富士宗学要集第二巻

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摧 邪 立 抄

夫れ以みれば・衆生の根性転た万差なるに依つて、仏陀の説法良に一純ならず、外道の種類分つて九十に余り、内典の教訓亦た四八に及ぶ、或は詩歌管絃の賞翫を捨て田里遊行の乞食と成り、或は律令格式の制符を破つて山海盗賊の謀悪を構ふるもの皆此の如く勝計するに遑あらず。

爰に貞和四年の天・仲夏五月の比・富山の門徒・大弐闍梨と日蔵邪流の顛誑日学と遠国の土州に於いて問答あり、記録都べて大聖出世の本意に非違し、剰へ放逸鳴呼の過言を加へ載す、尾籠の迷者に対し捨て置くべしと雖ども・余人の後輩の為めに粗ぼ当宗の体を示さん。

第一に挙ぐる所の法華顕本下山消息御抄の有無・名字の諍論尤も之れを定むべし、若し製作を以つて御書に非ずと云はば日蔵已下の弟子道俗、逆罪を遁れ難し、若し偽書を構へて恣に聖筆と云はば富山の立義・貴賤上下信仰憑み無し、実否冥に譲りて邪正明らむべし、次に彼の抄の題目に就て浅遠しき荒言を放つは無礼の至極甚だ以て奇恠なり、今犬吠に驚いて閑に根源を尋ぬるに・甲州・下山・若島の内に一宇の堂を建て平泉寺と号す、時に下山兵庫五郎光基の所領なり、住僧有り日永と名づく身延に詣で法華に帰するの刻み地頭より問状を遣す、返報は大聖の御筆なり・仍て所の名に寄せて下山抄と呼ぶ、法体に准ずれば顕本抄と号す何の不可有つて浅遠して言を出すや、汝等未だ知らず例を引いて之れを教えん、縦ひ不信なりと雖ども当に逆縁となるべし、天台法華宗とは天台は能住の山号・法華は所依の経体なるが故に或は天台宗と名づく・或は法華宗と云ふ、大聖出世の本懐をも弁ぜず、富山相伝の深意をも伺ふこと無く、還つて正義を破し・舌に任せて毀謗す、其人命終入阿鼻獄の経説他に非ず日蔵の迷流なり、無懺無愧悲むべし哀むべし。

第二に挙ぐる所の御書料簡・両方の問答・文拠明白なり。日学は迹門十四品の正宗八品一往之れを見れば・二乗を以て正と為し・菩薩凡夫を以つて傍と為す、再往之れを勘ふれば・正像末の凡夫を以て正と為し・正像末の三時の中には末法の始を以つて正中の正と為す、勧持安楽等之れを見るべし等の科段を以つて迹門を指して末法当機の法門と定む。日寿は次下の迹門此の如し本門を以つて之れを論ずれば一向末法の始を以つて正機と為す、○迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以つて詮と為す、在世の本門と末法の始とは一向に純円なり等の誠証を引いて、本門は一向末法の始純円なりと立つ、迹門本門・在世滅後・一往再往の諍論此の如し。

謹んで観心本尊抄の始末を勘ふるに上には迹門の法を破して小乗教・邪教・未得道教・覆蔵教と釈し、近を楽ふの機を以つて徳薄垢重・幼稚貧窮・孤露同禽獣と宣べ、爾前迹門の円教尚仏因に非ずと云云、下には須臾の間に仏語相違して過八恒河抄の此の土の弘経を制止す・進退惟に谷まり凡智に及ばず、天台智者大師前三後三の六釈を作つて之れを会す、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以つて授与すべからず、末法の始は謗法の国・悪鬼なるが故に之れを止め、地涌千界の大菩薩を召し、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以つて閻浮提の衆生に授与せしむるなり、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子に非ざる等の故なり、天台大師云はく・子父の法を弘むるに世界の益あり、妙楽の釈に云はく・是れ我が弟子応に我が法を弘むべし、輔正記に云はく・法は是れ久成の法なるを以つての故に久成の人に付す等云云前後の文広ければ繁を恐れて之れを畧す、何ぞ此れ等の明鏡を覆ふて無窮の邪論を致さんや。

第三に挙ぐる所は・法華経は正法の世に唐土日本に渡らばこそ正法の世の衆生の為にては有るべきと云云、即ち富士の義と称して輙く愚癡の詞を吐く・鳴呼の至極尤も言ふに足らざるなり、譬へば狂人の母を詈り盲馬の堀を越ゆるが如し、夫れ法華とは三世常住にして十方に普く遍す、故に経には十方仏土中・唯有一乗法と説き・釈には此の妙法蓮華経は三世如来の所証得と明す、何ぞ末弟卒爾の一説を執して忝くも天真独朗の高祖を謗らん、其の罪先の如し委細に記し難し。次に不待時の法華と云ふ事を知らざるかと云云、汝等未だ対面せずと雖も愚筆を捧ぐる体たらく只不待時の名目を聞いて実義を知るべからざる魯人なり。

 次に迹門は正像末に亘ると云ふ事は・観心抄に限らず・取要抄等に之れ有り、所謂彼の抄に云はく・問ふて云はく法華経は誰人の為めに之れを説くや・答へて云はく方便品より人記品に至る八品に二意あり、上より下に向ひ次第に之れを読めば・第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之れを読めば、滅後の衆生を以つて本と為すなり、滅後を以つて之を論すれば・正法一千年・像法一千年は傍なり、末法を以つて正に正と為すと云へり、是れ観心抄と同じく正像末に亘る故に殊更末法を正と為すと見えたり・不便不便と云云顛倒の料簡・迷惑の甚深なり、迹門に於いて序正流通を弁ぜば・序品を序分と為し・方便品より人記品に至るの八品を正宗と為し・法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品を流通と為し、正宗は在世の衆生を化し、流通は滅後の相を示す、故に滅後に於て又正像末の三時を分つ、正法千年の衆には迦葉阿難等の尊者は先づ小を施して大を略し、竜樹・天親等の論師は次に大を歎して小を斥ふ、像法千年の機には迹化の薬王を以て迹門の法華を授く、爾の如く異域には則ち天台智者陳隋両主の聖代に託生して南三北七の十師を破して開三顕一の一乗を演べ倭国には亦伝教大師再誕して桓武皇帝の延暦に南京六宗の権門を廃して北嶺四明の円頓を興す。

末法万年の時には・本化上行を召して本門の秘要を嘱し・仏付違はず経説に符合す、日蓮聖人出現して結要付嘱を弘通す、宣示の相貌即ち是れ上行菩薩の後身なり、法師品の况滅度後・宝塔品の六難九易・提婆品の達竜成仏・勧持品の三類の強敵・安楽行品の悪世末法等の説は、面は迹門の流通に在るも実は本門の遠序と為る、故に或は本門の遠由と云ひ或は密表寿量と釈す、加之・山家大師は正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り・法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり何を以ての故に安楽行品に云はく悪世末法時と云云、又代を語れば則ち像の終り末の始め・地を尋ぬれば則ち唐の東・羯の西・人を原ぬれば則五濁の生・闘諍の時・経に云はく猶多怨嫉况滅度後と・此の言良に以有るなりと云云、法主聖人内証秀発の上・経釈の明鏡を出して観心取要に載せ、滅後を以つて之れを論せば正法千年・像法千年は尚傍なり、末法を以つて正と為す等御抄の始終其の理顕然たり、而るに汝等正師を毀つて不便と書し・邪見に着して悪口を述ぶ、信受邪師法・名為飲毒の解釈は豈に是れ日蔵の余流の弟子檀那等に非ずや、千劫於阿鼻獄・受大菩悩の金言悲むべし、師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀越亦た堕つ等の記文哀むべきものなり。

第四に挙ぐる所の聖人の仰には・かかる大謗法の国なれば八幡大菩薩も此の国を破れよとこそ思食すらめ故に謗法の国をば破れよとこそ咒咀すべきに・剰へ謗法の者を祈るは聖人の本懐に非ず・此の段然らず、富山の立義は大体先の如し、広宣流布の仏勅に准し上行付嘱の明拠に任せて、本門寿量の肝心たる妙法蓮華経の経題を貴賤上下相共に受持奉行の時節なり、而るに邪智心謟曲の比丘は諸寺諸山に住して怨嫉せしめ、納衣在空閑の持斉は公家武家に訴へて衆難を加ふ、之れに依つて七難並び起り四海閑かならず、早く爾前迹門の謗法を対治して法華本門の正法を建てらるれば天下泰平国土安全云云、咒咀の一段は虚誕を云ひ付くるか、若し実事たらば末弟の謬誤なり。

次に大聖の御時祈り無き道理は公家武家の院宣御教書無きを以つて所望有りしかども叶はざる間・祈り無きなりと云云、所詮日寿は祈祷すべからずと定め・日学は祈祷すべしと云ふ、両人の諍論に付いて大聖の素意を尋ぬるに論には彼の万祈を脩せんより此の一凶を禁せんには如かずと云ふ云云、万祈とは諸宗の祈祷なり・一凶とは謗法の凶徒なり、又謗法の諸宗を挙げて若し此れを対治する無くんば他国の為めに此の国を破せらるべしと云云、而るに今・禅・律・念仏は貴賤頭を低れ真言・天台は鎮へに国家を護る、是の故に刀・疾・飢苦の三災・境に入り村南・村北に哭する声止まず、自界叛逆して九重余り有り・関東関西に闘戦絶ゆることなし、是れ偏に諸宗の祈祷還つて国敵と成る人民の損亡の現証之に在り、加之・前代超過・未然の大事・他方怨賊の蜂起必定なりと公家に奏し・武家に訴ふること世以て隠れなく人皆之れを知る、日学の白状の如くんば一天より院宣を下されて祈祷を致すと、然るに国土の災難・日に随つて倍増し自他の反逆年を逐ふて興起す、日蔵の祈祷敢て威験無し謗法の現証・已に眼前に在り何ぞ自科を出して徒に具徳に備へんや。

又汝等・勅勘を怖れて辺域に候し讒訴を憚つて田舎に隠る・然る間・公方より御尋ねに能へずと云云、伏して惟みるに教主釈尊は一宮を出去し、天台智者は衆徒を謝遣して山谷に隠居す、伝教大師は南京を改替して北嶺を建立す、日蓮聖人は柳営を遠離して身延に処在し玉ふ、加之・上代の大人は皆深洞に坐し倭漢の明匠は多く山林に籠る、是等をば勅勘を怖れ辺域に候すと云ふべきや、何に况んや中古の唐僧は閻浮無双の富士山・言ふ莫れ扶桑第一峯と称美讃歎す云云、法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり、故に日興上人独り彼の山を卜して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ、是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり、汝の立義の如くんば、念仏・真言・禅・律僧等・洛陽に処して渇仰を破り十善の勅宣を帯びて両家の祈祷を致す尤信受せしめ僕徒と成るべき者なり、此の外・師子楽・猿楽・田楽・乞食・感神院犬神人等・皆京都に住して遍く上下に謟ひ・或は祈祷と称し・或は神人と号す、所存の作法相似たり寧ろ彼等が流罪に非ざるか。

次に天竜雨を降らさず苗稼皆枯死し生者死し尽し余草更に生ぜずと見えたり、当時此の如く有るか、無きか、五穀実登り天竜も雨を降らす如何が神去ると云はんやと云云、今迷惑の言に驚いて安国論を披くに・善神国を捨て相去り聖人所を辞して還らず、又云はく・神聖去り辞し災難並び起ると云ふ事・何れの経文に出づるや其の証拠を聞かん云云、所引の四経の文顕然なり、之れに依つて次下に仁王経の七難の中五難忽ちに起り二難尚ほ残る、所謂他国侵逼の難・自界叛逆は今盛なり・残る所は他国侵逼なり、而るに五穀実登・天竜降雨・如何神去と云はんや等の愚言は誠に是れ一類の生盲・日月の光を隠し井内の蝦蟆・大海の鳴を無みする謂ひか、将又法華宗を難ずるは大謗法の義なり、汝等専ら諸宗謗法の義門に同じて弥大聖の本意を失ふ異類なり。

次に八幡抄を引証して又安国論に同じ、自由の小社を造立して強ちに法門の大網を破廃せんや、哀れむべし悲しむべし、但し大菩薩は正直の頂上に栖むと誓ひ、諸天等は此経の持者を護らんと願す、文理必然なり自証の如し、汝等は凡て法華正直の行者に非ず須く諸天善神の治罸をるべし云云、次に若し神を用ひずと云はば、何ぞ大覚抄に云はく・神は鬼神なれば敬ふべからすと強義を申して・多くの檀那を損する事有りと見候也とはあそばすや、此の条・強義を留めて和義を用ひ治定せしめ料簡を加ふ云云、昔・黒手次郎と云ふ者之れ有り、法主聖人の御弟子と号して、彼れ大聖を歎じて云はく昼は人に向つて釈を説き彼違せず聖人を讃すと雖ども還て聖人を死す者なり。

第五に挙ぐる所は・富士の義と称して法華経は一品二半の外をば用ふべからず、其の余を讃するは地獄の業なりと云云。此れ亦た富士の義に似て富士の義に非ず、其の故は大聖円寂の遺跡に六人の上首御座す、具に法華一部を讃し同じく方便寿量を誦す、其の中五老の立義異説有りと雖ども、本迹二門に利益有りと讃し大旨の文理云ふ所の如し、富山独り破迹立本を存す之れに付て二意あり、一には所破の為め・二には文借の為めなり、先づ所破の為めと云ふは方便品は迹門の正意なる実相を説くと雖ども猶長寿を蔵くす、寿量品は払迹顕本して実に久成を明す、両品の相違天地雲泥なり、正像末三時の次第・引経の相貌先段に載せたり。

本迹泯合の迷者に文拠を出して之れを示すべし、大聖云はく・法華経に亦二有り、所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華との違目よりも猶ほ相違有り、爾前と迹門とは相違有りと雖ども相似の辺も有りぬべし、所謂八教有り爾前の円と迹門の円と相似たり、爾前の仏と迹門の仏とは劣応・勝応・報身・法身・異なれども始成の辺は同じぞかし、今迹門と本門とは教主已に久始のかはりめ、百歳の翁と一歳の幼稚の如し・弟子も亦水火なり土の前後云ふ計り無し、而るを本迹を混合するは水火を弁へざる者なり、而るを仏は分明に説き分け給へども・如来御入滅より今に二千余年の間三国並に一閻浮提の内に分けたる人之れ無し、但漢土の天台・日本の伝教此の二人計りこそ粗ぼ分け給ひて候へども、本門と迹門との大事に円戒未だ分明ならず、所謂天台伝教は内に鍳み給ふと云へども、一には時来らず・二には機無し・三には譲られ給はざる故なり、今末法に入りぬ・地涌出現して弘通有るべき事なり、今末法に入り本門の弘まらせ給ふべきには・小乗・権大乗・迹門の人々は設ひ科なくとも彼彼の法にては験し有るべからず、譬へば春の薬は秋の薬とならず・設ひなると云へども春夏の如くならず、何に況んや小乗・権大乗・法華経迹門の人々・我と大小権実に迷へる上、上代の国主・彼彼の経経に付いて寺を立て田畠を寄進せる故に、彼の法を下せば申し延べがたき上・依拠既に失ふかの故に大瞋恚を起し・或は実経を謗し・或は行者を怨む、国主も又一には多人につき・或は上代の国主の崇重の法を改め難き故・或は自身愚痴の故に・或は実教の行者を賤しむ故等の故に、彼の訴人等の語を納れ・実教の行者を怨めば実教の守護神・梵釈四天等其の国を罰する故に先代未聞の三災七難起るべし、所謂去年今年去る正嘉等の疫病等なり云云、自余の御書之れに同じ。

次文証の為めとは・文は迹門の経説を借れども義は本門の実義を顕はす、例せば四十余年の権説を未顕真実の方便と称すれども・安国論已下の御抄を拝するに爾前諸経の文辞を載するが如し、故に或は還た教味を借り以つて妙円を顕はすと訓へ・下文顕已通得引用と釈す、之れに准じて知るべし、但し所難の文理に至つては爾前法華の対揚の分なり・朦昧を散せんが為めに試に一端を示さん、外典内典相望の日は小大半満合して大法と名け、浅深高下の時は小を斥けて大を嘆し・権を破して実を賞む、故に爾前諸経を方便と打ち捨て・法華一部を是れ真実と讃す梯橙此くの如し思惟して了すべし。

日学所引の御抄諸文は本迹二門無分別の意なり、又法華に於いて二経を分つ所謂本迹の両門なり、迹門には廃権立実を説き本門には払迹顕本を明す・経釈の亀鏡興廃必然たり、又本門に於て一品二半を正宗と定む・正宗中に題目の五字を肝要と為す、此れ則ち丈を去つて尺に就き、尺を去つて寸に就くとは是れなり、何ぞ無分別の文を撰びて強ちに出世の本懐を失はん、汝等若し道心を念し成仏を期せば早く偏執を抛つて富山に詣で・永く僻見を改めて実義を受け当に正流を酌んで法華を弘むべし、然らずんば有名無実の宗旨・謟誑邪偽の迷党なり、但し方便品読むべからずとは天目闍梨の一義なり・次てを以つて示すべし、彼の師・古へ富山に詣で聴聞の刻み破迹立本已下の諸義を称美し帰伏す、富山出去の後破迹立本は高名に似たりと雖ども方便寿量添加の読誦は富山の謬誤尤此の事に有りと、一師愚案の筋は富山違背の義なり・今の所論に非ず仍て之れを省略す。

第六に富士の義と称して挙ぐる所尤然かなり、夫れ日蓮聖人は忝くも上行菩薩の応化・末法流布の導師なり、未了者の為めに事を以て理を顕はすの昔は虚空会に出現して以要言の付嘱を受け、後五百歳必応流伝の今は扶桑国に降臨して広宣流布の実語を表す、天台大師は薬王菩薩の後身・像法弘通の祖匠なり、漢家に生を示し倭国に再誕して教釈を三国に流伝す、倭漢の両朝に賞翫して同じく法華を弘む、倶に仏の使なりと雖ども像末時節稍異なり・本迹の高下雲泥なり、所以は何ん彼は薬王・此れは上行・彼は迹化・此れは本化・彼は迹門・此れは本門・彼は始成・此れは久成、彼は像機・此れは末法、時機隔て相違水火の如し経釈の説相御書明白なり、何ぞ本化上行の後身を以つて迹化薬王の弟子と卑下せんや、誠に是れ鵄梟を以つて鳳凰を咲ひ・蝘蜒を執つて亀竜を嘲る者なり。汝竜樹南岳の古例を引いて言ふ所一分道理に似たり・次でを以つて尋ぬべし、天台伝教より法主聖人に至るまで・中間の師資相承の人数慥に名字を載せ委しく注記すべし、若し之れを出さば近未来だ諸宗破失の人数を聞かず・誰人を以つて師範と号する、若し直に天台伝教に之れを継ぐと云はば・久成の如来親り久成の法を以つて直に久成の人に付し玉ふ何ぞ厳重の嘱類相承を閣いて・横しまに天台伝教の門流と称せんや、但し汝等開目已下の諸文を料簡して堅く天台伝教の沙門と号せば・清澄居住の往昔に就いて当に道善義城の弟子と定むべしか、所以は何ん・先師道善の帰寂を悲んで成仏得道の書巻を送り給ふ報恩抄と名く具侶拝見するや否や、初心習学の古へは道善義城を師と定め・諸宗破廃の面には天台伝教を拠と為す、汝等未だ与奪の二義を弁へず・傍正の両意を伺はず・頑愚の難・迷闇の甚しきなり、恐れずんばあるべからず慎まずんばあるべからず。

次に富士の義に云はく・日蓮聖人は上行菩薩にて御座す、大宮方には迹化の菩薩と申すは僻見なりと云云。
尋ねて云はく・自ら是れ本化とも迹化とも其の定め無きに但問付するか、然して其の義を答ふべし、抑も聖人は上行菩薩と申す事は何の御書に見たるや委細其の証拠を引くべし、富士の義に云はく・抑今末法には本門の妙法蓮華経を弘むべし、彼の要の一法をば普賢文殊観音薬王等の大菩薩にも付嘱せず、但地涌の上行等を召して之れを付嘱し玉ふ、今日蓮聖人は妙法の五字を一切の順逆に授け玉へり・豈に上行に非ずや、故に金吾抄に云はく・而るに予地涌の一分に非ざるも兼ねて此の事を知り地涌の大士に先つて粗ぼ五字を示す云云、或る抄に云はく日蓮は其の人には候はねどもと侍る・是れ等こそ証拠にて候へ。

反詰して云はく・是れこそ上行にて御坐さざる証拠にて候へ、地涌の一分に非ず・其の人には候はねども候こそ、地涌にて無き証拠にて候へ、所引の次下の文に例せば西王母の先相の青鳥・客人の来るに鳱鵲の如し、上行菩薩の出で給ふべき先相に・日蓮上人出世せさせ給ひたりとこそ見へたれ、次に要の一法は地涌に付嘱して迹化他方に付嘱せずと云ふ事は是れ一往の義なり、再往の実義は一切に付嘱し玉へり、故に観心本尊抄に云はく・地涌の菩薩を以つて首と為し迹化他方乃至梵釈四天等に此の経を嘱累す・猶此の抄の前後を見て能く能く勘ふべし、御抄を相伝せざる富士方は片端を見て邪見を発す堕罪疑ひなきかな、地涌の菩薩出で玉はざる証文・処処之れ多けれども、先づは観心本尊抄に云はく、当に知るべし此の四菩薩は折伏を現する時は賢王と成りて愚王を誡責し・摂受を行ふ時は聖僧と成りて正法を弘持せん。一富士の義に云はく・末法には一向本化の菩薩出現すべし、正像には迹化の菩薩出現し玉ふべし、而るに日蓮聖人地涌に非ずんば何れの人を化身とは定むべきや疑ひ有り如何、答へて云はく・争てか私に何れの人を化身とは定むべけん、但し観心抄を見るに・其の文分明なり、四依に四類あり・小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現し・大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現し・三に迹門の四依は多分は像法一千年・小分は末法の初なり、是等の文は末法に迹化出つべしと見たり如何、両方の問答・東西水火なり、此の事は頴水に耳を洗つて棄て置くべき一段なり、他宗の難破は今且く是れを置く、法華門徒豈に愁嘆せざらんや。

伝へ聞く唐土の善導は法華を以て千中無一と下し、本朝の法然此の経を指して捨閉閣抛と毀る、彼の日蔵日学は大聖人は全く上行に非ずと云云、彼等の謗法は導然の師に比するに百千万倍超過の逆罪なり、抑も涌出品の止善男子不須汝等護持此経等の経文に付き天台大師前三後三の六義を釈す(繁を恐れ之を略す)又経に云はく爾時仏告上行等菩薩○為属累故○皆於此経宣示顕説等云云、釈に云はく爾時仏告上行の下・第三に結要付嘱云云、道暹云はく付嘱とは此経は唯下方涌出の菩薩に付す・何を以つての故に法是れ久成の法なるに由り久成の人に付す云云、大聖云はく、玄弉三蔵は畧を捨て広を好み四十巻の大品経を六百巻に成し羅什三蔵は広を捨て畧を好めば千巻の大論を一百巻に成す、日蓮は広畧を捨てて肝要を好む・所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字是れなり云云、経釈の説相・御抄の自証・聖人は寧ろ上行に非ずや、汝が言の如くなれば・大聖若し上行に非ずんば念真禅津の謗僧を地涌の菩薩と取るべきか、日蔵日学の邪輩を本化上行と云ふべきか如何、御書の料簡・顛倒の和会・実なるかな南を指して北と為して自ら迷惑せずと謂ひ、天を以つて地と云ひ・我を覚知せしむと叫ぶ、鳴呼の所讃沙汰の限りに非ず、何に況んや神力品は別付嘱なり、別とは上行等に結要付嘱す・結要とは純一無雑の五字の題目なり、属累品は総付嘱なり・総とは法華を以つて滅後の諸菩薩等に於いて弘通の付嘱なり、故に次下に余深法中示教利喜等云云、之れを以て諸宗当宗を難ずる文なり、委細の旨趣具に記するに能へず・総別の付嘱宛も水火の如し、何ぞ別を以て総に合し・総を以つて別を難ぜんや。

第七に挙ぐる所の行道誦経・合掌授法の事・彼此の諍論恐くば枝葉に在らん、其の故は末法今時を指して迹化弘通と号し・久成の大士を以つて本化の菩薩に非ず等云云、此の外・神明の有無・国土の祈祷・本迹の相違・御書の料簡・天地雲泥にして二義水火なり、大綱全からず網目何ぞ諍はん、然りと雖ども粗ぼ実義を示さん、遠く大聖化度の在世を訪ふに・未だ行道誦経の儀式を聞かず、近く日朗上人の古例を尋ぬるに敢て合掌授法の法則無し、之れを以つて之れを推するに偏に念仏宗の義に謟つて男女の意楽に准ずる者なり、既に高祖違背の科失有り・豈に師範叛逆の罪障に非ずや、但し迹門の梵王の百千匝等を以て例と為し・本門の地涌の右遶三匝を引いて証に備へば迹の経には阿弥陀と説き本の経には観音と明す、汝等弥陀を勧請し応に観音を礼すべきか如何、しかのみならず迹門には常好坐禅等と説き・本門には捨大衆憒閙と明す、愚輩何ぞ憒閙を去つて坐禅せざるや。

次に日蓮聖人は文永八年九月十二日の夜に竜口に於いて庭に立つて行道し・自我偈等の経を誦せらるる時・奇特を顕はせり、此れ等は皆念仏者に同するか如何と、此の条は大聖・法を立つるの昔・諸宗の讒訴に就いて竜口に於いて斬罪に及び玉ひし刻み・立つて諸天に対して御経念誦の時・則奇特有つて早く死罪を免れ御坐す云云、争でか彼の坐に於て行道有るべけん、縦ひ之れ有りと雖ども文証に備へ難し、其の故は何ぞ卒爾の儀式を引いて頗る長日の法則に類せんや、言ふに足らざる愚案の至りなり。

次に合掌授法の両条は上の如し、但し不軽の往事を引いて顛到の邪徒に合す・巧言譬喩併ら泡沫の如し、所以は何ん千枝万葉同じく一根に帰す、末法を指して迹門の弘通と号し大聖を以つて上行に非ずと云ふ故なり。

次に唱題目抄の必坐立行等の文を引いて行道すべしと治定せしむる事又以つて非なり、所謂行住坐臥の四威儀に経て題目を唱ふべしと教訓道理必然なり、汝等行の字に崛して悪見を起す者か是れ又上の如し、所詮毛を吹いて疵を尋ね・大を捨て小を求む、墓無し々々。
第八に挙ぐる所の日蔵書筆の本尊題目の下の判形等の事・是非の問答又枝葉たり、其の故は先づ書する所の本尊率都婆を見聞するに敢て聖人御筆の漫荼羅に似ず、其の体異類にして物狂逆態なり、何ぞ大都の違背を閣いて徒に愚判の所在を論ぜんや、抑も大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云、而るに或は白蓮御房と書き・或は白癩病を感得す云云、尾籠の至り悪口の科直ちに口を割き舌を抜くも猶ほ足らずと謂ふべし、中ん就く彼等の祖師日朗上人は富山に帰伏して両度下向す・古老遺弟皆以つて存知なり、倩を日学の過言に就いて閑かに内外の法令を案ずるに唯富山の高位を毀るのみに非ず、兼ねて祖師上人を詈ること有り、昔は聞く月氏の大漫波羅門は賢愛を謗して地獄に入り、今は見る日域の日蔵日学等は正師を怨みて妄語を放つ・哀れなるかな、経には口則閉塞と説き・釈には舌口中に爛ると定む、妙楽之れを受けて口中に爛る猶ほ華報と為す・謗法の罪苦長劫に流ると云云、汝等の逆罪具には経釈の如し鳴呼の多言酬答するに能へざるのみ。
                                                                 摧邪立正抄
時に貞和六暦暮春中旬の候・日学法師の邪筆に就いて富山門徒等之れを注す。

編者云はく、本山蔵・念真所破抄等合本の首に云はく。
 「摧邪立正抄      日心之」
とあり日心所持の本なること明かなりと雖ども、日心の行実不明なり、但し或は念真所破抄の識語の日順の弟子日伝を距ること遠からざるか。
又現本少しく北山及び要山等の写本(徳川時代)を以つて補ふ所あり。
                                                             日亨識るす

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