富士宗学要集第三巻

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール

蓮祖は即ち是れ釈尊の事

撰時抄下卅に云く、此の三の大事は日蓮が申したるには非ず。只偏に釈迦如来の御神の我身に入り替らせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法花経の一念三千と申す大事の法門は是れなり。
乙御前抄十四廿に云く、鳩摩羅●三蔵と申せし人は、木像の釈迦を負はせ給ひて候ひしぞかし。日蓮が頭には、大覚世尊かはらせ給ひぬ。昔と今と一同なり文。寺泊抄十七九に云く、過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は未来の不軽品なるべし。其の時は日蓮は不軽菩薩となるべし文。佐渡御抄十七廿五に云く、日蓮は過去の不軽の如く、当世の諸人は彼の軽毀の四衆の如し。人は替れども同じく是れ一なり。父母を殺すは人異なれども同じく無間地獄に落つ。いかなれば不軽の因を行ずる日蓮一人釈迦仏とならざるべき、又彼の諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや文。経に云く、不軽菩薩豈異人ならんや。我身是なり。同地獄抄十九四十三に一代の肝心○不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしは何なる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐、人の振舞にて候ひけるぞ文。釈尊出世の本懐は事の一念三千なり、故に人の振舞と云ふなり。

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール