富士宗学要集第三巻

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方便品読誦心地の事

夫れ聖人垂教の意は修行に在り。修行に二有り、所謂正助なり。助行と云ふは方便寿量の両品を読誦し、正行五字の功徳を助顕するなり。
譬へば灰汁の清水を助くるが如く、又塩酢の米目麺を助くるが如し。此の助行の中に亦傍正有り。方便読誦を傍と為す、是れ則ち遠く正行を助くるが故なり。寿量読誦を正と為す、是れ則ち近く正行を顕す故なり。傍正有りと雖も倶に是れ助行なり。正行と云ふとは、但本門の本尊を信じて妙法五字を唱ふるなり。此の正行に亦能所有り。所修は即ち文底秘沈の大法自受用身即一念三千の本尊なり。能修は即ち信心口唱南無妙法蓮華経の五字七字なり。当に知るべし、十方世界微塵の経々、三世の諸仏の諸有の功徳は皆此の本尊に帰せざるはなし。譬へば衆流に入るが如く、百千枝葉の同じく一根に趣くが如し。故に其の功徳甚深無量にして口の宣ぶる所に非ず、心の測る所に非ず。故に此の本尊を信じて妙法を唱る則は、亦其の功徳無量無辺なり。故に祈りとして叶はざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕れざるは無きなり。天台云く此を以て境と為ば、何れの法か収らざらん云云。又云く境既に無量無辺なり、智亦是の如し、凾大蓋大云云。妙楽云く、正助合行、因つて大益を得等云云。

問ふ、凡そ当流の意は一代経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品を以て用ひて所依となす。専ら迹門無得道の旨を談ず、何ぞ亦方便品を読誦して、以て助行となさんや。
答ふ、但是れ寿量品が家の方便品なり。宗祖の所謂予が読む所の迹門とは是れなり。予が読む所の迹門亦両意を含む。一には所破の為め、二には借文の為なり。故に興師云く、一に所破の為とは方便称読の元意は只是れ牒破の一段なり。二に借文の為とは、迹の文証を借りて、本の実相を顕す云云。

今其の相を示さば、文々句々自ら両辺有り、所謂文義なり、文は是れ能詮、義は是れ所詮なり。故に読誦に於て亦両意を成す、是れ則ち所詮の辺に約して所破と為すなり、能詮の辺に約して借文と為すなり。所破の為とは即ち迹門の義を破するなり、借文の為とは迹門の文を借りて本門の義を顕す。且らく唯仏与仏乃能究尽の文の如き此の一文を読むに即ち両意を含む、一に所破の為とは、立正観抄廿八に云く、経に唯仏与仏乃能究尽とは、迹門の仏当分に究竟する辺を説くなり等云云。二に借文の為とは、十章抄卅に云く、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る等云云。一文既に然り余皆准説せよ、両意有りと雖も是れ前後に非ず、是れ格別に非ず、只是れ一法の両義にして、明闇の去来同時なるが如し。豈甚深の妙旨に非ずや。

問ふ、寿量品が家の方便品とは其の相如何。
答ふ、通じて迹門に於て自ら両意有り。一には顕本已前の迹門、是れを体外の迹門と名づく即ち是れ本無今有の法なり譬へば不識天月但観池月の如し。二には顕本已後の迹門、是を体内の迹門と名づく、即ち是れ本有常住の法なり。例せば従本垂迹如月現水の如し。此の二義諸文に散在す云云。今は是れ体内の迹門を読誦する故に寿量品が家の方便品と云ふなり。
問ふ、若し所破借文と云ふ、応に体内の迹門に約すべし。若し体内の迹門は即ち是れ本門なり。豈所破の借文と云ふを得べけんや。
答ふ、所破、借文の両義並びに顕本已後に約するなり。例せば十章抄に止観一部は法花経の開会の上に建立するなり、爾前外典の意には非ず、文をば借れども義をば削り捨るなりと云ふが如し云云。既に開会の上に於ては文をば借れども義をば削り捨ると云云。今亦例して爾かなり。豈分明なるに非ずや。

問ふ、若し体内の迹門は即ち本有常住の法なり、何ぞ其の義を破せんや。
答ふ、仍ほ是れ体内の迹門なり、体内の本門には及ばず。例せば十章抄に仮使ひ開会を悟れる念仏なりとも、仍ほ体内の権なり、体内の実には及ばずと云ふが如し。故に十法界抄卅四に云く、本門顕れ已れば、迹門の仏因則ち本門の仏果なる故に、天月水月倶に本有の法と成り、本迹倶に三世常住と顕るるなり云云。当に知るべし、三世常住の水月は、三世常住の天月に及ばざるなり。故に義をば削り捨るなり。

問ふ、何ぞ顕本の後に其の文を借るや。
答ふ、是れ借るべきを借る謂れなり。故に玄九六十五に云く、諸迹悉く本従り垂る、還つて迹を借りて本を顕す等云云。之を思へ。
問ふ、在々処々に破する所の迹門と、所破の為に読む所の迹門と、正に其の不同如何。
答ふ、在々処々に破する所の迹門は、是れ体外の迹門にして天台過時の迹門なり、若し所破の為に読む所の迹門は是れ体内の迹門にして予が読む所の迹門なり。

問ふ、若し所破の為ならば則ち何ぞ爾前を読まざるや。
答ふ、此の難甚だ非なり、是れ三時の弘経に昧く四重の興廃を弁へざる故なり。謂く天台は像法迹門の導師なり。故に但爾前を破して専ら迹門を弘む。吾祖は末法本門の導師なり。故に迹門を破して専ら本門を弘む。是れ則ち像末適時の破立なり。況んや爾前に於て、更に一念三千の文なし、何ぞ之を借用すべけんや。未だ必ず自余の引用と同ぜざるなり云云。

問ふ、御法則抄に云く、在々処々に迹門を捨つと書きて候事は予が読む所の迹に非ずとは、此の寿量品は聖人の迹門なり。文に迹門在り、義に本門在り等云云。若し此意に拠れば、正しく寿量品を指して、予が読む所の迹門と名づけ何ぞ方便と云ふや。
答ふ、既に本尊抄の未得道教等の文章に就て、迹門を読まずと云云。故に直ちに寿量品を指すに非ず。故に知んぬ御法則の意に謂く、既に寿量品が家の迹門なり。故に迹門を以て寿量品と名づくるなり。例せば産湯記に、寿量品に云く今此三界等と云ふが如し、故に迹門を以て寿量品と名づく、此の寿量品は聖人の迹門等と云ふなり。故に次に文在迹門義在本門と云ふ即ち此の意なり。常に迹中の説なるを以て寿量品を迹と名づくるに同じからざるなり。

問ふ、日辰の論義に当山鎮師の記を引いて云く、日代云く迹門は施迹の分には捨つべからず云云。日道師云く施開廃倶に迹門は捨つべし云云已上。又日尊師に酬る書に云く、或ひは天目等に同じ迹門を読むべからず。或ひは鎌倉方に同じ迹門に得道有り云云。日道一人正義を立て候畧抄天目に同ずとは讃州の日仙なり。鎌倉に同ずとは、即ち日代師なり。此の義如何云云。
問ふ、日尊実録に云く、迹門は衆生法妙、本門は仏法妙、観心は心法妙なり。方便品には心法所具の衆生法妙を説き、寿量品には心法所具の仏法妙を説く、題目は心法の直体なり。此の如き深意を知らず、所破の為に之を読む云云。実録は是れ日大の所迹なり。此の義如何云云。

今更に未解者の為に、要を取りて之を云ふ。且らく唯仏与仏等の一文に如き汎く之を論ずる則は即ち多意を為す。初めに所破の辺に自ら二意を含む。一には体外の迹門の意は今日始成の仏の所証の法なり。在々所々多く此の意に拠る。二には体内の迹門の意は従本垂迹の仏の所証なり、読誦之意正に此に在り。
次に借文の辺に亦二意を含む。一には近く久遠本果の所証の法を顕はすなり、通得引用は多く此の意に搬る。二には遠く久遠名字の所証の法を顕はすなり、読誦の意正しく此に在り云云。

当に知るべし、若し文底の眼を開く則は、此の文は即の是れ久遠名字の本仏の唯仏与仏、乃能究尽なり。爾復当に知るべし、久遠名字の本仏とは即ち是れ、今日の蓮祖聖人の御事なり。故に血脈抄に唯我与我と云ふなり。一文既に然なり。余皆准説せよ。若し此の意を得ば、法華一部の方寸を知るべく、御義口伝は掌中の果の如し云云。秘すべし。秘すべし云云。
問ふ、当門流に於て或ひは十如を読み、或ひは広開長行に至る、其の謂れ如何。
答ふ、既にに是れ一念三千の出処なり。故に但十如を読めば其の義則ち足れり。然りと雖も、略開は正しき開顕に非ず、故に一念三千猶未だ分明ならず、故に仍ほ広開に至るなり。

記三下五十六に云く、今諸仏及び釈迦を歎じて下の五仏の弄引と為す文。又第七六十九ヲに、略開は但是れ動執生疑にして正しい開顕に非ず文。宗印北峯に云く、三千は是れ不思議の妙境なり。若し開権顕実に非ずんば、豈能く互具互融せんや。
開目抄に云く、法華経の方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千の本懐を宣れども、時鳥の初音を寝耳に聞くが如く、月の山端に出たれども薄雲の覆ふ如く幽かなり等云云。故に知んぬ、若し広開に至らざれば其の義仍未だ分明ならざるなり。大覚抄十八に云く、常の御所作には、方便品の長行と、寿量品の長行と習ひ読み給ひ候へ云云。
是れ広開の長行を指す。是れ則ち広開の偈の長篇に望み、通じて其の前を以て皆長行と名づくるなり、意に云く、十如自我行偈は前に習ひ読み給ひぬ。方便品長行をも、寿量品長行をも習ひ読み給ひ候へ等云云。
方便品読誦の心地、斯くの如し、秘すべし、秘すべし云云。

維時正徳六丙申二月廿二日
日永上人御一周忌報恩謝
徳の為に之を講じ畢んぬ。
併せて大衆及び所化等の
懇望に由るが故也。
上野学頭
大弍阿闍梨日寛 花押
御正本美濃十行六丁に依り之を謹写し了んぬ。
大正七年五月十四日 雪 仙日亨 花押

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