富士門家中見聞上中下

富士宗学要集第五巻

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富士門家中見聞上中下

 富士門家中見聞上
日興
師の諱は日興少字は甲斐出家して伯耆と号す、俗姓は橘氏先祖は遠州の人なり、事の縁ありて甲州大井の庄に久住大井早川尻の郷に在る名なり、大井庄司の先は敏達天皇九代の後胤美濃守美根の末孫なり御伝、御自筆に云く、父甲斐国大井庄司橘入道第三男なり、武蔵国住人大島時綱は日興継父なり已上正筆今重須に在り、母は駿河国由比なり由比は富士西山に住居せるが故に西山殿と号するなり、富士一跡門徒存知事に日興述云く撰抄一巻上中下駿河国西山由比、其を贈る正本日興に上中二巻之れ在り、下巻に於ては日昭の許に之れ在り已上正筆今当山に在り紛失して残る所纔一二紙なり、御誕生は人王八十七代後嵯峨院の御宇寛元四年丙午三月八日の御誕生なり、時の将軍は頼経公執権は相模守平泰時なり、世尊の入滅二千百九十五年にあたる、頭頂の右額に七曜星をいたゞきて誕生し給ふ視る人奇とす。

幼少にして父を喪し外戚に育てられ富士西山に住す、出家に作らんとて岩本実相寺に登り給ふ、彼の実相寺と申すは後鳥羽の法皇の御願所平家調伏の道場なり、横川の末寺の中には効験無雙の霊地なり具に実相寺縁起一巻日興直筆之に在り往見、四十九院の大衆鎮に天下の太平を祈るゆへ関東の尊敬他に異なり、爰に於て御出家あり、御名を甲斐公とぞ申しける、其時の能化を播磨律師と申す祖師、其後の能化は美作阿闍梨良学なり、亦須戸の庄の地頭冷泉中将に謁して儒書歌道も稽古し給ふ御伝、正嘉元年丁巳二月廿三日の大地震に付いて日蓮聖人岩本実相寺の経蔵に入り給ふ、爾の時大衆の請により御説法あり大衆聴聞して南遭の想ひ渇仰の心日々新なり、是の時大衆の中より甲斐公、承教随喜して弟子となり給ふ、学文の間には近隣の真俗を教化し給ふ、松野の子息を弟子として甲斐と云ふ名を付け給ふ、其の後御名をば伯耆房とぞ申しける、弘長元年の五月、師、伊豆の伊東に配流せられ給ふ伯耆公即伊東にゆいて給仕し給へり、行程百五十里、文笈を荷担して遠しとし給はず道中処々にて説法強化し給へり、給仕の隙には伊東の 近所を強化し給ふに宇左美吉田に信者少々出来る、同三年二月十二日御赦上人鎌倉へかへり給ふ伯耆房御伴なり。御伝。
鎌倉と岩本と往復し給ふに径将に二百里なり、たまたま旧寺にかへりては熱原、田中、加島松野等在々所々にて御説法あり、由比、高橋、松野、南条、石川、小泉等皆信者となる、亦甲州大井に往いて説法あり庄司入道信者となる、亦波木井にいたりて説法し給ふ清長聴聞して信仰し奉るの間、実長妻先づ受法す、清長親父に向つて法花の法門を語らる実長受法すべき気あり、伯耆公実長に対して説法し給へば聴聞して即法華の持者となる祖師伝、其の外家中の男女皆受法す、亦西郡には秋山、小笠原等うえ野二十家在々所々の男女多く以て受法す、凡説法の所々聴聞の貴賤群をなし導利衆生暫くも廃し給はず、後日に此の所に寺を建立し給ふ所謂、妙法寺、蓮華寺、経王寺、是なり皆大聖立名の寺々なり其証本尊の書付之れ在り、在鎌倉の次でには受法の人々を比企谷に誘引して蓮祖に値はせ奉り給ふ蓮祖為に法を説き給ふ。祖師。


文永八辛未六月十八日より極楽寺の長老良観房雨を祈る、聖人曰く小事たりと云へども此の砌り現証を以て法の邪正を顕はすべしとて御使をたてらる、一七曰に猶雨降らす弥よ炎旱盛なり、之に依て良観房悪心をおこし讒言をかまえるの間終に同年九月十二日竜口の御難に値ひ給ふ、此の時弟子衆右往左往になりて一人も随順せず唯伯耆公一人随身し給へり、然れども仏神加護により其の夜の難をまぬがれ給ふ翌日依智に移りて且らく爰に御逗留あり終に是より佐渡国に赴き給ふ、御伴には伯耆公なり、茲に因つて彼国の信者阿仏中興等次第に志し深くなり後には如寂房曰満を興師の弟子とし給へり佐渡路次併に着船以後方々信物の請取等日記日興御自筆今重須に在るなり是れ其の証なり、配所四箇年常随給仕なり、同十一月甲戌三月十四日御赦免三月廿六日に鎌倉入御の時御伴して帰り給ふ巳上。御伝。


同四月八日聖人平の左衛門の尉頼綱に謁見し諌め給ふに用ひず、聖人曰く三たび諌めて用ひずんば山林にましはるべしと云つて甲州波木井の郷に入り給ふ此年十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ、然れども伯耆公は猶岩本に居して御弘通あり、信者いやましける故に聖人より和泉公日法と越後公日弁と二人を日興に附け給ふ、是の故に日法は東方田中大野の御弘通あり、日弁は熱原に寺をたて弘通し給ふ滝泉寺と云ふは是なり、亦日興の御弟子下野公日秀は熱原と入山瀬の間に法花堂を建立して説法し給ふ市庭寺と云ふは是れなり、何れも随力演説あり法華折伏破権門理、人に越えたる故に熱原田中賀島多分法華宗となる、其の時実相寺の別当厳誉云はく近隣多く以つて法華宗となる其の根源寺中にあるの由風聞の間僉議して速に追出せらるべし、彼の日蓮は仏法の外道なり邪教を以て正義を改めしむるの間宥免の沙汰あるべからず云云、時に日興進出して曰く我か師日蓮は当時の聖人なり然るを外道と号する事謂れ無し、亦日蓮法花経を以て弘通せり是れを邪教と称する事何れの経論に出たるや其の証文を出さるべしとぞ責め給ふ、此の論に因つて大衆二に分れて外道非外道の論止む時なし、爰に於て厳誉訴状を以つて鎌倉に捧く、日興亦実相寺の申状を奉行所に捧げて裁許を請ひ給ふ、其の状に云く此の論弘安元年三月に起り弘安八年に落居するなり其間年々訴状を捧げ対決を請ふ終に弘安八年法華の寺と為るなり。

一、駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧、釈の日興等謹んで申す。
寺務二位律師厳誉の為に日興併に日持、承賢、賢秀等所学の法華宗を以て外道大邪教と称して往古の住坊併に田畠を奪ひ取り寺内を追ひ出せしむる謂れ無き子細の事。
右釈迦一代教の中に天台を以て宗匠と為す、如来五十年の間法華を説いて真宗と為す、是則諸仏の本懐なり抑も亦多宝の証誠なり、上一人より下万民に至るまで帰敬年旧たり渇仰日に新なり、而るに厳誉律師の状に云く四十九院の中、日蓮が弟子等居住せしむるの由其の聞え有り、彼の党類仏法を学し乍ら外道の教に同じ正見を改めて邪義の旨に住せしむ以ての外の次第なり、大衆等評定せしめ寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり云云、茲に因つて日興等忽に年来の住坊を追ひ出され已に御祈祷便宜の学道を失ふ、法華の正義を以つて外道の邪教と称するは何の経、何の論文ぞや、諸経多しと雖も未た両眼に触れず、法華中に諸経を破るの文之れ有りと雖も諸経の裏に法華を破るの文全く之れ無し、所詮已今当の三説を以つて教法の方便を破摧する者更に日蓮聖人の莠言に非ず皆是れ釈尊出世の金口なり、爰に真言及び諸宗の人師等大小乗の浅深を弁へず、権実教の雑乱を知らず、或は勝を以つて劣と称し或は権を以て実と号し意樹に任せて砂草を造る、仍て愚癡の輩短才の族ら経々顕然の正説を伺はず、徒に師々相伝の口決を信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証無し、天地之れが為に妖蘖を示し国土之が為に災難多し、是れ併ら仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり、夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依て長久す、正法を学ぶの僧を以て外道と称ぜらるゝの条理豈然る可んや、外道か外道に非ざるか早く厳誉律師に召し合はせられ真偽を糺されんと欲す、且つ去る文応年中師匠日蓮聖人仏法の廃れたるを見未来の災を鑒み諸経の文を勘へ一巻の書を造る立正安国論、異国の来難果して以て符合し畢ぬ未萌を知るを聖と謂つ可きか、大覚世尊霊山虚空二処三会、二門八年の間、三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅度後二千二百三十余年の間、月氏の迦葉、阿難、竜樹、天親等の大論師、漢土の天台、妙楽、日本の伝教大師等内には之れを知ると雖も外に之れを伝へず第三の秘法今に残す所なり、是れ偏に末法闘諍の始め他国来難の刻み一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用ひて兵乱に勝つ可きの秘術なり、経文赫々たり所説明々たり、彼れと云ひ此れと云ひ国の為世の為め尤も尋ね聞し食さるべき者なり、仍て款状を勒して各の言上件の如し。
弘安元年三月日 承賢、治部房
        賢秀、下野房
        日持、甲斐房
        日興、伯耆房
平の左衛門入道奉行所

是より以後弥よ折伏の説法あり、茲に因て法論止む時なし、真俗ともに法威を振ふ南条高橋等努力す、其の間太田殿えの使節を勤め給ふ、又下方中の他宗ども寄り合ひ僉議して云はく此の寺併に坊主ども此のまゝ置くならば我々が身の殃なるべし、所詮鎌倉に下り奉行所に訴訟して此の寺々を破却し坊主どもをば禁獄流罪すべし、自然法論大事に及ぶこともあれば還つて自過を招くの間、行敏の状に習つて強仁上人の状を日蓮に附けて日蓮が党類を遠流すべしと衆議一同して鎌倉に下り地頭に訴訟す、殊に富士熱原等は最明寺、極楽寺殿等の後家尼御前達の領内なれば、なしかは遅々すべき、即平左衛門に仰付けらる、平左衛門承つて数百人の軍兵を熱原田中にさし遣はし先づ法華の寺二箇所を破却し坊主衆は杖木瓦石の大難にあひ給ふ、さて頭領の檀那廿四人を召し取り鎌倉の土の籠に入れたりける、是の故に日興滝泉寺の申状を捧げて訴へ給ふ。

一、其の状の略に云く、日蓮聖人去る正嘉以来、大星大地動等を観見して、一切経を勘えて云く当時日本国の躰為く権小に執著し実経を失没するの故、前代未有の二難起る、所謂自界叛逆難と他国進逼難となり、仍つて治国を思ふの故、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去る文応年中の上表一巻の書に立正安国論と号す勘へ申す所皆以て符合す、既に金口の未来記に同し宛も声と響との如し、外書に云く未崩を知るは聖人なり内典に云く智人起を知り蛇は自ら蛇を知ると、之を以て之を思ふに本師豈聖人に非ずや。畧抄。
弘安二年十月 日  日興
平左衛門入道奉行所

亦大聖人よりは籠舎の人々に御書を下さる聖人御難抄と号するなり今重須に在り、其使も日興なり、籠舎の人々は熱原の郷の住人神四郎、田中の四郎、広野の弥太郎なり、残りは所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取り給ふ、同三年に法華宗の檀那三人をば頚を切つてぞ捨たりける、されば彼の三人の追善に大曼荼羅を書写し給ふ、其の端書に云く、駿河国富士下方熱原郷住人神四郎法華宗と号し平の左衛門尉が為に頚を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道、法華衆の頚を切るの後十四年を経て謀叛を企つる間、誅せられ畢ぬ、其の子孫跡形無く滅亡し畢ぬ、徳治三戊申年卯月八日日興在判已上此本尊今重須に在るなり、此の時強仁の状、不日に大聖人え届けざるも日興滝泉寺の申状を以て鎌倉に下向し対論を請ひ給ふ故に遅々する所なり、同十二月に聖人の御返事実相寺へ遣はさる、強仁上人鎌倉に下向して訴訟し給へども聖人の強言ども符合するか故に讒言をば信ぜざるの間、訴陳の状も徒に朽ちて御沙汰も更になかりける、此の動乱に日秀日弁杖木瓦石罵詈毀辱の大難を蒙り給へども但惜無上道の故に此の諸難事を忍び給ふ、之れに依つて聖人御感ありて直に上人とぞ召しける、然れども日興は鎌倉に詰めて対決を請ひ給へども奉行頭人評定衆皆別当の贔負なるが故に弘安元年三月より同八年に至るまで終に対決を遂げず、愁訴をいたひて空く歳月を送り給ふ、厳誉律師は法華の行者誹謗の現罸により密懐の事露顕して夜逃して失せぬ、別当方の衆徒も逃げ散つて冨士川の西、中の郷に居住す、茲に因て其の所を今に至るまで四十九とぞ申しける、実相寺は空しくあき寺となりける故に自然と日興別当となり給ふの間、日持、賢秀、承賢、各居返りける、是れ実相寺の法華の精舎となるの始めなり、其の後日持、賢秀坊日源、承賢坊日底、相続いて住持し給ふ其の功偏へに日興の徳による者なり其証拠今重須に在るなり。
亦伊豆国にて御説法の次でに熱海の湯に入り給ふ此に於て走湯山の出家と参会せり、其中に一人懐中せる文を落したり興師之を見てかくぞ詠じ給ふ。
かようらん方そ床敷はまち鳥、ふみ捨て行くあとを見るにも。
此の一首により蓮蔵房に御対面あり、亦御法門あり、蓮蔵坊聴聞し奉り信仰いたすが故に児童を以て興師に奉りて弟子と為す、後に日目と号するは是れなり、其後武正、妙円等皆受法す已上御伝。並に宇佐美の一類小野寺等相模国十郎等多く以て信者となる御本尊書付、甲州秋山の一類出家して弟子となる後二十家阿闍梨寂日房日華と号するは是なり、又同国の中小室の小笠原の子出家せり後に摂津阿闍梨日仙と云ふは是なり、遠州にては相良信者となる本尊書、是の如く周旋往返して四方に弘通し給ふ、志ある者には即本尊を授与し給ふ御弟子衆発心並に御弘通年代前後不定なり古伝並に自筆等未だ分明ならざる故、次第を以て一定と為すべからざるなり、甲州西郡鰍沢の三箇寺は皆是れ日興建立の精舎にして大聖人寺号を付け給ふ所なり、所謂妙法寺は日蓮、日興、日華、日伝と血脈を列ぬるなり、蓮華寺は日興、日華、日妙と列ね、経王寺は日興、日華、日経と列ぬるなり。
聖人山居の後門弟子の請により法華経の御講釈あり、御弟子衆数多ありといへども日興達士の撰にあたり給ひしかば章安所録の天台の章疏に習つて聖人の説法を記録し給ふ事、合して二百廿九箇条、其の外度々の聞を集めて日興記と名く、是れ聖人編集の註法華経に就ての口伝なり御筆今重須に在るなり、又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り、此西山に移り、うる故今は西山に在るなり、同三年に一百六箇血脈抄を以つて日興に授与し給ふ、剰ひ此の書の相伝整束して日興に伝ふ、亦本尊の大事口伝あり是れを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり、同四年二は聖人薗城寺の申状を書いて日興に給ふ、日興、師の御代官として奏聴の使節を勤めたまへり是当家天奏の最初なり其の後日目等相続して奏聞す、同五年二月日興に御書一通下さる大聖の御筆なり死活抄と号す今西山に在るなり、同五年夏首題に付いて奥義口伝等日興に伝授す、同九月に付属の状一通を日興に賜ふ其の文に曰く。

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師為る可きなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらる可きなり時を待つ可きのみ、事の戒法と謂ふは是なり、就中我か門弟等此の状を守る可きなり
弘安五年九月日  日蓮在御判
血脈次第日蓮日興  已上全文

同八日の午の尅に身延の沢を御出ありて十八日午の尅に武州池上兵衛志宗長が家に着き給ふ、鎌倉の信者ども参り集まる種々の御法門あり、又安国論に疑難を加ふる者あり茲に因て安国論の御講釈あり、日興安国論大意問答一巻を記録し給ふ御自筆当山に在り、同十月八日に本弟子六人を定め置かるゝに日興其の撰にあたり給へり、此の日産湯相承を記録す、同十日には本尊七箇決併に教化弘教七箇の決を記し給ふ、十一日に本因妙抄を日興に付与し給ふ、其の文に曰く又日文字の口伝産湯口決の二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇口伝は七面決を表す、教化弘教七箇伝は弘通する者の大要なり、又此の血脈併に本尊大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承のほんせう唯授一人血脈なり、相講へ秘す可し伝ふ可し云云誠に日興は多聞の士、自然に仏法の深義を解了せる故に仏法の大海水、興師の心中に流入するにより斯の如き甚深の血脈を禀承し給ふ、同く十三日の暁き重ねて付属の遺状を賜ふ其の文に曰く。
釈尊五十年説法白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為る可し、背く在家出家共の輩は非法の衆為る可きなり。
弘安五年壬午十月十三日  日蓮在御判
武州池上  已上全文

其の後御説法あり聴聞の真俗悲歎せり、亦御遺言あり同十六日之を記録して御遷化記録と号す執筆日興四人裏判之有り、大曼荼羅に向て臨終の御経、異口同音に誦し御入滅なり、弟子檀那の悲涙袖に余り遠近の檀越を待ち揃へて最後の御供養をさゝげ十四日の戌時に御入棺時に御葬なり具には御遷化記録の如し。
其の後御骨を取り御遺言にまかせて身延山に登せ奉り御廟の内院に之れを納め各御供養あり読経唱題の行法退転なし、同六年正月に墓所の御番帳を定め給ふ時、聊か違乱に及ぶ事ありて衆義区なり、此の時日興御遺状を取り出して大衆中に披露あり、時に日興御影の宝前に於いて御(門の中に亀という字くじという意味。選びとるくじ。)を取り其の次第にまかせて番帳を定め給ふ、老僧中、外には子細なしといへども内意は当別当日興に同宿すべからずとて終に日昭は浜戸に下り相州浜士なり、日朗は比企谷に下り鎌倉比企谷日向は上総に下り茂原なり、日頂は下総に下る真間なり、皆我本国へ帰り給ふ祖師、日興独り身延に留まり朝暮読経唱題の外、所作なく廟所を視て敬を思ひ弥よ勤行し給ふ、時移り日重れども御弟子衆一人も参詣し給はず、高に舛り以て松梓を望み丘壟に下りて墓所に行き給ふにも荊棘莽然とし狐兎の迹、道に交りければ、御墓所をも捨て給ふかと歎き思召しけるに、剰へ御第三年忌にも参りあひ給はざるにより便宜につき方々へ御書を遣はさる、其の状に云く。

一、態と申せしめんと欲し候の処、此の便宜候の間悦び入り候、今年は聖人の御第三年に成らせ給ひつるに身労なのめに候はゞ何方へも参り合せ進らせて御仏事をも諸共に相たしなみ進らす可く候つるに所労と申し又一方ならざる御事と申し何方にも参り合せ進らせず候つる事恐れ入り候上歎き存じ候、抑も代も替りて候、聖人よりも後も三年は過き行き候に安国論の事御沙汰何様なる可く候覧、鎌倉には定めて御さばくり候覧めども是れは参りて此の度の御世間承はらず候に尚今も身の術無きままはたらかず候へば仰せを蒙る事も候はず万事暗々と覚え候、此の秋より随分寂日坊と申し談じ候て御辺へ参る可く候つるに其れも叶はず候、何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親り懸らせ給ひ候事目も当られぬ事に候、地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由し御言とは承はり候へども不法の色も見えず候、其の上聖人は日本国中に我れを持つ人無かりつるに此の殿ばかりあり然れば墓をせんにも国主の用ひぬ程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥す可き御状候し事、日興の賜はりてこそあそばされて候しか、是れは後代まで定めさせ給ひて候を、彼には住ませ給ひ候はぬ義を立て候はんは如何か有る可く候覧、詮する所縦ひ地頭不法に候は者眤んで候ひなんず、争てか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候へ、師を捨つ可からずと申す法門を立て乍ら忽に本師を捨て奉り候はん事大方世間の俗難も術無く覚え候、此くの如き子細も如何と承はり度く候、波木井殿も見参に入り進らせたがらせ給ひ候、如何が御計ひ渡らせ給ひ候べき、委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ、若し日興等が心を兼ねて知し食し渡らせ給ふべからずば其の様誓状を以つて真実智者のほしく渡らせ給ひ候事、越後公に申さしめ候畢ぬ、波木井殿も同事にをはしまし候、さればとて老僧達の御事を愚かに思ひ進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候、今も御不審免り候者は悦び入り候の由地頭も申され候、某等も存じ候、其れにもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん、聞しめして候へば白地候様にて御墓に御入堂候はん事苦しく候はじと覚え候、当時こそ寒気の比にて候へば叶はず候とも明年二月の末、三月のあはいに、あたみ湯治の次てには如何が有る可く候覧、越後坊の私文には苦からず候委細に承はり候て先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり、いかにも御文には尽し難く候て併ら省略候ひ畢ぬ、恐々謹言。
弘安七年甲申十月十八日  僧日興在判
進上美作公御房

己上祖師伝

山居の間には先師の旧業を継がんと欲して諸生を招いて御書を談し自他ともに垢を刮り能所斉く光を磨く、論談決択の間には常に口に経論の文を吟すること絶えず、経典講讚の隙には長に手に諸宗の編を披くことを停め給はず、之れに依つて御書中に散引の経論諸釈の要文を集め給ふされば冨士一跡門徒存知の事に云く、日興集る所の証文の事、御書の中に引用せられ若しは経論書釈の文、若しは内外典籍の伝文等、或は大綱随義転用し或は粗取意述用し給へり、之れに依つて日興散引の諸文伝籍等を集めて次第証文を勘校す其の功未だ終らず且らく集る所なり。
一、内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之れを撰す。
一、本迹弘経の要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之れを撰す。
一、漢土の天台妙楽、邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。
一、日本の伝教大師、南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通し給ふ証文一巻。
已上七巻之れを集めて未だ再治せず。

奏聞状の事
一、聖人先師文永五年申状一通。私に云く宿屋書の事なり。
一、同八年申状一通。私に云く一昨日の御書なり。
一、日興其の年より申状一通。
一、漢土の仏法先づ以つて沙汰の次第之れを図す一通。
一、本朝の仏法先づ以て御沙汰の次第之れを図す一通。
一、三時弘経の次第併に本門寺を建つ可き事。
一、先師の書釈要文一通已上皆全文なり。

編集此の如し其の志偏に本門の大法を弘通せんと思し召すが故なり述作の時代未だ分明ならず旧記にも載せず御自筆は紛失して残る所纔なり、今更に因て之を挙ぐ見ん人意を以て之を知れ。

正応元年は聖人の第七年忌に相当り給ふ、先年第三年忌の時も御弟子衆一人も登山なし、定めて当年も参詣あるまじきと思し召して兼て御弟子中へ廻文を遣はさる、其の状に云く、何ぞ御遺言に背て国々に下向し御廟の香華中絶し鹿の臥と成し給ふと歎き給ふ取意、此の廻文に驚き弟子衆各の登山あり、中にも日向最前に登山し給へり、実長の管領安弥二郎入道の子息二人あり、先腹福満をば日興に進らし当腹伊豆鬼をば日向の弟子とす、其の比興師の父蓮光は冨士の川合にて御他界あり、蓮光は同は閉眼の所にて訪ふべしとて日興川合へ越え給ふ、中陰の間に安弥次郎入道の妻継子を憎み日興と実長との間を義絶せしめん為に種々の讒言を成す、之れに依つて実長と日興と不和と成る、然りと雖も実長、清長、日興を以つて初発心の師匠と為すの自筆の消息数通之れ有り已上祖師伝、此の時実長色々の義を日向に問ふ、日向即答し給ふ、実長深く信仰の間、社参等の邪義は出来しける、されば門徒存知の事に云く、甲斐の国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事、彼の御廟の地頭南部六郎入道法名日円、日興最初発心の弟子なり、此の因縁に因て聖人御在所九箇年間帰依し奉り滅後其の年月義絶する条々の事、釈迦如来造立供養し本尊と為し奉る可し是一、次に聖人御在世九箇年神社参詣を停止せらるゝを其の年之れを始め二所三島に参詣を致す是二、次に一門の勧進と号して南部の郷内ふくしの塔供養の奉加之れ有り是三、次に一門の仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇建立して之れを荘厳す甲斐の国其処是四、已上四箇条の謗法之れを教訓するに義に云く日向之を許す云云、此の儀に依り去る其年月彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義、絶し畢ぬ、仍て御廟に相通せざるなり已上。
日興は波木井の謗法改まる可らずと思し召しければ謗法の地には居るべからずとて出で給ふ、板御本尊、生御影、其外御書物御骨等まで取り具して離山し給ふ、若し我慢偏執の者ども押へ取る事もやと若き弟子衆檀那少々相加り守護して身延の山下より下山通り大井まで立ち退き給へり、波木井の人々驚いて先づ使者を以て還住を懇望せり、比は正応元年霜月初の事なるに使者往復八箇度なり此状共を懇望状と云ふなり其状今重須と西山とに在るなり、種々の懇望ある中に白蓮阿闍梨日興を以て身延山久遠寺院主学頭と為す可きの由懇望あり、其の時日興の御返事に云く。

一閻浮提の内日本国、日本国の内甲斐国、甲斐国の内波木井の郷は久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり天魔破旬も悩す可からず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり怨霊悪霊もなだむべし。天照太神の御子孫の中に一切皆念仏申して背けば不幸なり、適ま入道一人法華経を如説に信し進せて候はいかに孝養の御子孫に候はずや、法華経此処より弘り給ふ可き源なりと御所作の申す事には候ふ可し。
院主学頭の事、仏は上行無辺行浄行安立行の脇士を造り副へ進らせて久成の釈尊に造立し進らせて又安国論の趣には違ひ進らす可からず、惣じて久遠寺の院主学頭は未来まで御計にて候ふ可し。略抄。
正応元戊子年十一月  日  日興

此の往復の便使者下野公岩本実相寺住持賢秀日源の事なり還住懇望の往復も事切れければ十二月五日下野公は退出し給ひける已上祖師伝、其の後悪口の状ども到来せり、其の状の畧に云く、日円は故上人の御弟子にて候なり、申せば老僧たちも同じどうぼうにてこそわたらせ給ひ候に、無道に師匠の御墓をすて参せて、とがなき日円を御不審候はんは、いかで仏智にもあひかなはせ給ひ候べき、御経に功を入れ参せ候、師匠の御あはれみをかぶり候御事おそらくばおとりまいらせず候、前後の差別ばかりこそ候へ。已上畧抄。
正月五日
伯耆阿闍梨

斯の如き状ども数通あり追つて書き加ふべし、又日興波木井弥六郎に御返事を贈くる、爾の時弥六を原殿と号するなり。

御札委細拝見仕り候ひ畢ぬ、抑此事の根源は去る十一月の比南部孫三郎殿此の御経聴聞の為め入堂候の処に此の殿入道の仰と候ひて念仏無間地獄の由し聴き給はしめ奉る可く候、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はる可からずと承り候し間、是れこそ存外の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候、殊にいたく此の国をば念仏、真言、禅、律の大謗法の故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほくらには大鬼神入り替りて国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連々として国土滅亡の由の故、日蓮聖人勘文関東三代に仰せ含ませられ候ひ畢ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ、国の為め世の為め一切衆生の為め故日蓮阿闍梨、仏の御使者として大慈悲を以つて身命を惜まず申され候きと談して候しかば、孫三郎殿念仏無間の事は深く信仰候ひ畢ぬ、守護の善神此の国を捨去すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御渡り候御弟子は諸神此の国を守り給ふ尤も参詣す可く候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅後、誰に値つてか実否を決す可く候と委細に不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給ふ可き事候、師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり私にても候はず三代に披露し給ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢ぬ、是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し間夜半に出て候て越後房日弁也を以つて、いかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破り給ふ可く御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め進する事を、入道殿聞し食され候て民部阿闍梨に問はせ給ひ候ける程に、ご返事申され候ける事は守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども白蓮阿闍梨、外典読みに片方を読みて至極を知らざるものにて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会す可し尤も参詣す可しと申され候ひけるに依つて入道殿深く此の旨を御信仰の間日興参入して問答申すの処に案の如く少しも違はず民部阿闍梨の教なりと仰せ候しを、白蓮此の事は、はや天魔の所為なりと存し候て少しも恐れ進らせず、いかに謗法の国を捨てゝ還らずとあそばして候ふ守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会す可しと候は師敵対七逆罪に候はずや、加様にだに候ば彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候はゞ其の科日興遁れ難く覚え候、自今以後かゝる不法の学頭をば擯出す可く候と申す。
やがて其次に富士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候、以ての外の僻事に候、惣じて此の二十余年の間た持斎法師影をだに指さざりつるに御信心何様にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ、是れと申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ●曲したる僧、聖人の御法門を立るまでは思ひも寄らず大に破らんずる仁よと此の二三年見つめ候てさりながら折々は法門説法の曲りける事を謂れ無き由を申し候つれども敢えて用ひず候、今年の大師講にも敬白の所願に天長地久御願円満、左右大臣、文武百官、各願成就とし給ひ候しを此の祈は当時至すべからずと再三申し候しに争てか国恩をば知り給はざる可く候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講仕らず候き、此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に御用途も候はず、大国阿闍梨の奪ひ取り奉り候ふ仏の代りにそれ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給ひて固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責めて故聖人安置の仏にて候はゞ、さも候なんそれも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給ふべき、御力契ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁、出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば最前には破し給ふ可きと、強ひて申して候しを軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に帰依し進らせ候甲斐に重んじ進らせたる高名と存じ候は、聖人や入り替らせ給ひて候ひけん、いしくも●曲せず且は経文の如く聖人の仰の様に諌め進せぬる者かなと自賛してこそ存じ候へ。
惣じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破られ候ぬ、二には久遠実成の釈迦如来の木像最前に破れ候、三には謗法の施始めて施され候ぬ、此の事共に入道殿の御失にては渡らせ給ひ候はず、偏に●曲したる法師の過にて候へば思し食しなをらせ給ひ候て自今以後安国論の如く聖人の御存知在世二十年の様に信じ進らせ候べしと改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上軽ししたりとや思し食し候ひつらん、我は民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰の由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ、日蓮聖人の御法門は三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候を捨てゝ阿弥陀仏を憑み奉るによつて五逆罪の人と成りて無間地獄に堕つ可きなりと申す法門にて候はずや何を以て聖人を信仰し進らせたりとは知る可く候。
日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は二代三代の末は知らず未だ上にも下にも誰か御忘れ候可きとこそ存じ候へ。
身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども打還し案じ候へばいづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候はん事こそ詮にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子悉く師敵対せられ候ぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当りて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、殊更御渡り候へば入道殿不宜に落ちはてさせ給はじと覚え候。
尚民部阿闍梨の邪見奇異に覚え候、安房へ下向の時も入道殿へ参り候ひて外典の僻事なる事再三申ける由承り候、聖人の安国論も外典にてかゝせ渡らせ給ひ候、文永八年の申状も外典にて書かれて候ぞかし、其上法花経と申すは漢土第一の外典の達者が書いて候間、一切経の中に文詞の次第目出度とこそ申し候へ、今此法門を立て候はんにも構へて外筆の仁を一人出し進せんとこそ思ひ進らする事にて候つれ、内外の才覚無くしては国も安からず法も立て難しとこそ有るげに候総じて民部阿闍梨の存知自然と御覧し顕さる可く殊に去る卯月朔日より諸岡入道の門下に候、小屋に籠居して画工を招き寄せ曼荼羅を書きて同八日仏生日と号して民部、入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱へ出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間酔狂の余り一声を挙げたる事所従眷属の嘲弄口惜しとも申す計りなし、日蓮の御耻何事か之に過きんや此の事は世に以て隠れ無し人皆知る所なり、此事をば且く入道殿には隠し進せ候へども此の如き等の事出来候へば彼の阿闍梨の聖人の御法門継き候まじき子細顕然の事に候へば、日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり、同行に憚りていかでか聖人の御義をば隠し候可き、彼の阿闍梨の説法には定めて一字も問ふたる児共の日向を破するはと、の給ひ候はんずらん、元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨ぬが還つて失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影の此程の御照覧如何、見参に非れば心中を尽し難く候、恐々謹言。
正応元年戊子十二月十六日  日興在判
進上  原殿御返報
追て申し候、涅槃経第三第九二巻御所にて談じて候しを愚書に取り具して持ち来りて候、聖人の御経にて渡らせ給ひ候間慥に送り進らせ候、兼て又御堂の北のたなに四十九院の大衆の送られ候し時の申状の候し御覧候て便宜に付け給ふべくや候覧、見る可き事等候、毎事後信の時を期し候へ恐々。
已上祖師伝。

日興は久しく大井に御座ありけるが、帰山懇望の往復も止まりける上に、本尊御影返し給はるべきの由申されけれども叶はずしてやみぬ、由井氏の請により正応二年の春日興大井を御立ありて河合に移り給ふ、此の所に御逗留の間南条殿の請により下の坊に移り住し給へり、爰に北にあたりて原あり大石ケ原と名く、此の所に臨んで見給ふに景気余所に勝れて南北際涯なし東西に高山をみ、前には田子の海を呑み後ろ富士野にいたる景明かに目に満ち、一空の皓月千里光を浮べて下化衆生の粧ひ眼前なり、無明煩悩の塵労悉く泯して上求菩提の気自ら成す、然る可き勝地なりと御覧して此に寺を建立し給ふ、広布の気を発する迄異地に移すべからずとて所を以て寺に名けて大石を以て号を建て坂本尊併に御骨を此所に安置し給へり、此に因て門弟子等各寺院を建立して法華の行学を修し給ふ、正応三年に其の功を成就して化導利生の外他なし、永仁二年十月は聖人の第十三年忌なりける間自ら法則を書いて大石ケ原の草堂に会し講論を修し給ふ、群賢畢く至り少長咸集る智水漸く湛へ学海弥よ弘まりき、僧徒次で有て器備し手を並へて偕作す茲に於て九箇年の弘法なり此時の法則御筆今当山に在るなり、亦聖人の御例に順して六人の弟子を定め本尊御骨を守護の為に此寺に置き香華燈明謹行懈怠なき所なり、されば富士一跡門徒存知の事に云く聖人の御例に順して日興、六人の弟子を定むる事。
一、日目
二、日華
三、日秀  聖人に常随給仕す
四、日禅
五、日仙
六、日乗  聖人に値ひ奉らず
已上五人、詮ずるに聖人給仕の輩なり一味和合にして異義有る可からざるの旨議定する所なり已上。

永仁六年の春大石寺の東に当り重須と云へる所あり其の間相去ること廿余町なり、此の所に御影堂を建立して御影を移し奉る、其の棟札に云く永仁六年二月十五日之を建立す云云、此所に於て大に宗教を振ひ給ふこと三十六年なり、若し国主御帰依の時は此の両堂を再建して額を本門寺と打つ可きなり。
其の比本尊造立の義に就いて異論あり御弟子衆一同に立像の釈迦仏を以て本尊と為す可し云云、此義に依て所々に多く以て造立す、日興此の義を破して草案に云く、又五人一同に云く先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔し之を刻み文永擯出の時弘安帰寂の日随身す何ぞ輙く言ふに及はんや云云、日興が云く諸仏の荘厳同しと雖も印契に依て異を弁ず、如来の本迹測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外一躰の形像豈頭陀の応身に非ずや、凡そ円頓の学者は広く大綱を存じ網目を事とせず、倩ら聖人出世の本懐を尋れば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為、図する所の本尊は亦正像二千余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅なり、今の時に当りては迹化の教主既に無益なり況や●々婆和の拙仏をや、次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の籠愛、月を待つ片時の蛍光か、強て執する者尚帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加ふべし、敢て一仏を用ること勿れ云云。

富士一跡門徒存知の事に云く本尊事四箇条、五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可し既に立て随て弟子檀那等の中にも造立供養する御書之れ有り云云、而る間盛に堂舎を造りて或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍て聖人の御筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又堂舎の廊に捨て置く云云、日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任て妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり是本尊問答抄、妙法曼荼羅供養抄の二文意なり、草案並に日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり。

又門徒存知の事に云く近年以来日興所立の義を盗み取り己義と為すの輩出来せる由諸条々の事。
一、寂仙坊日澄始めて盗み取つて己義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍て甲斐の国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり遷化の後は民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中新堂を造立して一躰仏を安置するの刻、日興が許に来臨し所立の義を難ず、聞き已て自義と為し候処に、正安二年民部阿闍梨彼の新堂併に一躰仏を開眼供養す、爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏し弟子と成る、此の仁は盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。
一、去る永仁年中越後国摩訶一日印なりと云ふ者有り天台宗の学匠なり、日興の義を盗み取り盛に越後国に弘通するの由之を聞く。
一、去る正安中以来浄法房天目と云ふ者有り聖人に値ひ奉るなり、日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す又祖師を蔑如し添加する義之れ有り。
一、弁阿闍梨弟子少輔房日高は去る嘉元年中以来日興が義を盗み取り下総国に於て盛に弘通す私に云く是より已下御自筆今当山に在るなり。
一、日頂伊与阿闍梨の下総国真間堂は一躰仏なり、而るに年月を経て日興が義を盗み取り四脇士を造り副ふ彼の菩薩像は宝冠形なり。
一、日向民部阿闍梨同しく四脇士を造り副ゆ、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を着す、又近年以来諸神に詣する事を之を留る由し之を聞く。
一、甲斐の国備前房日伝と云ふ者有り寂日坊違背の弟子なり日興が義を盗み取り甲斐の国に於いて盛に此の義を弘通す、是又四脇士を造り副ふ彼の菩薩像は身皆金色剃髪の比丘形なり、又神詣て之を留る由之を聞く私に云く此文並に原殿返状等報恩抄唱法華題目抄、観心本尊抄宝軽法重抄等に依り給へるなり。
正安元年に御弟子衆先師の旧業を継かんと欲す安国論に私の訴状を加へて鎌倉に捧げ給ふ、其状に付て亦異論出来せり是本迹諍論の根源一致勝劣の濫觴なり、されば門徒存知の事に云く此六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒の条々。
一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍て公所に捧くる状に云く天台沙門と云云、又云く、先師日蓮聖人天台の余流を汲み云云、又云く桓武聖代の古風を扇き伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云、日興が云く彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人弘宣し給ふ法華は本門なり此の旨具に状に載せ畢ぬ、此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢ぬ。
一、五人一同に云く、諸神社は現当を祈らん為なり、仍て伊勢太神宮、二所、熊野在々所々に参詣を企て請誠を致し二世の所望を願ふ、日興一人云く謗法の国をば天神地祇併に其の国を守護するの善神捨離して留らざる故、悪鬼神其の国土に乱入して災難を致す云云、此の違ひに依て義絶し畢ぬ。
一、五人一同に云く、如法経を謹行し之を書写し供養す仍て在々所々法華三昧又は一日経を行す、日興が云く此の如きの行儀は是末法の修行に非ず又謗法の代には行すべからず、此れに依て日興と五人と堅く以て不和なり。
一、五人一同に云く聖人の法門は天台宗なり仍て比叡山に於て出家授戒し畢ぬ、日興が云く彼の比叡山の戒は是れ迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり、今末法所持の正戒なり、之に依て日興と五人と義絶し畢ぬ、私に云く草案の意に之に同し但草案日順作なり云云。
此等の相違により本迹一致勝劣の論起つて而も天地水火の違目出来せり、聖人兼知未崩の故に太田入道に対して云く、一期を過くるの後弟子等定めて謬乱出来の基なりと、此の辞朽ちず符合して諍論出来して法怨の楯を突く、然りと雖も興師の弁鋒にあたる者摧破せられずと云ふこと無し、是の故に屈伏する輩は帰敬すること宛も聖人の如くし、我執厚く文理昭然たることを知らざる者は罵詈誹謗をなし肘を挙けて眼を瞋らす、近くは先師の大難に値ひ給ふが如く遠くは不軽の悪口に遇ひ給ふに似たり日興本迹の奥旨を照了し勝劣の深義を窮尽す之に依て諸人疑滞を挙ぐ、師の妙弁流潟長幼三有の結を摧く、上野重須の両寺成就の感応にや霊夢ども甚た多かりける、されば御自筆に云く、五月廿四日の夜の夢に一切義成就と度々見る 又廿五日夜の夢には谷水下流酌上寿朝年と見る已上御筆今当山に在り、師檀越の参詣を見ては為に法を説き給ふ智光闇を破し慈雲普く覆ふ故にや野鳥山獣の類ひ虫等に至るまで皆御説法を聴聞して化を受るの形容あり、されば御筆に云く六月十六日の説法には帳台の西方より百足来て聴聞す、次の日の説法には帳台の東方より小蛇来て聴聞す、竜女来詣とて指を以て蛇頭をさするに小蛇驚かず説法畢つて還りぬ已上御筆今当山に在るなり、亦御書の講釈絶えず宗義を得たる仁には一筆の褒美を賜ふ賢秀日源安国論伝授等の証重須に在り。
其の比浄法坊天目冨士に参詣あり法門重々あり、屈伏して信仰し帰国の後改変せり之に依つて永く義絶し給へり。
興師は滝泉寺の申状より以来或時は公家に奏し或時は武家に訴へ東西に馳走して安国論を捧げ南北に去来して訴状を上る、或る仁、興師に値ひ奉りて冨士の景気はいかにと問ひければ日興返事、「皆人に何と語らん日の中に幾度替る富士のけしきを」御返答あり、又適ま旧寺に帰り給ひては講論隙無く行業退き給はず、次第に器量の弟子衆余多出来す、其中富木寂仙房日澄一切経周覧の人なり冨士に帰伏して御弟子となり給ふ、日興即富士の学頭に補任し給へり嘉元二年八月十三日の状なり、弟子衆各師に代つて奏聞を経、亦師の為に使節を勤め給ふ、勲功ある衆には則褒美を加へ給ふに或は本尊を授与し或は感書を賜ふされば日目に賜はる所の本尊に云く「最前上奏の仁、新田卿阿闍梨日目に之を授与す一が中の一弟子なり、正慶元壬申年十月十三日日興在判」、又日妙には「奏聞の御代官日妙武家四度公家一度元徳三辛未年二月十五日日興在判」、斯の如きの類ひ計るに遑あらず、亦褒美の書は日代に賜ふ其の書に云く「当聖主の御宇に奏聞し嘉暦二年八月廿二日延遠の帥を以て目録に入れ記録所に庭中せらる巨細上聞せずと雖も志の所々謹て下情を抽んで畢りぬ、奏聞の代官使者阿闍梨日代、向後の為に記録件の如し、嘉暦二年九月十八日日興在判」、又血脈抄に云く「嘉暦第一暮秋には嶮難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同く二年八月身命を捨てゝ禁裏に最初の奏聞を致す文」、是れ日順奏聞使節の証なり私に云く御弟子衆皆此の如く証文之有る可し然れども未だ見ず、故に書かざるなり見ん人書き加ふ可きなり、此の如く奏聞度ひ重つて公家武家合せて三十二度の奏聞なり、当時一度の奏聞猶務め難し、況や三十二度をや末弟等勲功の莫大なることを感じて弥之れを務めよ。
乾元元年には下総国伊与阿闍梨日頂、冨士に参詣なり、頂公舎弟なり寂仙房帰伏の後初めて参詣し給へり、此年日澄に本尊授与し給ふ同母公妙常併に乙御前母子兄弟四人富士に移りて爰に於て終焉なり日頂等の墓所重須御堂の北に之有るなり。
嘉元元年には少輔房日高富士に参詣せり、同二年八月十三日日澄を以て冨士の学頭に補し給へり、是より以後学徒ます●●多く諸国の門弟来集せり。
徳治元年、師病気により本弟子六人を定め給へり、所謂日目、日華、日禅、日秀、日仙、日乗なり、此より已前に御弟子衆ありと云へども法義違背等の義ある故に之れを除き給へり、されば弟子分名帳に云く、永仁六戊戌松野甲斐公日持は日興最初の弟子なり、而も年序を経るの後、阿闍梨号を給ひ六人の内に召し具せらる蓮華阿闍梨是なり、聖人御滅後白蓮に背き五人一同に天台門徒なりとなのれり已上御筆今重須に在り、此の六人は上野に置き給ひて本堂の御番を勤仕せしめ給へり。
延慶三年三月八日日朗始て冨士に参詣し給ふ、爰において本迹の僉議あり終に屈伏して是より以後本迹勝劣同心一味の状を興師に献ぜらる、其の後文保元年にも亦参詣あり摧邪立正抄日順述雑談抄日有述同く三月十九日には富木寂仙房入寂せり、之に依て興師悲歎勝計す可からず学侶恵燈の暫滅をかなしめり、同く六月十三日に寂日房の弟子式部公に始て本尊を授与し給ふ、甲州鰍沢より参詣の故なり。
重須の談所中絶の間、下山三位阿闍梨日順に先師日澄の遺跡を相続す可きの由仰せ付けられ即能化にすへ給ふ、之に依て学道便宜を得て衆徒益多なり、応長元年九月廿三日甲斐国山秋山余自筆如此一源信綱参詣す、茲に依て本尊を授与し給ふ、此の仁甲斐国の檀頭なり、同十月十二日に日尊を御赦免あつて召し出ださる、此の時日尊祈祷の為に書写し給ふ所の本尊三十六幅を日尊に給はる所なり、而るに日尊建立の寺菴亦三十六ケ寺なり、函蓋相応せること誠に不思議なり、凡慮を以て測量すべからずとは此の謂ひか。
正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり。
近年御鏡の御影を書写するの輩多し、然りと云へども多く以て似ざる故に何れも書付をして其の主に賜はる所なり、日順書写したてまつらるゝ御影には其の面影少し相似たり此に因て相似の分なりと書付をして日順に給ふ是れ御影書写の始めなり、同く四年七月十五日には甲斐国西郡蓮華寺前住僧式部公に大曼荼羅を授与し給ふ今冨士妙蓮寺に在るなり、是れ日興、日華、日妙の弘通所なり。

文保二年に師画工を召して自身の御影を写さしめ給ふ、此の年白蓮持仏安置本尊を書写し給ふ重須の本尊なり今平井信行寺に在るなり。

元亨三年に甲斐国秋山孫二郎源泰忠知行がはりにより讃岐国高瀬に移り給へり、此れに因て興師より御代官に日仙を使はさる即法華堂建立あり今の大坊是れなり、土佐国畠田庄吉奈に法華堂建立せり、是れへは寂日房日華を遣はさる今の大乗房是なり。

正中二年十月十二日の夜御影堂に於て御筆本尊御遷化記録以下盗取られ給へり、此の故に御弟子衆紛失の使節を勤め給ふ、嘉暦三年七月廿七日には下野国小野寺参詣せり則本尊授与し給ふ、年序を経ての後三河公日蔵、平井に於て法華堂建立あり今の信行寺是れなり、元徳二年正月には大石寺の番帳を定め給ふ是れ永代不易の為なり。日目、日郷、日時、三師自筆之れ有り。

定、大石寺番帳の事
大御坊
一番、蓮蔵坊阿闍梨日目
二番、寂日坊阿闍梨日華
三番、理境坊阿闍梨日秀
四番、少輔阿闍梨日禅
五番、上蓮坊阿闍梨日仙
六番、蓮仙坊阿闍梨日乗
七番、越後阿闍梨日弁
八番、弁阿闍梨日道
九番、治部阿闍梨日延
十番、大夫阿闍梨日尊
十一番、三河公日蔵
十二番、伊勢公日円
右鎮番の次第を守り懈怠無く勤仕せしむる可きの状件の如し。
元徳二年正月  日

同年二月廿四日、興師の母儀妙福尼は一百有余なりけるが終に河合にて御終焉なり、興師御吊色々の仏事を修し給ふ、其中に第一周忌の御仏事に興師自ら筆を染め大曼荼羅を図し給ふ、其端書に云く「元徳三年二月廿四日悲母妙福一周忌の菩提の為に之を書写す日興在判」、第三年忌には日禅に仰付られて上野に一宇の御堂を建立ありて蓮光妙福併に御一門の墳墓を東光寺に移し給へり、是れ河合と上野の程遠くして行事勤めがたき故に寺を引き給ふ処なり、然れども日禅は猶大石寺の南の坊にありて御番を勤仕し給へり、終に元弘三年三月に日禅南之坊にありて入寂し給ふ日禅墓所南之房に今に之在るなり其の以後は日善に仰せ付けられて此の寺を相続し給へり。

冨士に学を立ること哲あり愚あり、就中日目は高祖の侍者、興師の嫡子なれば本尊の大事併に七箇口決等相伝し給ふ、正慶元年には付属の弟子なりべき旨遺状を日目に賜ふ、其の上病中の記一巻を述作して当家諸書の相伝を示し給ふ、上足の弟子衆多く逝去の故に重ねて新六人の弟子を撰定し給ふ、所謂日代、日澄、日道、日妙、日豪、日助是なり、此の六人は重須にありて御影堂の御番を勤仕し給へり、五月朔日には南条七郎二郎時光法名大行遠行し給ふ、上野の地頭大石寺檀頭なり、同十一月十三日には亦日目に本尊を授与し給ふ、衆徒益々多く阿闍梨号を授け給ふ者三十余人、手ら髪を剃り大比丘となし給ふ者其の数を知らず、況や新発意勝計すべからず、或は剃髪者有り或は童男者有り具に記せば硯窪み筆禿ならん、師の齢九十に隣り耳目聡明なり、又食啖の物精麁を選び給はず。
兼て死期を知ろしめし御存生の内に墓所をたて桜木を殖え置き給ひてかくぞ詠し給ふ。

終に我かすむべき野辺の草見れば兼て露けき墨染の袖。

正慶二年には遺誡置文廿六箇条を定め給ふ其文に云く。
日興遺誡の置き文。
夫れ以れば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し、久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払ふ、於戯仏法に値ふこと希にして喩を曇華の蘂に仮り比を浮木に類するに尚以て足らざる者かな、爰に我れ等宿縁深厚に依つて幸に此の経を得たり、随て後学の為に条目を筆端に染むる事偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり。
一、冨士の立義敢て先師の御弘通に違はざる事。
一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。
一、御抄何れも偽書に擬し当門流を毀謗する者若し加様の悪侶出来せば親近すべからざる事。
一、偽書を造り御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と意得べき事。
一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀併に外書歌道を好むべからざる事。
一、檀那の社参物詣を禁む可し、何に況や其器にして一見と称して謗法を致す悪鬼乱入の寺社に詣すべけんや、返す返すも口惜しき次第なり是れ全く己義に非ず経文御書等に任す云云。
一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御書以下諸聖教を教学す可き事。
一、学文未練にして名聞利養の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。
一、予が後代の徒衆等、権実を弁へざるの間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣して学文す可き事。
一、義道落居無くして天台の学文すべからざる事。
一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して而して若し間有らば台家を聞くべき事。
一、論義講説等を好んで、自余を交ゆべからざる事。
一、未だ広宣流布せざる間た身命を捨てゝ随力修行を致すべき事。
一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて敬信を致すべき事。
一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為すべき事。
一、下劣の者為りと雖も我より智勝れば仰いで師匠とすべき事。
一、時の貫主為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用ゆべからざる事。
一、衆義為りと雖も仏法に相違有らば貫主之れを摧く可き事。
一、直綴を着るべからざる事。
一、衣の墨黒くすべからざる事。
一、謗法と同座すべからざる与同罪を恐るべき事。
一、謗法の供養を請くべからざる事。
一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之れを許す、但出仕の時節は帯すべからざるか、若し其れ大衆等に於ては之れを許すべきかの事。
一、若輩為りと雖も高位の檀那より末座に居すべからざる事。
一、先師の如く予が化儀は聖僧為るべし、但し時の貫首、習字の仁に於ては設ひ一旦の婬犯有りと雖も衆徒に差し置くべき事。
一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く覚翫すべき事。
右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く、後代の学侶敢て疑惑を生ずること勿れ此の内一箇条に於ても犯す者は日興の末流にて有るべからず、仍て定むる所の条々件の如し。
元弘三年癸酉正月十三日  日興在判

凡そ御臨終に至るまで曽て以て老耄の義なく亦病痛ある事なし、志有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず、されば武州久米原妙本寺の本尊端書に云く正慶二年正月廿七日日興在判八十八已上一枚本尊なり。

同年の二月初め比より師御不例なり大衆昼夜如影随形に看病し給ふ、遠境にある弟子衆へは飛脚を以て師風気の由を告ぐ、されば血脈抄に云く洞中鶯囀に漸く初陽を弁へ庭上の梅匂に乃ち二月を知る、折節鳥啼来る由の伝説を以て祖師風気の消息を遣す、馬に鞭つて大沢を出づ驚き走りて冨士山に詣す、師の曰く一代教主釈尊方便して涅槃を現ず十弟子の那律目を失ふて天眼を得、我年令已に傾いて唱滅の時至れり、汝肉眼闇きに似たれども智目猶存す、縦ひ公場上奏を経ずと雖も何ぞ強ちに門徒の公衆を遠離せんや、再三の遺告尊貴肝に銘す四衆の助言辞退に拠ろ無しと、其の外の弟子衆亦遺告あり、師存生の間常に兜率の生を願ひ給へり、之に依て御自筆の法華経の巻毎に其の趣を書き給ふ、御臨終の時は霊山往詣との給へる弘決第五の文に符合せり、されば彼の文に云く然るに大師生存常に兜率の生を願ふ臨終に乃ち観音来迎と云ふ、当に知るべし物に軌り機に随ひ縁に順ひ化を設ること一准なるべからずと、和漢程遠けれども聖人化導惟れ同し、六日より大曼荼羅を掛け奉り七日の酉刻に臨終正念吉祥に右脇にして御入滅なり、大衆は愁歎の涙袖にあまり恋慕の思ひ胸にみち悲哀の声山中にひゞく、さてあるべきに非されば日目を始め異口同音に御経を読誦して最後の御供養に備へ給ふ、遠近の檀越を待ち揃へ戌時の御入棺なり、

聖人の御時の例にまかせて御葬送あり、其の次第。
先火      三郎太郎入道
次に本居    弥太郎入道
次に大宝華   弥四郎入道
次に幡     和泉又三郎
次に燈     楡井三郎入道
次に香     由比四郎入道
次に鐘     石川四郎
次に花     西山彦八
同       南条左衛門三郎
同       秋山与一太郎
同       南条左衛門四郎
同       南条七郎若宮
同       小野寺太郎
同       石川孫三郎
同       由比大九郎
同       石川弥三郎
同       由比大五郎
同       由比孫五郎
同       南条左衛門七郎
同       南条左衛門太郎
同       彦二郎
次に文机    小木又二郎
次に花瓶    由比弥五郎
次に御経    秋山与一入道
次に御本尊   石川三郎
次に御影    南条左衛門五郎
次に旅籠馬   紀三郎入道
次に引馬    弥平次
次に引馬    鍛冶入道
次に乗馬    源内
          淡路坊  因幡公
       左  如寂坊  按察公
前陳上蓮坊     大進公  式部阿闍梨
          三位阿闍梨、大弐公
       右  美濃公  周防公
          性善坊  尾張坊
御輿
          日善阿闍梨、讃岐阿闍梨
       左  刑部公  侍従公
後陳蓮蔵坊     伊予阿闍梨、宰相阿闍梨
       右  伊賀阿闍梨  大夫公
          大智坊  大弐公余大衆は他行云云
幸松丸 幸乙丸 竹乙丸 藤寿丸 犬房丸 乙若丸 民若丸 松若丸 牛若丸 ●松丸
次に天蓋    曽根の助
次に太刀    小木五郎
次に刀     和泉又二郎
次に手鉾    左衛門次郎入道
次に弓箭    石河小三郎
次に笠具    五郎二郎入道
次に袋     源太郎
次に草履    又四郎
次に一駄    蔵内入道
次に後陣火   紀の藤三郎  已上全文

荼毘以後に御骨を取り拾ひ青地の壺に納め入れ奉て御廟の内院に納め、御中陰の間石の妙典を書写して内院に築き給ふ、七日ごとに御弟子衆各供養を捧げ仏事を作して報恩謝徳の一分に擬す、此の相佐渡阿仏房日満より冨士の大衆に遣はさる書状に分明なり、初七日には日代の御供養重須に於て之を修し日目の御説法あり、一百箇日の御仏事日目大石寺に於て修し給ふ御説法は日代なり御伝、御遺物等具には記録の如し、学頭日順、師の徳を歎じて云はく次に日興上人は是れ日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり禀承五人に越え紹継章安に並ぶ、所以は何ん五老同しく天台の余流と号す、冨士直に地涌の眷属と称す、章安は能く大師の遺説を記す、興師は広く聖人の本懐を宣ぶ、昔智者の法を学ぶの人一千余達すること章安に在り、今法華宗と呼ぶの族数百輩得ること興師に帰す、鳴呼倭漢境ひ遠けれども能聴道通し本迹異なりと雖も所伝徳斉し、只宣記能伝等のみに非ず剰へ鶴林の日月惟れ同じ、伏して冨山の正義を検たるに堅く爾前迹門を破し高く無上の実本を顕す、偏に諸師の謬誤を糺して専ら大聖の古質を写すこと譬へば鏡像円融の如し、誠に是学聖の賢師なり、本地の幽微凡慮測り難し、但雨の猛きを見て竜の大なることを知る花盛を見て池の深き事を知る、已に久遠の大人に値て本門の深法を伝受す敢て始行の菩薩に非ず殆ど無辺行の応現かと、此文略なれども意遍ねし見る者之を察せよ。

然るに祖師の伝文不同なきには非ず、日順の血脈抄極略にして未だ窺ひ測りやすからず、日時三師の伝はわづかに一二の行業をあげて未だ詳審ならず、日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり、亦冨士五所の所伝にすこし差会あり。
是れに●つて予寛永庚辰の春、日「中陰のうち別に報謝の儀なく此の三伝を集めて一巻として報恩謝徳の一分に擬したてまつりき、其の後御筆本尊併に遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚た多く亦諸書に載せざる行相亦幾許ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をたゞす、猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し或は国々門徒へ持参し所伝の法門は住侶闕減に習ひ失ひ唯見聞の及ぶ所、纔に之を記録して未だ精密ならざるなり、豈に●く興師の道を尽すにたらんや、庶幾は所所散失の御筆併に本尊記文等見聞にしたがつて之を記して其の缺を補ひ給はゞ是れ吾かねがふ所なり。
時に寛文第二玄黙摂提格季冬十八日、武州江戸下谷常在蘭室に之を誌す行年六十三日精在判

編者曰く本山蔵正本再治本に依る但し首の二丁缺失す、此等は各転写本にて補ふ、正本猶誤脱多し間々此を改むといへども強いて悉くに及ばず、又説、正史料に背くものは止を得ず天註に批訂する所あり、先師に対して恐れありと云へども却つて是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり、但し中下巻には此事を贅せず、又本書は漢文態あり仮字交りあり、其の漢文も擬態なれば易読の為に延べ書にす中下巻亦同じ。


05-183 富士門家中見聞抄目録
本六人
郷阿闍梨日目(蓮蔵房) 寂日房日華(廿家阿闍梨) 下野阿闍梨日秀(理境房)
少輔阿闍梨日禅(号南房) 摂津公(上蓮)日仙 大学了性房日乗
新六人
伊与阿闍梨日代 寂仙房日澄 弁公日道
式部公日妙 大窪日亳 大進公日助


05-183 富士門家中見聞
本弟子六人は大聖値遇の古老なり、文保年中大聖の例に順して六人の弟子を定む是れを本六人と号するなり、大石寺に居住し本堂の御番を勤る所なり、各器量給仕亦新弘通等之れ有り誠に門徒の法将と謂つべきなり。
日目伝
釈日目俗姓は奥州新田なり(新田の地名奥州三追の内に在るなり父、此地を領する故に新田と号するなり)父は先下野国小野寺十郎道房の子太郎重房初めて此の地を領す是れより来た新田を称するなり、重房の子五郎重綱が五男なり、伊豆国に寓居す南条入道行増の息女を妻と為し師を懐胎する十二月、文応元年庚申師を生む稚名を虎王丸と号す、興師自筆の本尊に云く小野寺虎王磨は予が弟子なり嘉暦三年七月廿七日日興在判(此の本尊平井信行寺に之れ在り)、文永九年壬申伊豆山蓮蔵坊に登り出家とならんと欲す(十三歳なり)、日興熱海に有り走湯山の出家と湯に参会す、彼の僧懐中より児童の文を取り落す日興之を見てかくぞ詠じたまふ。
通ふらん方ぞ床敷き浜千鳥ふみすて●行く跡を見るにも。
茲の一首に因りれ蓮蔵坊に御対面あり又走湯山五百房中に第一の学匠と聞えし式部僧都に相看したまふ、即座に法門あり蓮蔵坊熟を聴聞し奉り信仰の故に児童を以って日興に奉り弟子となす(時十五歳)、建治二丙子年卯月八日落髪受戒本に従って名を立て蓮蔵房郷阿闍梨日目と号するなり(此因縁に依て日目手鑓を走湯山蓮蔵坊に送る是彼山の重宝なり今に古説彼山に伝ふるなり)、同十二月廿四日身延山に詣で大聖人に値ひ奉る(十七歳なり)、是れより侍者なり七年の間常随給仕し其の間御説法を聴聞せざることなし之に依て習学せざることも亦能く暁了したまへり、同く三年二月には五戒口決伝受書写したまふ日目の御自筆伊豆実成寺に之れ有り、又大聖人の御代官として奏聞の最初なり(奏状は大聖人の御自筆薗城寺申状是なり)、第二度目の奏聞には御下し文ださる遺状に薗城寺の下し文と有るは是れなり、されば血脈抄に云く日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か、また玉野郷公日目は新所建立と云ひ予が天奏の代に二度の流難三度の高名是あり已上、亦法華経御講釈聴聞すること二度、亦た巧於難問答に達せり、此の故に問答勝手五箇条相伝したまふ答文亦五箇条有り合せて十箇条の問答なり(世間に早勝とは此伝写本なり)、此の故に伊勢法印と問答したまふ時も一両句にて閉口致さす此れ相伝の故なり、其の頃御牙歯脱け落つ聖人此歯を以て日目に授けて曰く我に似り問答能くせよとてたまはりける御肉付きの御歯と申すは是なり、(此の御歯当山霊宝随一なり広宣流布の日光を放ちたまふべしと云へり)、亦大聖人一紙の血脈を以て日目に下さる、其の文に云く、一つ日興に物か●せ日目に問答せさせて又弟子ほしやと思はず小日蓮●●と已上、此の御自筆は聖教の中にあり日蓮日興書入れたまふ故に三筆の御聖教と申して御正本房州妙本寺に之れ有り、一つ給仕第一日朗、手跡第一日興、弁説第一日弁、問答第一日目、右一紙大聖人御筆今鎌倉比企谷に在り、重須本行坊日耀拝見し奉り之を書写する故に今爰に之れを移す、亦天王鎮守の神と申すは祖師御相伝の秘書当家代々の秘書なり、日興日目相続して房州妙本寺に之れ有るなり。
常随給仕の功と云ひ問答第一と云ひ旁々の勲功により甚深の血脈稟承したまふ、亦大聖人御遷化に値ひ奉り恋慕を懐き身延に還帰し、一一の結衆につらなりて御番を勤めたまふ、弘安六年より回国の弘通有り、先祖の領分なれば奥州新田にいたり法華堂御建立今の本源寺是なり、亦森殿受法の故に森にも一宇建立したまふ今の上行寺是れなり(森本名は加賀野と申すなり)、亦六町の目の地頭颯佐受法す、此に於て日尊等受法したまふなり(新田、森、六丁目、皆な三迫の内にある地名り)、亦越後に到り説法教化したまへば金津一門先つ受法す、亦遠州に於ての説法には讃良一門受法せり、上京しては奏状を朝廷に捧げ、亦鎌倉に下り訴状を上げ奉る、周旋往返奏聞都合四十二度なり、其間在々処々に於て法華を説き給ふ。
法華折状破権門理の義余人に越ゆる故に問答亦度々なり、正安元年己亥六月、陸奥守探題の時、十宗房と云ふ僧有り広智博学諸人の崇敬すること宛も仏の如し、問答したまふ、時に奉行には尾張進士を始として十余人其外群集数知らず、此の問答偏に日目を禁獄流罪すべき企より起れり、時に十宗房問ふて云く念仏無間地獄とは何の経文に出たたるや、日目答へて云く何宗の人ぞ、十、暫く案して云く浄土宗なり、日目云く法華経を抛つとは何れの経文ぞ、十云く全く申さず聖道門を抛つとこそ法然は書かる、目云く聖道門とは何ぞ、十云く真言仏心天台なり、目云く天台とは何ぞ、十云く天台とは法華宗なり、目云くさては法華を抛つとは何れの経文ぞ、十閉口す、暫く有て十宗云く法然已後の念仏をば暫く置いて已前を沙汰せん、目云く暫く置くべくは法然已前の念仏は時過ぎたり、沙汰すべきは法然已後の念仏身に当り時に当れりと、其の時万人道理なりと称美讃歎す(已上問答記録なり)、日目此の問答に勝ちたまひて御沙汰有るべき思し召の所、上意を伺ひ申し付くべきの由し仰せ出たさる●なり、其の時奉行衆一筆を日目に給ふ其書に云く、明日の御参は早旦たるべく候次に依つて執達件の如し、正安元己亥年六月晦日、忠則在判(右二通今に当山に在るなり)、日目は仰せ出たさるるの旨承るべしとて日々奉行所に詰めたまへども唯贔負の沙汰のみにして終に御沙汰もなかりける、此の問答遠近に聞え威を近国に振ふ、之に依つて受法者亦多し。
是より房州上総に赴き説法したまふに篠生一門受法せり、亦豆州に来りて日道をして出家とならしむ、相続いて日運出家となる。
日興上人御病気の時一乗の法器を撰び六人の弟子を定む是れ則大聖値偶の古老なり、中んづく日目を勲功重畳の為の故に大聖より稟承の一紙血脈を以つて日目に授く其文に云く。一つ生身の愛染明王拝見、正月一日日蝕の時、日形。
大日如来より日蓮に至る廿三代なり嫡々相承、建長六年六月廿五日、日蓮新仏に授く。
一つ生身の不動明王拝見、十五日より十七日に至る月形。
大日如来より日蓮に、至る廿三代なり、嫡々相承建長六年六月廿五日。
一又云仏けは水、日蓮は木、日興は水、日目は木。
右二通の御血脈等とは日蓮、日興、日目御相承にして御正筆房州妙本寺に之れ有り、天文十三甲辰極月廿五日謹んて之れを妙書し奉る日義在判。
右血脈等とは日辰御作の祖師伝に之れを模す其の外は日時の三師伝に出てたるなり。
日目久しく豆州に居住したまふ是れ所生の地なるが故なり、之れに依って田畠等興師に進らせらる、其の状に云く手作りの田一反進上候乃至此旨を以て御披露有るべく候、元享元年八月十日、大進公御房、日目判。
此の状豆州実成寺に之れ有り日然予に示す故に之れを写す。
又御書相伝に付いて種々の義ども御尋ね之れ有り日興御状を以て目公に示さる、其の状に云く聖人の御存知、因幡公の追出せられし時、下山の消息もあそばされて候取意。
十月十三日 日興在判
郷公御房御返事
一、使御志限無き者なり経は法華経、顕蜜第一の大法なり、釈迦仏は諸仏第一の上仏なり、行者は相似法華経の行者なり、三事現に相応す壇那の願必す成就し給ふ云云。
新田殿御返事 曽如房(興師御筆は今理境坊に在り)。
日目常恒に御書を以て法華経の深義を談し亦新学の比丘を勧め論鼓を修せしむ、されば民部公叡山学文の時遣さる状に云く、一義科よく●●談した●して二、三月下候は●、これにて若御房達どもと論議有るべく候、年がよりて仏法さばくりかたく候今年も四月より九月廿日比まで闕日無く御書談して候。
十月廿五日 日目在判
民部阿闍梨御房(日乗弟子なり名字は大学、実名は日盛と云ふなり此の民部叡山学文の時に遣はさる御状なり此状当山に在り)。
日目より前に御弟子衆ありと云へども或は法門相違し日持或は師匠に不義の故日伝通用の義闕けたり、日目は嫡弟と云ひ最初奏聞と云ひ旁た抜群の故に褒美として本尊を授与す、其の端書に云く「最前上奏の仁、新田郷阿闍梨日目に之れを授与す一が中の一弟子なり、正慶元年壬申十一月十三日 日興在判」。
亦本尊七箇決を相伝し給ふ、之れに依て元徳正慶の間師に代って本尊書写したまふ、故に日目書写の本尊数幅之れ有り、されば古より相伝して云く付属の弟子は日目付所の弟子は日代と此の言良に由し有るかな、日代日妙等本尊書写したまふは皆日興入滅の後之を書写す、御在世の間は一字も書かず之れを以つて知るべし興師付属の弟子となること勿論なり、冨士門家の上首なること勿論なり、然れども疑狐の心を生ずる者ある故に委細に之れを示す。
一御座替の本尊を日目に授与したまふ是れ則大石寺御建立の年の御筆なり、又永仁二甲午十月遊ばさる法則今に有り、大聖十三年の御遠忌の故なり、永仁六年御影堂御建立以後は常に重須に住したまふ故に大石寺には日目を番頭として本六人の衆勤仕したまふ所なり、具には大石寺指図見たまふべし、但し指図には日目以後の図有り名字混乱するぞ、能く見分けたまふべし。
日興跡条条の事
一本門寺建立の時は新田郷阿闍梨日目を座主と為し日本国に於いて乃至一閻浮提の内、山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。
一日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目に之れを授与す。
一大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之れを管領す修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
右日目十五の歳日興に値ひ法華を信して以来七十三歳の老躰に至るまで敢て違失の儀なし、十七歳にして日蓮聖人の所に(甲州身延山)詣で御在生七年の間常随給仕す、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功、他に異なるに依って此の如く書き置く所なり。
元徳四年三月十五日 日興在判
右の長篇は日目を座主となし嫡子分として等とは、高開両師の法水日目の心中に流入する写瓶の弟子なる故に此くの如く書きたまふ者か、例せば大聖釈迦一代の仏法、日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書きたまふが如し、日興が身に宛て給ふ所等とは是れ板御本尊の事なり今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有る故なり、墓所とは大聖人の御骨まします故なり、但し御骨は身延に納めたり之れに依つて久遠寺にあり、又池上にもあり、何れも生身の御骨なりや又真偽ありや、此の義を分別する時に卅三波木井抄の終にいづくにて死し候とも墓をば身延の沢に立てさせ候べく已上、又池上は葬送の地なり灰塔あること勿論なり、而れども不審ある故に信じ難し、其の故に其の御骨の色に不同あるが故に難信第一なり、大石寺にまします御骨には日興自筆の副状右長篇是れなり、身延池上の御骨にも文証あらば信する辺も之れ有るべし、若し其の義なくば偽り至極せり狂惑の根元是より起れり、冨山の御骨を惑せんが為に企つる所の邪義なり、門家の内にも此くの如し悪甚た多し慎むべし。
凡そ富士山本門寺建立の時は唯一箇寺なり各別の寺と思ふべからず、今の上野、重須、妙蓮寺、東光寺、西山、久遠寺已上六箇寺之れ有り、自然に六万坊の表事に叶ふ、此の内何寺発向して建立せらるべきや否や知れ難き事なり、今山門三井の例を以て之れを思ふに山門の横川恵心院、西塔止観院、東塔正覚院南光坊是れ皆積学の院跡也、門主とは青蓮院、妙法院、梶井殿、竹門已上四門跡也、毘沙門堂は清華門跡なり、三井には中院に日光院善法院、南院に勧学院真如院、北院には円満院なり、是れ皆積学院跡なり、門主は聖護院、円満院、常住院なり、其の中に今時を得たる者は南光坊なり、積学の内にも最下の院跡なり、然れども今山門の貫長となる剰へ慈眼大師となれり、此の例を以つて推量するに本門寺建立も又此くの如し、何寺興すと雖も門主は宮方なり、六箇寺一味同心して本門の大法を興行すべきなり、其の中に大石寺は本院、重須は奥の院、残り四箇寺は皆積学なり、何れも軽浅すべからざるなり、此の人人は本門寺の大奉行たるべき者なり、或る人偏執を挿み末寺と云へる故に興師の本意に背く邪義なる故に全く信すべからざる者なり。
弘安八乙酉より元徳二己巳に至る合せて四十六年なり、元徳四年は即四十八年なり元徳四年は即正慶元年なり、此御遺状今当山に在り、此の状を賜はりて後師に替りて本尊書写したまふ其の数之有り、秋本三郎重道女房始、之を書写す正慶二年三月日、日目在判、薗部少輔阿闍梨日経に之を授く。
去年巳来天下大に乱れて何れの年も兵火を見ざるなし何れの月も千戈を動かさ●るなし、之れに依って御本尊御影奥州まで御下向なり、其の後程なく御登山、之れに依つて日目之れを授与す其の端書に云く、奥州新田日盛の御本尊御影登山の時奥州まで下向候行躰の者なるに依て薗部阿闍梨日経に之れを授与す、正慶二年三月日、日目在判。
日興御遷化の後は世出世共に日目支配したまふ、又乱れたる時は諌めやすきが故に御上洛ありて諌暁したまはん為に上京の企あり、其時大石寺には日道を留守其の外御置文等之れ有り。

日興上人御遺跡の事
日蓮聖人の御影●に御下文(薗城寺申状)上野六人の老僧の方巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此条日興上人の仰に依つて支配し奉る事此のの如し、此の旨に背き異義を成し失ひたらん輩は永く大謗法たるべし、仍て誡めの状件の如し。
日善在判
正慶二年癸酉二月十三日 日仙在判
日目在判

右一紙御正筆当山に在り。
此の中に薗城寺の申状とは大聖の御筆跡なり、御下文とは天子より御下し文なり、此の申状下文●に日興自筆本尊の端書に云く、大石寺持仏堂常住本尊之を書写すと遊はさる已上、三色日代擯出の時、日善当番の日右の三種盗み取て出られたり故に西山に之れ在るなり。
日目上人正慶二癸酉十一月の初めに富士を御立あつて奏聞の為に御上洛なり、若し帝都に於て御尋もやあらんとて大聖人の御自筆本尊十八幅、其の中万年救護の本尊並に日目授与の本尊時光授与の本尊天王鎮守の神ひ等あり、御伴には日尊日郷二人召し行かれ、濃州垂井宿に於て御不例なり、二人旅の疲れと看病し奉る、師告けて曰く齢傾き勢衰へ最後近きに在りと御遺言あり、臨終の御勤めましまして両眼眠るが如く口唇誦するが如く息止まりたまふ、寂寂たる旅寝の泪た泉に咽べども寒凝り冬深ければ嶺の猿のみ叫ぶ、閑閑たる渓谷思ひ歎きに沈めども雪の嵐し峰に烈しくて皓月のみぞ冷ましき、人煙のきを双ぶれども訪ひ来る人もなし、従来甚た滋けれども憐に思ふ仁もなし、二人営みた給ひて野辺の煙にたくらべ茶毘し奉る事終りければ、御骨を拾ひ頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける。
御遷化記録には先陣の列、御番帳には十月番衆ぞ。

日華伝
釈の日華、俗姓は甲州秋山なり、父祖代々鰍沢を領知して二十家に居住す、日興鰍沢に於て説法し給ふ受法の者次第に多し、秋山聴聞して信仰するの間、先づ受法す、秋山、日興を上野に請し(甲州鰍沢の上野なり)法を説かしむ近隣多く以て受法せり、秋山日華を興師に進らせ弟子と為す、日興日華を具して身延山に帰り其れより日華を蓮祖に常随給仕せしむ、蓮祖有職を賜ひ二十家阿闍梨と号す、日華鰍沢の内廿家の所棲なるが故なり、房号は寂日坊なり或は廿家阿闍梨を転訛して日家阿闍梨、亦寂日阿と号するなり。此の人山臥に成るべしとて契約ありし其の山伏死去の故に今妙法寺の上山に葬る是れ家出の由となるなり、或は式部阿闍梨日妙と日華と本来は甲州なり七覚山の山伏なり、日妙山伏為りし時、日興の御筆の卒都婆を熟視し重須の人に値ひて問ふて云はく誰人の手跡ぞや、答へて云はく日興の御筆なり、則日興に値ひ後に受法せり、昔の師を後に日華と号す日妙昔の師を教化して日興弟子と為らしむ已上。
此の説は時節相違せり、之を思ふに日興は大聖値遇の古老、日妙は高祖滅後の誕生なり、日妙七覚山の山伏と云ふ事分明の証拠を未だ見ざる故用ひざる処なり、大聖山居の後日興等の請に依り法華経の御講釈有り、又日興、日目、日華等の為に重て御講あり、日華等法席に列り之を聴聞す、其の後鰍沢に於て法華を説く有縁の故に小室小笠原等諸人受法す、之れに依つて日仙、日伝、日妙等次第に受法して出家となる、又鰍沢に於て法華堂を建立す此に於て弘通し給ふ今の妙法寺蓮華寺経王寺是れなり、寺号は高祖の御付けなり此れ等最初の寺なり、日興褒美として大聖の御本尊を請ひ申し日華に授与す、妙法寺血脈は日興、日華、日伝と列ね、蓮華寺は日興、日華、日妙と列ね、経王寺は日興、日華、日経と列るなり(日華授与の本尊今京都本能寺に在り)。
亦大聖人御入滅後関東に於て弘通す、日乗日寿等を教化して出家と為らしむ(是より以後。か後にして)身延山に帰り昼夜に法華の行学を修す、日興離山の時諸人を駆り催し本尊御影其他霊宝已下を運ばしめ大井に移し奉る、亦大石寺に来り院跡を開く寂日坊是れなり、勲功重き故に大漫茶羅を申し請ひ日華に授与す(本尊本能寺に在り)、甲州に在つて大聖人へ節々音信有りしかば大聖人御書下さる(録外に二通迄之れ有り)。
日仙、日乗は富士に止住し興師に常随給仕す、日伝、日妙は甲州に留り監守す、又甲斐の上野の秋山の内寺有り今本覚寺と号するなり。
正安年中に立像釈迦造不造に付いて身延富士鎌倉等異義区たり、此の時日伝、日妙書状を以て日華に問ひ奉る即返状有り、其の文に曰く。

彼の筆は寿量品供養一躰仏始成無常の事なり、此の事は彼筆候とも都へて苦しかるまじきと承はり明らめて候、一仏は我れ囲繞し奉り畢りぬ、滅後の弟子造るべからず候、囲繞せざれとの状の候なり、其の上下審有るまじく候是れは思ひ定めて候なり、是非に付け候て此事は御渡り候て聞し食し明めさせ給ひ候べく候、仏は無常の仏ぞ我かまねすべからずと云ふ状の候上は不審有るべしとも覚へず候、さもと思し召し候は●新太夫が参り候とつれて御参り候べく候。
四月三日 日華在判
二人御中(式部阿と刑部阿となり其時は肥前と云ひき祖師伝に出るなり)

此れ即日妙は富士に来り日伝は来らず、之に依つて門徒存知の事の中に云わく甲州に肥前坊日伝と云ふ者有り寂日坊違背の弟子なり、日興が義を盗み取つて甲州に盛に此義を弘通す、是れ亦四脇士を造り副ふ彼の菩薩像は身皆金色剃髪比丘の形なり、又神詣之れを留むる由し之れを聞く文、年序を経るの後日華興師の御本尊を申し請ひ日妙に授与す、其の端書に云はく「延慶三年庚戌六月十三日、寂日坊弟子式部公に之を授与す」(此の本尊今妙蓮寺に在り)、其の後日妙をして日興に常随給仕せしむ。秋山余一源の信綱所領替に就いて土佐国幡田庄吉奈に移る亦法華堂を建立す今の大乗坊是れなり、此の日華彼の国に到る故なり、血脈は日興、日華、日仙、日寿と列ぬるなり(大石寺に通す日院以来来らず)、
亦讃岐国高瀬にうつる又法華堂をたつ今の高瀬大坊是れなり、血脈は日仙、日華、日寿、日山と列ぬるなり(重須に通ず)。
日目、日華は新弘通所建立門家の最初なるが故なり、爾るに二月七日、日興御遷化の相状を伝聞して即讃州の纜を解き愁歎を抱くの涙富士に詣て墓所を拝し供養を捧ぐ、折節し京鎌倉合戦最中なるが故に百ケ日過きて富士に詣り墓所を拝して供養を捧ぐ、其の後門徒の交衆を遠離し時光の旧宅を転じて寺と為す(堀内と号す南条の堀内なる故なり)今の妙蓮寺是れなり、之に於て不退に勤行し給ふ、建武元年甲戌八月十六日臨終正念右脇にして遷化す。

右日有師の説と祖師伝とに依って之れを書す、其の外本尊●に書状或は自ら之れを見或は視たる仁の説を聞いて之れを記す、日華上人の弘化凡下の及ぶ所に非ず、化導と云ひ新弘通と云ひ新建立と云ひ旁た権者に非すんば争か此くの如き行跡あらんや、御在世の衆何れも権者にして徳行多端なりと雖も日目、日華、日尊の弘化に如かず良に興門の棟梁と謂つべきのみ。或は云はく日華、大石寺重須の貫主職を勤めず何ぞ上人と云んや、今謂く凡そ上人に多種有り内裏官に依つて上人と号す、是れ在家出家に通じて雲の上人なるが爾か云ふなり、亦免許に依って上人と号す贈官贈位の人是れなり、亦遺跡を相続して上人と名く当時諸宗の上人是れなり(是は寺附上人なり)、亦徳行に依つて上人と号す、要覧に云はく内に智徳有り外に勝行有り人の上に在り上人と名く文(是れ人に付く上人なり)、右は何れの寺も皆参内して位階を贈して上人と号するなり、京師諸寺皆上人の口宣あり今以て此の如し(谷中等の如きなり)、具に職原等の如し又元亨釈書廿四巻に出たり。
宗旨の濫觴は熱原の信者廿四人の衆殺され或は追放にあひ或は没取等の難にあふ時、日秀、日弁両人を印可して大聖人直に上人と召さる●是なり、六老僧の義は勿論なり、其の外猥りに上人と●●る事は別に所拠有るか、但し別途を構て末寺の名言を離れん為の名利か。

中老等の寺は其の便次第通用ありき、中比より独頭と称し一箇本寺と号するなり、中老其の数甚多し十八人と云ふは繁昌の寺を挙くるなり、其の中僧俗混乱する事あり、又六老僧の遺跡を相続するもあり雅意に任すべからず、御遷化記録其の外録内外の御書等披見せしめ畢り已後に中老の次第等を分別すべきなり。
今日華上人の事は一には上座の弟子なり二には勲功あり三には下座の衆に上人多し況上首をや(涅槃疏に云く人正法を得る故に聖人と云ふ文)。

日華上人の弟子分
摂津阿闍梨日仙 刑部阿闍梨日伝(此日伝は世間に小室徳栄山妙法寺開山と云ふ根本を知らざる故なり、門徒存知事に云く寂日坊違背の弟子なり已上之に依て小室より富士妙蓮寺を相続することあり日達日顕等是其証拠なり)、式部阿闍梨日妙 大弐阿闍梨日寿(下野国曾禰部の人)日相、日眼 御番帳には寂日房は十二月番衆の列、又録外に寂日房の御書あり(七冊ある録外の第二巻に出たり)。
般若経に云はく何なるを、上人と名る仏言く菩薩一心に阿耨菩提を行じ心散乱せざる是れを上人と名く文(上の涅槃経文爰に引入すべし)。

日秀伝
釈の日秀俗姓は未だ知られず、興師の教化に因る即出家して下野公と号す、後蓮祖に給仕し法華を聴聞し有職を給つて下野阿闍梨と称し、亦五段の法門に達し本門の深旨を解す、殊に日本諸宗、経旨をしらず方便教に執して謗罪を作すを聞き、此の逆倒を憐れむに因り折伏弘道を業と為す謗法の諸人に向て毒皷の緑を結ぶ、日興之れを感じ高祖の本尊を申し請ひ日秀に授与す(此本尊の在処末だ知れず後に日代に付属す西山に之れ在るか)。
日興身延を御出の後富士の上野に移て菴室を結び常に之に住居す今の理境坊是なり、亦日興上人の御代官と為て市庭寺に住居す(入山瀬と熟原の間云云)、謗法の街なる故に越後阿闍梨日弁を指加へられ両人互に説法教化し四箇の名言を唱ふ、爰に於て他宗の僧俗蜂起して鎌倉に訴ふ、富士熱原等は最明寺、極楽寺殿、後家尼御前の領内なれば即ち平左衛門尉に仰せ付けらる、之れに依て平左衛門多く軍兵を引卒し熱原に到り大瞋恚を起し下知して云はく僧徒は速に追放すべし壇那は或は禁獄し或は頭を切れ(刄らるる者三人は熱原郷住人神四郎田中四郎広野称太郎なり、残りは所を追払ひ所帯を没取す聖人御難抄は此時廿四人衆に下さる御書なり)、具に興師伝の如し、謗法の人等下知に随ひ先つ二人の僧を追放し市庭寺(日秀の寺なり)滝泉寺(日弁の寺なり)此二ケ寺を破却し僧衆は杖木瓦石の難を受く、二人騒がずして言はく不軽菩薩は法華経の為に杖木瓦石の難を蒙る、吾祖は法華経の為に度々の大難に逢ふ我れ等先師の旧業を相続して今此の責を受く、禍は福と云ふは是なりとて二人謗者に向て高声に之れを説く、此時に当り領内に僧衆一人も置かず、日興又神四郎等三人の追善に大漫茶羅を書写して弔ひ絶ふ、其の端書に云はく「駿河国下方熱原郷の住人法華宗と号して平左衛門尉が為に頭を切らるる三人の内なり、平左衛門入道法華宗の頚を切るの後、十四年を経、謀反を企つる間誅せられ畢ぬ、其の子孫跡形無く滅亡し畢ぬ、徳治三戌甲卯月八日日興在判」(此本尊重須に在り)、強仁状の往復も此の時の事なり、此時聖人御感有りて二人衆を直に上人として召しける、此の如き動乱を日朝の化導記に載せず偏執の意顕れたり具には日興伝に之を出す往いて見るべし、平左衛門入道果円父子滅亡永仁元年癸巳四月廿二日に誅せられぬ、又其の後日弁は上総に下り日秀は小泉に小庵を結び読経し給ふ、程無く病気なり御書下さる其の状に云はく。

一昨日伊賀房をまいらせしかども看病の為に上総房も用にや候とてまいらせ候、をきて看病せさせらるべく候、労事も其後に何様に候らんおぼつかなく覚候、伊賀房をば労様何様とも仰下さるべく候、よく●●看病あるべく候●●、日興在判(此状下野国平井にあり)。

茲に於て元徳元年己巳八月十日師に先って逝去し給ふ、録外廿は五云はくしもづけ房已上、偽書為りと雖も御在世の証拠に之れを出す、御遷化記録には先陣の列、御番帳には六月の番衆なり。

日禅伝
釈の日禅俗姓は川村なり(川村甲州西郡在所の名なり、代々此の地を領す故に姓氏と為すなり)、父祖父興師の説法を聴聞して信仰し奉る故に即受法して子息を以て興師の弟子と為す、後有職を賜ひ祖師に給仕し少輔阿闍梨と号す、日興の御外戚の一類なり故に由井と縁有り、日興高祖の本尊を申し請ひ日禅に授与す(此本尊今重須に在り伯耆曼茶羅と号する是なり)。
聖人御滅後興師い随順し常に身延山に有り、師の父蓮光皈寂の後亦河合に移り蓮光の墓所衛護す、後小菴を結び妙光寺と号す、日興御状下さる其の状に云く少輔あざりのもとへ、又日興身延山を出て給ふ時、本尊御影御伴して出づ亦大石寺に移り給ふ時、屋敷を下たされ南の坊を開闢す、茲に住して御番を勤仕せらる、師御感の故に本尊を日禅に授与す、年序を経るの後妙福逝去し給ふ、之に依って日興御弔ある中に本尊を書写し給ふ、其の端書に「悲母一周忌の為に書写件の如し公家奏聞代官丸大進房日助に之を授与す、元徳二庚午二月廿四日日興在判」、此本尊豆州柳瀬実成寺に之れ有り愚僧之れを納む裏書を見るべきなり、此の時河合蓮光の墓所冨士上野藤太夫屋敷に移す、転じて寺と為し給ふ今の東光寺是れなり、然りと雖も日禅尚当山に在り御番を勤む、終に元徳三年辛未三月十二日大石寺南之坊に於て御遷化なり、御墓所今大石寺東南に之れ有り。

日仙伝
釈の日仙俗姓は小笠原なり秋山信綱の一家なり、日華法華を信し給ふより一門を教化して法華に皈入せしむ、是の故に日仙を教化して出家と作らしむ、出家の後高開両師に給仕する昼夜の別無く休息の隙無し奉公比類無し、有職は摂津阿闍梨房号は上蓮房なり、常恒に大聖の御説法を聴聞すと云云。
或る時聖人鰍沢に行き給ふに折節早川の水出でて越え難し、仙公水に達するが故に大聖を始め御伴衆皆負て越え給ふ時、大聖の曰はく此の大水に百貫にて買得たる馬とも叶ひ難きに神妙なりと御感ありき、是より百貫坊と申しける、又大聖人御滅後に興師に給仕すること大聖に違はず、興師老躰の時、尚御身を離れず寝所の近所に杖と足駄と置き起居動静師孝を尽す、給仕第一なるが故に褒美として本尊を日仙に授与す。
秋山信綱知行替に就いて土州讃州に移る之れに依つて日華も亦土佐国畠田庄吉奈に到り法華堂を建立す今の大乗坊是れなり日興上人御遷化に就いて日華土佐より富士に下向す、御老躰の故に重ねて上洛叶ひ難きに依って日仙を指し上げらる云云、其の節日仙日代方便品読不読の問答あり、建武元年正月七日、興師月忌始め大石寺に於いて御供養畢りて日仙の坊にて問答あり、其の儘讃州に上洛有るべしと雖も法論未だ落居せず、其の上日乗等教訓して天目の義に同ずと云はる、日仙懺悔して同年二月十五日に大石寺の上蓮坊をば帥の阿闍梨日向に付属して讃岐国高瀬に、上り給ふ、其の後讃州より書状を日代に進らせらる(其状東光寺に在り然を日優重須に取行く)終に彼の地に於て延元二丁丑正月七日御遷化なり。
日興上人正中二年十一月十二日の夜御筆御本尊以下廿鋪、御影一鋪並に日興影像一鋪等の一通の遺状日代は宛所にして門徒披露状なり云云、即彼の失物讃岐国高瀬大坊に之れ有り冨士の重宝なり、天正十二年甲申三月十六日重須日健在判、此記文豆州柳瀬実成寺に之れ有り夢の御影像の事か。

方便品読不読の義に付き古来より多義有り御草案●に日順の記文に出てたり、今亦両義を出して以て之れを示す、初には序正の次第に約すとは迹門は本門の為に序と成るなり、序とは記一に爾雅を引て云はく東西の牆之れを序と謂ひ内外を別つなり、然れば則本門は正宅の如く迹門は牆壁の如きなり、若し方便品乃至安楽行品寿量の序分たらば何ぞ能く牆壁を毀壊すべけんや牆壁は但正宅の為なり、二に密意に約すとは●一の末に云はく方便品の初に近く五仏の権実を歎ずと雖も意密に師弟の長遠を歎ず文、然れば仏意は始方便品に五仏の権智実智を称歎する時より寿量の師弟長遠を称歎せん為なり師とは久遠自受用身なり、弟とは上行等なり、上行若し蓮祖凡身と示現し方便品の初より蓮祖を称歎せんが為に之れを説くなり是れ且らく密意に約す、従久遠劫来とは密意に約す則寿量の久遠なり、若し能く方便一品の意を解せば則大車乃至頂珠亦能く之を解了せん、若し垢衣内身実に是れ長者なりと了知せば何ぞ能く之れを蔑如せん、方便品の密意を実に是を了知せば上行日蓮を称歎する者なり、何ぞ能く毀謗せんや云云。

日乗伝
釈の日乗俗姓は奥州の新田なり、日目に仕へ奉り発心出家し給ふ故に子息甚多し、されば日興授与本尊に云はく「永仁四丙申卯月八日日興在判、之を授与す大学了性坊は郷公の弟子たりと雖も日興が弟子と成るの間仍て之を授与する所なり、」亦有職を賜ふて尾張阿闍梨と号す、元来儒者にして手跡勝れたり、之れに依って筆墨等の御音信度々なり、正和四年七月十四日御状に其相見えたり(状も大石寺に之在り見るべし)、又嘉元三年乙巳八月十三日、日興判、大学了性坊日乗に之を授与す(此本尊武州久米原妙本寺に之有り極真に遊ばされたり一枚本尊なり)、同年十月二日亦墨筆遣はさる御状あり、此の時労ふ所の民部阿闍梨にも御状下たさる其の状に云く師匠僧都御房とあり、興師御老躰の時分は大石寺の藤木房に居住し給へり、又小泉に於ても法華堂を立て給ふ、日有師云はく尾張阿闍梨日乗は小泉開山と(日主日昌時代まで寺あり善立坊已後はなし)、日興大聖人御筆本尊を以て日乗に御相伝あり其の時遺状下さる其の状に云く。

聖人御筆の本尊本主駿阿国実相寺前住侶肥後公に給ふなり、日乗之を相伝し日乗より弟子日盛に之を相伝す、六人判形之有るべし。
元徳二年二月十七日 在判

此付属状当山遺状の中に之れ有り。
民部公に下さる御状に云はく御労平腹悦び入て候、徳治二年日、僧都御房已上、御状も多々なり具に之を出すに及ばず。亦日乗讃州下向ありて日乗の跡を相続し給ふことあり、発心者なること勿論なり、日朗等の如し、然るに朗師の事、本来出家のやうに申したつれども其義一准ならず混乱するとあり。

新六人
永仁已後元徳正慶の間六人の碩徳を選び彼の本六人に対して是を新六人と号す、其の列次智徳を以て本と為す、然るに日澄第二に列するは澄公の没後に之れを列するが故なり、若し年老の次第に因れば澄道妙皆年老なり、澄公は三十三歳年増日道は十二歳日妙は十歳の年老なり、故に年老の次第に非ざるなり、次の代公は初に列する由緒有るか、謂く日澄は日向の弟子後に日興に皈伏して弟子と為り、日道は日目の弟子、日妙は日華の弟子なり、日代、日善、日助は興師の直弟なり、之れに依って新六人第一日代を挙げ給へるか、余は下に至つて之を知れ。

日代伝
釈の日代俗姓は由比、興師の外戚の甥なり、日善の舎弟なり、永仁二年甲午、誕生なり、幼年より富士重須に登り日興に奉仕す、出家入道して伊予と号す、解学日新にして智徳宏深なり、師法器為るを見て当家の深義悉く之れを伝ふ、生智の才有るが如し、故に若年たりと雖も遺状一通日代に賜ふ、其の状に云はく。

一、六人の弟子を定むと雖も日代は日興付属の弟子として当宗の法燈たるべし、仍て之れを示す、正和三年十月十三日日興在判、御歳六十九歳。
(此状代師廿一歳の時下さる故に不審有り法燈二字之を思ひ見るべし生智の才有る事知るべし)。

一、日蓮聖人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之れを相伝せしめ畢ぬ、仍って門徒存知の為め置き状件の如し。
正中二年十月十三日(日興在判日代卅二才御歳八十才)。

一、日興先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代以下の弟子有り。六人の外と号して之れを軽賤すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限にあらず、仍つて後証の為め置き状件の如し。
正中二年十月十三日 日興在判。

一、正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人の御影堂に於いて日興に給ふ所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、●に日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人と号して之れを出さしむる輩は門徒の怨敵、大謗法、不孝たるべき者なり、謗法の罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏、日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝たるべし、仍って門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興在判

一、聖人御門徒各別の事は法門邪正本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等法門異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、就中日代に於ては在家出家共に日興の如く思し食さるべく候、門徒存知の為め置き状件の如し。
嘉暦二年九月十八日 日興在判

一、熱海湯地の事、伊豆国走湯山の東院尼妙円の譲状に任せて知行せしめ了んぬ、弟子日代阿闍梨付法たるに依って譲り渡す所なり、仍て状件の如し。
元徳三年十月十一日 日興在判(日代卅七即ち元弘元年なり)

一、定る日興弟子の事
日目     日代
日華     日澄
日秀付日代  日道
日禅日善日助 日妙
日仙     日豪
日乗     日助
右定むる所此くの如し、日目、日仙、日代等は本門寺仏法の大奉行たるべきなり、但し日代阿闍梨を以て日興の補処と為し大聖人御筆の大漫茶羅以下自筆の御書等之れを相伝せしめ本門寺の重宝たるべきなり、本六人新六人共に此旨を存ぜらるべきなり、若し七十以後の状共と号し此の条々棄て置くの弟子等大謗法の仁たるべきなり、在家出家共に此条を守るべし、仍て置き状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判
  日時
  日弁
  日経
日興日什
  日済
  日延 日定

一、日秀阿闍梨の跡●に御筆大本尊、日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興が門徒等此の旨を存すべきなり、若し此の状を用ひざる者は大謗法の仁たるべきなり、仍って置き状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判

已上是れを八通の遺状と云ふなり、其の間師に代って奏聞の使節を遂ぐ、茲に因つて日興感書を日代に賜ふ。

一、当聖主の御宇奏聞し嘉暦二年八月廿二日廷遠の帥を以て右目録に入れ記録所に於いて庭中せらる、巨細上聞せずと雖も志の所々謹んで下情を抽んで畢りぬ、奏聞の代官使者阿闍梨日代なり、向後の為に記録件の如し。
嘉暦二年九月十八日 日興在判

日興御在世の間は重須に一院を建立し常に之れに居住す今の養運坊是れなり、此に於いて法華経一部書写し全部四冊西山霊宝の随一なり、此時に当り常に法鼓を鳴し盛に法義を研ぐ、日代、日順更る●●師に代つて論談決釈す、其の余の弟子衆互に講談隙無し重須談所此の時甚た壮盛なり、諸国参集の学侶亦夥し、之れに依つて諸人新六人衆を帰依し皆龍象と称す、其の中代公長たり、粤に興師御遷化たりと雖も最前厳重の遺状賜るが故に代師を崇敬すること先師に違はず、興師の跡を相続し重須の貫長と作る、之れに依つて石川重須在処の山林竹木等、先師聖人御在世の如く相違有る間敷き状を日代に進らす(西山にあり)、兼て亦興師遺状の旨を載せて代師を尊敬すべきの由、其の外二代の証跡皆西山に在り、然りと雖も老僧衆多く以て退散し給ふ、所謂日道は大石寺に留守居、日妙は甲州に帰り、日順は下山に籠居す、日豪は北山に隠居す、わつかに残る人は日善日助計りなり、興師初七日の御仏事は日代之れを修し給ふ御説法は日目之を勤る、百ケ日供養は日師大石寺に於て之を修せらる御説法は日代なり、両山大衆聴聞貴賤皆感涙を流す、御供養已って後日代、日目に今此三界の文を問ふ(此に両説有り池上日耀継図抄には日代興師の為の卒都娑に今此三界の文を書畢給ふと日目之を見て之を難じ給ふ云云、亦一説には日代目師に法則を問ふ云云日目之を答ふ云云、二説ともに同文なり云云)、此の問答を聞く人皆疑心を含む又云云。

建武元年正月七日、興師御斎日初めの供養以後日仙の坊に於て方便品読不読の問答あり、茲に因って重須の大衆等互に悪心を生じ各相誹謗す、石川式部太輔之れを聞き僉議して云はく若し日代本迹混乱有らば先師に違背するの仁なり速に擯出すべしと云って日代を駆除し畢りぬ、代公重須を退去して大石寺に移り且らく小庵を結び住すと雖も終に川合に竄謫す、其の後西山の辺境に移り寺を立て片隅に迂り寺を結ぶ、是れより来た日代、日善、日助の三人一同に奏聞を遂ぐ(奏状別紙に在り)終に茲に於て不退の勤行し給ふ。

御講談の間、甲州其の外所々に於て弘通之れ有り、有縁の地には寺を立て各弟子衆支配し給ふ、老年の後に常に富士に閑居し給ふ、亦本尊所望の仁之れ有る時は則書写し奉り之れに授与す。されば甲州府中上行院の本尊に云はく。

 日興聖人
 伝燈日代判
 満九十
 書写之
 永徳三年十月日

又武州江戸上行院の本尊に云はく

 日興上人
 遺弟日代判
 貞治四年七月日

何の輩か斯の如く本尊書き給へるや、但し日目、日代計り斯の如し。
上寿長年なるが故に御弟子衆御遷化して師独り久住し給ふ、是の故に未決の議有れば日代に問ひ奉り決定せり(日印造仏の義日代の問ひ奉る日代の返状之有り日印の下に至り其状とも之を出す往て見るべし)。
明徳五年甲戌四月十八日行年一百一歳にして御遷化なり、日任以下弟子衆寄り合ひ給ひて茶毘し奉る事終りければ御骨を拾ひ取つて芝川西に御墓をつき之を納め奉る。
竊に日代上人重須を出づるの濫觴を尋ぬるに昔より相伝して云はく日代本迹混乱に因つて重須を擯出し奉り畢りぬ、之に就て証拠を校考するに分明の証文無き故に且らく糺明し難し、之れに依つて建武元甲戌より今明暦三丁酉に至つて三百廿余年の間、重須西山の両寺互に憎嫉を生し各誹謗を作し須臾も我執を止むること無し、重須日国の時に当り書状を以て日代の謗罪を難ぜらる、西山の返答に云はく日代に於ては本迹一致の謗罪無し日代の嫡弟日任児たりし時の身延山の皈伏僧にして本迹一致の説を作り畢りぬ、(此返答重須に在り)、諸人日代の謗罪を日任に附せらるるか、疑ふに亦日辰と日春と書状を以て代公と諸師との迷不迷を穿鑿せらる、日春の返報に云はく世事の遺恨強盛にして、殊更俗縁を以つて事を建武正月の問答に寄せ壇那押し掠めて日代を擯出し奉り畢ぬ、日国難状の返答には世事の遺恨強盛にして壇那押し掠む等と謂はず、而して今日春始めて此の義を成せらる故に亦疑滞を残す者なり、又小泉久遠寺日是書状を西山日心に贈り西山重須両寺の和談を謂ふ、日心返状を小泉に贈る其の状に云略して云はく、日妙門徒は是れ盗賊大謗法なり云云、之に依つて証文を尋ぬるに数通有りと雖も髣髴として分明ならず、然りと雖も先哲之れを出し而も以つて証拠と為す故に今亦之れを出たす、日辰上人三文を引いて証と為す。

其の一には日向国日知屋定善寺日叡自筆の記文に云はく、建武元甲戌正月七日、重須大衆蔵人阿闍梨日代、太輔阿闍梨日善大進阿闍梨日助等其の外大衆大石寺日仙の坊に来臨せり、大石寺大衆等多方た他行なり、有り合せらる人数、伊賀阿闍梨(日世)師弟(日郷)下坊の御同宿宮内阿闍梨(日行)其の外十余人なり、時に日仙仰せに云はく日興上人入滅の後代々の申し状に依つて迹門たるの間方便品読むべからず文、重須蔵人阿闍梨日代問答口として鎌倉方の如く迹門に得益有りと立てらる文、日仙は一向に迹門方便品は読むべからず文、是れ又日弁天目の義に同篇なり、然して当日の法門は日仙勝ち申さる●なり日叡其の座に有りて法門聴聞す、結局重須本門寺大衆等の義、元より日代五十六品と云ふ法門立てらるる間、高祖聖人並に日興日目等の御本意に非ざる故に本迹迷乱に依つて重須大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢りぬ、末代存知の為め日叡之れを験るし畢りぬ已上(正筆九州に之有り)。是れ則列座聴聞衆の記文の故に之れを出す、西山日心等要法寺日辰之れを引いて証と為し給へり、但し此の文方便品読不読の記文にして本迹迷乱の証と成るべからざるか、日道日妙自筆の状も此の如くなり。

二には日尊実録に云はく日尊上人仰せに云はく(暦応三五中旬)冨士門跡一同に云はく迹門を破して本門を立つべし云云、是れ名目一同の義なり、之れに付いて方便品は迹門なり何ぞ之れを読まんやと云ふ難之れに依って面々会釈不同にして法門異義水火なり云云、諍論出来して一遍に落居せざる故に法門浅深、相伝の有無量り難し、名目の幢を出して義趣を顕すべし云云。
一、河合人々の義に云はく方便品に読むべき方、読むべからざる辺之れ有り、先づ一住所破の為に之れを読むと云云、次に再往の内証の実義は読むべきなり、其の故は迹に即して本、本に即して迹と天台釈し給へり、故に本に即して迹なる故に迹門とは云へども本なる理有る故に読むなり、内証に所破と云ふ事之れ有るべからず云云、薬王品得意抄に准じて迷乱か、其の故は爾前星迹門月本門日なり云云、是れは此抄修行の躰なり、又十章抄に准じて修行せば一念三千の出処畧開三の十如実相なれども義分は本門に限る文、是れ文在迹門、義在本門の意なり、次に本に即して迹、又本なる理等とは天台本門の十妙を釈するに迹の因果等に四教の因果有り即の故に亦爾前経をも読むべきなり、此れに例難有り故に此の義不可なり、次に内証所破と云ふ事之れ有るべからずとは、記の九に云はく又地裂とは地本眷属を覆ふ迹の本を隠すが如し、今は開迹顕本の故に地裂して之れを表はす文、文句の九に云はく聞命の故に来り、弘法の故に来り、破執の故に来り、顕本の故に来る云々、又下若し来らずんば迹破することを得ず、遠顕はすことを得ず文、此れ等の文皆迹を破せん為なり、何ぞ所破の義無しと謂はんや、五人所破抄に一には文証を借り二には所破の為と云ふ二義は此の意か。
上野重須一同の義に云はく方便品は所破の為なり、此の品は譬へば敵方の訴状の如し、寿量品は自分の陳状のごとし、爾れば先づ敵仁の申し上くる訴状捨つべき方此くの如しと読み上けて、次に寿量品今家所立の元意当時弘通の至極と存じて読むなり、故に方便品をば読んで即捨つるなり、方便品に得道有りと云ふ者は宛も念仏無間等の如し。
上蓮房阿闍梨日仙の云はく此の事皆非なり、読んで捨つるも直に捨つるも同じ事なり、爾らば一円に方便品をば読むまじきなり、捨つると云ひながら、読み加ふる事非なり、処々の御書に曽つて之れを読むべからずと見えたり云云已上。

第三に大石寺の記文は日鎮自筆の記に云はく、応永六年己卯十月下旬、助に対して御物語に云はく重須の在処等の付弟は上人よりは日代に付け給ふなり、爾るに迹門得道の法門を蔵人阿闍梨立て給ひし程に西山に退出し給ふなり、此の法門は始は我と必しも迷ひ給はず讃岐の国の先師津の阿闍梨百貫坊と召さる、日仙の云はく我は大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨堅く聴聞の故に迹門を捨つべし、爾らば方便品をば読み度くも無き由を云はるる時、日代、日善、日助等之れを教訓して法則修行然るべからざる由を強いて之れを諌め天目にも之れ同しなんど云ひけるなり、此くの如く云ふままに後には剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひなして此の義を後には募り給ふま●此の法門は出来しけるなり、日代云はく施迹の分には捨つべからずと云云(私に云く此の文日叡日満記録に此の義なし但し日仙と問答の時の言葉なり云云)、か●る時僧俗ともに日代の法門謂れ無き由を申し合ふ、其の時石川殿諸芸に達したる人にて又学匠なりしが我れさらば日道上人え参つて承はらん、已に彼の御事は聖人の御法門をば残る所よもあらじと思し召すなり、さて此の由を問ひ申す時、日道上人仰せに云はく施開廃の三ともに迹は捨てらるべしとの給ふ、聴聞して之れを感じ彼の仁重須に帰り云はく面々学文が未練の故に法門に迷ひ給ふ、所詮此後は下の坊へ参つて修学し給へと申す、然るべしとて今の坊主宰相阿闍梨日恩其の時は若僧にて是れも学徒の内にて是れへ通ひ給ふなり、乃至此くの如く有るままにて日代も出で給ふまじかりけるが、剰へ、す●はきの時先師の御坊を焼き給ひし縁に其の儘離散し給ふなり、やがて坊主に成るべき人無かりし程に侍従阿闍梨は日興上人の外戚に入り給ふべき程の強義の人なり、我か計ひに日妙を坊主に成し給ふなり已上。

予未だ此の記文を見ずと雖も既に日辰上人の御引証なり故に之れを出す、此の記に就て多く相違有り如何となれば日目上人正慶二年十月の末御上洛なり是の故に大石寺に住し留守居なり、同十二月より遺跡に付いて相論有り、正慶二より建武二に至る三年に三度の対決の故に日道小事と云ふと雖も綺ふ能はず、爾るに下の坊に参り修学と云ふ事、次に叡記に違す、彼の記に云はく重須大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢ぬ、今の記には焼亡に因つて自ら退出と、然るに叡記には同日即座の記文なり、鎮記には百四十余年後の記なり、次に日有りの記に違す、彼の記に云はく日代云はく施迹の分には迹門を捨つべからず文、日仙云はく当家施開廃三ともに迹を捨てらる●べし云云、此の記に日道云はくと云へる文なし、此くの如く相違有る故に鎮記信用し難き者なり。
其の上侍従阿闍梨と云ふ人是れ何人ぞや、記録等には侍従公と云ふは日朝の事なり此れ若輩衆なり、争か若輩の身を以て興師の遺跡を計ふべきや、唯石川殿御計ひにて日妙を居え給ふと云ふ事便り有るか、況や西山日春の答文亦以て此くの如し、実録の義●に日耀の義正たる則んば迷乱疑ひ無し、但即座の記文に非ずと云は●伊賀公日世即座聴聞衆なり、縦ひ日尊京都に有りと雖も弟子日世即座なり、両師の問答聴聞せり何ぞ相違有んや、所詮三百余年の星霜を経て分明ならざる者なり、本迹迷乱実否且らく置いて論せず石川殿日代を信ぜざる故に擯出せるなり、次に擯斥に就いて能擯所擯あり所擯は日代、日善、日助等なり能擯の中に日華、日乗、日道、日郷入るべからず、其の故は日叡の記文に重須の大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢りぬと、此の記に重須大石の大衆と記せざる故に況や日華は妙蓮寺に蟄居し日乗は小泉に閑居し日道は行泉坊の開基なれども日目上洛の留守居にして大石寺大坊に居す、日郷は目師に御伴して上洛、帰国の後は蓮蔵坊に住す、故に此の二人も入るべからず、故に能擯は日妙日豪等なり石川殿は能擯の大将なり云云。

日澄伝
釈の日澄先祖は門徒存知の事に(日興述作)云く因幡国富城庄の本主なりと、事の縁有るを以て下総国に居住す、五郎入道常忍後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闍梨日頂なり則ち高祖直弟六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是れなり、誕生は弘長二年壬戌暦、幼少より茂原日向を師として出家す、其の後舎兄日頂に随逐して修学す、日興延山御出の後日向に従ひ身延に登る。
永仁年中に甲斐国下山の地頭左衛門四郎光長新堂を建立し一躰仏を安置す、此の時日澄初めて富士に来臨し興師二値遇し奉り法義を難ず、此の時富士所立の相を聞き已りて已義と為すの処、正安二年庚子民部阿闍梨日向彼の新堂●に一躰仏を開眼供養す、此の時日向と日澄と法論有り、彼此校量して水火の領解を成し、終に富士に移り弟子と為る、之れに依って本尊を授与す、其の端書に云はく「乾元元年壬寅十二月廿八日、富城寂仙房日澄に之れを授与す」(澄公四十一歳の時なり)、是れより来た富士学頭に居え給ふ、之れに依つて同三年遺状一通を日澄に賜ふ其の状に云はく。

「久遠実成釈迦牟尼如来、首題を上行に付属在します、日蓮聖人の本門を日興継紹す、継紹の法躰日澄和尚類聚す、類聚興題して師に先き立て没す、爰に先聖逢値の五老尚謬誤有り早世已来弟子定て非義を懐く、自今已後聖人の著述書釈に任せ久く法義を耀す澄師所撰の要文を守り宜く宗旨を興すべし、法華皆信の将来本門寺建立の期に至つて澄師の跡を以て大学頭に補する処なり、」澄師の跡に於て異義を致す者有らば日興敵対の仁たる者なり、仍て後日の為に件の如し。
乾元三乙巳八月十三日 日興在判
御歳六十一歳。

又徳治元丙午四月廿三日重ねて本尊授与し給ふ(右両度の本尊今重須に在るなり)、其の広智博学なる事一切経を知見し内外典に通達し亦当家書籍著述し給ふこと又多し、将に此の時に当り重須に於て談所を建立して澄公を能化と為す、是れ当家学頭の初なり、之に依つて門徒の所化遠近と無く皆集まり自他共に垢を刮り能所斉しく光を磨く、富士に住すること十二年茲に於いて御終焉なり。
血脈抄(学頭二祖日順述なり)に云はく次に日澄和尚は即日興上人の弟子、類聚相承の大徳なり、恵眼明了にして五千余巻を普知現見し広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し、宏才博覧にして三国の記録を兼伝す、其の上内外の旨趣和漢の先規孔老五常詩歌六義都て通ぜざること無し、当家入門に於て亦次第梯橙す、先づ日向日頂両阿闍梨を過きり天台与同の想案を廻らし、次に富士日興上人に依憑して本迹水火の領解を成す、彼此校量して終に富士に移り畢りぬ、爾しより已来た或は武家を諌め多年対訴状を捧げ貴命に応ずる数帖、自宗所依の肝要を抽く、所以に本迹要文上中下三巻、十宗立破各一帖十巻、内外所論上下二巻、和漢次第已上二巻且つ之を類聚して試に興師に献ず、興師之れを見給ひて咲みを含み加被せしむる所なり、此の外撰述多端にして注記相残る、延慶三(太歳戊戌)年三月十四日四十九、駿州富士重須郷に在りて定寿未だ満たず師に先き立つて没す、具徳荊渓に准し聡敏顔回の如し、彼の荊渓は天台六祖末書製作の大師なり利物久しく周し、是れは大聖の三伝、本迹要記の和尚なり、妙道遠沾し像末。に隔り興隆均等なり、周の顔回は仲尼の弟子、我遣三聖の随一なり、三十にして早世す、我先匠は富士の写瓶、地涌千界の流類なり、七々にして帰寂す、内外教別なれども短命相似たり(已上皆全文なり)。

又用心抄の奥書日順に云はく富士の下流澄師の遺跡僧尼男女貴賤上下一味同心に本門を信仰し現世安穏後生善処ならくのみ、時に建武三(太歳丙子)仲冬廿四日、甲州下山大沢草庵に於いて且は令法久住の為に且は門徒の繁昌を念し、智目闇き上、肉眼盲目なりと雖も愚案を廻らすこと大概此くの如しと、此の文に僧とは日順等、尼とは妙常等、女とは乙御前等なり、皆富士に帰伏し爰に於て御遷化なり、妙常死去は正和四乙卯、日頂は同五年丙辰三月八日六十歳にして遷化す、此の人々の富士登山は延慶二己酉、月日知れざる故に書かず、推するに澄公病気の故に登山か。

日道伝
釈の日道、俗姓は新田郷目師の甥なり、母は時光の息女なり妙法尼の孫なり、弘安六年伊豆の国に於て誕生す、若年より出家と作らんと欲す名て目師の弟子と為し富士に登り上野に居住す、後興師の座下に詣り法華の行学を習修す、爰に於て僧房を起立し常に之に居住す今の行泉坊是なり(日道大石寺に移る後は舎弟大蔵公日運之を相続す)、碩学の歎れ有るに因つて有職を賜はり弁阿闍梨と号し新六人の内に加へらる、奥州に下向し日目建立の寺庵を経行せんと欲し出で給ふか、是より已前に目師の知行の田畠を日道に付与し給ふ其の譲状に云はく。

譲渡す弁阿闍梨の所。
奥州三の追加賀野村の内に田弐反、加賀野太六三郎殿日目に永代給ひたる間、弁阿闍梨日道に永代を限り譲り与る所なり。
伊豆国南条佗武正名の内いまたの畠弐反少々くづれたりといへども開発私領たる間譲り与る所なり、予弟子共違乱妨げ有るべからず、若し違乱に至らば不孝の人為るべし、仍て譲り状件の如し。
嘉暦二年十一月十日 日目在判。

又上新田坊●に坊地弁阿闍梨に譲り与へ畢ぬ、又上新田講所たるべし、此の上新田の事ともは弁阿闍梨一期の後は幸松に譲り与う可きなり、仍て状件の如し。
嘉暦二年十一月十日 幸松在判
日目在判

又大聖人並に日興、日目次第相伝の十宗判名を日道に付属し給ふ。
 倶舎宗(抽度宗半字宗下劣宗)
 華厳宗 迷経宗
 成実宗 驢牛和乳宗
 真言宗 咎范宗
 律宗  驢乳宗
 法華宗 仏立宗
 法相宗 逆路宗
 禅宗  趙高宗殺二世王
 三論宗(背上向下宗 捨本付末宗)
 浄土宗(梟鳥宗、禽破鏡宗、獣不孝宗)
已上大聖御自筆今大石寺に在り。

此の譲り状を得て奥州に下向し一の迫に一宇を建立す宮野村の内、高北山妙円寺是れなり、其の間数月を経歴する故興師御入滅なり、之れに依って消息を遣し御遷化の相状を告ぐ、道公驚いて即一の迫を出で駿馬に鞭つと雖も、行程一千余里の故に漸く富士に着き一百ケ日の御仏事に値遇し給ふ、其後日目天奏の為に上洛せんと欲す当宗嫡々法門相承どもを日道に付属す、其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其の目録に云はく。

日興御さくの釈迦一そん一ふく
御しゆうそく
日興の御ふみ一
授職灌頂きりかみ
結要付属きりかみ
三衣の相伝
三衣の口決
廻向口伝
広裳衣相伝
念珠の相伝
今此三界きりかみ
蓮師名相の口伝
大黒のきりかみ
日蓮弘法日興付属きりかみ
天台大師四十八の起請文
当家神道きりかみ
日文字のけいづ
佐渡妙泉寺日満と申す付弟のきりかみ
大聖人の父母の御事きりかみ
日円の御本尊一ぷく
日番御本尊一ぷく
高祖の仏法修行の習ひきりかみ
十羅刹のきりかみ
三衣授与のきりかみ
日興上人の御自筆御経(ありと云ふ事以後の証文になるべし)。
大石寺のさしづ
二字の習のきりかみ
観心本尊抄の合文
三大秘法のきりかみ
本尊相伝のきりかみ
愚者が日文のきりかみ
右日目御自筆今当山に在るなり。
此の内神道の切紙は井上河内守殿に取られて今はなし是れ日濃が所行なり、日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す、御本尊御骨●に御筆御書等を守護せしむ。
日目天奏の為に上洛し給ふ濃州垂井宿に於いて御遷化なり、日郷は御骨を取り頚に懸けて京都に上り東山鳥辺野に納め奉る冨士に帰りて蓮蔵坊に居す、衆徒を集て告けて云はく日目上人去る十一月十五日美濃国垂井に於て御遷化なりと、之に依て大衆の悲歎幾許ぞや衣更着の初興師御入滅、冬今日に至り目師遷化し法滅弥よ衰へ紅涙未だ乾かず、日郷云はく目師御臨終の時大石寺を以て某に付属し給ふ云云、之れに依つて衆義区にして一結し難し、故に日道と日郷と建武元より延元三年に至る三年間互に対論を為し両方各貝鐘を鳴らし其の間三度対決あり、然りと雖も理非顕然たるに因つて道理を日道に付せられ日郷等を追放して寺中に置かれず而して寺中の乱逆を静め畢ぬ。
其の後目師仰せ置かるるごとく御弟子に支配し給ふ、されば書籍奥書に云はく。

曽根辺大弐阿闍梨日寿は蓮蔵坊学法弟子なり、仍て遺言に任せ自筆の双紙を以て相伝し奉る者なり。
時に建武第四姑洗下旬 日道在判

御自筆伊豆国柳瀬実成寺に之れ有り余は之に准知せよ、此の文の如くば日目御付属有り亦御遺言有る事疑ひ無きか、其の後下の坊を以つて日行に付属し給ふ兼て付弟として其の時亦本尊を日行に授与す、其の端書に云はく。

「暦応二年(太才己卯)六月十五日日道判日行に之を授与す一の中の一の弟子なり」文。
其の後奏聞せんと欲するの刻、病気身を侵し終に暦応四年辛巳二月廿六日行年五十九歳にして御遷化なり(日道奏聞状の案御伝に出るなり)。

小泉久遠寺日義云はく日道に六ケの謗法有り、一に未処分の跡を奪ひ取るなり日目天奏の為に上洛を為し濃州に於いて御入滅なり、是れ故大石寺は日目より日道に付属せず日道に付属状之れ無し、爾れば大石寺を押領す是れ未処分の跡を奪ひ取ると云ふなり。
二には玉野太夫阿闍梨日尊は日興の御勘気十二年なり、其の間日道、日尊の供養を受くるなり、三には故聖教を以て屏風を張る等なり云云。
愚謂らく此の難甚た非なり日目遺跡日道に付属する道理一に非ず、其の故は新六人の初日代は日興の付所重須に居住す、日澄は先に逝去す日道是れ次第の法将なり勲功重かるべし学解亦勝る故に是一、日道は目師の甥南条時光の養子、性相近し最付属たるに堪えたり、目師常の持言に此の栗はいがの中よりほり出すと庸常御出言ありき(日代遺状の内付処と云是へる例を以て之を知れ)二、日道は時光の後室妙法尼の養子なり上野皆南条の領内なり、何ぞ有縁の日道を閣き無縁の日郷に付属せらるべき是三、亦次に付属の状之無しと云ふ事亦以て謂れ無し、右譲状新田の坊地を日道に譲り与ふるは下の坊の事なり、上新田講所たるべしとは大石寺講所たるべしとなり、下之坊は時光建立にして高開両師経行の精舎なり、故に本寺とも亦は斉等とも云ふべけれども此の指南を以て興門の末寺頭とする者なり、何ぞ付属状無しと云ふや、況や又御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂は●内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云。

日妙伝
釈の日妙俗姓は平氏、甲州の人なり、幼少にして日華に随順し即弟子と成り鰍沢の内の法華堂に住す(日興小庵を建立す後蓮華寺と号する是なり)、爰に於いて法華を習学し昼夜退せず漸々功を積む、師法器たるを見て褒美として興師に本尊を申し請ひ日妙に授与す其の端書に云はく「延慶三年庚戌六月十三日、寂日房弟子式部公に之を授与す」(已上本尊今妙蓮寺に在るなり)、是れ妙公廿六歳の時なり。
亦立像釈迦仏造不造の義に付き門徒一同に法義を論ず、茲に因つて日伝日妙一同して日華に問ひ奉る、師即返答し給ふ(其状日華伝に出づ)後日華の跡を相続して蓮華寺に住す、之れに依つて興師本尊を日妙に授与す其の端書に云く、「甲斐の国西郡蓮華寺の前住僧寂日坊弟子式部公に之れを授与す正和四己卯年七月十五日」(今富士妙蓮寺に有り)。
応長正和の比日妙を富士に移し興師に常随給仕せしむ、或る時弟子の悪行を教訓するに彼の弟子応ぜざるを以て師に対して瞋恚を起し刀を以て興師を切り奉らんとす、妙公其の座に有り弟子に対して云はく汝が刀は鈍し此の脇指を以て切り奉れと云つて自ら脇指を抜き出して彼の弟子に与ふ、悪僧之れを取らんとする隙に妙公組み留め給ふ故に別義無し興師御感あり云云、亦師の御代官として京鎌倉に奏状を捧ぐ勲功一に非ず、故に褒美として本尊を日妙に授与す、其の端書に云はく、「奏聞御代官式部阿闍梨日妙武家に四度、公家に一度元徳三年辛未二月十五日日興判」(此本尊重須に在り)。
正応年中高祖の御例に准じて本弟子六人定めらるると雖も或は衰老し或は師に先き立つて逝去す、故に重ねて法器を選び新六人の弟子を定む、日妙其の選に当り新六人碩徳の内に加へらる、其の序次日代伝に見ゆ。
興師御入滅の後は又甲州に帰り蓮華寺に住す、建武元甲戌年正月七日日仙と日代と法論に依つて石川の為に謫せられ重須を退出し給ふ、之れに依つて実忠、日妙を請ふて重須の別当と為す。是れより来た自身奏聞有り其の状に云はく
「早く爾前迹門の諸宗を破却せられ、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字を立てられば、国家福祚の大本、華夷和楽の洪基たるべし」と云云、
爰に於て三十一年弘法なり、其の間講談隙無く亦本迹の奥義を研精す、門徒中に便宜有れば則書を遣はす、されば日尊へ遣はさるる状に云はく
「日興上人の御門跡奏聞の為に上洛せしめ候の便宜御札委細承はり候、柳摂津阿闍梨御房、天目の義を立て河合太輔阿闍梨の御房、蔵人阿闍梨の御房鎌倉方五人に与同す希代未曽有の次第に候、存命の内いかにしてか寄り合ひ奉り此の如きの事をも申し談し候はん、老躰の御事に候へば御内こそ御下向候はず候共修学の御弟子をも下たされ候は●、日妙聴聞仕り候の分亦御内の本迹の事御存知の旨をも承はり度こそ候へ。
十二月四日 興師入滅七年めの状ぞ僧日妙判
謹上玉野太夫阿闍梨の御房

亦甲州相州鎌倉等所々に於て弘通し給ふ有縁の地には一宇を建立し各弟子衆に支配し給ふ、貞治四年乙巳八月朔日八十歳にして御遷化なり。
或る人云はく日妙は興師付所の弟子なり、故に日妙授与の譲状之れ有り其の状に云はく「富士本門寺日妙上人永仁六年二月十五日、日興、在判私に云く此年号は日妙十四才年号ぞ)。
日蓮聖人の御仏法、日興存知の法門日代阿闍梨に之れを付属す、本門寺の三堂本尊、式部阿闍梨日妙廿七箇年の行学たるに依って之を付属す、東国法華の頭領を卿阿闍梨日目に之を付属す、西国卅一ケ国法華の頭領を讃岐阿闍梨日仙に之れを付属す、北陸道七箇国法華の別当を日満阿闍梨に之を付属す、門徒此の旨を心得べきなり、仍の件の如し。
正中二年十月十三日 白蓮阿闍梨日興在判駿河の国富士上方重須本御影堂に於て唯授一人日妙に相伝す秘すべし(已上全文なり)。

一には三堂本尊の躰、何様の物ぞや不審し、二には日目法華頭領の付属なり、爾りと雖も頭領の下知を信ぜさる者手下にせんと思ふ者あり是の故に信ぜられざる一なり。
一、本門寺三堂の本。何等ぞや。
一、日代の遺状には日目、日仙、日代等との給へり、今此の付属先例に違す其の外不審多々なり云云。
日蓮聖人の御仏法、日興慥に給はる所なり、就中日妙は三堂の本尊の守護申すべき仁なり、末代の為に日代判を以て証人として書写し畢ぬ、我か門弟等以後に於いて諍ふ事有るべからず候、仍て後日の為め件の如し。
元徳三年二月十五日 日興在判
本門寺日妙に之れを授与す已上全文。

右長篇を以って日妙に之れを授与す、故に興師滅後遺状に任せ重須本門寺を領知してより已来た今に師々伝授して絶えず、爾るを日代流、猥りに興師付所の弟子と云ふ者は日代なり八通の遺状之れ有り、日妙は代師離山の以後の住持なり云云、此くの如きの義信用すべからず、日代は大石寺より西山に移らる云々。
此の両義何れが是何れが非ならや、愚謂へらく謹んで両家の御遺状を拝見し奉るに邪正自ら分明なり、若し之を評せば日代遺状に於ては全く疑滞無し、妙師遺状に於て不審多々なり、興師の尊意を案ずるに遺状は定めて一人に賜ふべし、若し両人に下さるれば異論の根源なり争か此の義有らんや、若し爾らば一方は偽書顕然なり、妙師遺状に就て数多の不審有り中に第一には文章野卑なり故に興師の筆跡に非ず、末弟妙公を尊敬して興師の付弟と称せんと欲する故に書ける者か、二には富士本門寺とは興師滅後に喚はる処の寺号なり、額は大聖人の御筆跡なり、然らば高開両師の本意、国主の帰依を受けて富士山に三堂を造立して額を本門寺と打つべし、是れ両師の本意の故に御在世の時は重須の寺、大石の寺と云つて寺号を喚ばず、古状どもに其趣き見えたり日澄の遺状等をも見るべきなり。
相伝へて云はく中比甲駿不和の時駿兵甲武に籠めらる、此の時重須の衆徒密に書状を通用して駿兵無事に皈ることを得たり、其の時褒美として今川家より寺号免許の状を日国に賜ふ其の文に云はく「日蓮聖人より的々相承●に本門寺の寺号の証文等何れも文証明鏡の上は領掌相違無き者なり、仍て状件の如し
永正十二乙亥年六月廿六日 修理太夫在判本門寺日国上人」

(私に云はく永正十二年より延宝五年に至るまで百六十二年か、而れば寺号をよぶ事重須日国西山日出已来ぞ)。
然れば日国已来書ける者か、西山も双論の家なるが故に日出日典已来亦本門寺と云ふなり。
問ふて云はく日興の御代本門寺と謂ふ其の証拠御棟札是れなり、其の文に云はく法華本門寺根源と云へり何ぞ疑を生ぜんや、答へて云はく此の文を以て重須本門寺の証と為すは誤なり、其の故に此の棟札は未来の棟札なり、其の故は国主此の法を立てらるる時は三堂一時に造営すべきなり已上、此の文之れを思へ、況や亦澄師遺状●に日代状は本門寺建立の時なり(已上下に之れを出す)、凡そ額を打つ事、日本通同にして山門には山号の額、本堂には寺号の額、御影堂には祖師堂の額、を打つこと是れ天下一同の義なり、惣じて富士は唯一ケ寺なり各別の寺と思ふべからず、具に日目の下に之れを出すが如し。
次に本門寺根源の事、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり若し爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり、若し重須に此の御筆有るが故にと云は●二ケの相承今他寺に在り彼の寺を指して本門寺と云はんや、愚案の至極、道を論ずるに足らず。
三には日妙上人と云ふこと永仁六年、日妙十四歳、延慶三年廿六歳なり、此の年の本尊に猶日号を許されず何に況や十四歳の新発意に上人号を授けらるべけんや年代之れを思へ、若し救して正中元徳に授けらるる故に後を以て初に望んで爾か云ふとならば初の日興判は謀判か。
四には西国卅一国法華頭領等とは日仙何つ比讃州に上洛し何つ比高瀬大坊の別当と作るや、凡そ日仙讃州上洛の事建武元年日仙、日代、問答以後の上洛なり、其の間は日華、日乗土州と讃州に有るなり能く之れを勘ふべし。
五には付属の次第乱る故、今文に代妙目仙満と列ぬ是れ新本混乱するなり、代師遺状の如き日目、日代、日仙等と云へり、彼れを以て之れを案ずるが故に不審有り。
六には三堂本尊とは板本尊、生御影、垂迹堂本尊と云ふ事か、若し爾らば板本尊とは日興、日目已来相続して而も大石寺に有るなり、垂迹堂の本尊は是れ日目御相伝にして今房州妙本寺に在り天王鎮守の神ひと云ふは是なり(日濃の代に至つて井上河内の守に取らる)。
問ふ本尊所々に有りと雖も、日妙付属に於て妨げ無し其の証拠は高祖本尊を日興に付属して譲状有り高祖の御筆なり、其の文に云く「日興上人に之を授与す此の本尊日蓮の大事なり日蓮在判」、裏書に云はく「日妙に之を授与す、正中二年十月十三日、日興在判」と、既に三堂本尊日妙に之を授与する明鏡なり誰か之れを信ぜざらん、答ふ裏書を以て正と為さば日国、日耀、日出等大妄語の悪人なり、其の故は右諸師万人に対して日代擯出の旨を説き諸師の口伝を聞いて之れを記録し世に流布す若し三師の口伝を本とせば裏書は謀判謀書なり能く糺明せよ。
七には白蓮阿闍梨とは有職を遊ばさる久遠寺離散の時分の書状等には之れ有り、日目、日代付属遺状数通の中に終に遊はさず、六十已前は有職有りと雖も六十已後には全く之れを書く事無し。
八には本御影堂の本の字尖り言葉なり日本一州に於て誰か正御影に非らずと謂はんや、他門徒既に深信を致す況や自門に於てをや、爾るに今本御影堂と云へる事甚た穏便ならざる言葉なり。
九には廿七年行学とは日妙何つ比より興師の座下に詣りて何つ比より行学せらる●を廿七ケ年と謂ふや、若し廿七ケ年の言葉に就いて之れを論せば日妙十四歳、已後行学して正中二乙丑四十一歳なり、然るに妙公廿六歳日華の弟子にして甲州に在りと云ふは虚説たるべし、奈何ん。
十二には日代判を以て証人として書写し畢ぬとは若し日代の加判治定ならば末弟三百余年彼の遺跡を相論するは代師の誤なり、若し謀書ならば罪過日妙に有り、斯の如く不審有るが故に妙師遺状は信用せざる所なり、況や給の字備なり、供なり供給なり、亦守護とは正付属に非ず旁た信用し難し。

日亳伝

日助伝
釈の日助は興師外戚の一類日善、日代の甥なり、若年にして出家し興師の弟子となる。稚名は帥房、有職は大進阿闍梨院跡は西坊なり、新六人の最末に加へらる、正中二年乙丑八月廿四日本尊を日助に授与す(此本尊今重須に在り)。
又暦応三年八月には日善、日代、日助一同に奏聞を経らる、日代重須擯出の時分は日代大石寺の藤木坊に居住し日善、日助は南之坊に居住す、又伊豆国吉田に一宇を建立す今の光栄寺是なり爰に於て不退に勤行し給ふ、其の後元徳二庚未二月廿四日の授与書に云はく「公家奏聞代官丸大進坊日助に之れを授与す」、此の本尊予之れを求む、爾りと雖も又元の寺に帰すして今柳瀬実成寺に之れ有り、河合の妙光寺と東光寺は由井一家の菩提所なる故に日禅住持し給ふ、元徳三年三月十二日日禅終焉の後は日善住持なり、されば興師の本尊に「由井大輔阿闍梨日善に之れを授与す元応三辛酉二月廿八日日興在判此の本尊今当山に在り、永徳四辛酉年三月十九日、日代に七年先き立つて御終焉御一家皆長命なり、又重須にも日善授与の本尊あり年号は元享三年癸亥なり、又日助授与の本尊に云はく「箱根帥房の母に之れを授与す」年号は嘉元三乙巳なり、河合妙光寺と東光寺とは同寺なり、故に日善、日助二人此の二ケ寺に住し給ふ、元徳三年に日禅遷化の故日善東光寺に移り住し給ふ、此の年二月廿四日悲母妙福の一周忌の故に自ら本尊を書写し日助に之れを授与す、其端書に云はく「悲母一周忌の為め書写の如し」、日善は至徳元甲子年三月十九日御遷化なり御歳九十三歳、日助は嘉慶元年丁卯正月十二日御終焉東光寺に住し給ふ事纔に四年なり。

本六人御番並に坊地の次第
西大門
一番白蓮阿闍梨 二番少輔阿闍梨日禅
三番理境坊日秀 四番上蓮坊日仙
五番寂日坊日華 六番越後公日弁
東大門
一番蓮蔵坊日目 二番伯耆坊日道
三番蓮仙坊日乗 四番久成坊日尊
五番蓮東坊日蔵 六番松野阿闍梨

日道以後は日乗を頭と為して日郷等松野宮野の替り目其外別無し、右目録、日目、日郷、日時三師の自筆之れ在り。

新六人の次第御番次第亦此くの如し。
一日代 養運坊是れなり。
二日澄 学頭弟子日順之れを相続す。
三日道 行泉坊、舎弟日運之れを相続す。
四日妙 御番衆に非らざるか、其の故は甲州蓮華寺に引き籠る故なり、院跡も未だ分明ならず故に御番衆に非ざるなり。
五日亳 大窪本妙寺(興師御自筆あり)。
六日助 大進坊、西房。

是興師御在世の時の次第なり、御入滅の後は日代出山以後は第一学頭、日澄、第二日道、以後次第前に同じきなり。
亦別に一日澄、二日亳、三日道、四日代、五日助と列する次第有り、是非を知らざるなり、又澄、道、妙、代、亳、助、或は讃岐公日源、刑部公日済を加へたるあり能く糺決すべきなり、其の時には澄、道、代、源、助、妙と列ねたり追て考ふべし。
                   日精判

編者曰く正本無きが故に(正稿本は少しくあり)良師本、宥真本、慈来本等に依て此を写校す、他は上巻に書けるが如し。


05-225 富士門家中見聞下 目録
大夫阿闍梨日尊 宰相公日印
本覚法印日大 宰相公日郷
三位公日順 和泉公日法
越後公日弁 実相寺縁起
宮内卿日行 日時已下代々十七世盈師に至る
三衣等の事

05-226
富士門家中見聞
日尊伝                                     釈の日尊、父は奥州玉野(玉野は地名なり此地を領する故に玉野と号するなり)、誕生は文永二(乙丑)年、幼少にして天台宗と為る、今に玉野館を国司舘と号す、彼の地に於て天台山有り昔は三千八百坊有り是れ日尊出家の寺なり。
生死の一大事を祈る為に伯瀬の観音堂に参籠する一百日なり(三迫の内に於て伯瀬の観音を勧請するなり)、百日満る夜夢らく一老僧、師に告げて言はく汝宜しく南方に往くべし必ず知識に値はん、夢覚めて悲喜し即南方に往く、時に(三の迫の中の六町の目に至る三の迫の西に於て里あり森と名く、森を去り丑寅に往く三里斗り玉野に至る、又森を去り丑寅に往く一里可り六町の目に至る、六町の目を去り丑寅に往く一里可り新田に至る、新田を去り丑寅に往く一里可り玉野に至るなり、此の諸里三の迫の中に在るなり、然に六町の目は未の方に当り玉野は丑の方に当るなり云々)、此に於いて南無妙法蓮華経と唱ふる声有り、声を尋ねて赴けば此れ則地頭颯佐高矢蔵に登り之れを唱ふ(天文此の下総に武士有り颯佐と名く)、師問ふて云く世間の中に妙名を唱ふる人無し汝何ぞ爾るや、颯佐答へて云はく今我か家の中に比丘有り名を日目と号す仁者当に論議すべしと、師則ち日目に値ふ日目説法し目公の弟子と為る、時に弘安六年仲秋十三日なり、是れを以つて日尊の実録に云はく文永二年(乙丑)誕生、弘安六年癸末八月十三日奥州三の迫六町の目の地頭の所に於いて日目上人に値ひ奉り初めて経文を聴き即時に信仰受法し結ふ行年十九歳(文)(日尊実録一巻弟子日大の自筆今泉州調御寺に在り)、則日興三十六歳、日目二十四歳、日尊十九歳蓮祖入滅の翌年なり。
明年弘安七(甲申)年、師、目公に従ひ甲州身延山に登る時に五月十二日なり、同年十月十三日始めて日興上人に値ひ奉り御影堂に出仕す蓮祖第三回の追薦に値ひ奉るなり、日興身延を出で大井に移る時に正応元年元年なり(十月十三日已後の出山なり)是蓮祖入滅弘安五年已後第七廻に当るなり、正応元(戊子)年十一月五日より波木井六郎書を日興に奉じて再住を請ふ、其後波木井入道直に書状を捧げ(八度合て八通なり)復住を請ふ、然るに波木井実長に三箇の謗法有り故に身延に還住せず、大井より河合に移り次に下の坊に住す、正応三年より大石寺に住す、永仁六(戊午)重須に移り同年二月十五日に日蓮聖人御影堂を造立し奉る、是れより来た日興一人の壇那を見ても喜んで説法を作す(永仁六年日尊三十三歳)、永仁六年より正慶二年(癸酉)に至るまで合せて三十六年なり。
日興説法の時、深秋に値ふ堂を去って戌亥に往く十四五丈許り梨樹有り秋風の為に吹かれ其の葉乱落す、日尊之れを視る日興之を呵責して曰はく大法を弘めんと欲する者、説法を丁聞し違念を起して落葉を見るべき謂れ無し、汝早く座を立つべし(云云)、(永禄二(己末)年二月、日辰日玉日住等と彼梨樹を見る、先年大風の為に吹かれて倒れ亥の方に向ふ、僕従斧を執て之を切り残り、五尺可り囲み三尺許其木皮皆剥落して白く亦朽たり)、師東西に往返し西は芸石を限り東は外が浜に至り法華を弘演す。
其の中に雲州馬木安養寺は最初建立の地なり、其の先堂に弥陀の像を安置す師即其の像前に於いて日興書写の本尊を懸け説法す、馬木一門受法し安養寺を以て法華弘通の道場と為す、逆即是順の義を顕すが為に本名を改めず尚安養寺と名く、師仏像に至つては或は他宗に与へ或は山の峯に草堂を結び之を入る、爰を以て興上卅七箇条法度の中の第十三ケ条に云く、他宗法華宗と成る時、本と持つ所の絵像木像並に神座其の外他宗の守り等法華堂に納むべきなり、其の故は一切の法は法華経より出てたるが故に此の経を持つ時、亦本の如く妙法蓮華経の内証に納む(文)、蓋し此れに本つくか。
亦石州邇摩群太田の法蔵寺門前に大なる岩あり、日尊常に此の岩の上に居して祈念し給ふ、其の岩窪みて穴をなせり、此の岩を訴訟石となづく、爰に於いて日興勘気の赦免を祈念し給ふ故に爾か云ふと(云云)、又門前に日尊の手懸石とてあり、其の石に日尊と云ふ二字を自筆に書き給ふ幾度すりても消えず、此の説を聞いて当地頭加藤式部の亟此の二字を削るに下になる程弥々文字明なり、又法蔵寺門前左の方に大木の椎あり式部引物にせんとして所望す、坊主許さず地頭是非無く之を切る、斧二つ三つ打つに此の木より血流れ出づ、此二の不思議に驚き切らずして今にあり、之に依つて式部殿より寺を建立してすて子と云ふを施主とせり。
又下野国に於て下奈須有り(奈須野原の東を下奈須と名くるなり)、此に武士あり稗田と名く(稗田は奈須与一の一門なり)、稗田の郷に百姓有り師弟子三人と百姓の家に入り一宿を借る、日尊宿主に問ふて云はく此の地頭何の芸能を好むや、宿主答へて云はく雙六を好む、然るに稗田狷狂にして深く法華を嫌へり、若し告げずんば後必ず難に逢はん、則ち入り告げて云はく我か家に於て法華僧四人有りて宿す稗田云はく法華僧には目有りや鼻有りや、百姓報じて云はく高僧か、稗田云はく願はくは四僧を見ん、翌日師三人を将いて入る、稗田云はく仁何の芸有るや、師答へて云はく我れ雙六を好む、田大に喜ひて云はく之れを打つべし、師負けて三僧の笈の中より各負くる時に以て筆墨扇子を与ふ、田、馬麦の如きの麦飯に渋柿を以て擣て汁を出し飯汁と為して進む、日尊手を拊つて称歎して言く仁は大智者なり我か所愛の食を知つて賜ふと、師皆之を尽す、稗田喜悦す(云云)、師為に説法し稗田受法す是れより已後、後園の柿の味淡して渋からず故に今に相伝へて咸な日尊醂柿と云ふなり、見聞の諸人云はく日尊は是れ権者なりと。
又同国(下野国)に里有り石田と名く、師、石田に於て寺を立つ日興授与の本尊に云はく、「奥州新田郷公日目の弟子玉野太夫房流石田播磨阿闍梨日賢に之を授与す。」
又師奥州に至る時土湯に入る(土湯は福島の南阿隈川の近所なり)。又沢尻と云ふ者之れに入る、沢尻一指を挙げて坤を指して云はく我か家彼の方に在り仁宜しく来るべし、師即往至し逗留百日して寺を立つ今の一円寺是れなり、(沢尻は懸田の一家なり、此寺の所在は、伊達郡の内小手郷竜子山村なり)松尾山一円寺の列祖は日尊、日俊、日淵、日満、日朝、日行、日伝、日敬、日通、日貞、日忍、日祐、日光、日運、日東、日求、日定。
開山、師と会はざる十二年の間、毎年重須の門前桜木の下に来って遥に御影堂等を敬礼す、桜木二本有り是れを二本桜と云ふ、麁見の時は一本は坤に有り、一本は艮に有り、能く之を熟視すれば倶に路の東に在り(中大門の路の東なり)、一本は南に在り此の木日尊の時之れ無し巳後之を植う、一本北に在り今に相伝して笈懸桜と云ふ、日尊自ら笈を以て之れに懸く、其の桜木の図、余所の如きなり、日辰永禄二(乙末)年正月十四日、日住、日玉と倶に樹辺に至り之れを図す、樹下の乾に石有り大さ三尺斗り厚さ一尺許り形三角なり之を笈懸石と謂ふ、日尊笈を以つて此の石上に置く故なり(今此の石重須堂前の南庭の上に在り)、開山、日尊を哀愍し人をして竹皮の円座を石の上に敷かしむ、其の上に竹の子笠を置く、日尊此の円座に処して赦免を請ふ(此因縁に因て今に大石寺に於て竹子皮の円座を敷かざるなり)、日興許さずして多年を経たり、日尊東西に徘徊する十二年の中、三十六箇寺を建立す、亦重須に帰り赦免を請ふ日興大に喜び一度に三十六鋪の本尊を日尊に賜ふ、開山一年正五九月、日尊の祈祷を為し合せて三十六鋪を書写する是れなり、三十六箇所とは雲州安養寺(住本寺に附くなり)丹波の上興寺(上行寺に附くなり)下野稗田、石田、小薬浄円寺、下総幸島富久成寺、武州久米原妙本寺(大石寺に附くなり)奥州若松実成寺、一円寺、妙円寺(要法寺に附くなり)なり。
然るに日興一百六箇本迹血脈書を以て日尊に付属して云はく、右件の口決結要の血脈は聖人出世の本懐、衆生成仏の直路なり、聖人御入滅程無くして聖言朽ちず符合せり恐るべきは一致の行者、悪むべきは師子身中の蝗蟲なり、建治三年(丁丑)八月十五日、聖人言はく日蓮が申しつる事共、世出世共に芥爾計りも違はば日蓮は法華の行者に非ずと思ふべし(云云)未来世には弥よ聖言符合すべきなりと之れを覚知せよ、貴し貴し(云云)、設ひ付弟たりと●も、新弘通所建立の義無くんば付属を堅く禁むる者なり、然る間、玉野太夫法印は王城の開山、日目弘通の尊高なり、華洛●に所々に上行院建立有り(云云)仍て之を授与するのみ、正和元年(壬子)十月十三日日興、日尊に之を示す。
此の文章に就いて不審有り正和元より暦応元までは廿七年なり、然るに此の文に王城の開山(云云)是れ信じ難き第一なり、日尊御勘気は正安元年なり是より十四年めなる故に赦免の後の付属なり、正和元年(壬子)は日興六十七歳日尊四十八歳なり此の付属を受けて後廿七年に至り暦応元年四月十一日平安城に着き即奏聞す、翌年に上行院を建立し給ふなり故に難信の第一なり、若し鑒機の語なれば有り難し程無く符合を為す権者の所作凡慮の及ばざる所なり。
上行院に住すること七箇年、即七箇の条目を記す。

日尊遺誡の条々
一、修学の道は釈門の有なり殊に当宗に於ては大法を弘むる間、八宗の章疏を窺ひ一代の経論を尋ぬべきなり、爰に祖師門迹の中に初心末学の輩或は天台の教観に携はり或は諸宗廃立を習ふ、然りと●も弘通の籌策を忘れ還つて他宗の潤色を添ふ、是れ則五段の相伝に暗く一宗の奥義を尽くさざる故なり、仍て日尊か門人等先つ自宗を極めて他宗に交るべき事。
一、上行院は日尊一期の弘通の終り最後鶴林の砌りなり、若し住持の僧侶無くんば寺家破壊の基なり、仍て都鄙僧衆等の番々の次第を守り止住の志を励み香華等を捧ぐべき事(在京の日月随宜に計ふべし。
一、門徒の中、其の外の少生入学せしむるに於ては尤興隆と謂つべし、但し其の身法器に非ずんば出家の段斟酌有るべし、若し別義有つて出家せしむるに於ては子細有るべし、時の宜きに随ひ相計らふべき事。
一、門徒の僧衆中資縁無きの輩に於ては器量の堪否を糺して御扶持有るべきなり、但し学功積らずして有智の誉を望み給仕幾はくならずして高行の思を企てん、是れ則無慚無愧の耻を懐き自利利他の益を失ふ者なり、尤も選択すべき事。
一、所々恒例の供養物等に於ては僧徒に仰せ付け慇●に取沙汰せらるべし、其の外所受供物に至つては惣別に付け上分に捧ぐべし、若し爾らずば別請と謂ふべし、聖教の誡め尤も謹慎すべき事。
一、都●門徒の俗男俗女、出家の儀を所望せしめば委細注進すべし、設ひ殊なる子細有り出家せしむと●も戒名に於ては追つて上より申し請くべき事。
一、僧徒の淑行は戒律を以て先と為す身に忍辱の衣を着け心に慈悲の思を懐き、何に刀杖弓箭を帯すとも外儀内心に違ふべけんや、但た経教の戒のみ非ず律令格式の文炳焉なり但し遠行の時夜陰の間寺中を警固し、其の身を全うせん為に刀杖を持たん者は制の限りに非ざるか、道場に入るの時衆中に交る程は、顕露に刀杖を横たふるの条甚た無用と謂つべき事(已上)。

日尊八十歳康永三月日印を以て付属と為す、其の状に云はく、「宰相禅師日印に授与す。本尊一鋪(日興上人御筆正応三年正月十三日)
大聖人御影一鋪
右付属として授与する所件の如し。
康永三年(甲申)六月八日 法印日尊●」(日辰云く御判形此の如し)。

御逆修の石塔を立てらる、首題は自筆に書写し給ふ。
日尊御遷化は貞和元(乙酉)五月八日卯日寅刻なり御年八十一歳なり、興師滅後十三年在世也。

日蓮聖人の門弟日尊誡惶誠恐謹んで言す。
殊に鴻慈を蒙り天恩を降され爾前迹門の謗法を破却し法華本門、妙法蓮華経の五字を興行せられ貴賤の妄輪を改め、華夷の災難を退けんと請ふの状。
副へ進ず
一巻 立正安国論(文応元年先師日蓮聖人勘文)
右仏法は王臣の帰敬に依つて威光増長し、王法は仏法の擁護に依つて国を治め民を吏 さむ(云云)、抑釈迦一代の説教、正像末の三時、五箇五百歳の間流布の次第有り、爾前迹門に於ては巳に時を過ぎ訖りぬ、今時に至ては更に仏徳有るべからず而るに諸宗の学者此の旨を知らざるか、所以は何ん仏閣稲麻の如く僧侶竹葦の如し之を祈り之を行すと●も敢て其の効験無し、弥よ四海の讐敵の浪高く倍す国土衰弊の風繁し、嗚呼悲しいかな、国に邪法興行有るに依つて天下攪乱せしむ、仍て衆人悪心に堕す、世乱るれば則聖哲馳驚すれども叶はず国収まる則は庸夫高枕するも余り有りと、国土の衰乱人民の滅亡先規更に比類無し争か驚き御沙汰無からんや、早く叡慮を廻らし速に謗法を●て置かれんと欲す彼太公の殷国に入るや西伯の礼に依り、張良の秦朝を量るや漢王の誠を感ぜりと、皆時に当り賞を得、而して当世御帰依の仏法は世の為の人の為め其の益無きの条顕然なり、所詮彼の万祈を至すより此の一凶を留めんには如かず、経に云はく仏法は王臣に付けて弘むべし更に僧衆の力の及ぶ所に非ず、故に政道乱れば則ち諸天怒を成し仏法乱れば則ち仏使世に出づ(文)、他国は且らく之を置く、和国に於ては四箇の賢人有り之れを諌め申すと●も之を許容せられず、剰へ流罪に所せらる、直縄は狂木の憎む所なり正務は奸人の愁ふる所なりと是れ其の謂ひか。
爰に如来滅度の後、々五百歳中の御使として上行等の四菩薩を召し出し末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し、一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属す、仍て日蓮大聖人生を末世に受け粗此の名題を告げ触れしむ、貴賤猥しく邪論を成す緇素頻に之を怨嫉せしむる間、終に以て早聴に達せず空く歳霜を送り詩畢ぬ、所謂威音王仏の像法の末、不軽菩薩は杖木瓦石の難に当り、今釈尊の滅後末法の中に於て涌出の菩薩は正法を弘通せしめば三類の強敵有るべきの由経文に分明なり、如来現在猶多怨嫉況滅度後と(云云)、倩ら此れ等の説相を思ふに先師聖人一々に此の文に相当す然らば上行菩薩の再誕誰か疑を成さんや、其れ未萌を知る者は六正の聖人なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、随つて当世の風躰を見るに正を捨て邪を仰ぐの故に、上み梵釈二天、下も堅牢地神惣じて大小守護の善神等、無二無三の法味を甞めず勢力を失ひ嗔恚を成す国土の加護無し、仍て三災七難並び起り四海静かならざる併ら謗法の御帰依に依る者なり、内外典共に定め置かるる所以ん忝く符合せしむる者か、然らば早く爾前迹門の謗法を棄損せられ法華本門の正法を崇敬せられば諸災退散して国土興復せんのみ。
然れば則ち仲尼化を万民に施し終に鳳毛五字の徳化を彰す、釈尊法を衆生に説く盍ぞ麟角一実の妙法を信ぜざらん、今日尊師命を稟け争てか天下の乱を悲まざらんや、且は仏法中怨の難を顧み九牛の一毛を勒すと●も末だ奏達せず、年齢巳に鳩杖に及んで旦暮を期し難きの間泣く泣く短状を捧ぐ、是れ更に私を存せず只併ら世の為め君の為め一切衆生の為めなり仍て日尊誠惶恐謹んで申す。

予寛永四(丁卯)十月十日下総国幸島下向の節之を書写す文字損落之れ多し視ん仁之を計れ。

祖師伝の中に伊豆六ケ寺の事、日尊直の建立にはあらず若松実成寺の末なり、故に今は別に之を出す、奥州若松久遠山実成寺は日尊第三の建立なり此の故に正安年中なり、此年より日印住持し給ふ、日印に二人の弟子あり日実は会津に住す、日要は富士に移り後に杉田に庵室を結び此に於て終焉なり、日要の弟子日源、延文康安の此吉田の光栄寺に住すること一両年、其の後貞治元壬寅天同郷本源寺を建立す、其の時までは本弘寺と申しけり、是れより以後中法寺に高祖の御影を立て奉る柳瀬の東光山実成寺建立なり、一両年の内に又本源寺に帰て爰に於て入寂なり、日出日典三代共に本源寺にて死去の故に此の三代西山の住持をも勤め給へり、此の故に西山と通用せり、然れども今は大石重須に通し一片にかた落ちず無本寺を立る故なり、代々は日目、日尊、日印、日要、日眼、日出、日典、日相、日経(或は教)日迦、日乗、日運、日顕、日然と列するなり、或る説に日迦の代に柳瀬の実成寺に移ると云ふ説あり、所詮年序経歴分明ならざる者なり、実成寺、本源寺、妙泉寺は皆日源の建立なり、尊師御入滅の後廿年余以後の寺どもぞ。

次第
第一(わらぼ)、妙泉寺(日源建立)
二(うさみ)、行蓮寺
三(川奈)、蓮慶寺(日運建立)
四(吉田)、本源寺(日源貞治元(壬寅)年建立なり入寂地)
五(すけひき)、本成寺
六、妙安寺(日迦)
日尊御入滅の後十八年目に本源寺建立なり、日要若松実成寺より所持の道具高祖御筆本尊三鋪(今はなし)日尊笈の中の御影一体金字法華経なし鰐口、此の内御影とわに口と斗り之れ有り。
下総国幸島富久成寺、日尊、日朝(加賀侍従公)、日慈、日応、日広、日円、日了、日鐃、日定、日鏡、日泰、日通、日芳、日映。


日印伝
釈の日印、俗姓は三浦、名は宰相阿闍利と号するなり、奥州会津黒川実成寺に住す、康永三年六月八日日尊の付弟を受く、同七月十七日書状を奉して西山日代上人に疑問を捧ぐ、其の状に云はく「畏つて申し上げ候、抑去年の秋の此より東国辺に居住候、故上人の御廟所を拝見し奉らん為に必ず参詣すべきの由相存じ候の処、師匠にて候老僧大事の所労とて此の四月頃態人をたびて候の間、老躰の上殊更心元無く存じ候て如何にも存命の中にと志し上洛候の間、参拝に能はざるの条、返す●●恐れ存じ候恐れ存じ候。
一、粗聞し食され候覧、当院仏像造立の事、故上人の御時誡め候の間、師匠にて候人仰せられ候ひ畢ぬ、今は造立せられ候の間不審千万に候、此仏像の事は去る暦応四年に有る仁の方より安置候へとて寄進さしめ畢ぬ、教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候、仍て大聖人御立義に相違ひたる疑ひ少なからず候、爰に富士御門流とも出家在家人来つて難じて云はく凡聖人の御代にも自ら道場に仏像造立の義無く、又故上人、上野上人の御時も造立無きにや、随つて本尊問答抄に云はく天台云はく道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置せよ、亦未だ必ず須く形像舎利●に余の経典を安くべからず唯法華経を置け(文)、同抄に云はく法華の教主を本尊とするは法華経の行者の正意にはあらず(云云)、之れを以て思ふに形像を本尊に立て置くべからずと見えたり如何、答て云はく妙法の首題は十万三世の仏陀釈迦多宝の本尊たるの間形像を置立すべからざる事勿論なり、観心本尊抄報恩抄の如きは閻浮提第一の本門の本尊の躰為らく宝塔の内に妙法蓮華経の左右に釈迦多宝外上行等の四菩薩乃至一切大衆尽く造立する由見えたり此等如何、又四教果成の仏の中に円教果成の仏は虚空為座の塔中の釈迦、就中大聖人の三ケの大事の一分なり、故に宝塔末座の立像は高祖の御本懐に非ず、爰本には疑難来るべし一向に仏像造立有るべからざるの難実に一辺の義なり、所詮料足微少の間、宝塔造立に能はず、其れまで先四苦薩計を造り副へられ大曼茶羅の脇に立て奉り候なり、縦ひ遅速不同有りとも御書の如く造立せしむること決定なり。
爰に愚案を廻らして云はく末法流通の行相は折伏を以て表と為し摂受を以て裏と為す、先づ権経権門の僻案を推却し、次に像法所弘の迹門は時刻不相応と難破し、末法弘通の結要付属を立て候はんこそ大聖人の御本意にて候へ、今仏像造立摂受の行然るべからざるか、観心本尊抄撰時抄の如きは西海侵●難の時、上一人より下万民に至るまで妙法五字の首題を唱へ奉り高祖聖人に帰伏し奉り候はんと見えて候へば其の時御本懐を遂げられ本門本尊を立つべし、造立の後は国中乃至他郡まで一同に三箇の大事皆以て流布せん、就中本門本尊をば建立有るべし、其れまでは公家に奏し武家に訴へ申し候はんこそ折伏にては候へ、是の如き所存の候程は嘆き申し候、師匠にて候人、壮年の古は四方に鞭を挙げ謗法を呵責し老躰の今は主師親本門本尊造立を見奉り度望念にて候へば此くの如き御義只山林巌窟に隠居するに非ず摂受の行と申しながらも、さのみはくるしかるまじきか、相構へ々々へ遺弟等身命の及ぶ限りは弘通候へ摂受の行有るべからず。
又大聖人御代には富木の禅門造る所の仏像、日眼女の像る所の二躰三寸の釈尊皆御開眼供養候ひ畢ぬ。
爰に猶私に案じて云はく是れは在家人にて候出家の例に非ざるか、此丘僧と成つて身命を抛ち謗法を強毒し先師の本懐を遂ぐべく候か、爰を以て摂受の行を御誡め候けるやらん、所詮伝説に云はく大聖人御記文に帝王御崇敬有て本門寺造立の以前に遺弟等曽て仏像造立あるべからず(云云)、故上人も前に同じ(云云)、実義何様候や生替の身にて候へば先例存知し難く候、然るべくは御芳志を以て進覧する所の状の趣、御法門少々示し給ひ候はば畏れ入るべく候、此の事実事に候は●御記文を下し給ひ候て疑網を救ひ弥よ信心を増し形の如く弘通を仕り候はばやと相存じ候、委細の旨、此の僧申し上ぐべく候、此の旨を以て御披露有るべく候、恐惶謹言。(興師入滅後十二年めの状なり日尊存生の内なり)。
康永三(甲申)七月十七日 日印(在判)
予竊に日印の書状を窺ふに云はく暦応三(庚辰)年、日尊六角上行院に於て新檀那奉上の立像の釈迦十大弟子を立つ、日印之れを見畢りて奥州黒川実成寺に下着す、而して年を越すなり、康永三(甲申)年四月に日尊、使僧を差し下し日印の入洛を請ふ日尊時に八十歳なり、先年暦応三年五月中旬(日尊七十六歳上行院に在り富士諸流の異議を伝聞す)、一河合人々の義(云云)、一上野重須一同の義(云云)一浄蓮阿闍利日仙の義(云云)、一仰に云はく(法印日尊)弟子日大之を記せんと欲する発朝の句なるが故に仰せに云はくと之れを書く、此の一巻の末に五種の箇条を挙ぐ、其の中の第三に云はく一久成の釈迦造立有無の事、日興上人仰に云はく末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬●り有り、香華燈明の供養叶ふべからず、広宣流布の時分まで大曼茶羅を安置し奉るべし(云云)、尊仰に云はく大聖人の御代二ケ処に之れを造立し給へり、一ケ所は下総国市河真間富木五郎入道常忍みぞ木を以て造立す、一所は越後国内禅浄妙此丘尼造立して之有り(云云)、御在生二ケ処なり、又身延沢仏像等は聖人没後様々の異議之れ有り記文別紙に之れ有り(云云)、惣て三ケ処之れ有り此れ等は略本尊なり但し本門寺の本尊造立の記文相伝に之れ有り(云云)、予が門弟相構へて上行等の四菩薩相副へ給へる久成の釈迦の略本尊、資縁の出来檀那の堪否に随ひ之れを造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり(文)、然らば則ち日大、立像は是れ日尊の本意に非ずと覚知す、日印は東国に在り上洛の次でを以て之れを日代に告ぐるなり、日代末だ日尊の本意を知らず蓮祖遺言の故事を挙げ以て日尊一旦の義を破するなり。
西山日代上人より日印に賜ふ御返事。

末だ見参に入らず候の処此くの如く承はり候条返す返す恐悦無極に候、抑御尋に付き所存注し申すべし、大聖日興上人の御意、御書等に顕然に候の間末学自立の了見中々に存じ候、此の如き事御遷化以後定めて出来すべく候かの間、兼日の御置文遺誡等明白の処、門徒一同御違背候の間、大聖御法立の次第故上人御真筆等棄て置かるる事返す無念の事に候、但御弘通の趣き今の如くんば所存同じ申すなり、中に仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰依の時、三個の大事一度に成就せしめ給ふべきの由の御本意なり、御本尊の図は其れが為めなり、只今仏像造立過ち無くんば私の戒壇又建立せらるべく候か、若し然らば三井の戒壇尚以て勅裁無し六角当院甚た以て謂れ無き者なり、大聖以後は遺弟等仏法の訴人なり、本師未た居所を定めず末学寺院●に僧綱に昇進するの事両上人の御本意に非ざる事なり。
一、池上御入滅の時御遺言一巻 六人在判。
御所持仏教の事。
仏は(釈迦の立像)墓所の傍に立て置くべし(云云)。
経は注法華経と名く。
六人香華当番の時披見すべきなり、自余の聖教の事は沙汰の限に非ず(云云)、仍て御遺言に任て記録件の如し。
弘安五年十月十六日 (執筆)日興
此の事一躰仏、大聖の御本意ならば墓所の傍に立て置かれんや、又造仏過ち無くんば何ぞ大聖の時此の仏に四菩薩十大弟子を副へ造られざる、御円寂の時彼の仏を閣き件の曼茶羅尋ね出され懸け奉る事顕然なり勿論なり、惣じて此くの如き事等御書始末を能々御了見有るべく候か、二代の聖跡数通の遺誡豈虚からんや、此くの如き条々示し給ふ事恐悦に存じ候、向後に於ては申し承はるべく候由に存じ候、併ら面謁を期し候、恐々謹言。
八月十三日 五十一歳そ 日代(在判)
謹上宰相阿闍利御房。

謹で日代辺牒を案じて云はく大聖法立の次第故上人御直筆等棄て置かる事、無念の事なりとは、代公御遷化記録を指すか、彼の記録は故上人(日興)御真筆なればなり、日尊立像等を除き久成釈尊を立つる故記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事本門寺建立の時なりと然るに日尊本門寺建立の時に先たち造立仏像は是れ一ケ条の相違なり、罪過に属すべきや否やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦仏供養抄、骨目抄、唱法華題目抄等を以て之を決すべきか、若し日尊実録(日大筆)無くんば自門他門皆日尊巳に立像釈迦●に十大弟子を造立すと謂つべし、故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべきものなり。

日大伝
釈の日大俗姓は畠山なり、故に日尊授与に云はく右件の結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり、然るに畠山の本覚法印日大、佐々木豊前阿日頼は同位主伴の聖人なり、馬木、平田、東郷、朝山等在々所々に上行院之を建立せしむ、都鄙等に於て日尊数輩の学匠弟子之れ有り、然りと●も功力に依り之を付属す、王城六角上院の貫首日印、学匠惣探題日大、世出世の拝領●に中国西国等の貫主日頼と之を定め畢ぬ。
康永元年(壬午)十月十三日 日尊、日大、日頼に之を示す。
日尊は文永二(乙丑)年の誕生なり、康永四(乙未)年五月八日(寅刻)八十一歳京都六角上行院に於て遷化なり、然れば則ち右の付属は尊師七十八歳の御付属なり、日大付属を受け木辻に於て上行院を建立す、木辻とは西の京の西の小邑なり、日大自筆の本尊に云はく「平安城木辻法華堂上行院本尊」と今要法寺に在るなり、日大此に住して謹行を作す、西の京舎利堂の西に一尼有り、正月朔日寅の刻夢覚め木辻日大の読経の声を聞く故に直に座を起て家を出で声を尋ねて木辻上行院に入り受法を請ふ、師、法を授く名を改て妙諠此丘尼と号す、尼即山の内、鉢が坪の田(五段)を以て師に寄進し奉る、天文第四暦(乙未)正月に至るまで正月三ケ日の供養断へざるなり、師亦貞和の此、冷泉西の洞院に於て法華堂を建立し謹行断へざるなり、此に於て即身成仏口決一巻書写し給ふ、其の口決の奥書に云はく貞和二年(丙戌)九月廿九日京都冷泉西の洞院法華道場に於て之を記録し畢ぬ、其の後応安二(己酉)年二月十二日没し給ふ(已上)。
日尊日印大の三師の伝は全く日辰上人の祖師伝を書写する者なり、相伝に云はく日尊の付処の弟子は日印付属の弟子は日大と(云云)。

日郷伝
釈の日郷は俗姓は越後の大田なり、志学の此より学を好む、隣里に金津と云ふ仁有り常に屋棟に登て富士山に向て礼拝して題目を唱ふ、日郷童男たる金津に問ふて云はく何なる事を祈り毎日此の如くなるや、金津云はく我か帰敬する所の寺、富士の麓に在り、故に日々拝するのみ、郷公云はく我を行れて富士に往け我れ受法すべしと、金津喜んで日郷を具し富士に到り伊賀公日世の所に着く(今の久成坊是なり)、日世為に説法す日郷聞て深信の故、即弟子と作り出家し宰相と名つくるなり目師の座下に於て御書を聴聞し兼て法華の行学を習修す、目師法器たるを視て弟子と為し給ふ、亦重須に往詣して始て興師に見え、談所に出仕し論談決択するに利智精進なり、後有職を賜て宰相阿闍利と号す、是より結衆に列して重須に往還し給ふ。興師御入滅の後は目師に随順し蓮蔵坊に居住す、正慶二年十月下旬、日目天奏の為に上洛す日郷御共なり、美濃国垂井の宿にて御入滅なり、即茶毘し奉り御骨を京都東山鳥辺野に上せ奉る、其の後日郷は目師付属の御本尊以下取り具して富士に下向し蓮蔵坊に著き日目の御遷化を大衆に告ぐ、亦目師大石寺を以て我に付属す遺状之有るの由を告げらる、之に依つて大衆二に分れ両方貝鐘を鳴らし正慶二年十二月より建武二年に至る三年の間対論し三度の対決あり、終に衆を引て退出し給へり、日郷富士を出で鎌倉に至り弘通を為す、其の後房州に移り吉浜に妙本寺を建立す、篠生左衛門郷師の下向を喜び自身の屋敷を日郷に寄進して寺地と為す左衛門は吉浜に移り居住す、日郷は三谷の中央に御堂を建立して此処に於て不退に謹行し給ふ。
是より前き上総国加藤村に於て御堂建立有り本成寺と云う是なり、此れ日郷最初の建立なり、爰に於て五ケ条の法式を出し給ふ。

一名聞利養を先にし、仏法の修行を次にすべからざる事。
一酒宴茶会を好み虚く財施法施を受くべからざる事。
一俗姓の親類を近け、仏種の弟子を遠さくべからざる事。
一富貴の仁を重んじ、貧賤の族を軽すべからざる事。
一菅絃歌舞に携り、自行化他に障るべからざる事。
右狂慮を直し正法を存すべき者なり。
建武三年二月五日 玉扇●
日郷法師

第二番目は今の磯村の上行寺是なり、第三上総国の内、山中顕徳寺是なり、左近之亟と云ふ者聴聞して信仰し奉る故に此の寺建立するなり、然るに日郷冨士退出の時同心に出でらる人々皆保田に集り寺菴を建立するなり、茲に因つて役者を四種に分つ謂く衆頭、門徒頭、惣跡方、学頭方、是なり、衆頭とは大行寺是なり、門徒頭とは長狭遠本寺(日賢)是なり、惣跡方とは日向国松尾山本永寺(薩摩阿闍利日朝是なり)、学頭方とは同処の日知屋の定善寺(日叡)是なり、是の如く定め畢つて其の間弘通勝けて計ふべからず。
其の後康永四(乙酉)年三月奏聞あり、武家に訴ふる亦度々なり、興目両師滅後建武二年より以来四十三度の弘通、受法日日に新なり、御歳八十一歳にして法を中納言阿闍利日伝に付属し、永和二年丙辰四月廿五日御遷化なり。
日目上人より御付属状之れ有り(云云)、予未た之を見ず故に之を記する能はず但し実義は遺状之れ無し、諸人に深く思はせん為に有る由を風聞せり実義之れ無し、其の故は日目所持の本尊御書等取るべき為の手段なり、其の証拠は十八鋪の本尊●に御筆の御書三百十余、天皇鎮守の神ひ等其外の三筆の御聖教一字も残さず沽却し畢り皆他宝となる、是れは道心深からざる故か、又非理を表と為る故に本尊悉く紛失して之れ無し、無慙無愧の報ふ処是れなり、後代の仁、道心を専として修行するべきのみ。


日順伝
釈の日順は甲州下山の所生なり、誕生は永仁二(甲午)年なり、七歳にして正安二年冨木の寂仙坊日澄を師と為し出家す、其の時本迹問答の最中なるが故に鎌倉、身延、冨士、法門混乱す、然りと●も興師の弁説に当る者は破ぶられざるなし、是の故に日澄も終に冨士に移り給ふ、日順是より興澄両師の教訓に預る。
長大の後叡山に登り修学を為す三講の結衆に列り三大章疏を歴覧し法華の学行を謹修す、此の故に三千の衆徒中に秀いで三人の講師に撰ばる。
富士に帰り本門寺の建立を相待つ、然るに延慶三(庚戌)三月十四日澄公入滅す(時に十七歳なり)正和元(壬子)年大聖人の御影を図し奉り興上の披見に備ふ、日興嘆じて曰はく相似の分なりと書き付けて下さる(十九歳なり)、文保二(戊午)十一月廿四日大師講、重須談所に於て講談を至さるるの時日順表白を書せらる是れ重須談所の論議の始なり(廿五歳なり)、興師七十二歳なり。
嘉暦元(丙寅)八月本尊紛失の使節を遂げ同二年(丁卯)八月師の代官と為て奏聞す、日時自筆の五人所破抄の奥書に云はく「嘉暦三年七月之を草案す日順と」(云云)、此の本に云はく「日順自筆の本之を書写し奉る応永四年(丁丑)十一月日釈時之」、同年仲冬廿四日甲州下山大沢の草菴に於て用心抄一巻を制作す、其の外判摂名字の法門、形名種脱の相伝等。
元徳元(己巳)年師卅六歳にして眼病を愁ひ治術を加ふと●も滅気を得ず終に一眼を亡ふ、亦興師御入滅の刻再三の遺告有り之に依つて又重須に久住す、代公住持の時、事を眼病に寄せ下山大沢の草菴に蟄居して、本門心底抄を述作し給ふ観応元(庚寅)三月推邪立正抄を述す、此の年眼病を煩ひ両眼永く閉づ、然りと●も著述を廃する莫し、文和五(丙申)年八月十五日、念真推破抄を作る遠く聖教を離れて文字を見ざる十四年なり(学頭遺跡治部阿闍利日伝此年廿一歳なり)。
推邪立正抄の序に云はく貞和四年天仲夏五月の此冨士山の門徒大弐阿闍利と日蔵邪流の●倒日学と遠国土州に於て問答の記録有り(文)、之に就て立正抄は起るなり、御入滅等年月日時、追て書き加ふべき者なり。


日法伝
釈の日法、俗姓は下野国小山の住人佐野の嫡子なり、十八歳の時八月十五日の夜、親父傍輩を集て明月に向ひ酒を進む、日法酌を取り深更に及び少し居睡む父扇子を以つて其の鳥帽子を打落す、此れより発心して家を出で鎌倉に至り日興に逢ひ出家を望む、則ち許諾して蓮祖の室に入り出家入道し名を改めて和泉阿闍利日法と号するなり、日興を以つて小師と為す、能く細工に長ず常に高祖の髪を剃り給へり(已上日有師の説なり)。
彼の家の伝に云はく蓮祖文永十一、二月十四日赦免、之に依つて御帰りに信州佐野名字の家に一宿し給ふ、御教化に因つて先つ子息を御弟子に進らす其名を日法と号するなり(已上)(系図抄)。
師延山居住の砌り日法等の請に因り法華経の御講釈あり、日興又指南を加ふ(日法の書籍多は日興助筆なり)、日法冨士に移り給ふ時代は文永七年日弁と同時なり、日法は東方に弘通し給ふ、日弁日秀は熟原の弘通なり。
相伝して云はく日法檀越の請に因つて卒堵婆を書して沼津釜の段に立つ六十六部の聖り之を見て近隣の人に聞いて誰人の手跡ぞや、答へて云はく日法の御筆磧なり、又問ふ其の師は何処に住するや、答へて云はく其の僧未た帰らず檀越の家に有り汝往いて論議すべしと、彼の聖聞き詩畢りて尋ねて檀越の家に往き日法に値ふ、始めて法華を聞き即受法す、日法聖りを具して延山に帰り蓮祖に値ひ奉る蓮祖為に説法す、則ち名を改めて蓮妙坊日春と号するなり。
大聖鎌倉より延山に通ふ時、甲州郡内郡、大原村の内に石有り鼻連石と号す、此の東に小堂有り大聖此の堂に入り休す、郷内の男女多く集りて僧衆を視る時に御説法有り聴聞し奉る渡部等即受法す、聴聞の諸人本尊を所望す受法の人々廿八人白紙一枚づ●持参す、聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに、鼻連石の上に書き給ふに此の石中窪なり、此の故にやら書きえずじやと仰せられければ此の石平らに成りけりと(云云)、此の本尊を書いて渡辺藤太夫光長に授与す、時に黄粱焼米を以つて大聖●に伴僧に供養す此の時の例を以つて今に本尊入御の時は先づ藤太夫が家に入れ奉り黄粱焼米を供養して次に妙法寺に移し奉るなり(已上門中相伝なり)。

或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以つて戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり(上行所伝抄の意なり)、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり、則ち身延の大堂に立て給へる御本尊是れなり、又師細工に長ずる故に大聖の御影一躰三寸に造立して是れを袖裏に入れ御前に出て言上して云はく願くは末代の聖人未聞不見の者の為に御影を写し奉らんと欲す免許に於ては不日に造立すべしと、聖人此の像を取り掌上に置き之れを視なはし笑を含みて許諾す、日法、仏師鳥養助二郎、太郎太夫と云ふ者と共に日法之を彫刻し等身の影像即成す、但し背脊少し高し釿を取り之を●る、大聖曰はく背脊甚た痛しとの給ふ故に御影の後皆釿名なり、此の因縁に因て生御影とも正御影とも号し奉ると申すなり(板本尊生御影並に三寸御影皆今冨士に在るなり)。

日興身延山離散の時、日法共に離散し給ふ、其の後光長領内に於て一宇を建立し名乗を以つて寺号と為し光長寺と名け此に於いて不断の勤行なり、然るに日法、日春、兼日契約して云はく先死を以て開山と為すべし云云、然るに日春は老年の故に死去せり故に開山と為すなり、又日春三十三年忌時日法自ら板本尊を彫刻して以て彼の菩提に擬す、其の端書に云はく「日春上人三十三年御菩提の為に之を開く弟子日法」と此の文兼約に符合するか、故に此の本尊今甲州小梅村妙本寺に在るなり。

又大聖御筆曼茶羅を以つて死人を覆ひ葬する輩之れ有り故に御筆の本尊を以て形木に彫り之を授与す(此の形木今光長寺に在り)、されば冨士一跡門徒存知の事に云はく「御筆本尊を以て形木に彫り不信の輩に授与して軽賤する由し諸方に其の聞え有り、所謂日向日頂、日春等なり」(文)、日春形木彫の初なり。

日法上人の誕生は正嘉二(戊午)年、御遷化は暦応四(辛巳)年正月五日、行年八十三歳なり。
甲州東郡休息の立正寺開山日朝、此の仁の代に始て八品所顕の立義を立つ、日朝上洛して本能寺に参詣して本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経と唱ふ、即日隆に値遇して法門あり同腹中の故、是れより通用せるなり、此れより以後冨士とは不通なり。


日弁伝
御誕生は延応元年(已刻)なり人皇八十六代(第五番目の年号なり)
釈の日弁、俗姓は知れず甲斐国東郷の人なり、日興の教化に因り出家す(日興弟子分名帳是を列す)、後に蓮祖に給仕し有職を賜ふて越後阿闍利と号するなり。
弘安元年より冨士熱原に居住して終に一寺を開く滝泉寺是なり、爰に於て御説法有り其の此日秀は市庭寺を開き互に強義の折伏を至さる、是の故信者甚た多し高橋南条又力を合す、之に依つて実相寺の大衆蜂起して時の別当厳誉律師に訴ふ、即最明寺極楽寺殿の後家尼御前達に取付て申さる●故、尼公平左衛門に仰せ付けられ寺を破却し僧衆を追放す檀越は禁獄す、其中に熱原神四郎、田中の四郎、広野の弥太郎三人は法華宗の統領なりとて平左衛門が為に頚を切らるるなり、残り廿一人は或は追放し或は所帯を没取す、●に因つて大聖人三人衆を御弔あり、日興又御弔ひ其の中に本尊を書写して其の意趣を書き給ふ、高祖譜の下巻に之れを出す往いて見よ、蓮祖は二人の衆の大難を忍ぶ志を感じ給ひて而も直に上人と号し又本尊を授与し給ふ、是れ其の人の徳行を失はざらしめん為なり、中老衆皆上人と号すと●も此の両人のごとくなるはなし、但た日興弟子分の中にのみ之れ有り、故に身延日朝、鎌倉日澄等が擯斥せるも理りなり。
正応元(戊子)十月に波木井三箇の謗法有り●りに因つて日興越後房を以て御使と為して教訓し給ふ、興師の義に随順せざる故に終に延山を出で給ふ、其の時興師に随従して観行房の南隣なり大石寺に移り一院を開く坊号は乗観房なり(高祖より下さる坊号なり)嘉暦元徳の此上総へ下向ありて天目上人と通用して一味の故に日興とは自然に不通になり給ふ、されば日興自筆に云はく「又越後公日弁は美濃阿闍利天目と同心の故に永く以て義絶す」と(云云)、
又日向国定善寺日叡云はく是又日弁天目の義に同辺と(云云)、上総国に下向以後は鷲巣と云ふ所に法華堂を建立す今の鷲山寺是れなり、但し此の寺二ケ寺合して一寺となる、南の房方は天目を開山とするなり、北の坊は日弁を開山とするなり、寺号又別々なり、南の房の方の寺号は本妙寺、北の房の寺号は鷲山寺と申すなり、然るを習ひ失ひて天目日弁一人の異名と云ふ者は之を知らざる失なり、日弁は有職は越後阿闍利、房号は乗観坊と云ふなり、天目は有職は美濃阿闍利、房号は浄法坊と云ふなり、
(南)本妙寺代々は天目、日源、日叡、日帝、日億、日円、
(北)鷲山寺代々は日弁、日源、日行、日国、日陳、日運、日幡、日耀、日進、日伝、日暁、日泰、日乾、日達、日円。

一、日弁建立の寺は下総国、峯の大法院、此の処に日弁授与の本尊之れ有り、○彼の門徒衆の云く常州多珂荘赤浜村妙法寺にして行年七十三歳、応長元年(辛亥)潤六月廿六日酉刻御遷化なり(云云)、系図抄に云はく是れは天目の事なりと(云云)、

日弁は仁治二(辛丑)の誕生なり、然れは、日興に五歳年老なり、恐くは此の年号誤なり、いかんとなれば蓮華阿闍利と越後公日弁とは日興最初の弟子なり、故に御弟子分の名帳にも之を列す、又日代の遺状にも之を列す、其の外日興の使節をつとむること之有り、故に年代大方、日持日目日華日弁と前後すべし、争か日昭、日朗、日興より年老ならんや故に誤なり、況や又日弁元徳二年正月まで猶大石寺に在り、是より以後の帳には因幡公日円を列るなり、若し爾らば日弁元徳二年まで在世一定なり、若し不審有らば大石寺の番帳拝見すべきなり、又逸見の本門も弁師建立なり。

天目は田野所生なり、故に其の所の名山を仮つて名とし給ふ、又日号ありと云ふ説あり日盛と云ふなり(云云)、天目日弁一人異名と云は誤なり、一には美濃公越後公と有職同しからざる故に、二には天目は日興所破の人、日弁は弟子なるが故に、三には天目は廿五日、日弁は廿六日入滅、日限同じからざる故。

一、天目建立洛陽にては二条西の洞院与町の間北の頬青柳辻子に有り、俗に青柳寺と号す、建武四(丁丑)之を造る、本門寺、鎌倉にては畠中本門寺是れ天目建立なり、下総国にてはながれ山青柳寺、常陸国にては、をがち天目山本門寺なり。

岩本実相寺の事
世流布の宗派、日源を以つて開基と為す者は知らざる故なり今高開両師の御筆を出たし其の相を示すべし。
大聖人御筆に云はく此間の学問只事なり、又真言師等奏聞を経るの由風聞せしむ、九月廿日日蓮(在御判)石本日仲聖人(巳上)御筆当山に在り。
又実相寺豊前公御返事、此れは録外御書に出づ建治四年正月十六日の御書ぞ、日興自筆に云く「聖人の御筆本尊、本主駿河国実相寺前住侶肥後房に給ふなり日乗之を相伝す但し六人の判形之有るべし元徳四歳二月十七日日興判」(已上)。
其の此実相寺別当厳誉律師、法華経の行者誹謗の現罰により富士川の西、中の郷へ蟄居す之に依て其所を今に四十九とぞ申しける、是より追出されたる人々皆居返りて日興方の人々充満して法華の道場となるなり、是くの如く展転する故に住持も余多替れり、之れに依つて御筆どもに三代四代の名もあり其の後日源等住持したまふなり、此の故を延山日朝知らざるには非ず、又強仁伏御返事あり、其の上檀那に頚を切れし人は誰ぞ其の人を出すべし、御書の御文躰には分明に見えたり、然るを日朝之れを伏蔵す嫉妬の心推量すべし、具に日興の伝に之れを出たす志有らん人は往いて見るべし、第一には日源誕生は正元元年(己未)なり大聖人御入滅の時は日源二十四歳なり、此の故に日興に随順して専ら学文したまへり、之れに依つて重須大石の両寺に日源学文の証拠甚多し皆日源の自筆なり。
正安元年(己亥)鎌倉への奏状に付きて天台沙門と書けるより本迹の異論起りて一致勝劣両派となれり、此の時まで実相寺には日持等住したまへり、其の後正安三(辛丑)三月五日入唐なり、之れに就いて所以有り一には日持は日興最初の弟子なり、然るに此の度師に背き一致と称する故に一家の内二に分れて相逢ふ時の応答も悪しき故、二には高祖御書に違するが故に、天台伝教の御時は理なり今の時は事なり分明なる文に背くが故に、三には一と云ふは謗法の初なるが故に、日本国の謗法は爾前の円と云ふ義の盛なるより初れり、四には時を失して知らざる失あり、理一は熟益の時之を用ゆ天台伝教の御弘通是なり下種機に当らず、五には本化の涌出は皆破迹の為なり在世滅後不同有りと●も破迹は是れ一なり何ぞ経釈に違して一と云ふや、此の如き等の義無尽なる故に入唐したまふか。
録外八松野殿抄は偽書なり、其の故は日源実相寺を出てたまふは弘安二(己卯)十月事起て十一月朔日雙方より奏状さ●げて対決を請ふ、是れより実相寺を出で給ふ故に日源二十一歳の時の出寺なり、此の時争てか学頭となりたまふべきや、此の時の別当は厳誉律師なり、故に別当と云ふも学頭とも云も同事なり、此の寺後鳥羽院の御願所、平家調伏の道場の故に比叡山横川より住持職を持てり、厳誉律師の代に至り日興と外道非外道の論をこり日弁日秀等も大難に逢ふ、檀那も頚を切らる●人三人、所帯を没取せらるる人、追放せらる●人、禁獄せらる●人等御難抄の如し、強仁状も此の時なり、此の論弘安元年三月より起りて同八年に落居して始めて法華の道場と成る故に自然に日興住持となりたまふ、此の故に日興を以て供僧と云ふは此の謂なり、然も身延と両寺兼持成り難きにより、日持肥後房等住持職を勤めたまふ故に右御筆等にも分明に見えたり、此の間は日興に随逐して御書学問したまふ委細日興自筆実相寺縁起並に其時の訴状皆重須にあり参詣して拝見すべし、其の間は日源は所化の故に別当にも学頭にもなり給はず、其の後学頭等となりたまへり、重須に日源自筆の安国論の仮名しばりの本あり、其の外御書皆斯くの如し、又大石寺には日源自筆の本尊七個の決等あり。
然るに武州妙光山法華寺日端、開山日源碑文を書く時虚言甚多し、第一には彼の碑文に師事廿余年矣、此の段偽りなり日源●褓の内より高祖に奉事せるか、其の上実相寺公事の最中には非らざるか、日端が碑文の書き様一向無案内の書様なり、又若し流を●んて源を知らば富士に詣して大聖人●に日興より授与の本尊其の外、源自筆どもを拝見すべし、爾らば自然と日源の様子は知らるべきなり、又当山元と是は台流なり弘安六年又師に帰す等は、実相寺大論弘安八年に落居して日興を始めとて各居辺り、日興、日持、日源日底次第に別当となりたまふ事も知らず、弘安六年は公事の最中なる事も知らずして妄説するなり、実相寺訴状唯一通にあらず、数通ある事も知らず日源の由来全く知らざる哲心日瑞は随分の偽人なり、又池上日耀が継図抄に云く是は上古より替らず当山の法式を護りたまふなり、上古の義は日耀の誤なり、日源冨士に随順せる事文有り見る可し、中此身延より四五代住持せり是より一致となるなり、之れに依つて身延の末寺と云つて公事に出てたれども身延に証拠なき故に負けて引入る、今は別途を立て師敵対して一致と云ふ、吉に随ひ高祖に違ひ開山に背き五百塵点重苦に沈むこと不便の次第なり、上に略して五義を出す見るべきなり。
一つ代々とは日源、日感、日園、日誉、日教、日富、日昌、日授、日依、日恒、日瑛、日宜、日進、是れ当寺列祖の次第なり。


日行伝
釈の日行、下野国の人、父は奥州三迫の内、森の地頭、久く此地を領する故に森殿とも云ふ、本名は加賀野殿、目師の一家なり、興師の本尊に「加賀野宮内卿に之を下写す、元徳二年十月十三日、日興(在)判」、聖教奥書に云く「加賀野宮内卿に取要抄一巻授け申す(云云)」皆当山に在り、父鎌倉に寓居し時光の息女を妻と為し師を生む、幼少より出家せんと欲し当山に居住し日道の弟子となる、此の故に興師本尊に云く「卿公日行は日道第一の弟子なり之を授与す、正中二年九月十三日」(此の本尊平井に在り)、後日興に給仕し兼て法華を習学す。
興師入滅後目師に随順し常に下之坊に居住す、建武元年正月問答の時、行公其の座に在り之を聞く(日叡記録に出たり)、後日道の付属を受く其の時本尊を日行に授与す其の端書に云く「暦応二(大才己卯)年六月十五日、日道(在判)日行に之を授与す一が中の一弟子なり」(已上此の本尊当山に在なり)、又興目両師に従つて血脈を稟承する等を日行に伝授す(相伝切紙等其外相伝書籍等手取引様示給書物等森殿に之を預け置く趣行公自筆状に見たり往見)、行公此の付属を受け大石寺に住持し亦先師の旧業を追ひ天奏の為に上洛し暦応五(壬午)三月奏聞し給ふ、又鎌倉に趣き武家に訴ふ是より来た弘通有り。
然るに日郷弟子、中納言阿闍利日伝、先師の替目を喜び日道円寂を幸として奥津家に取り入り大石寺の堂地に●に東西坊地に違乱をなす、其の濫觴を尋るに日道と目師の遺跡を相論するの遺恨残つて企つる所の濫吹なり、然るに日道、日郷、公場に於て三年に三度の対決を遂ぐ理非顕然たるに依つて道理を日道に付けられ日郷以下の輩は寺中経廻永く停止し畢ぬ、然りと●も彼の日伝先師の本意を達せん為に権門の威を仮り妨を為すと●も叶はず、重ねて奥津美作守の沙汰として道理を日行に付けられ大石寺堂地並に東西坊地を日行に去り渡さる、其の状に云く。

一、去り渡し申す大石寺の事、右の所は上野郷の内、法西が知行分たりと●も先師の相継に任せ本主の寄進の如く御堂●に西東坊中相共に卿阿闍利日行に去り渡す所なり、法西が子孫に於て違乱妨げ有る可からず候、仍て後日の為に去り状件の如し。
貞治四年十一月十三日 沙弥法西(在判)

此の状を以つて彼の徒の濫訴を停止し畢ぬ、是より前下野国金井に至りて法華堂を建立す今の蓮行寺是れなり、されば彼の寺の常住本尊の端書に云く「延文五(庚子)年」(已上)又奥州に下向す森の上行寺、新田の本源寺は目師御建立の精舎なれば御弟子衆に支配して住持せしむ、金井に帰り大に宗教を振ふ三十年、血脈を日時に相伝するなり、然るに日時は仙波に於て修学の故に冨士に住せず、此の間両処兼持したまふ、応安二年中夏の此より病気、此の故に六月廿九日書状を日時にたまふ、而も日時冨士仙波往行の故に此の状を見ず、同年八月十三日没したまふ、住時廿九年なり。


日時伝
釈の日時、俗姓は南条、出家して良栄と号す、日行に随順し当家の諸書を学ぶ、後武州仙波に於て広く台家を聞く、終に補所と成る時、日行本尊を日時に授与す其の端書に云く、「貞治四年(乙巳)二月十五日日行(在判)南条卿阿闍利日時に之れを授与す」(已上)、此の時も猶天下の兵乱止まず此の故に不信の者甚多し、之れに依て毎日謹行の次でに不信の輩を勧め信心を起さしむ、若し謹行するに余念の者之れ有れば呵して云く仏法の大海信のみ能く入る何ぞ経を読誦しながら余念を雑えんや、興師説法の時日尊聴聞しながら落葉を見る興師呵責して座を去らしむ、是れより勘気十二年なり、先蹤既に斯くの如し後来誰か之れを守らざらんや、殊に当家は一信、二行、三学と相伝するなり、当時は初心始行の此丘なるが故に信心に非んば争てか二世の所願を成ぜんや、随分信心を励すべきなりと、毎座の教訓此くの如し是の故に信心の者又多し、其の此仙波より上けらるる富士大宮学頭謗法の施を受用するが故に之れを呵責したまふ其の直筆の状に見えたり。
爰に中納言阿闍利日伝、権門の衆を語らひ日行円寂の便を得て地頭の下知を掠め大石寺を横領す、之れに因つて日時訴状を鎌倉に捧げたまふ其の状に云く、駿河国上野の郷大石寺別当宮内卿阿闍利日時謹んて言上、当寺内東僧坊同別当坊屋敷等間事、副進 一巻、当所菅領の証文等の案。

右当寺者開山日蓮聖人以来日時に至るまで数代相続相違なき者なり、爰に中納言阿闍利日伝不義の子細有るに依り先師日目上人の勘当を蒙るの間、年来寺中経廻を停止せしむの段、世以て其の隠れなし、然るに先師円寂の後権門の人を相語ひ別当屋敷を点して新御堂を建立し剰へ東僧坊を押領し先師の遺命に背き門家の乱逆を致すの条、言語道断の所行なり、之れに依つて地頭作州方に於いて訴へ申すに就て道理に任せ元の如く宮内卿阿闍利日時に返付せられ畢りぬ、随つて当知行相違なきの処、彼の日伝寤に守護の御下知を掠め奉り御吹挙を申し成す(云云)、造意の企て以ての外の濫吹なり、然れば早く掠め給ふ所の御書下を召し返され永く彼の非分の奸訴を停止せられ卿阿闍利日時に於ては、相伝当知行の理運に任せ永代不易の御成敗に預り弥よ天下泰平御家門繁栄の御祈祷の懇念を抽んでんが為に、祖目安言上件の如し。
明徳三年七月日

此の状を以て鎌倉の奉行所に捧げ御成敗を請ふの処、理非顕然に因り御下知有りと●も尚後日の為に書下さる、其の状に云く。

一駿河国富士上方上野郷の内、法華堂々地の事、明徳三年十二月九日御施行の旨に任せ卿阿闍利日時代に打ち渡さるべく状件の如し。
明徳四年正月廿三日 散位(在判)

此の書下を成下ださる上は子細なしと●も、彼の日伝執心深く便りを求め競望を為す故に、猶重ねて地頭の書下取り加へ永く彼の望を絶つ、其の状に云く。

駿河国富士上野の内大石堂地、同西坊地等の事。
右奥津美作入道法陽寄附の旨に任せ別当卿阿闍利日時の領掌相違有るべからざる状件の如し。
応永十年七月十二日 沙弥(在判)

一去り状
右冨士上方上野郷の内、大石寺の東坊地は法陽が知行分の内たりと●も本の如く別当卿阿闍利日時にさりわたし申すなり、但し中納言阿闍利日伝彼のひがし坊地を競望せしめ掠め申すに依り権門様、御不知案内の間御口入候によりて、しばらく彼の仁の方へわたし候といへども、もとより理運にまかせて日時のかたへ、わたし申す処なり、仍ほ法陽が子々孫々異議あるべからず候、若し此の旨を違背せん輩においては不孝の仁として法陽が所領を全く知行すべからず候、仍後日の為に去り状件の如し。
応永十二年(乙酉)卯月十三日 沙弥法陽(在判)

右数通の条を以て数年の労功一時に解散す、彼の日伝の輩の欝訴永く以つて停止せしめたまふ。
其の間三師の御伝を述作したまふ、其の奥書に云く
「応永十年九月廿二日」(已上)(二十三紙有り蓮興目三師伝なり並に日道申状案書き加へたまふなり)、又講席を開き一家の御書を談ず、されば御書相伝の奥書に云はく「民部阿闍利日影に之を授与す応永九年卯月十一日日時(判)」斯くの如きの褒美其の数を知らず、当家に於て御書相伝に二あり、謂く判摂名字の相承、形名種脱の相承となり、其の外の相承どもあり、又志学の僧侶も日々に倍増して興門の法燈光をます、応永十三(丙戌)六月四日に遷化したまふ。

日道日郷の諍論に就いて数通の書物を見るに是非得失自ら分明なり、然るに保田小泉の人々日目上人の御譲状之れ有り、又贔負の沙汰を以つて押し掠めて負処に随せしむ(云云)、正慶二(癸酉)より応永十二(乙酉)に至る合て七十二年なり、其の間度々の対決に終に譲状を出さず其の後に遺状出来するか、況や彼寺の列祖予に示して云く遺状全く之れ無し(已上)第一の●惑なり、又鎌倉の前代は北条後代は足利なり、先代の地頭は南条後代は奥津なり両家ともに贔負せるか、法陽の状の如んば後代の時は日伝贔負甚た強し然らざれば争か新御堂等を建立せられんや、是くの如き強縁有りと●も道理歴然なれば代状を下さる御堂を破却し寺中を追放し畢ぬ、是れ譲状なき贔負なき証拠なり、然るを偽つて譲状ありと云う(是)一、又非理を以て門家の乱逆をなす名聞利養の仁に非ずや(是)二、又目師御守の内御本尊十八鋪並に御自筆御書とも其外目師の聞書切紙等付属なきを盗み取る所の罪過極めて重し(是)三、日尊日郷共に御判なり、然れば日尊を証人とせずして非分邪義をかまへ誹法殷人の謗罪此れ重罪に非ずや(是)四其の上軽賤憎嫉すること無量なり(是)五、剰へ日興身延を出で富士久遠寺に移る等の邪説をなす(是)六、法門又非分甚多し(是)七、彼の門徒には此七逆罪あり此の故に一門徒に先き立ちて早く滅亡すること日濃が所作とは申しながら日此の謗法の招く所なり、縦ひ目師御付属一定なりとも出家の身に於いて公事を企ること穏便ならざる事なり、其の故は出家として仏法の勝負尚望まざる所、然るを止むを得ずして法の邪正を論するなり、況や世事に於てをや、況や、軽賤憎嫉の謗罪有り、良に無慚無愧の至り言語道断の所得なり、釈●には勝負は随獄の因なりと明し、弘決には問答勝負に依つて百頭魚身を得是の故に口業慎まざるべからず、然るに直弟として公事を企ること言語の及ぶ所に非ず、以来に於て随獄の因を企つること莫れ、之れを慎めよ之れを慎めよ。

右書下等に大石寺と云ふ此所を本来大石と云ふ証拠は東鑑一(三十三)云く又甲斐国源氏並に北条殿父子駿河国に赴く、今日暮たりと号して大石駅に止宿す(云云)、然れば開山以前より大石と云ふ事勿論なり、唐国に於て大石寺三箇所にあり皆阿育王の石塔ある故に爾か云ふなり、然ば此の処にも石塔之れ有るか伝説せざるは一の不審なり、若し石塔あらば興師は有り難き御見立なり、右義楚に出つ(往見)。
住寺したまふ事三十八歳なり。


日影伝
釈の日影、俗姓は南条なり、日時に随順して法華を習修し又御書を聴聞す故に当家に於いて精きなり、殊に道心益深くして昼夜誦経、四威儀に題目を唱ふ、又門弟子供養作善をなす時は本尊を書写して弔ひたまふ、其の端書に云く「右妙経抄一卅三年菩薩の為に之を書写す、施主薗部阿闍利日経応永廿(癸巳)年三月十五日大石寺遺弟日影(在判)」(已上)。
又平井に於て弘通あり。
影公大衆に語つて云く血脈を伝ふべき機なり是我か悲嘆なり、終に応永廿六年己亥病気の時油野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍利日順は血脈を大抄に云ふ其の例なきに非す、公白衣たりと●も信心甚た深き故に之れを授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。


日有伝
釈の日有、俗姓は南条、日影の弟子なり、幼少にして出家し師の教訓を受け法華を習学し又御書を聴聞す。
或る時、富士門徒化儀一百十五条を制作して門徒の法式を定む、又衆に対して本因立行の奥義を談す、此の義諸門徒に於いて独歩せり。
又先師の旧業を継かんと欲し永亨四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず(其の書今に之れ在るなり)。
又越後国に至り石越の中山に久住す(此の山本来富士門流の寺なるか故なり)。
又遠州に於いて禅僧即身成仏の義を聞く、有師答へて云く名字即信心の上に於いて之れを論ずと行位に約しての分別之れ有り、彼の僧之れを聞き礼を作して去る。
又駒瀬に於いて法華堂を建立す寛正七(丙戌)卯月七釿立て五月廿四日棟上げ六月七日成就するなり、同八日入仏す今の本広寺是れなり。
又頓市勾当と云者、所施の供物を受けざるに付て疑難を加ふ有師返礼あり。
宿病有る故に甲州下辺の湯に入る、宿主子息多し、師云く公子息多し、一人我に授けよ即弟子とせん、家主云く我か子唯一人のみ之れ有り余は我か子に非ずと、是より以来代々子息一人の外に之なし、之に依つて子息乏きを嘆き昌師に憑み奉り有師の墓所に啓して其れより子息多く生る、或る時有師笈中より一の鍋を取り出して家内の諸人に振舞ふとて件の鍋かけ常に所持の紙袋より米を取り出して飯と為す、下女之れを見て笑つて云く此の飯一二人猶応じ難し況や、家内の諸人に及ばんや、師云く火を焼け火を焼けと、たくに随つて此の飯鍋に余る、此くの如き瑞を見るに凡人に非るを知る其後尊敬日々に重し。終に血脈を日乗に附して甲州河内杉山に蟄居して読経唱題の外又所作なし、毎月斎日ごとには杉山より大石寺に詣したまふ行程百有余里なり、斯に於て文明十四(壬寅)九月廿九日臨終正念にして没したまふ。
有師の本尊を感得する者は貧窮を除き、杉山に詣る輩は所願を成就す、在世の奇瑞滅後の感応勝けて計ふべからず、彼の鍋没後湯主に贈る今に至るまで代々重宝となす、然るに近年彼の鍋を隣家に盗まる湯主は貧乏せり、盗み取る隣家は富み百倍なり、其の外之れを記する能はず。
古き過去帳に文明四年とあり是れ誤なり、小野里八郎授与の本尊に「文明七年」(云云)、又幸島富久成寺の守本尊に「土州吉奈右京太夫に之を授与す文明八年七月十五日日有判」(已上)。

一日阿上人、日有師の相伝に云く日時上人の代官なり、応永十四(丁亥)三月十日没したまふ、贈上人の事日秀日弁両人は贈官なり、然れども貫主と一同には列せず、近代は来仲日沾贈官なり、此れ等の例に随順して案ずるに貫主か。

一日乗日底の両師の徳行伝失せり、是の故に見ず聞かず故に記する能はず、自筆の御書其の外書籍ども多々なり有智高徳なること疑ひなし、況や上代は当時に似ず道心尤も深し斯くの如き徳行記せざること悲歎の至りなり、当時の上人は無智無行にして一座の教化猶勤め難し、況や道心は全く之れ無し、経を読誦する似たりと●も唯名聞利養のみなり、此の如き上人は伝失せる甚たし甚た良し。


日鎮伝
釈の日鎮、俗姓知らず下野の国の人なり、十六歳にして付属を受け明応三年(甲寅)十月十九日富士を発して東国に下向するなり大永五(乙酉)年には四国に至り土佐の大乗坊に於て説法教化す、幡田の庄吉奈の図書の助高国と云ふ人は青木の城主伊予守の孫なり、彼の高国の子息を弟子と為す(日院是なり)、其後付弟とせんと欲し富士の大衆に書状を贈る、其の状に云く、
四国土佐幡多の庄吉奈図書の助高国の子息出家成され候、彼の方を愚僧の付弟に申し候、此の段僧俗共に御得意候て然るべき様に真俗御指南憑み奉り候、意得の為に一筆件の如し。
永正十七年七月二十九日 日鎮(在判)。

在寺五十六年其の間東西に往返し富士に帰り(大永二壬午年)伽藍を建立す、所謂本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等なり、大永七(丁亥)六月廿四日七十一歳にして化したまふ。
鎮師諸堂を建立する帳之れ有り、又諸堂に於て読経日記あるなり。


日院伝
釈の日院、俗姓等日鎮伝に出づ、出家して右京と号す、十三歳にて富士に登り当家を習学す、十七歳にして相州土屋に往て台家を受く、又武州仙波に往いて実海の座下に於て広く修学す。
富士に帰り大石寺に往する六十年なり、其の間常に題目を唱ふ一生三衣身を離さず(云云)、七十に及ひ中風を患ふ終に天正七(己卯)七月六日没す行年七十二歳。


日主伝                                     釈の日主、俗姓は下野国一色なり、父河内守館林の城主なり代々上杉の家臣なり後小田原に属し猶館林に在り、子息を出家に作んと欲し関宿の神宮寺に登せ真言を受く。
時に幸嶋の妙行坊冨士に詣づ、院師妙行に対して云く付弟を定めんと欲するに仁なし、妙行云く神宮寺に利根の小僧有り(云云)、院公云く公願くは之れを謀れ、妙行神宮寺に詣り小僧十三歳なるを誘引して平井信行寺に置き後冨士に登す、寂日坊久成坊の指南に因り当家を聞く。
又上総国東金に往き台家を学ぶ。
富士に帰りて院師の付属を受け住持十五年、其の此身延の僧円来坊、板本尊を盗み取んと欲して主師を傾く、茲に因て隠居して金井に至る、又奥州に往き終に下野国ヲフゴに法華堂を建立す寿量寺と云ふ是れなり、国替以後金井蓮行寺に蟄居す、茲に於て元和三(丁巳)八月十七日没したまふ行年六十三歳なり、骨を当山に納む其時の弔ひ似後闘諍をこる然も事なり。


日昌伝
釈の日昌字は、城州小栗栖の人なり、父の先は相州飯田なり中此三宝院の坊官に居して入道し清閑と号す、母継なきを嘆いて小栗栖の高祖の像に祈り師を生む、七歳にして出家し要法寺の円教院を師と為し当住日辰の教訓を受く。
天正十一年下総国飯高に移り習学す愚昧にして文義を解せず、之れに依つて智を妙見大菩薩に祈る満夜の夢中に貴僧、裳衣に五条の袈裟を掛け水上より来り水を踏むこと地の如し、昌公に向つて曰く此の間祈る処の智は今以て汝に授くと云ひ、無価の青色珠を以て昌公に授く、昌公之れを受けて即呑み咽喉に迫る、茲に因つて夢覚む、独り咽喉に有るが如し、其の後文を見れば即易し、又或る夜の夢に件の僧又来つて汝が愚を去るべしとて鎚を以つて頂を打つに大甕を破るが如し其の声隣室に響く、(上総土気善正寺の住持なり)同侶好芸と云ふ仁驚いて所以を問ふ昌公夢の事を語る、其の後智発して義昧からず、其の此宝地の私記始て世間に流布す、十が中の六七は証真の義に当る残る三四は或は所破の義、或は外の義なり、是の故に能化教蔵院日生、文鋪日尊二代ともに称歎甚深し(云云)、又法華三昧の行法を修するに二七日満夜に女人定中に来て昌公の膝を枕とし障●を作んと欲す昌公動かずして三七日行法修し畢る。
文禄三(甲午)八月に当山に移る同四年下野国に往き日主に随つて直授相承を受く、晩年当山に於て玄義文心解集解等を講す、講する所の書には皆章抄を記す、所謂集解要文十二巻、文心解抄上下二冊、玄義の私纔に一巻末だ部帙を成ぜず、一生病苦を知らず、若し檀那に病者多ければ則頭病疾む、或は死去有れば三日以前に之れを覚知す良に末世の竜象と謂つべき者か、元和八(壬戌)卯月七日午刻正念にして没したまふ行年六十一歳なり、臨終三日以前より幡蓋居空を覆ひ紫雲天に満つ奇端一に非ず、皆万人の見る所、聞く所の故に之れを記せず(云云)。


日就伝
釈の日就字は大二、洛の要法寺日●の直弟なり、父は長谷川五郎左衛門入道善光と号す代々浄土宗なり、随つて母当宗に入り法華を修学す。
慶長十二年昌公病気の時付属を定めんと欲し書状を日就に賜ふ、師匠の日●云く師弟合して本末相承を継く冥慮に相叶ふ者か、即日●領掌して返礼を賜ふ、堅約以後猶昌公在位なり、元和年中昌公終焉の後、同四月廿三日入院し理境坊日義に随ひ相承を継く、在位の間毎日自我偈を誦する一百巻退転することなし。
又御堂を建立する之れ有りと●も不幸にして焼失せり、寛永九年十一月江戸法詔寺に下向し直受相承を以て予に授け同十年(癸酉)二月廿一日没したまふ行年六十六歳なり。


日盈伝
釈の日盈俗姓は黒川、日●の甥なり、父入道して久徳と号す、文禄三(甲子)年三月三日生す、●褓の内より出家す、志学の此より叡岳の麓、松ケ崎に於て修学す、慶長十五年四月下総国小西正法寺の談所に移り、又同国の内、市東の丈室にして法華玄義を聞く、下総国中村の談所にして法華文句を聴受す。
元和八年本迹諍論に因つて勝劣諸派の所化数百人、飯高中村小西の三談所を引いて上総国東金に移る。
又同国の内、宮谷本国寺談所を取り立て爰に於て名目集解等小部どもを講釈す、寛永五年戊戌辰)日「の請に依り奥州若松実成寺に住持す、其の節同所の妙法寺日怡法義違乱をなす、是の故りに盈公の為に砕かる、此れより前、常楽院日経派に玉雲相月と云ふ人有り法論を起す、之れに依つて盈公七箇条の疑問を挙けて之れを難破す、同十年に当山に入院し次年宮谷談所の請に因て上総に移り法華玄義を講す、同十三年病気に因つて冨士に還り、同十四年八月湯治の為に又実成寺に到る爰に於いて養生を加ふ、同十五年三月年来病気快気して医者衆檀那とも振舞たまふ、此の節又病再発して終に三月七日没し給ふ行年四十五歳なり。
当山列祖は一宗の血脈相承の大徳なるが故に書き加る所なり見ん仁之れを計れ。

袈裟衣等の事                                  開目抄上(四十)に云く、而るに彼れ々れの栄官等をうちすて慢心の幢を倒して俗服をぬき壊色の糞衣を身にまとひ、白払弓箭等をうちすて●一鉢を手ににきり貧乏乞丐なんどのことくして、世尊につきたてまつり風雨をふせぐ宅もなく身命をつぐ衣食乏少なり(文)。
外十五四菩薩造立抄(卅三)云く白小袖一ツ薄墨染衣一ツ同色の袈裟一帖(文)。
禄内絹袈裟と遊はされたるけさ今に真間に之れ在り、地は絹ののしめを薄墨に染めたる者なり(是)一、生御影の御衣袈裟薄墨色なり(是)二、日興遺誡の記文に云く衣の色墨黒くすべからざる事(是)三、天台宗老若ともに皆素絹を着す是れ又薄墨色なり(是)四、一宗の諸寺諸山入堂の時は皆裳衣を着するなり色には不同あり(是)五、京都諸寺の新発意ども。
妙法尼抄(三十)に云く、御出家ありしかば此の衣変して五条七条九条の御袈裟となり候き、私に云く大衣の名を出したまふ。
釈氏要覧上(二十五)云く三衣、蓋法衣に三有るなり、一には僧伽利(即大衣なり)二には欝多羅僧(即七条なり)三には安陀会即五条なり此れは是れ三衣なり(文)。
僧伽梨、明恵上人涅槃講式を二月十五日に大報恩寺に於いて之を談したり、之を聞く時僧伽梨とよめり、然も所々に僧伽の二字相続すれば僧伽とよむ事之れ多し、是れは九条なり、増輝記の心は安陀衣を見るに五幅あるが故に五条と云なり、欝多羅僧を見れば七幅有り七幅有る故に呼んで七条と云ふなり、僧伽梨大衣も又然なり、又大衣の条数多き故に雑砕衣とも云ふなり、此の大衣は三衣の中に殊勝なるが故に着用に従つて王宮に入る時、聚落に入る時の衣と名るなり、七条をば又中価衣と云ふなり、五条をば下衣と名く、七条の下に有るが故なり、若し着用に従へば薗中行道雑作衣と名くるなり、薗とは園と註す即寺院と書けり、雑阿含経に云く無量者●に鬚髪を剃除し三法衣を服す(文)、服は着の義なり法華経の而被法服とは袈裟を着る事なり、四分律に云く三世如来並に是くの如き衣を着す(文)、是くの如き衣とは袈裟なり大論に云く仏弟子中道に住す、故に三衣を着す、天竺は暖国の故に三衣を着するに身寒らざるなり。
問ふ袈裟の名義いかん、答ふ要覧に云く統へて袈裟と名くるは蓋し名に従つて称を彰はすなり、梵音具に迦羅沙曳と云ひ此には不正色と云ふ(文)、袈裟の異名を書く時、大集経に袈裟を離染服と名け、賢愚経には出世服と名け、如幻三昧経には無垢衣と名け又は忍辱鎧と名く、又は蓮華衣と名け又は消痩衣と名け又は離塵服と名け又根越と名く、又六物には道服法衣、或は間色服、或は慈悲衣、或は福田衣等あるなり、舎利弗問経には五郎の衣色を出せり、摩訶僧祇部は黄色衣を着す、曇無徳部は赤色衣を着す、薩婆多部は皀色衣を着す、迦葉部は木蘭色衣を着す、弥沙塞部は青色衣を着す、各表示有り。
問ふ種々の袈裟何時より出来するいかん、答ふ仏在世の初には専に弊帛を着せしむ羅旬此丘より種々の袈裟を着する事を許したまへり、羅旬此丘、先世●貧なる故に乞食に食を得ず五部の衣を覆着するの故に大飲食を得たり、是より種種の衣を許したまへるなり、此の外紫色は五部の衣色に非ずと云ふ事なり、要覧に紫色衣は是れ五部の衣色に非ず、即是れ国朝に沙門に賜ふ故に今之を尚ぶ、僧史略を引いて曰く唐書を案ずるに則天の朝に僧法朗等九人有りて重ねて大雲経を訳し畢る、並に紫袈裟、銀亀袋を賜る是れ紫衣の初なり、之れに依つて勅衣と云ふなり、六物図に初には三衣を明して三物と為す(文)、遺教経に壊色と云ふは袈裟の事なり、袈裟の条の内は田を表し葉の上は溝の相を表す、律文に袈裟を借用する過を出すなり。

一富士門流に於いて大衣を着せず色袈裟を掛けず何等の所以ぞや、古より相伝して云く当家は名字即、最初心の上に於いて建立する所の宗旨なるが故に大衣を着せず、色袈裟を掛けざるなり、其の証拠は生御影是れなり、之れに就いて他門徒の疑難あり七面の御影は大衣なり(此の像今小田原明光院に之有り)、又上総鷲巣の御影も是れ大衣なり、爾れば蓮祖大衣を禁●せず偏執を為すこと莫れと云ふ、此の義いかん、謂く高祖大衣を着せず、所々にあるけさ皆五条なり、滅後に書ける御影は或は大衣も之れ有り或は金襴等も之れ有るなり、其の上蓮祖大衣を着たまふことを聞かず、又証文をも見ず故に信し難き者なり。
次に白袈裟の事、初心の此丘白袈裟を掛る事、富士門徒を嫉妬せんより先つ天台宗の始めて袈裟を掛くる衆と、京都諸法華宗の新発意衆の始めて袈裟をかくると、皆白袈裟なり、法滅の相は小僧どもに示し之れを●鑿し畢つて後に吾か徒に蒙るべし、先つ大聖人の御袈裟衣の色薄墨色なり、六老僧以下の御弟子衆、同色の袈裟衣なりや、但し白かりけるや又別の色なりや、先つ此の義を治定して其の上にて法滅尽経の衣色変白矣の文を分別すべきなり、各の祖師日昭、日朗等の白袈裟は見るを得ざる故に言語に出さず、若し高祖と同色の袈裟ならば師弟の不同をば何を以て之を分たんや、日興一人の白袈裟は其の証拠分明なり、一を以つて万を知る故に高祖御在世の内は皆白袈裟治定なり、さて次に法滅尽経の文の事、之に就いて二義あり、一義の意は出家の衣変して在家の白衣と成るべき義なり、其の故は白の小袖は禁色なり諸太夫已上に非れば之を着るを許さず、然るを出家は出世服と云つて常の衣服となす(是)一但し白の字通するが故に禁忌の義も有るべきか、敢て偏執を為すべからず、次に袈裟を道服と名く帰敬儀に経を引て曰く千義を誦すと●も行せざれば何の益あらんや、仏教相を立つ奉行せんと思ふ、若し但読誦ならば本意に非るなり(文)、是れ又能例なり道服の字は在家出家に通ず、故に出家衆は在々所々に於ては医者道服を着して往行するなり、南山、奉行の字を釈して此の本意を失ふ之れを思へ、当時の直綴等も此の類例か、若し然らは苦からざる事か、但し天台真言の出家衆多く以つて直綴を着せず、縦ひ服する人あれども希なり、之れを以つて之れを思ふ道服に通ずるか、興師之れを忌みて直綴を着るべからずとの制法深く之れを思へ。

一当門徒に諷誦を読まざる事、化城喩品に諷誦を利(文)、法華伝の諷誦を利の部、高祖の御檀那法蓮の父十三年忌の為に諷誦を捧くるの状、祖師称嘆の言を加ふ敢て制止せざる故に当家に於て諷誦を読むべきなり。

一頓写の事、如説修行の一なり最修行すべきなり、若自書、若教人書の明文あり、法華伝に書写部あり普賢品に但書写の報を説く、諸御書に書写の義を許諾せり、況や当家に於て書写の例有り、又身延山堂供養に書写あり是れ頓写の始なり。

一声明の事、凡そ四箇の法事は仏家の通用なり習つて修行せらるべきなり、諸天感有り信施を消する等の事伝記に見えたり、証文とは無量義経の讃仏の偈、方便品の歌唄頌仏徳の文、分別功徳品の歌唄讃頌等の文是れ其の証なり。

一過去の帳位牌等の事、山家万事に付て不自由なる故に、或は戦国の故に、或は易行を表とする故か、古より之なし、是の故に勲功甚多き僧俗の戒名皆亡失せり、又遠国より奉上の日牌月牌等拠り所を失す無道心第一なり、速に位牌を立て過去帳を立てらるべきなり、経には名聞利養の上人達の御臨終を見るに、或は疫病、或は赤腹、或は吐血、或は悪瘡、又水腹病又自害(経には短気と説たまへり)諸悪重病等と説きたまへり、謹みたまうべき者なり。

一日待月待の事、(廿)千日尼書(三)云く日蓮をこひしく御座し候は●日月を拝ませ給ふべし、いつとなく日月に影を浮ふる身なればなり(文)、富士諸寺に諸天堂を建立すること、本尊の如きは諸天を寺内に勧請する為め、況や日待月待を制する事は全くなきなり。

一引導歎徳の事、富士流最良し諸御書に相応するが故に、然りと●も他所に於て引導歎徳なければ一向宗の様に思ふて軽賤する間、弘通の出家衆は用意して出さるべきなり、是れ面目を失はざるための用心なり。日精(在判)。

編者曰く再治の正本を見ず稿本亦少紙なるが故に孝弁日修本、知詳日詳本、慈来本等を校訂して此を用ゆ、但文中厳密には訂正を加へざる所あり、余は上巻の末に云へるが如し。

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