富士宗学要集第五

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辰賙性恩成五師伝

日辰の伝
釈の日辰泉州境の人なり、俗姓は泉州境の村田、幼少にして出家し名は成順或は心清とも云ふなり。
常恒に学を好み智恵明了にして一切経を知見する両度なり初め建仁寺に於て蔵経を周覧し第二に北野に於て披見す、但し北野の経は多く虫喫ひ損せり故に日辰多く書き加へ玉へり、博学にして四書五経其の外詩歌都て通せざることなし、神道は宣賢公に値ひて極理を師伝し、剰へ医書は道三と難経の通局を論す、七書等其の外所覧の書籍悉く難解の処に於いて各私抄を加ふ、所謂御書抄全部廿巻、玄義略消十一巻、文句抄十巻、止観抄十巻、問要抄五巻、略要抄二巻、簡要抄二巻、序品抄十巻、勉旃抄三巻、広勉旃抄廿巻二論義六巻、大蔵要集百十巻、神道大意一巻、御書要文、大綱要文、略大綱、本迹問答記録、浄土宗問答記録念仏無間に就て重々の問答之れ有り西山日春との問答記録造仏読誦理を尽す祖師伝、冨士類聚抄各一巻、西谷名目抄三巻、其の外抄書勝て計ふべからず興門の中興、開山の再生とも謂つべきなり。
凡一代の書記毎日八十枚にして闕日無く八十年の書記積るなりと、下総の飯高に於て焼失の書籍数を知らず門徒中に散在の書ども亦数を知らず、纔に日性日成手前に残る書籍日記斯くの如し、其の外四書五経医書歌道詩書の私ども亦数を知らず。
辰師の徳にあらざれば則ち当時興門の学者本迹の奥旨に闇く目無くして導くが如くなるべし、然るに辰公の徳に依つて本迹の奥義を極ること闇夜に燈を得たるが如し、高開両師の再誕にあらずんば何か様千界の流類なる可きなり。
亦御臨終の躰を見奉るに天正四丙子十二月五日御堂出仕の時堂前に於いて蹉き、夫より方丈に帰り十日に逆修の石塔を建立し命日を預め十五日と定めたまふ、十四日衆僧に対して告げて曰く明日霊山参詣すべきの間、所用有る輩、他行致さるゝ僧徒は速に帰り給ふ可しと、次の日十五日午の尅に一山の僧衆を集め臨終の御経之れ有り、自ら始経して方便品より寿量品に至る異口同意に誦し方便涅槃の句に至りて御入滅なり。
其の外上行寺住本寺両寺一寺と成る時の奇瑞等委細に記する能はず唯心を以つて之を察せよ今大概を記する者なり。

日賙の伝
釈の日賙、平安城の人なり、俗姓は黒川、父入道して長真と号す、幼少にして出家し名をば三益と号す、日辰の勧めに依つて学に志す三大章疏を歴覧し剰へ東福寺に於いて一切経七千余巻を知見し蔵経抜一百十五冊、仏蔵真宝と名け、門を分ち類を別ちて見易し、故に当時蔵経披見の人、此の心宝を以つて抜書の亀鏡と為す、其の外三大部私易抄等、其の外著述の書籍亦多し。
安土法難の時は忍辱の膚に杖木瓦石の難を蒙りたまふ亦若松実成寺他門徒と為る可き企て有り、之れに依つて日賙会津に下向す是れより以後相違無し、亦堀川の寺を今の寺町に引ける時、本堂御影堂刹堂鎮守方丈悉く皆建立したまへり、都合在寺廿年、慶長丙午隠居して東坊に移り給ふ、慶長十三戊申二月初め少く泄潟を患ふ、同十三日遺状を遺弟に賜ふ、十五日御涅槃会に説法あり之れに依つて信者列座して聴聞す、説法畢つて隠居に到り病気の可否を問ふ、●公衆に対して曰く世尊は中夜御入滅なり予も夜半に霊山に参詣す可し、若し所作有らば日中に作務し晩には必ず来る可し、是の故信者衆十五日の夜来会し東坊は人充満せり、時に●公弟子に告けて曰く墨を研る可し、漸く子丑の刻に到つて本尊を掛け奉る可し之れに依て日興自筆の本尊を掛け奉る、●公本尊に向つて首題一返書写し日●判と書き加ふ重ねて筆を点して年号書く可くしたまふ時、弟子衆暫く休息したまへとて筆を取る、●公本尊の方を指し即興師の本尊の脇に掛け奉るなり、●公之れを見て臨終の御経を始め方便品より寿量品に至り異口同音に之を誦し自我偈の半に没したまふ、行年六十三歳。

日性の伝
釈の日性は日辰の甥なり、内外の典籍に達し一たび見て永く忘れざるなり。
関白秀次公京都諸寺に仰せて謡の註を作らしむ、当宗より性公を出さる、江口の註を仰せ付けらる、即座に於いて之を書して披見せしむ、諸宗の学者之を手本と為て百番の註成す、其の余処十六番は性公の作なり。
亦建仁寺に於て蔵経周覧す、要法寺に入院し文句を講す、其の外神道外典の講釈数を知らず院の御所、後陽成院召し出され外書を講す、請に因つて太平記十巻を述ぶ亦編年合運図二巻を述ぶ、其の外内典には御書抄十二巻、一切経抜五巻、柿の葉と名く著述の書甚た多し。
或る時後陽成院性公を召す、勅に応して院参す、外典の本拠数条御尋ね之れ有り、性公一々勅答滞らず、其の中三十年以前に勅本借用披見の事之れ有り其の内の事ども返答したまふ云云、亦内外典籍抜聞世間に流布す、三大部仏祖統記等なり、亦外典文選等近代開板の始なり、慶長十九年甲寅二月廿六日六十一才にして没したまふ影像の賛自ら之れを書す。六十一年 迷悟の辺を泯し 生を示し滅を示し 仏法現前す

日恩の伝
釈の日恩俗姓知らず、所化名は鐡鼠、下総国飯高の丈室に於て玄義を講す、帰寺の後、常に泉州の境に住す、廻国の弘通之れ有り説法毎に経鈔を著述し始め首題七字より作礼而去迄の経抄は一二百巻、方々散在の故帙を成せず、是の故に説法座数次第に重さなり要法寺入院の後三千座の供養を修せらる、其の後数百座之れ有り。
前阿波の守入道蜂菴、尊敬の故に隠居所を建立して寄進す故に川原に於いて一院を開き元和六年に隠居するなり、爰に於いて十年の間読経、其の間弘通止まず、寛永六己巳十一月廿三日七十八歳にて没し玉ふ。
釈の日成、平安城の人、日辰の弟子なり志学の比より下総飯高に於いて修学し後帰洛して三大部を周覧すること数辺、内外典神道詩歌に達す、何に講を開くに聴衆市を成す、建仁寺に於いて蔵経を周覧し一見して永く忘れず、之に依つて時の人玉篇を尋ぬ可きより成師に問ふ可しと。
応長十五庚戌の比より寛永十七庚辰に至り卅余年の間講談廃することなし、蔵経抜書亦多し一年宮谷談所の能化に請はる、然りと雖も入院の砌り故寺中を下らず在位纔に三年、隠居して猶講談して終る、庚辰六月廿一日没し給ふ年行七十一歳なり。
編者謂く雪仙文庫蔵啓師本に依つて此を写し校訂を加へて又延べ書にす、但し著者啓師なりや否やを知らず。

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