富士宗学要集第六巻

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勝地論

(血脈正統)勝地論 完
 ●や嘉永第三の歳庚戌に舎る始夏の穀旦、鳳城の西南加藤氏の閑室白蓮庵南窓に書す、血脈正統勝地論の草書、泰雄述ぶ。

夫れ祖光明ならんと欲すといへども誹謗の雲乍ちに之れを掩ひ、法林茂らんと欲するに相似の霜還って之れを取る、時是れ澆漓にして人皆諂曲なり謗祖の徒都鄙に充ち僣聖の声街巷に喧すし、各々人情を先として祖を押し法を誣ゆ、悲いかな身に五逆罪を具せずして仏法に頼って無間に沈淪せんこと奈ぞ只た万億劫のみならんや、斯れ全く翦髪の始より淹く邪見の群に入り飽くまで謗法の曹に交り習ひ性となり其の非をしらず、間疑ふ処あれども或は深く察せず或は之れを曲解し遂に邪を革め正に反ること能はず、孔丘の所謂る鮑魚の肆に入って久うして其の臭を聞かずとは其れ之か、こゝに泰雄曽日法難に遇ひしより幸に世間を脱し其の心屈せず東馳西走・獅子吼する事凡そ十余年到る処の百獣悉く悩裂す、今歳華洛に来って獅虫を折く所抗の僧俗両三地に僵れ疑惑の俗漢亦中に在り獅虫迷慢の僧あって予が難条を横議し以って俗聴を飾らんと欲す、其の論寔に陸地に舟をやり虚空に馬を馳するが如し、我れ聞くに忍びず、其の難条を撮挙して慇に評詰す、聞くならく字は三写を経て鳥焉亦馬と変す、又誰か飯裏に沙有ることを知らんや、於●智解、抜●の舎利弗も其の悟入に於ては猶非己智分の誡示あり、況や我等をや、今此の理会の真正なるを見ても彼れますます復毀唇すべし、宿習是非なしと雖も一盲衆盲を曳く、巨妨傷む故に今其の謗法の深雪を開いて大祖道を見せしむ、慎んで彼に溺埋すること勿れ。
 維時嘉永三(庚戌)稔四月上旬、洛陽の旅舎に於いて大石寺の発心者泰雄之れを誌す。
勝地論
第一、或僧日道に大導師の相承無しと請ふ事。
 問ふ或僧の云はく仰々大石寺の第四代日道上人は大導師の血脈相承は嘗つて拠ろ無きことなり、ゆへいかんとなれば素と日目上人禁闕へ天奏せんと欲し上洛したまふ中途の美濃の国垂井に於いて遷化したまふなり、夫れ諌文を捧げ帝王を直暁する者は但た大導師の職に在り豈に当職に非ずして焉んぞ能く奏聞を遂ぐることを得んや、故に知りぬ大導師の席を動かずして終に垂井の唱滅あることを道理誠に分明なるに非ずや。

 答ふ仲尼冉求を勧めんとして曰はく力足らざる者は中道にして廃す今女は画けりと、誠なるかな此の言や我が本邦の中・興門派僉な戒壇草創の期必ず到らんことを知る、是れ一致八品等の類にあらざればなり、儻其れ吾か山統御の嫡地なることを穿鑿せざる者は力の足らざるにあらず只た自ら知らざるのみ是れ地画いて自ら限るが如し。

既に過去を知り玉ふの智有り開目下巻等の如し、亦現在には三度の高名是れなり撰時抄等の如し、亦未来は遠く万年之後妙法の広布を知り玉ひ兼て成仏の妙果を知示し玉ふ。(浄命天註)

夫れ吾か法主大聖人は三世了達の聖者なり、興目は亦是れ次第の法将なり、故に其の法門においては一塵も漏さず相承し智水は一滴も溢さず受授し給ふの故に未来を鑑察したまふ智徳も粗大聖人に継介すべし、若し爾らば預め此の度の天奏半途にして滅すべきことを知りたまふこと必然なり、古人も死期を知るものは聖者なりといへり、然る則んば写瓶の法器を撰して其の前時に於いて法を付したまはんこと決せり、豈に閻浮の座主たる目師をして還つて黒闇の如くなる凡愚と同ぜしめんや、例せば法主明らかに終焉を報せたまひて一期弘法抄を日興に賜ふに五老猶しらざるが如し、目師天奏首途したまふは猶高祖の湯治に趣きたまふて還来の期を宜ぶるが如し、是れ則ち内鑑明かにして外適に凡を示したまふなり。

嵩明教が伝法正宗論十一丁に云く夫れ如来に承けて出世の大祖と作るは聖人に非れば預る可からず、今師子之に預る是れ必す聖人なり安んぞにして夙報に死るを知らざる有らん、其の死を知らば又奚ぞ肯て預め命して正く其の法を伝えて之をして相襲で後世の師祖と為さしめざらんや、縦ひ其れ伝法相承の縁此れに止るも聖人亦当に預め知て以て其絶ることを告ぐべし、苟も其の死を知ずして告を失はば又何ぞ祖に列て之を伝ふるに足らんや、之れが為に伝を作らば固に宜く之を思うべし、仮令梵本素より爾るも自ら之を疑つて当に其の闕たるを留て以て来者を末可んや、筆に信せて遂に此の説を為し後世の諍端を起して先聖を屈することを得ん懼れざる可けんや(浄命天註)

されば富士門徒家中抄道師伝に云はく云云畧す、並に坊地付属の状及び大石寺所持目師知行の田畠を日道に授与したまふ書あり、共に嘉暦二年十一月十日の筆なり、又次下の文に云はく日目天奏の為に上洛せんと欲して当家嫡々の法門相承を日道に付属し其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以つて日道に示したまふ其の目録に云く此中具三十三ケ条の相承有り往拝、乃至日道を大石寺に移して御本尊御骨並に御筆御書等守護せしめ日目天奏の為に上洛したまふ云云、此の相承明々たる誰か之れを非せんや、汝眼根壊せずといへども朦々然としてかくの如き赫録を知らず、将た亦知って之れを掩ふならば宛も手を揚げて天日の明を覆んとする愚痴なり苦に憐愍すべし。

 問ふ或僧云はく日道相承なきこと日郷との論にてしるべし、若し夫れ相承あるならば誰か争ふものあらん故にしる無相承歴然たることを。

 亦答ふ其れ亦大石寺を毀らんと欲する奸心より出る語なり、此の難条は下の道師留主居の難の下に至つて義を推し文を挙げ理を糺して示すが如し故に煩しく贅せず。

 問ふ或る人云はく日目上人より日道へ座替り本尊と云ふ者は都て無きことなり、何となれば家中抄の中には諸師の徳行を挙けて諸師へ賜ふ所の本尊等具に載せたり、道師伝の下に此の事なし此れは是れ第一の大事の本尊ならずや、巳に載せざるを以て則ち知る無しと云ふ事を。

 答ふ撰時抄に云はく設ひ彼々の経々に法華経を戯論と・とかれたりとも訳者の誤る事もあるぞかし、よくよく思慮のあるべかりけるか、孔子は九思一言・周公旦は沐に三びにぎり食には三たびはかれたり、外書のはかなき世間の浅事を習ふ人すら智人はかく候ぞかし巳上、此の文は今の邪推の悪言を誡むるのみな非ず前後杜撰の鹿語に通して深く勘考すべき教誡なり、所謂家中抄に見へざる分の義推にて猥りに有無を糺さず衆人に対して言を発するは拙し々々、現に富山の宝庫赫々として蔵りたまふ予も亦嘗て親りこれを拝せり、疑はしくば往拝せよ一見の人は誰か非することを得んや、此れ眼前の大唐言なり、たとひ家中抄には載せずとも述者の漏脱もあるぞかし、よく思慮ずきことなり、予今度皇都に於て此の一論あることをしりなば、しかと月と日とを忘れまじきものをさてさて心つかざりき、今憶はく帰国のみぎり再ひ是れが月日を糺して京師に通ずべし、其の本尊の大躰は言はゞ尋常の本尊なり、右の下広目天王の左へ並んで目師の御名と判を書きたまひ左の方に道師の御名を書して当職御隠居対座のよそおひを示したまふ、右の脇には正慶二年月日と書き左の脇には授与書と一が中の弟子なりと書き下したまふ豈に明々たる証拠にあらずや、又啻ゆにこれのみにあらず興師巳来当職五十一世に至るまで連綿として此の規を違へず、今に五十幅を有す、而れども盲者は猶拝すること能はず、何に況や数十里の行程を隔てたる一闡提なればしらざるも理なり、猶信ぜざる上なれば愚痴に執するも一往宜なり、班盂堅が曰はく其の習ふ所に安じて見ざる所を毀る終に以つて自弊す此れ学者の大患なりと云云。知りぬ彼の僧が自ら見ざる所をそしつて嫡子の正統を拒まんと欲するは無匹の邪説なることを誰れか此れを悪くみ何れか此れを懼れざらんや噫々。

第二、或る僧・何の在処共の文を以つて富山を罵る謗法の事。
 問ふ或僧云はく高祖の富士山を称歎したまへるは且らく一往の義なり、再往是れを論ずれば正しく何なる辺鄙へ建立ありとも計り難し、されば本因縁妙抄に云はく四大菩薩同心して六万坊を建立せしめば何れの在処たり共多宝富士山本門寺上行院と号す可し云云、文の中に何の在処たり共の四字に眼を付けて固く富士を指したまへると思ふべからず、若し広布の時至つて本門寺の戒壇建立に及ぶことは但た権者出現に任すべし、又穢多村に立つとも強いて妨礙あるべからず云云。

 答ふ、哀れなるかな汝いかなる積悪の余報にて此の生盲となりたるぞや、若し汝が所計の如くんば蓮興目は但た一往の地に強いて建立せんとしたまひしか、夫れ戒壇とは作三国共に山に拠つて建つ、小乗の戒壇は且らく置いて論ぜず。

小乗戒壇とは南都東大寺、西国観音寺、東国薬師寺。戒壇別に唐招提寺に有り、仏祖統記三卅丁、律宗綱要、下巻、元亭釈書一十九丁(浄命天註)。

月氏国に於ては迹仏・霊鷲山に於いて法華を説いて十界の群類をして悉く脱せしむ。西域記九八丁に云はく●栗陀羅矩叱山唐に鷲峰と言ふ亦鷲台と謂ふ旧に耆闇堀山と曰ふは訛なり北山の陽に接り孤標特に起これり、既に鷲鳥を棲ましめ又高臺に類す空翠相映して濃淡色を分つ、如来世に御して五十年に垂んとせしに多く此の山に居たまひ広く妙法を説く、頻毘娑羅王・聞法の為に人徒を興発して山麓より峯岑に至り谷に跨がり巌を凌ぎ石を編みて階と為す広さ十余歩・長さ五六里・中路に二の小卒堵波有り一をば下乗と謂ふ即ち王此に至り徒より行いては以つて進む、二をば退凡と謂ふ即ち凡夫を簡び同く往かしめざりき、其の山の頂きは則ち東西は長く南北は狭し、崖の西の垂に臨んで甎精舎有り高く広くして奇製あり東に其の戸を闢けり、如来在昔多く居て説法したまひき今説法の像を作つて量如来の身に等し、精舎の東に長き石あり如来経行して履みたまひし所なり、傍に大石有り高さ丈四五尺周三十余歩是れ提婆達多が。かに仏に擲げ撃ちし処なり、其の南の崖の下に卒堵波有り在昔如来此にて法華経を説く、精舎の南山崖の側に大石室有り如来在昔此にて入定したまひき巳上、文長しと●も在世法華経の霊跡を知らせんが為に記す、実に印度の迹仏第一の霊山なり、又震旦国に於いては天台山是れなり、智者此に棲んで法華を説く山は星に応じて名とす、されば孤山の発源機要に云はく陶隠居真誥に曰はく山の高さ一万八千丈周廻り八百里なり山に八重有り四面一なるが如し斗牛の分に当たり上み三台に応ず故に天台と云ふなり巳上、大明一統志四十八に云はく道書に是の山・上み台星に応ず超然として秀出す、山に八重有り之れを視るに一帆の如し、高さ一万八千丈周廻り八百里なり巳上、正字通に云はく台は陽該の切音は胎なり、三台は星の名なり晋書に斗魁の下六星両々にして居る、乃至二星を上台と曰ひ次の二星を中台と曰ふ東の二星を下台と曰ふ、周礼春官中の註に三台は三階なり、史記三能に作る蘇林が能は音台なり、又天台は山の名なり、会稽に在り八重にして四面一の如し斗牛の分に当つて上み台宿に応ず天台山志に詳なり巳上、索隠に云はく斗は天の喉舌なり乃至斗魁の中・貴人の牢に在り魁下六星・両々相比の者を三能と曰ふ巳上、故に知る三台は合せて斗星の中に在り斗星は其の地の分野なり、中に於て斗魁の三台則ち此の山に当る、興師云はく遠く異朝の天台山を訪へば台星の所居なり、大師彼深洞を撰び迹門を建立せり、巳上、智者大師天台山を取て法華経を弘通したまへり、既に月漢の二国は山に拠りて大法を立てたり吾か国豈にしからざらんや、●て本邦には大日蓮華山なり、鷲峯台嶺。に劣り遠く群山を離れて超然として空を凌いで聳へたり、三国に雙びなき名山なるをや、天設地軸は但た此の山に局れり、謂ふ所の富士とは郡の名なり具にいへば一千の名ありとぞ、並に因師の富士記に悉しく記せり故に煩しく贅せず、一期弘法抄に云はく国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらる可きなり、時を待つ可きのみ、事の戒法とは是れなり、就中我門弟等此の状を守る可きなり云云、本因妙抄に曰はく彼の弘通は台星所居の高嶺なり、此の弘経は日王能住の高嶺なり、又云はく彼は台星国に出生す此れは日本国に出生す云云、富士草按に云はく次に日本国とは惣名なり亦本朝扶桑国と云ふ、富士とは郡の名なり即大日蓮華山と称す、爰に知りぬ先師自然の名号と妙法蓮華経の経題と山州共に相応せり弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪へば台星の所居なり、大師彼の深洞を撰んで迹門の戒壇を建立せり、近く和国の大日山を尋れば日天の能住なり、聖人此の高嶺を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富士山なり五人争か辺鄙と下さんや巳上。

日辰本因妙口決に云く富士とは日蓮山と云ふなり也彼の山に於いて本門寺を建立す可き疑ひ無き者なり。興師富士草按に云く本門寺建立の事、彼の天台伝教は在世に用いられるの間直に寺塔を立つ、所謂大唐の天台山本朝の比叡山是れなり乃至駿河の富士山は之れ日本第一の名山、最此の砌に於て本門寺を建立す可き由奏聞畢んぬ。(浄命天註)

炳に知りぬ三国通じて山に憑つて戒壇を立てたまふ、若し此の富士山を一往と云うて信ぜざる者は当に知るべし蓮祖の門人にあらざることを、蓮祖巳に就中我が門弟等此の状を守る可きなりと誡む、汝此の状を用ひざるが故なり、又本因妙抄に星の国と日の国とを対して勝劣を論じ其の上亦鄭重に台山と日山とを相映して優降を弁じたまへり、●に於いて猶一往再応を論ぜんや、又漢士の天台三光の一たる土を取って法華の実義を立てたり、日本の日王大日山を取って本門の正義を布けり、豈に天台の実義と此れが一往とを対せんや、知りぬ実義を雙べて勝劣を弁じたまへることを、又汝は富士山は一往の傍義・再往の正義は何くの在所たり共立てらるべしと云云、興師云はく弘通此の地に在りと云云豈に師敵対に非ずや又聖人此の高嶺を撰んでと云云。興師の撰地にもあらず正しく大聖人撰鑒の地なり、汝何ぞ一往の傍義と放下するや、又汝が云はく三国共に山に拠つて戒壇建立すると云ふは非なり、山によらずして戒壇立てざれば寺々の山号は何の為ぞや之れ山を表せるなりと云云、今謂はく汝月漢日三国の佳例を亡して僅に山号を募つて吾か大山を動かさんとするや、興師は此の高嶺を撰ふと云云高嶺とは低山に対する語なり、凡そ日本国に富士山におよぶ高嶺あらんや、知りぬ建立は此の山にあることを、又彼れは固く一往の義と立てたり蓮興は固く再往の実義を尽してのたまへり、五老云はく辺鄙の富士山を崇むと云云、鳴呼汝は正しい五老の宗なるぞや決して興師の流を汲む者に非ず、興師云はく閻浮第一の富士山なり誤認争か辺鄙と下さんやと云云汝は日興尊師の所破を蒙れり、諺に曰はく飛去鳥も跡を泥ざれと汝其の末流に在つて其の本源を濁す邦ぞ鳥にだも及ばざる、寧ろ学生となつて本宗の祖を辱めんよりは、しかじ愚者となつて五逆罪を犯さんには、将来の堕苦長短幾許ぞや悲むべし。
吾れ今彼がために一大明文を出して其眼膜を決せしめん諦聴せよ、本因妙教寺抄に云はく三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり云云、此の文の明々白々たること百千の日月を集めて一莚の燈燭とするよりも明らかに宣へり、此の聖定ある上に猶建立の地をかれこれと争ふは我意の至極に非ずや。

外十内房書十一丁・内六廿九丁・内九廿八丁・内廿六卅三丁撰時抄上十八丁・金剛宝戒上三丁・報恩抄下卅四丁・実相抄他受二・十四丁御義上四七丁・修行抄廿三卅丁(浄命天註)

三大秘法抄に云はく霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねて戒壇を建立せらるべきかと云云、其の霊山に似たるとは聖意富士山に在り最勝の地を尋ぬと云云、富山に勝れたる妙土ありや、有職の人に尋ね見るべし凡そ余処にあるべからず秘法抄には勝地を尋ねと云ひ、尋ねあたりし勝地は富士山とのたまへり、この地に建立すべきにこそと聖人は定めさせたまひぬ、而も秘法抄は前時にして付属の弟子にあらざる人なり、本因妙抄は溘焉の期といひ付属の大導師なれば処をたしかに指示したまへり、猶此の上に疑滞をのこすことなかれ、又汝何くの在処たり共とあれば富士に限ると云ふには非ずと云ふ、今謂はく是れ大僻見なり忽に前後の文に障ることを知らず、今具文を引いて彼を諭すべし、血脈抄に云はく日本乃至一閻浮提の外万国に之れを流布せしむと●も日興嫡々相承の漫荼羅を以つて本堂の正本堂と為す可きなり、乃至又広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣と成り、乃至日本乃至一閻浮提の内四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめ四大菩薩同心して六万坊を建立せしむ何れの在処たり共多御宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり、時を待つ可し云云、弘安三年庚辰正月十一日日蓮在御判巳上、此の文は是れ広布の時到り日本国および閻浮の外の万国迄に広く流布すべき事を宣ふなり、夫れ脱仏の仏法東漸するや月の西より東に向へるが如し、迹仏の法霊鷲山を本とす所々に流布するに●では震旦の天台山及び我が朝の比叡山皆霊鷲山寂光土と名く。

我朝の比叡山とは、日達冥応論二十三丁云く天台山は本と天竺の霊鷲山に擬す本朝の比叡山は彼の天台山に準ず、続日本後記に云く高岑東に峠ち耆闍山の形勝殊なるに匪ず懸途酉に通して王舎城風煙相接せり此れ則ち天台の上界銀地の道場なり(浄命天註)

日は東より西に入る本仏の大法西流して日本乃至一閻浮提の外の万国に溢れん時、出法根元の地は多宝富士山本門寺上行院なれば震旦天竺は素より論なし、たとへ何くの所にて在すとも悉く皆多宝富士山本門寺上行院と号すべしとなり、若ししからずんば上の文に閻浮提の外万国とのたまふ、又下の文に一閻浮提の内四衆悉くと宣ふ語勢何にても通じがたし、汝が所解は何くの在処たりとも戒壇建立は一箇所なるべしと解するとみたり、若し爾らば前の文に広布の日は閻浮提の外の万国迄一同とのたまへば本門寺朝に局らず異朝の中に立つべくとも計り難き得解なり、爾る則んば上に引ける三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なりと明らかに載せたまふをいかんがする、高祖の矛盾と云ふべきか争か其の義あらんや、知りぬ戒壇建立日本には但た富士山にかぎり万国の外・何くの在処たりとも多宝山等と号すべしとなり、斯くの如く解するときは了々として文義穏かなり、まさに知るべし何の在処共の四字を以て一往再往などと論ずる如きは義に於いて大に害あることを、又穢多村に建立有るとも礙なしと云ふこと無雙の謗語なり、忝くも清浄無漏のやや戒壇建立すべき勝地をば不浄臭穢の屠児が邑里に建つとも礙げなしと云ふこと祖師の眼目を挑り興師の獅子座を覆さんとするが如し、一言巳に出て駟も追ひがたしとかや慎むべきことならずや、大梵天帝釈等も来下して蹈みたまふべしと云云、屠所は悪鬼の住処なること長阿含に見へたり誰か之れを聞いて点頭せんや、あゝ斯くの如き悪輩興窓に在らんよりは一致者流のしらざる者ぞ。に勝らんか、吾れ獄卒に向つて強いて口を開かんよりは、しかじ黙々たらんには。

 問ふ或人云はく神力品に云く即是道場と云云、何ぞ富士に執するや、又戒躰抄等を見て吾か当躰蓮華仏の外更に本尊も戒躰も無きことをしるべしと云云、此の義実にしかなりや。

 答ふ是れ蚊虻の極たり一致者流の血脈に自義を加味せし毒薬なり、彼れ何くの在処たり共の文について戒壇の地を拒むと同脈たり、夫れ吾か興門の流たるや本門寺迹永く勝劣を立つ、故に種脱の本迹合して一百六箇の相承あり、汝否とは云ふべからず、而も下種弘通戒壇実勝本門寺迹の勝劣を立てたまひて勝地は富士山本門寺と定めたまへり、余国何ぞ劣地にあらざらんや、若し汝が如く即是道場なれば地に勝劣無しと云はば高祖一百五箇の勝劣を定たまひ地の勝劣を云はずして可ならん何ぞ一百六箇の勝劣と立て戒壇地の勝劣を一条目の相伝としたまふや、此れも高祖は地に執したまへりと云ふべしや甚だ笑ふべし。

昔し大迦葉世尊のいのちを受け勝地を撰ぶ祇陀太子の花園最も精舎建立の勝地なり、須達長者大施主と為り巨万の金を費して以て精舎を建つ故に知ぬ精舎建立の時は地を撰ぶを以て最極と為すなり。
大学頭久遠院師陣門邪難会答に梵網経を引き勝地を撰ぶの法を出せり、凡そ良地を択ぶは法成就し易きが故なり、其の梵天択地法及び不空択地法に出でたり、梵天択地法に云く若し人と寺舎及び俗人の家に在て壇を作るは山中に及ばざる百倍千倍、衆生を救はんと欲せば終に須く地を択ぶべし、蘇悉地経第一揀択処所品第六には勝地を揀ふの法卅四法を出す十一二丁看る可し何となれば勝地るるとき則法に障礙無きが故なり秘法を行うは必ず地を択ぶ可しと云なり、瞿醯経揀択品及び陀羅尼集経第十三の巻等看る可し、築壇には地を択ぶと見たり(浄命天註)

本因妙抄云く又に吹風万物に付いて本迹を分つて勝劣を弁ず可きなり、若し然らざれば仏弟子に非ず菩薩に非ず我弟子に非ずと云云、巳に吹風万物につけて勝劣を弁へざらん者は仏弟子我弟子にあらずと云云、彼れは勝地を押へて勝劣なしと云ひ、戒壇の本尊を蔑如して一機一縁の本尊と吾身の本尊と一致になし、勝劣を分けざれば蓮祖の弟子に非ざること必然なり、興窓の鴆語之れに過ぎたるはなし恐るべし、又因師は観心に約して国土世間を開会したまふ、富士山は能開の地・余所は所開の地となし事の広布を謂つて何れの在所たりとも等と云云、此れ等の深義は汝等春の依るの夢ばかりをも知るべからず、若しかくの如く人法土の三を一致修行なす者は天魔破旬・外道師子身中の蝗虫と同心に責むべしと云ふ、此のゆへに吾れ彼の僧をねんごろに破するゆへんなり、あはれべし、あはれむべし。
第三、或僧国無二主の義を知らざる事。
 問ふ尊師新処建立の大功に依つて興師より本因妙抄を相伝し、一閻浮提の大導師となりたまふ云云。

 答ふ尊師本因妙抄を相承にあづかりたまひしは正和元年十月十三日のことなり、大導師の当職は日目上人にして大石寺貫頂たり、目師ぞ座を替りたまはざる、若し目師も大導師にして尊師も亦大導師なりと云はゞ怱ち国に王二人有り天に二の日有るが如し、顕仏未来記に云はく四天下の中に全く二の日無く四海の内に豈に両主有らんや云云、秋元抄に云はく父二人出れば王にあらず民にあらず人非人なり、法華経の大事と申すは是れなり巳上、知るべし宇宙に雙日なく乾良に二人の大導師なきことを。

礼記喪服四百五丁天に二日無く土に二王無く国に二君無く家に二尊無し一を以て之を治るなり、綴集下卅丁に大論を引く往検、太田抄に云く法華経を以て天子と称するなり則天子二人無きの証なり四信五品抄に云く天子の襁褓に纒はる大龍始て生ず蔑如することなかれ(浄命天註)

又尊師に大導師を譲りたまふは目師の役なり、則ち嫡々相承と云ふは是れなり、前に例あり謂はく目師高祖へ侍へて大功あり又新処弘通の忠節あり、故に本因妙抄の相伝を度々望みたまふ、爾りと●も大導師二人に譲るべきようなければ日興が素意に任せてはからうべしと云云、今も亦大導師は目師の素意に任せらるゝことを、尚目師は尊師の本因妙抄を受けたまひしより後十有余年大導師の職に居りたまふ、又素意に任せて日道に付属したまふ何ぞ尊師へ大導師の付属あらんや。

 問ふ汝が所言の如くんば尊師に大導師付属はなくとも本因妙抄の相承はありと云ふと見へたり、本因妙抄豈に大導師の血脈にあらずや。

 答ふ興師御伝に云はく惣じて日目日代日順日尊四人の外は猥りに相伝したまはざる秘法なり云云、若し本因妙抄を大導師の血脈書と云はば大導師四人あるべしやいかん。

 問ふ尊師相承の本因妙抄には興師自ら付属書を添加したまふ、凡そ興師四人に相承ありと●も付属は但た尊師の書にかぎる豈に大導師相承にあらずや。

 答ふ大導師相承にはあらず別にゆへあり、謂く正安二年の秋興師重須に於いて説法したまふ、祖師堂の乾にあたつて梨樹あり黄葉殊に秋風に散乱するを詠めて莞爾として意を移すに似たり、興師尊師を勘気して擯出したまふ、時に尊師大猛勇の信を発して東西に行化したまふこと凡そ十二年なり、歳々に還り来つて赦を乞ひたまふ、応長元年興師之れを感じて免許したまひ日尊祈祷の為の本尊三十六幅を賜ふに尊師此中に建立の寺菴又三十六箇寺なり、翌年正和元年十月十三日に本因妙抄を以つて大功に充つ尚王城の開山と称歎したまふ、是の故に別筆を載せて後来を励ましたまふ、然るを此の文を以つて統御の大導師を妨礙せんこと、進んでは蓮興目の三師に違ひ退ひては尊師の素意に背く、首尾途を失ふこと哀む可し、我れ今此の書の文段を開いて彼れが邪説を折くべし、文に曰はく日興嫡々一人の外には之れを授与すること勿れ、説ひ正付法の聖人為りと●も新弘通の処建立の忠節之れ無き者には全く之れを授与すべからざる者なり、然りと●も随力演説の弘通は大慈大悲の誓願なり、志しに偏頗無けれども仏法嫡々の正義を全うせんが為なり巳上、文三段に分る初には法王の血脈・次に護法の賢臣・後には慈悲の末弟なり、曰はく法王の血脈とは嫡子一人此の抄を受持すべきことを演べたまふ、故に日興嫡々一人の外には之れを授与する勿れとのたまふ、次に護法の賢臣とは曰はく法王に忠勤まめやかにして殊に新所建立の大功あらずんば謾りに授与すべからざれとなり、故に文に設ひ正付法の聖人為りと雖も新弘通の所・建立の忠節之無き者には全く之れを授与すべからざる者なりとのたまへり、設の字は下に属して拝すべし巳に上の語と文縁きれたり、豈に大導師たりとも新所弘通なくんば付属なしと曲解せんや、譬へば軍忠の感状の如し、其の付法の聖人とは高祖興師の両弟子に智解抜群の正師あるべし、而れども忠節なき臣には授けたまはざること必然なり、忠節の字を思ひ合すべし偖て慈悲末弟とは曰はく慈悲平等に慰撫てし宣ふようは我が末弟等・力に随つて弘通するは大慈大悲より出る心なれば賢愚の隔てあるべからず、我が志しに偏頗はなけれども仏法の正義を全く相続させんと思ふが為の故に付属はせぬぞとの金令なり、則ち文は然りと●と云ふより正義と云ふ迄なり、かくの如く看破し畢りなば汝等が僻執一時に氷解すべし、予が如きもの謾りに真文を訓釈すること孔た懼れありと●も又千慮一得の謂あらんか、賢者幸に予が微志を愍みたまへ、宗鏡録の第二には日の光によつて還つて日輪を見るが如く凡夫知るべからずと云はゞ斯れ乃ち邪見不信の人なるのみとあれば学者しいて咎むることなかれ、今の尊師は護法の賢臣に当れり。

 問ふ興師御添書に云はく然る間玉野の大夫法印は王城の開山日目弘通の尊高なり、華洛並に所々に上行院建立云云仍之れを授与するのみ巳上、興師日尊を称歎の文中に日目弘通と加へたまふ故に師弟不二なり云云。

 答ふ師弟不二なり、しかれども何ぞ尊師一人に局らんや、夫れ師弟不二とは何ぞや、曰はく弟子の功を以つて師に帰せしむる故に師弟不二と云ふ。日目上人一期の天奏四十二度・三秘法建立の奏空しゝと●も其の功亦唐捐ならず、終に赦地を鳥辺野に賜ふ、尊師此の跡を紹継して上行院を立てたまふ豈に日目弘通の尊高にあらずや、此の一文につけて師弟不二を云ひ立て閻浮の座主と云ふは大誑惑なり、たとへ尊師新たに王城に建立あるとも功は但た目師にかへる是れを師弟不二と云ふ、尊師一人にかぎるにあらず数多の弟子の教化弘通の功は皆目師にかへるべし。

礼記祭義に曰く天子善有れば徳を天に譲る諸候善有れば諸を天子に帰す卿大夫善有れば諸候に薦む士庶人善有れば諸を父母に本て諸を長老に存す祿爵慶賞して諸を宗廟に成す順を示す所以なり(浄命天註)。

若し汝が所解の如くならば余の弟子は師弟不二あらざるいかん、又尊師にも此の示しなかりせば師弟不二にはおはせずと云ふべきか太しき愚言なり歯牙に係くるにたらず、血脈抄に云はく日朗は安立行菩薩かと、録外に道善御房は安立行菩薩にてましますかと、又血脈抄に日目を浄行菩薩かと、又阿仏房書に阿仏御房は浄行菩薩にておはしますと、又四条抄に曰はく貴辺上行菩薩と云云、又釈迦仏とも云云、蓮祖宣ふ上行再誕と云云、四菩薩有りと雖も悉く皆惣体の上行と師弟不二を成ずるなり、且く富士日代上人の如きは興師と師弟不二の依文孔た多し汝何ぞ偏僻なるや、されば尊師は興師より本因妙抄を禀受したまふと雖も目師泰然として職を治めたまふこと十有余年、尊師亦相承を受けてより大石寺へ勤仕奉公したまふこと十余年、番帳の席には第十番にして十月に当りて香華燈台明を備へたまふ、廿六箇条に云はく本寺に詣で学問すべきこと、五人所破抄に云はく若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣で尤習学を為し宮給仕を致す可きなり巳上、汝ら早く改悔して戒壇の地を知らんと欲せば以前尊師の如く富山に詣で十月には香華燈明の給仕をなし宜く本尊を守護すべし、若し左なくんば後悔足下に在らん、本寺参詣抄に云はく設ひ上行所伝の深法たりといへども其の人不知恩たるに於ては甘露の道還って非道となるべし云云、又云はく日蓮が後世の門徒等在々に散在して此の経を弘通せん者は先づ此本寺に参詣して、かたの如く知恩報恩の道に達してさて次に弘通を思ふべし、其の義なくんば偏に弘通成しがたし、弘通成就すべからず、縦ひ一往成就すと云はんも仏意に契当すべからざるなり云云、請ふ京流の来哲必す志を翻し富山に参詣して之れを糺すべし、まれにも謬って大導師は王城にありと云つて富士の人大導師法戒壇本尊土大日蓮華山の三を謗ずることなかれ、遅々として悔ゆることなかれ。

第四 或僧弘通処惣院号の文旨僻解する事。
 問ふ本因妙抄に下種弘通戒壇実勝本迹の下の文に三箇の秘法の建立勝地は富士山本門寺本堂なり、上行院は祖師堂云云、弘通処は惣院号なるべしと云云、是れ三秘建立の時節を指したまへり、未た本門寺建立之れなし知りぬ大石寺たりとも弘通所にあらざらんや正く広布の期までは一切皆弘通所なるべし云云。

 答ふ是れは予先日弘通所は惣院号の文を引て尊師の授与書に花洛並に所々に上行院建立と云云、仍之れを授与するのみと興師書きたまへるとを対して彼れを詰めたれば彼又此の黒言を吐けり、此の義は前段の何の在処たり共の文を評する下を読まば自ら其の義を得つべし、予豈に再ひ弁を好まんや、然れども彼れも先哲の書たりと云って杜撰の寝言を食して此の義を●っると聞けば再び条目を立って彼れ等の愚惑を晴さん、今彼れを破するは此の義を立たる先愚も共に自ら斥破を蒙ると知るべし、五人所破抄に云はく弘通此の地に在り云云何ぞ弘通所にあらざらんや、然りと雖も此弘通所の中に又勝劣を立つべし、所謂吹風立浪万物につけて本迹勝劣分くべしとのたまふが故なり、而も此の文段は一百六箇勝劣の中の一条にして下種弘通戒壇実勝本迹と牒じ畢て三箇等と云へり、豈に弘通所の本迹勝劣を定めたふ義にあらずや、汝は弘通処の勝劣あるを一致にして論ずれば乃天魔・破旬・外道、師子身中の蝗虫と上首同心して之れを責む可き者なりと誡めたまへり、いかんがする於戯溷濫の甚だしき、興師巳に上行院とさし尊師又上行院とのたまふ何ぞ本門寺と称へんや、若し強いて汝が山本門戒壇地と云はゞ興師何ぞ上行院を本門寺と為す可しとのたまはざるや、富士には慥にこれあり、則ち本寺を指して直に本門寺と号し弘通処を指して惣じて院号と呼ぶことは大聖人の鑒掟なり誰か諍ふべけんや、興師尊師を歎じて云はく所々に上行院建立と云云処々の院号寧ろ弘通所にあらずや、又彼此の段に上行院は祖師堂とあり是れ又弘通処なりや、尊師七箇条には上行寺とあり豈に院号に限らんやと云ふ二難を設けて非分を重畳せり、議するに足らざる難勢なればこゝに評せず賢者明察せよ若し夫れ愚駭にして菽麦を分たずんば重ねて一の鎚を下し忽ち微塵となさんのみ呵々。

第五 或僧王城開山の語に就いて大曲会する事。
 問ふ或僧云はく興師尊師を指して王城の開山と云云、夫れ普天の下、率土の浜・王土にあらざることなし王城の開山寧ろ普天の大導師に非ずや如何。

 答ふ土に二あり一には世間の王土・二には出世の王土なり、世間の王土とは帝王の所有なり普天四海は王者の一化なり城に多義あり謂く崇城とは天子の城なり斗城とは都の城なり、産城とは諸候の慢して制に超たるを云ふなり、又城とは庸なり百雉にして城と名く、又城廓なり内を城と云ひ外を廓と云ふ、城とは盛なり郡国を守るなり云云、又王城は帝都と同じ、大日本国山城国の帝都平安王城を指したまふ故に王城の開山と云ふ、敢て日本の国土・四海の法王の開山なりと云ふにはあらず、城に丈尺の量りあり土には限りなし、豈に土と城とを混擾せんや、昔し此の平安王城の地には迹門の戒壇を建つ迹化こゝに於いて円戒を帝王に授く、こゝに知りぬ迹化の菩薩巳に手をつけいろいし土なり、蓮祖何ぞ此の穢土を拾ひたまはんや、況や此の地の狭少なる奚ぞ六万の精舎建立するに堪へんや、今彼の惑者・耳を取って鼻につけ王城の文を会するに王土の義を引く那ぞ倉卒なる笑つべし、二には出世の王土とは謂く法王宣はく日蓮は閻浮の衆生の主師親なりと四海万邦吾か法王の領内にあらざることなし、其の法王の大都城は何処ぞや、謂はく南瞻部州大日本国東海道駿河国富士郡大日蓮華山是なり、此金剛不壊の王都に常住不滅の生身・主師親三徳・天上天下、唯我独尊の大聖人・人法一箇の法魂・滅後来際・賜閻浮の戒壇の大本尊なり、横に十方の広きを統べ●には天地を貫く大法王の都城なり、豈に朝拝参候せざるべけんや、平安の小王豈に此の大王命に反かんや、逆ふ者は国敵・仏敵・法敵・違勅罪を免れず汝安んぞ恐慮せざるや、本尊問答抄に云はく譬へば日本国の将軍・将門純友等の下に居して上を破る如し云云、四条抄に曰はく吾一門の人々の中にも信心も薄く日蓮が申すこと背き給はゞ守屋が如くなるべし云云、池上相承に云はく背く在家出家共の輩は非法の衆為る可きなり云云、汝具に違勅の罪咎を犯す将門純友守屋の如く誹法衆たること紛れなきなり、苟くも富士河の清流に浴し乍聖鑑の霊都をして卻て凡慮の鹿山となす者は寧ろ逆路罪にあらずや、吁尊いかな蓮王の大慈・興師の大悲・能く我か曹頑魯の兆民をして輙す下種の●別を得せしめたまふ、淮南子に云はく牛●の●には尺の鯉無し塊阜の山には丈の材無しと、猗末流牛跡の細鱗那ぞ本寺の大海を測らん、中古造仏を出すの散材奚んぞ大日蓮華山を識らん、吁汝が如き曲会も全く是れ幼より固く我情を●ふの致す所ならん、智者其れ施れを慎めよや。

第六、本尊書写唯一人に局ぎる事。
 問ふ或僧云はく本尊の書写大石寺に局きると云ふこと偏屈なり、本因妙抄に云はく本尊七箇の相伝は七面決を表す云云、忝くも尊師此の抄を相伝したまふ奚んぞ本尊書写の相伝なからんや、知りぬ本尊は本因妙抄より出ることを、又強いて本尊書写一人に局きると云はゞ卻つて興師を塗炭に堕せしむ、卅七箇条に云はく末寺に於いて弟子檀那を持つ人本尊を書く可し云云、何ぞ唯かぎつて一人とせん。

 答へて云はく本因妙抄に云はく又日文字の口伝・産湯口決の二箇は両大師の玄旨に当つ本尊七箇の口伝は七面決を表す、教化弘教七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡々の座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり、相構へて秘す可し伝ふ可し巳上、彼の僧の本尊は本因妙抄より出てたりと云ふは此の語によれるなり、されば此の文彼れが僻見ならば再び衆人に向って言語を吐くことなかれ、文の中に日文字の相承・産湯の口決・本尊七箇の口伝及ひ教化弘教七箇の伝の四つ相伝を以って此の書の枝葉としたまふに似たり、然りと雖も此の四箇の相承亦之れ甚深の血脈書なり、就中本尊の口決は秘中の秘書なり、故に後文には又此の血脈並に本尊の大事日蓮嫡々座主唯授一人の血脈なりと云つて別して此の抄と本尊の大事とを挙げたまふ、今試みに彼僧に問ふ若し本因妙抄より本尊を書写すると云はゞ彼抄の中何の処の文にか本尊書写の法を具に説きたまひ引点の相承等をしたまへる文やある、若し其の文なしと云はゞ何ぞ此の書の中より出っるならんや、巳に別に七箇の口決と云ふあり豈に●ならずや。

試に此の段を評せば三妙固より僻邪たり、泰雄の答論亦末た嘗て美を尽さず所謂三妙の若き因抄を以て根本と為し本尊を以て枝末と為す、猶を不相承家の所立の如し、夫れ本因妙抄は迹仏微塵の教及以本仏内外金口の本源たりと雖も妙法五字の事亦是十界輪円具足の法たるのみ、例せば迹家の経中より出たる題目と謂ふ如し、噫三妙本尊より因抄を勝れたる者とせば奚ぞ因抄を以て的尊と為さざるや、臆断の甚しき耕破に足らざるなり(浄命天註)。

又尊師本尊書写一幅もしたまはず大導師にあらざること皎として目前に在り、又武州久米原の妙本寺は尊師の開基なり今真言宗となれり、こゝに尊師真筆の額あり楷書の字にて南無妙法蓮華経と書き下したまふ、又京鳥辺山実報寺の四方正面の石碑あり、尊師の筆にて楷書字にて南無妙法蓮華経と書きたまふ、若相承を受けたまはゞ引点に書きたまふべきことなり、又彼れ等が云はく尊師本尊書写なきことを相承を大切にしたまふなり、其の故は興目の滅後諸師自々巳々と本尊を書写して乱るゝこと麻の如し、其の中にて我れも書写せば相承家の差別なかるべしと固く一期の中に書写することを慎みたまふ、故に尊師御伝に云はく本尊相伝のことは唯授一人に事かぎる末弟等猥りに混乱すべからずと云云、この故に尊師の没後歴代の貫主一人之れを書写す云云、予れ此れを開いていよいよ尊師の正師護法の賢臣なる事を知る、其の故は興目の没後諸師本尊を書写するは党を踰へ墻を破るなり、是れ諸師の悪行にして僣聖上慢の罪にあたれり。

日蓮弟子檀那抄外道悪人如来之正法を破しがたし、仏弟子等必す仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食ふ等云云、大果報の人をば他の敵破りがたし親みより破るべし。
問注書又小乗権大乗よりは実大乗法華経の人々が還って法華経を失はんが大事にて候べし。
一谷抄に云く日蓮が弟子と名乗るとも日蓮が判を持たざん者は御用ひあるべからず云云。妙楽云く縦使為妄無くとも正境に依らずんば実種と成らず、天台云く玄義七十三丁天月を識らずして但池月を観ず(浄命天註)。

爾るに尊師唯一人護法の志し勇猛にして仏法嫡々の正義を全うし信順の者あれば大石寺へ乞請ひたまへり、若し汝が所言の如んば尊師上京以来数十年の間信順の者はいかゞしたまひしや、目師世に在まさず尊師自ら書き給はず知りぬ大石寺へ乞ひたまふことを、目師日道上人へ三十三箇条相承の目録には本尊相伝の切紙とて第三十二箇条目に挙げたまへり、道師誠に真の大導師にあらずや、吾れ今謹み敬って相承の深意を窺ひ奉るに此れ等の相伝に惣別の二意あるべし、惣といつぱ尊師等の護法の正師は相伝を許して広布の日まで書写することを制しまたふ、則ち興師の三十七箇条に末寺に於いて弟子檀那を持つ人は本尊を書く可しと定めたまふは是れなり、尊師等若し此の大事を知りたまはずんば大事とする根本の信心薄かるべし、何そ身軽法重・死身弘法の大事心決定せんや、只嫡々に非ざれば書写することを制したまふのみ、別とは唯我与我・一天統御の貫頂これなり、是れには一塵一滴も漏らせる相承あるべからずと若しかくの如く解する則んば義に於いて更に傷むことなし、汝等強いて尊師を挙げんと欲して却て守屋将門の名を蒙らせんとするや師敵の重罪おそるべし、又彼の末寺に於いて弟子檀那を持つ人本尊を書く可しとの条目を引いて此の義を募る、若し爾らば汝が山は末寺と心得て之れを引けるや如何、汝此の下の文を隠す是れ誑惑なり、興師云はく末寺に於いて弟子檀那を持つ人本尊を書く可し但し判形有る可らず本寺住持の所作に限る可し云云、末寺の本尊には判形居ることを固く制したまへり、誰れか判形のなき本尊にて成仏の因を得んや又愚ならずや、高祖のたまふ日蓮が印を持たざる者は御用ひあるべからず云云、本尊七箇口決に云はく日蓮在御判と嫡々代々書き給ふ事如何、師云はく深秘なり代々の聖人日蓮と申す心なり云云、末寺の本尊判形を除きて代々聖人の印を居えさせて信心の血脈となしたまふ、諒に信ずべし仰ぐべし。痛ましきかな汝等頑徒人家の愚夫婦を売弄せんと欲して猥りに腥臭の口を以って大漫語を吐いて日道猶大導師の相承なしと云ふ、邪慢は山の如く偏執は頑石の如し、更に劣謂勝見の悪言を加ふ、宛も天狗の如し天狗とは鳶の鼻・両の翼・闇夜に礫を抛ぐと、謂はく何くの在処たり共の鳶の鼻高し、王城開山は両の翼を展づるが如し、大石寺無相承と云ふは闇夜の礫の如し呵々大笑。

平田篤胤古今妖魅考に天狗を出す天狗等と者壗嚢抄に云く天狗と者天は光明之義亦自在之義是れ則ち仏果を表す、狗と者痴闇之義亦自在之義是れ乃生界を示す也、謂を生仏不二之異名也。
日本紀三に天狐・徂徠先生を天狗の弁有り披閲す可し史記・漢書・晋書・天狗星と云つ、述異記・博聞録・山海経・広異記等皆天狗の説有り(浄命天註)。

 或人問ふ大石寺流の云ふ戒壇の本尊の余は皆一機一縁と云云、今云はく、一人に賜ふ本尊亦利益三世に亘るなり、又吾か山に紫宸殿の本尊あり、又外に万年救護の本尊と云ふあり、是れ一機一縁か爭か一機一縁の本尊ならん、彼の戒壇の一本尊に固く膠執するの愚案なり、又彼の本尊も広宣流布の日・海内統帰の期にあらざれば戒壇の本尊と名乗るべからずと云云。

 答ふ汝未た従一出多の本尊・従多帰一の本尊あることを知らず、其の従一出多の本尊とは大聖人・弘安二年に身延山に於いて此の板面に法魂を移し置き興尊者に授与したまふ、大聖人一期の間に信順の行者へ下し賜ふ本尊其れ幾千幅ぞや、其の流の根本を尋ね奉れば此の戒壇の御本尊の大海中より出たるなり、是れを従一出多の本尊と云ふ、百千の諸流同しく大海へ朝するは従多帰一の本尊なり、成仏用心書に云はく譬へば大海の水の家内へ汲み来らんには家内のもの皆縁をふるべきなり然れども汲み来るところの大海の一滴を又他方へ大海の水を求んことは大なる僻案なり大愚痴なり云云、乞見よ大石寺海の水を家内に汲み来らんとは戒壇の本尊の大海の潮を汲み来りて皆法潮に潤ふを云ふなり、又他方へ大海の水を求んとは大僻案大愚痴なりとは戒壇の本尊にあらざる本尊にて書写せし本尊をのたまふなり、巳に大僻案・大愚痴等とのたまふいかん、同一鹹味・失本名字の義こゝに在り一機一縁寧ろ非ならんや、授与書によって利益の広狭あり、云はく一箇寺に賜ふは一檀併せて一百二百乃至千家等に蒙るべし、又一家に賜へるは十人乃至百人等に蒙るべし、又姓名を記して賜はるは其の人一人の本尊なり、猶井川江河の如し、若し是の本尊も三世の利益ありと云はば授与書詮なし、例の無勝劣一致の法脈なり、思益経・法滅尽経等の法の住滅・道理顕著なり察せざるの甚しきかな、又紫宸殿の本尊とは何らの拠ろかある其の上至つて小幅なり、我山の紫宸殿の御本尊と云ふは視上くるばかりの大幅なり、又広宣流布の時は紫宸殿に掛け奉ると黒々と筆を染めたまふ汝何ぞ慢ずるや、又万年救護の本尊とは文永十一年十二月の御毫なり、則ち末法万年の一切衆生に唯我一人能為救護の大慈悲の証に遣し置きたまふ、又是れ戒壇の本尊に添属せる本尊なり、敢へて一閻浮提法華講中等敬白と書きたまふにあらず、又戒壇不建立の間は戒壇の本尊と云ふべからずと云ふこと至愚の蚊虻たり、蓮祖御在世最蓮房をして授戒せしめたまふ得受戒人功徳法門抄見るべし、興目続いて之れを富山に掛けて弟子檀那等を授戒せしめたまふこと挙て数へがたし、炳に知りぬ戒壇建立の後と云ふは三師を蔑する大悪人なり、猶彼の種々の悪語を加へ大石寺第九代日有此の本尊に刃を入れて蓮祖の法魂をけづるといひ、或は御譲状の大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之れを管領すと、此の中の御堂と云ふは本尊堂にはあらざらん御影堂なるべしと云ふ邪会を設けたり、彼の日有書写の本尊別にあることをしらず、又大石寺は法の本尊をとゞめ興師重須に御影堂を立てたまへり何ぞ大石寺を御影堂と云はんや、興師の御伝を見なば自ら知るべし、猶現見に大石寺は戒壇の御本尊重須は生御影と云ふことは幼なる雛僧も知れる処なり豈に頑ならずや、又一妖俗あつて則ち血脈抄の一致の大石を以て日蓮が門を打ち破るとのたまひ、又は元品無明の大石等とのたまふを以て名は必ず体を顕すと云って大石寺の寺号を破せり、是等は興師に向って難ずべし風に向って塵埃を掃ふが如き痴人なり笑つべし千々、彼れ今度の顛末躄者の如し拉者の如し、勃然として●せり言語顛倒甚た多し、以下の諸言一々に文を挙げて之れを懲すに遑あらず余は我情しるべし。

第七 或僧家中抄に留守居と云ふを僻難する事。
 問ふ或僧云はく家中抄目師伝の下に云はく又乱れたる時は諌めやすきが故に御上洛ありて諌暁したまはん為に上京の企てあり、其の時大石寺には日道を留守とし其の外御置文等之れ在り云云、道師巳に留守居なり何ぞ大導師の付属ならんや。

 答ふ天奏巳前巳に大導師職を付属したまふ其の旨前に弁ずるが如し何ぞ強いて諍はんや、又座替りの御本尊を与へて一が中の一弟子なりと云云、何の疑ふところか之れ有らん、然るに目師此の時天奏の大志を懐きたまふ故に未た大衆に披露したまはず是則殿奏の義は当職にあらざれば協ひがたき所以なればなり、道師又相承は受けたまふと雖も披露なきを以て且らく留守居の躰を示したまふ、其の外御置文等之れ有りと云ふに心をつくべし、所謂る唯我与我とは其れ乃れを云ふか、此の時目師濃州垂井に於いて遷化したまひぬ日郷御共なれば荼毘し奉り日尊に別れて富士へ帰りたまふに、忽ち憶らく大導師巳に滅に入りたまへり、次の血脈は未た誰と云ふことを聞かず、而るに此の度の御先途を見送り奉りしは唯た我と日尊のみ、其の日尊は京都に行いて上行院に止住す、吾れは富士山にかへりて目師より大導師の相承受けたりと云はんに何の妨かあるべきとて還り来りて之れを披露す、●に於いて道師前時に相承したる旨を初めて仰せ出さる、これに依って大衆評議紛々として分ち難し、然りと雖も日郷には相承の証拠一箇条もなし、道師には切紙目録等分明なり、三年の諍ひ終に決定して郷師を擯出し大衆一同に道師を拝して大導師と崇む、巳に是れ大石寺大衆一同・評議決断の義なり、後世何ぞ疑礙するやも例ぜは日目上人も日興上人より永仁二甲午十月に御座替りの儀式あつて後興尊は永仁六年重須に隠居し、其より卅二年を過ぎて元徳二年に大石寺の番帳を定めたまふ、此の時目師を番頭として十二人を立て次第に香華当番の勤仕としたまふが如し、原るに夫れ昔し大聖人弘安五年の十月に武州池上に滅を取りたまふ二祖の座は日興と定めたまふ二箇の相承明白なり、五老之れを知りたまはずして諍ひたまふ故に此の状を出して大衆に披露し衆の諍ひを止めたまふ、爾と雖も五老は永く興師に背けり、又本因妙抄を相伝したまふには五老を以って証人に立てたまふ其の分に云はく問って曰はく誰人を証拠として付属するや答へて曰はく釈迦多宝・十方三世分身乃至日昭日向日朗日持日頂等の上老、日高等の中老、日比日弁等の下老・其の外諸檀那等悉く証人として日興を付弟と定め了りぬ巳上、五老九老中老等証人なりと雖も五人知らざればこそ諍ひありぬ、是れ等は次上に唯我と我と計りなりとのたまへば道師の相承も能く此の義に似たり、●を以って吾今道師を指して亦唯我与我と云ふ所以なり。
 問ふ道郷の諍ひ永く三年に●ぶ若し分明ならば一旦の諍ひはあるべくとも豈に歳月を経んや。

 答ふたとへ三年を経るとも若し評議決定して分明ならば何ぞ強いて疑はんや巳に前に弁ずるが如し、道師の相承披露なかりし故に人亦之れを知らず、故に人皆大導師は目師未た余人に譲りたまはずと思へり、然るに日郷濃州より帰りて我相承を受たりと云はゞ皆さも有るべしと思ふべし、何となれば大衆御臨終の傍らに居らず尊師富士へ帰らず、而かも御遺言を受けたるは日郷なりと偏へにおもふことなればなり、故に三年の永きを経る然れども証拠之れ無きに依て疑を晴らし依法不依人の誡の如くして終に日郷を擯出す、実に迷ひやすき処ぞかし賢哲、人我を離れて今昔共に人情に替りなきことを知るべし、況や道師には卅三箇条・十二箇条・形名種脱の相承・判摂名字の相承・内用外用金口の相承等相伝したまふ、其の器に非ざれば伝へずと云云、卅三箇条の内に日蓮仏法日興付属の切紙あり、三大秘法の切紙あり、授職灌頂の切紙あり、日文字の系図あり、興師三十七箇条に云く本尊を書き日文字を与へ袈裟を掛る事一向本寺の住持の免許を遂ぐ可し、私に之れを有るべからず云云本尊相伝の授与あり、唯授一人の大導師なること明らけし後人疑滞をのこすことなかれ。

巳上、七箇条を弁ず余は彼が書の来らん時を待つて再び対治せんのみ、豈に云はずや千里の迷途を回へすは一呼の力なりと、若し此の書に憑つて少しく解することを得なば自も他も共に自受法楽に耽らん、仰ぎ願くは此の言・上は霄漢に透り下は黄泉に徹し法主大聖速に哀愍納受したまへ。

報恩抄下六丁曰く例せは嘉祥大師は法華玄と申す文十巻作りて法華経を讃せしかとも、妙楽彼を責て曰く毀は其中に在り何そ弘讃と成らん等云云法華経を破る人也、されば嘉祥は落ちて天台につかへて法華経をよまず、我れ経を読むならば悪道まぬがれじとて七年まで身を橋としたまいき、慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり、伝教大師責めて曰く法華経を讃ると雖も還て法華の心を死す等云云、此等を以て思うに法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなりと云云(浄命天註)

維時聖暦嘉永三庚戌●四兎中旬、皇都の旅舎に於て富士大石寺の発心者泰雄生年三十有九莞□□□□□□□□合掌南無す。

泰雄此書を撰び蚊虻の徒を斥ふ然り遂に一人として手を挙げて之に抗する者有らざるなり、其れ止みぬるかな、頃日狂夫あり蟷螂の技を為して一書を撰す、号して破愚邪立正論と曰ふ、又酔僧有り大石破門と云ふの書を作る、終日酔走して狂ふに過ぎざるのみ、余時に簡を送り之を覧観せんことを促す而も贈らず、之に因て余血脈還源伐折論を著す、又愚抄弥有り破石金剛論を制す、余亀骨羚角論を作て之を拉く、而して三書併ら題号を破す、委は別録の如し。
                     加藤浄命(自筆なり)

編者曰く雪仙文庫蔵写主不明ナレドモ浄命所持ノモノ本に依り浄命書入の分は文章筆画共に間然する所無ければ其の侭此を写し本文の誤謬分には多少の訂正を加へたり。
又曰く重版の時に間々引用せる漢文態の所を訳して延べ書としたり。

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