富士宗学要集第五巻

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祖師伝

 大聖人御一期在生の次第
人皇八十五代後堀河院、東海道十五ケ国第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷小湊片海人の御子息なり。
仏滅度後二千百七十一年の時代貞応元年壬午二月十六日御誕生なり、八十七代四条院の御宇天福元年御年十二にして清澄山に登り給ひて御師匠は道善の御房、同御宇に延応元年十八才にして御出家あり十月八日なり、御学文の次第、初には浄土宗本山に於て御談義と云云。
御出家十二年に諸宗を極め玉ふ、諸人用ひざる故に道善房内証には殊勝と思召せども御承伏無し云云、律宗をも御習学此れも口には示せども意は戒律に背き又小乗なりとて之れを捨つ、次に禅宗を習学し玉へども権の故に用ひざるなり、次に真言宗を御習学し給ふ彼の所立も教の次位階級をも弁へざる宗なりとて用ひ玉はず、謗人謗法とは弘法大師立て玉ふ様なれども妄語の宗旨なりとて是れを用ひ玉はず、其の後終には南都の六宗を学し又後には延暦寺に於て天台宗を御学文なり。
八十九代新院久仁の御宇、建長五年癸丑四月廿八日午の時清澄寺持仏堂に於いて一山の大衆を集め念仏無間諸宗無得道の法門を一々に仰せ出せしなり、御年は卅二才なり、其の夜寺を追はれ玉ふ是れも地頭東条左衛門念仏者なる故なり、其の後西条花房の郷、青蓮坊にして御居住あり、地頭又念仏者なる故に殺害申さん為に、御堂供養と号して聖人を請し奉る、然りと雖も其の害を遁て軈て鎌倉に御帰ありて名越の御房に居住し御はすなり。
九十代当恒仁の御宇、文応元年庚申七月十六日立正安国論を擁し宿谷入道に奉上る御年は卅九才、正嘉元年の大地震に驚いてなり、其の後念仏禅律の檀越数百人与力して夜打に聖人の御坊に寄せたり御弟子能登坊疵を蒙り畢ぬ聖人は其の難を遁れ玉ふ、同帝の御宇弘長元年五月十二日に伊豆国伊東に流罪せらる、八郎左衛門のあつかり、同三年二月廿二日に赦免ありて鎌倉に御登り、其の年慈父御墓の為に安房国へ御下向、八旬の老母に御見参あつて互に御悦喜限り無く候、爰に老母重病にして死去し玉ふ云云、御祈祷有しかば生活き玉ふ四ケ年御存命、其の時の経文には薬王品の文と見えたり秘す可し、秘す可し、其の後道善坊に御対面有りて種々の御法門と云云、去れは承伏し玉ふと伝へ承り候、釈迦如来を新に造立し奉り安置し玉ふ云云、同帝文永元年甲子の秋又安房国に御下向有り十一月十一日に老母を見奉らん為に、西条花ぶさ郷青蓮坊より東条左衛門、舎弟、子息等宿意を遂げんが為に、左衛門が宿所の前の松原を通り給ふ時軍兵等多勢を引率して追懸け奉る申酉の刻計りなり云云、御弟子一人打れ併に御中間男佐藤次郎疵を蒙り鏡忍坊身に疵を蒙り左近の亟忽に 打たるゝなり、聖人は疵を被り左手を折らるゝなり。
文永八年辛未六月十一日大旱魃の時、良観坊雨の祈の時聞し召され一日に三度御使を立て玉ふ周防坊と入沢の入道との念仏者なり、其後平金吾が郎従少輔坊、聖人御懐中の法華経の五の巻を取り出して御面を三度叱み奉るなり、残る九巻の御経共は引き散し足に踏み家二三間打散し委は別紙の如し。
同八年九月十二日の夜竜口の御難なり、依智の三郎左衛門剱を抜き頚を打んとす、其の時御所中の大物恠、江の嶋より光物出来て御馬の頭を越え行き辰巳の方より戌亥の方へ光り渡るなり、御所中に物恠あるに依て死罪を止めて流罪と云云、十三日には依智へ御入り、十三日の夜不思議の瑞あり大なる星の庭の梅木の枝にかゝる、同十月十日に相州愛京郡依智を御立あつて、武蔵国久目河に付き玉ふ。十二日を経て越後寺泊に付き玉ふ。
次に佐渡大海に付き給ふ十月廿八日に付き給ひて塚原の三昧堂に御はすなり、御才五十才の時なり、文永十一年甲戌二月十四日に御赦免の状を給はりて同三月八日に島に付く、同十三日国を御立あり廿六日に鎌倉に御付あり、同四月八日に平の金吾に対面し玉ふ名乗はよりつな、種々の御物語あり、数多の物恠の中に蒙古国より今年寄す可し云云、御勘気以後佐渡に四ケ年と云云、同五月十二日に鎌倉を御立あり、さかわまで、十三日には竹の下、十四日に車返、十五日には大宮、十六日には南部、十七日甲斐国波木井の郷南部六郎入道法名日円と云へり日興上人の御教化なり日円入道の所に御座あり、六月十七日に身延山に御移り有りて九ケ年の御隠居なり、昼夜の勤行懈らざるなり。
弘安五年壬午九月八日に身延山を御出で有り、武州池上に御入あつて地頭左衛門大夫宗長が宿所に移り御はして、同十月十三日辰刻御年六十一と申すに御入滅なり云云、御臨終の時大地震瑞相の奇特甚之多し、同十四日に戌の刻御入棺、子の時御葬送なり。
御遷化は仏滅後二千二百卅一年なり、御遺書に任せて御墓をば身延山に立て玉ふなり、日興彼の別当にして六人の御弟子懈怠無く香花有る可き由定め仰せらる云云、文永十一年蒙古の軍船来り十月五日に壱岐対馬に付くと云云。
聖人御歌身延山にて遊ばさるなり。
わか山はさと遠からず近からず静かにはありさびしくはなし。
一たびは御のりの船ををきながら心としつむ身こそはかなき。
永禄二年己未二月朔日重須に於て之を移す日辰在判。

05-019
駿州富士山重須本門寺釈の日興伝
釈の日興俗姓は由比、岩本実相寺の住持伯耆の阿闍梨と名くるなり、後に日蓮聖人の弟子と成り改めて日興と号するなり、岩本の実相寺とは四十九院の中の一院なり、日興は彼の寺の住持にして社家の供僧なり、岩本とは冨士山の南を下り其の坂路より南方に当るなり、日代日善日助同く由比なり、日興兄弟の子なり、日善授与の本尊に云く由比の大輔阿闍梨日善に之を授与すと文、開山若年の時三井寺に登り播磨律師と云ふ能化に随ひ学文し玉ひ、其の後冨士の西山に下向あり、彼の播磨の律師は事の縁有りて身延沢に下り波木井の六郎実長の堀の内にして天台の談義を作る、伯耆公聞食し及んで身延山へ越し実長の子息三郎清長に対面して即清長の家を宿所として修学し玉ひき、其の間に清長に対し当宗の御法門を談し玉ふ清長聴聞して信仰し奉る、同く実長の妻之を聴聞して受法す、実長は鎌倉より下向し清長親父に向つて法華の法門を語らる、実長併に妻受法すべき由治定す、日興実長に対して法談し玉ふ実長之を聞き即法華の持者と作る、又開山冨士の西山大内殿の親類の由を仰せらる云云、実長鎌倉に於て大事の沙汰有り鎌倉に在るの時、大内の宿所と一所たる間実長大内に値ひて当宗の信心を物語をし玉ふ云云、大内悦喜を成し実長を比企谷に誘引して蓮祖に値ひ奉る時御法談あり、其の後蓮祖佐渡流罪の後文永十一年卯月八日に鎌倉の管領平左衛門尉頼綱に対面有りて之を諌む、頼綱之れを用ひず還つて瞋恚を興す蓮祖三たび諌めて用ひざれば山林に交る可しと云つて甲斐の身延山に蟄居し玉ふ事九ケ年なり、第九年弘安五壬午年九月十二日に身延山を出で武州池上兵衛允宗長が家に移る十月十三日御遷化なり、御遺言の置状御遷化記録と名く執筆日興なり、日照日朗日興日向の四人の裏判之れ有り、此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今永祿二己未年西山本門寺に之れ有り、蓮祖の御廟は御遺言に任せて身延山に立て玉ふ六人の僧徒香花燈明懈怠有るべからず云云。
其の後当別当日興に同宿すべからずと云つて日照は浜へ下り相州の浜日朗は比企か谷に下り相州の比企谷なり、日向は安房の国に下り日頂は下総の国に下り皆各我が本国に遷り玉ふ、然るに蓮祖の七年忌に当る年日興書を以つて諸老に贈り玉ふ、其の書に云く何ぞ御遺言に背いて国々に下向し御廟の香花中絶し鹿の臥処と成し玉ふぞと歎き給ふ、日向此の廻文に驚いて身延山に登り玉ふ、爰に実長の管領に安弥次郎入道の子息二人あり、先腹福満を日興に進らし当腹伊豆鬼を日向の弟子と成すなり、実長即種々の謗法を致す、冨士の塔の材木を寄進し、又道智坊が九品念仏の奉加帳に入り、又三嶋の戸帳を懸く已上三ケの謗法なり、開山老母冨士の西山河合に於いて他界あり、同くは老母閉眼の所に於て訪ふべしと言って日興河合へ越え玉ふ、中陰の間に安弥次郎入道の妻継子を憎み日興と実長との間を義絶せしめん為に種々の讒言を成す、之れに依つて実長と日興と不和に成る、然りと雖も実長清長日興上人を以つて初発心の師匠と為すの自筆の消息数通之れ有り、然る所に西山の大内、上野の七郎次郎時光、重須の石川式部大輔実忠、開山に告げて言ひける様は波木井六郎実長は謗法の人なり、冨士西山に於いて御弘通有る可し云云、之れに依つて開山身延山を出で冨士に移りて三十年弘通し万人の利益之れ有り事繁き故に多を略して一を存するなり云云。
一義に云く開山は身延山を出で河合に三年住し給ふ、河合の寺号をば妙福寺と云ふ、其の後下之坊に三年住し玉ふ、其の後大石寺に三四年住し玉ふ、其の後本門寺に三十六年住し玉ふ、重須の本堂は永仁六年の建立なり云云。
日辰開山の御影堂の御棟札を拝見し奉れば御影堂は永仁六年の建立にして未だ本堂建立の棟札を見ざるなり、重須の本堂は開山御入滅の後建立の旨大石寺の記に出でたり云云。
定  日興弟子事
本六人       新六人
 日目         日代
 日華         日澄
 日秀 付日代     日道
 日禅 日善付日助   日妙
 日仙         日毫
 日乗         日助
右定る所此くの如し日目日仙日代等本門寺仏法の大奉行為る可きなり、但し日代阿闍梨を以つて日興の補処と為し大聖人御筆大曼荼羅已下自筆の御書等之を相伝せしめ本門寺の重宝為る可きなり、本六人新六人等此の旨を存せらる可きなり、若し七十已後の状共と号し此の条々棄置の弟子等は大謗法の仁為る可きなり、在家出家共に此の状を守る為に仍て置状件の如し。
元徳四年二月十五日   日興御判
永祿二己未二月三日西山本門寺に至り御筆勢の如く之を写し奉り畢ぬ、証人要法寺の沙門日住なり、日辰在判。
元徳二庚午年は開山八十五才なり、元徳三年は即元弘元年なり、元徳四年は即正慶元壬申年なり、正慶元年は開山の御才八十七才なり、正慶二癸酉年二月七日重須本門寺に於いて御入滅なり、開山御存命の時、墓所を立て桜木を殖えて自製あり。
つひにわかすむへき野辺の草みれはかねて露けき墨染の袖。
余廿三才享禄三庚寅年の秋、西山本門寺に至る時の冬開山重須本門寺の御廟に参詣す、又弘治二丙辰年七月四日已後十一日早天に至り之れに拝跪す、又永禄元戊午年十月朔日登山、翌年三月に至るまで住山し日々御廟の辺に彳み思慕感悼し終に之れに題す。
君のすむ苔の下草かり衣、きてみるたひに袖そしほるゝ。
開山上人正慶二癸酉年二月七日御入滅、実に八十八才の御遷化なれば則人皇八十七代後嵯峨院の治四年、寛元四丙午年の誕生に当るなり。
陽曰く此の面には日辰上人重須に有り御廟所参詣御塚の様子御墓しるしの桜木樒など石さしの躰など絵図有りて遊ばさるるなり桜は枯れて長一丈四尺八寸と遊ばされたり、今元和三丁巳四月廿七日参詣して拝見するに彼の桜朽ちて横はり重りてあり少し取て守袋にあり、正御影三度拝み奉るなり、其の外大曼荼羅数幅、病即消滅の御曼荼羅梁札等、紺紙金泥の一部一巻の法華経長五寸余其の外蓮祖の御書御霊宝数多拝見す云云。
日興上人弟子分の帳の中に云く永仁六年戊戌松野甲斐公日持は日興最初の弟子なり、而るに年序を経るの後、阿闍梨号を給ひ六人の内に召し具せらる蓮華阿闍梨是れなり、聖人御滅後白蓮に背き五人一同に天台門徒なりとなのれり。
日辰弘治二丙辰年七月七日駿州冨士重須本門寺に於いて日興上人御自筆を以つて之を写し奉る、時に勧持院日誉、本妙坊日優、成田宗純入道、黒川寂円入道等之を見る、松野とは冨士西山の南方の里なり。此の日興御筆跡の中に五人一同天台門徒なりとなのれりと判し玉ふを見ながら五人と通用はならざる事か。
一上野の事  日興上人御自筆の御状。
熊と申せしめんと欲し候の処に此の便宜候の間悦ひ入りて候、今年は聖人の御第三年に成らせ給ひつるに身労なのめに候はゞ何方へも参り合ひ進らせて御仏事をも諸共に相たしなみ進らす可く候つるに所労と申し又一方成らざる御事と申し何方にも参り合せ進らせず候つる事恐れ入り候上歎き存じ候。
抑も代も始まりて候聖人より後も三年は過ぎ行き候に安国論の事御沙汰何様なる可く候らん、鎌倉には、定めて御さばくり候らめども、是れは参りて此の度の御世間承はらず候に尚今も身の術無きまゝはたらかず候へば仰せを蒙る事も候はず、万事暗々と覚え候、此の秋より随分寂日房と申し談し候て御辺へ参る可く候つるに其れも叶はず候。
何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候、地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由御遺言とは承はり候へども不法の色も見えず候、其の上聖人は日本国中に我れ持つ人無かりつるに此の殿ばかりあり然れば墓をせんにも国主の用ひぬ程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥す可き御状候し事日興の賜はりしあそばされてこそ候しか、是れは後代まで定めさせ給ひて候を、彼れには住ませ給ひ候はぬ義を立て候はんは如何が有る可く候らん、詮する所縦ひ地頭不法に候はゞ眤んで候ひなんず争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候、師を捨つ可からずと申す法門を立て乍らこ忽に本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難も術無く覚え候、此の如き子細も如何と承はり度く候、波木井殿も見参に入り進らせたがらせ給ひ候、如何が御計ひ渡らせ給ひ候べき、委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ。若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候、波木井殿も同事にをはしまし候、さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候、今も御不審免り候はゞ悦び入り候の由地頭も申され候某等も存し候、其れにもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん、聞しめして候へば白地に候様にて御墓に御入堂候はん事若しくは候はじと覚え候、当時こそ寒気の比にて候へば叶はず候とも明年二月の末三月のあはいにあたみの湯治の次には如何が有る可く候らん、越後房の私文には苦しからず候委細に承り候て先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり、いかにも御文には尽し難く候て併ら省略候ひ畢んぬ。恐々謹言。
弘安七年甲申十月十八日     僧日興在判
進上  美作公御房御返事。
日興上人日円に進らせ給ふ御状の事。
一閻浮提の内に日本国、日本国の内に甲斐国、甲斐国の内波木井の郷は久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり天魔破旬も悩ます可からず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり怨霊悪霊もなだむべし。
天照太神の御子孫の中に一切皆念仏申して背けば不幸なり、適ま入道一人法華経を如説に信じ進らせて候はいかに孝養の御子孫に候はずや、法華経此の処より弘らせ給ふ可き源なりと御所作の申す事には候ふ可し。
院主学頭の事。
仏は上行無辺行浄安立行の脇士を造り副へ進らせて久成の釈尊に造立し進らせて又安国論の趣には違ひ進らす可からず、惣じて久遠寺の院主学頭は未来まで御計ひにて候ふ可し。正応元戊子年十一月日使者下野公退出同十二月五日。
日辰之を推して云く日興身延山を出で冨士に移りて後波木井六郎に日興書状を贈り奉る、其の状の意に云く日興を以て身延山久遠寺の院主学頭と為す可きなり、其の状到来の年正応元年なり、正応元とは弘安十一年戊子即正応元戊子年なり、蓮祖御入滅の後第七年戊子の年なり。
正応元年日興上人、波木井六郎に贈り玉ふ御返報、爾の時弥六を原殿と号す。
御札委細拝見仕り候ひ畢ぬ、抑此の事の根源は去る十一月の比南部孫三郎殿、此の御経聴聞の為め入堂候の処に此の殿入道の仰と候て念仏無間地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はる可からずと承り候し間、是こそ存の外の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候、殊にいたく此の国をば念仏真言禅律の大謗法故大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほくらには大鬼神入り替りて国土に飢饉疫病蒙古国の三災連々として国土滅亡の由、故日蓮聖人の勘文関東三代に仰せ含められ候ひ畢ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候へ、是れを国の為め世の為め一切衆生の為め故日蓮阿闍梨、仏の御使として大慈悲を以つて身命を惜まず申され候きと談して候しかば孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰仕り候ひ畢ぬ、守護の善神此の国を捨去すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ尤も参詣す可く候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅後、誰に値つてか実否を決す可く候と委く不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め玉ふ可き事候、師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢ぬ、是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承はり候し間夜半に出て候て越後房を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め進らする事を入道殿聞し食され候て民部阿闍梨に問はせ給ひ候ける程に御返事申され候ひける事は守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども白蓮阿闍梨外典読に片方を読んて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会す可し尤も参詣す可しと申され候ひけるに依つて入道殿深く此の旨を御信仰の間、日興参入して問答申すの処に案の如く少しも違はず民部阿闍梨の教なりと仰せの候しを、白蓮此の事ははや天魔の所為なりと存じ候て少しも恐れ進らせず、いかに謗法の国を捨てゝ還らずとあそばして候守護神を、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会す可しと候は師敵対七逆罪に候はずや、加様にだに候はゞ彼の阿闍梨を日興が帰依し奉り候はゞ其の科日興遁れ難く覚え候、自今以後かゝる不法の学頭をば擯出す可く候と申す。
やがて其の次に冨士の塔供養の奉加に入らせをはしまし候以つての外の僻事に候、惣して此の廿余年の間、持斎法師、影をだに指さざりつるに御信心何様にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ、是れと申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ●曲したる僧、聖人の御法門を立るまでは思ひも寄らず大に破らんずる仁よと此の二三年見つめ候てさりながら折々は法門の曲りける事を謂れ無き由を申し候つれども敢て用ひず候、今年の大師講にも啓白の祈願に天長地久御願円満左右大臣文武百官各願成就とし給ひ候ひしを此の祈は当時至すべからずと再三申し候しに争か国の恩をば知り給はざる可く候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講仕らず候き、此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成釈迦如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰れも造り奉らず候に入道殿御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に御用途も候はず、大国阿闍梨の奪ひ取り奉り候仏の代りに其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給ひて固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は責めて故聖人安置の仏にて候はば、さも候なん、それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給ひ候べき、御力契ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと強ひて申して候しを軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に進んで帰依し候甲斐に重んじ進せたる高名と存じ候は、聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん、いしくも●曲せず且つ経文の如く聖人の仰の様に諌め進らせぬるらせたる者かなと自賛してこそ存じ候へ。
惣じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠実成の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の施始めて施され候ぬ、此の事共に入道殿の御失にては渡らせ給ひ候はず、偏に●曲したる法師の過にて候へば思し食しなをさせ給ひ候て自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿年の様に信じ進せ候べしと改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部阿闍梨を師匠にしたるなりと仰の由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ、日蓮聖人の御法門は三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候を捨てゝ阿弥陀仏を憑み奉るによつて五逆の罪人と成りて無間地獄に堕つ可きなりと申す法門にて候はずや、何を以つて聖人を信仰し進らせたりとは知る可く候。
日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は二代三代の末は知らず候、未だ上にも下にも誰か御忘れ候可きとこそ存じ候へ。身延沢を罷り出て候事面目なさ本意なさ申し尽し難く候へども打還し案し候へばいづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候はん事こそ詮にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子悉く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当りて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達は何れも正義を御存知候へば悦び入り候殊更御渡り候へば入道殿不宜に落ちはてさせ給はじと覚え候。
尚民部阿闍梨の邪見奇異に覚え候、安房へ下向の時も入道殿へ参候て外典の僻事なる事再三申しける由承はり候、聖人の安国論も外典にてかゝせ渡らせ給ひ候、文永八年の申状も外典にて書かれて候ぞかし、其の上法花経と申すは漢土第一の外典の達者が書いて候間、一切経の中に文詞の次第目出度とこそ申し候へ、今此の法門を立て候はんにも構へて外筆の仁を一人出し進らせんとこそ思ひ進らする事にて候つれ、内外の才覚無くしては国も安からず法も立て難しとこそ有るげに候、総じて民部阿闍梨の存知自然と御覧し顕はさる可し。
殊に去る卯月朔日より諸岡入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ曼荼羅を書きて同八日仏生日と号して民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱へ出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間酔狂の余りに一声を挙げたる事、所従眷属の嘲哢口惜しとも申す計りなし、日蓮の御耻何事か之に過きんや此の事は世に以て隠れ無し人皆知る所なり、此の事をば且く入道殿には隠し進せて候へども此くの如き等の事出来候へば、彼の阿闍梨の聖人の御法門継ぎ候まじき子細顕然の事に候へば、日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり同行に憚ていかでか聖人の御義をば隠し候可き、彼の阿闍梨の説法には定めて一字も問ふたる児共の日向を破するはとの給ひ候はんずらん、元より日蓮聖人に背き進らする師共をば捨ぬが還つて失にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影の此の程の御照覧如何、見参に非れば心中を尽し難く候、恐々謹言。
正応元年戊子十二月十六日  日興在判四十三才なり
進上 原殿御報。
追書に云く
追て申し候、涅槃経の第三第九の二巻御所にて談じて候しを愚書に取具して持ち来りて候、聖人の御経にて渡させ給ひ候間慥に送り進らせ候、兼て又御堂の北のたなに四十九院の大衆の送られ候し時の申状の候し御覧候て便宜に付け給ふべくや候らん見る可き事等候、毎事後信の時を期し候、恐々、外典愚抄共の候後進に又給はるべく候、恐々。
日立併に寂日房の状是は平家の式部阿闍梨への返報。
彼の筆は寿量品供養の一躰仏始成無常の事なり此の事は彼の筆候とも都て苦しかるまじきと承はり明めて候、一仏は我れ囲繞し奉ればとて滅後の弟子造る可からず候、囲繞せざれと状の候なり、其の上に不審有るましく候間是れは思ひ定めて候なり、是非に付け候て此の事は御渡り候て聞し食し明めさせ給ひ候べく候、我が仏は無常の仏ぞ我がまねすべからずとの状候上は不審有るべしとも覚えず候、さもと思し食し候は、新大夫が参り候とつれて御参り候べく候。
四月三日 日華在判
二人御中式部阿闍梨と今は刑部阿闍梨なり其時は肥前と云き。
日辰云く式部阿闍梨日妙と日華と本来は甲州七覚山の山伏なり、日妙山伏為りし時日興御筆の率都婆を熟視し重須の人に値ひ問ふて云く誰人の手跡ぞや、答て云く日興の御筆なりと、則興師に値ひ後に受法せりと、昔の師を後に日華と号す日妙昔の師を教化して日興の弟子と為らしむ、日華一寺を建立す今の妙蓮寺是なり。妙蓮寺を堀の内と号す堀の内は昔の南条殿の屋敷なり、堀の内の近処を昔上野と云ふなり。
日辰云く右日興上人原六郎に贈る御書併に日華の書状同立像の釈迦を造立せんことを制止し玉ふ、未だ久遠実成の教主釈尊を造立せんことを制止し玉はざるなり、何となれば波木井三箇の謗法の中に第二久成の釈尊の木像最前に破ると文、是則興師正義の破壊を悲哀し玉ふなり。

05-030
駿州富士山大石寺釈日目の伝
釈の日目、俗姓は奥州の新田なり、師の父新田、在鎌倉の時伊豆国に寓居し南条の息女を妻として師を生む、師児為りし時伊豆の山蓮蔵坊に住せしめて出家と作んと欲す、日興上人熱海に入つて湯治せんとし玉ふ次でに伊豆の山に登りて一見し玉ふ、日興蓮蔵坊に向つて云く汝山伏は法華誹謗無間の業なり、蓮蔵負処に堕つ児傍に在つて之れを聞き意に謂らく我が師は法門弱し日興の弟子に成らんには如かじ、日興駿河路を経て甲州に帰り玉ふ、児十五才にして夜中に入り忍んで蓮蔵坊を出で日興の跡を尋て追ひ駿河の国に於て日興に値ひ奉り玉ふ、蓮蔵坊児の在らざる事を思ふて人をして駿河に追はしむ駿河にて追ひ就いて児を取り還さんと云つて遂に刀劔を交へ矢を飛し戦ひ合へども、日興日目を具して甲州に登るなり云云已上重須本門寺日出上人の談なり、一説に云く日目十五才の時伊豆の山を出で乃至武蔵に入り、武蔵より甲州身延山に入りて日興に値ふ、日興日目の童形を以て蓮祖に見みへしむ、蓮祖云く童形の弟子日興に似合はずと、日興即剃髪せしめ逆即是順の義を以て宮内卿蓮蔵阿闍梨日目と名を改め玉ふ、已上重須本門寺の僧本行坊日耀の説なり昔久しく大石寺に住する故なり。
日興上人日目に大石寺を付属するの御書に云く。
日興跡条々の事。
一本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内に於て山寺等半分は日目嫡子分として管領せしむ可し残る所の半分は自余の大衆等之を領掌す可し。一日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉る可し。
一大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領す修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つ可きなり。
右日目十五の才日興に値ひ法華を信じて以来七十三才の老躰に至るまで敢て遺失の儀無く、十七才にして日蓮聖人の所に詣て甲州身延山、御在生七年の間常随給仕す、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異るに依て此くの如く書き置く所なり。
元徳四年三月  日興在判。
右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ。
時に永祿二己未二月廿六日申刻、日辰在判。
予数通の意を以て之を互見する時は日目上人は文応元庚申年の御誕生なり、文永十一甲戌年十五才日興上人に値ひ奉るなり、日興の御才廿九なり、蓮祖の御才五十三なり、建治二丙子年十七才身延山に登り蓮祖に値ひ奉り弘安壬午年十月に至るまで合して七年の給仕なり、弘安八乙酉年より元徳二己巳年に至るまで合して四十六年なり、然るを日興五十年と書き玉ふことは蓋し大数に約するか、元徳四年は即合して四十八年なり、元徳四年壬申は即正慶元壬申年なり、日興は八十八才正慶二癸酉年二月七日の御入滅なり日目は七十四才正慶二癸酉十一月十五日美濃国垂井に於て御入滅なり、御伴の弟子両人、両人は日尊日郷なり。
要法寺十八世の当住法印日陽が云く、去る元和三丁巳大石寺参詣を志し四月十六日彼の垂井に宿し日目上人此の処に於て御遷化の地なり、御廟跡定めて処の老人知りなんと思ひて法華の札を尋ねて其の家に至る、老婆に問う老尼云く我れ等覚ては此の処に寺なし、今は大柿に六条の末寺あり盆十月正月には是れへ参詣申すなり、自然死縁病志等には此の処より出家を請して此くの如く札等を押すなり、我れ等若き時あの向ひの山の麓をばおしと云ふ在処なり、此の処は皆法華にて寺も候つるなり、節々山の乱に今は寺もなげに候と答ふ、愚之れを聞き然らば是れそこならんと心得て寺僧恵●坊同心し、十七日の朝草を分け露をしのぎ道々久遠の偈を誦してはるばる五六十町計り行けば在郷あり、小家へ尋ね入り問へども一乱已来の者どもにて更に知らずと答ふ、梁門高き家に問ひより茶呑み心閑に雑談し寺はなきか、又古き法華寺などありたると云ふ跡は知らざるかと問へば、老尼目を閉ちて云く我れ等能く覚てある迄法華寺ありて若き僧居られてあり、爰の殿は代々おし殿と申し候しが、先殿は死去候しが大荼毘にて候にて候つ、其の時の坊主は玉仙坊とやらん申し候つ、京へ上ると云つて二十余年以前出でられて二度と下られず跡は麦畠にて候と申す、然らば其跡を教へ候へ自然石塔などの形が候はんといへば、家主の男いや昔は此山の奥え寺共多く候しが、里遠く候とて思ひ●●に屋敷をもらひ爰等在郷へ出でられ候間、大なる石塔五輪とも多く其の跡に候と申す、故に然らば其の処へ参らんといへば、いや折節新馬草の為に見候に悉く崩れ、つた葛はいかゝり形も見えざる躰に候只無用なりと申す、下おしと申す処になにがしと云ふ老人あり是れ自然知る事もやあらんと申す故亦はる●●西の方へ下り彼の人を尋れば折節植田見にとて居らず、河原に下り水手鵜飼して自我偈数巻首題数返して皈るさに、田のあぜ道にして鍬将ちたる老人に値つて是れぞ彼の男ならんと問へばそれぞれと云ふ、上件の事有ら増し問へば是も始めの老尼のいへる如くに云ふ、今彼の殿の行衛を問へば石田治部乱に皆打死なり、其の弟に何がしとやらん一人生き残つて今九州に居られ申し候なり、是ぞ法華の種ならんと語るなり、之を聞き樽居へ戻れば巳刻に及ぶなり、右私なり。
日興上人大石寺御置き文に云く。
一閻浮提の内諸山寺を半分と為して日目座主為る可し、其の半分は自余の大衆に之を配る可し、日興遺跡は新田宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人と為れば大石寺の別当と定む、寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひ。
又云く仏は水、日蓮聖人は木、日興は水、日目は木。
右此の御血脈等は御正本房州妙本寺に之有り。
天文十三年甲辰極月廿五日謹で之を抄書し奉る、日義判。
開山上人日目を以て座主と為す可きの由の付属の長篇の内詮要此くの如し、余永禄二年己未正月十八日小泉久遠寺に於て之れを写し奉る、時に重須日出上人併に寺僧本行坊日輝、丹後阿、讃岐阿、京都要法寺沙門日玉等熟ら此の書写を見らるゝ者なり、今永禄三庚申年七月十七日、洛陽綾小路堀川要法寺に於いて之れを書写す。 日辰在判。
生身愛染明王拝見
正月一日日蝕の時  日形。
大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。
建長六年廿五日、日蓮新仏に授く。
生身不動明王拝見
十五日より十七日に至る、月形。
大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。
建長六年六月廿五日日蓮新仏に授く。
右の一紙日興日目に付属し玉ふ今房州妙本寺に在るなり。
日興に物かゝせて日目に問答せさせて又弟子ほしやと思はず候、小日蓮々々々。
  月  日  日蓮在御判。
右蓮祖の御一筆今房州妙本寺に在るなり。
日目上人、父の生国奥州新田に還り又六町の目の地頭颯佐殿を教化して受法せしむ、颯佐殿矢蔵に上り題目修行を作すなり、一説に云く新田は本来郷の名なり然れば日目御親父の名は在名なり、新田殿は大崎の御所の御一家なり、大石寺衆云く日目大石寺を以つて日道に付属す日道日行に付属す日行日時日阿日影日有日乗日底日鎮日院。
小泉の久遠寺日義云く日道に六ケの謗法有り一には未処分の跡を奪ひ取るなり、日目天奏の為に上洛せんと欲し濃州に於て御入滅なり、是の故に大石寺は日目日道に付属せず日道付属の状之れ無し、然るを大石寺を押領す是れを未処分の跡を奪い取ると云ふなり、二には玉野日尊は日興御勘気十二年なり、其の間に日道日尊の供養を受るなり、三には故聖教を以つて屏風を張る等なり。
濃州樽井日目上人の墓所に題す、房州妙本寺日我。
至心に法を求むる法華の魁、樽井の水寒くして命を没する哀れなり、二百年前昨夢の如し、残碑剥落して已に苺苔す。
将に日目墓所に赴かんとす垂井の辺に至る、洛陽要法寺日辰。

05-034
駿州富士山本門寺釈の日代伝
釈の日代、俗姓は由比、駿河の国の人なり、日興を師とし仕へて終に、補処の弟子と為る、其の付属状に云く。
一六人の弟子を定むと雖も日代は日興付属の弟子として当宗の法燈為る可し仍て之を示す。
正和三年十月十三日  日興御判。
余謂く正和三丙辰年は日興上人六十九才なり、日辰在判。
日蓮上人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之を相伝せしめ畢ぬ、仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十月十三日  日興御判。
余謂く正中二乙丑年は日興上人八十才なり、日辰。
日蓮先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代以下の弟子有り、六人の外と号して之を軽すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限りにあらず仍て後証の為に置き状件の如し。
正中二年十月十三日  日興御判。
正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日  日興御判。
聖人御門徒各別なる事法問の邪正、本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等法問異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、就中日代に於ては在家出家共に日興の如く思し食さるべく候、門徒存知の為め置き状件の如し。
嘉暦二年九月十八日   日興御判。
余謂く嘉暦二丁卯年は日興八十二才なり。
定、日興弟子の事 日辰云く上来に於て之を記し畢ぬ、故に今之を略す。
日秀阿闍梨の跡併に御筆大本尊日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興門徒等此旨を存すべきなり、若し此の状を用ひざる者は大謗法の仁為るべきなり、仍て状件の如し。
元徳四年二月十五日  日興
余謂はく元徳二庚午年は日興上人御年八十五才なり、元徳三年は即元弘元年なり元徳四壬申年は正慶元年なり日興上人御年八十七才なり。
熱海湯地の事
伊豆国走湯山の東院尼妙円譲り状に任せ知行せしめ了ぬ、而るに弟子日代阿闍梨付法為るに依って譲渡す所なり、仍て状件の如し。
元徳三年十月十一日  日興御判。
余謂はく元徳三年辛未即元弘元辛未年なり、開山八十六才なり。
日叡筆記の事。
建武元年甲戌正月七日、重須の大衆蔵人阿闍梨日代、大輔阿闍梨日善、大進阿闍梨日助等、其の外大衆大石寺日仙の坊に来臨せり、大石寺の大衆等多分他行なり、有り合はせらる人数伊賀阿闍梨師弟、下坊の御同宿宮内卿阿闍梨其の外十四人なり時に日仙の仰に云く日興上人入滅後代々の申状に依り迹門為る間方便品を読むべからず文、重須蔵人阿闍梨日代問答口と為て鎌倉方の如く迹門に得益有りと立てらる文、日仙は一向迹門方便品読むべからず文、是亦日弁天目の義と同篇なり、然して当日の法門は日仙勝ち申さるゝなり、日叡其の座に有りて法門聴聞せり、結句重須本門寺大衆等の義には元より日代五十六品と云ふ法門立てらる間、高祖聖人併に日興日目等の御本意に非ざる故に、日代は本迹迷乱に依つて重須大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢ぬ、末代存知の為に日叡之を験るし畢ぬ。
正本は九州日向国日知屋定善寺に日叡の自筆之れ有り。
弘治二丙辰年七月四日、日辰と日誉、日優、宗純、寂円等と重須本門寺に参詣す、当住日耀云く日代謗罪衆多の中に本迹一致心寄せと云云。
日興上人六七日菩提の御為に石経一部を書写せり、一部書写は一部読誦の謗罪と同じ、是の故に重須大石の衆徒、南条、石河、由比、高橋同心に重須を擯出し畢ぬ。
又大石寺の記に云く応永六己卯年十月下旬に、助に対して御物語に云く重須の在所等の付弟は上人より日代に付し給ふなり、然るに迹門得道の法門を蔵人の阿闍梨立て給ひし程に西山へ退出し給ふなり、此の法門は始は我と必しも迷ひ立て給はず、讃岐国の先師、津の阿闍梨百貫坊と召され、日仙云く我れは大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨を堅く聴聞す故に迹門を捨つべし、爾れば方便品をば読みたくも無き由を云はるゝ時、日代日禅日助等之を教訓して法則修行然るべからざる由を強に之を諌め天目にも之同しなんど云ひけるなり、此くの如く云ふまゝに後には剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひ成して此の義を後には募り玉ふまゝに此の法門は出来しけるなり。
日代云はく迹門は施迹の分は捨つべからず云云、かゝる時僧俗共に日代の法門謂れ無き由を申し合ふ、其の時石川殿諸芸に達したる人にして又学匠なりしが、我れさらば日道上人へ参りて承はらん已に彼の御事は聖人の御法門をば残す所よもあらじと思し召すなり、さて此の由を問ひ申す時日道上人の仰に云はく施開廃の三共に迹は捨てらるべしとの玉ふを聴聞して之を感じ、彼の仁重須に帰つて云はく面々皆学文が未練の故に迷ひ玉ふ、所詮此の後は下の坊へ参って修学し給へと申す、乃至此くの如くあるまゝにて日代も出で給ふまじかりけるが、剰へすゝはきの時、先師の御坊を焼き給ひし縁で其のまゝ離散し玉ふなり已上大石寺日記の文。
日辰云はく建武元申戌年正月七日の日代日仙の問答は日興御入滅、日目御入滅の翌年なり、日善は兄、日代は弟、日助は是れ日善日代の甥なり、三人等と大石寺日仙の坊に至り玉ひ終に問答と成る、日向国の日叡の筆記に云はく日代は鎌倉方の如く迹門に得益有りと立てらる云云、此の文を見る時は日代に迷乱有るに似たり、但し日善日代日助の一同奏聞の状に云はく爾前迹門の謗法を対治せられ法華本門の正法を立てられんと文若し此の文に拠る時は日代に本迹勝劣なり、今日の日興の末弟尚本迹に迷はず況や日興御代の衆をや、況や日興の正嫡をや、若し日代本迹に迷倒し玉はば正中二年十月十三日の日興の御付属徒設と作るなり、争か其の義有らんや、今経論釈義の意を案ずるに法門に至つては先つ本拠本説の如く得心して然る後に義を取るは常途の法式なり、若し爾らば頗る阿党を捨て本文の如く之を論ずる時、玄義第一巻別行経の序の中に迹門に於て施開廃の三義を立つ、施とは仏華厳乃至般若を説く時に仏意に法華有り是を施と云ふなり、法華を説き爾前を開廃する是を開と云ひ廃と云ふなり、本門に於て施開廃を立つ、施とは仏迹門を説く時仏意に本門有り是を施迹と云ふなり、涌出寿量を説き迹門を開廃し玉ふなり是を開と云ひ廃と云ふなり、為実施権の時は爾前無得道を説くべからず、其故は法華を未だ説き玉はざる故なり、為本施迹の時は迹門無得道を説くべからず、其の故は本門未だ顕れざる故なり然れば則日代上人の説に於て迷乱無きなり、然るを爾前迹門無得道と云ふは顕本の後の説なり、顕本の後は開廃の法門なるが故なり、然るを日代を以つて迷乱に処する人は還て浅学の致す所なり。
永祿元戊午年十一月五日、大輔阿闍梨東光寺僧重須の本寿坊に来至し日辰に対して云はく、日道佐州に入りて日代御筆の本尊十六鋪を焼失す、其の煙日道の面に当りて癩人と成り大石寺に帰り之を療治するに平愈する能はず河内杉山に隠居す、大石寺の檀那は竜の口等の御難所参りに代て河内杉山に登りて日道の墓を礼拝すと云云、日有も又癩人と成り日鎮は狂気をし当住日院は中風を患い痴人の如くなりと。
西山本門寺日興、日代四月十八日、日任四月廿五日、日盛三月五日、日琳三月十七日、日顕八月十六日、日眼四月八日、日出五月四日、日典八月廿五日、日心弘治三年年丁巳七月五日、日建。

05-039
日尊の伝
釈の日尊、父は奥州玉野玉野は地の名なり此地を領する故に玉野と号するなり、幼少にして天台宗と為り生死一大事を祈らんが為に泊瀬の観音堂に参籠し玉ふ事一百日なり三迫の内に於て泊瀬の観音を勧請す、百日満する夜夢に一の老僧、師に告けて云はく汝宜く南方に往くべし必ず知識に値はん、夢覚て悲喜し即南方に往く、時に三の迫の中の六町の目に至る三の迫の西に於て里有り森と名く森を去て丑寅に往く三里許り玉野に至る、又森を去て丑寅に往く一里可り六町の目に至る六町の目を去り丑寅に往く一里可り新田に至る新田を去り、丑寅に往く一里可り玉野に至るなり、此諸里三の迫の中に在るなり、然るに六町の目は未の方に当り玉野は丑寅の方に当るなり云云、此に於いて南無妙法蓮華経と唱ふるの声あり、声を尋ねて此れに赴く則地頭颯佐高矢蔵に登って之を唱ふ天文の比下総の国に武士有り颯佐と名く、師問ふて云はく世間の中妙名を唱ふるの人無し汝何ぞ爾るや、颯佐答へて曰はく今我か家中に比丘有り名を日目と号す仁者当に論議すべしと師則日目に値ふ日目説法し目公の弟子と為る、時に弘安六年仲秋十三日なり。
是れを以つて日尊の実録に云はく文永二乙丑誕生、弘安六癸未八月十三日奥州三の迫六町の目の地頭の所に於て日目上人に値ひ奉り始て経文を聴き即時に信仰受法し玉ふ、行年十九才文日尊実録一巻弟子日大自筆今泉州調御寺に在り、則日興三十八才、日目二十四才、日尊十九才蓮祖入滅の翌年なり、明年弘安七甲申年師目公に従つて甲州身延山に登り玉ふ時に五月十二日なり、同き年十月十三日始て日興上人に値ひ奉り御影堂に出仕し蓮祖第三回の追薦に値ひ奉り玉ふなり、日興身延山を出で河合妙福寺に移住し玉ふ時に正応元年なり、十月十三日已後の離山なり是れ蓮祖入滅弘安五年已後第七廻に当るなり、正応元戊子十一月波木井六郎書を日興に奉り再住を請ふ、其の後波木井入道直に書状を捧げ八度合はせて八通復住を請ふ、然るに波木井実長三ケの謗法有る故に身延に還住し玉はず、仍て正応の比妙福寺に住す、永仁の初は下の坊に住し、永仁三四五年は大石寺に住し永仁六戌戊戌正月重須に移り、同年二月十五日日蓮聖人の御影堂を造立し奉る、是より来た日興一人の檀那を見ては喜んで説法を作し玉ふ、永仁六年は日尊生年三十三才なり、永仁六年より正慶二年癸酉に至る合して三十六年なり。
日興説法の時深秋に値ひ堂を去つて戌亥に往くこと十五丈許り梨樹有り、秋風の為に吹かれて其の葉乱落す日尊之れを視玉ふ、日興之れ呵責して曰はく汝早く座を起つべし、永禄二己未年二月日辰日玉日住等と彼梨樹を見る、先年大風の吹く所と為り倒て亥の方に向僕従斧を執り之を切る残り五尺許り囲三尺許り其木の皮皆剥落して白く亦朽たり云云。
師東西に往返す西は芸石を限り東は外が浜に至るまで法華を弘演す。
其の中に雲州馬木安養寺は最初建立の地なり、先つ堂に於いて弥陀の像を安置す、師即其の像の前に於て日興書写の本籍を懸け説法し給ふ、馬木一門受法す、安養寺を以て法華弘通の道場と為し、逆即是順の義を顕はさんが為に本名を改めず尚安養寺と名く、師仏像に至つては或は他宗に与へ、或は山峰に於いて草堂を結んで之を入る、爰を以て興上の卅七ケ条の法度の中の第三ケ条に云はく、他宗法華宗と成る時本と持つ所の絵像木像併に神座其の外他宗の守り等法華堂に納むべきなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此の経を持つ時亦本の如く妙法蓮華経の内証に納まるなり文、蓋し此れに本づくか。
又下野国に於いて下奈須有り奈須野の原の東を下奈須と名くるなり、此に武士有り名を稗田と曰ふ稗田は奈須与一の一門なり、稗田の郷に百姓有り師、弟子三人と百姓の家に入り一宿を借る、日尊宿主に問ふて此の地頭は何の芸能を好むや、宿主答へて云はく雙六を好む、然るに稗田狷狂にして深く法華を嫌へり若し告げずんば後必す難に値はんと、則入つて告げて云はく我が家に於て法華僧四人有りて宿す、稗田云はく法華の僧には目有りや、鼻有りや百姓報じて云はく高僧か、稗田云はく願くは四僧を見ん、翌日師三人を将ひて入る、稗田云はく仁に何の芸有りや、師答へて言く我れ雙六を好む、田大に喜ひて云ひて云はく之を打つべし、師負けて三僧の笈の中より各負る時に以て筆墨扇子を与ふ、田、馬麦の如きの麦飯に渋柿を以て擣いて汁を出し飯の汁と為して進む、日尊手を拊つて称歎して言く仁は大智者なり我が所愛の食を知つて賜ふと師皆是れを尽くす、稗田喜悦す云云、師為に説法す稗田受法す、是より已後後園の柿の味淡くして渋からず故に今に相伝して咸な日尊さわし柿と云ふなり、見聞の諸人云はく日尊は是れ権者なりと。
又同国に下野国里有り石田と名く、師石田に於いて寺を立つ、日興授与の本尊に云はく奥州新田卿公日目の弟子玉野大夫坊門流石田播磨阿闍梨日賢に之れを授与す。
弘治二丙辰七月八日日辰と日誉宗純寂円幸次久通と倶に大石寺に至る、大石寺の僧妙行坊日悦具に此の事を説く故に今此れを記す妙行坊後に久成坊と名く此の人は昔石田の僧なり。
又師奥州に至りし時土湯に入る亦沢尻之れに入る、沢尻一指を挙げて坤を指して云はく我が家は彼の方に在り仁宜く来るべし、師即往至す逗留百日にして寺を立つ今の一円寺是なり沢尻は懸田の一家なり。                            開山、師と会はざる事十二年の間毎年重須門前桜木の下に来りて。に御影堂等を敬礼す、桜木二本有り是れを二本桜と云ふ、之を麁見する時は一本は坤に在り、一本は良に在り、能く之を熟視すれば二本倶に路東に在りて一本は南に在り、此の木日尊の時之れ無し已後之れを殖ゆ、一本北に在り今に相伝して笈懸桜と云ふ日尊自ら笈を以て之れに懸け玉ふ、其の桜木の図余所の如きなり日辰永祿二己未年正月十四日日住日玉と倶に桜辺に至り之を図す、桜下の乾に石有り大さ三石許り厚さ一尺許り形三角なり之を笈懸石と謂ふ、日尊笈を以て此の石上に置き玉ふ故なり弘治永祿の比此石を見れば重須本坊南の庭上に在り、開山日尊を哀愍して人をして竹の皮の円座を石上に敷かしむ、日尊此の円座に処して赦免を請ふ、日興許さずして多年を経、日尊東西に徘徊する十二年の中に三十六ケ寺を建立し、亦重須本門寺に帰りて免許を請ふ、日興大に喜んて一度に三十六鋪の本尊を日尊に賜ふ、開山一年正五九月、日尊祈祷の為に書写し玉ふ合して、三十六鋪是れなり三十六ケ所は雲州の安養寺住本寺に附くなり、丹波の上興寺上行寺に附くなり、伊豆の伊東六ケ寺天文弘治の比実成寺広宣寺妙蓮寺等なり、血脈は日目日尊日誉日眼日出日典日能云云西山と通ず、下野稗田石田の二ケ寺大石寺に附く。奥州実成寺一円寺上行寺に附く。
然るに日興一百六箇の本迹血脈書を以て日尊に付属して云はく。
仏より三代
右件口決結要の血脈は聖人出世の本懐衆生成仏の直路なり、聖人御入滅程無く聖言朽ちず符合せり、恐るべきは一致の行者悪むべきは獅子身中の蝗虫なり、建治三年丁丑八月十五日聖人の言く日蓮が申しつる事共、世出世共に芥爾許りも違はゞ日蓮は法華経の行者に非ずと思ふべし云云、未来世弥み聖言符合すべきなりと之を覚知す貴し貴し云云、設ひ付弟為りと雖も新弘通所建立の義無んば付属を堅く禁め給ふ者なり、然る間玉野の大夫法印は王城の開山日目弘通の尊高なり、華洛併に所々に上行院建立有り云云、仍て之を授与するのみ、正和元年壬子十月十三日 日興日尊に之を示す。
正和元年壬子は日興六十七才、日尊四十八才なり、此の付属を受け玉ひて後第廿七年に至りて暦応元年四月十一日平安城に著き翌年上行院を建立し、此に住し玉ふ七ケ年、即七ケの条目を記す。
05-043
日尊遺誡の条々
一、夫れ修学の道は釈門の有なり、殊に当宗に於いては大法を弘むる間、八宗の章疏を窺ひ一代の経論を尋ぬべきなり、爰に祖師門跡の中に初心末学の輩或は天台の教観に携さはり或は諸宗の廃立を習ふ、然りと雖も弘通の籌策を忘れ還つて他宗の潤色を添ふ、是れ則五段の相伝に暗して一宗の奥義を尽さざる故なり、仍て日尊が門人等は先つ自宗を極めて他宗に交るべき事。
一、上行院は日尊一期弘通の終り最後鶴林の砌なり、若し住持の僧侶無くんば寺家破壊の基なり、仍て都鄙の僧衆番々の次第を守り止住の志を励み香華等を捧ぐべき事在京日月宜に随て計らう可し。
一、門徒中其の外の少生入学せしむるに於いては尤も興隆と謂つ可し、但し其の身法器に非ずんば出家の段斟酌有るべきか、若し別義有つて出家せしむるに於ては子細有るべし、時宜に随つて相計らうべき事。
一、門徒の僧衆中資縁無きの輩に於いては器量の堪否を糺し御扶持有るべきなり、但学功績まずして有智の誉を望み給使幾くならずして高行の思を企たてん、是れ則無慚無愧の恥を懐き自利利他の益を失ふ者なり、尤も選択すべき事。
一、所々恒例の供養物等に於いては僧徒に仰せ付け慇懃に取沙汰せらるべし、其の外所受の供物に至つては惣別に付け上分を捧ぐべし、若し爾らずんば別請と謂つべし、聖教の誡め尤も謹慎すべき事。
一、都鄙門徒の俗男俗女、出家の儀を所望せしめば委細に注進すべし、設ひ殊なる子細有つて出家せしむと雖も戒名に於いては追つて上より申し請くべき事。
一、僧徒の淑行は戒律を以つて先と為す身に忍辱の衣を著、心に慈悲の思を懐く何ぞ刀杖弓箭を帯せん外儀内心に違ふべけんや、但た経教の戒のみに非ず律令格式の文炳焉なり、但し遠行の時、夜陰の間、寺中を警固し其の身を全ふせんが為に刀杖を持つに於いては制の限りに非ざるか、道場に入るの時、衆中に交る程、顕露に刀劔を横ふるの条甚た無用と謂いつべき事。
或本に永和四戊午年四月十九日と云ふ恐らくは非なり、何となれば日尊は康永四乙酉五月八日御入滅春秋八十一才なり、康永四年は即貞和元年なり、然るに永和四戊午は日尊入滅後卅四年なり、故に知ぬ後人の書き加ふる所なり。後日知人に値て決す可し。
日尊八十歳、康永三年日印を以て付弟と為す其の状に云く。
授与 宰相禅師日印。
本尊壱鋪 日興上人御筆元応三年正月十三日
大聖入御影一鋪。
右付弟と為て授与する所件の如し。
康永三年甲申六月八日
法印日尊在判
日慧判
日大判
日沐サ
日禅判
日従判
去る天文廿辛亥九月十一日乗養坊日誉、京都要法寺を発して奥州実成寺に下向し此の譲状を取つて同廿三甲寅年の夏帰洛し同廿四乙卯年の夏入院し勧持院日誉と号す、同八月廿七日右の譲状を以て予に示さるゝ故に薄紙を以て文字判形等之を移す者なり。薄紙の本は別紙の如くなり。
日蓮聖人の門弟日尊誡惶誠恐謹言
鴻慈を蒙り爾前迹門の謗法を破却せられ法華本門妙法蓮華経の五字を興行して貴賤の妄論を改め華夷の災難を退けられんと請ふの状。
副へ進ず一巻、立正安国論文応元年先師日蓮の勘文。
右仏法は王臣の帰敬に依つて威光増長し、王法は仏法の擁護に依つて治国吏民す云云、抑釈迦一代の説教正像末の三時五箇の五百才の間に流布の次第有り、爾前迹門に於いては已に時を過ぎ訖りぬ、今の時に至っては更に仏徳有るべからず而るを諸宗の学者此の旨を知らず、所以は何ん仏閣は稲麻の如く、僧侶は竹葦の如く、之を祈り之を行すと雖も敢えて其の効験無し、弥よ四海雜讎敵の浪高く倍す国土衰弊の風繁し嗚呼悲しいかな、国に邪法の興行有るに依つて天下擾乱せしむ仍て衆人悪に堕す、世乱れば則聖哲馳●すれども規に叶はず、国収まる則は庸夫枕を高くして余り有り、国土の衰乱人民の滅亡先規更に比類無し争てか驚きて御沙汰無からん、早く叡意を回らし速に謗法を棄置かんと欲す。
彼の太公の殷国に入るや西伯の礼に依る、張良の奏朝を量るや漢土の誠を感ず、皆時に当て賞を得たり、而るに当世御帰依は仏法は世の為め人の為め其の益無き条顕然なり、所詮彼の万祈を致さんより此の一凶を留めんには如かず、経に云く仏法は王臣に付して弘むべし更に僧衆の力の及ぶ所に非ず、故に政道乱るゝ則は諸天怒を成し仏法乱るゝ則は仏使世に出づ文。
他国は且らく之れを置く倭国に於ては四箇の賢人有つて之れを諌め申すと雖も之れを許容せられず剰へ流罪に処せらる、直縄は狂木の憎む所なり正務は奸人の愁ふる所なりと是れ其の謂ひか。
爰に如来滅度の後々の五百才の中の御使、上行等の四菩薩を召し出し末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属し玉ふ、仍つて日蓮聖人生を末世に受け粗此の名題を触れしむ、貴賤狼しく邪論を成し緇素頻りに之れを怨嫉せしむる間、終に早聴に達せず空しく才霜畢りぬ、所謂る威音王仏の像法の不軽菩薩は杖木瓦石の難に当り、今の釈尊の滅後末法の中に於いて涌出の菩薩正法を弘通せしめば三類の強敵有るべきの由経文分明なり、如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をやと云云、倩ら此等の説相を思へば先師聖人は一々此の文に相応す、然れば上行菩薩の再誕誰か疑を成さん、某れ未萌を知るは六正の聖臣なり、法華を弘むるは諸仏の使者なり、随つて当世の風体を見るに正を捨てゝ邪を仰ぐの故に、上は梵釈二天、下は堅牢地神、惣じて大小守護の善神等無二無三の法味を甞めずして勢力を失ひ瞋恚を成して国土の加護無し、仍つて三災七難並び起つて四海静ならず、併ら謗法の御帰依に依る者なり、内外典倶に以つて定め置かるゝ所悉く符合せしむる者かな。
然れば早く爾前迹門の謗法を棄捐せられ法華本門の正法を崇敬せられば諸災退散し国土興復せんのみ、然れば則ち仲尼化を万民に施し終に鳳毛五字の徳化を彰はし、釈尊法を衆生に説く盍んぞ麟角一実の妙法を信ぜさらんや。
今日尊、師命を禀け争てか天下の乱悪を悲まざらんや、且つ仏法中怨の難を顧みて九牛が一毛を勒すと雖も未だ奏達せず、年齢已に鳩杖に及び旦暮の間を期し難し、泣く泣く短状を捧ぐ、是れ更に私を存せず只併ら世の為め君の為め一切衆生の為なり、仍て日尊誠惶誠恐謹で白す。

05-047
日印の伝
日印俗姓は三浦なり康永三甲申年六月八日、日尊の付弟を贈り授けらる、同七月十七日書状を西山本門寺日代上人に奉り疑問を捧ぐ、其の状に云はく。
畏つて申し上げ候、抑も去年の秋の比より東国辺に居住仕り候、故上人の御廟所拝見の為に必ず参詣すべきの由し相存じ候の処師匠にて候老僧大事の所老とて此の四月比、態人をたびて候の間、老躰の上、殊更心元無く存じ候て如何にも存命の中にと志し上洛候の間参拝に能はざるの条返す返す恐れ存じ候恐れ存じ候。
一、粗聞し食され候らん、当院仏像造立の事、故上人の御時誡め候の間の由、師匠にて候人仰せられ候ひ畢ぬ、今は造立せられ候の間不審千万に候、此の仏像の事は去る暦応四年に有る仁の方より安置候へとて寄進せしめ候ひ畢ぬ、教主は立像脇士は十大弟子にて御座候、仍つて大聖人御立義に相違の間疑ひ少からず候。
爰に富士御門流ども出家在家人来つて難じて云はく凡そ聖人御代も自ら道場に仏像造立の義無し、又故上人上野上人の御時も造立無きや、随つて本尊問答抄に云はく天台の云はく道場の中に於いて好き高座を敷き法華経一部を安置せよ亦未だ必ずしも須らく形像舎利併に余の経典を安くべからず唯法華経を置け文、同抄に云はく又云はく法華の教主を本尊とするは法華の正意にはあらず云云、之れを以つて之れを思ふに形像を本尊と立て置くべからずと見えたり如何、答へて云はく妙法の首題は十方三世の仏陀、釈迦多宝の本尊為るの間形像を立て置くべからざる事勿論なり、観心本尊抄、報恩抄の如きは閻浮提第一の本門本尊の躰為らく宝塔の内の妙法蓮華経の左右には釈迦多宝、宝塔外に上行等四菩薩乃至一切大衆悉く造立する由見えたり此れ等如何、又四教果成の仏の中に円教果成の仏は虚空為座の塔中の釈迦、就中大聖人の三ケの大事の一分なり、故に宝塔末座立像は高祖の御本懐に非ず、爰本には疑難来るべし、一向に仏像造立有るべからざるの難実に一辺の義なり、所詮料足微少の間宝塔を造立する能はず、其れまでとて先づ四菩薩計り造り副えられ大曼荼羅の脇に立て奉り候ひ畢ぬ云云、縦ひ遅速の不同有れども御書の如く造立せしめんこと決定なり。
爰に愚案を廻らして云はく末法流通の行相は折伏を以つて表と為し摂受を以つて裏と為す、先づ権経権門の僻案を摧却し次に像法所弘の迹門は時刻不相応と難破し、末法弘通の結要付属を申し立て候はんこそ大聖人の御本意にては候へ、今仏像造立摂受の行然るべからざるか、観心本尊抄撰時抄の如くんば西海侵逼難の時、始上一人より下万民に至るまで妙法五字の首題を唱へ奉りて高祖上人に帰伏し奉り候はんと見へて候へば、其の時御本懐を遂げられて本門の本尊を立つべし造立の後は国中乃至他邦まで一同に三ケの大事皆以つて流布せん、就中本門の本尊をも建立有るべく候、其れまでは公家に奏し武家に訴へ申し候はんこそ折伏にて候へ、是くの如き所存の候程は歎き申し候師匠にて候人、壮年の古へは四方に鞭を挙げて謗法を呵責し、老躰の今は主師親の本門の本尊を造立し見奉り度き望念にて候へば、此くの如き御義只山林巌窟に隠居するに非ず、摂受の行と申しながらもさのみくるしかるまじきか、相構へ相構へ遺弟等身命の及ばん限りは弘通候へ摂受の行有るべからず、又大聖人の御代には冨木禅門の造る所の仏像、日眼女造る所の二躰三寸の釈尊皆以つて御開眼供養候ひ畢ぬ云云。
爰に猶私に案立して云はく是は在家人にて候、出家の例に非ざるか、比丘僧と成りては身命を抛つて謗法を強毒し先師の本懐を遂くべく候か爰を以つて摂受の行を御誡め候けるやらん、所詮伝説に云はく大聖人御記文に帝王御崇敬有りて本門寺造立以前には遺弟等曽て仏像造立すべからず云云、故上人も同前云云、実義何様に候や生替の身にて候へば先例存知し難く候、然るべく候はば御芳志を以つて進覧する所の状の趣き法門少々示し給はり候はゞ畏り入るべく候、此の事、実事に候はば御記文を下し給ひ候て疑網を救ひ弥よ信心を増し形の如く弘通仕り候はばやと相存じ候、委細の旨此の僧申し上ぐべく候、此の旨を以つて御披露有るべく候、恐惶謹言。
康永三甲申七月十七日 日印在判
余窃に日印の書状を窺ふに云はく暦応三庚辰年は日尊六角上行院に於いて新檀那奉上の立像の釈迦十大弟子を立つ、日印之を見畢つて奥州会津黒川実成寺に下著し越年し給ふなり、康永三甲申年四月に日尊使僧を差し下し日印の入洛を請ひ玉ふ、日尊時に八十才なり、先年暦応三庚辰年五月中旬日尊七十六才上行院に在り、富士諸流の異義を伝聞す、一に河合の人々の義云云、二に上野重須一同の義云云、三に浄蓮阿闍梨日仙の義云云。
一、仰に云はく法印日尊弟子日大之を記せんと欲する発朝の句なるが故に仰に云くと之を書き玉ふ、此の一巻の末に五種の箇条を挙ぐ其中の第三に云く。
一、久成の釈迦造立有無の事。
日興上人の仰に云はく末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶ふべからず、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべき云云、尊の仰に云はく大聖人の御代二箇所之れを造立し給へり、一箇所は下総の国市河真間富木の五郎入道常忍みそ木を給て造立す、一所は越後の国内善の浄妙比丘尼造立して之有り云云、御在生に二箇所なり、又身延沢の仏像等は聖人没後に様々の異義之れ有り記文別紙に之れ有り云云、惣じて三箇所之れ有り此れ等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云、予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり文然れば則ち日大は立像は是れ日尊の本意に非ずと、日印は東国に在りて上洛の次でを以つて之れを日代に告げ玉ふなり、日代未だ日尊の本意を知り玉はず蓮祖の遺言の故事を挙げて日尊一旦の義を破し玉ふなり、日尊後日に十大弟子を除きて二尊四大菩薩を造立するなり。
西山日代上人より日印に贈り玉ふ御返事に云はく
追つて申し候、御同宿見参に入り申し承はり候返す喜び入り候、此の間目を労らひ候て諸事老筆に候、又後信を期すべく候、恐々謹言。
未だ見参に入らず候の処此の如く承はり候条返す恐悦極り無く存じ候、抑も御尋に付き所存注し申すべしと雖も両聖人御本意御書等顕然に候の間、末学の自立了見中々に存じ候、此くの如きの事御遷化以後定めて出来すべく候の間、兼日の御置文御遺誡等明白の処、門徒一同に御違背候の間、大聖御法立の次第、故上人御真筆等棄て置かるゝ事返す●●無念の事に候、但し御弘通の趣き今の如くんば所存同じ申し候、中に仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり、只今造立過無くんば私の戒壇建立せらるべく候か、若し然らば三中の戒壇尚以て勅裁無し六角の当院甚た謂れ無き者なり、大聖人以後の遺弟等仏法の訴人なり、本師未だ居所を定めず末学の寺院並に昇進僧綱の事両上人の御本意に非ざるなり。
一、池上御入滅の時御遺告の一巻。
御所持仏教の事
仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべし云云。
経は注法華経と名く。
六人香華当番の時披見すべきなり、自余の聖教の事は沙汰の限りに非ず云云、仍て御遺言に任せ記録すること件の如し。
弘安五年十月十六日 執筆日興。
此の事一躰の仏大聖の御本意ならば墓所の傍に棄て置かれんや、又造立過無くんば大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を何ぞ造り副へられざるや、御終焉の時彼の仏を閣いて件の曼荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり衆中勿論なり、惣じて此くの如きの事等御書の始末を能々了見有るべく候か、二代の聖跡数通の遺誡是虚しからんや、此くの如き条々示し給はる事返す返す恐悦に存じ候、向後に於いては申し承はるべきの由存じ候なり、併ら面謁を期し候、恐々謹言。
康永三甲申八月十三日 日代在判
謹上 三浦阿闍梨御房
謹て日代の返牒を案ずるに云はく、大聖人法立の次第、故上人の御真筆棄て置かるゝ事無念の事なりとは、代公御遷化記録を指すか、故上人の日興御真筆なればなり、日尊立像等を除き以つて久成釈尊を立て玉ふが故に記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事、本門寺建立の時なり文、然るを日尊本門寺建立の時に先つて仏像を造立し玉ふ是れ一箇条の相違なり、過罪に属すべきや不やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄唱法華題目抄等を以つて之れを決すべきか、若し日尊実録日大自筆無んば自門他門皆日尊已に立像釈迦並に十大弟子を造立しぬと謂ふべし、故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべき者なり。
日尊、日印四月廿七日、日円十一月廿六日、日従十二月四日、日得十一月十三日、日厳四月十八日、日遵八月七日。

05-051
日大の伝
釈の日大俗姓は畠山なり故に日尊授与に云はく右件の仏より第四代結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり、然るに畠山の本覚法印日大、佐々木豊前の阿日頼は同位主伴の聖人なり、馬木、平田、東郷、朝山等在々所々に上行院之れを建立せしむ、都鄙等に於いて日尊数輩の学匠の弟子之れ在り、然りと雖も功力に依つて之れを付属す、王城六角上行院の貫主日印、学匠惣探題日大、世出世の拝領並に中国西国等の貫主日頼と定め畢ぬ。
康永元年壬午十月十三日、日尊、日大日頼に之を示す。
日尊は文永二乙丑年の御誕生、康永四乙酉年五月八日寅刻八十一歳京都六角上行院に於いて御遷化なり、然れば則右の御付属は尊師の七十八歳の御付属なり、日大付属を木辻に受け上行院を建立し玉ふ、木辻とは西京の西の小邑なり、日大御真筆の本尊に云はく平安城木辻法華堂上行院本尊、今要法寺に在るなり、日大此に住して謹行を作す、西京舎利堂の西に一尼有り、正月朔日寅の刻夢覚めて木辻日大の読経の声を聞く故に即座を起つて家を出で声を尋ねて木辻の上行院に入り受法を請ふ、師法を授け名を改めて妙誼比丘尼と号す、尼即山の内鉢か坪の田五段を師に寄進し奉る、天文第四暦乙未の正月に至るまで正月三ケ日の供養断えざるなり、師亦貞和の比冷泉西の洞院に於いて法華堂を建立して謹行不断なり、此に於いて即身成仏口決一巻を書写し給ふ、其の口決の奥書に云はく貞和二丙戌九月廿九日京都冷泉西の洞院法華道場に於いて之れを記録し畢ぬ、其の後応安二己酉年二月十二日御入滅なり。
日大の弟子日源一条猪熊に於いて法華堂を建立し本実成寺と号す、其の後二条堀河に移って寺を立て住本寺と号す西は是堀河なり、東は是油小路なり、東山慈勝院の母を勝鬘院と号す院の御局を高倉の局と号す、勝鬘院より住本寺に書を与ふ其の文に云はく一条猪熊の寺地細川上総介違乱申すに付いて替地を二条堀河に下さる取意、勝鬘院の御自筆なり高参と書かるゝなり、将軍普広院の妻勝鬘院難産なり、諸薬諸僧祈療を成すと雖も未だ産門に向はず、諸宗の中に誰か修験の行者なる、或は云はく法華宗の中に住本寺の日広は行法第一なりと之に依つて祈祷を請ふ、日広云はく当宗法度に受法無きには祈祷を作さずと、故に勝鬘院の代授法す、日広之れを祈り即東山慈勝院誕生し玉ふ、慈勝院殿御息浄徳院御逝去の時日法位牌を奉る、位牌の銘に云はく妙法蓮華経浄徳院殿一品相府悦山大居士と、是の故に住本寺に於いて三将軍の位牌を立つ、謂く普広院慈勝院浄徳院なり、将軍御他界の時は一部経を書いて相国寺に贈る、相国寺の僧梵桂の請取の書状住本寺に在り。
其の後四条坊門西の洞院に遷る北は坊門東は西洞院其の後六角西洞院に遷り西は西洞院、南は四条坊門なり、尚住本寺と号す、此に於いて日法入滅す、時に永正十三丙子正月廿八日なり。
日尊康永四乙酉年五月八日、日大応安二己酉年二月十二日、日源応永九壬午年六月十日、日元応永廿七庚子年七月十八日、日長応永廿八辛丑年三月廿一日、日禅宝徳二庚午年正月十二日、日広長享元丁未年正月廿八日、日法永正十二丙子年正月廿八日、日在弘治元乙卯年十月廿五日。
東山高祖の石塔の事
住本寺檀那妙広比丘尼深見妙住禅門の母鳥目五十貫文を以て之を造立す、日広人をして日禅の筆跡を写さしむるなり。
東山日興の石塔の事
住本寺檀那禅妙比丘尼法範の妻、妙閑入道の母なり、妙閑は松田平右衛門妙語が養父、三十貫文を以つて日興の御石塔を造るなり、禅妙は妙広の妹なり姉妹二基の塔を造るなり、題目は住本寺の僧本是院日叶の書写なり。
日尊の石塔の事
日尊の石塔は御逆修なり、寛正年中に山門より普広院に対して石塔併に住本寺を破却すべしと云云、何となれば五三眛の中に比類無きが故に、時に将軍の奉行布施の衛門浄蔵貴所の後胤なり、住本寺檀那為るが故に子細を言上して遂に能はず。
千本石塔の事
千本梅の坊、艮の地に石塔有り即高祖の石塔なり、文明年中大乱の時、上京下京西陣合戦の間、上京檀越等之を造立せしむ、中央の七字は本是院日叶の筆跡なり。
右の箇条日辰之れを問ひ奉る日在之れに答ふ故に之れを筆記する者なり。
天文五丙申年七月廿三日、山門数万の軍兵を引率して洛中の法華宗を攻む、同廿七日諸寺を滅失す、同十六丁未五月諸寺江州進藤山城守平井加賀守に依つて佐々木弾正の少弼定頼に申し山門の鬱憤を息めて各寺庵を作る、同十九庚戌年三月十九日上行住本一寺と作り、前名を改めて要法寺と号す、則ち綾の小路堀川の寺なり西堀川なり日在要法寺大坊に於いて入滅す八十歳弘治元乙卯年十月廿五日、師住本寺に在りし時は貫首為り、要法寺に在りし時は然らず、入滅の後に要法寺貫首帳の中に列するなり。
祖師伝終
永祿三甲申年十一月七日  日辰在判

編者曰く陽師転写本に依り更に要山祐師本辰師本の直写を以て一校を加へ又延べ書と為す、尚下の西山健師状及び日辰伝は辰師の自筆にして本伝の附録なり、且つ本文中日陽の註加あるは陽師本を台にしたるが故なり。

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