富士宗学要集第六巻

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大石破門一、二、三

上に大石と云へば●が山を以て大石と為し富士を以って門と為るに成るなり。
  大石破門一、二、三
 又富士山大石を破らんが為の題額ならば当に破の字を大の上に置くべし是れ能破の破なり。
試に題額を議せば●が山を以て大石と為るか吾門を以て大石と為るか、若し●が山を以て大石と為すは血脈抄に波旬及以ひ元品の無明大石と成りて日蓮の正義の門を破潰す等と日ひ給ふ、●ち豈に波旬無明の巨石に当るに非すや、若し亦吾か門を以て大石と為ば錯置顛倒を免れず破の字・大の上に置く可きなり、猶能破の置処だも知らず三歳の孩子も亦掌を拍って笑ふ可し、興師云はく大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之れを管領す云云、嗚呼施命、興師創立の本刹を破らんと欲する者魔醯波旬に非らずして何とせんや、施命白昼に夢を説いて蜃楼の門を破すか洪笑す可きなり、能く蜃楼門を破し了れば即ち此の処吾法門界に非る事無し咄咄。
此の書の著主は今要法山に在って専ら法柄を●る者にして号して玄能三妙院施命と日ふ。
三妙此の書を著して秘して門外に出たさず通志の人有って竊かに我れに贈る、予即時に筆者をして之を写せしむ、故に此の書を以て正答と謂ふ可からざるなり。
                           加藤浄命

 高祖の金言に曰はく辛き事を蓼葉に習ひ●き事を溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ふ正師を疑って悪侶に擬す其迷誠に深し其の罪浅からずと云云、去る嘉永二(己酉)の年の冬の頃・富士大石寺より僧来り種々に当山正流の大法を破す、剰へ尊師に於て相承之れ無く無得道なりと、然る所悲ひかな初心の俗士彼の魔縁に蕩かさるゝ両三輩既に疑惑を生ず、之に依て止むこと能はず吾山の唯授一人口決相承・別付属正嫡流・吾か山に限るの事一句之れを示す、漸く疑氷を解き却って正信に至る、疑惑を生じて後信を決すとは此の謂ひか、彼れ等不相伝なる事云はずして自ら当山に有る事明白なり信ず可し仰ぐ可し貴む可し、外に求る勿れ三大秘法の根元霊場を、西域に云はく天竺の仏法衰微し(乃至)霊鷲山法花の説処、狐狼栖みて人跡絶ゆ(文)、然らば道場に於て二有り一には外道場、二には内道場なり、亦安然の広釈に曰はく身身即是道場、一切諸仏此中に集会す(文)云云。嘉永三庚戌竜集・勤檀中  久遠山学室、何某之を記す。

議して云はく竜集と云ふは天子即位の年なり唐の中宗の即位神竜元年なるを以っての故なり或は竜飛と云ふ並に同じ。(浄命天註)

 大石破門其の一、聞く闇者と聾者と伝説。
一、本因妙抄に云はく又日文字の口伝・産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面決に之れを表す教化弘経七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脉●に本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承、唯授一人の血脈なり相構へ相構へ秘す可し、伝ふ可し、法華本門宗の血脈相承の事。                一、一百六箇奥書に云はく但し直授結要の付属は唯一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫主として日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず付属せしめ畢んぬ、上首已下●に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡々付法の上人を以て惣貫主と仰ぐべき者なり、(乃至)上首等同心に之れを責む可き者なり、又五人●に已下の諸僧等日本(乃至)一閻浮提の外・万国に之れを流布せしむと雖も、日興嫡々相承の漫荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり、所以は何ん在世滅後殊なりと雖も付属の儀式之れ同じ云云、霊山付属を譬ふるなり。
一、又云く日興嫡々一人の外には之れを授与すること勿れ、設ひ正付法の上人為りと雖も新弘通所建立の忠節之れ無き者には全く之を授与す可からざる者なり、然りと雖も随力演説の弘通は大慈大悲の誓約なり志は偏頗無けれども仏法嫡々の正義を全うせんが為なり云云。
一、又云はく広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣となり、無辺行菩薩は大賢王となり、浄行菩薩は大導師となり、安立行菩薩は大関白或は大国母となり、日本乃至一閻浮提の内・一同に四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ、何れの在所たりとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり時を待つ可し云云。
一、(目師度)々此の書を望めり然りと●も・宜く日興の素意任せらるべき者か云云。
一、又御本尊書写の事予が顕はし奉る如くなるべし、若し日蓮在御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給ふべからず云云、(乃至)予が仏法に於ては一塵一滴も残さず悉く之れを付属す汝謹んで伝弘して未来までも伝灯を絶えざらしめよ・南無妙法蓮華経云云。
  弘安三年(庚辰)正月十一日  日蓮(在御判)
   日興聖人に之れを授与す堅固に之れを秘すべし云云。
一、右件の口決結要の血脈は聖人出世の本懐・衆生成仏の直路なり、聖人御入滅程無く聖言朽ちず符合せり恐る可き一致の行者・悪む可きは獅子身中の蝗蟲なり、建治三年(丁丑)八月十五日・聖人言はく日蓮が申つる事ども世間出世間共に芥爾計りも違はば日蓮は法華経の行者に非ずと思ふ可し云云、未来世に弥よ聖言符合すべきなりと之れを覚知す貴し貴し云云設ひ付弟為りと●も新弘通所建立の義無くんば付属を堅く禁め給ふべきなり、然る間・玉野太夫法印は王城の開山日目弘通の尊高なり花洛●に所々に上行院建立有り云云、仍て授与するのみ。
  正和元年(壬子)十月十三日  日興(在御判)
   日興尊師に之れを示す云云。
一、実録に云はく本尊書写之事、尊仰せに云はく大聖人御遷化の尅・六人の老僧面々之れを書写し給へり、然して異議無し其の後面々の末流初心後心・戒行の有無曽て以て之れを糺明すること無く之を書写すと云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之れを閣く、富士門跡は付弟一人之れを書写し奉る可きの由・日興上人御遺戒なり、其の故は法灯を賞して根源を立てん為なり云云、之れに依て御本尊の銘に云はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅なり云云、予も又此の義を存するの所日興上人御入滅の後、一門跡に於いて面々諍論出来して互に偏執を成し多く邪論を起して人々面々之れを書写し奉る云云、然れば則ち仏意測り難く聖意恐れ有り所詮吾か門弟に於いては本義の如く、一人之れを書写す可きか、日大私に申して云はく設ひ愚身一人此の仰を存すと●も他門を以って之れを知るに、若し自門の内に偏執の族出来して諍論有る事疑ひ無る可し、其の故は法門の事は少分申す様なりとも懈怠して手跡行方を知らず、又能書なりとも仏法興隆跡形も無く不信の輩之れ有る可し、此くの如く相互進退弁じ難く善悪兼ねて治定し難きか如何。
 仰せに云はく之れに付いて予が思ふ事之れ有り、所詮大聖人御真筆の御本尊を以って印判に彫み当座道場六人の衆徒一同の評定と為して信心の強弱・行業の久近・給仕の忠否・香花供養の堪否を糺明して一揆の衆義を以って之れを授与すべし云云。
一、対見記五(初日)辰答へて云はく西山本門寺草案に曰はく日興両品抄を以って日尊に付属すと云ふ事富山重須大石西山に於いて諍無きなり云云。
一、同門中異論抄に云はく重須日出の云はく両品抄は日尊相伝の故汝之を通達するか云云。
一、興師伝に云はく応長元年九月廿三日甲斐国秋山(御自筆是の如し)余一源信綱参詣す此れに因って本尊授与し給ふ此の仁は甲斐国の檀頭なり、同十月十二日に日尊を御赦免あって召し出さる、此の時日興祈祷のために書写し給ふ所の本尊三十六幅を日尊に給はる所なり、而して日尊建立の寺菴亦三十六箇寺なり、函蓋相応せる事誠に不思議なり凡慮を以って測り量る可からずとは此の謂か、正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以って日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり日目日代日順日尊の外・猥りには相伝し給はざる秘法なり云云。
一、又日興上人・正和元年(壬子)十月十三日に尊師に示して云はく右件の百八箇の口決結要の血脈は聖人出世の本懐・衆生成仏の直路なり、(乃至)玉野太夫法印は王城の開山日目弘通の尊高なり等云云、此の御付属は興師御年六十七歳・尊師四十八歳なり、而して後二十七年を経て暦応元年(戊子)四月十一日に平安王城に至り翌年上行院を建立して此に住すること七箇年・即七箇の条目を記し給ふ云云。
一、王城仏法弘通の開基日尊上人両山嫡々付法の座師等。
一、両寺一寺本尊裏書に云はく今般世出申し合に就いて要法寺貫首日●の時に臨み、大石寺重宝御函の内日目上人御真筆の御本尊一舗、広宣流布御祈祷の為に要法寺に之れを授与せしむる者なり。
  天正十五年(丁亥)五月八日、(十四代日)主(在判)。
已上引証の前文眼有り意有る者・天日よりも朗なる文謹んで拝す可し信ず可し疑ふこと勿れ惑ふこと勿れ、南無妙法蓮華経(南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経)。
又伝へ聞く彼れ曰はくと中古より造仏読誦すと之れを笑ふ云云。
一、対見記に云はく大石寺実性坊草案に云はく陀羅尼品を読む事は定海横田の庄の代官をはなれて祈祷ありけるに日禅の時・読み給ふと日耀物語等と、又陀羅尼の事躰陀羅尼は寿量品・用陀羅尼は廿六品なり、又躰中の躰の陀羅尼は五字七字の題目なり、妙法真言等又口伝下・又辰●巻物、又具には文字口決下聚類。
 付たり寛永年中江戸法詔寺造仏千部の時・大石住持日盈上人後会津実成寺に移って遷化、法詔寺住持は日精上人・鎌倉鏡台寺両尊四菩薩御高祖の影、後に細艸檀林本堂の像なり、牛島常泉寺・久米原等五箇寺●に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精御施主、又京都要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上人の時・下谷の諸木像両尊等を土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくしたり、,日俊上人は予が法兄なれども曽て所以を聞かず、元禄第十一の比なり、大石寺門流の僧、要法の造仏を破する一笑一笑。
 此くの如く汝等門内の濁乱能々穿鑿すべし、其の上に他の事を云ふべし、吾か山の造仏の義は已に先年一件中汝何ぞ知らぬ面して両寺一寺にありながら同意せずして、かへって其の節謀叛を工み吾が末寺を奪はんと為すや、已に大公儀より御尋のせつも言語道断なる書上いたし獅子身中蝗蟲の振舞を働くや、其の砌汝が山より書上の控当山より反詰書上控等山の如くにして今にあり、吾か同志の信男信女・朝暮昼夜・得意べきは内外の法敵なり、其の外の法敵は権門は論ずるに足らずと●も、十五山是れなり、其の内の法敵は則ち大石の族是れなりと得意べし、得意の中の第一是れなり。
一、下種弘通戒壇実勝本迹。
三個の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり上行院は祖師堂と云云弘通所は惣院号なるべし云云。
右御文を引いて彼れ曰はくと伝聞す、之れに依って本門三箇秘法建立とは富士山大石寺にかぎり余は弘通所なり云云。
右の御相承を引いて大石寺に限ると云ふは笑ふべし、已に三箇の秘法建立は国主帰依の時なり、未だ三大秘法を国主帰依の霊場と申す者之れ無し、然る間大石寺も其れ迄の弘通所なるべき事眼前なり、之れに依って興師より目師え。
一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主とし等云云、又仰せに曰はく大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ云云。
私に云はく此御堂とのたまふは本堂なりや祖師堂なりや信心に住して思惟すべし、御堂とは御影堂の事なるべきか。
日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目之れを相伝す本門寺に懸け奉る可し云云。
私に云はく大石寺直に本門寺なれば御在世より斯くの如くはの給はず能く々信心に住して思惟せよ、三箇の秘法の霊場は其の時にのぞみ何所なるべきか御仏智に任すべき事なり、先づ汝が家の家中抄等、偏執を離れて幾度も眼を曝らすべし、汝兎角一往を知るといへども再往の実義を知らず所に依て法を貴しと思ふか、已に叡山も土泥となりし事三大秘法抄を見よ、又身延山は無間山となる事を知らずや、最早重須も土泥となる事眼前なり憐むべし重須は富士山の外と思ふや、汝が如く一往所表の所に依らば是れ等は如何ん、所貴き故に法妙なり法妙なる故に人貴しと読むべき者ならんか。
妙判に云はくかゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば争か霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊しと申すは是れなり云云。
御義口伝に云はく法華の行者の住所は寂光土なり又霊鷲山なりと云云。
 神力品に云はく説の如く修行せん所在の国土に若しは受持読誦解説・書写し説の如く修行する有らん、若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧房に於てても若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆応に塔を起て供養すべし、所以は何ん当に知るべし是の処は即是れ道場なり諸仏此に於いて阿(乃至)三菩提を得と(文)。
法師品に云はく経巻所住の処皆応に七宝の塔を起つべし、(乃至)須く復舎利を安くべからず所以は何ん云云、此れ等の法門汝如何が得意可きか、広布の節に事を寄せ一往富士え本門寺建立の義御相承等、又妙判他受用抄等誰か之れを争ふものあらんや、只再往実義を心得可き事第一なり、其の再往とは御相承の随一に云はく何の在所たりともと云云、然らば末法即身成仏の法とは要法寺門流に限る、其の故は日興上人より直授別付属付法正流の本因妙抄の家なり、余に誰か興尊者より御示し授与書之れ有る師は更に之れ無し唯授一人尊師に限る者なり、日精師の順師代師等に付属の由申すと●も此れ等は是れ惣付の一遍なり、之れに依って御示書之れ無し、猶亦目師は尊師と師弟不二にて別格の沙汰なり、之れに依って御在世より法水の一なるは当山なるべし誰か亦之れを争ふものあらん。
大石寺日道師相伝の義甚た不審し、其の故は家中抄に云く云云、あたへて之れを云ふ時、或は目師より相承は上京御天奏前と云ひ或は留主居とかき、又郷師道師三箇年の対論いぶかしきの其の一なり、又相承ありし者なれば留主居のはづなし当職の筈なり、又当職なれば目師は御閑居の筈なり此の時に已に目師は御当住御本職中なり如何。
一、因みに示さん謹んで諦聴せよ、王城の開山玉野太夫法印と仰せ付けられ候所の王城開山の四字に能々心を留む可き事なり、夫れ普天の下・率土の浜・王土にあらざるはなし、然る則は尊師・一天下の大導師なる事此の文に明白なり、とりもなほさず目師を南閻浮提の座主なりと仰せ付けられ候と色も替らずして同断の事なり、又目師御座主なれば尊師亦座主なるべき事師弟不二にて同一なる事眼前なり、然らば尊門の外に唯授一人の正流血脈は求る勿れ、求る勿れ、若し外に之を求んと欲せば火の中に水を求め、水の中に火を求るの愚者なり、又猿を離れて胆を求る者ならんか之れを思ひ之れを知れ、御相承に云はく何れの所在たりとも多宝富士山、本門寺上行院と号す可しと云云、一往御称歎の富士山に局して再往の実義を失ふ勿れ失ふ勿れ、又御相承に云はく末代に於て経巻相承直授日蓮と申して受持智識相承を破らん為に元品の大石僧形と成り、日蓮が直弟と申し狂へる僻人出来し予が掟の深密の正義を申し乱さんと擬する事之れ有らん、即ち天魔外道破旬の蝗蟲と上首等同心に之れを責む可きなり云云。
私に云はく謹んで御金言を拝す可し此の御破文は自身相承に非ずして相承と名乗る大石の僻人とは誰ぞや、然る所十四代日主の時より不血脈の汝が家と只世界悉檀にまかせ両寺一寺の契約せしも忘却いたし、已に先年諸山との一件の中の躰たらく誠に之れ師敵・仏敵・法敵・破和合僧なり、憐む可し悲む可し、然る上は蓮興目三師の御魂は尊正流の当山に御在す事神在すが如し、本門三大秘法の霊場外に求むる勿れ、法妙なる故に人貴し人貴き故に処貴しとは是れなり、恭くも時の天子玉冠を傾け給ふ御本尊・紫宸殿の大曼荼羅則ち当山に有り、之れ亦後証の為の本尊、御符法の曼荼羅等是れ又当山の重宝な り、天然として御仏智のなさしめ給ふ所なり、早く偏執邪論を遮って唯授一人・付法正流の尊門に帰伏せよ今世後生の一大事なり(々々)、(々々)。
一、伝へ聞く彼が云はくと、大石寺には戒壇の大御本尊ある其の余の本尊は有れども何国何所の皆一機一縁のための本尊にして無益の本尊なりと云云。
答へて云はく最も戒壇の御本尊は高祖より興師・興師より目師え御伝へ給ふ御本尊にして大切なり、本門寺建立の時は本堂に懸け奉る大本尊なる事異論無し、之れ宗内一流の重宝にして今の大石寺は預り主なり、其の故は権者御出現あって大導師の思召し次第なり、広宣流布の国主本門寺建立の権者御出現之れ有る迄大切に守護す可き随一なり、併し乍ら焼失破滅等の難之れ有る時は戒壇の大本尊之れ無しと申す可きや如何、生者必滅会者定離の思ひ仏者の常なり、兎角再々往の実義を知らざる盲目の僻見なり。
 次に余は皆一機一縁の本尊にして末代のためには無益とは何事ぞや、高祖御妙判も多分は一機一縁の方へ御遣すの御文なり、是れも末代余人の為には反古なりと云ふや、嫡々相承の本尊は何れも三世常住の彼此を嫌はず御利益之れ有る家にて社貴しと申すなり、何ぞ一機一縁のため余人御利益こうむる事出来ずば三世不通用の本尊利益に彼此にしてへだて給ふ本尊なれば所を以って大法の本尊と云ふや、然るに戒壇の御本尊斗り末代に利益あり余は利益之れ無しと申すか笑ふ可し々々、其の上にも授与書の之れ無き本尊所望に候はゞ当山の重宝紫宸殿の御本尊之れ有り候、房州に万年救護の本尊之れ有り 余は之れを略す云云。
一、伝へ聞く彼れが曰はくと。
日尊上人に御本尊御書写之れ無きは不相承不血脈の証拠なりと云云。
答へて云はく吾か開山尊師御本尊書写之れ無きを以て血脈御相承之れ有る証拠と為すなり、其の所以は即是れ蓮興より塔中伝法の本因妙抄血脈抄の手続別付属之れ有る事は右本因妙抄一百六箇両巻の抄の奥書、眼有らん者能く能く拝す可し信ず可し、又尊師御実録に本尊書写は付弟一人に限る事明白にの給ふ御相承御相伝之れ有ればこそ斯くの如くの給ふにあらずや、只唯授一人自身に限るとの事義を末代の余人に知らせ相承を重んじて御書写し給はざるなり、之れに依って御本尊更に一幅もなきを以て尊門流の規模とするなり、既に御在世目師御入滅より代師仙師華師郷師等余山の開基の面々に書写之れ有り、尊師御一人書写の之れ無きは血脈御相承御相伝の之れ有る故なり、晴天の白日よりも明かなり信す可し貴む可し云云。
一、伝へ聞く彼が曰はくと。
実録とは弟子日大の作にして尊師御作にはあらじと云云。
答へて云はく是の言は又何事ぞや有眼のものなれば彼の御実録能々拝見す可し、一箇条々々に仰せに曰はくと之れ有り則ち尊師の御作を弟子の日大師執筆し給ふなり、之れに依って尊師の御本懐残る所之れ無し、亦引証を云はゞ御義口伝抄は吾か祖の仰せを興師執筆し給ふなり、又興師の仰を五人所破抄・門徒存知抄等は弟子日華師執筆し給ふ事を知らざるなり、何ぞ実録を大師の作にして尊師の作にはあらずなどと盲目愚論をなすや云云。
 右草案の大旨之れを書くと●も勤学春の夏中の故に書見講釈等の暇を惜み未だ清書に及ばず、文言の前後を糺さず、此の侭之れを置くのみ。
嘉永三庚戌春の夏灯下に之を書す、久遠山学寮何某之を記す。

大石破門其の二、闇者と聾者とに対す。
夫れ大山に登らざる者は天の高きを知らず、深谷に至らざる者は地の重きを知らずとは誠なるかな、爰に或る闇者と或る聾者と吾か尊門の足下に立って大法を動かさんと欲して数箇条の難問を出す、爾りと●も一条として挙げて論ず可き無し闇夜のつぶての如し、吾れ一度之れを見て直に火中せんと欲すと●も等閑に置いて心頭に掛けず、然る所・平安深志の士強ひて反詰を願ふ、止むこと能はず需に応じ九牛の一毛之れを破す悉くせば硯凹み筆かむろならん。
 御妙判に云はく法花経を教の如く機に叶ひ時に叶ひて解行すれば七つの大事出来す、其の中に天子魔とて第六天の魔王或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について或は随って法花経の行者をさへ或は違してさうべき時なり、(文彼)の闇者と聾者とは如何なる天魔破旬の所行ぞや、彼れ等が難条を見るに台家にも非ず当家にも非ず況や興門にも非ず解するに権門初心の者の所論に似たり、其の源一往は所表の富山の迷土なり再往は実義の興門の忘規なり、憐む可し闇者と聾者と。

 第一条問答、日道に付属之れ有り候と云云、吾道師へ付属せざるの義已に目師御天奏途中にて御終焉、天奏は当職の御役前未だ道師に付属なき証拠と云ふを種々と工に曲会し道師へ付属の由をつのる事、若し汝が如くならば大道師たる当職目師と道師と二人あるや、御天奏は御当職の役にして御隠居の役にはあらず高祖の延山御閑居之れを思へ。
次に道師御座替り御本尊之れ在りと申すを家中抄に之れ無し、全く古来より之れ無しと申せば其の曲会に述者の漏脱もあるぞかしと云云、此の義大笑々々、日精師肝心の血脈坐替り等の事を記せんが為に著述し給ふに失念漏脱とはよくものがれ言ば一笑々々、 たとひ当時あるとも右御本尊偽書なりし事疑ひ無し、若し目師御在世に此の事あらば何ぞ郷師と対論三箇年に及ばんや、汝に示さん、そも々々坐替御本尊と申すは何年何月何日以前、一山衆評をとげ置き其の上御本尊御認之れ有り、其の日限に御宝前に拝し奉り一山出席して先師寿量品を御始め自我偈に及び次の貫職に備り給ふ、御方へ御座を退き御替りに候者なり、何ぞ密々に御本尊御認御座替りの義も之れ無き筈、決して有間敷く汝何ぞ明白なる御坐替の御本尊と云ふや。

 第二条、本因妙抄何の在所たりともの明文曲会の事、此の一条所表の土に迷ふことたとへば浄家等西方の国土を願ふににたり、先づ仏者論ずる所の土に四土有り同居・方便・実報・寂光土なり、汝が如きは四土各別に寂光土のみ願ふならん四土不二の旨を知らず、殊に目出度き同居土を知らず高祖妙判内外●に御義口伝等に眼根有らば見る可し、忝くも本因抄は再々往・実義血脈伝法の其の一とし正流の抄にして末法一切衆生成仏の直路たりし大事なればこそ何れの在所たりともと戒壇の住所・即身成仏を示し給ふ相承なり、当科を分つこと一笑々々、前に標釈結・大段・大科・細科・細々科又惣釈別釈等の義あるを知らず、私に愚存にまかせ自分の勝手に科の□少も当らず所表の土迷より起る事当家の大事を取り失ふ闇者聾者なり、汝が意の爾前隔歴三諦の●法にして円融三諦の妙法を知らず況や文底深秘の法則をや、闇者は文を守り智者は義を貴む、汝は一往の文を守ること宋人株なり、戒壇に事の戒壇・理の戒壇・理が家の事・事が家の事の戒壇等有ることを知らざるや、天竺霊山も狐狼の住かとなり唐土も漸々衰微し吾か朝の叡山も泥土となり富士山も謗法山となり、已に大日権現等之れ有る子細を知らざるや、如何に汝等が知らざる法門なれども久遠本仏の御身の上に約身約位の法門あり、已に重須謗法眼前なり何ぞ本祖の御魂汝等が地に在はさんや、又常同常別二にして不二、知るべし思ふべし知らずんば有るべからず。
 次に神力品即是道場の文引捨て会通せざる事、已が僻見より人法土各別にして永く異なることと思ふか、然らば当家の大事・人法一箇の法門は如何心得可けんや、身土各別と立て一身一念三千の法門も知らざるや、誠に愚なること論ずるに足らず、台家の三大部も高祖の妙判も如何に拝す可きや、況や興門の深秘をや天魔破旬・外道獅子身中の蝗蟲とは汝等がことにあらずして誰ぞや、誠に師敵・仏敵・法敵の大罪人にして爾前権門の屎虫・劣闇者と聾者となり、又道場にも内道場と外道場之れ有り之れを思へ、又神力法師両品也の文会すること能はざるか。

 第三条、国二主無きの自語相違の事。
汝も動もすれば大道師一人の義をつのる、然るに又目師御閑居なくして天奏の身として日道に付属導師役ゆずり給ふとならば又大導師二人か、其の故は目師も当職・日道も当職かこと々々しく顕仏未来記を引証するも汝が門内を責むるならん打手去(噫施命手を打て去るに非ず、勝地の折伏を聞て自ら胸を槌て去ならん去の宇思ふべし)。
次に興師伝に云はく惣じて、日目・目代・日順、日尊・四人の外猥りに相伝し給はざる秘法なりと(云云)。
 彼れ云はく若し本因妙抄を大導師の血脉書と云はゞ大導師四人あるべしや如何云云。吾反詰す已に汝が引く興師御伝にも日精師両巻血脉抄を以て日尊に相伝し給ふ、目師 (乃至)秘法なりと(文)、汝が引証と云はゞと云ふや、已に本因妙抄に此の血脈はと両三所にのたまふにあらずや汝眼はなきや、此の血脈書を以てこそ即身成仏の大法興門に限るにあらずや、汝は此の血脈の外に門流に別段即身仏の義ありと得心たるか、又大導師四人あるべしやと云云経文に已に四導師ある、然りと雖も別付属惣付属ある尊師え別付属あるにあらずや、大石寺の宝蔵に有る六代日時書写の本因妙抄にも道師え御付属書あるにあらずや、若し之れ無くば興師に背く罪人なり之れを思へ誰か汝等が邪説に組するもの有らんや、是れ道に迷ふ者は迷ふ者の過にして道の過ちに非ず。

 次に問答の下、尊師大導師相承にはあらずと別にゆへありと云云。
尊師血脈付法伝法の書たる本因妙抄別付属の義汝等如き盲目の知る所にあらず、汝云はく王城開山と称歎し給ふ是の故に別筆をのせて後来を励し給ふと云云、吾れ反詰已に御在世すら猥りに衆人に授与し給はざる大事何ぞ後人へ励しめのためとは何の寝言ぞや、忝も仏より第三代の唯授一人の大導師へ別付属あるを生盲の身として評判すること恐れ有り慎む可し辱づ可し、己が邪解を正解と思ひ本因妙抄極伝の正解を忘却し又候日興一人の外には(乃至)仏法嫡々の正義を全うせん為と(已上)、此の金言を私に闇科を入るゝこと実に付仏法の外道なり、尊師へ御相承ありし事を・拒まんが為、且又日道を救はんが為・種々と破仏破法の罪を犯す者か、高祖の金言・日蓮が法門しりたりげに候はあしくとのたまふは此の故ならん、汝等より不知の者却って信のみにて本懐に至るべし、右御大事を三段に分科せしこと餓鬼の水を火と見るがごとし大笑、一眼の亀の西を東と見るがごとく片眼か。

 次に師弟不二なり、しかれども何ぞ尊師一人に局らんや云云。
是れ又闇者聾者の知る所にあらず実に唯仏与仏の境界なり、已に十二年勘気中・三十六寺建立し興師三十六幅の本尊を自ら認め祈祷し給ふこと誰か之れを諍はん、汝も知る所なり、然らば目師御存生御在職中に唯授一人相承の本因妙抄・百六箇の大事御付属之れ有らば異躰同心の正行者・師弟不二の趣き顕然なり、已に尊師称歎の文に目師を加へ給ふこと唯仏与仏の深意なり、たとひ数多の弟子あるといへども別付属なきを以て之れを知るべし、誠に汝等は蓮興目三師の御本懐を取り失ふ罪人なり。
 次に本寺参詣抄を引く汝身延山へ詣り給仕するや、身延は興師御離山の後法謗の地なる故に其の意に能はずと云ふか、然らば吾れ又富山法謗の地へは出でず其の故は未だ戒壇堂もなし天生原は草原なり、殊に権現大日等ある、尚吾か山は興師より王城の開山と御存生に仰せ付られ開山なれば本寺本山なること明白にして余所に求めざるなり、汝は一端の知恩報恩はしるといへども真実の知恩報恩を知らざる愚人なり。

 第四の段、問答の下。
汝兎角執土に依って往々に此の愚言の意を吐く、夫れ下種弘通戒壇実勝本迹の下にて一往本門寺と上行院と本堂と祖師堂とを分ち三秘建立の義を述べたまふ者なり、再往は末文に至り興師へ御付属の段何所たりとも多宝富士山本門寺上行院と一遍に御仰せ候は如何、闇者が如きあくまで本門寺と上行院と本堂と祖師堂とを別なる者と思ふが、本堂とは本尊堂なるべし祖師堂とは御影堂なるべし然らば人法一箇の御法意何れぞや、他宗他門に向ひ一往の問答をなす様の愚言を我か山に向って徒に吐くと雖も一言として当る事なし、殊に興門の内にも別付属直授の尊門流、闇者聾者の如き口の及ぶ所にあらず。

 第五問答之下。
世間の王土と出世の王土と二土を分つこと理有るに似たりといへども増々愚論なり、其の故には汝が引く三大秘法抄の戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合し王臣一同に三秘法の法を持て云云、又闇者が如く云はゞ世間の王土の外、別段に法王の土ありや法王の土の外に世間の土是れありや、只其の閻浮提の内日本・日本の内にも富士と余所とを永くわかたんと己が人情に任せて論ずるより、此の上なき大法を小く論ずる闇者なり、又王城王土の弁に至っては文便を知って義便を知らず王城たる帝王の在すことあればこそ余の名義も立つにあらずや、汝は日興上人より玉野大夫法印は王城の開山と仰せ成され候を悪み山城国王城とのみと思ひ義味の広大なることを知らざるなり、汝が云ふ所の純友守屋・誹法衆と闇者と聾者のことか、其の故は王城開山玉野大夫法印尊師を悪み門流を破却せんとほつする謀叛の者なり、亦中古造仏を出すの散材とは是れ又汝が家の日盈日精代のことならんか、又中古陀羅尼千部等迄読み始しこと汝が家にあり、造仏読誦汝が家の内の塵埃を見るべし。

 第六本尊書写問答下。
此の段吾れ前簫に論じ置き趣意を尽くせり、然りと●も、又汝に反詰せん汝本因妙抄よりも本尊七箇口決を大事と思ふが故に彼の抄何れの所の文にか本尊書写の法・具に説きたまひ引点の相承等をたまへる文やあると云云、枝葉花果帰一根することを知らざるや、当流の大法広大なりといへども本因妙抄一百六箇の大事を以て法門の根本とす、余は皆枝葉なりしこと所表を出し給ふにあらずや、たとひ御本尊書写七箇の大事相伝あるとも根元たる本因妙抄を知らずんば何の益かあらん、爰にこそ名形種脱の相承・判摂名字の両相承・ある汝等口には●すと●も、未だ知らざる所なり、之れに依って試に之れを問はん右両相承は本因妙抄にあるや一百六箇相承にあるや、何れは何の方に之れ有り両巻相承に之れ有る事審に答ふべし又此の相承に付き興師より順師えの御切紙の相伝之れ有る者なり。
又汝尊師に本尊相伝之れ無き故に已に武州粂原の額・鳥辺山の石碑楷書にて引点にあらじと云云、誠に以って愚なること牛羊の如し、然らば相承の人は引点・不相承は真名字に限ると云ふか、已に高祖御真筆紺紙金泥の真字の首題在々所々に之れ有り、又無相承の五老引点す是れ如何、亦門内にては無相承にて日郷・日華・日仙等・目師御遷化より直に書写引点にてしたまふにあらずや、汝家中抄を見る可し是れ如何、尊師書写の無有のことは汝等が如き闇者の知る所にあらず、此の義をあらためんと思はゞ吾門内に来り修行を成すべし自ら朗然たり。
 次に問答・戒壇の板本尊を執する愚痴の事。汝云ふ本尊に従一出多・従多皈一のと申す名目・前代未聞の珍説なり、即身成仏の義を論ずるには私了簡無用なり、又弘安二年より後と云ふ抑も文永九年正月元日より佐渡にて御本意の本尊あり、佐渡前は論ずるに足らずと●も佐渡後文永九年より文永十・建治三已上七年程・弘安二年迄衆人え御授与御書写の御本尊は如何、夫迄は高祖衆生へ不成仏の本尊を与へ給ふか是れ如何、又成仏用心抄を引いて板本尊の義となすことかたはらいたし、彼御妙判は権実所対・釈迦如来に下種せし今日の声聞全く弥陀薬師に遇ひて成仏せずと云云、其のたとへにのたまふを汝如何か板本尊に執着するより迷ふこと斯くの如き似たる物と思って敷居を鴨居に用ゆる大愚痴大僻案なり、又御本尊の授与書の無有に依り一機一縁と号し高祖御本意に利益の多少を論じ紫宸殿の御本尊の大小を論ずること、此の段に至りさすが元は権門宗他門流にありつる故、御本尊に利益の多少と婆形の大小を論ずること、がらん大小に執する癖せあり筆を投して大笑す、御真筆御本尊に授与書なきも又三十枚つぎ五十枚つぎの大幅も世間数多之れ有ることを知らざる闇者なり生盲なり、且又紫宸殿の御本尊汝が家にある筈なし、其の故は抑紫宸殿の本尊と号する故は高祖より興師・興師より目師天奏の時毎度御所持、若し天子より御尋有らん時、則ち此の本尊と差出し給はん御深意にて目師四十二度の御天奏に所持遊されたる御本尊なり、然れば途中御遷化其の時師に替り尊師御所持にて御上洛なり、留守居日道所持して何の益かあらん天奏役の物なり、委く汝が家の家中抄を見よ当山重宝の紫宸殿御本尊は開山已後も已に両度御所へ掛られ給ふこと明白に当山に伝ふ、又大石寺御堂墓所の義に付き汝が愚推誰れか之れを用んや、兎角大石寺を直に本門寺と思ふ癖より興師の御遺状にも背き御堂とあるを本尊堂と思ふか、己が先哲精師は已に五箇寺に一箇寺を加へ六万坊の所表とせり、大導師の義は積学の例を引けり汝誠に生盲の闇者と申すは此の以謂なり、余の弁を加へず己が家中抄を能々義味すべし、又現証を云はゞ已に戒壇の場所の所表は天生原にあらずや、大石寺直に戒壇の場所なれば天生原は何たる可きや如何、又御在世より、此の沙汰有るべし、已に御遺状には御堂墓所とのたまふ日精は六万坊と表すること是れ等如何、又戒壇の御本尊之れ有るを以てと云ふか、然らば重須には根元本門寺の額を持てり是れ如何、又汝が如く直授相承は大石寺にありと、云ひ別付属の尊門を毀謗せば血脈抄の一致の大石○元品無明の大石とのたまふ破文に当れること眼前に疑ひ無き所の者なり、高祖の金言御死後に増々符合すとは是れなり。

 第七問答、家中抄日道留主居の事。
此の段に至っつては前文所論のごとし、汝種々と僻解すれども不相承なること疑ひ無し、元より証拠有りて明白のことなれば十八代すぎ日精改めて断りに及ばざることなり、然りと●も、日精其の末下に連り心もとなき故改めて云ふならん、依って前後忘却いたし或は相承ありとかき或は留主居とかき又郷師道師との対論の会釈にたわひなき会通をかく義味すべきことなり、又御坐替り本尊の義も前論の如く親く汝等も日道不相承の義を吾か為に折伏せられ心もとなく思ひ又々同事を幾度も曲会する事眼前なり、闇者の僻解大段七箇条・附言六七箇条・一々其の下に於いて之れを評破す大綱を存して網目を事とせず趣意を取って爾か云ふ、遠くは蓮興目三師・近くは吾か開山尊上人え御報恩謝徳し奉るのみ。
一、彼等は何なる宿業に依って偏執邪論を起すや、昔より退大取小・退本取迹の人は多く以て之れ有りと●も、未だ有らず吾が大法に入り大法を退く者は、謂ふ可し宝山に入りて手を空うすと云ふ者か、忝くも吾か大法は恵日大聖尊より興目尊、今の代々に至るまで一器の水を一器に移す正統別付の嫡流なり、豈海内広しと●も何国何人・末法極悪衆生・即身成仏の直路為る本因妙抄一百六箇両巻の相承直授有るの人に非ずや、仮令ひ余人有りと●も未だ仏第三代に従はざる別付直授無きの証文なり、然らば、聖人智恵清浄の法水は吾か山に有ること歴然なり、已に富山に於いては法水中絶し愚俗士血脈を続くの事、家中抄に於いて自ら顕れたり、日道已来濁水の流の故に中途にして亦滅す、吾か直路清浄の法水は其の源正き故に今に至るまで絶えず之れに依て其の現証当山に有り其の証は御符法本尊と問答第一行戒智徳筆跡符法の沙門の本尊となり、又興尊は日尊に賜ふ弘通大法血脈の証たる暦応元年正月元日の御本尊有る是れ信ず可し貴むべし、造次も 吾山を毀謗せば白癩病を現身に得・頭破七分の苦悩を受くる者か、誹謗正法は他には法然有るなり自には闇者有るなり、慎む可し恐る可し誰れか性者として命根を惜まざる者有らん只一も之れ無し、然るに命根より大事に惜しむ可き重んず可き大法は別付正統の法水なり、此の謂れを知らず恣に誹謗を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか学の足らざるか信の至らざるか憐む可し不便々々、闇者と聾者とに対する大石破門其の二畢りぬ。南無妙法蓮華経
嘉永三(庚戌)竜集林鐘大聖人御命日、久遠山学室住、何某之を誌す

大石破門其の三、問答記録。
野生富山泰雄と対面の次第之れを書く事は其の一其の二の破門を見るに至っては自ら顕然たり、己酉の冬より対面一度に及ぶ筈の所、病難の為に対面を得る能はず其の侭にて有りし所、彼の坂本五平頻に庚戌の春に至り之れを願ふのみ、夫れ迄に再三五平に出合ひ申し聞かせ候得共、疑念未だ晴れず、之れに依って四月十日・間の町西村に於て弥よ出合のはず彼の五平より紙面并に使者義定す、吾学林より弥よ支度にまかせ出京に及び候所其の日限に彼れ俄に腹痛の由申し参り断り来る、其の断りの紙面言語道断の文通にして今に取置き之れ有り、其の日此方より講中深志のもの再往に及び候得共其の侭にすたれたり云云、其の後亦去る同月十九日烏丸通り中村氏得意講に付き吾出京す、然る所其日噂を聞き不日に対面の義を願ひ来る、止むこと能はず其の日講後に対面に及ぶ事初てなり、然る所彼の五平より以前出合のせつ吾れに語りて云はく彼の泰雄と申すは誠に問答の義に於ては富留那の弁舌殊に実意の咄し合ひの義のみ之れを願ふと五平再三吾れに伝ふ、吾れは此の語を正しと思ひ弥よ其の日対面に及ぶ其の問答咄し合ひ三箇条をすぎずといへども其の座につらなる聴衆同聴異聞・同聴異解あり、其の後吾か聴衆より聞く事の後証の為・亦其の座に聴きたる衆へ之れを遺くる其の大旨のみ、仍て問答には昔より判者人・記録者・経繰役人の三役は是非之れ有るはずのものに候、且亦対面問答と申すものは三問・三答の記録を以て先きに互に試に取り合ひ置き、然して後対座対面に問答に及ぶ者古来の格式に候者なり(已上)。
互に時候の挨拶いたし稍あって、吾れより云はく扨て昨冬より転々承り深意の趣き直談に承り度く候と云云。
彼れ云はく中々発心者の身として及ぶ所之れ無く候と云云。
吾れ云はく又前談の通り再三に及び候云云。
彼れ漸々言語をはつして云はく昨冬塔中本住院師に出合ひ候と申すと云云。
吾れ此の言語を聞くより直に云はく其の義改めて仰せ候は痛み入り候とケ様々々の次第に候と本住院義を裸させずてありていの侭に申し聞け候、此の所彼れが吾があげ足をとらんと謀計の言ばなり、若し吾れ本住院義を救ふ時は然らば本住院師同腹に候はゞ今日の対面所論なしと反詰して吾れに辱を与へ候て仕舞はんための発言なり、吾が聴よくよく之れを思へ之れを思へ、此の段に於て彼れは最早心つむりめてはずれ顛倒の一心となれること吾れ是れをしる云云。
吾れ問ふて云はく吾か開山日尊上人え日興上人より本因妙抄・一百六箇・両巻抄御付属之れ有りや之れ無きや如何。
彼れ答へて云はく最も興師より両巻抄御付属之れ有り候と云云。
吾れ云はく然らば興師より尊師へ御付属弥々治定に候耶と申し返し之れを問ふ云云。
彼れ云はく弥よ治定に候と顔色変じて之れを答ふ云云。
吾れ云はく然る上は論ずる所無し尊師へ御付属の義決定の上に候はゞと云云。
彼れ云はく然りと●も尊師に於て御本尊書写之れ無く候と云云。
吾れ答へて云はく其の尊師御本尊書写無有の義は次に論ず可し、吾れ反詰して云はく其御本尊書写の義に就ては七箇の御相伝之れ有り其の七箇の口伝相承は何の書より何の大事より出所候やと云云。
彼の此の時已に閉口返答なし。
吾れ又問ふて云はく本因妙抄御付属の上は成仏は如何と云云。
彼れ答へて云はく成仏は本尊に之れ有りと云云。
吾又問ふて云はく其の成仏の本尊書写の根本七箇口伝の出所は如何如何と。
彼れ此の時に顛倒して其の成仏はと云ふのみにて閉口々々已上。
右の通り対座問答の時の大意、夫れ三箇条とは一には本因抄属不属の問答なり、二には御本尊七箇口伝の大事何れよりの出所の問答なり、三には成仏の問答なり(已上)。
大意の三箇条問答とは是れなり、聴衆謹んで思惟す可し問答の勝負明白なること掌を見る如くなり、爰に於いて吾れ兼ねて五平より伝言なり法門の義に付ては半季一年ならず三箇年にても逗留いたし法門決定迄論談に及ぶ可しと彼の泰雄申し居り候と承り之れ有り、之れに依って吾彼の者を誘引いたし逗留せさせ檀林にて能々談合に聴く可く存じ得心にて、吾れより云はく先づ今晩は初めての対面大段の様子相知れ候故、殊に夜も深更に相成候得ば差置き候間何卒檀林へ御越し之れ有る可し、留置き論談仕る可くと申し候処。
彼答へて云はく帰国を差し急ぎ候間其の意能はずと云云。
 吾れ云はく又強ひて逗留の義申し候処、彼れ又云はく何分旅宿へ罷り皈り然る可く仕り候と申し候、然らば吾れは退座と申し候所、聴衆中より彼れ此れ難題箇間敷事申し掛け候故、吾れより与へ挨拶いたし願くば彼の僧留め置き檀林へ来る可き様の斗ひにて双方穏成る挨拶いたし吾かより退座仕り候、其の翌日帰檀仕り今日は今日はと待ち居り候得共何の便りも之れ無く十日計り過ぎ承候得ば彼の五平方に逗留いたし居候趣に承る所、其の内又檀林出京往還の所化ども云はく今日泰雄僧に渋谷皈国の姿見受け候と申す、吾れ思ふに如何の子細やと存ずるのみ、其の後又承り候処、彼の五平宅に邪僧逗留いたし彼の五平と両人にて題号には勝地論となずけ作冬巳来の法門の大躰を書き置きし皈国と承り候、其の邪論抄を浪花捨八良折節上京いたし持皈り漸々吾れは六月八日本山御虫払の節持登り一見をえたり、然りと雖も、心頭に懸けず其の儘にいたし置き候処、深信の衆より願くは後人の為に反詰いたし置く様申すことにて彼の勝地論の邪解僻見を一両句之れを破する事大石破門其の二に荒増に候、已に勝地論と題するも富山に偏執する僻見に候、斯くの如き恥を後代に書きのこさんよりは法門の義は知らずとも正法正師にあひ信ずるが専一なり、已に彼れ檀林へ来ることもせずして俗に云ふががし犬のぬげ吼えとやら、右勝地論の邪解を書き置き皈国をいたすを以て彼れが邪義自ら知る可し、所以者何なれば法門の義に付ては幾年も逗留と高言吐くとは天地雲泥の相違に候故なり、且又彼の邪論序に於て云はく云云、己が法門の偏局邪執なることを知ってか此の方に不用の事を天然己が口より顕せり、已後前来の衆之れを信じ之れを思ひ之れを知るべきなり、彼れは富山の為にも獅子身中の蟲、吾か為にも獅子身蟲の者なり、其の所以は即是れ富山と吾れと前代未聞の論談なり、古より先哲等或は御妙判異見の事は之れ有り候、已に辰師と寛師と房州我師となり、然りと●も此の度は本迹の論、種脱の論等にもあらず血脈の論なり、彼れは所と家とによる吾れは法と相承とによるなり、所も家も本となりと彼れはつのる、吾れは法と相承との本を云ふなり、往古より両寺一寺の間は異論なし、然るに先年諸山一件より義絶す、之れに依って彼れら吾か門に向かひ無得道不血脈なりなど己が家の不血脈をかくさんと謀計するによって止むこと能はず彼の不血脈無得道を顕す事時なる哉(々々)(々々)、彼れが所と家とに依るにたとへば身延山久遠寺は宗門の根元なりと一致者流が云ふごとし、此れは法と相承とを根元と取るがごとくなり興門之れを思へ、今亦かくのごとく彼の富山と吾れと後賢の君子之れを思ひ之れを知る可きなり、其の一其の三に論ずるごとく彼れが日道へ相承あると云ふはたとへば又他の宝を貧者が、かぞうるごとくならん、又一致者流が日向ヘ相承血脈を云ふが如くなり之れを思へ、先は問答記録大石破門其の三畢りぬ、南無妙法蓮華経。
 嘉永三庚戌六月之れを記す、学校住、何某記。
浄命此書を一覧し来れば従上泰雄已に粉砕し了れり、破鐘重ねて照らさず落華枝に上り難し乱酔厚顔此の笑具を具する者なり、噫是れ何の返答かな。
 編者曰く京都加藤伍兵衛蔵本(写主不明)浄命手沢本に依る、厚本仮字交りにて些少の漢文ある所も成るべく延べ書きにす、浄命の批語は全く純漢文なれば倭訳を加へたり。

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