本 因 妙 口 決

富士宗学要集第二巻

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本 因 妙 口 決

                               日順之を記す
 
仰に云はく・大唐の年号貞元二十四(太歳乙酉)五月三日・伝教大師御年四十二にして仏隴寺の和尚に値ひ奉る相承少少之れを注す。

玄義七面七重の决、第一に依名判義の一面とは・伝教云はく一に依名判義の一面○宗とは所作の究竟なり受持本因の所作に由つて口唱本果の究竟を得、用とは証体・本因本果の上の功能徳行なり、教とは誡むるを義と為す・誡とは本の為めの迹なれば迹は即ち有名無実・無得道なるを実相の名題は本迹に同じければ・本迹一致と思惟すべき事を大に誡めんが為めなり云云。高祖云はく天台伝教の御弘通は偏に理の上の法相・迹化の付嘱・像法の理位・観行五品の教主なれば迹を表と為して衆を救ひ本を裏に用ふ云云。

私に云はく・玄文五重の决とは名は題目・体は宰主を義と為す・実相修行の重なり、立つる所の義とは本の為めの迹なれば迹門無得道なるに本迹一致と云ふ邪義を教誡するを義と為すなりと釈し給ふ。

第二に仏意機情の一面とは、天台宗は仏意を本と為し仏意は観行相似を本と為す、当宗は機情を本と為し機情は理即名字を本と為す云云、台家に云ふ所の仏意は体用を離れず、機情とは大通結縁の機の為めに一代を説く者是なり、是れ当家の教相なり云云。

第三に四重浅深の一面とは、尋ねて云はく伝教大師御相承の中に弘め残し給ふ法門は五重玄義に各四重あり・其の中には何ぞや、答ふ先づ名の四重とは一には名体無常・二には体実名仮・三には名体倶実・四には名体不思議是れなり、此の中には第四名体不思議の重は後五百歳高祖の御門葉・我等が依怙と見へたり、其の故は題目の五字に体実不思議の万法を摂し仏意不可得の一如を絶する奇特の大法秘奥の深理なり、爰を以つて経に云はく如来秘密云云、天台云はく此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵と云云、妙楽云はく功を推すに在ること有る故に本地と云ふ云云、伝教云はく何ぞ妙名に観心無しと云ふべけんや云云、御書に云はく名は必ず体にいたる徳あり云云、観心直達の南無妙法蓮華経・雖脱在現具謄本種(ぐとうほんしゅ)の正法なり 、第四に体の四重とは一には三謗隔歴・二には理性円融・三には三千本有・四には自性不思議なり、此の中第四自性不思議の重に内証・外用の二の寿量品之れ有る可し、外用は文上なれば増損法身の従因至果の迹門・応仏勝進の分域なり、既に自性不思議と云ふ、故に内証の寿量品・事行の一念三千・末法当時の久成の正法なるべし。

次に宗の四重とは、一には因果異性・二には因果同性・三には因果並常・四には因果一念なり、是れも第四の因果同時の本極法身の妙理・依正並常の無作本有の法体・末法純円の正法・結要五字の当宗なり。

次に用の四重とは、一には神通変化・二には普現色身・三には無作常住・四には一心の化用なり、第三の無作常住は本門寿量の本仏本有として十方三世の無窮利益常の如し云云、因に本化菩薩とは本門の授記なり、従果向因の入重玄門一相・利他の時・冥顕の両益を施すなり、然れば普賢文殊等の迹化皆是れ上行菩薩の垂迹なりと意得べきなり。

次に教の四重とは、一には伹顕隔理・二には教即実理・三には自性会中・四には一心法界なり、第四の一心法界の教とは上行所得の題目・是好良薬・教主は文底の自受用身の真実の本門・久遠一念の南無妙法蓮華経なり天台伝教の弘め残し給ふ秘法なり、四五二十重の法門口外すべからず云云。

第四に八重浅深の一面・数は本帖の如し、右此の八重は五重玄義共に同名なり、只かはる処は名体永別の名乃至自性己己の名と名の八重を云ふなり、又体は八重の名をば一に名体永別の体乃至自性己己の体と云ふなり、乃至教の八重とは一に名体永別の教乃至八に自性己己の教と云ふなり、五重玄義に各八重づつ之れ有り。

第五還住当文の一面とは、右当文に住せば四重八重の浅深を得意すれば本迹勝劣治定なり。

第六に但入己心の一面とは、右玄義第一の大法東漸より第十巻の教相まで章章の生起・文文の異り遥かに之れ有り、此の旨を悉く閣いて理の勝劣に入れて久成の妙法と信ぜよと云ふ事なり、伝教云はく始め大法東漸より第十判教に至る文の生起を閣いて一向心理の勝劣に入れて正意を成すべし、謂はく大法とは即己心の異名なり、高祖云はく釈の意は文義の広博に離れて首題の理を専らに釈し玉ふなり云云。

第七に出離生死の一面とは、右出離生死とは今日の教主釈尊の寿量品を迹門と為し・久成の寿量品を本と為す、此の本迹の寿量品とはいかやうに意得べきやと云ふ時に・天台妙楽の釈に約身約位と釈し給ふは久成の名字即の我等が修業は内証の寿量品なれば本なり、是則文底の法門・自受用報身真実の所説・久遠一念の南無妙法蓮華経是れなり、是れを本門と云ふなり、さて文上の応仏迹機の本已有善の衆に対して説かせ給ふ寿量品は迹中の本の寿量品なれば迹門なりと意得べし、此の出離生死の重を肝心と為す者なり玄義畢んぬ。

文句の七面决とは、一には依名の一面、二には感応の一面○ 七に入己心の一面・悉く以つて前の如く意得べし、之れに付いて智威大師は爾前迹門に於いて三十重の勝劣を灌頂大師より相伝せさせ給ふ、伝教大師の七面口决に之れ有り。摩訶止観の一部に十重顕観を立つ・十重顕観とは一には待教立観○十住観用教なり。

尋ねて云はく第一の待教顕観とは其の姿如何、答ふ待教顕観とは待とは待対の義なり・教とは爾前迹門本門の三教なり、立観とは爾前迹門本門の三教を破して不思議実理の観を立つ、不思議実理の観とは二つ之れ有り、迹門の妙法蓮華経と本門の妙法蓮華経となり、先づ迹門の妙法蓮華経とは脱益の法華経・本迹共に迹なり・経に云はく諸法実相乃至本末究竟等云云、天台云はく円頓者初縁実相云云天真独朗の理具の一念三千なり、次に本門の妙法蓮華経とは下種の法華経、唯本独一の本門なり経に云はく如来秘密・釈に云はく仏三世に於いて等しく三身有り諸教の中に於いて之れを秘して伝へず云云、天真独朗の事行一念三千を不思議実理の妙観と申すなり。

尋ねて云はく妙法の五字に二つ之れ有り、又天真独朗に二つ之れ有り、又一念三千に二つ之れ有り、又不思議実理と云ふ名も二つ之れ有り得意如何、答へて云はく日蓮宗の大事是れなり、汝四の不審なり先づ道理を案ずべし、天台宗の外に日蓮宗と立つ豈各別ならざらんや、之れに付いて名同義異の相伝とて之れ有り、初に妙法五字の二とは迹門台家の題目は不変真如の理性に於いて之れを立つるなり、天台云はく妙は不可思議・言語道断・心行所滅・法は十界十如権実の二法なり等云云、高祖立正観抄にの玉はく妙とは不可思議○天台の己証は天台御思慮の及ぶ所の法門なり今此の妙法は諸仏の師なり、経文の如くんば久遠実成妙覚極果の極仏の境界にして爾前迹門諸仏菩薩の境界に非ず等云云、伝教云はく三世諸仏未だ手を懸けざる所と云云、三大秘法抄に云はく題目に二意有り云云、能く能く之れを習ふべし。

次に天真独朗に二とは、台家には外用の止観・当家には内証の止観之れ有り能く能く習ふべし云云、三に一念三千に二とは、迹門は理の一念三千なり三千のうち生陰の二千は之れ有り国土の一千は闕げたり、本門より与へて之れを談ずる事は後五百歳に事の一念三千の弘まるべき先序たる間・霊山の聴衆として之れを釈し給ふなり、是れ即ち自解仏乗の故にて御座すなり、四に不思議実理と云ふにも二つ之れ有り是れ又内証外用の二途を以つて意得べし云云。

尋ねて云はく第二に廃教立観とは如何、答へて云はく廃教とは爾前迹門の執情を捨て本門の首題を行する事・日蓮宗の本意是れなり。

尋ねて云はく第三に開教顕観とは如何、答ふ是れ観行理位の三千を開する事は名字事行の一念三千を顕はさんが為めなり、天台伝教の御出世は高祖御弘通の先序の為めなり、之れに依つて開教顕観を釈す云云、一切諸法本是れ仏法にして三諦の理を具するを名づけて仏法と為す云何ぞ教を除かん云云、是れ即ち像法の修行は時節の然らしむる故なり、釈尊の御慈悲、天台の御内証偏に上行出世の為めの本意なり、其の故は三千三観は所開の法・妙法五字は能開の深理なり、所開の迹門は能開の本門に帰すれば迹門は本門の為めなり。

尋ねて云はく第四に会教顕観とは如何、答ふ会教顕観とは法華に於いて二種有り所以に能会所会を立つて教相の法華を捨て皆入今経常住之命の観心の法華を信ぜよと云ふ意なり、故に教相の法華と観心の法華との二種之れ有るべし云云。

尋ねて云はく第五に住不思議顕観とは如何、答ふ住不思議顕観とは首題の五字を不思議と云ふ観とは正像二千年の間は理行なり自行なり、釈に云はく理は造作に非ず故に天真と曰ふ等云云、有智無智を嫌はず円頓者初縁実相等と云云、聖一人南無妙法蓮華経と唱へて無量の衆を済ひ給ふ、外用の止観の面は本迹一致なる事此くの如きなり、さて末法に入れば本迹勝劣の不思議観是れ即ち事行の南無妙法蓮華経の修行是れなり、言ふ所の本迹は熟脱の法華は本迹二門共に迹と為し久遠名字の本門を本と為す、有智無智を嫌はず南無妙法蓮華経と唱へ懸くる是れを高祖の本迹とは云ふなり、去る間・竜樹天親天台伝教は内鍳冷然・外適時宜の修行の日は本迹一致なり、外適時宜とは権実相対の時なる故なり、理位の観行を以つて末法の時を待つ者なり、天台云はく但だ当時大利益を獲るのみに非ず後五百歳も遠く妙道に沾はん文、故に正像二千の大聖は内証は本迹勝劣・外用は本迹一致と立て玉ふ、是れ即ち中為経体の体の三章を付嘱せられ給ふ故なり、妄授余人の御身・観音薬王等の迹化付嘱は近令付嘱とて要の外の入文広畧の付嘱・流通の還迹・嘱累品の付嘱なり、今我が大師は塔中の付嘱なり、何ぞ末法に入りて時機相応しながら理解を用ひて事の大行を修せざらんや、高祖云はく予が所存は内証外用共に本迹勝劣なり、本迹一致に着して修行せば本門の付嘱を失ふ物怪なり、本迹不同は処処に之れを書す然りと雖ども宿習の拙き者本迹に迷倒するか、本迹勝劣を知らざる者は未来の悪道最も不便なり云云(此の下を見るべし)、而るに本迹雖殊不意議一と云ふ故に仏意に約すれば一致・機情に約すれば勝劣と云へる事は伝教等の消釈分明なり、既に迹化の弘経・像法の時分なる故に権実相対の時なり機なり、法華経を実経と取り定むる時は一経三段文の正意と云へる専ら本迹分別之れ無し、是れ則ち時も来らず付嘱も無く機も無く本迹を分別して何の益か有らんや、仏意に約する時は本門実理の不思議一計り肝心と思食して後五百歳の時と差し定めて上行不思議の付嘱を仏の内証に思食す故に本迹は殊なりと雖ども不思議一と釈し給ふなり、而るに本迹二法と仏の御口より取り出し給ふ体外の本迹を一致と云ふは大なる誤なり、且つは天台伝教の御相承に背き且つは正像二時に弘め残し給ふ秘密の深法を知らず、外用の本迹に執して内証の寿量品を習はざる事・啻に宗旨に暗きのみに非ず偏に堕獄の根源は此の一段なり、天台伝教等は教観不思議・天然本性の処に独一法界の妙観を立つ是れを不思議の本迹勝劣と云ふなり、此の重をば像法迹化の衆は弘め残して後五百歳に譲り給ふ正法なるを何ぞ体外の迹門・熟脱の法華に例同せん謗法の至りなり。

第六に住教顕観・煩悩即菩提、第七に住教非観・法性寂然、第八に覆教顕観・名字判教、第九に住教用観・不思議一、第十に住観用教・以顕妙円文、伝教大師の御相承之れ有り此れ等を以つて台家等家の二流を知るべし云云、所詮此の如き大事を知らざるが故に機情に約すれば本迹に於いて久近の異あり、是れ一応の浅義なり内証に約して之れを論ずれば勝劣有るべからず、再往の深義は不思議一なりと云云此の義大なる誤なり、天台妙楽伝教等の残し玉ふ所の秘密・観心の直達・真実の妙法は唯寿量品に限る故に不思議一と云ふ、有名無実・本無今有の迹門を交ふべからざるなり、迹門の妙法蓮華経の名号は本門に似たりと雖ども義理天地を隔て成仏又水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる故に不思議一と釈し給ふなり、委細は血脈の如し能く能く之れを見奉るべし、爰を以て高祖御遺告の血脈の結文に云はく末学等疑網を残すこと勿れ日蓮・霊山会上多宝塔中に於いて親たり釈尊より直授し奉る秘法なり甚深甚深云云。

摩訶止観七面口决、第一に依名判義・付文元意・寂照一相・教行証・六九二識・絶諸思量・出離生死の一面已上。

尋ねて云はく止観に於いて天台の止観と高祖の止観とは何か様に意得すべきや、答ふ天台の止観とは迹門の内証・高祖の止観とは本門の止観各別なるべし能く能く之れを習ふべきものなり、問ふて云はく天台止観の至極如何、答へて云はく天台迹門の止観とは無念の止観とて不思議不可説の重なり、是を以つて伝教大師云はく一切諸法・従本以来・不生不滅・性相凝然なり釈迦閇口・身子絶言と云云、問ふて云はく高祖本門の止観とは如何、答ふ高祖本門の止観とは本門終窮の極説は本未有善・理即の凡人に下す所の種子は妙法の言説なり、故に文に云はく迹門は不思議不可説・本門は不思議可説と云へる文是れなり。

尋ねて云はく三大部の玄文止に於いて一同十異と云ふ事如何、答ふ伝教大師仏隴寺の御相伝の深法是れなり所以に本迹同異此条なり、一同とは迹門の妙法蓮華経も名体宗用教なり、本門の妙法蓮華経も名体宗用教なる故に名一なれば一同と云ふなり、されども義に於いて不同なる故に異と云ふなり、同名異体と云へる是れなり、云ふ所の異の重に十重之れあり故に一同十異と云ふなり。

尋ねて云はく一同上の如し十異は如何、答へて云はく十異とは一に名同義異とは実相の妙理同しと雖ども其の義各別なりと云云、二に所依異とは台家は方便品を所依とし当家は寿量品を所依と為す所依異なり、三に観心異とは彼れは初三観三千を観心と為し此れは久成の妙理なり、四に傍正異とは彼れは三観三千を正と為し妙法を傍と為す此れは法華題目を宗旨の正と為す、五に用教異とは彼れは一部読誦を詮と為し此れは一句肝心の教を正と為すなり、六に対機異とは彼れは本已有善の機なり此れは本未有善の機なり、七に顕本理異とは彼れは事麁の顕本・此れは本極法身の顕本なり、八に修行異とは彼れは迹門の修行・此れは本門の修行なり、九に相承異とは彼れは迹門の相承・此れは本門の相承なり、十に元旨の異とは元旨とは宗旨なり彼れは熟脱の元旨・此れは下種の元旨なり。

尋ねて云はく玄文止の三大部に於いて四同六異と云ふ相伝・仏隴寺の和尚より伝教御相伝之れ有り其の姿如何、答ふ、四同とは一に名同・二に義同・三に所依同・四に所顕同なり、名同は上の如し、義同とは無明を断尽する事同しきなり、所依同とは法華経に依る事之れ同じ、所顕同とは元品の法性を顕本同と云ふなり、六異とは釈異なりと云ふは彼れは中為経体の釈を正と為し是れは一経中本門為主とて題目を正と為す釈異なり、大綱異・彼れは頓等は是れ判教の大綱・是れは如是我聞の上の題目を大網と為すなり、網目異とは彼れは蔵等は是れ一家釈義の網目・是れは法華経の如是我聞より作礼而去に至るを網目と云ふなり、本末異とは彼れは文の上の本末の三益・此れは文底の本末の種子と云云、観心異とは彼れは三千三観・此れは題目なり、教内外観異とは法華の事面は熟脱の上の観なり、釈に云はく迹門正宗既に開会の観と云ふなり、是れは仏於三世等有三身・於諸教中秘之不伝の正観なり、自行化他異とは彼れは理位の観行の自行・化他なれば従因至果するなり・此れは久遠名字の修行・従果向因の自行化他なり、此くの如く名同義異の本迹観心・始終本末共に修行も覚道も時機も感応も各別にして勝劣なりと云云。

尋ねて云はく一同十異・四同六異の下・重ねて二十四番の勝劣之れ有りと云へり・一一聴聞せんと欲す其の姿如何、答ふ高祖最後御遺告の血脈・殊に富士御門流の奥義なる故・右詮ずる所紙面に恐れある重をば之れを畧す、浅義の分を載する事之れ多し、二十四番勝劣あらはるる時は台家当家早く知り安き故に・高祖の高意手に取り安くして軽易の思あらんか斟酌之れ有り、然りと雖ども所望浅からず聞え候の間・少少之れを示すべし。

尋ねて云はく本迹勝劣に二十四番結要の决之れ有り。

第一に彼の本門は我が迹門なりと書す高祖の金言如何、答へて云はく法華一部を前十四品為迹門・後十四品為本門と云へる重は天台の本迹なり、所以に六重本迹の中に第六已今本迹是れなり、此の本迹二十八品は二十八品共に迹門なりと仰せらるる御筆なり、高祖の本迹とは題目を本と為し人文を迹とする故なり、天台宗は迹門の中にて本迹を分くる故に本門とは云へども唯迹門なり、是れを迹中之本名為本門と釈するなり。

尋ねて云はく・第二に彼の勝は此の劣と書す心如何、答ふ彼の勝とは迹門は初住・本門は二住已上と云云、彼は述機の増進なる故に本門とは云へども高祖所立の唯本に及ばざる故に爾か書するなり。

尋ねて云はく・第三に彼の深義は予が浅義と云へり是れは意得易き事なれば之れを畧す・能く能く本帖を見奉るべき者なり(得意無き為め義に云く彼の深義は予か浅義とは彼は迹門深義・従浅至深の深なり、此は本門従果向因・因分の摂属なり。

尋ねて云はく・第四に彼の深理は此の浅理と云ふ心は如何、答ふ彼の深理は此の浅理とは彼の法性の理は迹門当分の理なる故に本門究竟の極理に及ばずと云ふ事なり。

尋ねて云はく・第五に彼の極位は此の浅位と云ふ心は如何、答ふ彼の極位とは理位観行相似と修し昇りて至る所の究竟位は久遠名字の位に及ばずと云ふ事なり。

尋ねて云はく・第六に彼の極果は此の初心と書く心如何、答ふ彼の極果とは妙覚なり・応仏昇進の極果なる故に本極法身本有常住の機の初心に及ばずと云ふ事なり。

尋ねて云はく・第七に彼の観心は此の教相と書す心如何、答ふ彼の観心は三千三観なり・此分の法門は日蓮宗の教相と云ふ事なり。
尋ねて云はく・第八に彼れは台星国の出生・此れは日本国の出生とは三光天子の中には日宮天子勝れたり、是の故に一閻浮提の中国・中央の日本国は本門の導師出生し給ふべき国なり、彼の天台山は星の国なり星は日の眷属なり・之れに依つて天台大師は台星国に出生して本門の序文迹門を弘通し給ふなり、高祖聖人は、日本国に出現して久遠本因の妙行を修し給ふなり。

尋ねて云はく・第九に彼れは薬王・此れは上行と書すると、

第十に彼は解了の機を利し此れは愚悪の機を益すと書すと両意如何、答ふ彼れは迹化の上百薬王菩薩・天台と顕はれ給ふ・是れは上行菩薩・日蓮宗を建立し給ふ事なり、次に彼れは解了の機を利す迹門能弘の導師・観行即に居して通達解了名字の機を利する事なり、此れは愚悪の機を益すとは高祖は名字即に居して理即の凡人を利益し玉ふ事なり。

尋ねて云はく・第十一に彼の弘通は台星所居の高嶺なり、此の弘経は日王能住の高峯なりと書く心如何、答ふ彼の弘通は台星所居の高嶺とは天台大師・漢土の天台山に於いて弘め給ふ彼の山の名を取つて天台大師と云ふなり、此れは弘経日王能住の高峯とは富山をば日蓮山と云ふなり、彼の山に於いて本門寺を建立すべき故に日蓮宗を立て給ふ事なり、彼は迹門の本山是れは本門の本寺疑ひ無き者なり、是れは深秘の法門なり之れに付て多くの秘伝之れ有り習ふべし。

尋ねて云はく・第十二に彼れは上機に教へ此れは下機に訓ふと書す意如何、答ふ彼れは上機に教ふとは彼れは像法上代の上根上機なり・此れは下機に訓ふとは末法下愚の下根下機なり。

尋ねて云はく・第十三に彼れは一部を以つて本尊と為し・此れは七字を以つて本尊と為すと書す意如何、答ふ天台宗は一部を以つて本尊と為す是れ即ち広畧付嘱の故なり、此れは七字を以つて本尊と為すは高祖の付嘱は七字に局る故なり、本迹の付嘱各別なり、彼れは台家・此れは当家云云。

尋ねて云はく・第十四に彼れは相待開会を以つて表と為し・此れは絶待開会を以つて表と為すと書す心如何、答ふ彼れは相待開会を以つて表と為すとは四教五時・三諦三観の所談併ら相待開会なり、此れは相待開会の中・能開所開此れ有り所開の方は相待・能開の辺は絶待なり、是れは共に迹門の中の相対絶対なり、相絶之れ有りと雖ども相対を面と為す故に、妙楽の釈に云はく迹門の正宗既に開会と云ふ云云、此は絶待開会を以つて表と為すとは・妙楽云はく本門無教即教判に従はず云云、本門は果頭の開顕の故に教相の沙汰之れ無し、然りと雖ども本門に於いて相待絶待を分別する時は事成顕本の上の相待妙になるなり、但點遠本遠妙自影なれば今留在此の秘法は絶待妙なり、是れを理顕本と云ふなり、台家にさたする理顕本は十界の理智慈悲に約して無能所の重に之れを談ずと雖ども法体未だ顕はれず、高祖御出世の後・絶待不思議の妙法出現し給ふなり今の題目是れなり、是の故に此れは絶待開会を以つて表と為すと書すものなり。

疑ふて云はく右にさたする重に不審あり開会とは能対所対之れ有り如何、答ふ第一番成道已下・今日所説の法華経本迹両門は唯十界なり、是れ即ち所開なり、此の所開の十界は皆題目の能開に帰するなり、迹門は九界の因・本門は仏界の果・此の迹仏本仏共に題目に帰する所の者なり、妙楽の記に云はく若し法身常住の寿無くんば因果帰する無し故に知んぬ諸経諸行同じからず皆今経常住の命に入る云云此れ等の釈分明なり、本門は従果向因なく故に絶待の上の相待と習ふ是れなり、迹門は従因至果なる故に相待の上の絶待と習ふ者なり。

尋ねて云はく・第十五に彼れは熟脱・此れは下種と云ふ姿如何、答ふ彼れは熟脱とは所開の本迹は熟脱の二益なり、迹門は熟益・本門は脱益なり、是れ則ち迹化付嘱の法門と云ふ事なり、此れは下種とは内証寿量品の肝心・久成の妙法なり。

尋ねて云はく・第十六に彼れは衆機の為め円頓者と示し・此れは万機の為めに題目を勧むと書す心如何、答ふ彼れは衆機の為めに円頓者初縁実相を示すとは爾前は空仮・法華は中道と云つて迹化の習として迹門正意在顕実相と談し中道実相を法華の正体とす、実相は一経に通ずと雖ども方便品を所依と為す・天台の三大部の中には取り分けて止観を以つて至極と為す止観とは円頓者是れなり、円頓者に三所の相伝之れ有りと雖ども共に実相中道肝心なり、此の迹門分の法門を以つて像法一千年の利益之れ有りと云ふ事なり、之れは万機の為めに南無妙法蓮華経を勧むることは・末法は三毒強盛にして悪人なる故に実相を以つて利すべからず、一相一重・勝れたる法とは題目なる故なり。

尋ねて云はく・第十七に彼れは悪口怨嫉・此れは遠島流罪と書す心如何、答ふ彼れは悪口怨嫉とは天台は南三北七に怨まれ・伝教は南都六宗に嫉まれ給ふ事其の隠れ無しと云へるなり、此れは遠島流罪とは彼の悪口怨嫉よりは遠島流罪は大に勝れたる法難なり、是れ則ち迹門の人法より本門の人法勝るるが故なり、雨に依つて竜の大小を知り・蓮に随つて池の浅深を推す事之れ有り云云。

尋ねて云はく・第十八に彼れは一部読誦すと雖ども二字を読まざる義之れ有り、此れは文文句句・悉く之れを読むとは何ぞや、答ふ所開の六万九千の妙文を読誦する事は本迹共に之れを読むと雖ども体外迹仏・所説の本迹なる故に久成の本因本果に及ばず、本因本果とは蓮華の二字なり蓮華の二字に事理の二つ之れ有り一部読誦は理位の観行第二品なり、天台迹門の心なるべし、妙楽云はく初品に云はく何ぞ此の経を読誦する文、迹門流通は五種の妙行是れなり、皆是れ理上の修行天台宗なり、今当宗の意は能開久成の妙法なれば摂事成理の修行・下種結縁の万機・約身約位の全体・末法相応の時機・日蓮一宗の行儀行相・内証寿量品の修行なり・忝くも釈迦如来本果を現し給ふ時は本因を裏と為し・本因を表とする時は本果を裏に陰す、末法の導師既に上行菩薩の本因の位に長遠果地の本果の妙法を理即の我等に与へ給へば・本因本果の蓮華の二字を事相に顕はし能開の体内の肝心を行する時は文文句句を読誦する義なり、御書に云はく本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なりと書す是れなり、是の故に此れは文文句句悉く之れを読むと書せらるるなり云云。

 尋ねて云はく・第十九に彼れは正直の妙法の名を替へて一心三観と名づく・ありのままの大法ならざれば帯権の法に似たり、此は信謗彼此决定成菩提・南無妙法蓮華経と唱へ懸くと云ふ心如何、答ふ彼れは正直の妙法の名を替へてとは・天台大師等迹化の衆は付嘱時機之れ無し、故に三観三千等と名付て妙法五字に一重劣なる修行をなして像法中の衆生を利する事なり、此れは信謗共に題目を唱へ懸くとは神力付嘱・後五百歳の機類の為めなり、教機時尅到来する故に久遠の妙法を直に唱へ給ふなり、これば余所の御書にも天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如く、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり云云。

 尋ねて云はく・第二十に彼れは諸宗の謬義を粗ぼ書き顕はすと雖ども未だ言説せず、此れは身命を惜まずして他師の邪義を糺し・三類の強敵を招くと云ふ事如何、答ふ迹化の衆は世界悉檀に准じて摂受の行業を修する故に・他師の誤りをば各書籍に之れを書き顕はすと雖ども・面つよに其の人に対し或は広席に及び非を顕はす事之れ無し、唯我師高祖一人・法華折伏の掟に任せ謗法の邪義を破し給ふ事之れ有りと云ふ事なり。

 尋ねて云はく・第二十一に彼れは安楽普賢の説相に依り、此れは勧持不軽の行相を用ふと書く事如何、答ふ彼れは安楽普賢の説相に依るとは摂受門の修行・迹門従因至果の行儀行相なり此の読誦等の因に依つて相似六根の果に至る事なり、此れは勧持不軽の行相を用ふとは折伏門を本と為して読誦を専らにせざるの上・不軽の強毒を抽んづる事を書かるるなり。

 尋ねて云はく・第二十二に彼れは一部に勝劣を立て・此れは一部を迹と伝ふとは如何、答ふ彼れは一部に勝劣を立つとは天台宗は前十四品為迹門と云つて六重本迹の中の六番めの已今本迹を本と為す事なり、此れは一部を迹と伝ふとは久成の妙法を本として入文一部の品品の内・咸く体等を具し句句の下・通して妙名を結する名体宗用教の妙法蓮華経は迹門なりと云ふ事なり、疑ふて云はく法華経の題号の外に入文の妙法蓮華経・名体宗用教之れ有りや、答へて云はく法華経の入文は唯体の三章とて体宗用の三ばかり之れ在り・是れを品品の内咸く体等を具すと釈するなり、句句の下通して妙名を結するとて体宗用の三を妙の一字に通結するなり、此の妙の一字は名なり、品品の体宗用と一経の教と名体宗用教なり、只妙の一字計りなれども唯釈総名に妙の下に法蓮華経を釈するなり、爰を以つて次に又妙と云ふ下に法及び蓮華並に経を釈すと云云、是れ則ち迹門の自行の題目なり、唯体の三章の分までなり、妙楽云はく但迹中の如き体は因果に非ず之れに依つて因果を弁ず・因果体に取つて方に勝用有り是の如く三法並に開顕に由る云云、迹中の三一と云へるは是れなり、釈尊一代説教の中には功高一期と云ふは是れなり。

名体宗用教とは云へども但体宗用の三計りなり、妙法蓮華経とは云へども但妙の一字なり迹中三一功高一期と云云、曽谷抄にも独得妙名とかかれて候は妙の一字なりと書かれたり・通結妙名の妙名は妙の一字なり、題目抄に云はく爾前の諸経は長夜の闇の如し、法華経の本迹二門は日月の如し、諸菩薩の二目なる二乗の眇目なる凡夫の盲目なる共に爾前の経経にては色形を弁へず、中程に法華経の迹門の月輪始めて出て給ひし時・菩薩の両眼先づ解け二乗の眇目なる次に解け凡夫の盲目なる次に開く生盲の一閻提未来に眼を開くべき縁を結ぶ・是れ偏に妙の一字の徳なり云云、一部読誦をなして唱ふる所の題目は迹門の題目なりと云ふ事を習ひ定むべきなり、迹門の一経の読誦は迹化の付嘱・像法の弘通の摂受の行相なり、日蓮宗に唱ふる題目は久成りの妙法蓮華経なり名同義異と云ふは是れなり、兼具五章の題目は寿量品に限る迹門十四品に之れ無きこと上の如し云云。

 尋ねて云はく第二十三に彼れは応仏の域を引く・此れは寿量の文底を用ふと云へる其の意如何、答ふ彼れは応仏の域を引くと云ふ事は今日の釈迦如来は迹仏にて御座すなり、一代の正機即迹機なれば迂廻道の機なり、此の機は下種既に過去に有り現在は熟脱二法計りを説き給ふ仏にて御座すなり、此の正機の下種既に過去に在るが故に本已有善の機なり、此の本已有善の機のたぐゐ正像二千年まできたるなり、さて末法に入れば本已有善の機は・つきはてて本未有善の機計りなり、本未有善の機は未だ下種せざる者なり、此の機の為めには仏久成の人を召し出して久成の法を付し給ふなり、是れは寿量品の文底を用ふと云ふは是れなり。

尋ねて云はく・第二十四に彼れは応仏曻進の自受用報身の一念三千一心三観・此れは久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふと云へる其の意如何、答ふ応仏曻進の自受用報身の一念三千・一心三観とは・今日の釈尊は三蔵教の教主・次第次第に通別円と曻りて迹門十四品の中・法師品までは劣応身なり、宝塔品より他受用報身となり・寿量品にして自受用報身と成り給ふ所説の本門は徒因至果の迹門なり、本門とは云へども迹中の本の本門なり、一念三千も一心三観も理位の解行相似等と能所共に曻進するを立つるなり、此れは久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふと者・無作本有の妙法は法の中に最上甚深の秘法なり、此の法は最下劣の機を済度するなり・最下劣の機を引導する時は我身を下機に同して利益するなり、故に高祖の凡夫と下つて理即の我等を済ひ玉ふなり、教弥実位弥下と云へる是れなり、久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりと云云、てりひかりたる仏は迹門能説の教主なれば迹機・熟脱二法計りを説き玉ふなり、教弥権位弥高といへるは是れなり、此の仏の所説を受くる機は終に等覚一転入于妙覚するなり、さて高祖の化導を受け奉る機は元より理即なり、長遠果地の妙法を理即凡夫に与へ給へば等覚一転入于理即するなり、在世並に正像二千年の賢聖国王大臣等よりも聖人御出世の時分に生れ値ひ無作本有の妙法を飽くまで不浄の身に唱へ奉る喜涙・袖をしぼり応恩・胸をこがす者なり、高祖云はく諸仏菩薩の定光三昧も凡聖一如の証道も刹那判偈の成道も・我家の勝劣修行の南無妙法蓮華経に摂尽する者なりと書かれたる御金言の事、此れ等の深義幸に玄旨の血脈・血脈の注・別帖に之れ有り、然りと雖ども彼の血脈深義も高祖付嘱の題目に摂尽すと書き給ふなり、次に問答の御釈の下に唯密正法云云、今日の本迹は理にして権実なり久遠の本迹は事にして本迹なり云云、一代応仏の本迹は権実にして約智約教なり、久遠の本迹は本迹にして約身約位なり云云。

次に日文字の口伝・産湯の口决・本尊七ケの口伝・教化弘経七箇の伝は別紙の如し。

詮要抄
抑も此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にして御座候、本地甚深の奥義・末法利益の根源なり、粤に信心深き者・愚老に訓義を乞ふ、斟酌再三に及べども蝙蝠の鳥なる如く獼猴の人に似るの様・知れる顔に見ゆるかの間・(邪の下に心という字)に口入を度度に至し注甄を急急に請ふ、進退維に谷つて心神苦労す、憑もしいかな末法の導師は纔に一国に肇りて万邦を済ふ、本化の出現奝しく稲麻の如く竹葦に似たり、清濁の添削・其の時を期し愚意の注文・其の耻を曝す・彼の懇志を黙せんよりは此の愚見を楽まんと欲す・一機を守り衆生に恐る、伝へ聞く章安は文殊の再誕・湛然は灌頂の後身猶以て誤り有り況んや頑愚に於てをや、記に云はく適々過世に脱す文、補注に云はく今恐らくは過の字須らく改めて近字と為すべし文、記に云はく果後近熟文、補注に云はく近の字過に書くべし云云、其の外之れ多し権者既に爾り実迷甚だしきことを恐る・賢者慈を垂れよ。

編者曰はく本山蔵棟師本巻首に
「本因血脈詮要抄秘すべし秘すべし伝ふべし伝ふべし          釈日棟之」
とあり今此れを台本とし日俊師及び日寛師写本を以て校合を加ふ但何れも難読の書にして漸くに延べ書に為す事を得たり。


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