富士宗学要集第五巻

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三師御伝土代

「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。
八十六代後の堀河の院の御宇、貞応元年二月十六日誕生なり。
八十七代四条天王・天福元年みつのとのみのとし、御年十二の春同国清澄寺へ御登山道善房の弟子なり。
八十八代一院の御宇・建長五年みつのとのうし三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にして浄円房並に大衆等少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ぬ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ひ畢、地頭東条左衛門景信大勢を卒して東条の松原に待伏し奉つる、散々に射奉つる、御身には左衛門太刀を抜切奉まつる御笠を切破つて御頭に疵を被る、愈ての後も、疵の口四寸あり右の御額なり文応元年きのへねとし十一月十一日さるときなり。
而して、後鎌倉ゑ上り最明寺の入道殿に向つて云く念仏真言禅律等の当世御帰依の仏法は今生に災難多し国を失い後生には無間獄に堕べき由を度々諫められ畢んぬ正嘉元年八月二十三日戊亥の刻の大地震に諸経の文を勘へ一巻の論を註し立正安国論と名づく。
当今の御宇文応元年庚申、宿屋入道を使ひとして最明寺入道殿に奉る、然りと雖も、承引なきところに勘文の如く文永五年つちのへたつ閏正月十八日、大蒙古国より日本を攻べき牒状是あり。

御書に云く去る文永五年後の正月十八日、西戎蒙古国より攻むべし日本国に牒を渡す、日蓮去る文応元年太歳庚申勘がうる如く立正安国論に少しも違わず符合しぬ 此書は白楽天の楽府にも越え仏の未来記にも劣らず末代の不思議何事か之に如かん。
文応元年庚申七月十六日立正安国進覧の後弥々謗法の法師等怨嫉を成し讒奏讒言の間次の年弘長元年かのとのとり 五月十二日御齢四十にして伊豆の国伊藤の配流、其国の念仏等讎をなし毒害を思ひ、毒の菌を持来つて聖人に奉る、聖人此を服して敢ゑて失なし、安楽行品に云く毒不能害とこれを思ふべし、伊東の浦より海上より白髪の翁来りて聖人に向い奉り御赦免は今年にて候べしと云云。
弘長三年みづのとのい二月二十二日赦免畢んぬ。
同年十一月廿三日亥の刻最明寺禅門死去。
建長五年此の法門出で来る以後同七年きのとのう十月十一日、二日両日の戌の時大地震動、同八年秋八月九月十月十一月十二月京鎌倉併しながら、いなすりと云う病気に人死る事数を知らず、同八年十月五日康元と改む元年は丙辰なり。
康元二年三月廿三日正嘉と改む。
正嘉元年丁み八月廿三日戊亥の刻大地震動一時なり、大飢渇日本国中人民みな死す、先代在らざる地震なり。
正嘉三年三月廿六日正元と改む。
正元二年かのへさる四月十日文応と改む。
文応元年かのえさる七月十六日立正安国論進覧。
文応二年かのとのとり二月廿日弘長と改む。
弘長元年かのとのとり五月十二日聖人伊豆の国伊東配流。
同三年みづのとのい二月二十二日御赦免。
弘長四年きのへね二月廿八日文永と改元。
文永元年七月四日大長星前代未聞一天に弥り満つ。

同五年つちのえたつ蒙古の牒状あり。
聖人御申状に云く、去る正嘉元年ひのとのみ八月廿三日の戊亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘うるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を成して起す所の災なり、若し此を対治無くば他国のために此の国を破らるべき由勘文一通之を撰し、正元二年かのへさる七月十六日御辺に付け奉り宿屋入道故最明寺殿に之を進覧す、其の後九ケ年を経て今年大蒙古の国の牒状之れ有る由風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責むべき事必定なり、而るに日蓮一人彼の西戎を調伏すべき仁に当る云云。
同七年かのへむま八月廿八日大風大火、廿九日夜又大雨、廿八日未の時地震、二十九日又地震、閏九月十六日七度す、総●八月廿八日より始て十月地震、閏九月は鎌倉の人々は長時に身を動すなりけり。
同く八年かのとの未聖人重て申状を上て云く、念仏真言禅律等の寺塔を焼失ひ彼の僧等が頚を切て由比の浜に懸ずは異国の責弥々強盛なるべし云云。

極楽寺良観房行敏を代官として聖人を訴へ奉る。
状に云く日蓮が造意の如きに至ては上古更に比類無く末代争て等輩有らん等云云。
之に依て文永八年かのとのひつじ九月十二日御申状あり。
承引なく竜の口にて切れ奉らんとす、江島より光物出来り御所中様々恠あり、之に依つて切れず、其の夜相模の国依智と云ふ所に入らせ給ひて軈て佐渡の国へ御配流畢ぬ。
日蓮聖人仰に云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはば日本国の柱を倒すなり、百日の中に自界叛逆難起べし云云。御語に違はず文永九年みづのへさる二月十一日相模三郎殿乱を起し関東より討手を上せて謀叛人を禁めらる、三河愛知殿名越殿其外、人人数多禁らる。
同十五日京都合戦、六波羅南殿を北殿討奉まつる、式部殿も用意の合戦なれば北殿うちしらまされ給ふ、南殿は落て吉野十津河の奥に御在しますと云云。

妙経勧持品に云く悪口罵詈等し刀杖を加ふ。
又云く悪世中の比丘は邪智に●心諂曲す又云く数々擯出せられん云云。
日蓮聖人三類の敵を受け一乗の法を弘め経文付合畢ぬ。
御書に云く、仏滅後二千二百二十余年の間・迦葉阿難等馬鳴竜樹等南岳天台妙楽伝教だにも未だ弘め給ざる法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末方の初に一閻浮提に弘らせ給ふべき日蓮先知りたり、和党ども二陣三陣続いて迦葉竜樹にも勝れ天台伝教にも越よかし。

文永八年太歳かのとひつじ九月十二日、御勘気を蒙る、平の左衛門の郎従少輔殿と申す者走り寄て日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取い出して面を三度さいなみ散々と打ち散らし、又九の巻の法華経も兵者打散らして、或は足に踏み或は纒ひ或は板敷畳二三間に散さぬ所もなし、大音声を以て只今日本国の柱倒るる云云。
十二日の夜武蔵殿の御領にて頚を切らん為に鎌倉を出づ、中務三郎左衛門尉と申す物のかたゑ熊王と申す童子を遣はしたりしが急ぎ出ぬ、今夜頚切へ罷るなり、此の数年が間願つる事是なり、此の娑婆世界にして雉と成る時は鷹に掴まれ、鼠と成る時は猫に殺され或は妻子の敵に身を失う事大地微塵劫よりも多く、法華経の御為には一度も失う事無し、去れば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養の心足らず国の恩報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に廻向せん、其の余りを弟子檀那等に省く可しと申せし是なりと申せしかば左衛門の尉兄弟四人・馬の口に取付て腰越竜の口に行ぬ、爰にてぞ在らんずらんと思ふ処に案の如く兵物ども打繞りしかば、左衛門尉只今なりと泣しかば、日蓮申す様不覚の殿かな・是程の悦をば咲へかし、如何に約束をば違へるぞと申せし時、江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり。

相模の依智とゆふ所へ入らせ給へと申す、馬に任せて行く午の時許りに依智と申すに行き付きぬ、本間の六郎左衛門の家に入る、九月十三夜なれば大に晴てありしに、大庭に出て月に向ひ奉りて自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あら●●申して、抑もいまの月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅を受け付属品にして、仏に頂きを摩られまいらせて如世尊勅当具奉行と誓状を立し人ぞかし、仏前の誓ひは日蓮なくば虚しくてこそおわすべけれ、今斯る事出で来たれば急ぎ悦ひをなして法華経の行者にも代り仏勅をも遂げさせ給はん、いかにいまに験しのなきは不思議に候ものかな、いかなる事も国に無くしては鎌倉へも帰ると思わず、験こそなくとも嬉し顔に澄渡らせ給ふはいかに、大集経には日月も明を現ぜずと説れ、仁王経には日月度を失ひと説れ、最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見へたるに、いかに月天月天と責しかば其験しにや天より明星の如くなる星落て前の梅の木の枝にあたりしかば、武士ども皆椽より下りて或ひは大庭に平臥し或は家の後に逃ぬ、やがて即天かき曇り大風吹きて江島の鳴とて空響事大なる鼓みを打が如し。
佐渡の島には放され北国の雪の下に埋まれ、北山の嶽の山おろしに命も扶すくべしとも覚へず、年来の同朋にも捨られ故郷へ帰る事は大海の底の千引の石の思にして流石に凡夫なれば古の人々も恋しく、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及び留難重畳せり、仏法中怨の誡責我早々免る、然れば今山林に路を入るゝ事を進みおもひしに、人人語る様々なりしかども、存する旨あるによりて当国当山に入りて已に七年の春ををくる。報恩抄に云く、文永八年佐渡国へ行く、同く十一年きのへいぬ二月十四日赦されて同く三月廿六日鎌倉ゑ入る、同四月八日平の金吾に見参、今年蒙古一定寄べしと申しぬ。
同五月十二日鎌倉を出で此の山に入る是偏へに父母の恩三宝の恩国恩を報ぜんが為に身を破り命を捨つとも破れずさでこそ候へ。

文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す合戦。
同十二年きのとのい正月下旬蒙古国人三人鎌倉へ下る後又五人下る。
同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頚斬れ畢んぬ。
建治元年きのとのい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。
弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元。
弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、此の時に大地振動す、此の時鎌倉の万民一同に日蓮の御房他界と云云、ふしぎふしぎ、一閻浮提之内、仏の御言を扶けたる人唯日蓮一人也。
撰時抄下に云く外典に云く未崩を知るを此を聖人と云う内典に云く三世を知るを聖人と云う予に三どの高名あり、一には去る文応元年太歳かのへさる七月十六日立正安国論を故最明寺殿につげ奉りて、宿屋入道に向て云く、禅宗念仏宗をうしなひ給ふべしと申させ給へ、この事を御用ひなきならばこの一門より事起つて他国に責られさせ給ふべしこれ一。
二には去る文永八年九月十二日さるとき平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはゞ日本国の柱を倒すなり、只今自界叛逆難とて同士打して他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるゝのみならず、多くは生取にせらるゝべし、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺等の念仏者禅宗等が寺塔を急ぎ焼払つて、彼等が頚を由井の浜にて悉く切べし、然らずは日本国は必ず亡ぶべきなりと申しけり。
第三に去年文永十一年四月八日平の左衛門の尉に語りて云く、王地に、うまれなば身は従ひ奉まつるとも心をば従ひ奉まつるべからず、念仏の無間地獄禅の天まの所為なる事は疑がひなし、ことに真言宗がこの国の大なる禍いにて候なり、大蒙古国を調伏せん事真言師等に仰せ付べからず、若仰付らば急いで此国亡ぶべしと申せしかば、頼綱問て云く何つの頃一定寄候べきや、予が語経文にはいづれの日とは見ゑ候はねども天の御気色怒少なからず急に見ゑて候、今年は過し候はじと語申したりき、此の三の大事は日蓮が申したるにはあらず、只偏へに釈迦如来の御神い我か身に入りかわらせ給ひけるこそ、わが身ながらも悦ひ身にあまれり、法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ、十如是の始めの相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいで給ふ、智人起りを知る蛇は自ら蛇を知るとはこれなり。


日興上人御伝草案
日興上人は八十八代一院の御宇、寛元四ひのへむま御誕生、俗姓は紀氏、甲州大井の庄の人なり、幼少にして駿州四十九院寺に上り修学あり、同国冨士山の麓須津の庄良覚美作阿闍梨に謁して外典の奥義を極め、須津の庄の地頭冷泉中将に謁して歌道を極はめ給ふ。
文永八年かのとのひつじ九月十二日大聖人御勘気の時佐渡の嶋へ御供あり御年二十六歳なり、御名は伯耆房、配所四ケ年給仕あつて同十一年きのへいぬ二月十四日赦免有って三月十六日鎌倉え聖人御供して入り給ふ、同五月十二日に聖人鎌倉を御出あり、聖人仰せに云ふ国を三度諫めつ用いずば山中に入る事聖賢の法なりとて、日興上人の御檀那たる甲州の飯野、御牧、波木井郷身延山え入り給ふ、(南部六郎入道)、聖人波木井に御座あり其の間常随給仕あり。
日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。
斯て日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法を致し公家関東の奏聞をなして三ケ年が間身延山に御住あり、而て大聖御滅後六人の上足奏状を捧け給ふに五人は天台の沙門と云云、興上は日蓮聖人弟子某と申状書き畢ぬこれに依つて五人は一同して、興上一人正義を立つ、欝憤して不和の間、波木井殿も五人の方に心寄せなるによつて、興上は身延山出て給ひて南条次郎左衛門時光が領駿州冨士上野の郷に越え給ふ、大聖人より時光が給はる御書に云く賢人殿と云云、これに依りて此地を占め寺を立て給ふ。
日朗上人御申状に云く天台の沙門日朗謹て言上、法華の道場を構え長日の勤行を致す云云。冨山仰に云く、大聖は法光寺禅門、西の御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈りせんとて山中え入り給ふぞかし、長日謹行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化、天地雲泥の相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながら誤つて天台沙門というや。
日昭上人御申状に云く、天台の沙門に日昭謹て言す、天台の余流を酌み、地慮の研精を尽す兵戈永息の為副将安全の為法華の道場を構え長日の勤行を致す等云云。
冨山の所破前の如し。
日頂日向一紙の申状に云く、天台の沙門日向日頂等謹て言す桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を酌む、祖師伝教大師叡山に登り法華宗を弘通する時、権門の邪見に於て取り砕くが如し、自宗の正義に至つては泉の如く涌く以来日本一州の山寺叡山の末寺たる条世以て隠れなし人亦これを知る、而るに近年諸宗賞せらると雖此宗一宗沈没すと云云。

冨山云く、此の申状は三千人か申状也全く当宗にはあらず、所以は者何そ叡山廃たるを興せんと云云。                                  日持蓮華阿闍梨は本と興上の御弟子六人に入らる、然りと雖も師匠の興上に背き鎌倉方に同す所立さきのごとし。
日興上人御申状に云く日蓮聖人の弟子日興謹て言す、爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立て云云、又云く天台伝教の像法所弘の法華は迹門也、日蓮聖人末法弘通の法華は本門也云云。
大聖人御滅。は五十二年の間公家関東奏聞あつて九十七代の御門、持明院帝の御宇、正慶二年二月七日夜半に御入滅、臨寿の御説法平常より勝れ遺言の御歌二首あり。
ついに我住むべき野辺の方見れば、かねて露けき草枕かな。
総づをば棄て入るにも山の端に、月と花との残りけるかな。
日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す。

一大聖人の御書は和字たるべき事
一鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事
一一部五種の行は時過たる事
一一躰仏の事
一天目房の方便品読む可らすと立るは大謗法の事
倩を天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。
右以条々鎌倉方五人併に天目等之誤多しと雖も先十七ケ条を以てこれを難破す、十七の中に此の五の条等第一の大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云。
一、日朗上人去る正中の頃冨士山に入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし●●。
又日頂上人の舎弟寂仙坊日澄鎌倉五人の中の燈と思て眼目と仰ぐところに日興上人に帰依申して冨山に居住す、檀那弟子等皆冨士へまいり給ふ下山三位房日順秋山与一入道大妙これらなり。
一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。
地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗は者智●禅師の所立迹門行者の所判なり、既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん、本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、迹門の教主を尋れば大通以来三千塵点始成の迹仏なり、教は是れ法華経の前十四品迹門なり、弘通の時を云へば像法の御使なり、付嘱を云へば四巻法師品にして迹門の付嘱を禀け給ふ、因薬王菩薩告八万大士乃至薬王在々処々と云云、勧持品にして本門弘経を申し給ふと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、その機を論ずれば此の菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。

日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや。文句に云く迹門は二乗鈍根の菩薩を以て怨嫉となし本門は菩薩の中の近成を楽う者を以て怨嫉とす、御書に云く本迹の教主を論すれば猿と帝釈とのごとし、迹は池中の月本は天月なり、其機を論すれば畜生に同し、又云く逆臣が旗をば官兵指すことなし、干食の祭りには火を禁ずるぞかし、小善返つて大悪と成り親の讎返って怨敵となる、薬変じて毒となる云云。
しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり、本門迹門の付嘱すでに異なり、下方他方弘通何そ同からんや、すでに天台沙門と号す全く地涌千界の眷属にあらず。

一、大聖御書和字たるべき事。
右天竺には梵字を以て音信を通ず、震旦には漢字を以つて語を伝う、日本には和名を以て心諸を述ぶ、是則天然法爾の道理、世界悉檀の風俗也、然に大聖人出世の本懐を記し給ふに和名を以て之を注す処に、門徒の中に滅後に及び或は漢字に改め或いは和名をせうす、頗る以て愚暗の甚きなり、所以は何んとなれば悉檀赴機の化儀利益衆生の方便無学の俗女、愚痴下劣の者之を知るべからず、是を読むべからず、和名に於ては賢愚倶知の上下同じくこれを読む、下機を本とす上行菩薩の御本懐は由緒あるかな。
難そ云く伝教大師は日本人なり何ぞ真名を用る云云、答て云く天台は漢土の人なり、かの余流を酌むに依つて日本なりと雖も漢字を用う、日向日頂等は御書を真名に改め給ひ天台沙門と名乗給ふゆへなりこれを思うべし云云。
一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。
本尊問答抄に云く。
一、一部八巻の如法経は末法に入つて謗法となるべき事。
神力品に云く上行菩薩の御言に我等亦是の真浄の大法を得て受持読誦解説書写してこれを供養せん云云、又云く要を以て之を言えば、如来の一切の所有の法、如来一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す是の故に汝等如来滅後に於て応に一心に受持読誦解説書写して説の如く修行すべし文、末法には五字に限り修行すべしと見たり、取要抄に云く日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経是れなり、肝要を取り末代に当て五字を授与す、当世異義あるべからず文。
 数ケ条御書の中一部の五種の行都て見えず、たとい之ありと雖も佐渡已前乃至未勘の時の事は仏も四十余年権教をとき天台も止観の前四巻には念仏を唱うべき様もあり、権者大聖も初の行儀はかくの如くなれども経文に符合し己証とし給はん御書を用ゆべき事なり。

05-013 日目上人御伝土代
右上人は八十九代当今御宇文応元年かのへさる御誕生なり、胎内に処する一十二ケ月上宮太子の如し、豆州仁田郡畠郷の人なり、族姓は藤氏、御堂関白道長廟音行、下野の国小野寺十郎道房の孫、奥州新田太郎重房の嫡子五郎重綱の五男なり、母方は南条兵衛入道行増の孫子なり。
文永九年みづのへさる十三才にて走湯山円蔵坊に御登山、同十一年きのへいぬ日興上人に値ひ奉り法華を聴聞し即時に解し信力強盛なり十五才なり。
建治二年ひのへ子年十一月廿四日、身延山に詣で大聖人に値ひ奉り常随給仕す、十七才なり。
弘安五年壬午夏の始大聖人甲州自り武州池上へ入御共奉して池上に参る処に、二階堂伊勢入道の子息伊勢法印、山門衆徒たるが聖人と問答申す可しとて同宿十余人若党三十余人相具してまいる大学匠なり、誰か問答すべきと老僧達中老俗方固唾を呑む、大聖仰せに云く卿公問答せよと云云、時に日目廿三才すなはち御問答十重あり、第一即往安楽世界阿弥陀仏なり、十重一一に詰て帰り畢ぬ、冨木禅門已下聖人の御前にて問答の躰上聞す、聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云。
永仁元、七、大仏殿の陸奥守にて探題の時十宗房と問答あり、西脇の道智房と号して云うなり、尾張進士を始として奉行十人の衆なり。
十宗房云く念仏無間地獄とは何れの経文ぞ、目反詰め云く何宗の人ぞと云云。道智暫く案して浄土宗浄土宗と云云、目云く法華を抛つは何の経文ぞと云云。
道智云く全く申さず聖道門を抛つとこそ法然は書る云云、目云く聖道門とは何ぞ、道智云く真言仏心天台云云、目云く天台とは何ぞ。
道智云天台とは法華なり、目云くさては法華を抛つとは云わるる云云。
道智打と詰りて語らず。
暫くありて道智云く法然已後の念仏をば暫く置いて已前を沙汰せんと云云、目云く暫く置くべくば法然已前の念仏時過きたるに、沙汰すべきは法然已後の念仏身に当り時に当れり云云。
万人あれ道理と称美讚歎す云云。
其時の御教書に云く明日御参早旦為るべく候次に依つて執達件の如し。
正安元年六月晦日          忠識 判

編者曰く本山蔵日道上人正筆に依つて此を写す、二三誤字を訂正し訓点及び送り仮名を加ふ、其他は総べて正本に従ふ、此書未完なり目師御天奏をも記せず、思ふに入文中の「元徳四年正月十三日日道記之」とあるに依るに其直後に筆を止められしが如く見ゆるも、御開山伝の下には其の御遷化までも記せり、故に目師伝の大追加を思ひながら此を果さざりしか、又は追記が散失したりしか、又正本には此次に申状の案文ありて未完なり、其次に時師本山六世の筆にて「在世一代乃至于時応永十年癸未九月廿二日」の三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く。
本伝の始には仮字書き多く却つて難解なれば重版に当りて本文の仮名に旁訓したる漢字を以って組み替へたるは、是れ偏に易読の便を計りたるなり。

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