富士宗学要集第三巻

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日蓮の二字の事(日健抄八初を見合すべし)

此に離合有り、初めに離して之を明す。日蓮の両字に各三義有り。初めに日と言ふは、第一に所生の国を日本と名づくる故に。謂く今此三界は皆是れ蓮祖聖人所領の土なり。中に於て日本国は別して最初所生の本国なり。故に処を以て人に名づけ、日文字を名乗り給ふなり。古今其の例甚だ多し云云。

問ふ、惣じて三界は皆釈尊の国土なり。別して日本国は日の神の御国なり。何ぞ蓮祖所領の土と云ふや。
答ふ、今寿量文底の意に拠るに、蓮祖は即ち是れ本因妙の教主釈尊なり。外十三廿に云く、過去久遠塵点の当初、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法花経の一念三千常住此説法の振舞なり文。伝教云く、一念三千即自受用身文我等衆生とは通を以て別を顕すなり。蓮祖は則ち一念三千の御主なるが故なり。日神は亦是れ本因妙の教主釈尊なり。本因妙の教主釈尊とは即ち是れ久遠元初の自受用報身、妙法蓮華経の五字なり。故に妙法、釈尊、蓮祖、天照大神は一体の異名なり。故に日種、日神、日蓮と云ふなり。法蓮抄に云く、一々の文字反じて日輪と成る、日輪反じて釈迦如来と成る等云云。廿八十五に云く、日天子と申すは眼前の利生なり。教主釈尊に御座ずんば争か是の如くあらたなる事候べき。一乗妙法の力にあらずんば争か眼前の奇異をば現ずべき等云云。
撰時抄下十七に云く、日本国と申すは天照太神の日天にて御座す故なり文。外新池抄四十九に云く、又某の恋しくおはさん時は、日々に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて候文。又廿巻三。

第二に所弘の法を日天に譬ふる故に。経に云く、又如日天子、能除諸闇、此経亦復如是、能破一切不善之闇文。此経等とは、寿量の妙法なり。故に宗祖云く、爾前は星の如く、迹門は月の如く、本門は日の如し云云。蓮祖既に寿量の妙法を弘めたまふ。故に所を以て能に名づけて日文字を名乗り給ふなり。
第三に五点即種子の法なるが故に。謂く日文字は是れ五点具足なり。五点は即ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字は即ち成仏の種子なり。故に宗祖云く、三世十万の諸仏は必ず妙法蓮華経の五字を以て種と為して仏に成り給へり云云。其外云云。故に法を以て、人に名けて日文字を名乗り給ふなり。
次に蓮を示すとは。

第一に淤泥不染の徳。蓮花は淤泥の中に生ずれども、而も汚泥に染まず。蓮祖亦爾なり、謗法の国に生るれども、而も謗法の汚れに染まず。故に経に本化の徳を説いて云く、不染世間法、如蓮花在水等云云。
第二に因果同時の徳。当体義抄に云く、因果倶時の不思議の一法あり、之を名けて妙法蓮花と為す。之を修行する者は、仏因仏果同時に之を得るなり文。蓮祖は之を修行して、已に之を証得し玉ふ故なり。
第三に種子不失の徳。下山抄に云く、久遠五百塵点劫より已来一向に本門寿量の肝心を修行し習ひ給へる上行菩薩等云云本門寿量の肝心とは、即ち文底種子の妙法蓮花経なり。塵点已来一向に之を修行し玉ふ、豈種子不失の徳に非ずや。次に合して之を明すとは、亦三義有り。

第一に御母夢中の霊瑞に拠る。託胎の御夢に云く、叡山の頂きに腰をかけ、近江の湖水を以て手を洗ふて、冨士山より日輪の出で給ふを懐き奉ると思ふて、打ち驚きて後に月水留まる云云。出胎の御夢に云く、富士山の頂きに登りて、十万を見たまふに明なること掌の中を見るが如し。梵天四王等来下して云く、本地自受用身垂上行菩薩の御誕生唯今り、乃至竜王即時に青蓮華一本荷ひ来りて、其の蓮より清水を出し御身に浴す。乃至天竜等白蓮を各々手に捧げて日に向つて唱へて云く、今此三界、皆是我有等云云畧抄。此に三意有り。一に託胎出胎倶に富士山を見玉ふ、富士は郡の名、実には、大日蓮花山と名くる故に。二には託胎の時日天子を懐くと見、出胎の時青蓮花より清水を出すと見玉ふ故に。三には天竜等各白蓮を手に捧げ日に向って唱へて今此三界と云ふ故に。

第二に如日月光明の文に拠る。経に本化の徳を説いて云く、如日月光明等。産湯記に云く、日は即ち日神、昼なり。蓮は即ち月神、夜なり。月は水を緑となし、蓮は水従り生ずるが故なり文。千日尼抄廿三に云く、日蓮を恋しく思し召さば日月を拝ませ給へ、日蓮は何となく日月に影を移す身なり等云云。応に知るべし、日月能く諸の幽冥を除くなり。

第三に人法依正一体に依る。御法則に云く、日文字は即ち是れ妙法蓮花経の五字なり。横竪の三点を以て相伝するなり。妙は幽玄深奥竪点なり。法は遠統該括横広なり。蓮は妙の竪に譬ふ。花は法の横に譬ふ。経は色経風大の故に亦是れ横に遍するなり。蓮は即ち蓮花の座なり。故に日蓮とは、妙法蓮花経の五字、蓮花の座に坐したまふ形なり取意。応に知るべし、人法一体、依正不二なり。即ち是れ事の一念三千妙法蓮花経の五字、一切衆生成仏の種子なり。

応に知るべし、分の字に各三義有り。宜しく主師親三徳に配すべきなり。合の字に亦是れ三義有り。亦応に主師親に配すべし。
問ふ、誰人が日蓮の名を立つるや。
答ふ、近く之を論ずる則は、自ら日蓮と号するなり。遠く其の本を尋ぬれば釈尊の勅号なり。其の証如何。謂く経に本化の徳を説いて云く、如日月光明、能除諸幽冥云云。又云く、不染世間法、如蓮花在水云云。
録外第二四十三明かなる事日月にすぎんや、浄き事蓮華にまさるべしや。法花経は日月と蓮花となり。故に妙法蓮花と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば、利生の月必ず哀れみを垂れ守護したまふべし文。
此等の文意は本化の菩薩末法に出現して応に日蓮と号すべし云云。

此に両意有り。一には両処の文各上の一字を取り日蓮と号するなり、所謂日月蓮花の上の字なり。二には両処の文各日蓮の義有り。謂く日月は即ち是れ日蓮なり。日は即ち文の如し、月は水を緑となし蓮は水より生ずる故なり。蓮花は亦是れ日蓮なり。謂く蓮は日を緑となし日に随つて開廻する故なり。●七五十四に云く、日に随つて開き廻るとは、白蓮青蓮並びに日に因つて開く文。玄六八に云く、大論に云く、蓮花の水に在りて、日光を得ざるには、翳死疑はざるがごとし云云。故に知んぬ、蓮は日を緑となす、故に蓮花即日蓮なり。亦復当に知るべし、世尊童名は日種太子。我祖の童名は善日丸。世尊亦是れ恵日大聖尊、我祖即ち是れ日蓮大聖人。此国の御主は天照太神日の神なり。国亦日本なり。富士は大日蓮花山なり。自然の名号凡の測る所に非ず。本門戒壇盖んぞ此の処に立てざらんや。又忠抄往見。

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