富士宗学要集第八巻

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第五、 講 学

 宗祖大聖人の立宗已来講学に就いては規律ある庠序の設け無しと雖も、其の「行学の二道を励み候べし、行学絶えなば仏法有るべからず吾も致し人を教化候へ、行学は信心より起るべく候」の金誡は自然に御門下に浸透して一信二行三学の鉄則が厳として実践せられ、師厳道尊の反影として給仕奉公が鼓吹せられ明師の下に桃李言はず下自ら蹊を成すの学舎が随処に竜象を養成したのであるが、又一面には人に依り時宜に随ひ笈を権迹の談所に負ふものありて其の多くは台疏を叡山に学び又地方の小檀林に田舎天台の妙理を味ふありしが、偃武以来一致檀林の隆興するに従つて此に移るもの多かりしも、関東に於ける宗学生に特に真率の気ありと見え再三分離の末漸く富士八品合同の細草檀林を起して台学を講じ以て官憲の保護の下に出世道場の形式と成りて幕政瓦解の末まで行はれたり、此を以つて古来特に自山内に於いて一信二行三学の古訓を実行するものあり以つて世流に拘はらず学統を維持せり、さて西国にては京都勝劣八本山合同の学舎として小栗栖檀林起る、林舎は要山の末寺たり、廃林の事亦細草に同じ、富士系八本山●盟宗団を日蓮宗興門派と組織するや其が名講師を養成して、明治廿四年一月に興門第一支学林を要法寺内に同第二支学林を大石寺内に新設して、八本山の学生を此に入学せしめて宗学余乗国漢文英語等までを教授せしむ、併し乍ら大石寺にては細草檀林存在中も新設の学頭寮に於いては在山の所化と檀林の所化とに其夏隘に勤学せしめ又塔中近末の大衆にも宗学を指南せり、故に細檀廃止後も猶便宜に任せて講学を怠らず瑞聖学校とも布教会学林とも称したる事あり現時は宗学専門道場と称せり、興門第一第二支学林は明治廿六年一月に至り其儘東部西部学林と改称せしが、明治卅二年三月に官制の私立中学校に準拠して更に学科を改め私立要山学林、私立大石寺学林と改称せり、此時八本山連盟より大石寺は独立分離したるが故に、要山学林は七本山の本門宗学林と為りて現時に及ぶ、此間全日蓮宗統合問題起りて其結果単称日蓮宗を除いて余の教団連合して統合学林を神奈川豊顕寺等に設けたる事ありしも全関係教団の講学の実施は行はれずと云ふ、但し今編の講学の史料は細栗檀林末期迄として明治已下を省く。

一、廿六箇条遺誡、祖滅五十二年、開山上人御円寂前の置文であり又富士行学の総則となつてをるが其の多条中一二の疑問があるが惜しいかな正本存在せざれば速断に能はぬ、天文五年の写本を今は最古とする房山等に在り、其中より已に山規に属する分は上に抄出せり、今は学事に関するものを掲ぐ、明細の条目にあらざれども後の講学者此に依準したるものなり。
一、器用の弟子に於いては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学すべき事。
一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。
一、予が後代の徒衆等権実を弁へざるの間は父母師匠の恩を振り捨て出難証道の為に本寺に詣で学文すべき事。
一、義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。
一、当門流に於いては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。
一、論義講説等を好み自余を交ゆべからざる事。
                                     二、重須談所の講学。
日興上人重須に談所を置き寂仙房日澄を以て初代の学頭と為すと雖も時日明細の文献を見ず、殊に澄師の学徳を絶讃するもの多くは其弟子として学頭第二世の三位阿闍梨日順の筆に係る、今左に已載の日澄関係史伝の頁数を示すのみ、而して学頭日澄の講学の概況は遂に此を知るを得ざるを憾む。
日澄法義類聚の事、要集宗義部の一、一七頁用心抄。
同く類聚相承の大徳の事、同上二五頁日順血脈。
五千余巻知見、十宗通達、内外博学の事、同上、同頁、同上、一五二頁、日順雑集。
三位日順上人は重須学頭第二世にして長期の重須学寮(談所)中の唯一の実行者であるが、不幸にして病魔の為に常住専心なる事を得なかつた、今左に自舒の文献中より学事に関する記事を掲ぐ次の記文は恐らく日順講学の始めであらうが、此時学頭に任ぜられたりとも見えぬ。
(要集宗義部の一、一九一頁)日順雑集。
文保第二の天初月八日の候之を始め畢る、但し朝、大坊に奉(仕)して之を承り夕御影堂に於いて私に之を説く者なり。
(同上一四一頁)下山坊主に就き奉り見聞、所化宰相阿闍梨、南坊主、式部公、性留已上四人。
法花観心本尊抄見聞。
(同上一三一頁)法華開目抄上私見聞、文和四年正月三日之を始む。
(同上一四〇頁)観心本尊抄見聞、御本に云く文和五年三月五日、富山の麓重須郷南の坊に於いて。
(日順、宗義部の一、八頁)表白。
(前省略)抑今日は天台大師の還化の日、日蓮聖人の御忌日には非ずと云へども、宝前に談論を致し事の次を以て敢て所存を述す○
(同上一〇頁)文保二年十一月二十四日、重須の談所に於いて一座の論談を致す講師の表白。
(同上一一頁)用心抄、○化他門の時は学を以つて先となし自行に入るの日は行に依つて道を進む、○行に且らく上中下の三種有り思惟実相を上と為し香華誦経を中と為し採菓拾薪を下と為す、智も亦広略要の三根を分つ多聞兼学を広と為し能演妙義を略と為し唯唱一句を要と為す、行者の入門各別なりと雖も所得の家業是同し、五濁乱漫の時節は一句拾薪相応せり。
(同上二一頁)富山の下流澄師の遺跡僧尼男女貴賤上下一味同心に本門を仰がば現世安穏後生善処ならんのみ。
(同上二五頁)日順阿闍梨血脈、○次に日澄和尚は即日興上人の弟子類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、○当家の入門に於いて亦次第梯橙す、先づ日向日頂の両阿闍梨に遇つて天台与同の想案を廻らし、次に富山日興上人に依憑して本迹水火の領解を成し彼是校量して終に富山に移り畢んぬ、爾しより已来或は武家を諫め多年謗法対治の訴状を棒げ、或は貴命に応じて数帖自宗所依の肝要を抽んづ、所以に本迹要文上中下三巻、十宗立破各一帖十巻内外所論上下二巻倭漢次第已上二巻且つ之を類聚して試に興師に献ず、興師咲を含んで加被せしむる所なり○。               幸なるかな日順幼稚長大の古今には富山に入つて興澄両師の明訓を受け、盛年修学の中間には叡岳に登つて天台四教の幽頂を伺ひ○、竊に学窓を辞して徒衆を謝遣し屡旧里に帰つて山家に隠居す○、庭上の梅匂ひて乃ち二月を知る、祈節鳥啼来由の伝説を以つて祖師風気の消息を遣し馬に鞭つて大沢を出で驚き走つて富山に詣づ、師の曰はく○我年齢已に傾き唱滅の時至れり、汝肉眼闇きに以って智目猶存せり、縦ひ公場の上奏を経ずと雖も何ぞ強に門徒の公衆を遠離せん、再三の遺告尊貴肝に銘じ四衆の助言辞退するに拠ろ無し○。
○日蓮聖人、本門所伝の導師 日興上人、本尊所伝の師範、日頂上人、(但し天台沙門と号す 類聚相承の大徳
                                           日順                             日澄                                         大妙柔和忍辱弘法諸人に越ゆ道心堅固富山大檀那なり、仍在家に居す      と雖も血脈に之を列す。
(同上三二頁)誓文。
○今仏神を頂戴し奉り聊か祈願の連署を棒ぐることは併ら邪正を●明せしめて倍す令法久住を期する故なり。
暦応五年太歳壬午暮春十四日、駿州富士山麓報恩会合の次でに興師の余流本門の持者道俗同心に評議し訖る、本門寺学頭日順敬白。
(本間俊明師及び富谷日震師調査の学頭十七世日然造立の学頭歴代墓碑に依る)重須学頭墓表。
開山日澄和尚 二世日順贈上人 大妙同上 日円同上五世日済同上 日行同上日有同上 日意同上 日来同上 日進同上 日因同上 日躰同上 日喜同上十四世日長同上 十五世日観同上 十六世日誉 十七世日然大徳貞
享元年甲子十月十六日日然逆修之を立つ。
(古文書に依る時は此の外に左記三人在り碑表とは全く別人なるが、又代数を記せざるは当時不明なりし為か)
治部阿闍梨日伝、要集宗義部の一、九八頁 念真所破抄の識語に「文和五年八月十五日甲州下山大沢の御坊に於いて伝授し畢ぬ、学頭坊遺跡治部阿闍梨日伝生年二十一歳」とあり、但し重須寂仙坊に住したる文献を見ず。
寂仙房日経、前に引く僧俗譲状等の中、明応三年日浄より日国に本門寺を譲るに付いて其の証人の筆頭に「寂仙坊日経」の名あり。
一位阿闍梨日朝、前に出せる明応四年の日経より学頭寂仙坊跡一切を譲る状あり、猶日然学頭已後本門寺にては学頭の名義は存続せり、西山本門寺妙本寺要法寺等に時々学頭の名を見るが、重須及び大石の如く連続せるものにはあらざるか。
                                     三、大石の講学、信行給仕に重きを置ける本山にも台当流の講学無きにあらず、古文献の中より四五を掲ぐ。
日目上人状、祖滅五十一年、目師より鎌倉に在る民部阿闍梨日盛への御状の末文である、重須談所は時に依り人に依りて盛衰常ならず為に上野にても時々講談ありし者と見ゆ、此は民部阿闍梨の方へは正慶元年十月廿九日の到来で即ち目師の七十三歳の御時である、況んや其御壮時に於いて在山の学僧を督して我他共に講学せられた事もあつたらう、今は其文献が存在せぬのみである此状正本総本山に在り。
(前省略)一、義科よく(能)よく読みたため(畳)て二三月と下りて、これ(此)にて若御房児(ちご)とも談義有るべく候、年がよりて仏法のさばくり(詮義)たく候、今年も四月より九月二十日比まで闕日無く御書談じ候ひ了んぬ、恐々謹言。
(正慶元)十月二十五日                   日目在り判。
 民部阿闍梨房。
(要集問答宗史雑部一五〇頁)大石記。祖滅百十八年、建武元年日仙日代問答後の上野重須の動揺を日道上人の講演にて鎮静したる事情の追記である、写本要法寺に在り、今又此を抄録す。
○日代云く迹門は施迹の分には捨つべからず云々、かゝる時僧俗共に日代の法門謂れ無き由を申し合ふ、其時石川殿諸芸に達したる人にして又学匠成りしが、我れさらば日道上人に参つて承はらん、已に彼の御事は聖人の御法門をば残す所よ(得)もあらじと思し食すなり、さて此の由を問ひ申す時、日道上人の仰に云く施開廃の三共に迹は捨てらるべしと聴聞して之を感じ、彼の仁重須に帰つて云く面々皆学問未練の故に法門に迷ひ給ふ所詮此の後は下の坊へ参つて修学し給へと申す、然るべしとて今の坊主宰相阿闍梨日恩其時は若僧にて是も学徒の内にて是へ通ひ給ふなり、さて其の時日道上人は本迹の要文三帖を教へ給ふりなり、此の雙紙は富木殿の子息日頂上人ま(真)ま(間)中山の先師、舎弟寂仙坊撰して日興上人へ之を上げられ給ふなり、是れは本迹の法門にて重須に付き給ふなり、件の要文を春松殿と申せし少人、児(ちご)学匠にて坐しけるが髪をばから(唐)わ(輪)に上げて是の四間にして文字読まれ給ひけるなり、其れを日道上人は御講ありけるなり。
(要集宗義部の二、有師談諸聞書三三頁五二頁及び相伝部等八五頁已下)より更に抄出す、有師の講学は史実なるべけれども纒まりたる史料なきを以つて此等の料より推考せらるべし、又煩しければ一々の年代を贅記せず。
四国土佐の吉奈連陽房の日有より聞書、文明八年五月廿三日、大円日顕之を相伝す。
右此書は坂東下野国金井法華堂の住侶下野阿闍梨一夏中富士大石寺に住山中申し日有の御法門聴聞申し書く時なり、文明四年夏中の聞書、弁阿闍梨日達。
長禄二年初春の比筑前阿闍梨日格登山の時日有に尋ね申す法門なり秘事なり。
(化儀抄の中より)
(五)一、夏中の間勤行を成す人夏に入るとは申さざるなり別行の子細候よしを申すなり、案内を申す事は夏中の間ににら(韮)一もじ(青葱)を御前にてたまはざるは緩怠なるが故なり。
(五五)一、学問修行の時は宗を定めざる故に他宗の勤行の事をなし、又他宗のけ(袈)さ(裟)衣をかく(掛)る事一向子細なきか、宗を定むる事は化他門なり、学問修行は自身自行なるが故なり云云。
(要集信条部一一六頁化儀抄の識語)
仰に曰く二人とは然るべからざる由に候、此の上意の趣を守り行住坐臥に拝見有るべく候、朝夕日有上人対談と信力候はヾ冥慮爾るべく候なり、文明十五年初秋三日、書写せしめ了んぬ。
御訪(ともひら)に預るべき約束の間、嘲りを顧みず書き遣し候なり、違変有るべからず候、筆者南条日住。
(要集疏釈部の一、四九頁六人立義破立抄私記の序文)
時に延徳元年己酉十一月四午時貴命に依り恐々翰林を贅す、左京阿闍梨日教耳順余。
編者此の両文の意を忖度するに時の少年主日鎮上人に呈せしものか、南条日住の行実不明なれども有師滅後の灯明なりしなるべく、左京日教は横入帰伏の学僧にして著実の常灯ならざるも、其遺書は参考以上に上下に読まれたるものらしく、落莫たる学界を益したるや明なりと云ふべし。
(要集宗史部の一、三九一頁続家中抄日永伝)
○又目師の旧跡蓮蔵坊中絶して稍三百余歳に及ぶ、師之を再建して以つて学頭寮と為す、弟子寛公に命じ御書判を講ぜしむるなり、宝永二戊戌六月十五日造り畢る。編者曰く大石の教学は蓮蔵東坊地違乱七十年の弊を受けて有師に稍回復の光著れたれども、戦国時代の苦厄に遭ひ甲駿相の武力に挟まれ衰替を極めしが、十八世精師の伽藍復興に生気を盛ならしめたるも、反面化儀化法の一斑を攪乱せられ、廿二世俊師に至りて此等の革正は著々と企てられ、廿四世永師に至りて其効大に顕はるゝに至れり、経蔵の新設に講学の泉を涌かし寛上の手沢今に明蔵の中に遺れり、郷門不祥の東御堂たりし蓮蔵坊を浄興して新に学頭寮とし学頭を常住せしめ所化寮を設けて細草檀林夏隘の所化を常坐せしめ、兼ねて山内の大衆の講学に供せられたるなり。
 三重秘伝註の序文、卅一代因師の正本存す。
日寛上人は正徳元年卯六月談所を退院し登山して学頭と為り大弐阿闍梨と称す、爾より来時々御堂と学寮とにて御講談之有り、所謂題目抄の御講是れ始めなり、正徳三癸巳○時御堂に於いて開目抄等を講ずるなり。
開目抄の上、本門寿量文底の事、諸門徒は言ふに及ばず仮令門下の人たりと雖も若し相伝を得ずんば何ぞ能く之を知らんや、故に今師門弟子を悲愍して則ち文を三段に分ち義を十門に開し其の義を尽して分明なり、然るに今師四十九の御時学頭にして未だ方丈に入らず故に師資相承の法門を得ず、是の故に当家秘伝の法門尚闕くる所有り、漸く享保三戊戌の年大坊に入院し当山廿六世に列し宥師より師資の相承之を伝受し、忽に元品無明の雲を払ひ快く本有常住の月を詠む、故に御年六十一歳の春に至り高覧を加へ草案の先抄を捨て更に之を清書し六巻書を残し置く其の中の第一巻なり。
(要集宗義部の二、三六八頁観心本尊抄聞記の奥)
已上観心本尊抄随聴記畢る、御講師大石精舎第廿六世日寛上人師、享保六辛巳六月二四日講じ始む。
此の聞記は大石三十世日忠上人師、御所化の時の聞書なり、○大石勤息覚隆日堅。                                          寂日坊日筌 源立坊日通 妙経寺日栄 寿命寺日信
     本能坊日宣 要行坊日太 下之坊 円澄 一元 大遠日是
     会山日円 学養日感 覚林。
同聞衆                                       孝明日詳 文承日東 文敬日忠 永山日貞 永学羨 坦永日硯
     寿命日然 覚応日因 孝弁日修 宥信日言 真隆日閏 量海 湛意
     三省 宥存日延 学宣 円応日真 栄樹 門啓。
編者曰はく覚応日因上人の聞書の始にある分と人名同じ、但し因記には、
    左面(此下に寂日坊等の塔中住職及び所化を列せり)。
所化                                       右面(此下に孝明詳師等の檀林所化を列せり)。
此の列名の中にて聞書きせし人は左の如し。
観心本尊抄聴聞荒増、文承日東廿九世、享保七年十二月十九日記、正本宮城県藤本勘兵衞に在り。
同上、聞記、文啓日忠三十世、記、写本雪山文庫に在り。
同上、講聞上下巻缺、文啓日忠三十世、記、正本総本山に在り。
同上、聞記、坦永日硯記、写本雪山文庫に在り。
同上、科註随文解釈上下、覚応日因、三十一世記、写本雪山文庫等に在り。
同上、聞書下缺、覚応日因三十一世記、正本雪山文庫に在り。
編者云く筆記の年月を書せざる忠師巳下の分は成稿の遅速を知る能はざれども即時の筆記には非るなり、又直聞者以下の末抄は之を省く。
(要集疏釈部の二、六頁観心本尊抄文段の序)
○維時享保第六太年辛丑猛夏中旬、総州細草の学校及び当山所栖の学徒四十余輩異体同心に予に当抄を講ぜよと請ふ、懇志一途にして信心無二なり、余謂らく四十余輩寧ろ一人に非ずや、或は三四並席の誡を脱れんか、是の故に老病堪ふべき無しと雖も遂に固辞すること能はず粗文の起尽を分ち略義の綱要を示す、又之を後代の君子に贈り苦ろに三仏の顔貌を拝せんことを期するのみ。
(同上の奥)。
維時享保六辛丑歳霜月上旬、富士山大石寺廿六世 日寛在り判。
本尊抄因記の奥に。
享保六年辛丑七月十一日相済み十五日祝儀之有り。
とある、寛師の御書講何れも慎重を極め給へども別して本抄に付ては用意厳粛なりしのみならず満講後に態と祝賀があるのは六月廿四日より七月十一日まで十七八日の短期なれども、毎日可なりの長講にして何れの筆記本も十行廿字詰として百五十丁を上下してをる、其間能所一心同行、何等の魔事なく目出たく終講となりたる事は能所共に御本仏への報謝であり其の又大歓喜であるさり乍ら本師の詳東忠等の高足に筆記あるを知らぬにあらねども、満講の後に筆硯を浄めて文段上下を筆せられて四箇月を経て脱稿せられた、是亦大々の御用意である、此御文段が又門生の筆記と曲を異にしてをる所に無限の妙味を感ずるのである。
然るに寛師の講学は檀林時代の台疏及び諸談義を除いて学頭寮に於いて正徳元年より享保七年に至る十二年間に、六巻抄御書五大部及び取要当躰題目抄等の小部に至るまで講演及び講録が残してあるに、其の学寮所化監督の学則壁書等は寸篇も存在してをらぬ、却つて無為にして化する醇化の妙用を拝する、願くは後世も斯く無作の信行学が行はれたき念願が先立つのである。

木絵二像開眼の事因師説孝察日善記の奥に。
      西側 一書久成坊二大円坊三円鏡坊四文琢坊五順教坊六本善坊七省応            八大乗寺九延長十順応十一泰祥
同聴聞衆  東側 所化一孝察二俊隆三覚順四観随五文卿六通賢七運哲八文叔九辰         了十覚賢其外列座。
      椽聞 一汪エ坊二久遠坊蓮浄寺閑居、三延周四宗善其外志の人々列座         。
学頭寮蓮蔵坊歴代、日量上人の記文等に依り以下を自ら補足し、三十世已後は先師の誤脱を修補す、但し学頭の補任は寛師が初代にして上の五代は当時の推称と見るべし。
蓮蔵坊学頭、開基蓮蔵坊日目上人、二代日有九世、三代日精十八世、四代日典二十世、五代日永廿四世。
六代日寛廿六世、七代日詳廿八世、八代日東廿九世、九代日忠三十世、十代日因卅一世、十一代日延上野阿法泉院、十二代日教卅二世、十三代日理篠原阿大遠院、十四代日元卅三世、十五代日真卅四世、十六代日穏卅五世、十七代日堅卅六世、十八代日●卅七世、十九代日泰卅八世、廿代日純卅九世、廿一代日任四十世、廿二代日良金田阿信良院、廿三代日文四十一世、廿四代日厳四十二世、廿五代日相四十三世、廿六代日宣四十四世、廿七代日礼四十五世、廿八代日調四十六世、廿九代日珠四十七世、卅代日量四十八世、卅一代日荘四十九世、卅二代日誠五十世、卅三代日英五十一世、卅四代日騰尾張阿久遠院、卅五代日霑五十二世、卅六代日盛五十三世、卅七代日胤五十四世、卅八代日応五十六世、卅九代日照宮城阿法乗院、四十代日正五十七世、四十一代日柱五十八世、四十二代日隆六十一世、四十三代日恭六十二世。

四、妙本寺の講学、郷師門葉も日目上人の系を引いて宗学には殊に努めたるものなり、此れ亦顕著なる文献なしといへども所々に其片鱗を見る、己に山規の下に引ける日向の日●の五箇の制誡の首に、「大衆等一同学文稽古せらるべき事」とあるが全くの例文とは見えぬ、日●自筆の類集記正本妙本寺に在りに依れば。
外道六種の行儀等建武三年二月廿日相伝す安房の国磯村にして。
記九に云く子父の法を弘むる世界の益有り云々、康永三、六、廿三の夜。
止観五に云く夫れ一心に云々、暦応四、二、二日相承。
今此三界の文を読むに六十四説の義あり、康永三、十一月廿九日相承。
我滅度の後に於いて応に斯経を受持すべし是の人能く仏道に決定して疑ひ有ること無しとも説きたり悉く信ずべき時節なり、康永三、八、十八日の已の時初に天の御経所の御前にして相伝。
本迹相違の事、建武三年三月二日磯村相立ち候時示し承く。
釈に曰く妙に別躰無し躰上の褒美は妙名を叙するなり云々、建武二年十二月一日安房国吉浜にして相伝す。
天台の御心は大乗にも十二部経小乗にも十二部経あるべしと定め給へり、南三北七は小乗に三部大乗に九部ありと定む、建武三年二月廿八日相伝す。
日蓮聖人御出世の御本懐の御法門を日目上人御相承は弘安五年正月一日なり、日目上人より日郷御相伝は元弘元年十月一日なり、亦日●此の御法門を日郷上人より相続は貞和元年三(月)七日午の時京都七条坊門にして相伝、御奏聞の時なり、建武二年六月中旬大石寺御仏前にして相伝す先後二度なり。
本迹相伝、康永四年三月一日法華経中三箇の本迹あり。
貞和五年六月十三日日知寺に於いて駿州安州相州或は所々に於いて修学の法門類集せしめ候ひ畢んぬ○。
以上引文の如く建武二年祖滅五十四年より貞和元年祖滅六十四年に至る十一回に亘りて宗義及び台疏の相伝を郷師より受けてをる其中に深義もあり通説もあつたらうが兎も角此等を大事として自筆に止めて置く所に本師の面目を見る、本師の入信の縁起は諸記に在るが如く道証房等より仙師に仙師より導師に転々して指導を受けてをられる、其所に各法義の指導相伝を受けられぬとは云へぬ、但其記文が存在せぬのみである。

開目抄聞書の識語、祖滅二百七年頃、日要日向本永寺に住せし時の談にして日杲の聞書があり、上下二巻に年代を知るべき料なし、又日杲の識語は二巻共に同一なり、正本妙本寺に在り、猶此の本寿房日杲は要師の高弟にして本永寺の学頭坊を相伝して久しく日向の重鎮なりし故に我師の如きも其学法の弟子なり、切紙相承に其名残る外台当二箇の法門の相伝多々あるべきも今は此と次の六人立義の二書のみを掲ぐ。
此の聞書は妙本寺日要上人より、直の聴聞なり学頭坊日杲有り判、弟子日我に之を伝授す。
(要集疏釈部の一、一二九頁)六人立義草案の識語、祖滅二百廿一年頃か。
和泉堺本伝寺に於いて妙本寺上人日要の御談義を学頭日杲之を聴聞し奉る処、新太夫阿闍梨日鎮に伝授し奉る、仏法に付いて談合二度、日州へ下向二度目の時なり。 時に天文六年乙酉六月十五日、本永寺日杲在り判。
勧学図、祖滅二百五十七年、日我衆望に酬ひて妙本寺貫首となるの翌年なり、同山講学無きにあらず已に日向の日●の五箇の首に「大衆等一同学文稽古せらるべき事」とあり、此の文前の山規の下に出す、本図の正本は妙本寺に有り。
勧学の図
一、毎日三度勤行の事。
一、毎朝談義覆説の事。
一、毎月一度論義の事。
右の趣き能化所化とも油断あるべからず、仍て件の如し。
 天文七戊戌正月十六日               日我在り判。
 妙本寺常住。
名目見聞の識語、祖滅二百五十九年、中古の写本雪山文庫に在り。
御本に云く、私に云く御能化妙本寺日我上人御談なり、同学衆九人なり、此の抄聴聞の始は天文九年十二月の此之書写すと雖も四十余年を過ぎて清書に及ぶ者なり、時に天正十二年甲申卯月二日之を書写し畢ぬ。本乗寺善行坊日膳阿闍梨、筆者満六十一歳。
止観略大綱見聞三帖の内の中の巻尼崎一筋之抄の識語、祖滅二百六十五年、古写本雪山文庫に在り。
御能化日我上人、伝受主六位公、日自法師之、私に云く天文十五年弥生七日之を書写し畢る。
文句見聞尼崎一流の文句七帖の内第四なり(化城喩品)の識語、祖滅二百六十六年、古写本同上。
能化富士門徒唱導師日我上人、備後国安那郡妙秀寺所化少将日侃在判、廿三歳、時に天文十六年丁未二月時正之を書き畢る、右筆本乗寺衆三河新発意。

一流相伝の大事私の上巻の序文、祖滅二百七十四年、古新の写本同上。
此の抄出書記の由来は天文廿二年癸丑六月廿六日房州に逆乱相起り、同七月十三夜金谷城に於いて当寺世出の道具悉く焼失し畢り、聖教櫃皮籠笈牛十駄余焼失す之に依つて聖教俗書所持する無し、未来の学問者の為め殊に当寺の住持三宝の為に牢人の内に北郡平久里郷犬懸村にて台当二家の聖教の端々見当る処、当家は愚が思ひ出し次第筆に任す、冬中乱飢と謂ひ殊に愚中風唐瘡病気更に以つて労煩一方ならずと雖も志の一分にて之を記す、地盤卅季廃学病気朦昧定めて越度失念之多かるべし、後日の学侶慈悲志の一分を以つて添削清書有るべきなり、少しも思慮有るべからず、仍つて由来此くの如し已上、妙本寺 日我。
同上巻の奥。
唯密の大事。
天文二十四季乙卯十二月廿四日、記者四十八歳日我在判、善行坊日膳に之を伝授す。
右二帖抄は宰相阿闍梨日侃、大蔵卿日常、増円房日提、善行坊日膳懇望の間、日我廿歳の時日柔より之を相伝し廃学三十季なり、然りと雖も口伝の面影に任せ当家は胸中に浮ぶ処之を記す者なり、天文乙卯(廿四年)十二月十二日始めて筆を染め之を案立し同く廿四日末の尅之を草案し畢る、未再治の分なり重ねて清書せん已上、仍つて後学添削を垂るれば将来に於いて尤調法たるべき者か。
同く下巻奥の識語等。
時に延慶三年庚戌七月十と云々但し年号時代之を尋ぬべし、愚が載する所の台家の筋は大躰寛海の談なり、其の外全海乗海能州宝泉寺の住隆海等の聞書数多の本を引いて之を書す、相伝者妙円日穏は武州入東郡星野山無量寿寺(仙波喜多院)仏蔵坊穏海の談所に於いて相承す、其の遺弟蓮住坊日柔より日我口伝の分なり、当家は日我信敬の分時に当つて浮ぶ処を筆に任す、罪障惶れ有り若し相違の法門之有らば後哲取捨有るべき者なり、所願成就、唯密の大事、記者日我。
天文廿五年丙辰二月十一日
右抄文は天文丙辰乱入牢落蟄居の日之を述ぶ、諸冊子金谷城に於いて灰●と為り仍つて所見少微なりと雖も初心の為なり、殊に宰相阿闍梨日侃は日我第一の弟子なり、之に依つて正機として之を伝授す東西門葉大破の時説なり、古に偏に仏法再興の為に志の一分にて病者たりと雖も去冬已来之を記し二月中之を談ず、仍つて示書件の如し、四十九歳日我在り判、唯授祕密。
天文廿五丙辰二月乱中候旅の日房陽北郡岩井郷宮谷中山に於いて之を禀承す、日侃在り判。
同く別本奥の識語。
右此の上巻は天文廿四乙卯十二月に之を述べ下巻は丙辰正月中に之を集め二月十一日草案し畢る未再治の本なり重ねて清書に及ぶべし、岩井宮谷奥山中小屋に之を書す、病身乱中老後露命期し回き間形見の為に之を記す、二月三日之を始め当機の衆宰相阿日侃、大蔵卿日常、増円坊日提に之を伝授す、三河公日膳は障に依つて同学無きなり、穴賢々々、日我在判、蓮鏡坊日邦に之を伝授す。
時に永禄九季丙寅二月日禀承し奉る、初心浅学たりと雖も御慈悲を以つて頂戴させらるゝ処なり、一天四海、広宣流布、令法久住、弘通広大、久遠本因下種の要法断絶無き処なり、南無妙法蓮華経、蓮鏡坊日邦。
編者曰はく我師の後薫たる侃師及び珍師等已後に此等の文献を見ず。

五、要山の講学。
山祖の日尊上人は田舎天台の学生たりしより円味が多くて信仰講学共に其傾きがあり、為に或は山風を作為せしにあらずや日大其風を襲うて隆興したりしも、上行日印住本日大両末系の争閲に累されて要地に陣しながら格別の発興も無く日辰の復公に伴ひて統一の制度を布き従つて開創の勧学院も日●日性の両後継者を得て、日尊日大の往時に倍するの殷盛を見たりとの事なるも、莵集の効少くして左に列記する料の外に一見直に其全貌を悉知するの材料を得ざる事を憾むものである。
(要集宗史部の一、三一一頁)日尊遺誡、祖滅六十年頃か、又此の中より山規の下にも抄録す、爰には学事に関するもの二箇条を抄出するなり。
一、修学の道は釈門の有なり、殊に当宗に於いては大法を弘むる間、八宗の章疏を窺ひ一代の経論を尋ぬべきなり、爰に祖師門跡の中に初心末学の輩或は天台の教観に携はり或は諸宗の廃立を習ふ、然りと雖も弘通の籌策を忘れ還つて他宗の潤色を添ふ、是れ五段の相伝に暗く一宗の奥義を尽さざる故なり、仍て日尊が門人等先づ自宗を極めて他宗に交るべき事。
一、門徒の中其の外の少生入学せしむるに於いては尤興隆と謂つべし、但し其身法器に非んば出家の段斟酌有るべし(下略)。
日辰の学党式等、祖滅二百七十八年頃か、辰師要法寺の復興成りて同貫首に推され山内に勧学寮を設けて学事を興す其年月及び学の規律等明かならざれども、恐らく此学党式は学僧の地位を向上し次の定は学党の権能と利福とを計りたる師の貞見愛学の顕現か而して●師の講学も性師の振興も此に基すと云ふべきか、然れども●性両師の学則も亦之を見る事を得ず、今此二の定の正本要法寺にあり。
 定、学党式。
夫れ学党とは幼稚より学功を積み大坊の談義を勤め然も三十一歳に至るの此、十羅刹堂の談義を致すべし、亦弘通所の早天談義、日中談義亦此の衆中に於いて器用の仁は論議の講師之を勤むべし、論議の講者自行他如是我聞の上の妙法、造仏読誦、在世下種、本迹の名義躰玄義等の大科の論議の講師を、五三年の間論転する中に詰らず成就する人は是を学党と名け初めて御影堂の談議を致すべし、此の外の衆は学党の気分たるなり。
 定。
一、寺家の異見は学党衆の進退たるべき事。
一、年行事月行事は学党衆の異見を受けらるべき事。
一、本寺の僧末寺に下向する時は住持並に学党衆の書状を帯すべし、若し之を帯せざる者は末寺の衆之叙用せられざる事。
一、寺内並に檀那五三人の仏事に於いては先づ学党衆の異見を受くべき事。
一、寺内の仏事に於いては第一に学党衆を請すべき者なり、若し余分有れば自余の僧衆を請すべき事。

六、細草檀林
仙波、柏原、土屋等の田舎天台の談所より更に中村小西等の一致派談林に移り、更に勝劣各山学生が什門を主とする大網の宮谷檀林を起すや、間も無く大沼田に分離し遂に細草檀林を創始したのである、此は隆門と興門との合同であつて林地は土地の八品の住本寺屋敷と市東内山等の村民の寄進に依り、経営は富士門なる法詔寺大石寺末の顕寿院日感此に当り大檀那蜂須賀敬台院を動かし物資の供給を受けて成れるもの、能化には鷲山の智度泉院日達を請し、内部の庶務は伝了日崇後の信入院の手腕に待ちしものにて、資本家側の大石寺は始めには振はず松園日俊後の大石廿二世が漸く八代目の能化として本法院として出でしなり、其れより後は次第に加上して九十世の中に四十世を占むるに至る、此の間焼亡荒廃に就いて大石の努力も次第に責任が加はれるやの感ありしも、明治初年の廃林の時は能化が西山本門寺系の最勝院日●で伴頭が鷲山系の泰隆猿江妙寿寺で住本寺地元と同系たりし為か、大石は何等の権利を行使せざりしやに聞く。
細草新談所由来、祖滅三百六十一年、写本富谷日震師に在り、渋晦の難文句をを漸くに訳するを得たり難読を咎むる事勿れ。
総の上州山辺郡土気の庄細草村新談所、法雲山遠霑寺建立の縁起。
造立し奉る五間半に八間の講堂一宇、掛け奉る十界本有の漫荼羅一幅。
納め奉る一乗醍醐の妙経二部並に机二脚、安置し奉る元祖大聖人の木像一体、備へ奉る三具足。
飾り奉る打敷三枚、鋳奉る●槌、寄附し奉る鳴磬、寄附し奉る常香盤、寄附し奉る礼盤。
寄附し奉る畳七十余畳。
右修する所の善根甄録件の如し、自余の助縁は左に之を載す。
伏して惟みれば一代の教主釈迦法王入滅の春過ぎ梵風漸く幽なり、三会の導師弥勒薩●出現の暁遠く覚月未だ照らさず、付法の諸賢己に赴物に埋もれ垂迹伝燈の衆聖亦利他の応形を隠す、悲いかな昏夜長遠なり誰を憑まんや、妄執の関を破り生死の衢を出でんに波濤渺漫たり何に依つてか精進の帆を挙げ涅槃の岸に著かんや、憑む所は偏に仏陀化群の遺文祖々済衆の疏典に在るのみ、然りと雖も聖言甚深にして初心に解し難く神筆幽玄にして浅智迷ひ易し、上智厚殖の遺輩は他に依らずと雖も亦能く深悟を開く、下愚薄福の●族は専ら縁を仮らざれば微解をも発するに由無し、原ぬれば夫れ縁は三を要す若し教授に非んば則諮詢に地無く亦同行に非んば則切磋●くる有り、此の二を備ふと雖も慣閙の聚落を避け閑静の蘭若に居せずんば争でか学解を成ずることを得んや、是の故に霊場は華夷に満ちて権実の奥旨を講解し精舎は都鄙に盛に本迹の幽微を談釈す、之を講処と謂ひ彼を談林と号す蓋し文理を講談するの謂ひなり、然れば則ち貴賤共に聚りて義天に高翔し邇を避け往に均て深く理海に游ぶ、恰も四八の菩薩各々一円実性を説く真理に非る無きが如く、頗る五百の比丘分々道身因を宣ぶる皆正道に会する似たる者か、是則教授同行の功亦且練若結界の徳なり。
粤に一梵宇あり法輪山妙経寺と号す玄禄犂大荒落の歳鷲山寺先師日乾上人、本門寺現住日映上人住持沙門を唱へ将た学侶を徘徊し両道を堺内に排き二門を境外に閉ぢ樹木為次草庵引列して以て一天の講●四海の談林と定め訖んぬ、爾来十有余年書生日々に累り博学審問の勤新なり僧侶年来慎思明弁の業旧し、而る間東西檐沓ね五時八教々門掌に握つて眼を月氏の聖経に曝す、聖教南北●を並べ一心三観の観道胸に   浮かべて神を晨旦の賢典に費す、寔に是上求菩薩の妙境下化衆生の霊場なり謂つべし法雨を竜池に灑ぎ教風を虎山に扇ぐものなり。
然る処去年季春下旬の比非災下に起り諍訟院を喧しくす、孟夏中幹の天横に上に禍ひし制禁埒を失す仍つて一山の大衆万戸の諸老止まるに処無く遂に彼の旧地を避け畢る、或は聡明博識の類書を荷うて彼に趨り或は豪爽俊才の族笈を負うて此に彳む、於戯悲ひかな痛いかな時なるかな命なるかな貴賤道俗見て魂を消し遠近男女聞て肝を冷す、夫れ学の徳たるや古人之を誡しめ少年諸生一寸の光陰を重んじ先達讃して一日の学問は千仏供養に過ぐと宣ぶ、爾るに彼の凶悪の障礙する所と為り修学の妙業を廃す其惟れ幾くぞや、倩ら此を思ふに千行の涙眼裏に湛へて海静ならず九廻の腸胸中に動いて山安きことなく曽て手の舞ひ又足の踏みどころを覚えざるのみ。
時に信力の施主有り海衆の漂泊するを見て慰問して言く我に往古相伝の地有り当に以て学校に附与すべし大衆用ひて永代に学校の霊地と為すべきや否やと云々、大衆之を悦ぶと雖も講堂を経し学室を営む其力に耐えざれば其手に入らず之を聴くのみ、然る処に老学校の師範鷲山寺の貫長日達上人寺内を割截し以つて学徒に寄附す、此は是れ経営の労無しと雖も隣里の凶賊を悪み近村の異宗を嫌ふの間或は学徒の之を可かざるもの有り、然らば則ち地利は人の和に如かずとは之を謂ふか、彼れ亦成らず。
爰に前住実成後住法詔の顕寿院日感上人聞いて憂愁す、悲いかな諸生不幸にして時の不祥に遭ふ、多聞の阿難は魔賊に擾乱せられて拘尸那城の嘉席に聞法を忘れ、上達の掬多は波旬の誑惑に値ひて摩突羅国の集会に説戒を●くす、徃古の賢聖猶障蔽有り末代の庸輩安ぞ禍殃無らんや、伝へ聞く印度の育王は八万の塔廟を建てて仏徳を慕ひ支那の武帝は数箇の伽藍を造りて僧尼を度す、是れ則ち修事に限量有りと雖も福徳称計すべからず、若し我遠くに在らば欲すと雖も亦得べからず、今や幸にして近城に寓止する宿善の所薫亦説ばさらん、救はずんばあるべからず度せずんばあるべからずと、時に乃ち二三の小師を暁諭して曰く、諸大弟子漏尽の羅漢●々として皆自営の精舎あり是れ則ち五事の為の故、一に仏恩を報せんが為の故、二に仏法を長養せんが故に、三に凡劣を滅して自ら高貴にする故、四に将来の弟子の●慢を折伏するが故、五に将来の福業を発起するが故なり、汝等若し能く之に従はんや否や、諾せば則ち吾れ本願施主と為らんと云々、時に二三子仰いで之を聴き俯して之を諾す。
此に於いて大檀那阿波侍従忠英公の母堂敬台院日詔信女、信順の胸中に供仏の志を収め随喜の心裏に、施僧の思を発す、而るに今請に望みて願つて施主の一分として珠財を三宝の勝境に投じ浄報を感ぜんとして玉金を万徳の良田に託して妙果を成ぜんと云々、善根内に薫ず豈其れ奇に非ず福業外に資く誰か敢て之を遮せんや、然れば廼ち斯の如き大施の檀越何事か成ぜざらんや、時に又信力の諸人有り各々至誠を抽んで分々に懇志を励まし一紙を寄せ半銭を附す、是れ則ち自然に誘進し法爾に感通す誠に其れ至れるかな。
已にして彼の新寄進地に於いて湟氾を四辺に決し堂舎を中央に構ふ漸年にして其功を遂げ畢んぬ、号して法雲山遠霑寺と曰ふと云々、抑此地に躰為るや東西八十間南北一百歩、西南には原野渺々として遠く人家と絶し、東北には邑里綿々として近く民屋を並ぶ、謂つべし仰いで玄根を攀ぢ本源涅槃の寂々に向ふと、亦乃ち俯して弱喪を導き末流生死の●々を影はす者か、●に此の妙地を卜し以て諸門の学校に列らんとし衆流の庠序を納るゝ者なり、哀れなるかな昔に在りては魔民陥穽の暗に沈み恵光を一朝に失ふ、喜ばしいかな今に於いては仁者の擁護に寄り再び法燈を万歳に挑ぐ、彼れも一時此れも一時天運の循環誠に其れ●なるかな、夫れ性徳不変の真理の海には善を亡し悪を泯すと雖も、修徳随縁の俗諦門には且らく罪を存し福を立つ、是を以つて介爾の造悪も則ち罪を泥梨に開き、毫釐の修善も則ち安明に積む、爾らば則ち今や本願の大徳、大施主、檀越、修法周遍の善根を修し僧那を始心に発し真如平等の資福を作し菩提を終竟に期す、志願既に鄭重功徳豈唐損ならんや、若し爾らば護持の施主随喜の諸人現世には安かに福田に誇りて須達の錦庭に遊び来生には菩城を脱して尊特の宝座に坐せん、乃至沙界恒界等く八解脱の清流に浴し塵刹微塵同じく七宝の茂林に憩はん、重ねて乞ふ法雲普く覆ひ遠く万歳の群生を沾さん、恵光潔く耀き深く一乗円明を照さんのみ、仍て唱ふる所件の如し。
時に寛永第十九壬午の歳六月三日
執行の小比丘等、伝了、三亥、正索、唯円、澄月、正悦、星甫、慶学、以信、青山、了恵、観清、仙虎、仙甫、回鈍、知三、大因、琢雪、三雪、在心、右一結 敬白。
本願大徳 顕寿院日感上人。
護持大施主 敬台院日詔信女。
助縁の檀越。
黄金 拾両 水野出羽守内儀信女。
黄金 一歩 篠原七郎右衛門。
同     高橋新右衛門。
白銀 五匁 沢 清之丞。
同     辻 六兵衛。
                                           斉藤忠右衛門。
同     武智又右衛門。
同 三匁     又兵衛。
自余之を略す。
法雲山遠霑寺年中行事、本量院日扇筆に依る。
正月 三箇日方寿陀三御祈祷 四日朝方寿敬台院 同日方寿泰了院 五日六巻日法上人 七日朝方寿陀賀茂参 同時御経同上荒神 八日朝方寿陀番神開帳 十日方寿義湛日応 十一日朝方寿陀講始 十二日方寿道長日栄 十八日方寿日玄上人 廿一日方寿日要上人
二月 時正会方寿供養三宝 同時方寿自五逆修亡霊回向自一返新寂霊 二日方寿日敬上人 四日六巻日崇上人 五日六巻妙楽大師 七日六巻日興上人 十二日方寿日●上人 十三日方寿日顕上人 十五日朝方寿涅槃会 十六日朝方寿陀誕生会 二十日日泰上人 廿一日方寿日誠上人 廿五日六巻日隆上人 廿六日日元上人 廿八日方寿日什上人
三月 二日方寿日融上人 三日朝方寿陀節句 同時御経同上番神 十六日日良上人廿一日方寿日感上人 廿二日方寿日栄上人 廿九日方寿日真上人 晦日日充上人
四月 朔日方寿興輪日荘 八日朝方寿陀誕生会 十一日方寿陀正信院日定 十一日日全上人 十六日方寿日英上人 二十日寿日堅上人 廿八日朝方寿陀立宗会 日念上人五月 二日方寿日性上人 五日朝方寿陀節句 同時御経同上番神 八日六巻日尊上人 十二日方寿日慶上人 同日夕方(勧寿陀)伊東御難 同日(方寿陀)東金浴室祈祷 十五日日忍上人 廿一方寿日陳上人 廿六日日●上人 廿九日方寿日延上人六月 朔日方寿日養上人 三日夕六巻論議 逮夜 四日朝小夏末一六八 大夏末講説 九日日彦上人 十四日方寿日因上人 十七日方寿日成上人 廿二日六巻南岳大師 廿六日六巻日弁上人
七月 朔日六巻日達上人 三日方寿日穏上人 六日方寿日仁上人 七日朝(方寿陀)七夕 十一日日厳上人 十二日方寿日正上人 十三日夕方寿自六廟参 十四日方寿日暁上人 十五日朝方寿自六盂蘭盆会 廿二日方寿日理上人 廿六日方寿日真上人 廿七方寿日雄上人 廿九日日純上人
八月 時正会(方寿)供養三宝 同方寿自六逆修亡霊回向自一返新寂 六日方寿日秀上人 七日六巻章安大師 九日方寿日全上人 十日日慎上人 十一日方寿日教上人 十二日方寿信了院日悟 十三日日文上人 十四日方寿日通上人 十五日朝方寿神陀番神祭礼 十九日方寿日寛上人 廿三日方寿日慈上人 廿四日日任上人 廿五日方寿日詳上人
九月 五日方寿日透上人 六日日昌上人 九日朝方寿陀節句 同時御経同上番神 十一日方寿日察上人 十二方勧寿陀竜口御難 同時方寿陀東金浴室祈祷 十四日方寿昌山日賀 十五日六巻日忠上人 十六日日迢上人 廿一日日眷上人 廿三日方寿日守上人 廿四日方寿日寿上人 廿五日方寿日勢上人
十月 朔日日堅上人 四日日栄上人 八日方寿日寛上人 十三日一六八大会 廿日方寿日行上人 廿三日方寿日善上人 廿九日方寿日俊上人
十一月 十一日夕方(勧寿陀)東条御難 附方寿信修院道定 十四日方寿日啓上人十五日方寿日宣上人 同夕方寿(神陀)御火焼 十六日方寿日円上人 廿三日夕六巻論議 逮夜 廿四日朝一六八大師会 廿七日方寿日逞上人 廿五日方寿日穏軌上人
十二月 朔日方寿日東上人 十三日朝方寿妙定日香 暮時方寿陀節分 廿三日方寿日寺上人 廿五日方寿日宥上人 三十日日相上人
(堅師外二三の古帳に依る八十三世已下は編者の拾録の故に代数筆明了ならず)
細草檀林方丈能化列祖       伴頭
初祖 智泉院 日達上人京本能寺貫首万治三庚子七月朔日 開基 伝了日崇京妙蓮寺
二祖 勇猛院 日秀上人京妙蓮寺貫首寛文三癸卯八月七日 二代恵昇日宥京本能寺伴頭にて退院
三祖 信入院 日崇上人京妙蓮寺貫首元禄二已已二月四日 三代存了日悟小倉真浄寺始め了遵と号す。
四祖 高運院 日融上人岡光長寺貫首延宝九辛酉三月二日 四代 養山日玄京本能寺
五祖 信了院 日悟和尚小倉真浄寺貫首寛文七丁目未八月十二日 五代 唯性日顕尼本興寺
六祖 源妙院 日玄上人京本能寺貫首元禄十五壬午正月十八日 六代 松園日俊富士大石寺
七祖 本妙院 日顕上人京本能寺貫首元禄十五壬午正月十八日 七代 栄素日円京本能寺
八祖 本法院 日俊上人富士大石寺貫首元禄四辛未十月廿九日 八代 興輪日荘同上伴頭にて還化
九祖 事成院 日円上人京本能寺貫首宝永四丁亥十一月廿三日 九代 義天日寮京妙蓮寺
十祖 仏乗院 日寮上人京妙蓮寺貫首元禄十三庚辰九月十一日 十代 俊貞日定京妙蓮寺
十一 正信院 日定上人京妙蓮寺貞享四丁卯四月十一日 十一 慈雲日啓富士大石寺
十二 久本院 日啓上人富士大石寺貫首宝永四丁亥十一月十四日 十二 永澄日宣尼本興寺
十三 本種院 日宣上人尼本興寺貫首宝永四丁亥十一月十五日 十三 湛意日誠京妙蓮寺
十四 遠寿院 日誠上人京妙蓮寺貫首享保八癸卯二月廿一日 十四 三哲日勢本能寺
十五 蓮華院 日勢上人京本能寺貫首宝永三戌九月二十五日 十五 文了日暁光長寺
十六 法寿院 日暁上人岡光長寺貫首享保三戌戌七月十四日 十六 文俶日逞本能寺
十七 慈眼院 日逞上人京本能寺貫首宝永四丁亥十一月廿七日 十七 春啓日●本興寺
十八 本事院 日●上人尼本興寺貫首元文元丙辰十一月廿九日 十八 永学日成本興寺
十九 円成院 日成上人尼本興寺貫首寛保三癸亥六月十七日  十九 唯澄日栄本能寺
弐十 本光院 日栄上人京本能寺貫首享保七壬寅三月廿二日 二十 貞純日雄本能寺
廿一 本寿院 日雄上人本能寺貫首享保八癸卯七月廿七日 廿一 賀純日慶本興寺
廿二 円光院 日慶上人本興寺貫首享保十八癸丑五月十二日 廿二 諦聴日寺京妙蓮寺
廿三 妙玄院 日寺上人京妙蓮寺主享保八癸卯十二月廿三日 廿三 栄存日宥大石寺
廿四 寿命院 日宥上人大石寺貫首共享保十四已酉十二月廿八日 廿四 学応日誠   養大石寺
廿五 広宣院 日養上人大石寺貫首享保八癸卯六月四日 廿五 覚真日寛大石寺
廿六 堅樹院 日寛上人大石寺貫首享保十一丙午八月十九日 廿六 英俊日仁本能寺
廿七 慈運院 日仁上人本能寺貫首寛延二已年七月六日 廿七 義堪日応本能寺伴頭にて寂
廿八 英住院 日升上人本興寺貫首元文四己未二月十三日 廿八 学承日升本興寺廿九 本成院 日正贈上人大石寺能化ニテ死享保四亥七月十二日 廿九 文永日正大石寺
三十 乾立院 日敬上人本興寺貫首享保廿一丙辰二月五日 三十 瞭遠日敬本興寺                                     三十一 一乗院日通上人本能寺貫首享保十九甲寅八月十四日 三十一 恕円日通本能寺
三十二 守真院日詳上人大石寺貫首享保十九甲寅八月廿五日 三十二 孝明日詳大石寺
三十三 興遠院日寿上人京妙蓮寺貫首元文二丁巳九月廿四日 三十三 昌山日賀本能寺伴頭にて寂
三十四 妙汢@日東上人大石寺貫首元文二丁巳十二月朔日 三十四 自宣日寿京妙蓮寺
三十五 瑞光院日行上人本能寺貫首寛保三癸亥十月十九日 三十五 文承日東大石寺
三十六 専立院日堅上人北山本門寺貫首宝暦十二壬午五月朔日 三十六 恵了日行本能寺
三十七 経道院日因上人大石寺貫首明和六己丑六月十四日 三十七 林雄日堅北山本門寺
三十八 智光院日透上人本能寺貫首宝暦十庚辰九月五日 三十八 玉応日尊要法寺伴にて退談
三十九 泰了院日住和尚本能寺能化ニテ死元文四己未正月五日 三十九 会伝日祐尾州長栄寺伴にて退院
四十 養蓮院日要上人光長寺貫首元文五庚申正月廿一日 四十 覚応日因大石寺
四十一 法泉院日延上人大石寺学頭延享五戊辰五月三十日 四十一 孝●日透本能寺
四十二 真光院日性上人京妙蓮寺貫首明和六丑五月五日 四十二 意俊日住本能寺
四十三 本久院日教上人大石寺貫首宝暦七丁丑八月十二日 四十三 顕了日要光長寺
四十四 栄樹院日寛上人本能寺貫首明和二乙酉十月八日 四十四 宥存日延大石寺
四十五 久遠院日全上人要法寺貫首宝暦十二壬午八月九日 四十五 弁了日性京妙蓮寺
四十六 感応院日英上人北山本門寺貫首宝暦六丙子四月十六日 四十六 寂明日辰大阪久本寺伴にて退談
四十七 大遠院日理上人大石寺学頭宝暦五乙亥七月廿二日 四十七 文孔日教大石寺
四十八 持宝院日元上人大石寺貫首安永七戊戌二月廿六日 四十八 栄林日樹本能寺
四十九 専就院日彦上人北山本門寺貫首天明六丙午六月九日 四十九 会存日全要法寺
五十 守要院日真上人大石寺貫首明和二乙酉七月廿六日 五十 円順日英北山本門寺
五十一 栄光院日栄上人京妙蓮寺貫首安永九庚子十月五日 五十一 完道日理大石寺
五十二 遠妙寺日穏上人大石寺貫首安永三甲午七月三日 五十二 文貞日元大石寺
五十三 樹真院日堅上人大石寺貫首寛政三辛亥十月三日 五十三 林旭日彦北山本門寺
五十四 真珠院日昌上人本能寺貫首安永五丙申九月六日 五十四 完孝日真大石寺
五十五 蓮昌院日慈上人要法寺貫首安永三甲午八月廿三日 五十五 恵暁日栄京妙蓮寺
五十六 宣了院日迢上人本能寺貫首天明四甲辰九月十六日 五十六 恵活日穏大石寺
五十七 本地院日忍上人京妙蓮寺貫首天明元丑五月十五日 五十七 覚隆日堅大石寺
五十八 孝真院日善贈上人大石寺能化ニテ死明和五子十月廿三日 五十八 文了日昌本能寺
五十九 堅雄院日慎上人北山本門寺貫首安永八亥八月十日 五十九 寿仁日慈要法寺
六十 久成院日●上人大石寺貫首享和三癸亥五月廿六日 六十 孝澄日迢本能寺
六十一 堅持院日泰上人大石寺貫首天明五乙巳二月二十日 六十一 慈観日忍京妙蓮寺
六十二 智応院日守上人北山本門寺貫首安永四乙未九月廿三日 六十二 孝察日善大石寺
六十三 授光院日眷上人光長寺貫首天明五乙巳九月廿一日 六十三 倫哲日慎北山本門寺
六十四 専光院日純上人大石寺貫首享和元辛酉七月晦日 六十四 覚浄日●大石寺
六十五 隆明院日念贈上人大石寺能化ニテ死寛政十三申閏四月十八日 六十五 活賢日泰大石寺
六十六 正雄院日勧上人北山本門寺貫首文化元子六月十六日 六十六 倫英日守北山本門寺
六十七 本信院日恭上人京妙蓮寺貫首文化六巳十二月廿五日 六十七 智暁日眷光長寺
六十八 信領院日良上人大石寺学頭寛政五丑三月十六日 六十八 (此下脱名)
六十九 要行院日任上人大石寺貫首寛政七乙卯八月廿五日 六十九 活了日純大石寺
七十 孝善院日文上人大石寺貫首寛政八丙辰八月十四日 七十 孔学日念大石寺
七十一 要順院日厳上人大石寺貫首寛政九丁巳●七月十一日 七十一 堅隆日勧北山本門寺
七十二 東行院日活上人京妙蓮寺貫首 七十二 英素日恭京妙蓮寺
七十三 浄心院日充上人光長寺貫首寛政十戊午三月二日 七十三 源諦日良大石寺
七十四 寛摂院日●上人本能寺貫首享和元辛酉十二月十一日 七十四 倫教 北山本門寺伴にて退す
七十五 彦就院日全上人北山本門寺貫首寛政十二庚申四月十一日 七十五 完岳日任大石寺
七十六 尚道院日相上人大石寺貫首文化二乙丑十二月三日 七十六 活音日文大石寺
七十七 真成院日宣上人大石寺貫首文政五壬午正月七日 七十七 完礼日厳大石寺
七十八 持勝院日調上人大石寺貫首文化十四丁丑正月廿七日 七十八 志誠日浩京妙蓮寺
七十九 浄明院日珠上人大石寺貫首文化十三丙子九月廿二日 七十九 智春日充光長寺
八十 本寿院日量上人大石寺貫首嘉永四辛亥五月廿九日 八十 完道日●本能寺
八十一 本量院日扇贈上人大石寺文化十一戌五月廿六日 八十一 憲承日全北山本門寺
八十二 真就院日荘上人大石寺貫首文政十三庚寅五月八日 八十二 清山 北山本門寺伴にて退す
八十三 本妙院日祥上人西山本門寺貫首 八十三 活如日相大石寺
八十四 本勝院日誠上人大石寺貫首天保七丙申五月一日 八十四 隆順日宣大石寺
八十五 正寿院日亮上人本能寺 八十五 淳明日調大石寺
八十六 泰久院日英上人大石寺貫首明治十丁丑七月九日 八十六 覚英日珠大石寺
八十七 寿昌院日護贈上人大石寺 八十七 秀達日行光長寺伴にて退談
八十八 久遠院日騰上人大石寺学頭安政二乙卯十月二日 八十八 勇弁日演大石寺伴にて退談
八十九 妙道院日霑上人大石寺貫首明治廿三甲寅六月廿四日 八十九 一要日量大石寺
九十 堅樹院日●上人西山本門寺貫首 九十 教好日扇大石寺
九十一 本行院日 本能寺 九十一 淳道日荘大石寺
九十二 英勝院日盛 大石寺 九十二 堅了日豊北山本門寺伴にて退談
光長寺貫首 九十三 覚詳 光長寺伴にて退談
広道院日盛 大石寺貫首 九十四 臨栄日祥西山本門寺
英祥院 大石寺 九十五 唱道 富士妙蓮寺伴にて退談
英寿院日宏贈上人大石寺 九十六 慈存日誠大石寺
取要院日専贈上人大石寺 九十七 知恩日亮本能寺
最勝院日●上人西山本門寺 九十八 恵量 北山本門寺伴にて退談
九十九 広探日英大石寺 百七
百 宣証日護大石寺 百八 泰祥日喜大石寺
百一 泰覚日盛大石寺
百二 便妙日騰大石寺 慈門日専大石寺
百三 慈成日霑大石寺 是妙 大石寺
百四 宣快 北山本門寺
百五 覚真日●西山本門寺 泰隆 鷲山寺
百六 隆達 本能寺
(本量院日扇筆の写本に依る文中文承大石東師林雄北山堅師の定を引けり、両師已後の定と見ゆ、写本雪山文庫にあり)
新説定●。
一、四月下旬には新説中間、頭方へ参り新説御願成され候はゞ一処に御願憑みますると同請すべき事頭云く叶はざる迄も一処に願ふべしと云云、又云く懈怠書持参成されたかと云ふ、若し持参之無くば、然らば今晩なりと明日なりとも持参と云云。
一、四月廿八日廿九日大小不同、五月朔日の旦迄、頭方にて茶を入れ同く茶より二老三老と段々列次に入るゝなり。
大の時廿九の用事。
一、夕飯後しんせつ結を呼び寄せ新説中間へ衣計りにて拙子方へ只今御出と云って使僧をまはすなり。
一、さて皆寄合の節、頭云く何れも寄せまする事別義に非ず此の度大夏末につき何れも先達て御内証の通り弥よ新説の願申上ぐべしと存じます、大切の願望の事なれば一人として相違有りては願成り難く候間、若し相違の思召の御方も之有り候はゞ只今此れにて承りませうずと云云、且くあって二老に云く何とも相違は御座りませぬかと云云、又且くあって二老相違なき旨を頭に向って云ふなり次に頭の云く然らば懈怠書吟味いたすべし、さて中間寄合候はゞ懈怠書三老迄出して吟味す、さて三老迄の中何れなりとも書くなり、或は云く中間より懈怠書寄り候はゞ頭方にて随分念入れ懈怠書人数書き認め置くなり、然れども化儀に其座にて認むべし強く吟味して若し懈怠多き者は起座す、其の時頭二老に向って大分の懈怠にて如何が若し皆々と一処に訴訟申し候はゞ一人の故に外の障と成り申し候はゞ如何か先づかへし申すべきかと二老に談合す、二老の云く左の如しと、然して頭云く爾らば其の許一人にて皆の障りに成り候間、又余の方へも御談合先づ御帰りと云云、さて残りての人数訴訟なり、○懈怠書一帋。
人数書の仕様の事、紙は糊入なり上包はいわき包●の上には上ると斗りなり。
新説人数覚。
誰れ 誰れ 已上何人と書くべし。
玄義何下部入 誰れ 玄義何巻何下部入 誰れ 集解二返の内何序。
右の通り認め置いて吟味して云く先日御持参の懈怠書に相違御座無く候や、御能化様には一々に所記成さる事なれば相違致し難し弥よ相違之無きや、二老の云く相違無しと云ふ、亦頭の云く然らば御大途に伺候仕るべしと云って右の書付け文庫に入れて頭のみ参るなり。
一、頭大途へ参り口上に云く今度大夏末につきまして何れも一同に新説の願仕り度候間、何とぞ、御赦免を蒙り候様に遊ばさるべく願ひ奉り候、則ち懈怠書人数書持参仕ると云って出す時、御伴頭云く役人中寄って談合すべしと云云。
一、頭帰って云く御伴頭云く役人中を寄せ談合した上で赦免いたすであらうと斯様の仰せなり、依って何れも左様に御心得と云云。
一、さて明日御免を遂げ候はゞ方丈御能化様へ礼銭五百銅宛指し上げ候間、兼て其の支度成さるべし。                            (礼銭の結び方等省略す)。
一、さて何れも御帰り成され明日夕丁飯(打版か)次第に又々御出で其節礼銭文庫に入れ御持参成さるべし云云。
晦日夕茶。
一、大途より入参りたる辱う候とて直に皆々同道して参るなり、時に赦免を蒙り其の上で頭より下へ一礼し帰る。
一、御伴頭より高座金の云ひ付けあり。
一、御能化様への礼銭の云ひ付けあり、但し方丈無住の節は是へ持参せよと云ひ附くるなり、一々に持参す役人在座の内迄口上に及ばず。
一、夏末法衣の云ひ付けあり、但し古中玄義は七条法服、新玄義は法服五条なり。
一、役人衆在座の内伴頭寮のかどより立ち還って皆々一同に惣礼す、然して役人衆退散す、次に方丈御能化師に礼に参ること礼銭文庫に入れ座す、次第に御能化の前に出で一礼するなり、頭口上に云く今度大夏末法会につき新説の御訴訟申し上げ候処に早速御領掌遊ばされ御赦免を蒙り有難き仕合存じ奉り候、御礼として一結同道と云云、次に伴頭巳下惣役衆へ別礼あり、其の口上に云く大切の願望何れも様の御影に依り早速御免の段忝き仕合に存じます、御礼の為め一結同道と云云。
一、帰宅して坐して云く大切の願望早速御赦免を蒙り何にも大悦と云云。
一、●ひ談義之有る時伴頭より直に帰宅すべし、然る所へ●ひ談義の者来る然して大途より使来る其の已後は同徒いたすべきことを申し渡し夫よりも同事なり前の如し。
申し渡す事。
一、明日掃除には出でざるなり。
一、御赦免を蒙むる上はたとひ夜中たりとも暫時も袈裟衣離すまじき事なり。
一、明日品刻之有る筈に候間左様に御心得。
一、明日高座金指上げ候間御支度之在るべしと云って自身包を出す此の如く為べし。
上杉原 高座金 金子百 誰 上に斯の如し 上
一、明朝丁飯次第に又々御出で其の節高座金文庫に入れ御持参成さるべしと皈すべし。
五月朔日用事。
一、大途より人来る前の如く一結同道にて文庫に高座金を入れ世事間より座次第に御講場へ直に御伴頭師の前へ至って高座金を指し出す、品札を手にとり頂戴し文庫に入れ又世事間へ帰り皆待合せて一同に帰る、其の節御伴頭より談義の分量何丁何字何行と云ひ付けあり。
一、帰宅して云く役談義衆は御頼の方へ御出で若し留主に候はゞ何返も御出で直に御頼成され候、勿論品札を能作へ御持参成され此へ御帰りあれ。
皆帰宅して申し渡す事。
一、若し集解衆之在るときは只今より茶を一つに入れ諸事隔心無く申し合すべしと云云。
一、さて何れも小路等へ出でられ候節は袈裟衣失念之無き様にと。
一、さて加茂参の節路中に高声等並に内外共に万事神妙其の外遠慮専一の事。
一、談義受取る迄間も之在り候故晩の茶より願文稽古致すべき事。
朔日夕茶。
一、願文稽古の事、但し願文書写し文庫に入れ下座より次第に一返宛再び又一返 是れは異口同音なり口伝あり云云(願文譜付を略す)
三日夕茶申し渡す事。
一、明日手前談義の衆は御能化様より中座衆迄持参成さる、但し能作方相済み候時分を見合せ下さるべく候、但し白衣袈裟衣なり。
一、役談義衆明日能作より受取るなり、さて談義受取り候はゞ五日の朝より一番鳥から稽古致さるべき事。
一、さて起し番の事、紙二三枚帳面を作り下座二人目より相渡し申すべき事、此下或義略す。
一、さて五日の衆会過ぎ満山一同に方丈にて酒盛常の如く相済み候はゞ、御能化並に御伴頭上座につき常の如きの礼をつとむ、若し集解衆は彼の上座につき常の如き礼あり、但し独礼之無く候間左様に得意べきなり。
一、さて四日、朝夕ともに茶無し、或時朝計りあり時の宣しきに従ふ、若し此の日に茶之有り候はゞ五日よりの用事を申し渡すべきなり。
五日。
一、茶の事、前方の列次通り入るべし改むるに及ばざる事。
一、茶番の節たとひ多勢たりと●も奥の間をはづす事無用なり廿六人ある節御伴頭へ願候に叶はず候。
一、此の茶より談義稽古、結より頭迄一返宛くるなり、若し大勢の節は人数半分迄くる、又次の茶に其の半分より稽古すべしと併し此れは晩の茶よりの事なり、彼の廿六人の節御伴頭師林雄様より御内証に依って五日の晩の茶より半分づゝにいたし候若し小勢の時は一返づゝなり。付たり、朝茶の節大勢の時は稽古相済み候者を二三人宛能作方へ遣すべし、是れは頭の意次第なり茶場より能作へ遣すは此の日一日のみ。
一、口伝に云く古中玄義は下の方へ向ってくる、又新玄義集解衆は正く上え向ってくると云云、此れは旧格にして而も宜からず用捨すべしと云云。
十一日朝茶。
一、此の日より桧扇子を入るゝ事或は十三日より或は十六日よりと云云、十六日今然るべし時の宜きに従ふか。
十二日夕茶申し渡す事。
一、明日朝茶過ぎより上御能化様より又文句衆迄持参候て執行成さる、但し一度に大勢は御無用と云云、幾度も限あるべからず。
十五日夕茶申し渡す事。
一、扨て前々より明日から講堂にて高座を借り稽古致されて御座る、依って何れも(此間十行程白丁なり連接如何を知らず)此の度も左様に致すべき事。
一、伴頭寮へ行いて高座を借る事茶過の事なり、或は茶の座より直行と云云時宜なり。
十六日用事。
一、衆会過ぎ頭講堂にて談義衆は残れと云ふなり。
一、さて下座を人を以って大行事雑部屋の鍵を借りに遣す事、さて何も高座をかざる事、さて次に座に付いて先々談義頭を以って申し入るべき事、さて申し遣す口上に云く今日より講堂にて稽古仕り候間、御苦労乍ら御出で所作の格式御指南頼み上げますと云云、さて先の頭きたって二三人指南を受け其れより上二人にて指南するなり。
所作の事。 随分修錬して手間を取らざる様にすべし然れども余り早きは見苦し。
一、文庫目八分に持ち出づる事。
一、柄香爐を持ち両足を踏み揃へ中へ出で三礼七五三南の字を見次に妙次に蓮と次第に見をろす尤三二一の次第なり口伝題目を見る事或は無用目玉の上になり外より見宜からず。
一、登高座、右の足より昇り左の足ををる次第不同口伝。
一、合掌、首題三返口唱なり。 一、次に文庫を引き寄する事。
一、次に開経、頂戴して下に置く事。 一、次に卦算置く事。
一、次に香爐引き寄せ香を焼く事、三二一口唱人指し指の折り角を眉間に付くる。
一、次に華摘む事、三二一口唱、母指折角を眉間に付くる。 一、合掌、題目壱返。
一、鼻紙、右に置く事。 一、次に扇子、右に置く事。
一、次に書物をなをす、次に題目を切る思念。 一、次に合掌、題目壱返。 一、金一つ。
一、柄香爐を取って金弐つ。 一、願文、口伝云云。 一、卦算を取る事。 一、次に御経頂き次に訓読なり。 一、扇子取る事。
一、本疏を引く事。 一、次に御書を引く事。
一、磬(きん)三つ、次に仕舞様逆次なるべし。 一、合掌。 一、文庫をつき出し、又合掌して下り申し候。
一、御能化師へ礼の事、已上合掌五度右の足より居て左の足より立つ。
十六日茶申し渡す事。
一、明日よりは高座の稽古一番鳥夜の内四五座晩も暮れて二三座相勤め候様に致すべき事、若し衆会有らば霄に前方の者二人して仕舞ひ、又衆会過ぎ候はゞ当前衆両人して高座をかざる事。
一、看板掛けの節袈裟衣にて出づべきなり。
廿二日夕申し渡す事。
一、廿四日は談義揃で御座る明日は一日朝夕倶に茶を相休むべし、左様に何も御意得候と随分内外実躰に致さるべき事。
一、さて明日の夕飯後満山の茶見舞之有り候間左様に御意得笑ひ声等無用と、但し文句衆迄は立って送るべし、尤も頭作白衣袈裟衣扇子を持つべし。
一、此の条に奥をはづす事勝手次第と云云。
一、さて満山茶見舞過ぎ中間へ互に見舞申さるべし、大方は途中にて礼し合ふなり。
一、さて明後日談義御仕舞ひ候衆は外へ遠慮いたすべき事、次の茶は廿五日夕列次通り入るゝ事。
一、さて何も余念を絶し仏神を頼むべき事、附たり観心の口伝あり、次に頭立つ。
一、次に二老の云く明後日何れもの談義相済み候はゞ皆々講堂にて頭に付き申すべき事、並に頭の文庫は新玄義の頭持つべきなり、尤も一往辞退之有り云云。
廿三日用事。
一、夕飯後に伴頭寮へ行いて廿四日の始まる時分を聞き合すべき事、何番鳥より支度等と云云。
一、次に仲間の結を以って時節を触れさせ何時に手前へ御出でと申し遣すべき事、付たり夕方部数志経読あり一同部頭の所へ集まり異躰同心に致すべき事。
一、珠数一連余計支度の事。
廿四日用事。
一、講堂散銭大行事に納め申すべき事。
一、衆会は常の如し云云。
一、二番太鼓に方丈へ相詰める事、是は一番太鼓にて談頭の部屋により二番方丈と云ふ義、又伴頭寮の半鐘打ち候はゞ談頭の所へ寄り一番太鼓に方丈と云ふ義有るなり、已上両筋御伴頭師に承はるべき事なり、或は多く後義を以って正と為すか、付たり路地より書院の上の門の柱の前より上る役人衆にかまわず直にろく(陸平)に居るなり。
一、三番太鼓の筋初座の者を相立て支度を致さする事、次に科註箱を改むる事。
一、初座を出す事、復倍上数にても如来明見にても。
一、余計の珠数を科註箱へ入るゝ事。
一、頭一人宛つれて出で後門にて因果を含むる事、口伝云云。
一、談義相済み候はゞ満山へ一礼に参るべき事、尤も一同なり、口上に云く御庇に依って談義相済み珍重に存じ奉り御礼の為め何れも参上仕り候、但し一結部屋々々へ参る、役人の方へは皆着座して相勤申すべし、其の余は頭より二三人迄上礼を勤むべきなり。
廿五日
一、朝は茶休み、夕より前の如く入るゝなり、稽古の事。
廿六日
一、冥加金談合して内証を以って御伴頭師へ尋ぬべし、但し前々より弐朱程なり。
一、茶の節、頭の云く談義も相済み候はゞ御大途へ冥加金前々より上げられ候間、此の度も亦上げ申すべく存ずる如何と談合す、二老云く宜き様にと、上座の云く若し爾らば何程々々さて外に何程御持参非人に遣す、附たり非人に遣す分量下に至って出すべきなり。
冥加金包み様。
杉原にて 冥加金 金子何疋 上
若し金弐朱宛の時は二人づゝ持合ひなり、若し半之有り候はゞ別にすべし。
二日茶申し渡す事。
一、茶は今晩のみ明晩亦満山茶見舞有り笑止げに持てなし玉へよ、前の如し。
一、明晩は必ず小路へ御出で御無用。
一、四日は御伴頭師の談義節送り迎ひすべし玄上座より申し来る。
一、四日に談義当前の衆三四人づゝ絶えず相詰めらるべき事、尤も先々に案内ある事。
一、さて方丈へ相詰め談義相済候て御能師へ又常の袈裟衣にて礼を致すべき事、尤も一人宛然して部屋々々へ礼の事、扇子は中啓を持ってなり、但し頭二老は礼略すべし三人めあたり頼むなり御供の障となる故なり、頭御能化様へ礼は談義過ぎて装束の儘にて相勤むべきなり、然して早々装束をぬぎ御供すべきなり。
一、さて何れも御能化師御供に候間、説法前に方丈へ相詰むべき事。
一、さて御能師談義相済み候はゞ役人中並に文句衆へ礼の事一結一同なり、口上に云く御庇に依り新説首尾好く相済み何れも大慶に存じ奉り御礼の為に伺候と云ふ。
一、四日掃除の節水のかけ合ひ之無き様に致すべき事。
一、頭申し渡す事相済み候故に立って行く跡にて二老申し渡す事、四日一結の礼相済み候はゞ雙方へ一同に礼を相勤むべき事、左様に御意得、其の礼の時頭の云く互に大慶に存じます。
四日用事。
一、頭御伴頭の供をちつとし直に初座の者を支度致させ諸事に心附申すべき事、然して御伴頭の供いたし帰る余はかまわず、若し方丈無住の時は集解寮前座御勤めなり、其の節も頭方丈へ参り初座の者計りを気を附くるなり、余は夫れを手本とするが故なり。
一、掃除過ぎ一結寄合冥加金を支度す調ひ候て頭のみ衣着にて文庫に入れ伴頭寮へ持参す、口上に云く御赦免に依って談義首尾好く相済み何れも一同に有り難く存じ奉り御礼として冥加金指し上げます。
一、非人に遣す銭の事、新説中間より十五人までは一貫文、十五人已上何れにても金壱歩なり、前の御伴頭文承様御定めなり、但し当村の非人には遣さず外より来ると門前勘平世話を頼むなり。
已上終。
檀林建立誓約状、後人の立題、祖滅三百六十年、写本上総国細草村内山長八に在り。
一、此の度新談所建立の義、日達唯然え懇望せしむと●も御領掌無きに依って各流浪の処、一統の望約として我等を以って棟梁となすべき旨再三に及ぶ故に、若輩を顧みず遠慮を閣き、法詔寺日感上人並に阿波侍従忠英公の御母儀敬台院日詔信女を大願主として興行を致すべきの旨之を諾せしめ候、病気無資縁帰国を除くの外縦ひ何等の義有りと●も随分如在無く相続せしむべき者なり。
右の旨若し違犯せしむるに於ては三宝の冥罰を蒙り現当の大利を失ふべき者なり。
寛永第十八辛巳暦七月十八日、春琢印、玄旨印。
一統御所化中。
檀林所化中他檀え移るまじき契約の状、後人の立題、祖滅三百六十年、写本同上。
一、此の度日達唯然新談所建立御領掌之れ無く我等を御捨て致さるゝに付き、法詔寺日感上人並に松平阿波侍従公の御母儀敬台院日詔信女を願主となして御両人を棟梁に頼み新談興行せしむる制状の事。
一、御両人を棟梁に仰ぎ新談興行の上は御両人に随ひ少しも違背申すまじき事。
一、建立成就の上は御能化の儀御相談に成され、若し之れ有るに於ては勿論の儀縦ひ御能化之れ無く候とも、両人を棟梁と仕り他所へ移り申すまじき事。
一、此の度の建立万一首尾悪しく或は遅く或は一向不成就に之れ有る時は、縦ひ一生廃学仕り候とも両人の御合点之れ無き間は、見捨て候て他談え移り申すまじき事。
但し或は病気或は無資縁或は叶はざる儀に付き帰国せしむる徒は制の限りにあらず、其の外或は虚言を構へ師父の命令と号し帰国せしむる事曽て以て之れ有るべからず、縦ひ申し登さしむと●も三年の間は一向に之を止むべく候、若し叶はざる儀は急度談合致すべき事。
右条々違背に於ては三宝の冥罰を蒙り現当の大利を失ふべき者なり、仍て請ふ所件の如し。
寛永第十七辛巳暦七月十八日
正索判、 伝了判、 唯円判、 澄月判、 星甫判、 慶学判。
意信判、 春山判、 了恵判、 観清判、 仙虎判、 仙甫判。
会鈍判、 知三判、 太因判、 林沢判、 三雪判。 泰順判。
進上 春琢様、 玄旨様。
房州部屋証文、地主に誓約書、後人の題なり、祖滅三百六十年、写本上に同じ。
一、細草村市東三郎兵衛殿屋敷、南北え五拾間東西七拾七間、次に内山六右衛門殿屋敷、南北え拾弐間東西え五拾間、南の端内山茂兵衛屋敷、南北え三拾八間東西え五拾弐間、南北の角住本寺屋敷、南北え四拾五間東西え弐拾九間、右の屋舗永代迄申し請くる条々の事。
一、細草村に於いて諸勝劣一派の談所屋敷、四人衆の後世菩提の為に永代御寄進有り難く候事。
一、御公儀の御法度に従ひ少しも違背申すまじき事。
一、当郷御地頭代官え何事にても六つかしき義申すまじき事。
一、郷中百姓中とても非義なる事申すまじく候、又は何事にても費散に罷り成る事申すまじく候事。
一、子々孫々に至る迄廻向せしむべく候、但し右屋敷の内にて門前屋敷四間相渡し申すべく候、後日の為に件の如し。
寛永第十八年辛巳年八月七日 春琢在り判、 玄旨同 惣学僧中。
住本寺様、 市東五郎兵衛殿、 市東久三郎殿、 市東久七郎殿、内山六右衛門殿、内山弁兵衛殿、同伊勢房殿。
編者曰く本紙破損に依り宝暦十三年時の伴頭孝澄及び弘化三年時の伴頭慈成(日霑上人)の移し替の識語あり、此外に白川屋敷の沽券の案文あれども反別等の数字と人名年代を記せず、但し此地が檀林草創の敷地にして爾来折々の拡張ありしも次に記する弐通の外は此を略す。
地面寄進手形弐通、祖滅三百八十三年(寛文四年の分)同三百八十七年(寛文八年の分)写本上に同じ。
一、細草村市東次左衛門同次郎兵衛屋敷、談所屋敷より南方え五間東西え八拾四間、後世菩提の為に永代寄進せしめ候、子々孫々に至る迄取り返し申すまじく候、仍て後日の為め件の如し。
寛文第四甲辰年十一月廿二日 市東次郎左衛門印、 同次郎兵衛印。
了辺様 惣学徒中。
一、細草村市東新左衛門屋敷、談所の東門前東西え壱間南北え七間、後世菩提の為に永代寄進せしめ候、子々孫々に至る迄取り返し申すまじく候、仍て後日の為に件の如し。
寛文第八戊申年卯月十六日                市東新左衛門印。
養山様 惣学徒中。
大途諸法度、時々に発せる制法を順次に列記す、写本在所上に同じ。
掟。
一、役談義の事、古玄義衆は自作、新玄義衆は物読み功の多少を論ぜず役談義す。
一、役談義を致さゞる玄義衆は先規の如し。
一、新談義衆の数多く作者の人数少き時は、条能迄を除き次での如く上より二座宛之を作るべき事。
右此の度相定る者なり。
元禄十四辛巳五月朔日(祖滅四百十九年) 伴頭唯澄判 貞純判。
加順判 諦聴判 貞了判 栄存判 学応判。
大途制法の覚(祖滅四百三十二年)
一、大途の大行事は中座已上にて相勤めらるべき事。
一、大途の日行事は上座五人並に当大行事は御赦免の事。
一、新来十五才以前は諸役御赦免十六才以上は諸役相勤めらるべきの事。但し間には十五才已上たりと●も用与有るべく候事。
一、当村諷(ふ)経(ぎん)の事。
家主夫婦は満山の諷経子息は日行事壱人使僧、但し下人水呑(無産農)は之を除く事。
遺跡有る隠居は満山諷経なり遺跡無きは日行事壱人諷経す、付り不動寺薬王寺死去の節は満山諷経の事。
一、細谷村の諷経は大途より使僧一人遣はすべき事、但し子息は之を除く隠居は時宜に随ふ。
一、地主八人死去の節は満山三日の勤之れ有るべきの事、是は略して始日御経三座読み帰るなり、終り日に酒五升之を遣はすべき事、隆達云く近来諸事倹約に付き酒弐升門前より直に行く。
一、小沼田要本寺住持逝去の刻は満山諷経之れ有るべき事。
一、大沼田小沼田剃金清水名主亭主死去の刻は使僧一人遣はさるべき事。
一、論議の講者は玄文上より下へ渡さるべき事。
一、夏末の当日大途の算用已前に引談之れ有るべからざる事。
一、役人たる者は夏末の算用等懈怠無用の事。
一、縦ひ玄義継続の節文句部入の類之れ有りと●も両三輩に過ぐべからざる事。
一、三夏懈怠の輩に於いては先規の如く看板を除くべし但し願ひ之れ有るに於いては部越三枚可一五三は退七等の事、私に云く一は返五は中間三枚、本座より五枚目なり、三は返、七は再三夏、懈怠の者七枚下って掛くと云ふなり、無部昇進の人重の前後七枚が墜落なり、右の掟は宝永七庚申六月二日、但し文句已満の衆は制限にあらざる事。
但し看板部越の事は時の様子に依りて用捨有るべきなり。
不就に著いては所化の出談又文玄集三部、下座一両人の部の上下に於て看盤と混乱をなすべき故に又無部の砌り中間違は難義なるべし格式無きは一概たるべからざるなり。
正徳三癸巳五月廿三日会合の砌相談の上にて之を定むるなり已後此の格式たるべきのみ。
一、新談義の内新玄義の分は一巻未満已満但上座より之を作り之を相渡すべき事、但し条箇の御役者は之を除く。
一、役談義の新玄義並に集解衆は五条法服の事。
一、新談義五人以上なれば御祝儀として大途え金子壱両上ぐる事、十人以上は弐両、但し十六人より以上は弐両弐分なり時宜に従ふ。
一、同く御方丈縦令へ無住たりと●も礼銭三拾疋は大途に納め申すべき事、在住の時は方丈へ収む高座金壱分宛御大途へ収む。
玄集条三部の所化振舞の式法。
一、条集両部は一返の内壱度は先例の如し、但し其の格式。
一、吸物 小附 ひたし物、 一酒 或は三返或は五返 一肴 四種。
一、玄義部中は一夏に一返先例の如し、但し其の格式。
一、吸物 一小附 一香の物 一しゅんかん(筍干) 一酒 五返 一肴 四種。
一、先例の如く非時の新談赦免は禁制なり但し功用の強訴之れ有るに於いては一両輩を過ぐべからざる事、大夏末より次の大夏末に至るまでなり。
一、先師方遷化の式。
七日の衆会方便寿量飛札来る翌日より第7日に塔婆立て満山廟参す此の間に位牌調ふるなり満山白衣なれば出る人少し故に常に衆会の如し、伴頭職は在談の内に死去なれば能化職に同じ。
一、無部にて看板下し再談の義は永代叶ふべからざる事。
一、当本村の内開発の新田百姓拾三人並に向後何人出来候とも、新田百姓諷経の義細谷並に相勤むべき事。
享保十三戊申十月十三日、(祖滅四百四十六年)、談内村方相談の上にて相定め畢んぬ。
一、千箇寺出で来り候節は先規の如し、但し山号寺号のみ書き遣はすべき事、向後は人別名判等之を停止せしむる者なり。享保十五庚戌六月四日(祖滅四百六十八年)会合の砌り相談の上にて之を定め畢んぬ。
一、玄義部中の掛銭、近年時の伴頭預り置き我儘に支配候義宜らざる義に付き、先規の如く時の講主へ預け候様相定め置く者なり。
元文三丁巳六月五日(祖滅四百五十七年)、会合の上之を定め畢んぬ。
看板の事。
一、文玄集三部の内三夏迄に断り之れ有るに於いては看板は其の儘に掛け置くべき事先規の如し。
正徳三癸巳に定む、(祖滅四百三十二年)具に上に之れ有り。
一、文玄集三部の内四夏懈怠の者若し其の夏に断り之れ有るに於ては看板は三枚下し掛け置くべき事但し順に任せ五枚或は七枚時の宜に従ふ若し五夏懈怠の者は断の有無に構はず決して下すべき事。
一、条箇の諸生の分は若し五夏迄は断り之れ有るに於いては其儘に掛け置くべき事、若し六夏懈怠の者は有無を論ぜず決して下すべき事。
右の条々寛保元辛酉五月十七日、(祖滅四百六十年)、会合の砌り相談の上にて定むる者なり。
本書破壊損失莫からしめんと欲して則役人死印を以て新に之を写し本書を封し以て伴頭の箱に納む万代に之を失ふなかれ、自分新格を添加せば堅く年月を記し時の役人印を安くべきの者なり。
寛延三庚午年霜月十九日、(祖滅四百六十九年)。
右古制三十箇条。
文貞判 林旭判 完孝判 恵曉判 智錬 恵活判 覚隆判 文了判。
一、自今已後条箇諸生の輩老若ともに五夏未満に於いては部転を堅く之を停止する事。
宝暦三癸酉年六月五日、(祖滅四百七十二年)評定。
伴頭完孝判 恵曉判 恵活判 覚隆判 文了判 寿任判 孝澄判 慈観判。
一、文句物読は信解品より涌出品に至るまで難席殊に多席之れ有る間、自然麁略に成り且亦壱部在席の間も纔に七年にて已満致し候へば実倶に宜からず候、之に依って自今已後旧式に任せ壱部壱返の内五師を招請し聴聞談合致すべき者なり。
一、玄義物読み近年夏の始め無人の故に折々廃退に及び且又我が儘に夏懈怠等致し候、之に依って壱部在席五夏未満の者は文句に部転を容許すべからず、縦ひ又五夏に満つと●も九十席未聞の輩は之を除くべし。
但し在談病気懈怠の者は法の限にあらず非時部入の輩は用与有るべし。
付り壱巻部入の者躰玄義上部に入る者は之を許容す、宗玄義は上部入の者決して之を停止する事。
宝暦四甲戌年六月四日、(祖滅四百七十三年)
伴頭完孝判 恵暁判 恵活判 覚隆判 文了判 寿仁判 孝澄判 慈観判。
同上、写本上に同じ、猶首に左の附言あり。
「今般諸寺院の僧侶一体の風俗宜しからざるやの旨御触れに付き幸に之を制すべし。」
掟。
一、惣じて檀林法外の不作法の行者は今に適りたるにあらざるなりの重に候へども縦ひ不律不如法の義を追って申し合せ相慎まるべき事。
一、美麗の器物珍味の品超過の様子に相見へ、学校衰微の発端遠国他境の風聞も如何にも相互に随分遠慮を致され、自今已後は往古に習ひ器物野菜有り合せ吸物椀珍味の品堅く停止の事。
一、近来諸色高直にて世上一統の難儀檀内に於いても之を察せられ外実倶に倹約たるべき事。
一、諸部已満昇階祝儀の節も往古に習ひ諸事有り合はせ随分手軽に執行なすべき事。
一、仲間(なかま)々々の会合も一汁一菜核(さかな)は但一種に過ぐべからず候、夜会の節も無汁無菜香の物斗り、縦令両人たりと●も酒弐升核只一二味の外無用の事。
一、節句々々茶湯に於いて酒を過すこと之れ無き様に核有り合はせ限りの事。
但し煮染(にしめ)は一二味の事、付り朝夕飯支度の旨先規より之無く候へば堅く無用の事。
一、近年上下混同を致し無用の雑談間々之れ有り候様相見へ自他の見聞も宜からず、檀林相続の励みも薄く相成り候へば、相互に申し合せ三人已上無礼講之れ無く厳重に会合致さるべく候事。
付り郷等え罷り出で候節も先規の如く相互に上に対し衆中目通り遠慮なさるべく候事。
付り入檀帰国の節往古の旅宿において随分如法に致さるべく候事。
右の条々天和三年癸亥崇師の御埀誡、中頃寛延二己巳の年之を制すと●も近年忘失を致し諸事華麗には相成り候惣じて失礼美麗は若徒の好む処学校衰微の基修練廃退の端めなり自今異体同心に思はれ遠国他境の風聞にも美麗がましき儀之れ無く、上下の礼儀厳重に学校廃退之無き様に相守らるべき者なり。
寛政元己酉年三月日、(祖滅五百八年)
伴頭智春判、 寛道判 憲承判 清山判 活如判 栄存判 隆順判 祐元判。
右の趣き役中評議の上相定むる者なり。
夏間番の事。
一、方丈の番は時の大行事方丈え引き移り居り候て相勤め申さるべき事。
一、伴頭寮の番は寮主と条能と両人夏(げ)間(あい)中の雑用賄ひ致さるべき事。
但し条能より白米壱俵宛伴寮え雑用の助成として差し出さるべきの事。
一、集解寮の番は寮主と上座寮と右両人にて雑用賄ひ致さるべき事。
但し上座寮より集解寮え助成として白米壱俵宛差し出さるべきの事。
右の通り今般役中評議の上相定め置く者なり仍て件の如し。
文政七歳次甲申六月朔日、(祖滅五百四十三年)
太途判。 上座宣証判 条寮広探判 集解寮恵量判 伴頭智恩判。
四部々転の式。
一、条箇部転の事。
聴功五夏を以て集解部転を申し付くべき事。
但し集解部中人少の節は三夏已上の者三人は部転申し付くべき事。
享和二年四月、(祖滅五百廿一年)、之を定む。
一、集解部転の事。
席数三十二席を以て一返となし五夏の内右二返の聴功を以て玄義部転申し付くべき事。
但し懈怠の義は十弐席まで用捨致すべき事。
寛延元年十一月、(祖滅四百六十七年)、之を定む。
一、玄義部転の事。
九十五席五夏聴功によって文句部転申し付くべき事。
但し懈怠の義は十二席まで用捨致すべき事。
宝暦三年四月、(祖滅四百七十二年)、之を定む。
又化主請待夏の節又文句部中人少の節は四夏の者壱人部転申し付くべき事。
天明三年、(祖滅五百二年)、の例なり。
一、文句全部聴功を以て入無部申し付くべき事。
但し方丈無住の節は談合読みの席数を以て入無部申し付くべき事。
一、非時部入の事。
四部聴功已満の者或は病気或は師匠病気等に付き延日に及び候節は非時の部入申し付くべき事。
但し他檀聴功の者は新来たる間当夏は不坐に属する故部転の義相成さゞる事。
右古格部転の式之れ有りと●も近年忘却に及び候輩も之れ有る間重ねて制すこと件の如し。
天保十五年十一月、(祖滅四百六十三年)、大途(久遠院日騰能化の時か)。
制法の条々。
一、博奕諸勝負は世出世の大禁今に適りたるにあらざるなりの重に候へども尚又厳重に相心得申すべく候、若し衆徒の中に於いて檀内は勿論檀外たりとも其の聞え之れ有らば急度相糺し、其の能主より夫れ夫れ師匠最寄等え引渡し永代勤檀停止たるべき事。
附り設ひ自身には其の覚え之れ無くとも同学の違犯をば見聞き押し隠し申し顕さざるにおいては与同罪たるべきの間、在々吟味を遂げ右躰の者之れ有り候はゞ自他の偏党無く申し出づべく候事。
一、檀内は勿論檀外酒店等に於いて猥に酒宴を設け上下打ち混じ放逸懶惰の振舞等は堅く無用の事。
若し右体の者之れ有るに於いては上下相互に一夏の勤功削除せしむべき事。
附り郷等え出でられ候節は先規の如く相互に上座の衆中に対して目通り遠慮たるべき事。
一、上部は勿論部内たりと●も新古上下の節目厳重に相心得、互に教諭を加へ学道増進を専要とすべき事。
附り三人已上打混じ無益の雑談等並に盤●等無用の事。
一、入檀帰国の節往来旅宿等に於いても上座の衆え対し無礼之れ無き様随分如法に致さるべき事。
一、何事に限らず役中評議の上取極め候義を下々より兎角申し出で相拒み候者は徒党同然たるべき事右の条々旧来の禁制たりと●も近来忘却致し候や、又は存じ乍ら忽(ゆるがせ)に相心得候故か上部の者の中に於いても間々違犯の者之れ有る様にも相聞え、自他の見聞も宜からず自然学業の廃退の基ひとも相成るべく、殊に博奕賭(かけ)の勝負の義は公辺の御法度も厳重の義に候へども、別して今般役中評議の上前条の通り之を定むる間堅く相守り申すべく候、尚又大途古来の制法等は沙汰の限りにあらざる者なり。
弘化三丙午年後五月、(祖滅五百六十五年)、遠霑寺久遠院印。 慈成判 便玉判 学真判。
今般御定めの趣き一同忝く承伏奉り候。 隆達判 隆緑判。
一の座要本判 領原判 寛順判 智明判 真善判 泰祥判 信領判。
円道判 要全判 要智判 周弁判 啓学判 儀全判 現寿判。
向達判 向善判 寿任判 宣遂判 恵弁判 ●善判 智善判。
二の座泰賢判 現浄判 栄澄判 泰覚判 智恩判 三智判 智三判。
栄誠判 賢教判 存哲判 恵明判 慈全判 眼竜判 智宝判。
止山判 了観判 向獄判 止静判 教導判 淳承判 恵賢判。 以上。
定。
一、春秋移檀の事。
春は四月廿日限り遠国の者は廿五日迄用赦、大夏末年は十日限り、秋十月廿日限り、遠国の者は廿五日迄用赦但し病気にて遅きは随宜。
一、物読み始めの事。
春五月二日講同く廿五日結席、但し大夏末年は随宜。
秋十月廿四日講始め霜月廿日結席。
一、四部読み難席の節は大途請留め堅く無用、但し文講の節は高声遠慮の事。
前条の通り今般評定件の如し。
嘉永元年戊申五月、(祖滅五百六十七年)、妙道院判(霑師)伴頭便玉判。
集解寮学真判 条箇寮隆達判 上座隆縁判。
下座領原判 中座智明判 中座要本判 中座寛竜判。
弘化度嘉永度の御条目急度相守らるべき者なり。
大途判 伴頭隆達判 集能隆縁判 条能要本判。
上座寛玉判 上座泰祥判 中座泰竜判。
                                     仰せ渡され候趣き有り難く承伏奉り候。
信領判 正元判 寛順判 泰麟判 泰潤判 泰凰判 智宥判 教辺判。
智要判 慈門判 栄誠判 純妙判 是妙判 智誓判 恵明判 哲洋判。
宣立判 純●判 寿山判 恵春判 泰舜判 完応判 真学判 恵澄判。
智鐃判 浄元判 泰覚判 信海判 賢教判 智隆判 智典判 智選判。
慈全判 智存判 泰瑞判。
嘉永三戌五月先々夏度に申し聞せ候筈の処猥に相成り候に付今般右の通り致す者なり。
細草檀林の後記、祖滅五百六十七年、当時の写本(便玉の筆か)雪山文庫に在り。細草檀林の後記。
細草檀林は惟れ十一山の学舘にして富八両派の大途なり、江都を去る東北凡そ二十余里細草は則ち是れ地名にして上総の国山辺郡に属す、山を法雲と命じ寺を遠霑と号す檀林又は談所と通称す、則ち吾が宗の釈疏を講談し五八を研窮し生徒を陶汰し●次を品藻し容儀を整へ級位を定め而して栴檀を●棘に抜く所以の叢林を謂ふなり、蓋し檀林の栄枯や一に生徒の多寡に繋り生徒の多寡は抑も時運の汚隆と相駢ぶ者か、余本檀の盛衰を●ふるに一栄一枯殆んど霄壤を隔つ、初め寛永中に発起主日崇等二十余人甞て沼田に隙有るを以て将に新社を剏めんとし盛んに其の事を謀る此の時に当つて法詔に日感在り富士の英彦たるなり、鷲山に日達在り八品の硯学たるなり、二老の名声藉甚にして流派に泰斗たるに論亡し、日崇の雄略便ち図りて感師を援いて願主となし達師を招いて講頭となし自ら二老に従つて周施し鴻業斯に基いす、風雲既に会し当に遠霑う創開するに当るや真俗靡然として景仰す故を以て土人膏腴を剖きて地を寄する八百畝、阿州故守殿敬台院日詔尼君感師に就いて鉅万の貲財を捨て之を官に表す、嘗て土人の寄する地を卜すれば兆惟れ吉なり乃ち大に伽藍を興し衆寮を営む経営巳に成つて経論其れ棟に充ち典籍其れ牛に汗す、乃ち多衆乃ち閙熱晨に講し昏に誦し喧●九霄に徹す、既に繁り既に栄え欝として栴檀林と成る故に竜児出て象雛育す、乃ち十一山の貫主体本檀の満講を歴ざる莫きなり是れ豈に日崇の勲勣と二老の盛徳とにあらざることを得んや、日崇又本檀の叔孫通として之が清規を建て●次の礼を設け咸く五八研窮の次序を以て紀網を挙げ生徒を策進す、是を以て宗門の学者夥しく本檀に輻輳す想ふに天和より寛保を距るの間最盛且隆となす、今にして其の図書を尋閲するに境内蜿蜒として卯酉二百余歩子午七百余歩、殿堂●崕として其の北に構へ寮舎鱗次として其の南に結す二門三陸七●を通し鯢鐘雲を穿ち雷皷浪を走らす冷厳に法密に螺合して鉦発す、済々たる竜象七百余員惟れ哲方に以て叡三の古昔と頡頑すべきなり是れを一栄となす隆なるかな時運や、若し計るに凡一百年の末寛政内辰に至るに●んで談所祝融の災に罹り学寮二十余区一夕に●●となる、幸にして殿堂は免るを得たり豊根存すと●も而も葉落ちて枝寒し生徒の錫を留むる所を失ひ一朝に氷のごとく解け散ず又竟に再営を企つる無きなり、斯に於いて京洛及び遠鄙の生徒孔だ●厭を釀もし首を栗栖大亀に俛れ馬首東せず籍を本檀に削る者多し、殻然たる丈夫をして不幸に其の旧志を折き活仏の名途を●へ之を鼠窟に陥いらしむ悲しいかな、然り而して時の貫主たる者靦然として復之を顧みるなきは何ぞや謂つべし特操亡きの甚しきと、斯れより厥の後大途漸く衰へ衆逸し約釈け流離契闊して措く所を知らず、若し計るに又多歳荏苒として年斯れ暮れぬ、既にして殿堂傾覆すれども顧みず牆壁●折すれども修めず頽屋滂沱として緑草軒を●し朽棟闌千として薜蘿天に朝す、学者秋霜に遇へば臥して星月を望むべく春雨には居ながら以て袈裟を漂はすべし、其の酷しきや天保己卯より丙寅を距つて極まる、玄文止の講ぜざる十有余年鐘皷空く懸かり松濤茗を沸かし●唔聴くこと稀れにして狐狸婚を講ず志を励ます者●まずと●も年纔に五七名に過ぎず露坐して経を談じ笠を戴いて文を誦す、則ち経論典籍の散迭、調度器具の毀没亦以て概識すべし、海東の竜門永く将に斯に廃せんとす袂を反して以て痛恨すべきなり是を一枯となす汚れるかな。
此の時に当つて前の満講久遠院日騰水火の中に巍坐して意を抗して去らず巻を掌つて講談自若たり、騰公●より学を好み内麻麦に飫き外蛍雪に富む喟然として本檀の蹂躙を歎じ有志者二三に告げて曰く夫れ宗祖の竜興するや天台を祖述し伝教を憲章し後五の懸記に自負して法華を主張す、八宗の権迹を簸揚して高く一実の本門を唱ふ烈たること秋陽の如く天下の人師犯し近づくべからざるなり而れども始めより天台に依倣せざることを得んや、則ち玄文の学伝を失する則は他山の石以て礪となすべき無し遠霑の零落亦惜しからずや、僉云く好しと便ち主盟となし倶に之が復興を枕る、翌丁卯の春襲つて本妙司寺に告訴して諸山の逋慢を数む募るに本檀の回復を以てす、諸山の尊宿其の義膽を嘉して多計の銀を贈り力を戮せて以て志を資く、詩に云く兄弟牆に●めぐ外其の侮を禦ぐと其れ是れを謂ふか、二三の有志者も此に左袒して各其の草鞋を損し学業を借き木を●き土を負ひ体を沾して足に塗り一に興復に従事す抖●十二、陳蔡の厄窮細に皆啖ふ、而して後突兀として塔廟涌き勃焉として祇園出づ未だ旧観に及ばざるの遠しと●も而も功厥の二三に居るべし、是に於いて玄文講ずることを得、五八口に上り●次序すべく容儀観るべし朗日再び挑げ生徒滋す加る、騰公は其れ本檀中興の人か二三子は則中興の佐か諸山の尊宿は則中興の援か、騰公出でずんば斯の盛挙に及ばず諸山援けず二三子励まずんば寧ろ厥の勣を完うするを得んや、日崇をして九原より起たしめば将た如何と言はんや、後の本檀に新●する者、若く為す所を承けて其の道統を継ぎ●沿の業復古の志を墜さゞる則は寛永以還の盛事机に倚つて庶幾すべし、則騰公の志にして霑等二三有志者の願なり旃を勉めよや千金の裘は豈一狐の脇ならんや、惟れ嘉永元年戊甲の夏霑諸公の懇請を辱くし講を満じて遠霑に住す幸にして一盛事の嚆矢となる、騰公の節義と諸公の粉骨とを目撃して其の労勲の洒没して紹がざらんを懼れ万一を形容して以て後の新来者に示す、夫の形勝文物典古の若きは則日崇の記存す。
嘉永元年竜●戊申林鐘上浣の日遠霑蘭若の東窓に於て書す 妙道院日霑 撰。
右当職妙道院霑公述ぶる所、咸く其の実を記す、而して騰不肖が功勣為すこと有りと称揚する所に至りては則ち過ぐ汗顔遺る所を知らざるなり、屡之を辞すれども詞葩に蹶然有るを以て口実となして可かず騰只再興に於いては二三有志者の勤労と諸山の芳勲と倶に埋没して瓊●の報ひざらんことを懼る豊狐文豹之を深山に放つ、蓋し志学の道他無し賢愚混同して口誦耳悟して等く道を得るを桂となす、所謂法雨等雨と檀林庠序の設け是れのみ、然れば則ち遠霑零落せは豈志学零落せざらんや、故に今霑公の記に跋し満山連署して後進の賢哲に依頼す霑公を以て魁となし騰を以て殿となし闔山●次の新旧を以て連署す。
嘉永元年歳次戊申夏六月上浣の日遠霑の南軒に書す、 久遠院日騰 証。
編者云く此下に満山の連署を見ず但し人名は前の嘉永元年五月の定の下の請書と粗同一なるべし。
七、小栗栖檀林。
要法寺廿二世日祐の時に京都勝劣派八山什門陣門隆門真門興門合同檀林の計画成りて、要山にては十一世日法開基の小栗栖に在る久遠山本経寺を其林地に提供し本隆寺日承を能化として開創したのが即ち当檀林であるが従前大石寺と共に所化は細草檀林に勤学したるが故にか、栗檀開創後も百廿余年間一人の化主を出さずして却つて細檀出身の貫主のみ、漸く三十世日良より栗檀出身者を以て継続する事となる、或は前半期は栗山は栗檀に努力せざりし事猶大石の細檀に於けると同轍なりしに非ずやとも見ゆ、但し終末の形勢は之と反し時勢の変動に伴つて他門の学生は疾くに退出して、要山は其寺の所有者なるが故に残留したりしか、是れ細檀の終末に於ける大石とは大に趣を異にしたるなり、今左に富谷日震師よりの料に依りて要項を列記す、但し粗滅等の年紀を省く。
久遠山年中行事。
正 月 三箇日 方便寿量惣持十遍祈祷 十六日 同前。
二 月 時正 方便寿量一七日 十五日方便寿量涅槃会。
十六日 方便寿量宗祖誕生。
三 月 上巳 十如寿量惣持五遍祈祷。
四 月 八日 十如寿量仏誕生 廿八日 十如寿量宗旨建立。
五 月 端午 上巳の如し 十二日 十如寿量陀羅尼品伊東御難。
十六日 正月の如し。
六 月 四日 逮夜一六両巻自我偈当日八巻寿量品根本大師。
七 月 十六日 十如寿量自我偈十遍盂蘭盆。
八 月 時正 二月の如し。
九 月 重陽 端午の如し 十二日 五月の如し竜口御難。
十六日 五月の如し。
十 月 十三日 大師会の如し、祖師会。
十一月 十一日 九月の如し小松原御難。
十五日 鎮守庭火 廿四日 六月の如し智者大師。
十二月 節分祈祷 歳暮 同前 以上。
毎日行法。
朔 日 十如寿量惣持十遍祈祷 一部真読 万人講。
四 日 十如寿量伝教大師 十如自我偈五遍 日承日元日通日潤上人。
五 日 十如寿量妙楽大師 十如自我偈五遍 日祐日義日輝上人貞玉院師。
十如寿量再建施入。
七 日 十如寿量章安大師 十如自我偈五遍 貞体到証日学上人寂静院如安。
十五日 十如寿量釈尊 十如自我偈五遍 善通暢啓上人日伸師。
十如寿量逆修講。
廿四日 十如寿量智者大師 十如自我偈五遍 翁耀保上人了信宗安妙満院高明日法。
廿八日 十如寿量日法上人 十如自我偈五遍 然透允上人休讃妙讃了本宗兄妙清。
右の如し、久遠山学室。
日行事帳の定。
一、毎月三度の衆会怠慢の事、 過料二疋。
一、講釈並に談合出座闕如の事、 過料同前。
一、境内境外の神社仏閣山林田畑等猥に荒敗せしむる事、 過金百疋。
一、案内を経ずして他行他宿の事、附り歌巷の事、過料二疋。
一、門外並に京都往還白衣の事附り旅店に止宿する事、 1月文庫。
一、親疎に依らず寮内に寄宿せしめる者は上座に届くべき事。
一、徒党引率、 永代追放。
一、刀傷打擲、 交衆を放つべし。
一、諸勝負の賭、 永代追放。
一、蹴鞠盤上歌舞等の戯。
一、上下の礼儀濫すべからざる事。
一、小部の徒叨りに弘通の事。
一、万端上座の指図に随ふべき事。
右の如し。
年中行法。
一正 月 三箇日 朝衆会 十六日同前。
一二 月 時正中 朝衆会 十五日同前 十六日同前。
一三 月 二日 掃除 三日朝衆会並に各礼。
一四 月 八日九日朝衆会掃除 廿九日朝衆会。
一五 月 四日夕衆会内外掃除並に各礼 十二日朝衆会。
一六 月 三日朝衆会掃除 四日朝衆会並に各礼。
一七 月 十五日朝衆会。
一八 月 彼岸中二月の如し。
一九 月 八日掃除 九日朝衆会各礼 十二日夕衆会 十六日朝衆会。
一十 月 十二日夕衆会掃除 十三日朝衆会。
一十一月 十一日夕衆会 十五日番神宮庭火 廿三日夕衆会清掃 廿四日朝衆会並に各礼。
一十二月 節分夕衆会 歳暮同前。
毎月行法。
一朔日 十三日 廿四日朝衆会並に掃除。
一四日 五日 七日 十五日 廿八日夕衆会。
右誦経は別に記す、若し以来此の帳面黒汚する者は過料十疋を出して其費を贖はるべき者なり、嘉永七年三月之を改む云云。
衆会の事。
一、一番推半鐘及び大鐘の事。
附り文句以下大衆後門へ相詰むべき事。
一、二番推半鐘の事。
附り文句以下大衆講堂へ出席の事。
一、三番撃大皷の事。 附り出席中座上座の事。
一、諸事大行事の指図たるべき事。
一、読経中神妙たるべき事。
以上、 大衆名。
栗檀能化歴代。
歴数 諱 院号 所属教団ノ本山 元寂年月日 備考
栗檀開祖 日祐 本地院 要法寺
能化初祖 日承 妙雲院 本隆寺 延宝九、八、四
二 日儀 本就院 妙蓮寺 元禄九、正、十二
三 日然 智門院 本禅寺 同 三、廿八
四 日承 再住
五 日善 慈雲院 本隆寺 元禄四、九、十五
六 日伸 本了院 妙蓮寺 延宝四、四、廿八
七 日承 再々住
八 日透 本成院 本隆寺 元禄十、四、廿八
九 日元 本高院 妙満寺 享保元、八、十九
一〇 日通 乾了院 妙蓮寺 元禄十二、十二、廿八
一一 日員 慧林院 妙蓮寺 宝永元、六、十三
一二 日宣 久遠寿院 本隆寺 享保四、九、十
一三 日翁 好雲院 本隆寺 正徳二、二、廿四
一四 日証 本行院 寂光寺 享保七、三、十四
一五 日体 慈門院 妙満寺 十三
一六 日耀 宣示院 本隆寺 元文四、六、廿九
一七 日慧 隆善院 本禅寺 享保十四、九、廿九
一八 日宣 再住
一九 日允 東陽院 本隆寺 享保十六、十一、廿九
二〇 日宣 再々住
二一 日潤 宣注院 本隆寺 享保十五、二、二
二二 日耀 再住
二三 日暢 宣通院 本隆寺 享保十一、二、十五
二四 日量 自詮院 妙満寺 同 九、八、八
二五 日学 東漸院 妙満寺 同 十二、六、十四
二六 日致 悠源院 妙満寺 宝暦六、十一、十二
二七 日允 再々住
二八 日顕 貞旭院 妙満寺 延享元、十一、朔
二九 日耀 再々住
三〇 日達 本昌院 寂光寺 安永元、十、廿八
三一 日就 宣義院 本隆寺 寛延二、二、十
三二 日啓 要信院 妙蓮寺 延享元、十、二十、
三三 日致 再住
三四 日廓 示宣院 本隆寺 明和九、八、廿七
三五 日就 再往
三六 日運 広宣院 本隆寺 明和五、九、七
三七 日広 真照院 本隆寺 安永七、十二、九
三八 日応 本義院 本隆院 明和九、五、廿二
三九 日保 普宣院 妙満寺 同 七、三、廿二
四〇 日伝 長遠院 本隆寺 安永九、七、十四
四一 日達 寂光寺 再住
四二 日輝 幽遠寺 本隆寺 宝暦十三、六、七
四三 日応 再住
四四 日廓 再住
四五 日良 信寿院 要法寺 寛政三、六、十九
四六 日広 再住
四七 日正 本宣院 妙満寺 天明四、九、二十
四八 日研 後宣示院 本隆寺 安永二、二、十七
四九 日勧 信解院 要法寺 同 六、正、三 要法寺学頭丹後常徳寺歴代
五〇 日伝 再住
五一 日周 自然院 寂光寺 寛政八、六、廿八
五二 日住 守真院 要法寺 享和二、三、十八
五三 日融 是則院 本隆寺 天明四、七、二
五四 日研 真浄院 妙満寺 文化十四、十一、三
五五 日立 慈雲院 要法寺 同 八、七、廿二
五六 日晋 本正院 要法寺 寛政十一、四、廿九 要法寺学頭妙伝寺歴代
五七 日達 行妙院 妙満寺
五八 日東 唯妙院 本隆寺 文政七、閏八、廿一
五九 日伝 要行院 妙蓮寺 天保六、十一、廿二
六〇 日明 真了院 本隆寺 文政三、二、十二
六一 日勝 信受院 要法寺 文化七、五、十七
六二 日敏 普門院 本隆寺 同 四、七、廿二
六三 日行 静心院 本隆寺 同 十三、八、十九
六四 日方 岳雄院 妙満寺 同 十一、二、廿三
六五 日英 蓮成院 要法寺 同 八、三、七 要法寺学頭蓮興寺歴代
六六 日圭 是正院 要法寺 同 九、五、廿五 同上天満正徳寺歴代
六七 日● 立正院 要法寺 弘化二、五、一 同三十四世蓮興寺歴代
六八 日解 示円院 本隆寺 文政四、十一、九
六九 日報 後常住院 本隆寺 天保九、四、七
七〇 日禎 豊光院 本隆寺 嘉永元、八、十
七一 日躰 如実院 本隆寺 天保四、七、十五
七二 日永 真行院 本隆寺 弘化元、九、廿一
七三 日久 真解院 本隆寺 文久三、正、廿二
七四 日寿 遠成院 本隆寺 嘉永六、七、廿四
七五 日諌 真性院 本隆寺 天保十四、八、廿三
七六 日庸 正興院 要法寺 同 六、十二、三
七七 日● 円種院 要法寺 嘉永七、九、十一
七八 日章 常光院 本隆寺 同 六、六、二十
七九 日恵 常照院 要法寺 弘化三、五、十二
八〇 日政 真応院 本隆寺 慶応二、正、三
八一 日制 冥応院 要法寺 嘉永二、八、二十 蓮興寺歴代
八二 日輝 示照院 本隆寺 万延元、閏三、十五
八三 日生 本清院 要法寺 慶応三、三、廿五 後三妙院と改む。
八四 日進 円妙院 要法寺 明治廿一、七、廿六
八五 日要 唯寿院 本隆寺 元治元、五、廿四
八六 日勝 修証院 本隆寺 明治十、五、廿九
八七 日妙 真来院 本隆寺 明治十一、七、十一
八八 日貫 聖巧院 要法寺 同 廿一、四、廿一
八九 日周 安祥院 要法寺 同 十七、三 十 什門より帰化す。
九〇 日啓 真汢@ 本隆寺 同 卅一、八、廿二
以下本隆寺のみ。
明治二年要法寺は栗檀と分離脱退し什門、隆門、陣門は疾くに出檀せず。
談所古証文何角の写。
一、京都本山要法寺末寺城州宇治郡南小栗栖村久遠山本経寺、開山要法寺十一代中道院日法上人、永正三丙寅歳に草創し今年に至る迄二百年、御遷化永正十三丙子正月廿八日。
惣境内。
東西南北 講堂東西四間半 南北六間 書院東西四間半 南北七間半 庫裏東西三間 南北七間。
鐘楼、四万九尺 三十番神社、東西四尺八寸 南北三尺、並に拝殿 弐間四面 弁財天社 東西壱尺五寸 南北一尺三寸 学寮長屋八 内本経寺在り 玄義談合場 東西弐間半 南北弐間。
巳上 宝永二乙酉年七月。
右小堀右衛門殿より尋之有り、右の通り在所庄屋より書き上る者なり。
其の後廊架、東西弐間半 南北弐間半 是は酉の年には書上げず、亦惣門二つ 文句談合場の右より後なり。
本経寺談林境内。
一、東西弐拾五間 南北六拾間 但し山林は糺し申さず候。
右の内新部屋東西十弐間 南北拾九間 外薮谷之有り。
元禄五年
右境内の年貢毎年庄屋方迄奉納仕り候、此の外樹木代として毎年銀三拾六匁宛住持方へ遺し申し候巳上。
四月 談林役者。
小栗栖村本経寺談所境内の事。
一、昔より有り来り候本経寺屋敷は談所開闢の刻要法寺より勝劣門流八箇寺へ学文所の為に出し申し候事。
一、古寮の下椿谷は其の以後要法寺日詮買ひ取り談所へ寄進のこと。
一、新寮の屋鋪南北拾九間東西拾弐間並に薮谷は寛文十年戌十二月惣所化中より買ひ取り申し売券状は要法寺え預り置き申し候、尤此の方に其の控書之れ在り候、且又其の売主今に存生にて御座候事。
談林十三箇条格式左の如し。
定。
一、一月三度の衆会怠慢の事 過料二疋。
一、講釈並に談合出座闕如の事 過料同前。
一、境内境外の神社仏閣山林田畠等猥に荒敗せしむる事 過金百疋。
一、案内を経ずして他行他宿の事 過料三疋。 附り歌巷の事 過料二疋。
一、門外並に京都往還に白衣の事 附り旅店に止宿する事 一月文匣。
一、親疎に依らず寮内に寄宿せしむるは上座に届くべき事。
一、徒党引率 永代追放。 一、刄傷打擲 可放交衆。 一、諸勝負の賭 永代追放。
一、蹴鞠盤上歌舞等の戯の事。 一、小部の徒叨りに弘通する事。
一、上下の礼儀之を濫すべからざる事。 一、万端上座の指●に随ふべき事。
右の如し。
小栗栖学校草創の砌り梅薗素聞一流の諸寺に伺ひ定め置かるゝ所の十三箇条の法式弥以て違乱有るべからざるなり、自今巳後入談の所化先規の掟に相背かざる様に伴頭上座指●たるべし、若し法式違犯の者に於て帰寺を致さば其の過軽重に依て沙汰すべきなり、仍て万代不易令法久住の為に件の如し。
天和元辛酉年十一月十五日 本禅寺日然在判。 同役者本高院在印。
寂光寺役者円光院在印 妙泉寺日誠在判 栗法寺日饒在判 同役者恵光院印。
妙満寺日廓在判 同役者常性院印 妙蓮寺日儀在判 同役者俊亮坊印。
本隆寺役者連珠坊印 本能寺日玄在判 同役者蓮住院印。
小栗栖談林上座中。
法度。
一、博奕の事。
一、不儀乱行の事。
一、出京の砌り茶屋等え立ち寄るべからざる事。
右の条々は談所の旧制たりと●も弥堅く相守るべき者なり、若し違犯の学侶に於ては急度追放之れ有るべし、且又其の本寺に於て許容せしむべからざるなり、仍て件の如し。
寛文九年己酉閏十月日 本隆寺日承在判。
妙蓮寺役者寿詮院在判 本禅寺日忍在判 寂光寺日香在判。
妙泉寺役者実教坊在判 栗法寺日詮在判 妙満寺役者学恩院在判。
小栗栖談所随禅院並に伴頭衆。
一、諸末寺住持職、先規の通り其の本寺の下知に任すべし、私情を以て檀那を誘ひ違乱申すまじき事。
一、平僧住持並に所化の説法惣じて法事の節色の法服並に直綴黒衣の外着るべからざるの事。
一、都鄙共に若し之に背けば談義堅く停止の事、但廿五巳後を除く縦ひ廿五巳上たりと●も未だ文句を聞かざる輩は堅く無用なり。
右旧規たりと●も近来緩怠の故に惣会合の刻衆議に依て斯の如し、若し違犯の者に於ては評議を遂げ急度過失を申し付くべき者なり。
元禄十一年戊寅年三月十五日、本禅寺会合の節に於て之を定む。
一、諸談所能所一統に倹約を専とすべきの事、付たり能化入院の儀式美麗堅く無用。
一、玄文能化の外絹の衣服着るべからざるの事、但し下着之を除く。
一、先規の如く綟子の衣絹袈裟は玄能の外着るべからざるの事。
一、玄文両能化入院の節向後祝儀料納上せられば振舞堅く無用なり、若し振舞之れ有るに於ては祝儀料納むべからざるの事。
一、納銀之れ無き祝儀振舞之れ有るに於ては一汁二菜、酒三遍たるべき事。
右の者今般惣会合の節評議を遂げて斯の如くに候。
元禄十五壬午年三月十五日 諸本寺。
文諸談所上座中。
一、玄文能化役目受取の砌り各其の寺より祝儀之を遺す、其の説其の寺々役者或は親切の僧衆指し越し候、夫れに就いて寺並に談所互に心遺ひ費え多く之れ有り、且又世間の遠慮之れ有り候、近き頃京都諸寺会合に談所倹約の儀相極まり候、此に於て次に向後祝儀の饗応の使僧壱人相添え其の能化の方へ遺し能化より談内の衆え披露之れ有る様に相定め申し候間、自今巳後其の心得之れ有るべく候巳上。
元禄十五年壬午年五月朔日、一統の諸寺本能寺は之を除く。
小栗栖檀林上座中へ参る。
送り候祝儀の目録、一酒弐斗、一餅大弐百、一金百疋三種の核代並に雑用、巳上七箇寺定め此の如し。
条々。
一、諸談林文句の講主累夏住檀在るべきの事。
一、玄義の諸者五夏巳満の上は退談なすべき事、但し昇進の節は制の限りにあらず。
一、上座の輩春秋両夏とも始終闕怠無く住檀有るべきの事。
宝永三年次丙戌三月十五日、会本本法寺に於て之を定む。
此の三条の内玄義講釈歳数の事、彼の一致方談所の義にして此方の談所に蒙らざる事に候。
三月日 栗法寺日眷。
小栗栖談所上座中。
定。
一、旧規の如く不時に帳合を致し遠慮無く吟味を遂げらるべし、若し不座の輩之れ有るに於ては急度追放たるべきの事。
一、新来の僧は古法礼式の如く相勤むる上は掃除其の外一切毀辱すべからざるの事。
一、部々の輩私に下部の者を呼び寄せ放言放埓の所作一向停止たるべきの事。
一、諸部の昇進並に諸祝儀談外に於て饗応を致すべからず、縦ひ談内たりと●も能化上座等の参会倹約を守るべきの事。
一、行事渡しの砌り料理等先規の如く堅く相守るべきの事。
右の条々堅く相守るべき者なり、若し違犯の輩に於ては罪の軽重に随て急度申し付けらるべし、若し学室に於て追放の族は諸寺とも許容を致すべからざる者なり、仍て定むる所件の如し。
宝永三丙戌暦十月四日、一統七箇寺。
小栗栖談林上座中。
因に云く其の巳後の事なるか五月八日の夜八つ時に不時の帳合之れ在る時、案内を経ずして他行の者四人、案内を経て寺に帰らざる者両人、弐人は閉門、四人は引談申し付くる趣き、其の本寺宿坊より追て詫の一礼にて段々誤(謝罪)の上帰談の趣き相見え一礼数多之れ在り所用にあらざれば之を記せず。
談林物入り減少の事。
一、文講主入院の節納銀六枚と之を定む、右は満山受用饗応修覆等なり、此の外談林中諸音物堅く停止の事。
一、諸本山え音物縁の有無とも堅く停止す、但末寺たるの談林は其の本山の式に依るべき事、玄講王の移院右に同じ。
一、玄講主移院の時は談内談外一切の音物等堅く停止の事。
一、談林諸祝儀諸振舞能化所化ともに堅く停止の事。
一、先規の如く文講主は院号を称すべし、玄講主は名を称すべし。
此の外新来、横入、新説の所化中諸の入用今般相談を遂げられ急度減少之れ有るべき事。
一、談林の下座にして絹袈裟等猥に着服の由僧俗の批判之れ有り候、上座より急度厳誡之れ有るべき事。
右の段其の本山又手筋之れ在る方より御申し渡しの事。
右は当三月妙顕寺惣会合の刻兼て申す通り諸談林入用の所吟味を遂げ斯の如くに候、御公儀より段々仰せ出され候趣も之れ有り候、且又世間困窮の節堅く相守らるべき者なり。
享保十三年申三月 会本妙蓮寺。
小栗栖談林上座中。
定。
一、座入並に諸部の部入の振舞先規の如く堅く停止の事。
一、玄義一部の内四度の祝儀、古来より講主所化格別に之れ有り候へども向後は能所相互に宜く省略すべき事。
一、集解部入の振舞堅く停止の事、附り此の条諸部一同の掟に候へども近来緩怠に及び以ての外の事どもゝ之れ有る由、先師方諸同寺表へ相聞へ内意之れ有り候、若し違背の族に於ては曲事たるべき者なり。
一、集解部入の礼式必ず物読み日、談合過ぎ講談前に相受け、部入の輩は談合場鳥井の内に列座せしめ談合場に於て則部入の格式等申し渡すべき事、附り部入の砌り玄義巳上の輩見聞を●らず法外の沙汰上下の礼儀違犯の基ひ、若し左様の聞へ之れ有るに於ては急度沙汰すべきなり。
一、集解新部日待の時分法外に騒ぎ候事不届の至りなり、日待は祈誓読誦勿論肝要たるべき事。
一、各箇名目両部共に日待の節他部の輩入り込み雑談等堅く無用読誦祈祷遍に肝要たるべき事。
一、各箇名目両部の輩講堂衆会の砌読誦に音声を出さず珠数を持たざる義宣からず、其の外京都の往還に白衣等俗人の見聞を●らず法外の至り其の聞へ之れ有り、却て大途の式に異背の基ひ互に相慎み私の法度用ゆべからざる事。
右の条々先規たりとも●も近来緩怠の間今般先師方諸同寺表より内意にて相改る者なり。
若し違犯の輩に於ては急度曲事に申し付くべき者なり。
右先規なれども今般添削此の如く印し置く者なり。
年号月日 小栗栖檀林大途。
本経寺一巻き荒方扣。
一、談林講堂の本尊は当寺の常住物体師の御筆なり若し破損の節は檀中修覆を致し申すべし、余寺の本尊掛けさせ申す事相成らざる事。
一、講堂の祖師尊像鬼子母神等古来より当寺常什物の事、附り祖師尊像破損の節は直すべきの事。
一、飯台大釜壱大鍋弐当寺住物談林へ貸し置き申す事。
巳上。
覚。
一、其の門中立儀の旨並に何流と唱へ来り候や異名承り度く候事。
一、檀林位階は幾級に相分れ一階々々を何部と唱へ候や、年数に定り之れ有り候や、且何部にて新説相免し何位にて弘通相免し候やの事。
一、上中下の寺職何位より住職等申し附け候や、且亦一々本山より住職申し付け候やの事。
右三箇条御奉行所より御尋ねの趣にて江府触頭より申し来り候、之に依て檀林の一条一つ書きに致し申し越さるべく候、以上。
寛政元年酉年三月 要法寺役者。
檀林上座中。
右の返書左の如し。
御尋に依て申し上げ候。
当檀の義は所学の書は五部に定まり位階は九級に相分れ候、部々満功の上は上座の評議を以て次上の部へ昇進いたす事に候、且つ一年に春秋両夏相勤め候故年数を呼はずして夏数を唱へ来り候。
名目 一部一級。
最初入檀の者の学び候部にて御座候、当部五夏巳上にて次上の条箇へ昇進申し候事に候。
条箇 一部一級。
当部は三夏巳上にて次上の集解へ昇進申す事に候。
集解 一部一級。
当部は六夏巳上にて次上の玄義へ昇進申す事に候、但し当部台二三夏の時新説相免し候。
玄義 一部一級。
当部一返周聴六夏巳上にて次上の文句へ昇進申す事に候。
文句 一部三級。 此の内、 二の側 一級。
六夏巳上にて中座定数の人に不足之れ有り候へば上席の者より次第に相進み候、但し此の部より弘通相免し候。
中座 一級、人数定り六人。
六夏巳上にて上座定数の人に不足之れ有り候へば上席の者より次第に相進み候。
上座 一級、人数定り五人。
此の五人を役座と定め衆徒の精惰を賞罰し一山の事万端此の五人に係り候、中ん就く上席一人を伴頭と呼び役座中の評議此の人に決し候、惣じて五人本部文句を学び候、此の内伴頭二老三老次次第の如く集解条箇名目の講師を兼勤仕り候。
玄講主 一級一人。
玄義一部周講仕り候へば一山の招請に依り文講主へ相進み候。
文講主 一級一人、一山の院主にて御座候。
文句講談相務め大凡六夏七夏住山の上檀林引き退き或は本山の後住に備はり候。
右文講主退檀の上は次の玄講主を相進め巳下次第に転座いたし来り候。
右諸部の夏数大凡相定まり候へども人々器量の堪不に依り進退盈縮一準ならざる義に御座候以上。
寛政元年己酉三月十三日 久遠山学室判役座。
要法寺御役者中。
右の通り伴頭了道、二老兼城、三老宝洲、評定にて返答に及び候扣なり。

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