富士宗学要集第四巻

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観心本尊抄拔書少々 日我敬白

 此の御抄は高祖佐渡にて御作文也、下総の国富木忍後は日常と云う中山の先師也、其の外太田殿、教信御房等へ送り玉ふと見たり、文永十年癸卯月 五日日蓮註すと被れ御書せたり使は日向歟、送り状は同卯月廿六日の日付け得意抄は十月廿三日の 日付け也、其の後身延へ日常参詣有りて日向等と同学に聴聞有る由、中山の聖教に本迹の法門記録抄と云うものに有り之れ、日我当御抄拝見の上九州日淳へ為て形見と抄出可き申す旨を存じ、永禄三年●申十一月朔日より同く四年辛酉二月十七日に至る迄、 日夜遂て信敬を此の抄の私、自他門の聞書専ら披見するに、更に御内証の侭可き奉る書き事は非ず凡慮の境界に、但任せ正智の妙悟に譲て直機信敬に絶つ筆をのみ耳、殊に要上書き付け玉ふ抄出不見当ら、一句一言づつあそばしたるは雖有りと之れ全部の 法門首尾委細なる抄無し之れ、依て之れに大綱網目共に略し之れを用々の処為に愚者の一言づつ記す之れを総じて十ヵ五ヵ三ヶ等の文段、或は於ては一致に日常或は日位、或は於は勝劣に日隆等の文段、其の外八ヵの相承五ヵの三段などとて習ひ多し之れ、 所詮於ては当流に高祖開山の御内証を以つて先つ総躰信敬の上自他の抄出聞書等披見有ら之れば者真実観心本尊なるべき也、送り状に云く日蓮当身の大事也身は無二の志を可し開拓す之れを矣、当身と者当躰蓮華仏也、事の一念三千事行の南無妙法蓮華経、 観心本尊可し思う之れを、又云く此の抄は難多くして答へ少し未聞之れ事なれは人の驚きす耳目を云々、答の少き処凡慮の●き及ひ重也難し信し難し解し可し案ず之れを、未聞と者未曽有也、是れ本門の題目を未だ聞か也、送り状に云く大事也と得意抄に 云く未聞の事可し習ふ之れを三大秘法の大事事の一念三千也、於て当抄に本迹の沙汰能く々く可し習ふ之れを重々とあそばしたり、其の外諸御抄披見上本迹同異不同一致勝劣等可し分別す、先つ本迹の場々を能く々く定めて御抄をも拝見可し申す、或は一部 を迹につたふ或は一部本門或は十四品迹門十四品本門或は一品二半本門余は迹問或は湧出寿量本門余は迹門或は寿量の一品本門余は迹門或は八品は本門余は迹門或は一念三千の法門は寿量品の文底に秘して沈め玉へりと云ふ重、或は題目は本門廿八品は迹門或は脱仏の法花は迹門本仏の法華は本門或は天台過時の法華は迹末法流布の妙法は本、其の外或は正宗八品見れは之れを○末為正の一筋或は如是我聞の上の○肝心と云ふ一筋或は妙法○経は非ず文に非ず義に一部の意のみ耳と云ふ一筋或は迹門はせ過ぎて宝塔品より事○極る一筋、或は在々処々に迹門を捨てよと書○予が修行する非す迹にとある一筋、或は一々に金色の仏陀とある一筋、剰へ於て他門に本迹未分の重又は迹は勝れ本は劣る等云云、所詮台家の六重本迹当流の六重本迹の辻合、興上御相承一百六ヶの本迹・当家七面拝見申し、興上御作文日郷己来代々殊に近代日要の述記等披見して、経て年を増し信を当流の信智の上に此の抄伝授あらば真実の観心本尊を見出し可き申す也、他門浅学の教中本迹種脱迷乱の方々任せ自己の智文に書き置かれたる謗法の書物等を以て、此の抄を得意有ら之れば者、還つて謗法の根源とは成る共全く成仏の種子たるべからず、其の故は末法当季の本尊を不知ら下種の妙法蓮華経をも忘れ、像法過時の本己有善の修行なれば師敵対の大謗法獅子身中の虫妙法の下種をくらふ雖虫にあらずや、若し人不して信せ○地獄可し恐る々々、此の御抄は冨木の五郎入道日常観心の法門不審申すに依つて御返事に遊ばす也。

一題号の事、御抄は何にも標釈結の習ひ有り之れ、此の抄は当時奉る懸け処の本尊の抄出にあそばす也、故に後五百歳始観心本尊抄とあり、然れば大漫茶羅は題号也、今如来○尊抄とあるは標の文段也、摩訶止○云くの下は釈の文段也、結の文段は広く云はば疑て云く正像二千年此の間と云ふより不異者也日蓮註之とある迄、狭く取れは之れを天晴地明問うと、云ふより註之まで也、中山の正本には五々く百才とありと云へり、五ヶ五百才中の第五の五百才と云ふ義也、始のとよめば時を指す義也、始まるとよめば未曽有の漫茶羅を指す也、何も同し事也、心を観る本尊或は心の本尊を観或は観心の本尊或は無点に観心本尊等云云、何にても本の字観の字心の字尊の字末法の正意にあたる○が肝要なり、とかく文点を読みても末法の観心の本尊にあらずんば無し詮、所詮本尊の事書きを爰にあそばしたる也、未曽有の大漫茶羅の抄と云ふ事也、奉る掛く本尊の末法に始まりたる事を遊ばしたり、此の抄は漫茶羅の註也、興上等は唯我与我互為主伴の御内証なれば不及ば沙汰に俗身の上にて観心の法門競望の故末世の観心本尊の抄を撰して御遣ある也、然る間観心法門少々註すと之を送状にもあそばしたり、当流の意は観と者智也智と者信信と者信智の南無妙法蓮華経也、心と者己心也己と者誰人ぞや末法出現の地涌是れ也、地涌の心法妙法蓮華経なる処が観心也、末世の衆生を救はんが為に出現あれば本尊也、本と者の本地也尊と者不る及ば迹仏の思慮に無始色心妙境妙智の尊躰也、取りはなして不可ら得意、但観心本尊は一躰の御名也、三大秘法とも妙法蓮華経とも日蓮とも或は南無妙法蓮華経日蓮判とも可し思ふ之れを、又た観心の二字日蓮の二字妙法の二字止観の二字天地の二字可し思ふ之れを、本因本果本国土境智行等の沙汰亘て教観に可し案す之れを、心と者一心也観と者三観也心は一念也観は三千也三千と者万法也心と者一心也一心と者万法の総躰此の観心本尊を事の一念三千と云ふ也、事と者ぬしある也随自意是れ也一念信解○行の首文、妙法蓮華経と者本地甚深の奥○得也云云、脱の観心本尊は釈迦熟の観心本尊は天台種の観心本尊は日蓮也、在世は本門○並一品二半の観心・像法は迹門諸法実相の止観・末法は本因妙の南無妙法蓮華経迄也、爰を以つて中央に南無妙法蓮華経日蓮判と主し付け玉へり、脱仏の釈迦多宝別躰の地涌等は脇士也、万法総持の南無妙法蓮華経日蓮躰具の十界聖衆と見る処が観心本尊也、下種と云はば何くに有りても久遠也、過去に宗旨を立るとは是れ也、出過三世の南無妙法蓮華経本因妙の本仏最初下種の導師也、此の観心本尊の内証より始覚の三世をくみあげて諸仏の成道三世の分域を見する也、四劫を出たる常住の浄土と者は是れ也、仏既に過去にも不滅せ或は本時の伽耶或は所居既に寂光○非仏等云云、我常住於此又は●近而不見等云云、機の依り妄執に外小権迹内大実本の化導有る之れ事を不る知ら余の門流くいぜをまほりふなばたをきざむ類可し哀む之れを々々々、教旨本書御抄の証文不可ら勝て斗ふ略す之れを。

一本朝沙門日蓮撰、内証は約し法躰に本因妙は約す人に本地本化の仏菩薩名詮自性の道理にて日本と云ふ也朝は吾朝也、内証は朝と者みやこの事也寂光のみやこの主にて御座す義也、沙門桑門はよすて人也流罪の御時なれば也、又出て俗塵を出て四劫を三界をはなれ玉ふ法主の意也、日蓮の二字別書に是れを書く間略する也、五段に配する時五五百才は時也観心本尊は教也日蓮は機也本朝は国也始るは教法流布也、三世間に配する時本朝は国土世間日蓮は五陰世間観心本尊は衆生世間也、妙法蓮華経の五字は衆生法妙也、又観心本尊は所弘の法日蓮は能弘の人、観心本尊は智日蓮は境観心本尊は心日蓮は色、三大秘法の時は観心は妙法蓮華経の五字日蓮は本尊本朝は戒檀也、始と者無始の上の始也●無能所の意也、又於て題号に云はば、観心本尊と云ふ内に人法境智定恵可し有る之れ、日蓮と云ふ二字に亦人法境智定恵可し有る之れ略す之れを、是法住法位は観心本尊也、世間相常住は日蓮也相如是第一の大事なり可し思ふ之れを、斯人行世間は日蓮也能滅衆生闇は観心本尊也、於て世間に三種の世間あり、世間と如是と開合の異と者如是は観心本尊世間は日蓮也、一と者妙境智本因妙の上の不思議一也、観心本尊は日蓮也日蓮は観心本尊也、故によそにある本尊を教へ玉ふにあらず、書き送り玉ふに非らず、高祖末世の本尊と事相に顕し玉ふ事を観心本尊とも事行の南無妙法蓮華経とも事の一念三千とも云ふ也、此の事の一念三千末法の御本尊は日蓮聖人にて御座す証拠の為に経釈を引証ある也、先づ此の心持にて此の抄一部の始中終を書き申す拝見也、為に垂示の委く書す之を。

一、止観第五に云く夫し一心具○在り茲に等と云云、是れは止観の五に観行即の十乗観を釈する中の第一の観不思議の下に理修化他の三境を釈す、其の理の境の三千を釈すとして、方便品の十如実相の文を引いて、一念三千の名目を釈せらるる也、全く依るに此の文に天台の理の観心迹門の非ず観道には文在迹門義在本門の意也経釈共に此の分也、其の上内鑒外適密表寿量等能く々可き分別す也、今の釈に乃至とあるは高祖の御詞也、彼の観道の無き所用処を除き当宗の観道の依文斗り載せ玉ふ也通得引用の意也、此の三千在りと一念に云ふ名目が一念三千の証拠也、若し無心と者心なきをばやみなましとよむ、山上の点には心なきことくまくのみと読めり、言は不可身の心躰を無心と釈す其の心躰にも三千を具す、されども其の三千の姿委細各別に成るに非らず、去れば妙楽の言く無心而己と者顕す心の不無を文、言は一念の心形と者不可身の躰にして、三千の一法も不可得なれば五形の一形をも不可得五色の一色をも不可得、有とも無とも不可得但不可得不可見の心躰也、此の重を妙法と云ふ、三世の諸仏の仏心も如し是くの是れを無に約して釈する時若無心而己と釈せり、此の釈に意義あり先つ一説此の分也、有に約して釈する時介爾○三千云云、於て当家に此の釈を依文として観心の本尊を沙汰せば、一心と者中央の題目也十法界と者は列座の十界の聖衆也具と者判形の徳也、此の三千在りと一念に者一念信解と者○行の首の日蓮の一念也、中央の一行に三世間あり十界の聖衆に三世間あり、一心一念躰一なる処を己心と云ふ也、此の己心の一心一念遍於法界の時一切衆生の本尊也、無心は非情草木有心は有情界也、観不思議境と者観は題目境は日蓮一躰不二なるは不思議也、意在り茲にとは仏意也随自意也事行の題目也、経釈を引証有る事或は文在迹門の意或は通得引用意或は内鑒の篇或は為に所破の不す一準なら能々可き有る分別也、細字に世間と与如是と一也開合の異也と註し玉ふは、如是は十如是也、世間は三世間也十如は開也三世間は合也又合すれば十如開すれば三世間とも云へり、一也と者十如を離れて三世間なし三世間の外に十如なし十如実相の法門より一念三千は出つる也、然れども此の釈に十如の沙汰なき故に如く此くの註し玉ふ也、結の段より得る意時は世間は三世間如是は妙法也、事行の南無妙法蓮華経合すれば一也開すれば二也不思議境と者是也、結の段に識る法花を者は可き得世法を也と遊ばすに一徹也、夫一心具の釈に一界に三十種の世間を具すと云ふ事、不審也、此の一界と者十界互具したる一界也、去る間一界即十界也、上に一法界に具すと十法界を釈するも、十法界を取つて次下に一界に具する三十種の世間を也と被釈せ也、又一界に具すとの三世間を異本をものせ玉へり、玄義には約して如に百界千如を釈し、止観には約して界に三千と釈する也。

一、問て云く○答て云く並に未だ云は一○矣、並と者は玄義文句の事也妙薬の釈也。

一、疑て云く玄義○具足等と云云、疑と云ふ詞は底に子細を含み両方に通じたる事を問ふ也、難して云くとあるは指し当りたる不審なり、尋て云く求て云くの文章に其の得意あり、此の下には相似の釈有る事を疑ひ玉へり、何れも千如迄はあり三千の名目無し之れ冥状の在り心に等云云、釈の文言に答え意顕はれたる故別して答は無し之れ、是れ等は有情に限る釈也、又止観は大師の己証なれども一二三四に不す明さ、況や教祖たる玄文をやと云ふ意にて答なしとも云へり。

一、問て云く止観前の四に○無し異縁等云云、さきに止観の一二三四と有つて重ねて前四にとある事如何と云ふに、上は巻を問ひ次下は章段を問ふとも云へり、所詮第四巻の方便章は妙解歟か妙行歟かと云ふ異議本末の釈にあり、本疎には前六重○行と釈し、妙楽は名躰偏円並に属す解にと釈して解行に通ずると釈したり、方便の章解行摂属の事、仙波の尊海法印都鄙相承とて京にては心賀法印より伝へ玉ふ、夫と者は境目の百姓は両方へ如し被るか取ら、方便章は妙解の終り妙行の始めなる故に両方に属す本末の釈無し相違、田舎相承とは河田谷の信尊上人より伝へ玉ふ時、解行相対心行相対と云ふ二つ有り、本疏は解行相対を釈し末書は心行相対を釈す、解行相対と者は前六重は妙解の位第七正観の章は妙行三千なれば本疏は此の分也、さて心行相対と者は心は理行は事也、前六重妙解なるに取つて前五重は心法の妙解なれば心也方便の章は身業の妙解にして廿五法の事の行を明かす故に行也、此の心行相対の意を以つて妙楽は妙行と被る釈せ也、止観四の巻方便章は異議ある故高祖も取り出して難問の下に重ねて遊ばす也、弘決の釈を引き答へ玉ふ也、故に妙楽の曰くと有り之れ、四種三味は非れは正観に不ず論ぜ行を、権教方便執著の機に対して廿五法と云ふ也、三千観の理に不る叶は機の前に事の仏菩薩を本尊として用る之れを也。

一、請らくば尋ね読まん者心に無し異縁とは、此の一念三千と申すは横に十法界を極め竪に三世に徹して十方三世の万法唯一己心の法なれば全く無し待対の義、法界如なれば心に無れと異縁云ふ事也、爰を成仏とも成等正覚とも云ふ也、此の三世観の心地開けて後立ち還つて見れば無始己来更に異の法なかりけりと覚とる処を如く此の釈する也。

一、夫れ智者の弘法○二十九年は玄文卅年め止観を説き玉ふ也、卅年とは大数歟弘通の年月異説あり云云、玄十に云く若は過若は滅皆存す大綱を矣、譬へば釈迦入滅は七十八・七十九八十一と経論の異説也、大数に任せて八十入滅と云ふ也、天台の弘法准して之れに可し得意像法前の五百年の非を責め玉ふ也。

一、天竺の大論尚不及ば、大論とは大智度論也、竜樹菩薩の造也大品経に依つて被る造ら也、是れ権大乗の経論なれば一念三千の重宝を不る明か也、論師の事を大論問と、遊はしたりと云ふ説もあり、前後可き見合す之れを也、次上に論師の類不す宣べ之れをとあり、爰には又非す其の類にとあるは知りぬ大論師の事とみて可き能かる歟、天台末学として唐には一行日本には慈覚智証是れ真言に被る移ら也、妙楽の弟子清涼国師花厳に帰する也、花厳真言元祖とは花厳の澄観、心如工画師の文に一念三千を盗み入れ、真言の善無畏色心実相我一切本初本寂無比等の文に天台止観を見て一念三千を盗み入るる也。

一、百界千如○何と、答の意は迹門には本国土不す顕れ至り本門に一念三千国土世間成仏顕れて広く亘る情非情に也。

一、不審して云く非○無益也、草木成仏の事は台家にも草木成仏義とて一家の大業也、恵檀の異議有り恵心流には楞厳の先の先徳の事に発心修行の義ありと成し玉ふ是れは本覚の発心修行也、四季転変生住異滅四相の振舞本有の発心修行也、後の先徳は、事に不す可ら有る之れと成し玉ふ是れ始覚の発心修行也、事往ては一義也、本有の発心修行有らば本有の八相あるかと云ふに栗菓の譬は如し常の、梢に有るは生天地に落ち埋もるは下天託胎得て折を大地より出生するは出胎其の実えむは出家風雨不るは犯され降魔日月を送り生長するは成道の相也、花咲き菓なり因果の道を有情界にしらするは転法輪冬木になつて枯れたる色を顕すは入涅槃也、其の上一切の草木うてばひびき切ればかれ地水火風如し常の、極楽世界の樹林の声苦空無常と唱へきくもの得と羅漢果を、摂心世界の草木は如く有情の言語をはくと見えたり、其の上やまのいもはうなぎとなるかぶらは鶉と成る依正一体の振る舞い如し常の、大唐のかんめいが妻美女なる故時の法被るに召さす不参ら、王逆鱗有つて夫婦を庭上に於いて大地を七尺にほり被る埋め土中より双枝樹とて木は二本にして枝は一つに連なる、帝此の木を切り薪にし玉ふ火中より神円宗と云ふ鳥煙に乗つて雲の上へ飛び上がる嘴二つ胴二つ羽二つ也、又あるもの軍に行くあとに妻その子を懐いて武昌の北の山迄をくる、夫不す皈らその子を懐きながら石と成る望夫石と云ふ幽明録に見えたり、日本には大伴狭手麿が妻松浦小夜姫石と成ると云へりひれふる山と云ふ今の松浦明神是也、其の外飛梅老松墨染桜此の類繁多也依正一躰可し思ふ之れを、草木成仏の証文口伝の第一今此三界皆是我有とはわれであり、合文には観三千大千○身命処、第二宝塔涌現就て之れに二の意あり、一には久滅度の多宝皆是真実と説法す是れ無心の説法也さながら草木の説法也草木の説法なれば其の身仏躰なること無し疑ひ、二には就て宝塔に三重の境智冥合を習う事あり、多宝の境来つて釈迦の智に冥合するは法身の境智冥合也、釈迦霊山の大地を立つて虚空に上ほり塔の戸を開き玉ふは報身の境智冥合也、上代此の分也、其の後粟田口静明法印の代に応身の境智冥合と云ふ事を被る成せ、衆生は境応身の慈悲は智是れを境智冥合と云ふ也、第三は宝塔は智虚空は境也、宝塔は本有の五大なれば正報の故に智也、虚空は依報の故に境也、宝塔虚空と一味の処が境智冥合也、是れを依正不二の境智冥合と云ふ也、此の覚立つて見れば今始めて草木成仏するや否やは権門始覚の意也、故に依報国土成仏の証文顕るれば自ら草木成仏分明也、第四本門寿量品の我此土安穏天○我浄土不○是等は皆娑婆の当躰本有の寂光と顕るる也、本有寂光国土は能生の親として、所生の草木は子なれば、一躰にして草木成仏を顕はす、此の義本門寿量の本国土妙の上の法門也、其の外台家当家の学者意楽重々也、先つ上伴の分を能く々く分別し其上に草木国土木像画像等の開眼成仏を可き得意也、従地涌出本化四菩薩本有の五大五行等此上の口伝也、一心具十法界と云ふ一心は法界の一心也此の一心の内の草木也、観心本尊の開けて画像木像本御影などなど云ふ深意可き治定す也、外典には丁蘭刻み木を為す母の形と武王は西伯を木像に造る、其の外於て禁中に聖賢の図等有り之れ、内典には優典王の木像の行歩し摩謄伽の画像は十八変を現じ影現王の画像は説法すと云云、其の義天台一家より出でたりと遊ばすは外典内典に草木成仏画像木像の文相●も有りと之れ有名無実也義分は一念三千より出つると云ふ義也、開仏知見十如実相等可し思ふ之れを、殊に国土世間は本門寿量の時初めて顕はるる也、爾迹本の三重を得る意時、中陰経に云く一仏道め観見するに法界を草木国土悉く皆成仏と文宝積経に云く一切草木樹木無も心可し作る如来と矣、是れは何も一仏成道して法界を見れば仏躰に非る事無しと云ふ心也、是れは対して法界に草木成仏の沙汰迄まで也、迹門の意は即時而真の成仏と云ふ、其の故は薬草喩品の意は大地を真如にたとへ、其の真如の大地より生ずる草木なれば草木の自躰即真如の仏躰なるべしと云ふ事也、本門の意は自然即是の成仏と習ふ、是れ即寿量品の我此土安穏の文を以つて習ふ事如し前の、我亦為世父の世は三世間なり、父と者仏也、三種世間非仏子文、宝樹多花菓は我此土安穏の地也依報正報常宣妙法可し思ふ之れを、草木の上の色心因果と者色心は法華の十如也因果は法華の三千也。

一、草木国土上の上の○答て曰く止観○緑了等云云、十種法と者は十如是也、悪国土と者は善悪の国土に此の十如是を置く也、悪国土と者爾前迹門の間は本国土不る顕れ也、本門の時本国土妙顕はれて善国土と成る也、一義に云く悪国土と有るは末代悪世を指す歟云云、色心を具する事を云はば草木の事相は如是相花菓の相を具する草木の内証は如是性草木の躰は如是躰華の開るは如是因菓成るは如是果、相は唯在り色に性は在り心に是れ色心二法也、如是因如是果は因果也、而る時は草木に十如を具す成仏無疑心法の因より色法の果が顕はるる也、種は因也色法は果也因果唯心と釈するは色心一躰の義歟、報唯在色報如是を色に取る時因果を心と取る歟、苦集二諦世間因果道滅二諦出世因果例め之れに可し知る之れを金●論に一仏性云云、色心二法因果の二つ性相躰の三如是三仏性を備えて本来覚躰の姿如しと是くのと談る也、非す始覚権門の所談に本門の約れは実義に本来本覚の草木にして今始めて成不成を不る可ら論す也。

一、問ふ出処○答て曰く観心と者観我が己心を○一念三千也文、是れ不取り分け亘り十界に事具の十界○三千を挙げ玉ふ也。

一、法花経○答て云く法花経第一所具の十界也文、欲令衆生の文は九界所具の仏界、我実成仏の文は仏界所具の九界、是れは総じて挙げ提婆己下は別して十界を一界づつあそばすなり、地獄界に限つて地獄界所具の仏界とあり仏界は十界の終り地獄は始め也、其の上極苦は地獄極楽は仏界一躰不思議の内証を為め可き顕す也、又陰略互顕の心にもや余は十界と有つて地獄斗り仏果と遊ばす也同事也、我本行菩薩道と者は指す九界を也仏界より九界の身を現ずる也、因果の前後釈尊上行の習ひ追て可し聞く之れを、本門は本因本果の故に我本行菩薩道の時も果を具足し、復倍上数の時も因を具す、法は無始無終なれども機に対する時有るに始め似たる故に我成仏己来と云云、釈に云く法在り一心に説如し次第の云云。

一、一名○十羅刹女也、父をば般闍如鬼と云ふ雑宝蔵経の説也十女を十界に配する也、九悪一善と云ふ時は皐諦一人を仏界に取る也、爰には法花名者○文を引き十女共に法花の持者を可しと守る云云、或る説には五名黒齒は本地不動八名瓔珞は観音観音即愛染也九名皐諦は文殊と習ふ也権門の説也、法花の意は十女共に法花名者の文を引き玉ふ、其の得意は妙者妙名○法十女即十界皆成也、鬼子母神は五道大臣の息女として人中に五百人天上に五百人千人の子を持つ悪鬼神なれば、毎日四州へ経廻つて一時に衆生の子を千人宛取つて我か此の食物とする大悪鬼也、真言には迦利帝母と云ひ三宝荒神共云ふ也、字賀神王経にも荒神と説く也、我れ等を不離れ産神立像神守宅神塚袖等と成つて生るるより死する迄守護する也、善事を行ふ者には守護神となり悪を行ふ者にはたたりを成す、此の荒神と者鬼子母神の事也元品の無明煩悩の躰也、此の無明欲心嗔心慢心強盛に起る処で流転の十女を生する也、女躰と者愚癡の故也十女を並べて鬼子母神習ふ也、其の時は千人の子は八識縁起の貪嗔痴なれば十女共に鬼子母神と習ふ也、於て今経に五番神咒の神と成りて可し守る云云、善悪不二の妙法蓮華経の故也、天界と者諸天説偈の文也、言は舎利弗の成道をみて我れ等も必ず可しと作仏す被る申さ也、縁覚の得記は不見え妙楽の釈に身子迦葉悉く是れ中乗根性と文、迦葉舎利弗得記の外に別人を指して縁覚の得記無し之れ云云、菩薩得記の事一生八生等は迹の授記なる故に挙げ玉はず真浄大法が本化の得記也、涌出品発誓弘経の下に此の文あり、疏の十に云く非す但益する他を自ら願ふ大法を云云、経には欲得んと是の真浄大法を云云、疏に云く問ふ但見て下方の発誓を不るは見文殊等の誓を可そ耶答て云く上の文に云く我等自ら有り菩薩能く持つ此の経を即兼て得る之れを也文、得の字於て当家に可し分別す、彼れは理是れは事可き案す之れを也、真浄大法と者常楽我浄の四徳波羅蜜也、或説己身○此の文現在益物の下形声の益也、形は三身の形也声は三身の説法也、法身を現するを己身と云ひ応身を現するを他身と云ひ、正報を示すを己示と云ひ、依報を示すを他示と云ふ、随他意は他身随自意は己身也、是れを形声の六句と云ふ也、称理の六句と云ふは如来は如実知見○無有文、此の上に十界歴然也、如来と者仏界也三界と者六道也如と者二乗也実と者は菩薩也、台家一流の先徳は十界本地の顕本の証文と成し玉ふ、是れ即仏界所具の十界也。

一、問て云く自他面の○答て云く非し正法に云云、人界の上の十界有りと云ふ事不と見問ふ也、依て之れに引て在世末世難信難界を答え玉ふ也、正機過去の宿習厚き故とは華厳は凡夫大根性の人に対して直に顕実の法躰を説き、菩薩の処々得入も、或不待時の法花毒発不定と云ふも、法花より立ち還つて見れば皆大通下種の者也、機根熟して或は華厳の座なんどにて得益する是れ等は共に法華の得分と可き得意也、去る程に大通下種に付いて三類九類の分別あり三類の時初類は六百万億那由陀の衆生の当座得益也、皆生疑惑の者は中間で得益し或は飛華落葉に依つて法華の悟を開く也、是れは爾前当分の得益と可し得意、其の故は化導の始終法花に限ると云ふ事は天台釈分明也、其の上四十余年○実己上。

一、問て云く経文○可し有る之れ、上の問を重ねて委く問答あり地獄は●曲修羅は嗔なるべきを何ぞ如く此の遊すやと云ふに、地獄の業因根本を尋ぬれば嗔恚より殺生をなし不孝を振る舞ひ、正法を誹謗する故也、地獄は火を家とす嗔恚の炎は心の臓より起る赤面は火炎の故也、修羅は不正直にして欲心悪心を起す故に大乱を興し闘諍を事とす、又鬼畜天の三処に摂して一界に不す定をらへつらひまがる故にと遊ばす也、

一、問て云く於て六道に○答て云く前に人界云云、如し御書の、問て云く十界互具○答て云く汝○可き信ず之れを也、一闡堤茲には信不具足と云ふ也己上、阿難等の辺と者は於て之れに見仏不見仏の二機あり、先つ見仏法花の機は須跋多羅等の十仙の外道仏の入滅の時行いて可し笑ふとて来れり、仏阿難を遣はして教化あれと云云、阿難申さく如来迦陵頻伽の御説法をさへ不す聞か我が教化不可ら及ぶ云云、仏の曰く彼の須跋多羅は汝が七生前の母也、如何なる悪人も子の云ふ事には付く程に只教化せよ仏の慈悲も可きが加はる道理なればいそいで可し教化すと仰せられ、其の時阿難彼の家に至つて汝をば仏は為に我が七生前の母と時玉ふと云しかば、はやなつかしげに思ひ阿難の説法を聴聞申されし時聞きわけ詣り仏処に涅槃の仏生常住の理を悟る、涅槃経の通入仏生の機とは是れ也、見仏は在世也、法花と涅槃経とは同醍醐味の故也、仏入滅の後に阿難等に値つて悟るは不見仏の法華也、必す阿難と挙げ玉ふ事は法華結集の役者なり、迦葉は入定あり阿難は付法蔵人なる故也、正法像法小権迹の得道皆法花に帰する也是れは内典也、さて外典の儒者外道等も入り正見に皆法花得道也、是れ我れ等劣心と云ふ処をそだてて下種を沙汰せん為に如き此のの内外の沙汰あり、仏教己前とは三国の事可し思ふ之れを、先つ漢土の導士と者儒道の教也孔老回等の類也三皇五帝三墳五典等是れ也、三千余巻の書三綱五常を教へ文武の道を宣ぶる、皆仏菩薩化度法花の弄引也、止観の一に云く我れ遣し三聖を化す彼の震旦を文、弘決に引て清浄法行経を云く月光菩薩彼には称し顔回と光浄菩薩彼には称し仲尼と迦葉菩薩彼には称す老子と、天竺には指て此の震旦を為す彼と己上、上根上智の人は過去の宿業甚深なれば、道教儒教等を助縁として入るも仏道に可し有る之れ、今経には治生産業皆与実相と不相違背せと説き五常即五戒なれば仏法の初門となる、去れば妙楽は礼楽馳て前に真道後に啓く文、金光明経には若し深く識らば世法を即是れ仏法也云云、月氏の外道と者は如し常の沙汰の迦畏羅傴楼僧●勒娑婆是れを三仙と云ふ仏前八百年己前己後の外道也、此の三仙の説を四韋陀と云ふ六万蔵あり、此の外六師外道あり此の外道の経を習ひ伝へたる者が五天竺の王の師と成る也九十五六種に分れたり、見仏法花の機の事一義には見仏法花とは今日法花聴聞して見仏聞法の機、不見仏と者は滅後の機とも云ふ、値て仏に不覚ら阿難○者とあつて其の機に二つありとあそばす間、直に値て仏に法花聴聞とは不見え、見仏斗りにて阿難に値ふて涅槃を聞くは是れを見仏法花の機と云つて叶ふ御文躰に歟、又利根の菩薩とは大通下種薫発して爾前権教の座をかりて法華を顕示する機多し、教外得道とは当座に聞く処は非す法花の円実に於て爾前の座外典等の上に入る正見に教外の得道也其の種子は大通の法花也、縁覚をば例に引き玉ふ也、奉り値ひ法花経にと者は過去の無ければ下種値ふも法花に権小に執着すれば不入ら悟に、況ん同せん小権にをや、剰へ法花を下すのは儒家外道よりも劣る也、儒家外道は過去下種結縁有りて法花を不れは謗ら過去の下種発して可き入る正見に可き有る之れ故也、上の重々を能く可き見立つ也、法花を小乗に同ずるは律宗也、花厳大日経に同ずるは善無畏理同と立つる慈覚等也、下すは弘法真言は事勝と立つるは慈覚智証等也、沛wの事以て別書を委く可し聞く之れを世間の慈悲の例也、不軽菩薩は菩薩界の慈悲悉達は仏界也、悉達太子の事一生入妙覚の証人にも即見成仏の証人にも一生入地の証人にも出すす也、不軽は凡有所見如し常の沙汰の、凡有所見は理也仏界が九界に備はる証拠也悉達太子は事也仏界に九界を備ふる証拠也、沛wは世間の例証也非る仏果には也。

 一、問て云く教主釈尊云云自り此堅固に秘すと者は、上は十界の難信に付きて示し人界の色相を理性の十界を遊ばす也、さて此の段より十界の現量己心に具足する疑の下に問て云く教主釈尊とあり、至て末に本化弘教の事の一念三千十界互具を可き遊す為れば堅固に秘すと云云、三惑○仏と者は前三教の仏果を指し玉ふ也、梵天帝釈の事、止観の五に復次に如来行し玉ふ時帝釈は在り右に梵天は在り左に金剛前に導き四部後に従ひ飛て空而も行き○忽に此栄位出家して得玉ふ仏を己上引き之れを玉ふ也、八万法蔵の事法華は内歟外歟、爰は先つ前三教の仏果を挙げ次に迹門爾前の始成の因行を挙げ第三に迹門爾前の始成の果を挙げ第四に本因本果を挙げ玉ふ、今の文は爾前の仏果の色相三蔵劣応身の化儀なる其の下に挙げ之れを、故に外道の六万蔵に対する処の八万法蔵なるべし、六難九易の九易の第八可し思ふ之れを、得六神通の言は小乗の法と聞えたり、山家の釈に八万法蔵の中に煩悩の敵を対治する事実には弥陀の利劔に過くるは無しとあるも、小乗の中には弥陀の利劔勝るると云ふ事也、能施太子の事、斎法経の説也、経に云く為に善友太子の為り貧窮人と入り大海に求む如意宝珠を己上、儒童菩薩の事是も斎法経にあり摩納仙人共云ふ也、経に云く為り摩納仙人と値遇し然灯仏に奉る蓮華を己上、売花女と語らひて五茎の蓮華を奉る定光仏に時天地四海多聞宝虚逝宮天衆十方仏丈夫牛王大沙門尋持仙林辺無等々と唱えて花を奉る也、是を天地四海の偈と云ふ也散華此の謂れ也、散華の回向に此の文を用ゆる家あり、当家などは不ず用ひ之れを、定光仏儒童菩薩に汝は九十一劫過きて可し成る釈迦文と娑婆世界に可しと成道す授記し玉ふ、上の一に云く授く別を於定光に己上、弘の一に云く定光仏興る時為り菩薩と名をは曰ふ儒童と乃至買ひ花を奉り定光仏に散花供●す必す当に作る仏と名し釈迦文と己上、尸毘王の事同経にあり、経に云く為て尸毘王と代り鴿に施す鷹に身を己上、薩●王子の事同経にあり為て薩●王子施す七虎に身を己上、三祇百劫とは三祇は化他其の間は六道の衆生を利益す、百劫は自行相好の修因を被る成せ也、又三祇自行百劫化他と云ふ説もあり、四教色心と云ふは三祇百劫は三蔵動喩塵劫は通教無量百千大劫は別教初発心時は爾前の円教歟三千塵点は迹門の円教也、等と云ふ字は涅槃の事也、是れは四教色身の因分也、供●七万の事倶舎の頌に云く於て三無数劫に各供●す七万を如く次の供●す五六七千仏を己上、花厳の時十方盧舎那と者華厳教に云く我今盧舎那十万座○云云、我処為実仏余所遍化己上、或は故に能く分身して偏し十方に等云云、台上の盧舎那仏は本也葉上葉中の千百億の釈迦は末也、是れを三重本末の成道と云ふ也、分身といへども如く法花の十方の諸仏を集めて分身とは不す云は、卅四心○八忍八智九無●九解脱の阿含の教主也忍因智果と釈せり、さて毘曇の意は無得道伏解脱道断成論は無●道断解脱道証云云、此の論の根本は復加菩薩経を引いて譬へば木を切るに十六の斧に切る也、夫れを初の斧は毘曇の意は伏の義也、さて成論の意は夫がはや断の義と得る也、さて解脱と云ふは譬へば盗人を縛つて切らんとする時慈悲の者が有つて乞ひ之れを、縄をとく処が解脱の意也、方等般若の千仏とは宝塔品の疏に云く大集には明す若干の仏与欲を大品には亦云ふ千仏同く説くと般若を己上、大集経は方等部、大品経は般若部也、千仏与欲とはクミせんとをもふとよむ、若干の仏与欲して説き玉ふと云ふ事也、般若の畢竟皆空の内証を同千仏欲め被る説かと云ふ義也、大集大品の与欲を同類の方等般若千仏と遊ばす也、迹門宝塔品の四土色身と者は即三変浄土の化儀断する三惑を事を表する也、初変は除き身思を、第二変は除き塵沙を、第三は表す除くを無明を、此にて四土の色身を云ふ時見思断の己前は同居土也、断ずれば身思を方便土断ずれば塵沙を実報土断ずれば無明を寂光土也、仍て四土は聞えたり、此の上に四土の教主の色身を云ふ時、記の八に云く有る人問て云く衆をは在り虚に分身何が故ぞ当に処す於地に、今答ふ時衆は己に聞き迹門の開権を初て入る寂光土に、故に以て虚空を表す之れを分身は示す迹に各有るを所化の土、故に居て地に表す之れを己上、此の上に同居と寂光は聞えたり、知んぬ方便実報も可き有る之れ也、是を四種仏土と云ふ也、去れば堂を造るに四土の処表あり縁は同居外陣は方便内陣は実報仏壇は寂光と習ふ也、法界皆寂光土也、されども於て其の上に六凡四聖を置く時四土也是れ教門一往の義也、本地の伽那四土一念の寂光の習ひ至て奥に可し顕す之れを、今は迹門の四土色身の古来よりの義也、委く云はば四土の色身と云ふ時は多宝は法身釈迦は報身分身は応身也、於て応身に勝つ応は方便劣応は同居也、

仍三仏即三身を表する故に四土の色身也、三身四土に横堅の配立あり是れ横配立の時也、四教色身は華厳は報身盧舎那阿含は劣応身方等は勝応身大日経等は法身般若の円経も法身と取る時は前四味の次第也、一代を竪に沙汰する時は如し是の此れが躰外の沙汰也、躰内の色身は宝塔品の四土也是れは横也、涅槃経に或見云云、或見丈六は三蔵の機見也、或見千里小身百億大身は通機の見也、夫れと者は帯め比丘の像を現す尊特長をとも丈六尊特合身仏共判じて、比丘像の方は小身尊特身の方は大身通教は教も真俗二理を含み説も生滅不生を説き機も当通被接の両機有る故教主又二身合の仏也、当通の機は勝応身と感見し被接の機は尊特相海の身と感見する也、或見盧舎那は別教の教主也、無明所感の実報土は菩薩の所居功徳所感の実報土は諸仏の遊戯し玉ふ也、或見身同○円教の教主の所居虚空を為す座と、其の虚空即不思議の妙土なれば結経には不思議と説き玉ふ也、像法決疑経は涅槃経の結経也、決疑経に云く或は見る此の林を娑羅林樹悉是土沙草木石壁と、或は見る此の処金銀七宝清浄荘厳と、或は見る此の処三世諸仏処遊戯処と、或は見る此の処即是不思議諸仏境界真実法躰と己上、本経も結経も其の意同し之れ是をば娑羅の四見と云ふ也、舎利の事如し常の八十入滅釈迦如来七日七夜焼け玉ふ舎利三石六斗也、一石二斗天上一石二斗龍宮・一石二斗人中に置く、八ヶ国大王諍ひ之れを及ぶ闘諍に間香城波羅門教化して一石二斗を八つに分けて八ヶ国の王へ送る立て塔を供●す、天竺第一の正直なる香城波羅門なれ共、仏の舎利を一粒盗みてゆびにはさむと見えたり、然る間余国へ亘る舎利事不可ら有る之れ舎利の真偽難しと知れ見えたり、我が朝には聖徳太子二才の時二月比、無明指を開き南無仏と唱へ玉へば掌の内より舎利出づる云云、権化のわざなれば難し知れ、太子卅六才の御時五月の比、小野大臣妹子と云ふ人を遣唐使として衡州国衡山へ著く、先生所持の十六種の御道具の随一に釈迦如来の肉身の御舎利七粒奉る入れ瑠璃の壺に云云、其時渡ると見えたり法隆寺等に納め置き玉へり、其の外摩騰伽竺法蘭漢土へ来る時も舎利を渡すと見えたり、生身法身砕身全身如し常の法師品に不須復安舎利己上、疏の八に云く不須復安舎利と者釈論云く砕骨は是れ生身の舎利経巻は是れ法身の舎利此の経は是れ法身の舎利不須く復安く生身を生法二身各有り全砕、皆可し解釈す己上、記に云く生身全砕は如し釈迦と多宝との法身二と者、彼の方便教は法身の砕也、法花一実は法身の全也、故に十七名堅固舎利と砕身今而不受け堅固之名を己上、天台法花三味に云く於道場の中に○利己上、釈迦は砕三石六斗多宝は全一骨不散是れ生身の全身也、於一仏乗○三故に爾前は砕身独一法界一仏乗法花は全身の故に、生身の砕身は生身の全身に不す及ば、生身の全身は不す及ば法身の砕身に、法身の砕身は不す及ば法身の全身には今経を以て舎利の第一とす、此れを以て堂塔を造りては生身の舎利並に余経を不す可ら置く云云、法身の全身の舎利の法華経を可し置く云云、然るに舎利の事をば余経の中には阿含経今経の中には法師品又涅槃経等に説く也、釈義には弘決一に引て阿含を委く釈する也、三業の舎利と云ふ事可し心得、口伝するとき身業は約し三身に口業は約し経巻に意業は如来の御魂也、顕る垂迹神と以て之れを意業の舎利と習ふ也、各全砕あり法身は全身報応二身は砕身也、口業は全砕を云はば爾前教は四経八経と砕くる故に口業の砕法華は全也、於て之れに当流の習ひ可し有る之れ広略要法尤も可し思ふ之れを、意業は滅後の神と顕はる和光同塵の利益を施し玉ふ故に仏魂と者は智恵也、智恵は赤色神殿の赤色可し思ふ之れを、法性神等の権現明神は全身の舎利実迷邪神等は砕身也、或は宗●神は全身社稷神は砕身と云云、此れ等皆仏滅後舎利を留めて利益し玉ふ意也、必ず釈迦肉身の舎利に不す可ら限る、夫れは小乗一図の無常の舎利也常住の舎利可し案す之れを、五百塵点己前とは復過於此と説く故也、迹仏は一●本仏は大海と御書する事本迹勝劣の肝文也、五十小劫謂如半日、五十小劫をわりくだひて半日に比校せば、一●と大海と一塵と大山なるべし、智恵の長短常無常の長短也、帝釈猿猴と御書は不識一人仍居すと賢位に可し思ふ之れを、元品無明を不れば断ぜ愚痴の猿候也於て欲界に王たるは帝釈也、文句の九に云く解者は即して短に而も長或は見る於五十小劫と、惑者は即して長に而も短謂如と半日の文、記の九に云く菩薩為す破らんと無明を称して之れを為す解と大衆仍居す賢位に名て之れを為す惑と、乃至無間と者仏界菩薩界の因果より他方二乗菩薩天界人界迄遊して餓鬼畜生修羅を略し玉ふ故に乃至と云云、其の上法花と爾前と対せば爾前は迷悟各別の旨経論分明なれば還つて実事と覚えたり、本識とは識斗りを沙汰する也、金○定は定の名也、彼の依者は依報歟かれによる歟可し尋ぬ、御正本を写したる本には一仏二言ならば可し付く彼れに、馬鳴菩薩とあり難問の内なる間此の文躰宣しき歟いづれにか可し付くとはあしき歟水火の二字も無用か、恵苑は法相宗也、清涼国師は華厳宗也、徳一も法相宗也、覆面舌とは三蔵仏菩薩の舌也舌額に付く故也、福徳の人は鼻端に付き三蔵の菩薩は髪際に付くさて神力品の時教主釈迦如来の舌は梵天に付く相既に爾か也説弥々可き信ず也。

一、答て曰く此の難最も甚し云云、論師の事章と云ふ章の字御正本に有りと云云、すでにとよみあきらかにとよませて才覚あれども、是論師の事をば兼て天台如く此の釈し玉ふと云ふ事を被る遊ば時、章安と可し遊ばすと思し召す処に先づ天台の釈を出だし天親竜樹の昔を顕はして、後章安の釈を出だして天台の諸人師に勝れ玉ふ事を挙げ玉へり、依て之れに章と遊はして天台大師と遊ばす歟、竟字に書きなし畢の字に作る皆わろし諸門徒にても此の推義也、章の字よまずして理聞えたり於て中山等に此の分也、然らば大聖日常に直に此の書相伝と云へるは不審也、直伝ならば先つ文章可き有る校合也、以て正本を中山の四人目の上人日祐の写本、又彼の聞書にも常寂院日●等抄出にも不して治定せ被れ置かたり、あまたの処不審不る斗はか行か也、天親竜樹の事止観五巻の釈也、弘の五に云く天親と云より下は重て申ぶ二論之の本意を、論主逗し機に各演ぶ一門を論師執して偏を弘く諍ふ、致す使後学をして不同を文、二論とは天親所造の地論無著所造の摂大乗論也、是れに疵を著くると云ふ意也、論主とは論を造る人也、論師とは其の論を伝訳する人也、無著天親は権機に通じて小乗を宣べ玉ふ処に論師誤つて一篇に執して其の元由を不す知らと云ふ事也、

此の二論に疵著ると云ふ也、天親竜樹と云ふは誤り也天親無著と可し云ふ、補註に云く天親無著而して言ふ竜儒と者誤り也己上、矢石は古事也漢朝に李陵李広の二人あり四十万騎をたなびき胡国へ赴き軍にまけて李陵十九年在り胡国に李広は降参してある山中に押こめらる、或る時於て草中に虎を見る李広が親、虎に被る食は親の敵なればとて射る之れを、其の虎の不動か見れば之れを青めの石也、羽をせめて矢が立つ故に後に射るに之れを少も不立た、虎と思ふ一篇の念の胡石を透る也、後に石と見ては不ず透ら、其の如く小乗一図の機に対する処を大乗の時も用ゆ之を後に射て石を如く不るか立た無き得益之譬へ也、故に興すと矢石を云云、此の古事も異説あり先つ一通りの分如き此くの也、大に乖く聖道に事能く々く可き合す譬と也、天親竜樹等は内鑒冷然也と者は付法蔵の人亦本地可し有る之れ、仮令ひ不る至ら時故に不宣べ之れを、付て之れに天親小乗の論師にして自他共に無因に偏堕し玉ふ、竜樹は不二の一心三観の開覚の論師也、されば中論に云く因縁所生法○中道の義文、仍て竜樹の一念三千をば内鑒し玉ふ、されども不す至ら時付属のなき故に不して弘め玉は訳者其の義を不す知ら小乗の人師と斗り思う之れを也、常には無著天親と可き云ふ也、又世親と可き有るを天親と云ふは誤也ともあり、茲には大小乗共に内鑒の辺は末法に可き有る之れ由を可き遊ばすため天親竜樹とのせ玉ふ歟、天台も其の意にて如く此くの釈し玉へり、於て人師に者此の事七重勝劣抄に四句を分別してあそばしたり、身は帰して不る帰せ心はあり心は帰して不る帰せ身はあり色心共に帰し色心共に不る帰せあり、其の中に含む玉をとは心の帰する人也、一向不知らとは色心共に不る帰せ人也、己後の人師は帰伏するは南三北七南都六宗等也、一向不用とは弘法等也、是れは色心共に不る帰せ人也、初は破し後に帰伏するは天台伝授の時の帰伏状等如し開目抄の云云、嘉祥大師身を橋とし足ずりをして泣き玉ふ是れ始めは破し後には帰伏の衆也、又心帰不帰身也、慈覚智証は身は帰して心は不る帰せ也、色心共に帰するは天台妙楽伝教章安等なるべし、

上の問ひは下の人師の事をば御答に不す及ば如く此くの遊ばす也、但し可き心得様は清涼国師は妙楽の弟子花厳に移る故に天台を謗る也、恵苑の釈の意は三蔵とは戒定恵の三学也、然れば大小乗共に此の義あり何ぞ其の名小乗に限るや然れば小乗斗りを三蔵と名くる事天台の誤りと謗る也、是れ天台の非私の義に安楽行品には貪著する小乗三蔵に学者と云へり、正く小乗を三蔵と説く経文也、小乗の人師軻梨跋摩三蔵の釈成実論に云く我今正く欲す論んと三蔵の中の実義を者は所謂空也己上我と三蔵と宣へられたり是れ天台の誤りにあらず、覆面舌とは外道が余り仏を奉る笑ひ間、御舌を以つて面を覆うてみせ説法あり、是れ実語の者の舌の長き事をみせられんが為也、然る処に三寸に不る足を以て舌を法相を破ふる間忽ち五尺の身を可し断つと徳一が伝教をのる詞也、伝教責て彼れを法相宗は唐の二代太宗の御字に玄奘三蔵渡す之れを、天台は陳隋の代の人也、豈に未だ渡たら経論を可し破すやと責め伏せ玉へり、弘法の震旦の人師の釈も六波羅蜜経は唐の半に般若三蔵渡す之れを不る渡経を天台盗み玉ふべきや、是れ等は如く諸御書の為に初心の者の一端書く之れを断諸法中悪の事御書の如く得る心之の時比丘偈の文段細科重々也、其の中に挙て果を勧心すと云小文段なり、其の上に又内証の清浄を挙ぐと云ふ下の経文也、然る間爾前迹門の始成の仏果之の同之方也依て之れに爾前を載すとあそばす也、又迹門と与諸経と有同有異の中の同の辺と可し得意、又法花経の文々句々に於いて三の配立あり随情随智随情智也、分別説三は随情也於一仏乗は随智也生仏一如己心の全躰妙法の当躰ぞと云ふ方は随情智也、然る間爾前の事を此の経に説くは随情の辺也云云、所詮迹門断迷開悟従因至果の分也、自り本門見る時不審なき歟、其の上再往見ればと之れを遊したり往いて見る之れをとある本も有り之れ往いてと有るが宣しき歟諸本此の分也、欲令○知見と者は此の衆生は在世の機又一闡提の衆生也、値て此の経に開き仏知見を己心の十界互具を顕はす也、性徳に仏性なくんば何物を開かんや、衆生所具の仏知見を釈尊の教に依つて是れを開くと云ふ文相也、此の経文を受けて天台疏に若衆生○也云云、章安の釈是れは貪女覆蔵の譬とて涅槃経の第七にあり、引て之れを止観に六即の次第を被る釈せ也如し常の貪女無蔵とある本宣しき歟、無宝蔵ともあり本疏を可き見る也、涅槃経七に云く善男子如き貪女人の舎内多く有真金蔵、家人大小無し有る知るる者、時に有り異人善く知り方便を語る貪人に○善方便と者即是れ如来也、貪女と者即是れ一位無量の衆生也、真金蔵と者即是れ仏性也己上、同醍醐味の故に法花涅槃の両経天台章安の釈を引き玉ふ也、

難会教主釈尊と者は上の問の時迹本二門の中にも本門の教主釈尊を上けて、かかる甚大久遠の仏果を衆生の心中に難しと具し云ふ事を挙げ今此答の下に比難大事と遊はす也、三説超過難信解七重八重の習ひ如く七重勝劣抄の本迹勝劣可き分別す也、是れは法師品の文也、神力品の付属況滅度後の言勧持品の廿行の偈等の難字に可し習ひ合す、彼れは悪口怨嫉計り也、大難又既に○色をます、高祖の難信難解相如是第一の大事或は本国土妙或は応身の無始無終十界互具一念三千の組立理即名字に極まる処をあそばし立てん為に、先つ出処其の上熟益天台の理観心の十界互具一念三千其の後迹門二門の教主釈尊始成より久成まで遊はして、脱の上の観心本尊此の重より具謄本種(ぐとうほんしゅ)の内証十界互具一念三千を次第々々に遊ばし立て、名字下種の主師親末法当時の観心本尊を顕はし玉ふ是れが本地本有の本尊也、教には諸法実相妙楽は実相必諸法○身土己上又実相深理、本有妙法蓮華経己上、伝教は一念三千即自受用身○尊形仏己上能く々く可し案す之れを、是を未曽有の本尊と云ふ也、就て之に台家に難信難解の相承重々也、中にも伝教入唐の時道遽和尚に値ひ玉ひ今経の法躰を問ひ玉ふ時、何なるが是法華の躰と問ひ玉ふ時、和尚或る時は一心と示し或る時は三諦三観と示し玉へり、伝教いまだ和尚の心底を残し玉ふと思召し明日可き有帰朝時、重ねて如何なるが是れ法華の躰と問ひ玉ふ時、和尚示て云く自然無相の一句と云云、其の時伝教感涙を押へ紙面にのせて後学に伝へ玉へり、その自然無相の一句と云ふは何物ぞとなれば、法華経本覚真如の躰無作三身の仏躰なれば可き問ふ非す法にも可き答ふ非す法にも、されば其の証拠には属累品に云く仏智自然智無師智等云云、仏智とは初住分証の智恵如来智恵とは妙覚究竟の智恵也、さて自然智恵とは今の自然無相の一句也、法界未分機法未分の躰也、此の重を知れば法界が皆自然智也、其の故は松の葉のこまく蓮の葉の大なる皆自然智恵の振る舞ひ也、是れは天台伝教の理観心の法華の本尊也夫れ尚難信難解也、況んや本門下種末法事行の自然智と云ふ事習ふべし、是故有智舎可し思ふ之れを、事の一念三千十界互具の自然無相の一句と者事行の南無妙法蓮華経其の題目の振舞は末法の高祖也、此御修行を猶多怨嫉況滅○後の況の字の所の顕す末法也、在世正像は口業意業の難信難解他の宝也、末法は身業を面とし三業相応して事の振る舞ひ也、爰を法師宝塔の両品に未来記有り是れ依て之れに引き之れを遊ばし立つる也、上に天台の難信難解に有二、或る御抄に彼の観心は予が教相止観と説まぎらかすと云云、

彼のまぎらかしたる止観の文と教相分の天台の釈を依用有つて観道の依文とし、其の上像法在世の本尊の心待を遊ばして至極の重に本門地涌の付属をつのり末法の主師親観心本尊を顕はし玉ふ也、二門悉○反とは迹門二門也、当鋒難事とはほこさきのかたきことに・あたるともよみ・ほこさきにあたる難事ともよめり、譬へばほこをうるものは此のほこは石をもつき破るべしと云ひ、楯をうるものは如何なるやりにてもつき砕く事不す可ら有る之れと云ふが如く、謗法の三類の強敵はほこ也、忍辱の鎧をきて謗法の鑓にとうされじと向ふは当宗也、是れ一大事の難義なれば当鋒難事と被る釈せ也、観念既に勝るるとは彼れは理也是れは事也事の観心本尊也、依て之れに章安は何ぞ可き易る解し伝教は随自意と己上、難信とは事行の信心也難解とは事の振舞の行の重也、一念信解如説修行可し思ふ之れを、一念三千十界互具を不る知ら人は無相を帯する也、元品の無明を切る利劔は此の法門也、夫れとは事の一念三千是れ也、此の三人は内典の聖人己上余は外典の聖人也、仏法にては非す聖人に仍居す賢位に何に況んや下地をや云云是れ等論師等の事也、何に況んや凡夫と云ふより人師等の事也、矢勒尚闇と者は元品の無明のやみ也可き思ふ之れを也。一、問て云く竜樹天親○、此の段は天台前後の一念三千の知不知をあげ玉ふ也、迹門の一分宣ぶ之をとは因縁所生法の有同の円教也非す本門に非る観心に也、機有とは竜樹等は内証同の故に機也、彼の熟益の時なれば非す下種の時に故に有て機無き時あり或は機時ともにと遊ばすは総じて正像の時機の事也、外用は竜樹も非る本門の機に故に無し時機己上、天台伝教己後は二聖の智を以つて可し知る之れを、止観明静○未聞可し思ふ之れを後代可し聞くと云ふは二聖の智也、初の大難と者凡夫の上の十界互具一念三千可き有る事大難也、序分無量義経を挙げ玉ふ文在迹門義在本門の意也、本迹一致の修行是れ躰不る分別せ故に執する迹門に也、安国論の四経の文当御抄の迹門涅槃経無量義経等の文は皆義在本門の為也、是の経の夫人とあればとて無量義経の事には非ず、結の段より立ち還つて見れば本門事行の南無妙法蓮華経の事也、

此の経と者題目の五字也と遊はす所々の御抄の御文相捨てて広略を遊す筋目伝教の寿量品に云く如我昔○の釈能々可き分別す也、此の経文は父母子和合して一念三千に顕す仏種子を証文也、普賢経の文は一念三千を以つて諸仏の種子とする証拠也、方等と者は法華也、十七種の異名の内也其の沙汰如し常の、十方臺上●慮遮那是は華厳の事也、就て之れに別円二教ある故報身を以つて別教の教主とし、円教の教主の心に●盧遮那と遊ばすとも或は又初頓華厳の方を●盧遮那と遊ばすとも、又華厳報身●盧庶那法身の内証より垂る処の報応二身なる間法身の処より臺上の盧遮那葉上葉中の応身影現する意を以つて如く此くのあそばすとも、古来又他門の義才覚色々也、文章を奉るに身花厳真言等の諸宗乃至十方臺上●盧遮那大集雲集諸仏とあり、知りぬ十方臺上は花厳の教主●盧遮那、真言の教主と聞えたり、などの事を指して大集雲集等の諸仏如来と見たり、委しく遊ばす時大日金剛○広千二百余尊を挙げ玉ふ也、上に真言と云ふ事無んばさもあらん、既に花厳真言等と有つて臺上盧庶那雲集諸仏如来とあるは花厳の毘盧庶那と云ふ事無用歟、但し経釈有らは之れ尤も也私の了簡は無き詮歟、華厳大日経等の事与奪の二あり与へて云へば別円奪つて云ふ則きんば蔵通也、其の故は法花己前猶是れ外道弟子とも釈し当に知る偏教は皆名て為す邪と共釈し、その外小乗経と云種熟脱の三益或は化導の始終等を不明かなら無情の身土成る故に蔵通の灰断に同ずる也、さて別円に似たりと者は大日経に胎蔵界の諸尊金剛頂経に金剛界の諸尊蘇悉地経の金胎不二初地即極等の沙汰皆別教に似たり、三部差別の方は如き此の也、さて大日の無始無終本有法身を説く方は円教に似たり、是も法身本有諸経常談なれば非ず法華の規模に爾前一機の感見也、是れを一往別円に似たりと御書し玉ふ也、本有の三因と者は不軽品の三因仏性也、諸経に無き之れ也、添加所持経の事、撰時抄上巻の末下巻の初に有り之れ可き見る之れを也、自天竺○称也、善無畏一行を語らひ天台の一念三千を盗み入れて義釈と云ふ文をかかせたり、此の事報恩抄下巻を可き奉る見也、貴ふとは遠を唐は近し天竺は遠し、旧は旧訳の法花新は新約の真言経等也、魔心とは一行善無畏等也、有情成仏木○是が法花経の有情草木木画開眼等を可き顕すために先つ諸経の有名無実を挙げ玉ふ也、別円四蔵とある本もあり、関東にある本は大躰四蔵とあり、御正本も其の分歟、若し爾を者四教とあるべけれども爰には四教を分ちて蔵通と別円とを御書き分くる間、四教にてはあるべからず、勝鬘経に合凡開聖と云ふ事有り天台妙楽引いて之れを薬草喩品疏に判し玉へり、疏七に云く勝鬘四蔵合し凡を開す聖を己上、記七に云く合して人天在り二乗の中に開して二乗を為し両と仏菩薩を為す両と己上四蔵と云ふ証拠也、是れも別円と蔵通を分けて挙げ玉ふ時は如何二教と有つて宣しき歟、但し御正筆に有ら之れば尤も也、不んば然ら者二教にて能く聞ふる也後の釈は為に才覚の書き置く也。

一、問て云く上の大難○、釈尊の因位の万善万行諸波羅蜜の功徳広大なる仏を我等が劣身に具すると云ふ事難し会通し又未聞の事也、是れを答ふる時釈尊の因行果徳の二法妙法の五字に納めたり、故に此の五字を持てば因果の二法其の功徳を譲られ奉る也、されば無量義経に云云四信五品抄を可し見申す分別品の疏の如し、初心畏縁○己上直に此の経を持つか六度也、欲聞具足道と就て之れに妙法蓮華経の五字に万行万善因果二法を具足し菩薩の六度を具する事を証拠に引き玉ふ時、涅槃経薩○云云、何物を具足するぞならば竜樹云く薩者六也、六度を具足する意也、無○義の記に云く共あり、三論宗の元祖に恵金僧正と云ふ人の作也、沙と者訳して云ふ六と○義云云薩も沙も同し事也、梵字の習ひに直音拗音とてかろくさと云ふは直音也・サツと云ふは拗音也、沙字を妙と書くは誤り也、天台釈沙○飜すと妙と釈し玉ふ是れ証拠也、胡とは流砂より西を指す天竺の事也、吉蔵とは嘉祥大師の事也、天台の釈は玄義第八にあり、開目抄にも御引証有り是れ可し見合す、薩達麿梵語也爰には妙法と翻する也、具とは十界互具足とは一界に十界を満足する也、地獄界の衆生も己界に仏果を顕はすに依つて達多も天王如来となる也余界も又爾也、妙楽は尚具す仏界を余界又爾也と釈せり、欲令衆生開仏知見と於て此の重に本迹の法門を御書して始成久成娑婆即寂光の身土の一念三千をあらわすなり、此の段抄字等の習ひ有り是れ以て別紙を可し聞く是れを法花と真言の沙汰也、武内は人王八代孝元天皇の御子也、八十年胎内に在つて生れ玉ふ二百廿余才六代の臣下と云ふ人王十二代景行十三代成務十四代仲哀十五代神功十六代応神十七代仁徳に仕へ玉へり、当知身土の釈引証に付いて様々の才覚あれども、一念三千の依文なる故に引き玉ふ也、義在本門の意也非す天台の理観に地涌菩薩と釈尊の因果を挙げて其の下に此の釈を引き玉ふ本因本果事の十界互具事行の一念三千を顕はし玉ふべき意地也、身とは三身也土とは浄土也本理とは仏界也、此の本理に称が成道也非す自り外来る仏に妙法の悟り己心の仏性に称ふ処を成道と云ふ也、如く此くの本理にかなへば一身一念法界に遍ずる也、見と者色一念と者心也、於て此の上に本門事行の成道を可き習ふ也至て末に其の意可き有る也、能変の教主とは迹仏也迹仏は無情也、所変の諸仏とは小権の仏也十方諸仏を指す也、土又以つて如し此くの能変の土は四種仏土の中の寂光也所変の土は余の三土也、三変四見三土四土宝塔品涅槃経の意也如し上の、今本時の娑婆世界と者爾前迹門の間は本国土妙不顕はし三種世間一念三千と云ふ事無し之故に無情の土也、此の一念三千或は三種世間或は十界互具なんどと立ちて是れを仏界と云ひ分るは理の法門也、

其の一念三千十界互具の名躰は何物ぞと云ふに妙法蓮華経也、法界妙法蓮華経なる時娑婆即寂光也、其の妙法を己心の一念三千と顕はすが仏也其の仏の住処は寂光土也、夫を本地寂光とも本時娑婆とも云ふ也、名は一つなれども爾前迹門の時は迷の娑婆穢土也本仏の被る住せ時は浄土也故に三災四劫を被る難し也、経に我浄土不毀と説き常住此説法とある此れと云ふ字今此三界の今の字本門の今と云時本時の娑婆也、寿量の三処分別品の一処の常住台当両家の口伝也如し常の是を四土一念の寂光とも云ふ也、真の霊山とも事の寂光とも云ふ也、此れ即妙法の土也法性の淵底と釈し従地涌出と云ふ地とは本有の寂光の大地也、虚空中住と者は本時の寂光也、仏既に過去にも不滅せとは、常ならば不生と可し有る之れ、然る処に不滅とある事は拘留孫倶那含等は己滅の仏也、対して之れに不滅と遊ばす歟、弥勒を始として九百九住六仏は可し生玉ふ対して之れに不生と云云、久遠のまま三世常恒不生不滅也、所化以つて同躰也是れ即己心三千○世間己上、在世脱仏の上の具謄本種(ぐとうほんしゅ)の重也、是れが宝塔品より事起ると云ふ在世の観心本尊なり、己心の三千○世間とは本門妙法蓮華経是れ也、迹門は時も無く機も無き故不説か之を不す説か之れをとは本門の肝要妙法蓮華経の事也、在世の釈尊此の妙法蓮華経を本化に付属あり、ここより滅後の観心本尊を顕はし玉ふ也、本迹の不同在世滅後の本尊能く々く留め心を可し有る信敬、非んば宿習●至り者歟、御正筆は本時の娑婆世界難○浄土なり、次には本師の娑婆の上に○居しと空にあり云云、口伝する時上は爾前迹門の非常を明す下なる間、爾前迹門には時節常住の旨無く之れ無情の身土也、今本門寿量の心は本時の成道の娑婆世界三世常住の一時の娑婆と云ふ心歟、さて末法遺付の本尊の相貌を遊はす下には本師とあることは久遠実成の本師、居住の娑婆の上に宝塔居す空にと云ふ意歟、常の本には二処ともに本時とあり、御正筆には初めは本時次は本師と有り云云、往いては同し心也、如き是くの本尊在世五十余年に無しと之れ正筆にあり、四十はわるき歟。

一、問ふ正像二千○答て曰く法華経○流通分也とは、先つ正像の本尊さて法花の三段をあげ種熟脱の三益を沙汰し依て時機に重々の本迹ある由を遊ばす、至て末に末法の観心本尊を可き顕し玉ふ所表也、上に本尊の為らく躰と遊ばすは付属をつのるべき為の総標也、於て塔中相に承に教相観心可き有る之れ上の分は教相の一段也、三段は三益のため三益を挙げ玉ふは本迹の重々ある事を沙汰せんため也、熟脱は迹也序は迹也下種は本也末法は正宗也本也、三世仏教は迹也熟脱也、此の重々を為に可き遊ばす先つ正像の問を挙げ四ヶ五箇の三段を挙げ玉ふ也、此の三段重々に遊ばす事文句一には四節の増進の釈玄義には迹中三一功高一期の釈殊に名玄義の下可き見る之れを也、諸御書の配立可し留む心を当家本迹後五百才始観心本尊等有る爰元に也、一には一代三段二に十巻三段三に迹門三段四に本門三段五に又本門三段也、一代三段は小権迹本の沙汰なし、今諸宗のよむ法花の類なるべし、十巻三段本迹一致の人のほむ法花経也顕実の分也、二教三段、迹門十四品天台等の修行也、上の三ヶの三段をば教主始○大通己来の法花経と可し心得、種熟脱の沙汰如し御書の始めて聞くと八品を者正宗八品也是れを下種とする機に種熟脱を遊ばす也、上の両重は教主は始成正覚百界千如も本無今有也、是れは迹門随自意迹門の難信難解也、仏非本意に遊はす筋目也権因権果迹因迹果也、故に種熟脱とは云へども有名無実也如し御文躰の、此の下に四類の機を挙げ玉ふ大通覆講法花の機前四味覚知の機也、

二同大通下種の機至る法花に種子開眼の機三周声聞等也、二乗凡夫と遊ばすは法師品の四衆八部を指し玉ふ也、三於て正宗に下種して普賢涅槃経等に脱する機一類有り之れ、四に王城下種の者に取つて鈍者在世にもれ、正像末に小権を助縁として開悟する機也五人等此類なるべし、本門十四品と者今の天目門流立義也、十界久遠の上にとは住本顕本して九界も無始の九界仏界も無始の仏界で一念三千百界千如釈尊上行久遠顕本の時各具謄本種(ぐとうほんしゅ)する其の機を挙ぐる時分別品の一生八生也、久遠の上に国土世間○膜と者始成と与久成事の一念三千と与理の一念三千也、●近而不見の類也、五十小劫○半日等可き思ふ也、羅薄の一品元品無明竹膜の隔て也、全く無明と与法性並べて存ずるに非ず始覚は迹門本覚は本門也近き所の事の三千を不る知らを竹膜の隔と云ふ也、依て之れに本迹一致と云ふは誤り也、此の重は迹門も易行易解随他意也、本門十四品随自意難信難解と云云、初の三ヶの三段殊に迹門十四品三段の時は迹門も随自意難信難解也、今は迹門十四品は易行易解随他意本門十四品斗り難信難解、随自意也、天目日弁等の偏立是れ也、又於本門○序分也己上、此の序と云ふは本門為の可き顕す方便の説教と云ふ意也、此の時は一品二半本門随自意難信難解也、於て此の下に種脱あり可し習ふ、然る間一品二半の外は迹門也大通仏の法花とあり、寿量品有無諸門跡異議あり或は大通の寿量をば今の一品二半に摂す云云、三世諸仏皆寿量品を可し被る説か夫をも今の一品二半に可し摂す云云、就て之れに当家の習ひ追て聞すべし、上の十四品本門の時さへ所説の法門如し天地の十界久遠の上に国土世間己上、況んや此の一品二半の本門の重には争でか迹仏の三世にかかわらんや、

上にも大通説法法花をば非す仏の本意に本無今有とあり、今日寿量の説不す可ら有る之れ、仮令調停の種に就いて可き被る説か也、花厳経にも寿量品有り之れ、三説超過と者は三世の仏経に超過也、十方三世の所仏微塵の経々と遊ばす上は寿量品の有無不す及ば沙汰に、縦ひ●も被ると説か之れを迹中の寿量なるべし、寿量品には師弟遠近を説く也迹中に此の説無し、弥勒不識一人と己上当来導師也、今日の寿量品上行涌出の故也上行涌出は為末法の也、然ら者は三千塵点の時上行出世無し之れ委細略す之を、涅槃経は法華の後也何ぞ序ならんやと云ふに、或は為には●被末代機の流通也、為には通入仏性の機の前四味の教法を設くる也、此の時は仏性常住の理と諸法実相と理同き故に同味する方を以て序と云ひ、或は三世諸仏も今日の仏も先に始成正覚の方便を設けて後に久遠成道の本意を顕し玉ふ故に始覚は本覚の序也、然るに涅槃経は帯権の経にして始成の方便を設くる方が爾前迹門に同ずる故に約して此の篇に序と遊ばす云云、是れも迹門始覚成劫所立の無常の上の沙汰、迹門の法花の序と云はば不審もあり、既に過去大通乃至現在横に十方竪に三世と挙げ玉へり、未来の千仏の説も今の寿量品の序なるべし、況んや今日の涅槃経をや、不生不滅名大涅槃の仏の説教の寿量品に小乗生滅の涅槃経を比する事大海に一滴をくらぶる程の事也、五段の中の第一には涅槃経を流通と挙げ玉ふ、第二十巻三段の時除く之れを帯権不了の故也、二経六段の時開結二経をも除く之れを本門の時一品二半の外を除く、於て此の重に沙汰するに序正流通を争でか不審可き有る之れ、或は自り一品二半之の外○云云、源妙能化と云ふ奥州の天台宗の人帰め法花に云ふ日什と、此の一品二半の本門を用ふる事、此の御文相の上下を不る見届け故也、如くは諸御抄の先つ小乗と云ふ事は、経に云く楽於小法と、流九に云く諸衆生小法者所の見る之機也、花厳に云く大衆●も清浄と其の余衆小法の衆或は生疑悔○師の云く楽小と者非る小乗の人に也、

乃是楽ふ近説を者を為す小因と、○約さば果門に楽ひ聞き近成之の説を出て於釈氏の宮を始て得るを菩提を不欲せ楽はんと聞んと長遠大久之の道を故に言ふ楽小と云云、記の九に云く若し前四味には但楽ふを近情を為す楽小の者と乃至○云云本末の釈長き故に略す之れを、意は往日と現在と修行と果門と約して四の義に釈せり、往日と者過去下種の時●も発すと大心を、無しえらびよなぐる専精故に五欲に著するを云ふ楽小法と久遠下種の往日なるべし、約す現在にと者今日花厳出世の砌也、此の時彼の天人等は於て心性に雖も備ふと大機を外相は貪著す世楽に故に是れを云ふ楽小法と約せ修行に者阿含三乗の修行を釈す、所以に見思断の故に●も出過すと三界を住し三乗の近果に期し無余の灰断を取る小法を、別教の菩薩●無しと三乗の近果地前の修して空仮を至り地上に但中の修す一乗を、法花円頓の三諦一諦の非修行に又楽小法の者也、約せ果門に者臨み所説の法門に能応の教主は果上の仏果成るに迹機は楽ふ聞んと近情を本機は楽む聞を長遠を然は即迹門始覚の機は楽ふ始成を故に得る楽小法の名を、本迹相対して迹門は始成の故に小乗本門は久成の故に大乗也、委くは本末の釈を可し見る広き間取意して書く之れを於て本迹に重々あり大小可し思ふ之れを、山王院の論の記に一往三蔵名て為し小乗と再往三教名て為す小乗と云云、是れは小乗と遊ばすに付いて様々の義有り或は約し教主の仏に約し土に約し記に約する説教に也、所詮本門の意は十界皆成久遠実成の内証かげたるは小乗也、小権迹本次第々々し五ヶ三段等重々をくみあげて可し知る之れを、所詮事の十界互具百界千如一念三千無作三身の重は広大也、九界を為し権と仏界を為すと実と云ふ迹門の仏教は狭小也如し常の、邪見教と者は直に久遠をの正覚を不して説か、十方仏土或は今日始成等と被る説か也横さまなる義也、今成妙覚●照尊と説くはひがむ也、邪の字はひがむともひづむとも云ふ也邪正も依る所対に也、記五に云く望るに彼の本門に円尚方便也、況や復偏邪をや今迹中の三教は皆是れ方便云云、記の九に云く若し対すれは果門に権実具に是れ随他意也云云、玄の十に云く若し得は道教を同し無相に、若し不れば得道教を同し邪説に云云本地の三身を不れば顕さ邪也、十九出家三十成道可し思ふ之れを、又十界皆成をまげて九権一実と説く間迹の法は邪也、疏の四に云く五乗是れ曲而非直に、通別は偏傍而非正に今皆捨て彼の偏曲を但説く正直の一道を云云、註釈に云く随て情に諍ふ門を皆名く邪見と云云弘二に云く未た称は理に故に義を以て云ふ邪見と是れ悪也云云、

●に云ふ当に知る偏教皆名て為す邪と云云、妙楽云ふ自ら指て三教を皆名く邪見と云云、此れ等の釈例可き得心也、未得道教と者は迹門は初住本門は妙覚也、初住は非妙覚の仏果に果地実益無き也、疏の九に云く昔方便行は未た得実道之の益即因虚也執して於近迹を未る得本地真実の益を是れ即果虚也、聞て本門之の説を即除き執近之の情を得る長遠果地之の実益を云云、寿量品の所々言説皆実不虚を釈する時爾前は未得道教と云ふは方便の教なる故也、弘の五に望に彼○便なり云云、記の九に云く若対○意云云、玄十に若得○同し邪説に云云如く上の也、剰へ開迹顕本皆入初住の時本門にして初めて入る初住に也、されば等覚無垢の大士も惑者と被る云、分は有り是れ故に迹門未得道の教也、されば不は発迹顕本せ真の一念三千も不顕れ二乗作仏も不定ら云云、覆相教と者通途の説に爾前を覆蔵と云ふ爰に相の字を遊はす也同し心也、但本門事相の久遠常住の旨をかくすと云ふ義歟、弘の六に云く遍く尋るに法花己前の諸経を実に無し二乗作仏の文及び如来久成之説故に知ぬ並に由る帯するに方便を故に文覆ふ久遠を故に覆相教と云云、次上に十界久遠之上に国土世間既に顕る云云、知んぬ事の一念三千をかくす故に覆相と云ふ也、得薄垢重と者上は法躰是れは機情の事也縁了二善功用微劣也三徳円満のはだえを不る知ら故に薄也、妙覚究竟の内証を不る知ら故に徳薄也、元品の無明を不る断せ故に垢重也、記の九に云く垢重と者見思未た断せ之れを、幼稚と者記九に幼稚と者定て未た知ら遠益文迹門初住の益は本門果地の内証妙覚極果の益に望めて幼稚也、貧窮と者果地功徳無し之れ四土一念皆常寂光一念三千の如意珠に不るは相は貧窮也若し欲せば免れんと貧窮を○可し思ふ之れを、孤露と者久遠実成の父を不る知ら方はみなしご也迹門の意は単の初住成るは孤露也、つゆと云ふ字はあらはとよむすこしあらわす義也つゆほどなどと云ふ詞同し之れに、同すと禽獣に者迹門は智也不識一人久遠実成の事を不る知ら愚也故に同する禽獣に也、五百問論に云く一代教の中に未た曽て顕は遠を父母之の寿不可ら不る知ら、始め於て此の中に方に顕す遠本を若し不れは知ら父母の寿之の遠を復迷はん父統の邦に、徒に謂ふ才能と全く非人の子に云云、此の論は法相の慈恩大師の玄賛十巻を意に破せん妙楽の自問自答の論也、

其の随一に三論華厳法相の人師等が執して依教に寿量の仏を不る知ら事を迷ふ父統の邦に云云、寿量品を不る知ら人師は非す人の子に畜生也、開目抄にも其の心有り之れ、三皇己前の人皆同す禽獣に云云上釈を引いて遊ばす也、爾前迹門○仏因況や大日経等諸小乗経をや云云、是れは五ヶ三段を遊ばして久遠下種は一品二半の本門に限ると云ふ心也、されば久遠五百塵点の最初は下種中間今日爾前迹門の間は熟益本門寿量品は脱也、上行涌出の故に久遠顕本より久遠顕本の故に一生八生の益あり、釈尊上行相合ひ玉ふ所で在世の衆具謄本種(ぐとうほんしゅ)して久遠に還る也、然る間爾前迹門の間の種熟脱と云ふ者皆是れ本無今有にして仏の方便也、円教とは云へども久遠下種と外は非すと仏因に云ふ心也、法花経さへ寿量顕本の外は非す仏因に況や大日経等の小乗不ずと及ば沙汰に云ふ義の心也、此の時寿量の一品二半の外の法花は大乗の一分也権実約智約経の分也、然る間大日経等の爾前の大乗をば小乗と遊ばす也、依り所対に浅深勝劣有り之れ重々之難信難解也、先つ依経次に宗旨を挙げ玉ふ時、況や華厳○灰断と者小乗に当る也迹門は大乗の分也、然れば開眼迹門さへ非す仏因に況んや未開顕の大日経等をや与へて云ふ時権大乗也奪つて云はば同する灰断に也、蔵通両経無し未来の記云云、寿量品の上の小権迹本の沙汰は常の如く小権等のには無く之れ重々如し御書の、何に況んやと押へ玉ふ詞の前に天台宗も可き入る也、其の故如何と云ふに弥勒尚闇しと云云、大日経は与へて云ふ時●為りと王女云云意は我一切本初の文を以つて意得る時、以法身教主と説くは是れ王女に似たり、報身の父の国王なければ非す応身の王子に成仏の種子無き事を挙げ玉ふ也花厳に始見我身の文の心也、於て本門の上に迹門の法身の沙汰も亦如き此くの也、旃陀羅と者梵語爰には翻す殺者と致す殺生を者也屠児の類也、文句八の安楽行品に翻す悪者と云云かりすなどりなどする類也、此れ等は且く閣くと之れを押へ玉ふ意は在世の本門と滅後の本門と次第して遊ばす時、上の一品二半の始中終は在世の本門也爾前迹門は非すと下種に云ふ分也、至て末に滅後の本門を可き遊す心持ながら先於て法花一経に在世滅後法正を遊ばし、

是れは一往為鹿苑○声聞なれども再往は滅後々々の中にも於て末法に本門下種の南無妙法蓮華経を可き弘通すための在世の法華経ぞと云ふ事を示し於て其上に滅後の本門下種の本尊を顕はし玉ふ也、故に在世の爾前迹門本門の沙汰是れを閣くと遊ばして立ち還つて迹門十四品八品と云云、此の段迹門十四品を以つて在世滅後の機の傍正を挙げ玉ふ時、一往在世の機のため再住為正像末の凡夫の三時の中には末法の初め正が中の正と遊ばす也、在世の傍正は二乗は正菩薩凡夫は傍也、此の分は非す下種の事には本尊の事にても無し之れ非す本迹一致と云ふ事にも然る処に一致の方文の上下をば不す見、本迹一致の証拠に此の文を引く事誠に耳を取つて鼻をかむ類也、先つ在世の傍正とは正宗八品三周得悟の声聞が正機也、凡夫菩薩は傍機也如し経文の是れ一往の傍正也再往実義の時霊山会上にて迹門正宗八品に預る授記作仏に旁々等覚の菩薩法身の大士なり、されば疏に本と是れ一万二千の菩薩迹に為る万二千声聞と云云、八大竜王は八地の菩薩と釈せり、故に仏意の内証に立ち還つて見る時は如来出世は為の滅後衆生の内秘菩薩行或は舎利弗は金竜陀仏云云、如く此くの得る意は正像末の為衆生の也故に三時を為す正と、又三時の中に以て末法を為る正と事は正像二時に生れて仏法の機類と成る旁々は本己有善の機也、末法は悉く本末有善の機なる故に如来の内証は末法を為る正と也、此の時は如来の出世又八品も在世一段の機の為にもあらず、為め三時の三時の中にも末法の機のために説き玉ふ処の正宗八品のやすらひ也、如く此くの遊はせばとて正宗八品が末法の下種の要法には非ず、夫れは上に重々を遊ばし次に証拠を問はれて法師品等の文を出し玉へり、又本迹顕本可し思ふ之れを、又末に至りて以て本門を論れば之を一向以て末法の初を為す正機と等云云。

一、問て云く其の証如何、答て曰く猶多怨嫉と是れ等末法本門下種の本尊出世の時に如き此くの大難可しと有る之れ云ふ経文也、順次によむ時は正宗八品得道の面々の事と聞へたり夫を迹門と云ふ也、さて逆次に読む法花経の時蜜表寿量の内証より見れば末法の高祖の御事也 令法九住も末法也勧持品の廿行如し常の安楽行品に三処迄於後末世・於末法中・悪世末法時とあり、面は止観行者の事なれども時機相応の修行は末法の未来記也伝教の御釈可し思ふ之れを是れ躰の時機の沙汰等は爾前経をも引く也安国論の四経の文末法の未来記也、当分は其の経々の事の様に聞へたり法花開顕の上より見れば法花経の事也、迹門亦如し此くの文在迹門義在本門可し思ふ之れを、以て本門を論せば之を一向以て末法を○於て迹門に傍正の沙汰有り之れ、於は本門に在世正像は一向傍機末法は一向正機と遊ばす也、於て此の上に二重あり先久遠下種中間今日迹門迄熟、本門脱の機有り之れ、故に所謂一往見れば之をと遊ばす也、令む登ら等妙にと者は王城得脱の機也、檀那流には地涌には王城得脱の者なしと云ひ恵心流には可しと有る之れ成し玉へり、他門には指め地涌を令むと登ら等妙二覚に云ふ人あり全く可し不る有ら其の義、地涌を近世為脱と四節増進の下に釈するは有る習ひ事也、釈尊顕本地涌湧出久遠顕本あり此の時一生八生の益あり是れが一品二半の得益也、是れ在世の本門一品二半の上の一往也、再往見れば之れを不似迹門には本門は序正流通共に以て末法の初を為す詮と云云、一往一品二半の重より立ち還つて見れば前十四品迹門也、故に安楽行品等可し見る之れを迹門如しと此くのと遊ばす也、

さて於て本門に一往は種熟脱在世一品二半の事也再往は末法の初を為す詮とと遊ばす此の時不ずとの似迹門には詞は文の上の寿量品一生八生の益は迹中の本皆是れ迹中の益也の分也、然る間一品二半は在世の得益にして非と為に末法の云ふ事治定也、今於て末法に以て之れを下種とするは他の宝也、 久遠下種の者の為の三五の塵四十余年迹門等の方便を設け於て其の上に取る脱を日所の説く寿量品也其得益は分別品也、開迹顕本の証拠証人は上行菩薩也、上行は為在世の寿量の出で玉はず為に末法の涌出あり、在世の機にかかはる分は迹門也、在世は不す綺ひ玉は為め末法の涌出ある故に不似迹門には本門は○為すと詮とあそばす也、久遠中間今日寿量分別と来る機は本己有善の機也本門の直機に非ず是れを迂廻道の機と云ふ也、於て末法に本未有善の機は直機也、未だ下種せざれば可き熟す方便なし熟益無ければ可き脱す等妙二覚も無し由、在世脱益の釈迦は非下種の本尊に争でか彼の一品二半に執せんや去年の暦六日の菖蒲也、序正流通共にと遊す処可し留む心を、上の一品二半寿量の序正流通の時流通の沙汰無し是れ脱益の寿量品在世正宗にて終る故也、上行付属の下種の妙法蓮華経なれば也、爰には序正 流通共に末法の始を為す詮と序も南無妙法蓮華経流通も南無妙法蓮華経と云ふ事也、如是我聞の上の妙法蓮華経可し思ふ之れを始にと計り遊ばす事大事也、後五百才に始まる観心本尊の事也、序も正宗も流通も只観心本尊迄也、さて其の観心本尊は在世宝塔中 の釈迦多宝本仏にて上行等の菩薩其の外宝塔品寿量品の時の如く開迹顕本の機を新しくそろへて造り立つる十界互具の本尊歟と思へば、此の不同を遊ばす時在世本門と末法の始と一同の純円也、是れは上の一往再往と遊すを一にして以て本門を論す之をと有る 文躰の筋也、先つ在世の純円と者は●脱在現具謄本種(ぐとうほんしゅ)不差毫末にて、毛のさきほども不す差は久遠下種に立ち還つて本因本果を成し、教権位弥高の権迹の執情を捨て久遠名字の内証に還帰 して十界久遠の成道を唱へ九界も無始の真の百界○三千の事の本尊と顕 はれたる寿量品の無作の十界を指して純円と遊ばす也、末法は自り元小権迹門の機法共に一向無し之れ久遠下種の題目計りなれば純円也但し彼は脱○五時也、在世の本門と者は是れは一品二半の事也、末法の本門と可き遊はすを始めと遊はす処に可し付く信を 久遠末法也然る間久遠元初と云ふ心也、久遠元初は本門の最初也、上に末法の初を正機とす爰に末法の初と遊すは再往の重也、

久遠末法に対して下種の題目の事也、序正流通共に末法の始と遊ばす応仏の化儀になぞらへて序正流通を遊ばす間如来滅後の方をひかへて遊ばす也、始る観心本尊の意也、ある事のはじまるに始の字をかく一向事のはじめには初の字を書く其の意也、彼れは脱 と者は教主の事也然れば在世脱仏也末法の本未有善の機何事を可き脱す哉、此れは種と遊ばす末法の法主は下種の本尊也、彼れは一品二半とは為に在世の機の一品二半が得分也然る間末世の機の為には一品二半無し所用、教主脱なれば一品二半の益も脱益也、 一品二半とは法躰也脱とは教主也、其の機を云へば過去久遠中間今日小権迹本と移転する機也教主も法躰も機情も各別也、此れは但題目の南無妙法蓮華経迄也、然る間法花宗の末法相応の観心本尊と者、下種の本尊の己心の振舞を指して事の一念三千と云ふ也 、一心具十法界○不思議境と者此の本尊也、意在り於茲にと者題目也非す文に非す義に一部の意なるのみ耳等云云、当に知る身土一念○故に成道の時と者末法の出世也、称ふ此の本理にと者は事行の南無妙法蓮華経也、身と者は名字約身約位也土と者は本国土也一念と者は事の南無妙法蓮華経の己心の日蓮の一念也、然る間本尊御影造立此の事也脱仏の造立失ふ時機を物恠也、在世と滅後とかれとこれと一往再往を分別して置き玉ふ上は不る及ば異論に処を本迹一致の一品二半の八品所顕のなんどと構ふる己義を事以つての外の誤也、御抄の御文相に打ち任せて可き奉る付け信を也、此の上に証文を御引証あらんより於て其の上に書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今留大石寺にあり大聖御存日の時の造立也、池上のけづりかけの御影可き有る御入滅其の九十月に被るせ為造ら也、一躰の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に可し立て置く云云日朗所持歟、本尊問答以て別紙を可し習ふ略す之れを、当流の観心本尊をば於て此の重に習ふ也、

富士門家の種脱の立て様是れ也、全く十四品本門一品二半本門八品本門などと云ふ事には不取り合は、久遠五百塵点より今日一代応仏の化儀は皆迹門也、上行の涌出有つて師弟の顕本をとげ互為主伴の時脱機の前には、三蔵如来而為境本の釈迦と顕はれ下種の機根には示同凡夫して理即名字の姿を顕はし玉へり、於て仏意に全く偏頗無し之れ一仏異名の御利益也、されば地涌の菩薩をば山門三井一同して仏地辺菩薩と云ひ、真言には自性所生の菩薩と云ふ権迹の家の沙汰如し此くの、況んや本化の家に於てをや釈尊枝分の弟子とも云なり釈迦の四支也、地水火風の四菩薩可し思ふ之れを、釈尊も初は悉達太子也、成道有りて我実成仏甚大久遠と云云、高祖も如説修行の上仏菩薩論師人師の未来記付属の現証符号の上は不る及ば沙汰に也、釈迦は仏高祖は人界と見たる眼は断迷開悟の迹門にも及ばず難信難解六難九易の法門何事ぞや、愚者の眼に凡夫と見るは本仏にて愚者の眼に一人出過の高位奇特殊勝の仏と見るは夢中権果迹中の方便と見るこそ智者なれ、是の故に有らん智者可し思ふ之れを、三蔵教の成りあがりの仏をひかへて久遠名字の本尊仏を不る知ら機浅まし浅まし、仮令ひ釈尊上行互為主伴して依て機に不同から本果成道を唱へ本因の姿を被る顕さまで也、少も非す背くに在世の釈尊に其の証如何、高祖在世の釈迦に背き玉ふに非ず付属の断重々の経説非す可きに疑ふ其の文証見ゆ末に、去りながら摂受は末法にも少々可き有る之れ由御抄文にも見へたり、迹門の四依末法の初め少々有るべし己上、今の他門の旁々其の余類歟、尼崎は八品を用ゆ是れも上下の文を不しめ見分け執する当文に故也説いて八品を付属す之れをとあり、付属の法は南無妙法蓮華経全く八品が非成るには下種と一品二半の時さへ余は未得道教等と云云、況んや彼れは脱と一品二半ををさへ対して末法の初に除き玉へり、何に況んや以て八品を可き下種す事不す可ら有る之れ、其の証拠は此れは但題目の五字也とは八品は下種の題目付属の効能徳行を説いたる迄也、其の上勧行相似の次位等妙二覚の益更に非す下種の所用に、寿量品の肝心南無妙法蓮華経とあるさへ、在世にかかはる方をば一品二半と除き玉ふ、

何に況んや八品何事の故に下種の正法たるべきや、処々の御抄文当御抄の始中終能く々く可し有る拝見、仮令へば高祖己来当門流開山日興等有りて子細下種の題目の助行として方便寿量を勤行によむ事也、夫れは重々の習ひ入り当流に不る輙ら事なれば略す之れを、但題目の五字と遊ばす一類の御文相は過去の自我偈・文底の寿量品・我か内証の寿量・五味の主の教相・事行の題目・事の一念三千・天台伝教の不る弘め正法・十界互具・本地難思の境智の妙法蓮華経・己心の宝塔非す文に非す義に一部の意なるのみ耳、予が意は○名似ては候はず躰也所詮也意也、或は捨て広を○上行所伝の南無妙法蓮華経是れ也等云云、殊に当御抄観心本尊と遊ばす是れ即能所一ヶ名字事行の本尊也、名とは南無妙法蓮華経の総名也、たとへば鎌倉殿と云ふがごとし、字とはあざな也譬へば頼朝と云ふがごとし、鎌倉どのと云つても頼朝と云つても同し将軍也、本迹約身約位可し思ふ之れを是は在世にかかはらず久末一躰の本迹也本尊御影可し思ふ之れを、高祖御在世の日は本因妙は本日蓮は迹也、御入滅後は蓮祖は本尊木造の御影は迹也、又草木成仏惣慧日躰地涌己心十界開眼の時本御影也も秘事なりと一言書く之れを血脈の沙汰可し思ふ之れを、名字不同年紀大小日興も南無妙法蓮華経日目も南無妙法蓮華経乃至師資相承南無妙法蓮華経即位の法門可し習ふ之れを、王は代々即位すれば王也其の政を次ぐ也、当宗の即位とは理即の凡夫名字の聖位をつぐ也其の政と者は南無妙法蓮華経是れ也王法仏法可し思ふ之れを即身成仏と云ふ法門は涌出品よりはじまり其の正躰は末法に顕れたり、在世は改転の成仏也久遠下種の時の成仏が即身成仏也、其の機は理即・下種の法は妙法也妙法蓮華経より外に久遠にも末法にも別に下種の法無し之れ、娑婆が寂光ならずんば成仏にては不す可ら有る之れ、唐の人は唐人・天竺の人は天竺の人也・娑婆は穢土也穢土の人は凡夫なるべし、安楽行品己前は如し常の、去る間本門の直機と云ふは末法の我等也労わづらはしく在世の本迹に是非を諍はんや、但種脱のかまへを成して末法の本尊を拝見申し即身成仏の遂る素懐を事可き在る正信に也、以て此の心待を当御抄の次第を可き有る信敬也。

一、問て云く其の証○答ふ涌出、是れは上の末法に法華の題目を可き弘む証拠を問答あり如く経文の地涌出現は為め末世流通の、所以者何我娑婆世界○可し思ふ之れを、仮令へ此の次でに在世の衆は得脱する也如し御抄の、前三後三の釈と当家には云ふ也、天台宗二は廃詮表詮の釈と云ふ迹化を除き本化を顕はす義也、妙楽云く弘る父の法を世界の益と者世界悉檀なり、理即名字可し思ふ之れを、新発意菩薩とは天台は賢位の菩薩と判し玉へり仍居すと賢位に可し思ふ之れを、譬へば惑者を釈する時末疏に菩薩己に破す無明を称して之れを為す解と大衆仍居す賢位に名て之れを為す惑と云云、此の時は迹化を未破無明の惑者と取る賢位と者は迹化の菩薩也久遠を障はる無明を不る断せ故に彼の別教の三賢の名を仮りて迹化を賢位と釈する也、夫れと者は元品の無明也、上の涌出品の文は他方来の菩薩と計り有つて迹化の菩薩なき事如何と云ふに十方来集の菩薩の望み玉はは迹化同前たるべし、其の上勧持品の時滅後の弘経を迹化の菩薩望み玉ふ時、仏今黙然として不見られ告勅せとて御返事無し之れ止善男子は迹化に可き亘る也、文殊も観音も他方菩薩也是れ迹化也、本化上行計りを自有六万と説き玉ふ上は不及ば沙汰に、文句の十に云く但見て下方の発誓を不るは見文殊等の誓を何ぞ耶、答ふ上文に云く我土自ら有り菩薩能く持ち此の経を兼得す之れを云云、神力品の時止めて迹化を地涌の菩薩を召す事無し疑ひ、寿量品の文を不失心者は在世得脱の機也、失心と者は末法也其の時の良医は上行菩薩也良薬は妙法蓮華経擣●和合万方総持の題目の五字也、涌出品及ひ未来世分別品の悪世末法時以て此の文を寿量品の未来益物可し得意、寿量品も未来益物の下の文也滅後の衆生の事と不る分明なら間上と下とに涌出品分別品の文を引き玉ふ也、失心の子と説く天台は是れ我弟子妙楽は子弘る父の法を良薬と時我が法と釈し父の法と釈し法是れ久成の法と釈するは皆妙法蓮華経の事と也、是れは我れと云ひ父と云ひ久成人と云ひ良医と云ふは師也、子と云ひ弟子と云ひ付ると云ふは弟子也、下種の父、下種の戸を定るも其の下種は題目也此れは種此れは題目の五字と遊ばす所の御文章に可き合ふ也其の証拠なれば也、復至他国と者は在世釈迦の涅槃なり遣使還告は滅後の四依也。

一、問て云く此の経文に遣使還告○答て云く四依也四依の事は一ヶの習ひ也、涅槃経の六に云く有て人出て世に具し煩悩性を能く知る如来秘密の之蔵を是れを名く第一須陀●と斬陀含の人是れを名く第二と、那含の人是れを名く第三と阿羅漢是れを名く第四と云云、四向四果を位上に背する事あり名蔵義円の意也、依と者よる也衆生の依怙と成ると云ふ義也、茲には四類をあそばしたるは末法の四依を為可き遊ばす也、父の法を弘むる我れ等か為の四依也、遣使還告は四依の中の第四依に当る也、疏に云く五品六根並に名く四依と文、六人立義草案の聞書の下に可き有る之れ間略す之れを、如来滅後正法五百年の内初の百年は従り迦葉至る堤多迦に各廿年宛にし而一向小乗を弘通す、弥遮迦より冨那耶奢に至る迄四百年は面は小乗を弘め内には大乗を兼学すと云へども正意には不す弘通せ、正法前の五百年畢て大集経の解脱堅固の時に当る也己上小乗四依、正法の後の五百年には馬鳴畏羅竜樹師子比丘に至る迄十三人、始め外道の弟子なれども後には成る仏弟子と、先に小乗経を説き其の後以て大乗経を小乗経を散々に破し玉ふ是れ権大乗の四依也、花厳方等の大乗を学する也禅定堅固の時に当る己上月氏仏法一千年、入り像法に一千年迹門四依多分は出で小分は末法の初と云云南岳天台伝教等是れ也、読誦多聞多造塔寺堅固の時に当る也天竺の仏法唐に渡る時分也、末法の初め小分出と者は他流のあつかいには忠尋恵心等歟云云、恵心は一乗は真実の理五乗は方便と説き得る者也己に開く今生之の朦を何ぞ遺さん又死之の恨を云云、日本一州○土云云五人謗法摂受迹化の弘通可し思ふ之れを恵心等は像法の余残也、末法に少々と遊ばす事他流の弘通是也当御抄に見えたる上は不在ら私に、観心本尊末法当季の主師親下種本法の事行の題目にきづをつくる人豈に本化の末流ならんや迹化本化の四依の位をば五品六根並名初依と釈す可し思ふ之れを、四信五品抄を可き奉る見也名字即叶ふ経文に歟と遊ばす所にて本化の位を可し習ふ是れ一往の沙汰也、再往名字の本因妙の観心本尊の重に於ては台家の非六即等の分に、彼の家の名字即は聞き三諦の名を○也理の三諦三観の事也、当家の名字即と者は久遠名字の妙法蓮華経の事也、三世常恒出過三世の題目也、

されば仏既に不滅せ過去に○所化以て同躰也と遊ばす処の於て末法に是れは種是れは題目の五字と云ふ処にのせて可き見申す也、四に本門の四依地涌千界末法の始に必ず可し出現す今の遣使還告は地涌也云云、地涌千界と云ふ事は経に神力品に爾時千世界微塵数菩薩云云、千とは小中大の千世界也、迹門十如実相より一念三千を沙汰す、本門は事の一念三千を為に可き沙汰す百界を茲には千界と云ひ千如を茲には微地理数菩薩と云ふ、迹門に諸法と云ひ茲には従地と云ふ、迹門に実相と云ひ法性といふ茲に涌出と云ひ法性の淵底と釈し玄宗の極地と判ず是れ寂光の大地也、娑婆世界此の界の虚空と説く本地の娑婆は虚空の三千世界也、我此土安穏と説き常住此説法と説くここに住すと者は従地涌出の地也諸仏於て此得三菩堤を等己上、如く此くの三世常恒御説法の久遠の妙法蓮華経を生滅の仏無常の法と見るは●近而不見也、当御抄専ら本尊国土妙草木成仏等の事を遊ばすは地涌の地の字より事起る也、若し然ら者無き涌出時は穢土の娑婆也是れ機の感見也、久遠常住の上に非生現生非滅現滅なれば迷妄の凡夫は生滅の仏と見る爾前迹門の所談皆此の分也、本門と云ふは三世共に久遠の本門押しひらけてある也、不る知らを元品の無明と云ふ知る之れを開仏知見と云ふ本仏と云ふは於て此の重に在世は脱像法は熟益にて理顕本末法は事顕本の本尊を為に可き拝す指し入る処が下種の本門也、寿量品の肝要名躰○南無妙法蓮華経、此の重にて一品二半とは不す被れ遊ばさ寿量品と計りあり文の上の寿量品也、肝要とは題目計り也、然れば文の上も一品二半は不及ば申すに一品の寿量品も迹の方也、若し寿量品が末法の下種ならば是好良薬は寿量品也と可き遊ばす也、知りぬ下種ならねばこそ寿量品の肝要名躰○南無妙法蓮華経己上、於て末法に寿量品も非と肝要に云ふ事無し疑ひ本迹勝劣は是れ也、迹は寿量品本は肝要と遊ばす処の南無妙法蓮華経也、於て茲に脱迹種本と当流には相伝する也、脱の家の本因本果種の家の本因本果此の重の習ひ也、釈尊上行と執するは脱の本門の事也、任せ付属に斯人行世間○闇の本尊は本因妙の末法の本尊也、釈尊と遊すも寿量品と遊すも因の釈迦果の釈迦種の寿量品脱の寿量品可し有る之れ、文の上底爰元の習ひ也、在世の本尊滅後の本尊の差別是れ也、台家には以て観心を本本尊とする也、在世は妙覚の仏を中尊とし等覚の上行無辺行等を脇士とする也、末法は無く様も南無妙法蓮華経日蓮と書きつづけ御判形有り之れ、此の題目と云ふを理の題目と心得法体の名と計り分別する故末法の本尊に迷ふ也、名躰○南無妙法蓮華経と遊す重に可し付く信を名は自り元名なれば不及ば沙汰に、躰宗用何事ぞや、南無と云ふ字何事ぞや南無は帰命の義何れの処に帰るや命は何の命ぞや、

末法受生の日蓮大聖人本寿命の妙経に帰し本有の五輪無作三身の振舞を躰宗用と云ふ也、我れは十界互具一念三千の主本因妙の本仏と顕はれ玉ふ処の末法の観心本尊なり、此の下種本因妙名字の本尊の己心の振舞を観心と云ふ也、よそに有る事を引きよせて愚者の心に観する非す観心に是れが事の観心本尊也、事行の題目と云ふも是れ也、悲いかな哉他門の旁々文字に書き顕はし事相に拝見し口に唱る故事行と云ふなんどと始覚始成の手作り以つての外の僻見なり、御判形と者本国土妙也去れば三種世間と云ふも在世涌出神力に見えたり、於て末法に高祖の御修行事の本尊の重は題目は衆生世間日蓮は五陰世間御判形は国土世間也、娑婆即寂光の法門も一念三千の法門も国土より出来せり、故に爾前迹門に一念三千無し之れ依て之れを成仏も無き之れ也、迹門理の一念三千は人の物也、本門事の一念三千は我が物也、若し釈迦多宝を末法の本尊とせば高祖主し付け玉ふ判形を如何に釈迦の判と可き云ふ耶多宝の判と可き云ふ哉、在世さへ寿量品の文の上に多宝のうはさ無し之れ、仮令へ寿量品の無作三身の所表に宝塔品に三仏を見せしめ玉ふ故、多宝表法身と釈して三身各別にして各修各行の迹門の分域哉、在世の寿量品も久遠一仏の釈迦尚脱なれば末法の時機に不す叶はして付属し上行菩薩に玉へり何に況んや他土迹仏の多宝をや、真実起後本門の宝塔と者神力品釈付属の下に見る也、在世の寿量品の釈迦十界の主と名乗り玉ふ徹所何事ぞや地涌出現の故也、然る間在世は色の経巻なし従地の地と者寂光也、此の寂光の主釈迦如来と云ふ判形は六万恒沙是也、此の菩薩無くん御座者ば何を以て久遠常住の釈迦と可けん治定す哉、然る問題目は釈迦の種子実名哉六万恒沙は釈迦の印判哉、末法は本因妙の釈迦準し色の経巻に本尊に御判在り之れ、所居既に常寂光土也と者御判也、在世は従地涌出なり能化の人豈不す在ら仏に日蓮也、種子は南無妙法蓮華経末法下種の題目の外に成仏の法不す可ら有る之れ、然る問題目は本因妙日蓮は本果妙御判は本尊国土妙三種世間と云ひ十如と云ふも爰元に有り之れ、経に斯人行世間と云云斯人と者日蓮行と者事行南無妙法蓮華経世間と者三種世間也、世間と如是と開合の異也とあるも爰元にて可き習ふ也、題目は如是也、如是と者妙法蓮華経也、世間と者日蓮也三種世間も即妙法蓮華経・妙法蓮華経即日蓮也、己心の三千可し思ふ之れを如く此くの一法界に十法界を具すと云ふ時、本因妙の本仏の己心の一界に在世脱仏を始めとして十界衆具する時左右に釈迦多宝上行其の外十界の聖衆を遊ばしたり、此の内証開けて見れば題目は日蓮日蓮は題目一躰の本因妙法蓮華経の法主也、其の名を呼ひかへす申す時日蓮と唱へる南無妙法蓮華経と唱る也、文字には書いて不二の道理を顕し玉へり、造立の時は御影一尊也本御影と申し本因妙の御姿正報の五大をかりて出で玉ふも、依報の木像と顕はれ玉ふも三千一念の開眼に在る之れ也、此の題目を己心と為し玉ふ時は三世常恒の本御影也、重々●尽くし間残す筆を耳。

一、阿弥陀経の舌相の事、六万恒沙諸仏の舌覆ふと三千界を云ふ事為に弥陀証誓の舌相を覆ふと梵天に説きたれども、各於其土と説いて各々の土にして出し玉ふと見へたり、彼の会の聴衆は見る事なし有名無実也、正く神力品にては十方分身の仏霊山会上に集つて吐舌相し玉へり大に各別也、般若経の放光は其の座計り也今経の舌相に不る似事也、其の故は余経の意は兼但対帯の失あり以て三教の仮説を覆相久遠の故也十神力と者十界皆成の妙法蓮華経付属の所表也、如来一切の神力、一切の秘蔵、一切の事、一切の法、皆於て此の教に己上、此の経と者題目也皆と云ふ字如来一切と云つて法力蔵事の外は一法にてもあるべからず、皆此の四句に収れり、九界所知の非る法力蔵事に如来の一切とあり何の如来か溺れん之れに、かかる大切の法成る故末法衆生の下種となる也、一念三千と云ふも法力蔵事の事也、是を己心に納め三千一念と開悟するか如来也、此の経と者非す指すに一経を題目の五字也、此の時は一経は迹也脱益也題目は事也、本也、伝教秀句十勝の随一に無間自説果分勝と挙げ玉へり、夫と者明に知んぬ果分一切所有之法○説也云云、果分と者如来の法力蔵事なればなり、迹門果分は九界の外に出過するを果分と云ふ也、本門の意は十界共に妙法蓮華経の当躰本覚無作三身と云ふ事を今の法力蔵事の四句に説き顕したり故に果分一切所有之法と被る釈せ也、即身成仏下種本因妙久遠名字の本果也余は准せよ之れに。

一、次下の属累品に云く爾時○己上、於て之に塔中塔外両箇の付属如し大意抄の、属累品は惣付属と者惣して本化迹化の付属也、神力品は別付属と者別して本化計りに末法の付属也、故に属累塔中と云ふ方は惣領上行付属塔外と云ふ方は迹門を迹化に付属する雙用権実の文相如し常の、恵心は通付別付と判じ玉へり是惣別付属の事也、宝塔品の時集り玉ふ諸菩薩を摩で玉ふて其の世界を尋ねるに三千三百万億那由陀の国土に充満する処の頂を三返なで玉ふ也、右の手は権智の故に摩で玉ふ也左は実智也頂は宝智也、如来の御手を受くる方は自行也実智也、仏の方より菩薩の頂をなでたるは化他なる故に権智と云ふ也、分身の諸仏も本土へ還り、地涌は本宮に還り多宝も塔の戸を閉ぢ玉ふ、惣付属をば守護の付属と習ふ也薬王品の宿王華の付属是れも守護の付属也、上の神力品の付属は正也余は傍也、末法には迹化は無益也、属累品の径中径末土の本複・分身地涌の還帰・宝塔の還可き如くなる故の、於て此の下に可し習ふ広き間略す之れを。

一、●拾遺属如し常の、是のは薬王品宿王華付属涅槃経等の付属是れ也、是れは非ず惣付属に惣付属には本迹の沙汰可し有る之れ故に上行を証拠として余深法中の付属也、天台迹面本裏の修行等是也。
●拾遺属は権実小乗等の文也本化の綺ひ一向無し之れ、守護付属と云ふは惣付属にも●拾遺属にも可き亘る也、次第如し御抄文の広学の上にて可し勘ふ之れを、又一辺の義には惣付属をも●拾遺属とも云ふ云云、其の意は太田抄に釈尊然して正像二千年の為に衆生の出で宝塔を以○、文殊観音梵帝日月四天等の頂を三反摩で法花の要より外広略二門並に前後一代一切経を付属し玉ふ、是れ等の大士為正像二千年の機也、其の後於て涅槃経の会座に説て法華経民に前四味諸経を文殊等の諸大菩薩に授け玉ふを●拾の遺属とは云ふ也云云、此の御抄文も初は総付属次は●拾遺属と見へたり、是れを証拠として総付属●拾一也と云ふ学者もあり、二の得心尤も也、所詮●拾の遺属は、属累品所開の余残の付属と可し得心属累品の時の付属とは不す可ら得意す、迹化は本化の成敗也小権は又迹果の成敗なれば●拾遺属とも総付属とも守護付属とも可き取る歟、妙音観音卅四身卅三身等総付属の余残也涅槃経等是れ也。

一、疑て曰く正像○、四重の問答あり此の下一大事なる故重々の問難あり、所詮於て本法に地涌可き有る出現事を為に治定せんが先つ正像二時己来出世之有無問答也、迹門略開三の時、三止三請、本門三誡三請、重誡重請に準して四問四答あり、尚以て末世を弘教大切なれば五度目の問の時、答へ玉へり、第四度目の答は対して在世脱仏に末法の理即名字の本尊を不可ら信用す、不軽々毀千劫○獄云云是れ即本門大法末法弘通難信難解六難九易の故に己上、我が弟子の中粗説く之れを皆可し為す誹謗を己上、今の五人に非ず耶、皆と云ふ字可し思ふ之れを不ん説か者無慈悲なるべし試に粗説かんとて云云、御慈悲を感じ粗弘むるは当流開山一人也爪上の土一二の小石可し思ふ之れを、上に序正流通共に以て末法の始を為すと詮と遊ばす処を結し玉ふ也、其の所詮何事ぞとなれば、下種本因妙本尊題目の南無妙法蓮華経の一仏一法の上の序正流通にして、不応多種の本因妙の御修行也、其の証文に湧出品を出し玉ふ也、其の法躰を挙げて寿量品の肝心南無妙法蓮華経の付属をつのり玉ふ時広宣此経以要言之己上、可き有る弘通其の時節其の国土等重々に問答有つて法師寿量己上、法師品の文は難信難解を結する也、天台の難信難解に二ありと遊ばす文は上に顕れたり、高祖の難信難解と者別也、或御抄に彼の勧心は予が教相其の故は彼れは理観也是れは事観也観念既に勝るるが故に大難又色を増す云云、

観と者智の一心三観、念と者事の一念三千也彼は色もなき難也悪口怨嫉迄也己上、難信難解の本尊直に顕し玉ふ其の本尊と者南無妙法蓮華経日蓮也、此の題目と高祖を三世十方の所仏の本地本因妙の本仏と信じ本仏と解とる事が大事也、然る間在世の釈迦像法の天台の上の教観の難信難解は当宗の教相分也、是れも与へて云ふ日也奪ふ時は止観と説きまぎらかす有のままの妙法に非ざれば尚帯権の法に似たり、依て之れに雙用権実法身非寿○談・理勧心の権法に似たり故に不す足を教相に、其の証拠には世間に粗一二をば申せども第三をば不す申さ候日蓮か○第三の法門也、一二さへ粗如し夢の己上、況んや第三の教相寿量品師弟遠近不遠近二於いてをや、在世の寿量品さへ一品二半八品所顕の脱の辺其の品々の功能徳行を説く方は迹也、本因本果上行釈尊師弟久遠の妙法なる重計り当宗の教相也、是れが第三の教相也、是れを教相として勧心はと云ふ時彼れは脱是れは種彼れは一品二半と遊ばして種の本尊題目南無妙法蓮華経事に顕はるる処が末法の観心本尊也、在世の釈迦迹中の題目を文字に可き顕したる故事の本尊などと云ふは初心也、脱形の釈迦迹中の妙法は木仏にしても文字に書いても非す事の本尊に、日蓮躰具の十界と信を取り定め但題目の五字と治定する処で御影に奉り向ひても文字の本尊に奉り向かひても事の本尊事の一念三千也、我れ等受持して奉る唱へ之れを口唱本果の究竟にて一心十法界の事の観心本尊称此本理の成道也、指して此の所作を無作三身とも、名て本果本因と自受用報身とも云ふ也、

無始色心妙境妙智の重を本地と云ふ、御利益は三世に無く廃退下種の本法を所持し玉ふを地涌とも本化とも云ひ、指して本法を真浄大法とも被る説か也、当躰義と云ふも三大秘法と云ふも只観心本尊の異名也、師弟受持の一念の外に事の一念三千不る可ら有る也、最為難信難解と伝教の判し玉ふ重当家の観門の難信難解と者はこれなり、経には況滅度後の況の字有る之れ也、爰を以つて最前に法師品の文を出し玉ふ其の法師と者は受持の法師品也、要の五種可し思ふ之れを、三種の方●と者は末法万年大慈大悲を為し室と当鉾の難事柔和忍辱衣不惜身命の諸法空を為る座と三説超過の本門本因の南無妙法蓮華経己説と者は序也今説と者は正宗也当説と者は流通也、是の三世応仏の化儀調停方便の上の種熟脱指して之れを三説と云ふ・超過と者は過去久遠の本因の南無妙法蓮華経は、三世十方の諸仏権迹等の諸説に超過すると云ふ事也、出過三世して見れば真実序正流通と云ふは只末世当時種の本尊と但題目の五字の上計りに有り之れ、是れを易信易解の経教対して諸仏諸菩薩に難信難解と説き玉ふ也、非れは宿習に御内証難き計り歟、今留在此と者ここにありと者娑婆世界閻浮堤也、故に非す彼の寂光に本門下種の今はここにある也此の重は国を定め法躰をつのり玉ふ也、良薬と者は南無妙法蓮華経の上に如く遊す善世か悪世か正像か末法かと云ふ時世は悪性世は末法と云云、下種の題目の功徳を分別する世と与と時也、如何にも懇に時を勘へ玉ふ文に五々百才末法の中には始めの五百年の中より可し弘まる云云、所を委しく被る説か時閻浮提に少し弘まる歟と云ふ時広宣とよこに説き仏法西漸して三国に弘まらんと云ふ文也、流布と者は万年迄可き流布す也流と者摂する下機を故也無令断絶可し思ふ之れを竪に久住すべき也、涅槃経の文に釈尊の御慈悲偏に末法にありと云ふ事也、其の故は在世は等覚無垢の大士一往為助けん仏の行化を也、正像も亦大権の聖者上根上智也末法の愚迷を目にかけ玉ふ事所詮也、如き予がと者は理即の凡夫也然るに於て病子にと者は三毒強盛の悪人也、一毫未断の凡夫法花の誹謗の悪人也、好色香薬と者妙境妙智題目日蓮也、よきと云ふは下種の本薬也不美と者誹謗法花権迹等の謗法の族下種の題目を不る唱へ者也摂受順化の輩也。

従り是下地涌千界○と者、正像に地涌の菩薩無き出現由来を遊す也、以て小権を○令む脱せ之れをとは久遠下種中間熟益正法脱益の機の上に又於て在世に調停の種あるべし、指して其の種を在世の下種と遊す也、故に在世は種小法小権を縁とするは熟於て未来に得脱するは脱なり、三世九世の種熟脱可し習ふ之れを、謗多ければ熟益を可き破す故に不す説かと遊すは小権の熟益の機に向つて久遠の下種を説くは却て其の熟益が破れて得脱す間敷き間不と説か之れを云ふ義也、若し然らば迹脱を不す可ら取る故に本下種を説いて無き所詮間不る説か也。

例如○根也とは前四味の中迹門の開会猶無し之れ況んや本門寿量の顕本不可ら有る之れ、若し有らは之れ生せん謗を今日二乗等広略開三の三周十五段の益有る之れ間敷き也、故に小権の後迹門を時其の後本門の権本有り之れ、如く其の彼の正法の機は小権の機也非す下種の時に、此の下種は必ず法花折伏破権門理で小大権実を破する故に正法の機は以て権迹を得道す、此の時若し権を破さば熟益か可き損す也、故に在世の前四味の如し云云、像法中末ちうの字濁つてよむ也中は指し南岳天台の出世を末は像法八百年に出で玉ふ伝教の事也、彼れは迹門理具の一念三千是れは事行の南無妙法蓮華経云云、妙法蓮華経云云、妙法蓮華経と釈迦の事は非す事行に如し常の、本門本尊広く行ふ之れを、行と者事行の題目也、本因妙の法主の己心当躰妙法蓮華経なる処が事に行する題目也、熟脱の教主の主し付け玉ふは於て末法に理具也、其の証何事ぞ上来依り引き玉ふ処の経文付属現証不可ら勝げて計ふ、幼稚と者理即之凡夫也服と者題目を唱ふる也、因謗と者逆縁也信する者は順縁とにかくに下種結縁と成ると云ふ事也、寂滅道場と云ふ事は花厳の時華蔵世界を現して影現実報土を見せらるる故寂○場と云ふ也、さて菩提樹下成道と云ふ方は後分花厳穢土を指す也、寂○と云ふ方にては浄土を云ふ也、我が弟子推せよ之れを○正法己上我が弟子推せよ之れを如何様に可き推す之れを歟と云ふに我が弟子と遊す処を可き推す也、付属ただしき末法の本尊師範を不る知ら者は不る推せ者也、さては上行菩薩御再誕日蓮聖人本師本尊にてをはします、然る間有徳王謗法の者のくびをきり玉ふ賢王も、正法の南無妙法蓮華経を令め弘持せ玉ふも、此の四菩薩の御利益なり、されば当に知る此の事を知るが我弟子推之せよと遊す重也、五人の方々不推せ不知ら此の事は不有ら私に三仏に約束してとあそばす、先つ外相は起後本門の宝塔品の三仏也、立ち還つて見れば久遠本地無作三身寿量品の仏也、如何様に約束有るぞ下種の妙法受持の約束也、宝塔品の意は在世虚空会の約束也、本地自受用身釈尊初発心の弟子と遊ばす、寂滅道場にも迹門十四品にも不来らとある則きんば久遠元初の師弟也之れを我か弟子推せよと遊ばしたり、弟子とは末法の我れ等衆生也於て手比重に一仏二名互為主伴因果表裏の成道可し思ふ之れを、仏既に過去にも不滅せ○所化以て同躰也と此の時の所化は我が弟子是れを推せよと遊す重也●近而不見と説く是れ也、多宝塔中大牟尼世尊本地自受用報身と習ふ処が、本因妙の釈迦の上の三身也是れを無作三身と云ふ、在世、等妙二覚の迹仏の弟子と被る号せ時を指して垂迹上行と習ふ也、再誕日蓮と申す時本因妙自受用身末法に受生ある所也、此の時は久遠の侭なる所の下種の本法下種の本尊也、一品二半も脱なれば今下種の機の非す所用に八品所顕も久遠下種の南無妙法蓮華経一反付属ある処の過去なれば下種の本尊下種の題目に奉る値ひ上に非す所用に如き塔の足代の也、剰へ観行相似増道損生等の功能皆在世迹脱の教法也、譬へば題目はたね也八品は俵也種子を蒔いて後得た俵をたねに可けん用ゆや愚也々々、於て摂受折伏に習ひあり追て可し聞く、四菩薩の出世等可し習ふ之れを略す之れを。

一、問て云く仏記○答て曰く後五百才、委しく現文を問ひ以て現文を為め可き答ふ也、遠の字の顕れ処指す万年を沾の字は流と云ふ字の註也妙と者は題目の五字也道と者は仏道也仏道と者信心也、信即道の源功徳の母境母報身の上行と智父報身の題目と境智冥合して応身の子を生める疑也、冥利不ず無きに末法は本化弘教の時也、されば且く拠る大教の可き流行す時に也己上、冥利とは迹化の菩薩は冥の利益あるべしと云ふ事也守護付属可し思ふ之れを、又観行己上を指して顕益と云ひ理即名字を指して冥益と云云、迹門四依穏て不と現前せ遊ばすは顕益のなき事也無き相違也、現に利益不可ら有る之れ穏れては可しと有る之れ云ふ心を以つて如く此くの遊ばす也、是れ躰の法門の文章首尾肝要也、今の五人の方本面迹裏の修行天台過時の修行也、剰へ高祖の御本意を失ふ師敵対可し恐る々々、四海侵逼と有つて可。亘西海とある本もあり先つ西戎可しと襲来す云ふ意歟、本門の釈尊の為り脇士と、此の文点異議あり本門釈尊を脇士としとある本もあり、又釈尊の脇士となりとよむもあり、釈尊のとよめば上行等は脇士也、釈尊を脇士とすとよめば地涌千界は中央にて釈迦多宝は脇士也、文点は二様に読んでも不苦ら、何れにてもあれ本門の釈尊と云ふ処に心を可き付く也、其の故は上に経文釈疑を引き来りて猶多怨嫉の難を挙げ其の次に本門の釈尊と遊ばしたり、本尊には中央に釈尊無し是れ題目也、知りぬ本門の釈尊と者題目なる事を、

於て之れに能開所開を一ヶに遊ばす処が一大事の相承也、題目計り拝見申して日蓮判と遊ばす重に不る取ら信を故に迷ふ本尊に也、釈尊久遠名字の本因の姿、今日蓮が身に移せりと遊ばす所に可し留む心を追て可し有る相承、正像に本門本尊造立無き之れ事を挙げ玉ふ時弥陀釈迦薬師也是権迹の三身如来也きりく・ばい・ばくの種子是れ也、法報応の三身未免無常の有作三身也、不顕さ本門の四菩薩と云云、譲与ふと遊す事地涌千界末法の導師本尊なる事無し疑ひ末法に不んば出で来ら大妄語とあり、全く別の作を可き作り玉ふに非ず地涌即本尊と顕し玉ふ所を後五百才に始観心本尊と云ふ也、此の勧心は地涌の己心の観心本尊也、在世脱形の釈迦を作り弘め玉へと云ふ義に非ず、末法の本尊と顕れ玉へと云ふ付属也、故に彼れは脱是れは種と於て手本尊に因形果形あり機に本己有善本未有善あり時に摂折あり位に高下あり益に種熟脱相替る故也、三仏の未来記とは起後宝塔也、以て此れを推すれは之れを上に我が弟子推せよ之れを順化の御利益受持の一行を三仏約束有りて末法に出現可き有る之れ証文也、今如き此くの悪端は地涌出現の先表也と遊す也、此の下に於ていて二の得意是れ有り、安国論に遊ばす文は諸天善神棄て国を去る所を故に悪鬼入り替り物恠等可し習ふ之れを云云、当御抄も其の意也、上の迹化の四依穏て○諸天台棄て其の国を不守護せ之を云云、此の時地涌菩薩始めて出現す世に云云、新池書四条金吾の御書等には聖人御出世あつて雖も有りと諌暁依て無きに承引、諸天も棄て此の国を聖人も所を去り玉ふと遊す也、正直の人の頭無ければ宝殿を焼いて天に上り玉ふなどと遊れたり、是れを得心時安国論等に遊すは如く四経の文の可し得心、新池書等に遊すは和光垂迹の霊神霊山聴衆の権者の神と可し得意、往為ては同し事也謗法の故に棄て国を去る所を、若し残り留まり玉ふ神は被れ責せて天上あらん前後の不同迄也、道理は一つ事也時至る所の本門の正法を不る持た故也、於て地涌に総別の習ひ又治罰の二可し有る之れ、

先つ地水火風の師大所成悉く地涌也一地所生可し思ふ之れを、一雨の所潤は是れ空大也利するも罰するも地涌也、背く者を罰し随ふ者は利する也、約せば在世に、無有如芥子許○所云云何れも釈尊の御身也、末法は何れの所も地涌の御身也、是我弟子応○分身土益守護子人太公周公と遊ばす是れ也、背く衆生をば被る罰せ時三災七難等是れなり、平家の時は治罰共に在る平氏に也源氏の時は源氏にあり、国王の時には随ひ王命に将軍成す務をの日は随ひ将軍に治罰如し式条の、とにもかくにも末法は地涌の侭なれば順逆共に成敗也、汝等若能信○仏道是人於仏道○疑是れは下知に随ふ者也、若人不信○獄生疑不信○道是れは背く下知に者也、是れが総体の地涌の振舞也、さて別躰の地涌と者上行菩薩出世有つて況滅度後の難信難解の勧心修行をこらし事行の南無妙法蓮華経を令め受持せ玉ふ事也是れは於て末法にの事也、之れを冥顕益とも事理の振舞共申す也、縁を以つて本化の菩薩とも地涌とも云ふ也、さて在世と与の末法総別を云ふ時為に久遠顕本の上行無辺行浄行安立行の四菩薩其の外六万五万四万○単己無眷族の地涌は別躰の地涌なり、さて●脱在現の時も不差毫末の上にて本化上行計りに称ふ処の性因の下種の南無妙法蓮華経を付属有つて、末法当時我れ等衆生の本尊と顕れ出で玉ふ処の躰具十界の日蓮聖人は総体の地涌也、

今の御本尊一期の御修行伊豆佐渡の流罪龍の口の頚の座勧持不軽の未来記少し妄語無し、故に末法に又不んば出現せ恐らくは大妄語の大士と我と責め玉ひ三仏の未来記泡沫に同ぜん哉と遊ばす也、今此四大菩薩と者人数四人在るに非ず地水火風の本有の色分にそら大己悉の南無妙法蓮華経を魂とし事行の本尊と顕れ出で玉ふ是れが末法の主師親自受用報身無作三身の如来也、自り元而二不二・常同常別・能所不二・●無能所・而立能所なれば総体の一尊又年紀大小名字不同の御利益の時は末法万年の間非生現生の代々の権者等皆是れ地涌の一類也、六万非多に単己非独に可し思ふ之れを、結文の時天晴地明と者は寂光本有の同居也我此土安穏と説き常住此説法と被る説か本地寂光天地開闢也、識る法花をと者は六識鹿強の我れ等凡夫妙法蓮華経之当躰と知れば世法をも得る也、如何様に得るぞとなれば世間即得道也是放縦○常住我又為背父世間与如是開合の異と云ふ事を結し玉ふ也、迹門は十如三種世間と事を遠々と宣べ三諦三観と一分々々に名を付けたり本門の異は南無妙法蓮華経の意を知るは世法即仏果也、欲得是真浄大法得の字諸仏於此得三菩提の得の字是れ也、応受持○疑さて其の天晴地明成る証拠はと云ふに如日月光明能除諸幽冥己上、其の上に世間を得る事如何と云ふに斯人行世間能滅衆生闇云云斯人と云ふは上行菩薩と経釈の明文也、然る処に他土の多宝脱益の釈迦を斯人行の本尊と被るる仰せ五人衆無し覚束か、此の謂はれを知を是れ故有智者と云云、全く一代聖教を胸に浮ぶるを智者とは不云は九易内也、今法花の異名を一念三千とも云ふ也、止観の異名を一念三千と云ふは理の法門也、妙法五字を一念三千といふを事の一念三千下種の法華経と云ふ也、仏は明一念三千と得玉ふ、末代愚迷の衆生夫れを不る知ら故に一念三千と云ふ子細をば不す教妙法蓮華経、但南無妙法蓮華経と授与し玉ふ是れ仏の大慈大悲也、於て茲元に当家他家の不同浅深の習ひ一大事也、台家法門の傍法は天台利具の一念三千は上根上智にして下機として不る可ら及ぶ間其の観念観法をやめて其の代わりとして五字を教ゆと得られたり、全く非す其の疑に一念三千に二あり、彼れは理也是れは事也、或は観念既に○増す色を或は彼の勧心は予が教相などと遊ばして事も手浅く事狭く短薄成る理具の一念三千全く非成仏の主師に熟益の間の方便仮立のやすらひ也、争でか迹因迹果の中の有無無人果頭無人の迹門の上の始覚無常の観信可し用ゆ之れを哉、迹仏の果尚破す況や迹因をや、明のふるまいが一念三千一心三観也、夫れを当躰蓮華仏とも無作三身とも本因本果とも自受用身とも地涌とも本果とも其の処に随ひ依て其の事に名を替えたり。

地涌千界と者はの妙法蓮華経当躰蓮花仏とわき出たる世間国土彼の菩薩の当躰の名を南無妙法蓮華経と云ふ也、無有生死の当躰十界久遠の名字の本仏也、之れを不る知ら衆生には五字の袋につつんで被る授け也、全く天台乗りの一念三千を事の題目のふくろにつつむに非ず、本有の娑婆我浄土不毀の事の一念三千を末代愚人●得心間此の玉をつつんで被る授け也、爰には仏と遊す或る処には日蓮が慈悲広大○流布すべし、幼稚は利即の凡夫也、頚に懸くると遊ばすも同意也、又文字の本尊を頂戴してくびにかくるも同事也、喉に唱ふるもくびに守をかくるも信田に不す収めんば成仏のたねとは難し成り、身口意三業相応口唱本果の究竟の所作を自受用法楽と云ひ其の当躰を無作三身と云ふ也、袋と玉と一躰不二也、妙法蓮華経者本地○蔵也、此の妙法蓮華経は世間の人は名と思へりさにては候はず躰也所詮也意也或は非す文に非す義に一部の意なる耳或は教意是れ仏意々々即是れ仏智等云云、名とは奥蔵と云ひ文とは教と云ふと同義也、さにては候はずと云ひ非と名に遊ばすは玉の義也是れ不二の故也、如来一切○法力蔵事各別かと思へば皆於此教○説と御書には非す指すに一経を題目の五字也等云云、当御抄にも名躰宗用教の南無妙法蓮華経と遊す是れ也、下種と云ふに付いて題目を籾にたとへ理の一念三千を米にたとへ本有始覚等の沙汰様々也略す之れを、於て法華経に衣内の繁珠王頂の玉龍女が如意珠、所詮於て当家に子弟受持の一念南無妙法蓮華経の外に袋もなし珠も無し之れ、仏大慈悲を起して題目に裏む処の玉を末代に送り玉ふ証文如何と云ふに、玉は光を以て暗夜を照らす四天下の玉は日月に勝れたる玉なし是れは世間有漏の玉也、

今末法の闇を照らし玉ふ玉と者斯人行○闇如日月光明○冥と、此の玉は如何様なるなりのものぞと云ふに於我滅度後○此教云云、是れ題目の五字のつつみもの五字の袋の玉也、つつみものは色法也つつまるる玉は心法也、己心三千具足の玉を十界一念のつつみに入れて、末代の我れ等がくびにかけ玉ふ也、是人於仏道決定無有疑の仏果の長者となり愚迷幼稚の身ながら是故有智者の聖人となるべき也、事こそ多き中に如何なれば玉の譬、頚にかくると遊ばす耶と云ふ処が此の御抄の一大事也、故に諸門徒に文段は雖も相違すと此の一段を結文と定むる也深き子細有之れ、法華経の七譬何れも蓮華の譬也蓮華と者妙法也寿量品の良医の譬如し常の、此御抄は観心本尊と号す此の本尊と者末法の一切衆生の本尊也、観心とは何事ぞと云ふに事の一念三千也、一念とは仏法の上の如意珠也、此の珠には三千の諸法を収めたり故に一顆の玉より一位の宝を出たす也、己心とは玉也具十法界と者三千の諸法を収めたる也、己心と十界と互具して百界千如一念三千・事に顕るる処が如意珠に似たる故比し之れに玉ふ、譬喩即当躰なればたとへは一旦の事也、又如意珠を妙覚の位に比する也、是れ即妙法蓮華経の覚躰なれば也、所詮一念三千の如意珠不思議なるを妙法蓮華経と云ふ也、高祖末法に出世有りて此の妙法を如意珠と顕はし玉ふ本門本地の唯与円合と者高祖と妙法と一珠にまるく十界を一念に統べ一念三千の本主と顕れ玉ふ処が真実の円教也、理は絶れも偏円を依せて円珠に談ず理を釈るも、内鑒の時は称此本理の成道の時本理と者題目也成道と者名字本仏也本門事円と云ふも爰元にて可き習ふ也、

高祖の穏魂即一念三千の珠也、魂魄佐渡嶋に至ると開目抄に遊す事大難亦色まさる時真実の自解仏乗也、非す凡夫の魂魄に久遠名字の本仏の魂也己心と者於て此の重に可し信敬す、頚に懸くると者師弟受持の所作口唱の題目也、三業相応して奉る信じ当躰即蓮花仏也、於て我が朝に神●宝劔内待所の三種の神器と云ふも神●は玉也、仏法の神しひは法花経也世間の玉と云ふも宝をふらし万民をたすくるを以つて所詮とす、夫れは現世一旦の宝也妙法の玉と者三世に無く改転一得永不失重宝也、此の玉を不る所持せ者を凡夫と云ひ迷と云ひ貪者と云ふ此の重宝をもつては則ち仏也悟也長者也、竜女が有一宝珠と云ふも一乗の妙法過去に下種せられしを五百塵点劫煩悩の土泥に埋れしが依て文殊の教誡に思ひつき今日霊山に所持す、されば価値三千大千世界云云、竜女が一念即三千の万法一躰成る事を顕せり、本門寿量品より見れば一旦は竜女が奉る捧げ玉也、能く々く見れば久遠元初の妙法蓮華経一念三千の玉也、玄文に云ふ此の心是れ妙也妙即三千三千即法なり云云、一念三千即妙法の五字也其の外王頂の玉の譬天竺日本等の即位の時の王頂の玉の習ひ等略す之れを、真の霊山事の寂光と云ふ霊と者たましい也、

一切の衆生色躰に顕はれ万物を見る玉は両眼也心法を指して霊と云ひ魂魄等共云ふ也、妙法の王の頂上に至る処が何所似ても霊山也、天竺の霊鷲山ばかりの霊山応仏説法花の地也、於て当家に玉と者高祖の御判形也、神●と者手印也十界皆成一念三千の本尊と名乗り玉ふ処の一切衆生の印可也此の御判なく名乗なくんば何を以てか観心の本尊と云はんや、夫れは在世にも妙法蓮華経釈迦多宝又滅後正像二時の論師人師もみな知られなり、後五百才の始観心本尊未曽有の大漫茶羅可し思ふ之れを、総じて事行の題目と云ふは五重玄と云ふも五陰と云ふも其外五大五行等も本有の妙法五字の異名也、十界名字即仏と云ふは但南無妙法蓮華経の当躰の依報も正法も打開く処が娑婆即寂光即身成仏也、十界を妙法蓮華経のつつみものと見れば即其の当躰は玉也、布袋の袋大黒の俵等皆其の内に如意宝あり此の一段が当御抄の所詮也、観心本尊は為め末代幼稚の迄也、四大菩薩○付て之に習ひ可し有る之、此の玉をかけ信智領納の人をば開けても暮れても行住坐臥に四大菩薩守護あるべき也御冥感とは茲元を云ふ事也、如影随形無●時離の利生誠に以て難き有り御慈悲也父母常念子○母の如くなるべし、太公望は周文王の時出でで武王成王の代迄是れ天下の師範たり、周公且は文王の子武王の弟成王の叔父也、周代八百年卅七八代太公周公等の治国利民の徳也、十二諸候と云ふ事其の頃有り之れ、太公は斉王になり周公の子は●国の王に被る成ら也、彼の両人は文王武王の摂政として扶佐せし故に天下安全長久也き、四皓、綺里季、舟里先生、東●公、夏黄公也、秦の代の可き亡ふを見て漢の王城より南商洛山に入り於て此の山に四十余年を歴たり、漢高祖の后き呂太后の子に恵太子と云ふを退け後の夫人戚夫人と云ふに幸いて如意太子と云ふあり是れを太子に立てんとす、呂太后、陳平張良等に談じて招く四皓を四賢恵太子の宮にあり高祖見て之れを驚いて云く我れ招くに四賢を不す来ら今何ぞ随ひ我が小子に来るや、四賢答て云く陛下心慢して不敬せ老人を太子は謹て敬ふ老を故に来ると、依て之れに恵太子に譲り位を侍臣として奉公すると云ふ義也、此の事七書三注等に委く有り之れ事多き間略す之れを、舟里先生をかくり先生と書きよむは誤り也、つのと云ふ字に非ず、送り状無し別義難多く答え少しと云ふ処日蓮が当て身に大事と遊ばす処は口伝也、此の観心本尊は日蓮が当体義抄躰ぞと云ふ事也、大事と者は唯一大事○於世御出世は末代衆生の本尊と可き成り給ふ為め迄也三代秘法可し思ふ之れを此の大事に付いて難信難解の大事可し習ふ之れを大事の難四度等云云、事と云ふ字能く可し留む心を、当家法門少し宛書き加る也、但し老衰病者亡し前を失す後を御冥慮有り恐れ仍て奉る納れ筆を処也。
  永禄四年 辛 酉三月二日草案功畢んぬ。

  雖も為りと老衰乱中且は為本山の且は為末寺の日我信心の一筋又内外典御引証の処用々計り一言宛抜書す之れを、文段の聞書数多有り之れ、他学の上此抄出可し有る披見、初心の者は可き●見分け間自他門の文段略して之れを法門次第心待計り奉る抜書き也、非れ起請文に者伝授諸本無用也、仍示し書如し件の妙本寺五十四才日我在判。
房州北郡岩井郷於て中塚小屋に書く之れを、末代弟子の為形見の也南無妙法蓮華経。
於て富山門家に本尊七ヶ相承大聖開山唯我与我之の大事直授相承有り一通別して可き有る伝授者也。

於て他門本尊抄に五ヶの文段と云ふは一に出一念三千の名目を二に十界互具一念三千の法門亘情非情に歟の問難、三に明す三千常住所化同躰の己心本尊を、四に明す法花迹本二門弘通説時の傍正を五に明す結要の正付並に所付の相を各下に細科あり又十ヶ文段略す之れを、八ヶ相承と云ふは明疑難二総習三別習四明生身如来宗五習行者躰六明業者成仏七明鏡像円融八明境智冥合三世一念周遍法界云云、委くは彼の家の相承称を可き見る也、外題には相伝抄初の行に第一本門本尊就て之れに為すと八と有つて今の八ヶを載する也是れ一致相伝也、勝劣には三つの文段也、一明す本門総名所摂の理具の一念三千、二に明す、末法相応本門本尊事行観心の納摂南無妙法蓮華経を、三に総め結す以て事理三千を摂して総持の妙法蓮華経に為るを末法下種の正行己上、各細科有り之れ可き見る彼の文段の図を也、今度出国路中祈祷之也敬白。

雖も当家の大事也為に末代の信者善行坊日膳に伝授する也仍て示し書如し件の。
依房州妙本寺写本令英道謄写明治四十年更参校俊師写本等又私加訂正加朱註了。

昭和十年四月十一日                  日亨  判


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