富士宗学要集第三巻

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蓮祖義立の六即

今一代を以て且らく六即に配するに、宗旨建立已前は即ち是れ理即なり。宗旨建立已後、佐州已前は即ち是れ中間の四即なり。佐渡已後は正に是れ究竟即なり。

第一 理即
南条抄廿二廿八に云く、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり等云云。
天台止観の一に云く、理即とは一念の心即ち如来蔵の理、如の故に即空、蔵の故に即仮、理の故に即中等云云。彼は一念の心の中に三諦の妙理を具足す。此は肉団の胸中に一大事の秘法を隠し持てり。
既に秘し隠し持つと云ふ、故に事相に未だ之を顕はさず。故に是れ理即なり。
問ふ、是れ身延山の御抄なり。何ぞ宗旨建立已前と云はんや。
答ふ、後を以て、前を知る故也。

第二 名字祖即
蓮師御年卅二歳、人王八十八代後深草院御宇、建長五年に一切法は皆本門の本尊妙法五字なりと通達し解了して、始めて南無妙法蓮華経と唱ふ。是れ即ち名字即なり。
天台云く、名字の中に於て、通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る等云云。
仏法即妙法なり。

第三 観行即
身延抄十八十一に云く、法花経第七に云く、於我滅度後、応受持斯経、是人於仏道、決定無有疑云云。此の文こそ、よによに憑も敷く候へ、此等の様を思ひつづけて、観念の床の上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の音に目をさまし、我が身の内に三諦即一、三観一心の月曇り無く澄みけるを無明深重の雲引き覆ひつゝ、昔より今に至るまで生死の九界に輪ぐる事、此の砌にしられつゝ、自らかくぞ思ひ連ぬる、立渡る身のうき雲も晴ぬべし、たえぬ鷲の山風云云。

既に観念床上と云ふ、故に観行即に当るなり。一大事の秘法を肉団の胸中に隠し持つ、故に我身内と云ふ。秘法は即ち是れ本地難思の境智の妙法なり。故に三諦即一、三観一心と云ふなり。
妙楽云く、一心三諦は境、一心三観は智云云。境智冥合其の躰是れ一なり。譬へば月と光と和合して、体一なるが如し、故に月曇り無く澄むと云ふなり。無始の罪障は浮雲の如く、妙法の力用は山風の如し。本地難思の境智の妙法を観じ、久遠名字の妙法を唱ふれば則ち無始の罪障忽ちに消滅す、故に晴ぬべしと云云。

たえぬは即ち妙の字なり。御法は是れ法の字なり。故にたえぬ御法は即ち是れ妙法なり。天台云く、心観明了、理恵相伝云い。理恵相応は即ち是れ境智冥合なり。或たえぬは不絶なり画讃云云。

第四 相似即
佐渡抄十七十九に云く、日蓮は聖人にはあらざれども法花経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法を兼ねて知るによりて註し置く事是れ違ふべからず。現世に云ひ置く言のたがはざるを以て後生の疑をなすべからず文。
意に云く、日蓮は聖人に非ずして、聖人に似たる故に如と云ふなり。既に現世の御言違はず、此を以て応に後生の決定を知るべし。故に後生の疑をなすべからずと云ふなり。
開目抄下卅七に云く、無眼の者○一分の仏眼を得たる者此を知るべし文。

第五 分真即
問註抄卅一十六に云く、日蓮計りこそ世間出世に正直の者にて候へ。其の故は故最明寺入道殿に向つて禅宗は天魔の所為なるべし、後に勘文を以て是を告げしらしむ。日本国の人は皆無間に落つべし、是程ありし事を正直に申す者は先代にも有りがたくこそ候へ。是を以て推量あるべし。其の外の小事曲ぐべしや。
又聖人は言をかざらずと申す。又未だ顕れざる後を知るを聖人と申す、日蓮は聖人の一分に当れり文。
既に聖人の一分と云ふ。故に分真即なり。最明寺入道は別して禅法を敬ふ故なり。

第六 究竟即
聖人知三世抄廿八九に云く、日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。我が弟子仰いで之を見よ、是れ偏へに日蓮が尊貴なるに非ず、法花経の御力の殊勝なるに依るなり。身を挙ぐれば慢ずと想ふも、身を下さば経を蔑る。松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し。幸なる哉、憑しき哉文。
第一は即ち是れ最極の義なり。例せば妙楽の一部最極理豈非第一耶と云ふが如し。最極は即ち是れ究竟の異名なり。故に知んぬ、第一の聖人とは即ち究竟即を顕すなり。
太田入道抄廿三廿七に云く、三千年に一度花開ける優曇花をば転輪聖王此を見る、究竟円満の仏にならざらんより外は法花経の御敵を見しらざらんなり、一乗の敵を夢の如く勘へ出で候文。

開目抄下廿七に云く、日蓮といひし者は、去る文永八年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂●佐渡の国に至りて、返る年の二月雪中にしるして有縁の弟子へをくれば、をそろしくて、をそろしからず文。開迹顕本云云。録外五二より七自受用身とは、即無作三身なり云云。御義下九。

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