相唱へまじき旨申し立て候へども、右始末不埓に付き証文仰せ付けられ候上過料銭五貫文仰せ付けられ候。
編者云く俸純は檀那寺妙縁寺の差留を聞かざるを以て証文の上過料三貫文、辰五郎新六等十一人は証文だけ又栄蔵弥左衛門等九名も同然等の事を略す。
一、常泉寺日領、妙縁寺日宏、常在寺日静、檀家の者ども異流相持ち候趣き聞及び利害申し聞け候までにて帰伏証文も取置かず打過ぎ候段宗判いたし候詮之無し、右始末不埓に付き逼塞仰せ付けられ候。
一、演妙は埓の筋も之無く候に付き御構ひ御座無く候段仰せ渡され候。
右の外先達で御吟味に付き召出され候者ども不埓の筋も之無く御構ひ御座無く候間今般罷り出で候者どもより其段最寄村役人並に町役人どもえ申し通すべく候段仰せ渡され候。
一、増重郎女房つぎ倶に諸国霊場参詣いたし出不途中等道筋御関所等之有る儀は弁へず候とも従来の旅人の申す教に任せ脇道通行いたし、其上無宿の段は押し隠し下谷坂本町壱町目八右衛門店を借り請け、又は武州加倉村吉兵衛方に差し置き貰ひ同人並びに同国笠原村藤兵衛方に止宿候砌り、旅行中名住所存ぜざる旅僧より教を請け候趣き、並に先年異流相持ち御仕置きに相成り候摂州梶原村源覚寺元住持日好著述の聖語綴輯等に基き、右を日蓮の正意と心得、自讃毀他は先年御制禁仰せ出され候所、仏前に向ひ四箇の名言相唱へ追々帰依の者相増し候とて、右吉兵衛笠原村銀五郎外七人方にて毎月講日を極め諸人異流を説き聞かせ穀物金銭等志次第申し請け、御吟味の上仏前に向ひ四箇名言相唱へ候義は自讃毀他にて御制禁の段相弁へ以来相唱へず、右躰の異流相唱へまじき旨申し立て候へども、右始末不届に付き遠島仰せ付けられ候。
右仰せ渡され候趣き一同承知畏り奉り候若し相背き候はば重科に仰せ付けらるべく候、仍て御請証文差上げ申す処件の如し。
寛永元申年十一月十六日 無宿 つぎ。
大岡主膳正領分、武州埼玉郡加倉村、名主吉兵衛、組頭常右衛門、差添人半兵衛。
三上豊前守知行、同郡笠原村、名主藤兵衛、組頭勇右衛門、差添人藤吉。
(己下埼玉在村役人百姓第四十余名を略す)浅草南馬道喜助店、長吉、家主喜助、五人組卯兵衛、名主代平兵衛。
下谷坂本町一丁目勘兵衛店、町医者俸純、家主勘兵衛、五人組茂兵衛、名主代幸太郎。
(己下四十名を略す。)
演抄、常泉寺日領、妙縁寺日宏、常在寺日静。
寺者御奉行所。
前書仰せ渡され候趣き、拙僧儀も罷り出で承知奉り候、仍て奥書印形差上げ申し候、以上。
触頭本妙寺病気に付き、代、寛山。
堅樹末流増十郎●十郎両人の事  無宿増十郎同人妻つぎ(妙聴)の事は関東異流の頭目なるが故に人口に膾炙すと雖も此外に同一称呼のマスジウラウある事は募聞に属す、其記事ある書状増十郎日命より雙林寺臨導に送れる正筆雪山文庫に在り、但し各文献増十と混淆し又●十益十とも混乱して判別容易ならずと雖も、今埼玉の増十郎の後裔なる後藤文吉の直話に依り、増十郎は喜源院信達日養にして此の消息の主日命の増十郎とは全く別人なる事を認め、又此文の●十又は益十が却つて埼玉の増十郎なるを知る又文中に詣山尼とあるが此は臨導に縁故ある者にて、従つて日命にも日養にも法縁を生じたりと見え増十郎日養が在島の時、衣類食料三十四品を送りしに日養の請書が現在せるにて知らる。但し詣山の行実は不明なり。
未だ拝顔を得ず候へども法愛に任せ一筆啓上在り候、先以て御安全に御法勤遊ばさるべく恐悦至極に存じ奉り候、然れば拙僧儀元松平肥後守所従の者にて候所因縁之有り仏門に入り候へども、不学浅智にて祖師の御深意をも伺ひ奉らず、然る所去る寛永年中法難にて三宅島え遠島仰せ付けられ島守と相成り候処、不思議の因縁にて後藤升十郎と申す仁是も法難にて同島に配流致し罷り在り候、毎度御当家の御法門を伺ひ盲亀の浮木に逢ひ候心地有り難き仕合せ歓喜の余り是迄少々心懸け候修行を残らず打捨て、一向御当家本因抄の御本尊に奉拝、自誓を立て尽未来際諸教無得道と誓願仕り候、然る処一昨年三月中尊僧御出府竜之口にて御老中脇坂中務殿え御上奏之有り候由ほのかに伝承仕り誠に有り難き御法志影ながら恐悦奉り候、其後承り候へば洛北雙林寺に御住職の由に伺ふ恐れをも顧みず流人の身に候へどもひそかに書面を以て伺ひ奉り候、右御上奏の御草稿密に伺ひたく詣山尼を以て御取成し頼み入り候、悪からず御賢納下し置かれ万々有り難き仕合に存じ奉り候、扨て又京都要法寺生師再往上奏致され候由伝承仕り候、此程は如何入らせられ候や是等の儀も委細伺ひたく益十郎儀は先年尊顔を拝し候由此度一同御安否伺ひたく愚札を捧げ奉り候恐々謹言。
(安政五年)四月二日 後藤増十郎、日命。
臨導尊師。
臨導日報の大石反抗  雙林寺臨導は明細に記せられたるものなく、門下の佐野好堅院尼と富士本智境との改悔入富に依て所持の書類も従つて縁に依て雪山文庫の蔵本となれり、即ち堅樹書記全部、折伏問弁、愚難摧破及び聖語明鏡顕魔論等なり、吾が恩師霑上摧破論を与へて慈折するや此に報ひたが即ち顕魔論なり、恩師之を捨てず叱●抄両巻を筆して猶慈悔を加ふる、彼れ心中大に危慎して深く篋中に蔵す、好堅智境共に臨導頓死の悪業に疑を起して遂に叱●抄を発見して多年の迷夢を醒まし霑上に懺悔帰正せるなり、現今の肥筑豊の各地に●漫せる正宗の寺院教会は此が賜物なり、顕魔論の大旨は堅樹異流の通義にもあり又広汎なれば之を省略して増十郎関係の史実に参校すべきのみを略抄す、但し其曲筆大に大石本末の所行を毒せり、尚臨導行実の幾分は予が妙寿日成尼伝の初を参照せられよ、尚此下の勢州産とは亀山藩士なりし増十郎にて其妻つぎは姫路藩の出身なり、前文の増十郎日命は会津藩士なるべきか所伝を失す。
聖語明鏡顕魔論、第二答の下、○茲に先年勢州の産にして後藤増十郎と云ふ者あり、御門流を信じ御先代日英上人に謁して大法を聴聞し、又江都に出で信者に会し内外の御妙判を師として聖語を尊び折伏を修行す、又上州の山里小夜戸に行いて聖語を讃歎して信心強盛なり里人之を信ずる者多し、里長和三郎と云ふ者之を嫉み種々謀詐を書き綴り大石精舎の日英尊舎に讒訴す、英尊者之を信じて瞋恚を発し佞悪強盛の和三郎又謀つて小梅日有堂の便妙に讒す、僻学の便妙正義論と題し邪義を綴つて日好尊師及び増十郎を誹謗し尚又英尊者に讒して憎嫉す、増十郎其讒言を解かんと欲し山に登りて面謁を願ふ、英尊者頑にして片言を信じ忿怒して対面を許さず依て力及ばず江戸に帰る、其後便妙同志の悪僧義典演妙等と謀り小梅に会して増十郎を偽り引いて常泉寺に到らしめ悪僧どもを集会し法問の座を儲け摂受を以て折伏を破らんと欲す、然れども邪義を以て正義を破し難し終に博学の便妙閉口す、之に依て●瞋恚を発して貫主に讒す頑愚の英尊者大に怒つて大魔の棟梁となる、便妙義典演妙等の大悪僧と倶に集会し増十郎を憎嫉して宗祖の御本意たる四箇の格言を自讃毀他なりと下し、寛文度の御制禁を犯し新義異流を立つると公廷に讒訴す、之に依て嘉永元申年四月増十郎を始め信者ども御召捕に成りて入牢す、其節板御本尊大聖の御尊像荒菰に包み荒纒にて縛り公庫に投没せらる誠に情無く勿躰無き事言語に絶す魔僧ども本望を遂げたりと之を悦ぶ、増十郎在牢年を越え翌年の四月三宅島に遠流せらる、○。
編者云く洛外雙林寺は本隆寺末なるが如く地人ともに大石寺に無縁なるが、関東異流と目せらるゝ後藤増十郎及び其妻妙聴の法縁は次第に拡がり明治三年に赦免になりし増十郎は間も無く死去して、其信徒の完器講は長命の妙聴を主として東京に蔓延し妙聴は京地の信徒に歿せるが埼玉貝塚の後藤家は四代の末現文吉氏にして既に全く信徒となれり、但し一百余念の完器講は相互の人に依りて或いは背き或いは順ひて仏前に於ける四箇の格言をのみ止めざりし確執情強かりしものなり、臨導日報の雙林寺に於ける京都の信徒も多くは住本寺に帰し其多数を誇れる筑豊の信徒は妙寿日成尼の奮起に圧倒せられて概ね正信徒に帰れる事法魔の至りなりと云ふべし。

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