富士宗学要集第五巻

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日興上人略伝

緒言
三位日順師興尊の徳化を讚歎して曰く、日興上人は是れ日蓮聖人の補処本門所伝の導師なり、禀承五人に超え紹継章安に並ぶ、所以は何となれば五老は天台の余流と号し富士は直に地涌の眷属と称す、章安は能く大師の遺説を記し興師は広く聖人の本懐を宣ぶと。
鳴呼宣なる哉当時を歴鑑するに興師の外に誰か敢て伝法血脉の人ありとなさんや、夫れ教主釈尊の別付血脈するや無量の大衆ありといへども独り上行薩●にあるのみ、伝教の法を付するも亦義真一人にありて三千の大衆にあるにあらず。
故に我が宗祖の大法を付属するや独り興師を除ひて誰れかあらん猶天台の章安におけるが如し、況んや宗祖の鳳詔あるにおいてをや、若し付法血脈は以て一人にあらずとなし嫡庶混乱分位不詳なる時は則ち仏法の一大禍事と謂ふべきのみ。
然るに宗祖没後異執粉綸或は嫡庶分位の道を紊乱し或は本化迹化の別を知らず、遂に伽耶始成の水月に迷ひ而も末代盲目の衆生をして久遠実成の天月を識らざらしむ、しかのみならず宗祖出世の大事、一期弘法の本懐殆んど隠没せんとす。
爰に我が興師独り此の淪溺を悼み斯の頽綱を慨いて将に大道の妙旨を啓き、再ひ迷闇を照し偏執の僻見を挫き将来の衆生をして永く正見の域に至らしめんと欲し、而して其の秘要の大法を富山に開き大に教陣を張り、以て法鼓を鳴らし衆生を導利する焉に四十余年徳化盈溢、道俗風靡すと。
夫れ然り、然りといへども其の余残今猶尽きず異執滔々として四方に蔓延す、而して我か興師の伝法未た広く世に顕れず唯た富山の下にあるのみ、衆盲皆謂ふ宗祖の正統何れにありやと、鳴呼哀れむべし若し夫れ果して一歩此にあやまたば千里彼にたがふ、目に見る所、耳に聞く所六根皆以て動作に発せざるはなく終に其の影響世上に波及するに至るべし、其れ一宗正統の正統たる所以を弁ぜざらんや。
頃者偶ま本化仏祖統紀を見、興師伝に至り嘆ぜざるべからざる者あり、夫れ其の伝を叙するや陽讚陰毀其の徳を蔽ふや雲霧の月を蓋ふが如し、是れ昔日の異執を襲ふ者か安んぞ我が一宗正嫡の堂奥を覬覦するを得んや。
然りといへども我が宗門之れを弁ぜずんば幾んど獅虫の誚を恐る、乃ち按文を録して余が甞て草する所の興師略伝に附す若し茲に由て嫡庶の分位混乱せざるに至らば一宗の正統其れ明晰ならざらんや、遂に概言を書して巻首に弁すと云ふ爾み。
慶応乙丑初冬十月富山蓮葉庵●蒭妙道識。

興師略伝
我が開山日興上人は宗祖の御弟子六老僧の第三に列し字は伯耆房号は白蓮阿闍梨と称す、御生国は甲州巨摩郡大井の庄御父は大井の庄司橘の入道某、御母は駿州由井氏の女なり、人皇八十七代後嵯峨院の御宇寛元四年丙午三月八日を以て大井の庄に生る、幼にして父を喪ひ外戚由井氏の為に養子となる。
師生れながらにして奇相あり特に才智凡ならず、養父由井氏之れを察て謂らく此の児塵中に舎くべき者にあらずとて同国岩本の真言宗なる実相寺に登せ別当播磨律師の弟子となし名を甲斐公と称せしむ。
時に正嘉元年八月廿三日大地震等の変災に就き宗祖将に天下を諌めんが為め安国論を製せんと思召して、其の翌年の春の頃より岩本実相寺の経蔵に入り玉へり、其の時已に甲斐公は年十三の幼稚なりしが宗祖より始めて法華の法門を聴聞し信解了達して終に旧宗を捨て宗祖の御弟子となり、是れより名を伯耆房と賜はり後ち白蓮阿闍梨日興と称す。
其れより昼夜となく蛍雪の行学を励み其の御暇には近郷近在に大法を弘通す、是に於いて其の名漸く一国に聞へ帰伏受法の人日々に倍増して渇仰尠からず、特に豪族と称せる松野の一家欽慕の余り一子を投じて師の弟子となす、因つて名を甲斐公と賜ふ、後ち宗祖の六徒上足の中に加へらる即ち日持上人是れなり。
按ずるに興師永仁六年の御筆弟子分帳に曰く御正筆今在重須也松野甲斐公日持は日興最初の弟子なり、然るに年序を経るの後阿闍梨号を賜りて六人の内に加へさせらる、即ち蓮華阿闍梨是れなり、聖人御入滅の後白蓮に背きて而も五人と一同に天台沙門と名乗れり等と云云。
弘長元年五月十二日宗祖伊豆の伊東浦へ謫せられ玉ひし時も師は忍んで彼の地へ渡り倶に謫処の艱苦を嘗め勤労浅からず、同三年二月十二日宗祖御赦免ありて鎌倉へ帰り玉へば師は祖命に応じて岩本に還り益々法旗を立て法鼓を駿甲二国の間に鳴らし改宗受法せしむる事日に盛んなり、所謂駿河には田中熱原松野、加島、由井、高橋、南条、石川、小泉等の人々甲斐には波木井の長男清長父に先たちて得道し後ち其の父母及び一家を勧慫して受法せしむ。
按ずるに興師身延退去の後其の十二月十六日に南部弥六郎へ賜はりし書に曰く、日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は二代三代の末は知らざれども、未た上にも下にも誰れか御忘れあるべき等と云云、鳴呼目今之れを知れる者争であるべき、仮令ありとも固絶して言はざるなり蓋し忌む所あるか。
其の他小笠原秋山二十家等の諸氏皆師の教導にあらざるはなし、後文永八年九月十二日の夜宗祖相州龍の口刀杖の御難より佐渡御流罪中四ケ年御艱難の時も始終御供にて常随給仕し、其の御閑暇には宗祖に代り諸所に游行して説法教化至らざる所なし、故に阿仏房千日尼渇仰の余り其の愛孫を師に投して弟子となし、後如寂坊日満と称す、已に一寺を創し師を以て開山となす今の実相寺是なり。                       文永十一年二月十四日、宗祖佐州の謫居御赦免ありしかば師も亦随つて鎌倉に帰り玉ふなり、其の年四月八日宗祖鎌倉営中に於て平の頼綱に対し蒙古襲来の元由を述べて三度鎌倉政府を諌め玉へども採用の色なかりしかば、三度諌めて用ひずば山林に交れとの古伝に随ひ、其の五月の頃甲州身延に入り玉ふ此の時師も亦随つて入山し玉へるなり。
然ども猶大法弘通の為祖命を蒙りて又岩本に至れり、是に於て伊豆駿河甲斐の間に専ら折伏弘教の功を顕し得道の人称計すべからず、殊に豆州走湯山五百の中にて随一の学匠と聞へし式部僧都並に蓮蔵坊の両僧を一問答に帰伏せしむ、蓮蔵坊其の随身なる稚児虎王を投して師に侍せしむ後ち度して弟子と玉ふ新田卿阿闍梨蓮蔵坊日目上人是なり、是れを首めとし甲州にては秋山氏の一子寂日坊日華同国小室の城主小笠原の一子百貫坊日仙同国西郡川村氏の一子南之坊日禅是れ等の数子を度して皆弟子とし玉へり。
弘安元年の頃師は既に岩本実相寺に在りしが、師が前に剃度の師と頼み玉ひし播磨律師は疾に世を去り、其の当時の別当厳誉律師は師の法華経を弘めて道俗の師に風靡し徳望の已ざるを怨嫉し外道の名を負はせ山内を擯出せん事を大衆と倶に謀りけり、是れに依て已むを得ず甲斐公日持、下野房賢秀、治部房承賢の四名連署して倶に厳誉と法義の邪正を問答対決せん事を鎌倉へ請願すれども、圧制束縛のならひとして対決を許さず、却つて厳誉に荷担し荏苒年月を経過せし事已に八ケ年なりしと、然れども其の間師より年々申状を鎌倉へ捧けて邪正の決議の催促し玉へり申状の案は今猶本山に残れり繁を厭ひ贅せず、然るに弘安八年に至り厳誉は隠悪の事発顕して実相寺に住居なりがたく己れと寺を退去せしかば、跡は自ら法華の道場、興師の寺とはなりしなり。
却て説く爰に弘安二年に至り又一つの法難起れり、其の来由を尋ぬるに其の当時念仏者の学匠と聞へし強忍と云ふ僧あつて鎌倉に徘徊し頻りに我か宗を怨嫉し鎌倉へ種々と讒訴せり、然れども今は鎌倉の上下共に稍宗祖の御威徳に感服し何事の沙汰もなかりければ、彼れ強く之れを憂ひ百方計策をめぐらし害をなさんと常に間隙を窺ひしに、爰に師の専ら法鼓を鳴し玉ひし富士の岩本、熱原、田中等何れも多くは最明寺殿北条時頼極楽寺殿北条長時等の後家尼等の所領にて皆念仏偏執の者のみなれば、之れを幸ひとして謗人の毎の習ひ媚を本とし賄賂を以て後家尼等に取り入り頼みければ、其の讒忽に行はれ抑制政府の沙汰として宗教の正邪も分たず、法論対決だもなくして直に法華宗の者を罪科に行ふべしとて、平の頼綱等数十人の武士を引率し富士の熱原田中等に押し来り三所に構へし法華の道場をは微塵の如く打毀ち、師の代官として三所に扣へて弘通せられし日法、日弁、日秀の三行者を捕へ、法衣を剥き取り悪口罵詈し杖木を以て散々打擲せしとなり、古昔仏法皇国へ伝来の最初、蘇我の馬子が建てられし大原野の道場へ弓削の守屋の大連等が数百人を率ひ来りて善信等の三浄尼を捕縛し海柘榴の亭に引き出し堅木の杖を以て打ち敲き寺には火を放ち一時に焼き亡せし悪逆も斯くやと思ふ計りなり、其の上信者を召し捕り鎌倉へ拘引し土の牢に入れて重苦に沈めしとなり、其の時しも亦た師は岩本に在せしが取敢へず使を馳せて宗祖の御許へ此の状を上申し給ふに、宗祖深く之れを憐み御返事を賜はりて勇猛なる信心を御称歎ありしなり其の文に曰く今月十五日酉の時の御文同十七日酉の刻に到来す、彼れ等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云偏に只事にあらず定めて平の金吾の身に十羅刹の入り替りて法華経の行者を試み玉ふか、例せば雪山童子尸毘王等の如し、又悪鬼入其身なる者か、釈迦多宝十方の諸仏、梵帝等守護を為すべし後五百歳の法華経の行者の誓ひ是れなり、大論に曰く能変毒為薬と云云、妙の字虚しからず定めて須臾に賞罰あるか、伯耆房等深く此の旨を存して問註を遂ぐべし、平の金吾に申すべきやうは去る文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ玉ふか、●未た畢へず重ねて十羅刹の罰を招き取り玉ふかと最後に申すべく候恐々。
弘安二年十月十七日  日蓮在御判
伯耆房へ下さる。
按ずるに此の御真書は北山本門寺にあり、外に又十五日附の御書あり、二通共に伯耆房へ下さるとあり、其の下に興師自筆の附箋あり、曰く日興へ賜はる御書に限り必す下さると遊ばせり自余の老僧等へ其の例なしと云云、又聖人御難の書録内廿二も同時なり宜しく拝し合すべし、其の文に曰く彼れ等御勘気を蒙るの時南無妙法蓮華経と唱へ奉る等と云云、惟ふに此の時平金吾廿四人を捕搏し己が前に引きすへ威猛高になり己れ等無智の輩妄りに法華の邪宗を信ずるほどに此の憂目を見る、是れ自業自得なり但し今より改心して法華の信心を止め念仏申さば免すべし、若し左なくば鎌倉へ拘引して重科に所すべし、早く念仏を唱ふべしとありし時、一同申し合せたる如く廿四人高声を放つて異口同音に南無妙法蓮華経と唱えし故に直に拘引となり首領三人は終に一命にも及びしか鳴呼何ぞ其れ壮なるや。昔し欽明の朝に紀の男麻呂の武将伊企儺なる者新羅を征せし時軍敗走して虜にせらる、新羅王其の勇壮を愛し降を勧むれども従はず、故に士卒をして刀を操り伊企儺の前に立たせ、これに云はしめて曰く爾ち我が前にして高声に日本国の大将軍我か臀の肉を餤へと云はゞ我れに降らずといへども一命を助くべしと、時に伊企儺遽に己が臀を新羅王の方へ捩り向け、高声に新羅王我か臀肉を餤へと罵り遂に斬られて惨状をあらはせしとなり、彼れ是れ事は異なれども其勇壮なる恰も相似たり、宗祖曰く一期を過くる事ほどなし、いかに強敵重なるとも努々退く心なく恐るゝ心なく、縦ひ頸をば鋸にて引切り胴をばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ちきりを以てもむとも命のかよはんきわは、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱へて唱へ死に死するならば、釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾のほどに飛ひ来つて手をとり肩に引きかけて霊山へはしり玉はゞ、二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は蓋を指し幡を上げ我れ等を送り玉ふべきとの御金言を固守せし不惜身命真の如説修行の人と云ふは宗祖の御在世中にも俗人には先つ是れ等の人々なるべし、是れ偏に我か開山上人の教誡の厳なるに依る者か。
時に弘安三年に至り彼の牢舎廿四人の内熱原の神四郎田中の次郎広野の弥太郎の三人は其の長たるを以て終に首を刎られたり憐むべし、鳴呼此の人々身に一点の犯罪なく但法華経の為に命を捨てられし事よ。
実に羨むべし身は空しく野外の露と消ゆれども其の名は広布の末までも朽ちずして誉れは十方の仏刹に薫るべきことを。
されば後年に至りて師此の三人の追福として大曼荼羅を書写し玉ふ、其の端書に曰く駿河国下方熱原の住人神四郎法華宗と号して平左エ門の為に頚を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道法華経の頚を切るの後十四年を経て謀反を企るの間終に誅せらる其の子孫跡形なく滅亡し畢ぬ、徳治三年卯月八日とあり、既に夫れ師は年十三にして宗祖に帰伏し玉ひしより弘安五年三十五歳に至るまて二十二年の間、不惜身命の御弘通是れ等の法難を始めとして其の他細々の御化導挙けて員へがたし。
爰に宗祖大聖人去る文永十一年の夏身延山に籠居し玉ひしより弘安五年壬午に至り渾へて九箇の星霜を経歴し、御齢も還暦に当らせ玉ひ一期の御化導も今は已に満足し玉へば御帰寂の期も近きにありと知ろし召し六人の上足を定め玉ふ、所謂日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持なり、中に於て師は若年且つ得道の順序を以てすれば上足第三の列に位すと雖も、毎度宗祖の御代官として公武へ諌状を捧げ二度の御流罪にも身命を惜ずして随従し、其の他処々に奔走して随力演説の御弘通、不惜身命の修行他に異なり、殊に信行智徳群に秀で正しく大法弘通の法器たるを以て宗祖別して此の人を撰び、其の年の九月頃出世の本懐法華本門三大秘法を口決し、其の他内証深秘の法義等忝く相伝し師の大事の口訳をしくる只焉に始るのみならず、已に是より先き宗祖註法華経を講し文外の妙旨を演べ玉ひし時、師は其の秘要を記録し二巻となす、今の御義伝是れなり。宗祖滅後大法弘通の大導師たるべきの遺状を賜る、其の状に曰く。
日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属す、本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と謂は是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年九月日  日蓮在御判。
血脈次第日蓮日興。
斯くて其の九月八日宗祖身延を御立ありて武蔵国荏原郡池上右衛門太夫宗仲が宅に着き玉ふ、此の時師も亦供奉したりしなり、宗祖已に御入滅間近きに至り年来栖みなれ玉ひし身延山を依然立ち出て玉ひしは、最早御齢已に傾きぬれば当に御帰寂の期も遠からざるを予知し玉ひし者か、昔釈迦仏は天竺霊山に法華経を説き玉へども御涅槃は鷲峰の艮に当る東天竺倶尸那城跋提河の西純陀が家にして入滅し玉ふ、我れも亦此くの如く此の身延山より艮に当る東国武蔵国池上右衛門の太夫宗仲が家にて死すべしとの思召しなりとしとかや。按ずるに身延山より艮に当る等の説原と波木井氏に与る書録外廿五及び本門宗要抄他受用に依るといへども、是れ一応他難を防ぐの傍意にして宗祖の極意必す是れにあらざるべし、若し然らずと云はゞ身延御出立の際何ぞ之れを明言せずして常陸入湯に託し玉ひしぞ、惟ふに其の九月十九日波木井氏に与る書録内三十三に曰くやがて帰り参り候はんずる道にて候へども所労の身にて候へば不定なる事も候はんと云云、是れ此の行や必す死を定め玉ひしにあらざるや明なり、又曰く設ひいづくにて死し候とも等と云云、是れも亦身延の艮に当る池上氏の家にて必す死すべしと決定し玉ひしにあらざるや知るべし、又曰く栗毛の御馬はあまり面白ふ覚へ候ほどにいつまでも失ふまじく候、常陸の湯へひかせ候はんと思ひ候が、乃至上総の藻原殿の許に預けをき奉るべく候と云云、是れ只管に常陸へ御入湯の為に身延を立ち出て玉ふ趣にして片言隻句も艮に当る等の意味なし、知りぬ是れ宗祖の極意焉にあらざるを、問ふ若し然らば宗祖一向に死の期を知らず啻に難治の老病を治せんと入湯を企て玉へるか、謂く否な昔し西行法師なる者あり東山双林寺の過去帳に逆修入りせんとして其の死日を示すに一首の倭歌を以て、其の歌に願くは花の下にて春死なん、其の如月の望月の朝と、彼れは一惑だも未た断せざる薄地の凡僧なり猶能く死するの日を予ねて覚知す、況んや、未萠兼知の大聖争で之れを覚知し玉はざるべき蓋弘安五年まで九箇年の間住みなれ玉ひし延山を其の九月八日俄然立ち去り玉ひしは是れ其の十月十三日に必す入寂し玉ふべき御覚悟の故なり、而して其の実を言はず一向に遠境なる常陸の温泉に託し玉ふは是れ他なし言ふに忍びざる事情あるを以つてなり、其の故いかん謂はく夫れ宗祖延山に住み玉ふ事已に九箇年、而して其の地天竺の霊山にも劣らざる事無論といへども、奈かにせん其の地頭波木井氏の人となり薄信愎悍後必す謗法を企て終に魔境とならん事を、故に宗祖は之れを予知し玉ひて而も聖尸を永く謗地の枯骨となさん事を深く患ひ遠く慮らせ玉ふに外ならず、是れを以つて啻に常陸の温泉と方便を設け生前一度此の謗土を去らせ玉ふ者か、然りといへども九箇年所栖の山何ぞ懸恋の情なからん、故に墓をば身延の沢に立てさすべきとの御一言を残し玉ふは是れ併ら波木井氏九箇年奉養の懇志に報ひ玉ふのみ、故に文に曰く日本国にそこばく、もちあつかいて候身を九年まで御帰依候ぬる御志し申す計りなく候へば設ひいづくにて死し候とも墓をば身延の沢に立てさせ候べく候と云云、問ふ波木井氏の人となり薄信愎悍とは何を以つて之れを知るや、答ふ四条氏に与る書録外十四に曰く大覚三郎殿右衛門の太夫殿の事は申すまゝにて候間いのり叶ひたるやうにみえて候、波木井殿の事は法門は御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すまゝには御用ひなかりしかばいかゞと存じ候と云云、此の書は建治三年四月十二日の御文にして宗祖御入山已後三箇年に当るの時なり、然れども御法門猶確信と見へず故に法門は御信用あるやうなれどもと云々、而して猶宗祖の教示を用ひられざるが如し、其の人となり知んぬべし、是れを以て宗祖は滅後必す謗地となるを鑑察し生前一度事を常陸の温泉に託して延山を立ち去り玉ひしも已むを得ざるのことはりと謂ふべきのみ、興師老僧方へ与へたまふ書に曰く地頭不法ならん時、我れも住むまじき由御遺言とは承はり候へども不法の色も見へず候と云云、是れ宗祖已に波木井が後年の謗法を予知し玉ふを見るに足れり、鳴呼聖鑑の未萠を知るや恐るべし、果して宗祖滅後七箇年に当りて四箇の謗法を企つるに至る、故に興尊焉に已むを得ずして終に延山を退去せしなり、蓋し是れ宗祖の御本志を承け継ぎ玉ひしと謂ふべきのみ、況んや其の退去の砌りは宗祖の法魂たる出世の本懐本門戒壇の大本尊及び正御影と倶に御遺骨等分収して今の霊山浄土富士の麓に移らせ玉ふに於てをや、故に宗祖の延山退去の元意は只管波木井の謗法を未兆の内に知り玉ふにあつて艮に当るの旨趣にはあらざるべし、況んや右波木井宗要の二書は共に真偽未決なるをや、然れども其の説一応謂れなきにあらず若しくば外用一辺妨なきか。
斯て東国の信者等追々大聖人の御下向を聞き伝へて池上に群集せり、是に於いて宗祖は信者の謂に因り立正安国論の御講談あり、時に師は筆を採り安国大意問答一巻を註し玉ふ、其れより日々一期の大事大法の深奥を書せられて密に師に相伝し口決相承残る所なくして、正しく其の十月十三日の暁に至り、御入滅の後は遺弟等師を以つて身延山久遠寺の別当に尊崇すべきの御遺命あり、其の文に曰く釈尊五十年の仏法白蓮阿闍梨日興に相伝し身延山久遠寺の別当為るべし在家出家共背く輩は誹謗の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日  日蓮在御判、於武州池上。
按ずるに右二箇の相承は昔し徳川家康公駿府在城の砌り台命に依り進覧に備へたる由駿府政事録の一に見へたり、其の文慶長十六年十二月十五日の条に曰く今般富士本門寺より二箇の相承日蓮之筆(後藤少三郎を以て御覧に備う)其の詞に曰く釈尊五十年の仏法白蓮阿闍梨日興に相伝すと以下之を畧す云云。
斯く残る所なく御遺命在して十月十三日の辰の刻に御真筆の大曼荼羅に向ひ大衆と倶に方便寿量の二品を読誦し寿量品中半にして而も眠る如く安祥として入寂し玉ふ、十四日御葬礼の御営み終り玉ひて御尊骸を荼毘し奉り、御遺言に任せ御骨を身延に登せ御中陰の御仏事も怠りなく光陰いつか押し移り早くも還る年の十月御一周忌の御仏事も済みしかば、老僧の面々御遺言とは云ひながらも若輩たる興師の座下にあらんは流石に世間の名聞、心苦しとやおぼしけん、身延を下山して日昭は相州浜戸、日朗は鎌倉比企ケ谷、日向は上総の藻原、日頂は下総の真間と思ひ思ひに本国さして下向し玉ひければ、御心細くも但た師のみ一人身延に残り玉ひて朝暮の行法いと怠りなく今日と過き明日と暮し歳月を送り玉へども訪ひ音づるゝ老僧達もなく唯た明け暮れ聞くものとては深山にさけぶ猿の声、峯の嵐の音のみにして早くも故聖人の御三回忌になりしかども、未だ老僧方一人も参り玉はざりしかば余りの事に思召し歎かせ玉ひて老僧中へ御文を賜りける其の文に曰く何事よりも身延の沢の御墓荒れ果て候て鹿の蹄にまのあたり懸り玉ひ候、地頭の不法ならん時は我れも住すまじき由し御遺言とは承り候へども不法の色も見へず候、其の上聖人は日本国に我を持つ人なかりけるに此の殿ばかり我を持てり、然れば墓をせむにも国主の用ん程は尚難くこそありつれば、いかにも此の人の所領に臥すべしとの御状に候事、日興にこれを賜はりてこそ候ひしか、これは後の代まで定めさせ候、彼れには住ませ玉はぬ義を立て候はんは,いかゞあるべく候、縦ひ地頭の不法に候とも眤み候ひなん、争でか御墓をは捨て進らせ玉はんと覚へ候、師を捨つべからずと申す法門を立てながら忽ち本師を捨て奉り候事、大方世間の俗難も術なく覚へ候、斯の如く子細共いかゞと承り度く候、委細の旨は越後公日弁へ申し含め候ぬ等と云云、前後の文省略す、斯くの如く深切の御状を諸方へ遣はし玉へども老僧方一人も登山なかりしかば、さては五人の老僧方早や故聖人の御遺言に背き玉へるかと深く御愁嘆まし●●、雪の朝にも谿に下り水を汲んで御廟にさゝげ風雨のしげき夜半といへども倦むことなく燈明を挑げて御影に備へ、自ら人跡たえし幽谷なれば御墓には荊棘のみ生ひ茂り狐兎の跡路に交るのみ、弥よ悲歎の御涙にくれ衣の袖を絞らせ玉ひける。夫れ宗祖聖人建長の昔より弘安帰寂の夕に至るまで或は杖木瓦石の難、或は流罪死罪の難、其の外の小難は枚挙するに遑あらず、斯る大小種々の御難に値ひ玉ふは、そも是れ何の故なるぞ、是れ偏に本門寿量の要法を弘通して我れ等衆生の将来を救ひ玉はん為の御慈悲にあらざるはなし、然るに宗祖の入滅し玉ひて未た幾ばくもたゝざるに、五人の老僧さへも已に宗祖の御本意に背き剰へ御廟までも捨て玉ふは是れいかなる御心ぞや、縦ひ余人は兎も角も日興に於ては堅く御遺言を守り先師の旧業に違ぶまじと、弘安五年より正応元年まで七箇年の間身延山にをはしまし、諸生を集めて御書を講し誦経行法の御暇には昼夜となく手に経巻を抜き口に疏釈の声を止め玉はず、是れ偏に先師の旧業を継ぎ本門寿量の妙法を一天四海に広宣流布なさしめんとの御心より外は他事もなかりける。
斯くて過すほどに星霜押し移りて正応元年になり今年は故聖人の御七回忌に当り玉へども、御三回忌の時すら老僧達已に登山し玉はねば況てや今年などいと覚束なしと思召され御仏事の已前に諸方の老僧方へ回文を遣はされけり、其の文の趣意に曰く何ぞ御遺言に背ひて更に登山もなく御廟の香花を中絶し鹿の臥処となし玉ふぞやと云云、斯く歎かせ玉ひし御文に驚きて老僧方此度は各々登山せられたり、中にも上総の藻原へ下られし民部阿闍梨日向上人は他の御弟子衆に先達て登山し地頭波木井殿の家に逗留せられたり。
爰に波木井の家令に安弥次郎入道なる者あり、二子を持てる中に兄は先妻の子なりしが已に師へ弟子となし越後公福満と称し、弟は当腹の子にして民部阿闍梨の弟子となし名を侍従公伊豆鬼と呼べり、昔しも今も女の心の頑ましきは替らざる事にや、彼の安弥入道の妻、師の弟子となせし先妻の子を強く憎み浅ましくも師と地頭波木井氏の中を割き民部日向を身延の主となさん事を謀りける。
爰に師の御養父蓮光君其の頃富士の河合にて卒せられしかば、師には御弔ひの為め身延を出で其の地に赴かせ玉ひし其留守の隙を窺ひ、彼の妻さま●●奸計をめぐらし言を巧みにして入道に讒せしかば、入道やや師を疎んじ一入日向師を帰依せられしなり。
されば前に入道、師に問はれし法義ありけるが、そは故聖人の御本意に背ける謗法の根元なればとて堅く許さゞりしが、此の度日向師の入山を幸ひに其の事を問はれしに皆苦しからずと許されぬ、故に入道は大に喜び弥よ日向師を尊み遽かに我か師を疎んじ終に其の事を心のまゝに行はれ謗法の根元とはなりしなり、其の謗法の根元とは一には釈迦仏等の造立是れなり、夫れ妙法の大曼荼羅の外に色相荘厳したる諸仏菩薩の画像木像を本尊と立つるは、宗祖大聖人の御本意にあらざることは観心本尊抄本尊問答抄を始めとして其の他の御書にも往々遊ばされし事にて、宗祖の御在世中には曽てなき事なりしを波木井入道は此の時始めて之れを造れり。
二には三島明神の社参なり、凡そ謗法の神社へ参詣する事は宗祖大聖人の立正安国論等の御趣意に適はざるを波木井入道此の年之を始め三島明神へ神馬をひき戸帳を奉納せしとなり。
或る人の曰く本宗に神天上の法門を論ずるに共業と別感との二途あり、共業と者仮令正法の行者といへども謗国に住すれば一業の所感にて謗者と共に天神に捨てらるゝなり、此の旨安国論に引き玉ふ金光明経第六四天王護国品に曰く世尊四王並に諸の眷属及ひ薬亦叉等是の如きの事を見、其の国土を捨て擁護の心なし、但だ我等是の王を捨棄するのみに非ず、亦無量守護国土の諸大善神有らんも皆忝く捨去せん等と説き玉ふを本として、報恩抄下巻に曰く斯る謗法の国なれば天も捨て又天捨つれば古き守護の善神もほこらを焼いて寂光の都へかへり玉ひぬ等と、新池氏に与る書録外四巻に曰く此の国は謗法の土なれば守護の善神法味にうへて社をすてゝ天に上らせ玉ふ等と、開目抄下巻に曰く謗法の世をば守護神捨て去り諸天も守るべからず故に正法を行する者にしるしなきか等と、若し善神去れば邪神其の跡に代り栖みて邪幣を貪る、人誤つて邪神を拝すれば五百生の間微妙の法を聞かず常に手なき者に生るとは文殊間経の明誡なり、興師の波木井が社参を謗法と斥へるは其の意焉に在り。
別感とは諌暁八幡抄録内廿七に曰く経文の如く南無妙法蓮華経と申す人をば帝釈四天昼夜に守護すべし、八幡大菩薩宝殿を焼て天に上らせ給へども法華経の行者を見ては争か其の影を惜み玉ふべき等と云云、随つて宗祖竜の口の御難には八幡大菩薩光り物となりて御頸を助け奉りぬ、御在世中両度まで御自ら伊勢へ参宮し不思議の神護を蒙り玉ふ事あり、此の事は祖書には見へざれども公家堂上の日記に分明なり、即ち京都本国寺日達僧都の神仏冥応論に之れを載す、其の文に曰く園太暦第九に曰く文永元年十一月廿一日雪降る頃日日蓮聖人伊勢内宮に詣で神拝の時神殿より異声有りて忽に神容を現し託宣あり其の神詠に曰くちきるそよみのりのはなのはるとあき、おなしこゝろにやまをまもりて、上人法流成就の瑞あつて帰社の由今日渡会延兼許より注進すと云云、又第十一巻に曰く建治元年十月十二日暴風夜に入つて晴る去九日荒木田信濃守注進す曰く勢陽尾陽の間疫病大に起る民居の内死する者十に八九也、頃日神託有り曰く日蓮と名乗る者此の国に来る有り之を招きて法華経を誦せしむべし然らは則疫病の難救るべし、時に蓮勢陽阿濃津の一族舎に寓す乃ち之を請して法華経を誦せしむ疫病忽ち消滅法に帰する者数百家と云云、已上冥応論に之れを引く、宗祖已に伊勢に詣で玉へば太神之れに感格し又竜の口に臨み玉ふ時は八幡之れを加護し玉ふ此れ是れを別感と云ふ、日向師は此の筋を以て波木井氏に社参を許せしものならん何ぞ是れ謗法と云ふべきと云云。
今謂く共業別感の分科をなし其の文を判するは不可なるにあらずといへども、其の別感の中に於て謬解僻説なる者あり夫れ前の八幡抄には宝殿を焼いて天に上らせ玉へども法華経の行者あらば其の頭に宿ると云ひ、四条氏に与る書には争か影を惜み玉ふべきとのみ示し玉ひて再び本社に還り玉ふとは仰せられず、又竜の口の光り物を以て八幡太神の加護とするは未た宗祖の内徳を知らざる者の謂ひなり、其れは下に至つて弁すべし、園太暦の記文の如きは縦ひ真書に載するとも信じ難し、其の故は文永元年の十一月は宗祖已に御生国安房の国に赴き其の十一日には東条の小松原にして剣難に値ひ玉ふ時なり、其の廿一日の頃は未た眉間に三寸の御疵、右の肱の御痛みさへ愈ゆべからざるの折、而も其の当時を想像するに旅中干飯を糧とし露宿を経るの時当時未た四日市の汽船陸道の車夫もあらざるに何ぞ到るの速かなるや何ぞ速に伊勢に詣で玉ふべき、又建治元年は宗祖身延に入り玉ひし其の年なり、妙法尼に与る書録内十三に曰く文永十一年五月十二日、鎌倉を立つて六月十七日より此の深山に居住して門一丁を出でず、既に五ケ年を経たり等と云云、山籠已後弘安中まで他行し玉はざりし事文に在つて分明なり、何ぞ入山の其の年たる建治元年の十月頃などに伊勢に詣て玉ふ事のあるべき、況んや宗祖は本化の再誕其の内証は久遠の本仏なり、宗祖何ぞ我れと身を神社に屈し神助を乞ひ玉ふの理あるべき、三沢殿に与る書録内十九に曰く又うつぶさの事は御年よらせ玉ひて御わたり候て、いたわしく思ひまいらせ候へども、氏神にまいりてある次でと候ひしかば見参に入り申すならば定めて罪深かるべし、其の故は神は所従、法華経は主君なり所従の序に主君の見参は世間にもおそれ候、其の上尼の御身になり玉ふては先つ仏を先とすべし、旁の御科ありしかば見参せず候、此の尼御前の一人には限らず其の外人々も下部の湯への序と申す者をあまたおひかへし候、尼御前は親の如きの御年なり御歎きいたわしく候しかども此の義を知らせまいらせんがためなり等と云云、已に初心愚痴なる老尼等の社参をすら事に託して斯く厳重に誡め玉へり、況んや延山の大檀那たる波木井の社参をや是れ争か謗法たらざるべき、彼の園太暦云云の如きは日達の妄作たる素より論に及ばず況や他の学者之れを言ふ者あり、其れは近世に有名なりし国学士平田篤胤の俗神道大意に之れを駁して曰く日蓮宗と云ふ宗の者共の書いた物には殊に偽も多く又神の道の妨けとなる事も多くあるが中に、彼の宗では知識と呼ばれたる日達と云ふ僧の著たる神仏冥応論と云ふものがある。此れは古くよりある所の両部神道に倣つて日蓮宗の旨と神の道の趣きとを両部習合して妄説たら●●なる事を書いたもので其の中におかしい事がある等と云ふて、右の園太暦の文をあげ而して謂く他宗では此の方の宗旨を罵るけれども斯くの如くやんごとなき相国家の記録に而も両宮より注進の由を御記しなされ内外宮の太神ともに吾が祖師を止んごとなきものに思召す由をいひ立てたが、此れは彼の行基が偽りをまねて彼の託宣の趣向を盗んだものじやが、いかにも園太暦と云ふは中園の太政大臣公賢公の記録で、則中園の園と云ふ字と太政大臣の太の字とをとりて園太暦と名けられた者で、世の人が名のみ聞ている堂上の記録故、人の知らぬを幸に偽つてかやうのことがあると、此の文を自分が作つて記した者ぢや、今は此の書も世間に伝はり間々人も見るものではあるけれども、文永元年よりは五十年余り後応長より北朝の応安中までをぬき●●に記したる者で、かやうのことは決してなく、此れらはいかに法華宗でも余りなる偽りぢや、殊に此の文の中におかしいことは内宮の禰宜衆は荒木田氏、外宮は渡会氏ぢやものを取りちがへて書いたも、かやうの巧みをするにしては文盲の事じや等と云云、今我が宗に於て宗祖の御本意に基き已に前に弁ずるが如くならば此の侮辱の罵りは更に当らずといへども、日達の如き妄誕を吐くときは倶に一宗の侮辱を招く悲しむべきの至りなり嗟呼、乞ふらくば其の門葉たる者先師を救助するの説あらば具に弁解し其の外侮を禦ぎ玉はんことを。
問ふ若し然らば龍の口の光り物の如き祖書に或は八幡宮の加護とし或は月天子との玉ふ此の義いかん、是れ但外用の一途のみ故に一定ならず、実に宗祖本仏の威徳、獅子奮迅の力用、自在神通の御内証より出てたる者か、深く思ふべし。
三には念仏の宝塔供養なり、夫れ念仏真言等の謗者に布施供養せるは善根反つて大悪となり終に悪道脱れ難き旨は内外の祖書に散在して猶安国論に詳なり。
按ずるに安国論に曰く全く仏子を禁ずるに非ず、唯偏に謗法を悪むのみなり、夫れ釈迦依前の仏教は其の罪を斬ると雖能仁以後の経説は則其の施を止む然らは則ち四海万邦一切四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何の難か並ひ起り何の難か競ひ来らんと四条氏に与る書録内十七に曰く但し法華経の御敵をば大慈大悲の菩薩も供養すれば必す地獄に堕ち、五逆の罪人も彼れを怨とすれば必ず人天に生を受く等と云云、其の他省略。
然るを入道其の頃南部の郷内ふくしと云へる処に念仏の塔供養ありしに之れに布施奉加せるなり。
四には念仏の道場建立是れなり、抑宗祖の御立義は念仏無間等と申す御法門なれば彼れ等と座を同ふし供養をなすすら与同の謗法のがれがたしとかや、況や自ら念仏道場を建るなどこれにすぎたる謗法罪やあるべき、されば宗祖剃度の御師たりし清澄の道善坊に十箇年ぶりの久々にて御対面ありし時、道善坊の問ひ玉ふには我れ事の縁ありて阿弥陀仏を五躰まで造れり此の科にて地獄に堕つべきかとありしに、宗祖の御答に阿弥陀仏を五躰まで作らせ玉へば五度まで無間地獄に堕ち玉ふべき因縁となり候はんと仰せられし由、録外の祖書に見へたり、宗祖斯くまで誡め玉ふ上は其の弟子檀那たらん者争て之れを恐れざるべけんや、然るを入道此の時一門の仏事助成として其の領内に九品念仏の道場を建立せられしとかや、是れ即ち波木井殿の四箇の謗法とは云ふなり。
是れぞ実に清浄無染の霊地たる身延山も忽に謗法の魔境となり数百年の今に至るまで無量百千の人をして題目を唱へながら知らず識らず無間の業を造らしむる濫觴とはなりにける、是れ併しながら其の根本を尋ぬれば日向上人仏法の志薄く世間の欲心に迷ふて、若し興師なかりせば吾れこそ身延の貫主たらんと無道心にて強く入道に●曲せしより始まれる仏法の大禍事なり、誠なる哉仏涅槃経に菩薩悪象に於て怖るゝ心なし悪智識に於ては畏るゝ心を生す、悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友に殺されては必す三途に堕つべしと説き玉ひしとかや、実に恐れて恐るべきは悪智識なり、鳴呼日向上人此の悪智識の域を遁れんと欲するも豈得べけんや。
按ずるに啓蒙二十七巻に曰く身延の日乾、先年京都本法寺に於て談義興行の時、題目抄を引いて念仏も苦しからざる証とし世人念仏を申せば口もたゞれ舌も抜け出つるやうに思ふは愚痴の至りなりと破せしを直に聞きし人或る僧に語りし趣き、或る僧書留めたるを予に親たり見せり、又日乾京都新在家佐藤久兵衛に対し仏法相続の為なれば、若し国主の御意ならば念仏も申すべしと語られしを久兵衛慥に聞持して物語りありきと云云。或る人曰く啓蒙の撰者は不受不施者流にして素より延山の匹敵なり載する所の二件信し難し、若しくば日乾の栄誉を害せんための誣言なるかと云云、予曽て草山集第六に載する所の日乾の伝を見るに曰く日乾摂州能勢郡鞍懸の古堂に於て説法す、堂中に弥陀薬師の二像を安す弥陀は偉大にして殿なし薬師は宝殿の中にあり、将に座に陛らんとす先つ弥陀を拝し継ぎに薬師の前に及ぶ、其の時に当つて殿扉自ら八字に開くと云云蓋し魔仏の所為なるか不審、今謂く彼れ已に身業斯の如し口業の称名那ぞ厭ふべき、況んや日乾所述の宗門綱格には宗祖末法の立行たる折伏門を排斥して大愚と嗤笑す、若し然らば啓蒙に駁する所の二件信乎たるに似たり、蓋し祖書の明鏡に照さば乾師も畏るべき悪智識、師子身中の魁虫と云はんも敢て過言にあらざるべし、惟ふに是れも偏に日向上人の悪弊を襲伝し来れるなるべし。
腹案ずるに身延謗法の濫觴日向師の●曲の状我か門独り是れを伝ふるのみにあらず他派も亦た之れを言ふ者あり品類抄第五四十二紙に日朗上人の遺書を載す、其の文に曰く抑も甲斐の国波木井の郷身延山久遠寺と申すは日蓮聖人九ケ年法華経読誦の山なり、日蓮聖人御死去は武蔵の国荏原郡宗仲が家にて遷化、日蓮聖人御遺言に彼の身延山と申すは天竺の霊山にも超え唐土の天台山にも勝れ日本の比叡山にも超過せる山なれば真の霊山事の寂光土なり、日蓮何国にて死すといへども墓をば身延山に立て置いて彼の山を守るべしと御遺言ありしかば、御骨を首に懸け身延山に閉籠り彼の山を守る処に、久遠寺の大檀那波木井殿三の謗法これあるに依つて日昭、日朗、日興、日頂、日持の五人は同心に彼の山を出つる事一定也、夫れ三の謗法とは一には伊豆の三島明神へ戸帳を掛る事一定也、二には鎌倉の八幡宮に神馬を引く事一定也、三には如法行の為に国中の謗法者を勧進する事一定也、波木井殿の謗法限りなきに依て五人同心に彼の山を出離する処に、彼の日向は日蓮聖人弘通の本意に背き大謗法の波木井殿の施を受けて彼の山に留る事師敵対也、日向は禅念仏の宗旨にも劣れり日蓮聖人師子身中の虫を以て喩ふ、我が弟子の中にも邪義を申し出し日蓮弘通の本意を云ひ失ふ者あるべしと書れたるは日向一人に定れり、日向は師敵対なれば堕獄一定也、末代文証のため之れを註し畢ぬ、正応元年十一月日朗と云云。
今謂く此の本書何にあるや未た知らずといへども已に他派に於て公然開板し広く現行せる事年旧りたり、且其の記載する所、粗我か門の所伝に符合す故に今焉に掲くるのみ、蓋し原本の年月に不審なきにあらず此の書果して真たらば必す正応元年十一月興師御離山の際と同時たるべし、故に該年月を以て改正を焉に知るのみ。
然るに我が興師には養父尊霊の御仏事も終り河合より身延へ帰り見玉へば、思ひきや斯る謗法の有容に大に驚き歎かせ玉ひ経釈祖判の明文を引き懇々諌め玉へども、入道殿聊も用ゆべき色なく弥よ日向師の許しとて謗法の所行至らざる所もなく見へければ、是れ唯事にあらず偏に悪鬼入其身の所為なるべし、さるにても民部阿闍梨の所存何とも恐るべし、釈迦如来の我か法は外道天魔の破るにはあらず師子の身の中より生する虫の必す師子の身を破るが如しと説かせ玉ふは、正しく彼の民部阿闍梨が身に当れり、されば故聖人予ての御遺言にも若し地頭不法ならん時は我か魂此の山に住すまじとの御言の葉今猶耳底に残れり、斯くまで謗法に穢れたる此の身延の山に争で故聖人の御魂の住み渡らせ玉ふべき、されば早くも此の地を去り何国になりとも此の正法を維持し広宣流布の時を待つにしかずと思惟まし●●て、宗祖出世の本懐本門戒壇の大御本尊を始めとし正御影等及ひ宗祖より御付属ありし法宝等都て残りなく牛馬に駄し日法日弁等の中老僧及び日目日華已下の御弟子檀那三十余名を引き倶し、住みなれ玉ひし身延の沢を御涙と共に立ち出て玉ふ、頃は正応元年霜月の始なれば山国のならひとて雪はそゞろに降り積もり四方の山々は白妙に樵夫の路も埋もりて往来もたへし山道を下山通り大井の庄まで退去し玉ひければ、波木井の一家は是れを聞き大に驚き早速に使者をたて師に身延帰住を懇望し玉ふ事、往復已に八度に及べども、師は深く思慮する所ありて而も固く辞して帰住し玉はず此使の度毎に種々懇望の書面あり是を懇望状と称し北山西山の両本門寺に蔵せりと聞く、此の往復の紹介は岩本実相寺の賢秀日源が勤められしが終に和議とゝのはず、早や懇望も事きれければ賢秀は其の十二月五日退去し岩本へ帰られける、其の後正応二年春に至り波木井入道より弥手ぎれの書状到来す、其の文に曰く日円は故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧たちも同じどうぼうにてこそ渡らせ玉ふに、無道に師匠の御墓をば捨て進らせて咎なき日円を御不審候はんは弥よ仏意にも相叶ひ候べきか、御経に功を入れまいらせ候て師匠の御憐みを蒙り候事恐くば劣り参らせず候、前後の差別こそ候へ等と云云、此の状は八度目の手切の書なり、其の前七度までは何卒して師を身延へ帰住せしめんとして、さま●●の趣を以て請待すといへども師は深き思召ありし故に曽て領諾せず、因つて入道も最早及ばざる事とあきらめ斯る不遜謾言の書面を贈られしなり。
さて師には身延を御立ありて久しく甲州大井の庄におはしけるが、正応二年の春に至り駿州川合の領主由井氏の請により彼の地へ御越しあり、其の後同国上野の郷主南条七郎次郎時光の請により富士の上野に至り玉ふ、時に南条氏已に一坊舎を営み師及び御弟子等焉に住ませ奉る是れ則今の下条村の坊是れなり、此の坊舎より遥に二十余丁北の方に当つて●●たる広野あり大石の原と名つく、師或る日御弟子等を率ひ焉に遊び四方の風景を望み玉ふに実に無双の絶景、四神相応の勝境なれば将に本門戒壇の霊地とするにたへたりとなし、焉に一宇を創立し広宣流布の時至るまで永く異地に移すべからずとて其の地名を以て大石の寺と号し、宗祖出世の本懐本門戒壇の大御本尊併に正御影及び造初の御影御遺骨等を焉に安泰して、御弟子等各々支坊を建立し以て是れを衛護し三時の勤行怠りなく日夜に行学精進し玉ふほどに、翌正応三年には其の功既に成就して導利衆生の外他事なかりける、是れ則我か大石寺正統一宗の濫觴なり。
按ずるに仙台孝勝寺六牙院日潮後身延に住職す本化仏祖統紀の興師伝を見るに妄説百端一もとるべきなし、今繁雑を憚り焉に駁する能はずといへども先つ其の事実の齟齬ある一旦を云はゞ、同書の九に興師より実長へ賜り玉ひしと云ふ元応元年戊子の十一月日とある国字の文を漢訳し、援き畢つて謂らく実長一語の酬なく師大に之れを喜ばず、十二月五日憤然として出て去り河合に舎す翌年三月上野に移る、上野と波木井と通家の好みあり師又快とせず、房州北野郡保田の郷に往いて僅に小茅を締ひて人情の間を睥睨して世の責を受けず中略、今の中谷山妙本寺は其の旧趾なり、永仁五年丁酉の秋波木井実長病卒す、上野の邑主、師の道儀を慕ひ之れを忘るゝ事を得ず新に宏基を構へ疏を備へて再請す等とある、其の元応の年号は興師身延退去よりは三十二年の後にあり、若し興師自筆の原書に元応とあらば其の書は必す偽筆なるべし、況や戊子は正応元年の支干興師延山を退去し玉ふの年なり、何ぞ興師自筆にして三十二年後の年号なる元応と書き誤り実長へ贈り玉ふ事のあるべき、蓋し惟ふに興師正応元年十一月初旬延山を退去し大井の庄に在留の際、波木井の一家大に驚き遽に岩本実相寺賢秀日源師を招き之れを紹介として種々の懇望を以て帰住を請はれけるが、猶其の最後には久遠寺院主学頭に請はれしかども師には深く思慮する所あれば断然辞し玉ふの御返事なるべし、其の実長に贈られし興師自筆の草稿今我本山に残れり、而も彼れが如き虚飾の衍文もなく文意も亦異なる所有れども今焉に贅せず。
次に房州保田妙本寺の創立は正応を距る事四十七八年の後建武の初め我か日目上人の遺弟なる日郷師、事故ありて大石寺を出でゝ鎌倉に弘通し、其の後上総へ渡り加藤村に本成寺を創し、而して房州へ越へ保田の豪家篠生左衛門を教化し玉ふ、左衛門歓喜の余り其の屋敷を寄附して寺地となし挙族吉浜に移住す、日郷師其の地三谷の中央に建て中谷山妙本寺と称する是れ其の始めなり、然るに正応の始め興師身延を去るの砌り随従已に数人ならず、宗祖値遇の御弟子猶日法日弁等の中老僧及び日目日華日秀日禅日仙等其の他長幼の御弟子老若の檀那等混じて三十余名に及ぶ、奈んぞゆかりもなき遠僻辺土の房州まで此の多人数を引き連れ遥々と下向し僅の小茅を取り締び師資相混して門を杜ぢ穏眠蟄居し玉ふ事のあるべき、日本国の権柄を握り暴威を天下に振ふ鎌倉氏すら法の為には直を挙けて畏れ玉はざる吾か興尊何ぞ波木井の如き小族に憚り貴重の法器を徒らに辺土に蟄し玉ふべき、愚妄を吐くも程こそあれ余りに卑屈の日潮なる哉、蓋し彼れも延山一時名望の学匠是れ等の事は識らざるにあらず、要する所は只陽には興師の名を称揚し陰には其の内徳を圧殞せんとの奸策より出たる虚妄豈奸曲の高僧ならずや。
斯くありし上は彼の身延山は宗祖御在世九ケ年と興師在山七ケ年前後十六ケ年の程こそ真の法華経本門三大秘法、根本の霊崛、事の寂光浄土とも言つべけれども、興師御離山已後は宗祖の法魂本門戒壇の大御本尊もおはさず御正墓はありながら御遺骨も今はなきが如く、然らば是れ霊山にもあらず寂光にもあらず只是れ旧の山谷なるのみ、況んや波木井が四ケの謗法を原因とし日向の邪義年旧り殊に本迹一致の謬見権実雑乱の体たらく宗祖の法義殆ど地に陥ると云はざるべからず、猶叡山の慈覚智証が先師伝教義真に背き理同事勝の僻見を起して本師伝教の法義殆ど地に陥りしが如く、彼の摩利山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となりしに異ならず、何ぞ之れを指して一宗の大本山根元の霊崛と云ふべき、当に是れ堕獄の根元無間の巣崛と云はんも敢て過言にはあらざるべし。
さて我か興師には大石寺九ケ年御住居の後、永仁六年と申すに北山の地頭石川孫三郎殿の請により本寺より二十余丁の東に当る重須と云へる処に御影堂を建て玉ひ、本寺の寺務をは悉く嫡弟新田卿阿闍梨蓮蔵坊日目上に委任し猶其の他の御弟子をして本門戒壇の大御本尊を守護せしめ、師は重須の寺に閑居し是に於いて大に教法を震ひ玉ふ事三十六年なり、已に元弘二年壬申三月十一日に法を日目上人に付し兼て大石の寺跡をも属して而も其の翌年正慶二癸酉の二月七日享年八十八歳にして重須の寺に安然として遷化し玉ひしなり。
其の間日昭、日朗等の老僧方も一旦法門の異義により興師と不和になり玉ひしかども、後年に至り日朗上人と真間の日頂上人及び頂師の肉弟寂仙坊日澄師は自身の僻見を覚知し、富士に登山し玉ひて興師の正義に承伏し御本尊正御影の御前にて深く先非の過を懴悔し給ひしも、全く興師の立義宗祖の御正意に基き異なる所なければなり、鳴呼いと尊としと謂ふべし。
按ずるに本山の旧記に宗祖入寂十八年の後正安中日昭日朗等老僧方先師の旧業を継かんとして、安国論に私の訴状を副へ鎌倉政府に捧け玉ふ各々天台沙門と名乗れり、殆んど宗祖の御本意を失ふに至る、故に事已むを得ず興師一書を著し以て迹化本化の差別本迹勝劣の旨義を述べて之れを破斥し玉ふ即五人所破抄是れなり、是に於て乎余の老僧方と相和せず、独真間日頂上人の舎弟寂仙坊日澄師は素と日向上人に依り剃度すといへども我か興師の法義を欽慕して旧師日向を捨てゝ富士に詣て師に帰伏す、蓋し聞く一切経周覧当時無双の学匠なりと、是れを以て師は大に喜び乃ち富士の大学頭に撰挙す時に乾元二年八月十三日なり。
其の年春の頃舎兄伊予阿闍梨日頂上人富士に始めて登山し弟澄師に依つて興師に謁し、而も先謗を懺悔し其の謗法を厭ふて旧寺に帰らんと事を欲せず、永く富士に留り終に一寺を創して焉に住し其の後十四年を経て文保元年丁巳三月八日を以つて該寺に寂す。
舎弟寂仙坊日澄師は頂師に先達つて化す、興師大に之を歎惜し玉ふ、次の学頭下山三位日順師の澄師を弔する文に曰く延慶三年太歳戊戌暮春十四日四十九、駿州富士重須の郷に在つて常寿未だ満たず師に先立てて没す等と云云、今猶二師及び御母妙常尼乙御前の墓等は重須御影堂の北の側に存在すと、又延慶三年の三月八日には日朗上人も富士に詣で興師に謁して本迹の僉議ありしかば終に以つて屈伏し已後本迹勝劣同心一味の状を興師に献す、其の後文保元年にも亦参詣ありしとなり、然れども彼の徒之れを言はざるのみならず又知る者なく、却つて後年吾宗に抗し敵対せるは猶嘉祥が天台大師に帰伏して講を廃し身を肉橋となせしすら其の徒之れを言はず又知る者なく、却て後年吾国南都三輪宗の碩徳等強く天台宗に抗し伝教大師に敵対せしが如きに敢て異ならざるなり、然るに日朗上人の弟子摩訶一院日印師独り本迹勝劣の義を立てられしは蓋し是れ若しくば師承を聊襲ひしなるべし。
其の日頂師の事跡は前に已に述るが如く詳明なりしも、本化仏祖統紀の頂師伝を見るに其の事実を削脱して虚飾の衍文をなし以て興師の行徳を蔽ふ者あり、曰く乾元元年壬寅三月八日日頂師、法を日揚に付し弘通行脚し駿州富士重須村に到り父の旧趾を思ふて停住し父母の塚を弔し之れを処する十六年、文保丁巳三月八日微恙を示し泊然として化す時に年六十六歳と、註に曰く乱国の時、師の化を通する能はず十二年の後初めて之れを知ると云云、是れ頂師の本志を顕はさず以て興師の徳化を蔽はん為に取り設けたる無稽の妄説なり、凡そ導利衆生弘法教化の為には現在の父母をすら辞し所領を顧みざるを出家の丈夫心と謂ふべし、何ぞ父の旧趾父母の一古塚に恋々愛著し徒に十六年の長きを費やし旧寺に音信を通せず、隣国の身延にも詣でず徒に此の辺土に亡するの理あるべき、是れ他なし偏に旧寺及び諸師の謗法を厭ひ興師の法化を慕ひ嘉祥の衆を散し講を廃するの義にならひて終焉を茲に俟ち玉ひしに外ならず、況や文保元年まで八ケ年の間は鎌倉時代中の泰平にて一の騒乱ありしを聞かず、漸く正中元年に至り後醍醐帝北条氏征討の謀議に付き資朝俊基の両朝臣等左遷せられし等の事はあるも道中音信のなり難き程の乱世はなかりしなり、却つて十二年の後嘉暦三年の頃は漸々乱世の崩しありて物議洶々たるの時なり、此の時に至りて始めて師の遷化を通知せりとは笑ふべきの愚論ならずや。
又四条氏は興師退去の際、師の法化を慕ひ跡を追ふて富士に来ると伝聞し且つ旧記にあり、猶其の子孫永く相続したりしが、近頃亦真間弘法寺日健の記せし御書抄の第三に載する日●僧正の開目抄の講談を見るに及ぶ、其の言に曰く開目抄をば誰れがたまはりたと申すに是れは四条金吾兄弟四人の方へ遣はされしなり、是れ何事なれば竜の口の御難の時馬の口に取付いて御大事あらば悉く皆腹を切らんと思ひきられたる衆なるに依つて、別して大切に思召し此の抄を認めつかはされしなり、此の人は富士門徒の檀方なりと云云、然るに或る人問ふ四条氏は伊豆の国江間氏の譜代眤近の家臣と聞く、富士に住せし人にあらず奈んぞ富士門徒の檀方たるを得んやと、蓋し按するに日潮の統紀に宗祖滅度の後四条頼基江間氏を致仕し身延に登り御廟の傍らに盧を結び影山を出でず、生涯心衷終始一の如く正安二年庚子寿七十一三月十五日に終焉せられし趣を記せり、今此の文を惟ふに影山を出でず已下の言は前の頂澄二師の例の如く潮公が我か興師の法徳を蔽はん為の虚飾謀言にて、其の実は古伝の如く師の法化を慕ひ身延を去りて富士に来り該子孫まで富士門徒の檀家たりしを、日健日●の時代は人も質朴にて此の事顕然に申し伝へ子孫連綿と相続したるを親たり見聞せし故に是れを庇ふに忍びず斯くは明記せしなるべし。
鳴呼我か興師の法徳至れる哉、先には民部日向の讒●面諛波木井入道の不信謗法を悪み一旦時の法都たる延山を背にし大いに沈落すといへども、弟子たる者は更なり宗祖の中老たる日法日弁及び日目等これに随従し、後ち南条氏の領地富士の上野に請せらるゝに及んでは四条氏も共に来りし一族永く門徒の檀那たり、況や六老の内一老日昭師は老頽し六老日持師は異国へ渡り共に其の終りを量り知るべからずといへども、第二の日朗第五の日頂両上人に於ては倶に来つて先謗を改悔し澄師も亦然かなりし事は既に前に記するが如し、若し我か興師実に宗祖伝法の正嫡にあらずんば安んぞ焉に至るべき。
抑亦按するに常楽院日経本迹勝劣慶長十八年十一月十三日、三輪志摩守に与ふる書なりと云へりに曰く富士の日興は邪僧にて祖師御入滅後に勝劣を取り立られたりと云ふ、若し邪僧ならば祖師争か導師の役を仰付らるべき、又彼の日興へは祖師別して本因妙抄と百六箇抄と云ふ二巻の御秘書本迹勝劣の大事を授け玉ひし証文歴然たるに、日興が祖師御入滅後に取り立てたりとは是れ妄説を吐くなり、本因妙抄と云ふは三大部六十巻をひつゝめて本迹勝劣の大事を口決したる書なり、百六箇抄と云ふは百六箇条の本迹勝劣を立て祖師より忝くも日興へ御直に御相伝遊したる御書なりと云云、彼れ已に什門流に有名なりし不惜身命の豪傑なり、而して興師の正導師たるを信ずる是くの如し、然るに彼れ等所立の法義に於ては我れと天地の違目あれども此の事に於ては又異論なかるべし、其れ我か興師は宗祖の正統たる誰か争はん、されば皇国の南北両朝の如き神孫皇裔に出るといへども南朝の正統たる誰か之を知らざるべき、故に北条足利の逆臣の為に一旦皇都を出で玉ひ或は隠岐に蒙塵し或は久年吉野に蟄し玉ふといへども、足利不忠の不義士は知らず新田楠和田名和児島北畠等の如き天性忠義の臣に於ては私立偽朝の貪利に奔らず、或は舟上山或は吉野に勤王し而も皇家と存亡を共にし或は子孫了遺なきに至る、而して北朝に於ては逆臣不義士の盛炎に由り皇旗を一天に翻へし終に不忠不義の貪土宇内に弥蔓縦横するに至りしは、是れ一時の勢にして南朝の正統ならざるにあらず、又楠氏新田輩の智勇忠臣の赤心至らざるにもあらざるべし。
今や我か門の如きも亦是くの如し宗祖の正統たるや確明にして彼の巨擘たる日朗日頂の両師有名なる日法日弁日目日澄の学匠、俗士には四条南条等の不惜身命篤実の信行者等心を傾け焉に帰仰すといへども、五百数十年の今に至り彼の身延等の本迹混淆、権実雑乱の門流は其の門大にして且つ広し、独り吾か門甚微少猶之れを比するに実に海中の一二の小石十方土中の爪上の土にも及ばざるが如し、是時の勢ひなるのみ蓋し又魔業の爾らしむる者か。
大集経十六に曰く爾の時魔子醜面及ひ余の魔子等悉信心なく各々是の言を説く、たとい沙門瞿曇諸の方術を以て魔王を廻転すとも我等共に当に諸の方便を設け是の如き等の流布することを得ざらしむべし、たとい流布せるも亦当に少くあらしむべし、護助信受者も亦甚だ少からしめん、常に他人の為に薄賤軽弄せられん、常に辺方に堕して中国の宣伝する所とならしめず唯諸の威徳なき貧窮のの衆生のみ当に之を聞くを得たり常に諸の大威徳豪富の人は不信誹謗を為さしめん等と云云、当門の信徒たらん者此文を肝に銘し偽統の広く世に蔓り我か正統の萎微たるを以て怪異するなかれ、蓋し経釈祖判の如く当に広布の時至らば魔力争か及べき遂に一天四海一乗法に帰せんこと敢て疑ふべからず。
さて日目上人は此の大法を日道上人に付しそれより日行日時等と今已に五百五十有余年に至るまで、猶一器の水を一器に写すに器は不同なりといへども水躰は更に替ることなきが如く師資相承し、化儀化法共に全く祖師開山の掟の如く、毎朝丑寅の勤行其の他日々の行法等聊か油断なく相続し来れる我山の法流是れぞ則一宗の根本法水の清原と謂ふべし、鳴呼信なる哉法尊きが故に人尊し人尊きが故に処尊しと、我か山の尊きは是れ他なし所謂宗祖出世の本懐本門戒壇の大御本尊ましますが故なり、然れども今日に此の大法を維持するに至りしは我か開山興師の信行智徳の高尚なるによるにあらざれば争か焉に至るべき、鳴呼。

編者曰く明治十六年大阪信徒の刊行せる日興上人略伝に依る、但し現本誤植等多々なるに原本の誤謬と見るべきものあり委くは改訂せず、又此が原本とも見るべきもの予が蔵中に本宗黄河抄二部あり、一は慈雲房後の学頭法乗院筆に間々霑尊の批点あるもの恐くば此が本書の原稿か、一は慈観後の日柱上人筆にして序文何れも印本と異なり殊に慈観筆に添ふるものは霑尊の正筆にして本伝の外に宗義化儀共に著はして一部に成すの目的なりしが、何の為にか略伝だけに止められしは遺憾の事である、要するに本史の骨子は全然精師の家中抄に依りしものなれば誤謬多き事、既に其下に批正するが如し、故に当本には繁を恐れて誤謬の箇所に○符を疑義の箇所に△符を施したるのみ、読者此を了せられよ。

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