富士宗学要集第二巻

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール

日順阿闍梨血脈

夫れ法性真如の宮の中には純円一実にして異途無けれども、妄想顛倒の夢の間には不融隔歴にして差別有り、爰を以つて久遠実成の如来は常寂光を起つて伽耶の塵に同じ、下方涌出の大士は虚空会に住して末法の付を受けてより已来、世尊は四味の調停を設けて一乗の真実を説き、菩薩は二千の星霜に向つて万年の利益を念ひ、一代の所願皆巳に満足して三時の弘経断絶無し。

 所謂正法千年の間には、迦葉阿難等の尊者は先つ小を弘めて大を略し、次に竜樹天親等の論師は大を歎して小を斥け、像法千年の機には法華迹門を分つて薬王菩薩に付す、次の如く異域には則ち陳隋両主の二代・天台智者と託生して南三北七の十師を破し、開三顕一の一乗を崇む、倭国には亦た伝教大師と再誕して・南都六宗の諍論を救ひて北嶺一実の中堂を立て末法万年の時には法華本門を以つて上行菩薩に嘱す、正像稍過ぎ已つて末法太だ年久し、早く爾前迹門の人法を廃して、宜しく法華本門に帰すべき時節なり、何を以つて知ることを得る・安楽には悪世末法と説き・薬王には後五百才と明す・天台は遠沾妙道と判し、伝教は今正是時と定む、従地涌出の菩薩・如来神力の所付・誠証分明なり誰か之を疑はん、天台智者の解釈・伝教大師の校合・文理分明なり、争でか信ぜざらんや。

 中ん就く及加刀杖の衆難を頂上の大疵に備へ・数数見擯出の経文を両度の流罪に表はす、况滅度後の怨嫉は如来の現在に越へ、護持此経の功力は正像の祖師に勝れたり、当に知るべし・日蓮聖人の出現は上行菩薩の後身なり、行者已に出世して結要付属を弘通す、世人信謗を生ず豈に広宣流布に非ずや、但純ら崇重無きは時未だ至らざるが故なり、弘法三十余年・貴賤頭を低れ扶桑六十余州順逆結縁す、沒後住持の為めに六人の付処を定む、弘安第五葉太歳(壬午)の候・初冬十三日・春秋六十一・武州池上に於て非滅現象を示す。次に日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり、稟承五人に超へ・紹継章安に並ぶ、所以は何ん・五老は同く天台の余流と号し富山は直に地涌の眷属と称す、章安は能く大師の遺説を記し・興師は広く聖人の本懐を宣ぶ、昔智者の法を学するの人・一千余にして・達すること章安に在り、

今法華宗と呼ぶの族・数百輩にして・得ること興師に帰す、鳴呼倭漢境遠けれども能聴の道通じ・本迹異なりと雖ども所伝の徳斉し、只宣記能伝等のみに非ず・剰へ鶴林の日月惟れ同じ・伏して富山の立義を検へたるに・堅く爾前迹門を破して高く無上の実本を顕はし、偏に諸師の謬誤を糺だして専ら大聖の古質を写す、譬へば鏡像円融の如し、誠に是れ聖を学ぶ賢師なり、本地は幽微にして凡慮測り難し、但だ雨の猛きを見ては竜の大なるを知り、花の盛なるを見ては池の深きを知るのみ、已に久遠の大人に値ひて本門の深法を伝受す、敢て始行の菩薩に非ず殆ど無辺行の応現か。此の師亦た法主の佳例に准望して六人の名言を授与す、頗る上聖値遇の古老なり、仍て過半先立つて逝去す、往古治定する所なるが故に本六人と云ふ、次に一乗の大機を撰量して、重ねて六人の碩徳を添加す・是れ最後随逐の若徒なり、蓋し末世の竜衆と謂ふべし、近来賞翫に預れば乃ち新六人と名く。化導年旧く機縁の薪尽き、元弘三年太歳癸酉二月七日・八十八旬・駿州富士重須の郷に坐まし臨終正念にして説法時を移し、面貌端厳にして終に以つて遷化す。

次に日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し・宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す、其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざること無し、当家の入門に於いて亦次第梯隑す、先ず日向日頂の両闍梨に遇つて天台与同の想案を廻らし、次に富山日興上人に依憑して本迹水火の領解を成し、彼是校量して終に富山に移り畢んぬ、爾れより已来或は武家を諌め多年謗法対治の訴状を捧け、或は貴命に応して数帖自宗所依の肝要を抽んづ、所以に本迹要文上中下三巻・十宗立破各一帖十巻・内外所論上下二巻・倭漢次第已上二巻・且つ之を類聚して試に興師に献す、興師咲を含んで加被せしむる所なり、此の外撰述多端・注記相残して延慶三年太歳庚戌暮春十四日・四十九歳にして駿州富士重須の郷に在つて定寿未だ満たず・師に先き立つて沒す、具徳は荊渓に准し・聡敏は顔回の如し、彼の荊渓は天台の六祖・末書製作の大師なり・利物久しく周し、是れは大聖の三伝・本迹要記の和尚なり、妙道遠く沾さん・像末遥に隔つれども興隆均等なり、周の顔回は仲尼の弟子にして我遺三聖の随一なり、三十にして早世す、我が先匠は富山の写瓶・地涌千界の流類なり、七七にして帰寂す、内外の数は別なれども短命相似たり。

幸なるかな・日順幼稚長大の古今には富山に入つて興澄両師の明訓を受け、盛年修学の中間には叡岳に登つて天台四教の幽頂を伺ひ、嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同号二年八月に身命を捨てて禁裏最初の奏聞を致す、爰に和上示して云はく・遠く西天を訪ふに迦葉已下の相貌具に付法蔵伝に載せたり、近く東土を尋ぬるに天台伝法の歎徳亦玄文止観の如し、今末法に相当つて弘経の極聖未だ本門流布の元由を記せず、日澄図する所の要集は実に後代の亀鏡たり、視聴共に貴重せしむ、末学必ず応さに流伝すべし、但し本師補任六人の内・五師は天台沙門と注進し日興独り先聖の遺弟と挙ぐ、倩ら事の意を案ずるに天台大師は薬王の応誕・迹化の菩薩なり、像法の世に迹門を弘む、日蓮聖人は上行の後身・本化の大人なり、末法の時に本門を立つ、薬王上行人殊に・迹門本門法分れ・像法末法前後し・迹化本化高下有り、五人何の意ぞ輙く本化高位の先師聖人を擱いて、恣に迹化已過の天台の末弟と称するや、加之・神明の有無・仏像の用不・戒門の持破・倭漢の両字・異義蘭菊にして所立不同なり、澄深く此の意を得るも筆墨に能へずして空しく去りぬ、汝先師の蹤跡を追ふて将に五一の相違を注せよと云云、忝くも厳訓を受けてに紙上に勒し粗ぼ高覧に及ぶ、已に成功の刻に宿習の恥辱・所感眼に在り今生の遺恨欲心足らず竊に学窓を辞して徒衆を謝遣し屡旧里に帰つて山家に隠居す、左遷の楽天は客を友として述懐し、上陽の白髪は月を望んで愁を休む、闇闇たる寝内に独り往事を思ひ、寂寂たる草庵に誰か新年を告げん。

洞中鶯囀つて漸く初陽を弁へ、庭上の梅匂ひて乃ち二月を知る、折節鳥啼来由の伝説を以つて祖師風気の消息を遣し馬に鞭つて大沢を出で驚き走つて富山に詣づ、師の曰はく一代教主の釈尊は方便して涅槃を現し、十大弟子の那律は目を失ひて天眼を得たり、我年齢已に傾き唱滅の時至れり、汝肉眼闇に似て智目猶ほ存せり、縦ひ公場の上奏を経ずと雖も、何ぞ強に門徒の交衆を遠離せん、再三の遺告尊貴肝に銘し、四衆の助言・辞退するに拠ろ無し、抑も高祖所勘の安国論の文に五難忽に起つて二難猶残る、所謂他国侵逼と自界反逆と云云、正中より已来当年に至つて、公家武家闘乱し自界反逆至極せり、他国侵逼競ひ来らば信伏随従疑ひ無からんか、悦ばしきかな・金言朽ちざること・憑もしきかな聖言普合せること、仍今ま旦は仏法興隆を期し、旦は報恩謝徳の為め、一流相伝の血脈・聊か短盧に任せて案立す、測り知んぬ爾前迹門の他宗・我慢偏執の自徒は定めて誹謗を成し難破を交へん、さもあればあれ・法華本門の学侶・道心弘法の後見・須く冥顕を鑒み添削を加ふべきのみ。

 時に建武三年大歳丙子九月十五の天、甲州下山大沢の深洞に処して日順謹んで乃を図す。

編者曰はく本山蔵日心本立正抄等合本に依りて之を謄写し更に一校を加ふ、但し日心本の系線明ならず今文意に依つて略して之を訂せば左の如くならんか。

ホームへ 資料室へ 富士宗学要集目次 メール