富士宗学要集第一巻

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有師物語聴聞抄佳跡上

                  大石寺卅一代隠居日因在御判。
                       七十一歳之を注す。
 日因私に云く此の丁聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り之に准して之を思うに恐くは是南条日住の聞書なるべし或は亦日有上人の御直記なるか。
 
一本書曰日本人王百三代文徳天王の御宇寛正三年(壬午)七月十一日より聴聞し奉る処を書き奉り候上巻の分已上、日因私に云く此の中に文徳と云うは謬なり、応に後花園院と云うべきなり、王代一覧七(初二十九)云く永亨元年乙酉十二月御即位寛正五甲申七月御位を東宮に譲り給ふ云云、和漢合運下(卅四卅五)之に同じ、御在三十六年治世なり、若し文徳天皇人王五十五代仁寿元辛未御即位天安二戊寅年に至る御在位八年なり、合運下三、王代一寛二五十。
 
一本書曰日有上人の仰に云く天竺には祇薗精舎を寺の元とす、唐土にては白馬寺を寺の始とす、伍朝にては難波の四天王寺を初として候、其の上釈尊出世の本懐たる末法修行の寺に於ては未だ三国に立ち候はざる処に此の富士大石寺は上行所伝の題目弘通寺の元にて候、柳袋の彦次郎地頭方より得銭をかけられて候間、此大石が原と申すは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為めに三人の留主居を定めて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成り候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫に此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継きたてまつり候と仰せ給ひ候已上。
 
日因私に云く日有上人御伝は具に精師家中抄の下の如きなり、御俗姓南条氏、当山第八代日影上人御弟子なり、御幼少にして出家し受学而して当山第九代の貫主と為り、富山門徒化儀百廿一箇条之を定め南条日住之を記す、而に永亨四壬子年三月花洛に到り申状を以て宗旨を奏聞す、而る後関東奥州北国越後等に御弘通なり、然に宿病有り転じ難き故に甲州下辺の湯に入り給ふ同国河内郷杉山に御入定時に文明十四壬寅年九月廿九日なり、然に有師悲願深重にめ益を得るの輩其れ幾くつ乎、故に御入定已来今年宝暦七丁丑天に至る二百七十四年の間年々御威光倍増、月々参籠之れ多く日々御利益を蒙るなり、然して今予不才なりと云へとも御説法の趣きを開演して輙く之を記するのみ。
 
仰天竺祇薗精舎とは、此則本門寺の元由を明んが為に先ず三国寺の始を示す、次に本門弘通の最初富士大石寺の興廃を明すなり、先つ祇薗精舎とは天竺伽藍の始め釈尊御説法の処なり、一代教蔵法数卅二五五精舎を明す一には舎衛国給孤独園の中精舎有り祇薗精舎と号す須達長者金を祇陀林の地に布き祇陀太子に求めて而して寺を建立す、法苑珠林五十二廿三感通伝を引くなり、○祇園亦祇桓と云い又祇・と云う倶に梵語なり、名義集三四、御書十八同注、啓蒙廿七百八、二に摩訶陀国・王舎城・霊鷲山中に精舎有り、三に毘舎離国獮猴池に精舎有り、重閣講堂と曰うなり、又那蘭陀池と云うなり、四に摩訶堤国・那羅聚落・好衣菴羅園中に精舎有り、五に王舎城・竹林精舎此を天竺の五精舎と云うなり。
 
次に白馬寺とは法苑珠林廿十三云く漢の明帝遠く摩騰法師を召す・来て洛陽に至る城西壅門外に於て白馬寺を立つ・是れ漢地伽藍の始なり云云、又仏蔵心宝四(六十二)那蘭陀池と云うなり仏道論衡第一巻上引いて云く明帝大に悦び即洛陽の西に於て精舎を立つ即今の白馬寺是なり云云、又啓蒙二初二緒文を引く往見、又霊山五山有り(一天王穴、二七葉穴三中鷲峯仏説法処四蛇神穴五独力山教乗法数卅三十二)
 
次に四天王寺とは今の天王寺是なり、此れ守屋の逆を討つて之を建立す仏法最初の寺なり、御書卅九・同啓蒙二初・日本記十九廿四已下・釈書十五太子伝等に明白なり。
 
次に釈尊出世の本懐とは即法華経なり、法華経に三の習あり、第三の法華経は即末法下種の法華経なり、此即寿量品の肝心・文底深秘の大法なり、日蓮が第三法門是なり、又広略要の中の要・法華経・神力品付属妙法蓮根華経なり、太田抄廿五・取要抄九・本尊重抄八・開目抄上・常忍抄卅一。
然るに当山建立は正応三年十月十三日に之を成就し畢る、日興上人同日の御内に此の寺を以て住寺日目と之を定む、御座替の御本尊是れ其の証拠なり、但し大石寺付属の譲状は元徳四壬申三月即正慶元年なり、此表趣の御遺状なり。
 
次に柳袋の彦次郎等と者未だ之を勘へず、但し此の下日有上人御代の事之を記するか、彦次郎即地頭なるか、或は地頭より柳袋彦次郎に申付けられ大石寺より年貢を取り給ふ事なるか、中に於て上代地頭奥津方とは日行上人・日時上人両代の間・日郷・弟子中納言阿闍梨日伝と伝ふ僧奥津方に取入り違乱をなす故に十八貫文を出し、此大石が原を永代買ひ得たる者なり、然るを亦彦次郎地頭より年貢を取らんと欲する故に日有上人末代の事を思召し三人の留主居を指し置かせられ申し被きを致為せ玉へる者か然るに此三人の留主居・寺を捨て退き去る故に六年の間・彦次郎に奪取られ謗法の地と成り玉ふなり、之に依つて日有上人御老躰の身として寛正年中に甲州大杉山より立ち帰り・此の寺に住し二十貫文を出して此の大石が原を買い取り寺を建立して・高祖大聖人を安置し法命を相続すと申す御説法なり、老僧立帰るとは日有上人御自身の事なるべし、寛正元年庚辰より文明十四壬寅九月廿九日に至る廿三年なり、故に知ぬ寛正三年の比・六十有余の老僧なるべし、応に知るべし高祖大聖人の御命を継ぎ奉るの処大切なり、高祖大聖人の御命即南無妙法蓮華経・本極法身の恵命なり、人法一箇の御本尊是なり、是より已来だ今年は宝暦第七丁丑正月廿六日・日因・日教・日元に至る卅一二三代大聖人の法命を相続し奉り芥爾も断絶なく唯未来広宣流布して断絶せざらしむるを願うのみ。
 
一本書曰次の日の御物語に云く奥州岩が崎、岡小名殿の親類かはかやの岩見と云ふ人登山申して候、是れは文武二道に達したる俗人なり、去れば当宗の即身成仏の当躰を歌によみて候。
 
ちらぬ花入らぬ月とも見つるかなもとのまゝなる人の心を。
 
四方の山白雪つもるころなれはわけて色ある富士の根もなし。
 
如何にも当宗の即身成仏と申すは・愚者迷者の上にて信を以て即身成仏とは申し候、去れば師弟倶に三毒強盛の凡夫にて・南無妙法蓮華経と余事余念もなく信し唱へ申す処が・即身成仏にて候・然る処に此の教化に預りながら・此の妙法蓮華経とは如何なれば仏に成り候や、さて化儀と云ふ心は如何んと尋ね候はん人は自ら謗法なり、智慧に成し候へば天台宗なり・されば迹門・理也・日蓮聖人の御出世の本意を破るなり、宗旨に非すと仰せ候なり已上。
 
日因私に云く此中に宗旨の大事を示す、所謂当宗の即身成仏・事の一念三千の南無妙法蓮華経是なり、此則愚迷を簡はず有無の智を論ぜず師弟和合して御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人の当躰・即無作三身如来なり、日蓮聖人御出世の本懐是なり云云,当躰義抄廿三(十三)。
 
次に奥州岩崎・岡小名殿とは、奥州岩城・岩崎郡岡小名郷領主なり、今安立寺有り岡小名殿の建立なり、岩城・菊田郡黒須野村永照山妙法寺より東北方なり二里半程あり、日因も十六七の比彼の寺に行つて之を見る本は当山の末寺なり其の証妙法寺に之有り、開山上人御判・岡小名安立坊授与之・日有判と申す御書物之有り、又日有上人御本尊之有り、然に中比住寺之無く江戸谷中感応寺より下向の僧を住居せしめ彼の末寺と為し給うに、其の後感応寺潰れて後延山客末と為る、大聖人四百五十年忌の時金子五両を出して代々上人寺と成れり、又岡小名より三四里の北方に片与瀬本行寺あり此の寺も岡小名安立寺と同断・本と当山の末寺なれども感応寺末と成り候故に潰され候節・身延山末寺代々上人寺と成れり、日院上人御本尊に片与瀬六郎三郎に之を授与すと申す御本尊妙方寺に之有るなり。
 
次に河萱岩見と云ふ人未だ其の所在を知らず推するに岡小名の近郷なるべし、文武二道の達人のみならず・歌道にも達し玉ひ当宗の本意をも能々心得給へる故に二首あり、第一の歌に云ふちらぬ花とは常住の妙法蓮華経なり、入らぬ月とは真如常住の仏なり、且く本有の境智二法に分ち以て月花となす、故に下の句に本有の心躰と結び給ふなり、第二の歌に云く四方の山とは一切衆生の煩悩重畳の山成るべし、富士の高根は仏性常住妙法の山なり、白雪とは南無妙法蓮華経の流布なり、大白法なるが故に白雪に喩へ玉ふ、されば今末法広宣流布の時節なれば四方山の一切衆生も、富士の高根・如来常住の山も同く即身成仏・大白法の南無妙法蓮華経にして、別して此の山・彼の山等と色相を分別すべからずと云ふ心なるべし、仍て当宗の即身成仏当躰蓮華経の意なり、御書廿三(十二十三)に云く妙法蓮華の当躰とは法蓮華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり云云、又云く正直に方便を捨て但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道・法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕れ、其の人の所住の処常寂光土なり、能居所居身土心・倶体倶用・無作の三身本門寿量の当躰の蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり云云、即此の意なり但法華経を信じてとは三種法華経中・第三文底下種法華経なり、熟脱の法華に非ず何ぞ天台宗智恵の法華経を取らんや、彼は迹門理の一念三千の妙法なり、此は本門事の一念三千の妙法なり、仍て当家門人智恵才覚の所用を斥け玉う蓮祖出世の御本旨を破する以ての故なり。
又日有上人の御辞世杉山に於て御入定の砌り遊ばされ給御歌岩城妙法寺に有り今之を示す、かきをくも袖こそぬるれ藻しほ草露にさたまる身のはてなれは。
 
御本書之を写し奉るあはや無常なり、御歌なり御心は常住妙法蓮華経なれば書き置かせ給べく・今に当宗の即身成仏の旨を信受し奉る、然れども此の身は海藻のごとく、寿命は草の上の露のことくなれば終に無常に帰すべしと、御袖をぬらしながら末代衆生我等凡夫の為に御筆を染め書き残し置かせ給ふ御言葉有難さ申す計りなし。
 
一第三段本書云日有上人仰せに云く、当宗は如何にも師弟相対の処に・余念なき処を即身成仏と御無沙汰候、既に日興上人・日目上人に御法門仰せ給ひ候ける御座に・玉野の太夫阿闍梨日尊御入り候けるが、御庭に梨木の葉の風に吹かれて・さらりさらりと鳴りけるを見かへりて御覧じければ、其の時余念あり不信なりとて御不審召さる事・廿五年なり、然れば廿五年の間、毎年十月十二日には大石寺え参り給ひて御訴訟ありけれども済まず、而して又修行召さる間・廿五年目に御免許あり・其の間弘通所卅六箇所なり、然る間・日興上人の御筆の御本尊卅六幅授け給ふ、此の三十六箇皆大石寺の御門徒にて候ひしが・今程は中絶の分にて候併ら今又本伏の方々多く候・然る処に住本寺の坊主僧俗八人当寺に参詣候、物語りの次で日尊の謬りの由申され候、其の故はと問へば日尊住本寺に模刻の本尊を彫申されたりと云云、此の由能々聞くべしと思案候処に・住本寺同宿来り候間委細尋ね候へば、住本寺の本尊にはあらず、上行寺の本尊なり、此の本尊には我が判を成されずして私の意趣を彫り付られたり、其意趣は日尊是を刻彫すと書かせられたり、此の時は当門流の化儀をば心得定められたり謬らざる儀なりと仰せ給ふ候なり已上。
 
日因私に云く、此の中に日尊御勘気の間廿五年とは恐くは記者の謬なるべし、又御勘気の時は永仁年中日興上人重須御影堂に在り御説法の砌なり具に日尊伝記の如くなり、又梨木並に日尊石今現に重須の堂前に在るのみ、然るに有師今興目両師の御法門及ひ毎年十月十二日大石寺参詣御訴訟と遊ばされ候事は根本重須・大石寺は両寺一寺なるが故に、重須寺を以て大石寺に摂し遊ばさる御心なるべし・又日興上人・日目上人御法門仰候とは師弟相対・事の一念三千の御法門を日興上人仰聞かせられ候へば・たとへ御一人にて仰せられ候とも・日興日目師弟相対の御法門なり是の如く信を取り候へば謬に非す候、但廿五念とは異説も之有る事か、又記者の謬なるか、多分に十二年と伝記に之有り。又中絶本伏は一本覆に作る本伏と意同き者か、今関東奥州に尊州に尊師卅六寺の内五け寺大石寺に附く謂く武州久米原妙本寺・下野幸島福成寺・小薬浄円寺・奥州白川守屋満願寺・仁井田願成寺是なり、其の外仙台仏眼寺・本と米沢妙円寺なり分て寺を引くと雖尊師建立米沢妙円寺なり、会津実成寺此等本伏類にして当山に通用し信心の檀那時々参詣なり。
 
次に京都住本寺・上行寺中比日辰二け寺を合せて要法寺と号す近年亦要法寺地中円坊と云僧住本寺を建立す今の九条の寺是なり、此寺建立最初円境坊当山に参り日永上人に願い金子四拾両借用して弟子分になり住本寺を建立し当山の末寺と号す、而して公所の書出しには無本住本寺と称す、去る延亨元甲子年諸末寺御改の時吟味を遂げ候処に無本寺と公所え書き上け候上は只今大石寺末寺とは書き上け成り難きの旨申し候間、是非に及ばず当山末寺の名を除き畢ぬ、然も通用は前々の如く末寺同断と申し合せ置き候なり、同石州に新寺二け寺之有り此亦同断住本寺に附して但通用のみ之を許すなり日因代なるが故に具に之を記する者なり。
 
次模の本尊刻彫とは模莫奴切・法なり規なり、字彙に曰く模範規模又形なり云云、今板御本尊を刻彫し尊師高祖の御真筆を写し奉る事なるべし、開板行したる事には非るか、仍尊師刻彫意趣を書き付け玉ふ御判形を極めず候間の当家の化儀能々御心得決定信心故謬らざる儀と御褒美し玉ふなり、然して御本尊に御判形在る事当家にて唯授一人の相伝なり、尊師之を守る故に御一生の内御自筆の本尊一向に之無きなり。
又此段の所栓は当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少も余念無き処を云ふなり、此則師は是れ仏界なり、弟子は是九界なり、師弟和合にて余念なき処は事の一念三千の妙法蓮華経なり、若し少も余念有らば師弟不和なり、何を以て事の一念三千即身成仏を論ずべけんや、故に日尊余念起て飛葉を見る故に十二年の御勘気を蒙る事を引いて以て末代の弟子を誡る者なり、後代の弟子弥慎むべし慎むべし。
 
一第四段本書曰七月十五日・仰せに云く孟蘭盆と申す事は一年中の大斎日なり・尤も志の日なり、併ら百味の飲食を調へ親・聖霊計り吊ふ事謂はれなし、親の為には僧を供養すべし、其故は仏事とは無縁の慈悲に住する所なり、無縁の本躰が出家なり、されば仏事には僧を供養するなり已上。
 
日因私に云く・盂蘭盆の事御書に之有り之を拝見なすべき者なり、但し天竺には目連・母の青堤女を救うより之を始め、大唐には唐代第八代宗太暦元丙午七月始て盂蘭盆会を禁中に作り、即日本人皇四十八代称徳天皇の天平神譲二年に当るなり、日本国人王卅八代・斉明天皇三年丁巳盂蘭盆会を設くる始なり、同く五年己未七月詔を都諸寺諸山に下して盂蘭盆経を講ず、即大唐第三代高宗顕慶二年に当るなり、今案ぬるに日本国盂蘭盆会を始むること・大唐盆会を始むるに先すること一百十年なり、然に盂蘭盆経渡ること其れ久し・何となれば竺法護三蔵西晋武帝代泰始元年乙酉七月・洛陽に至りて後生法華経等を訳する序に盂蘭盆経を訳せり、故に大明蔵経目録一(廿を)云く仏説盂蘭盆経一巻・西晋竺法護之を訳すと云云、日本人王第十五代神功皇后六十五年に当るなり、但し盂蘭盆経は方等部の経なるへし・既に弾責の義有るが故、又十方聖僧に之を供養する百味の飲食・挑灯等の事は尊重の供養なるが故なり、既に十万聖僧を供養して青堤女が餓鬼の大苦を救う・何ぞ但我が親霊のみを供養せんや其の上当宗の意は無縁の慈悲に住して之を廻向する故に須らく仏法僧の三宝を供養して以て正意となすべし、此れ即無縁慈悲の本躰なり。
 
今、文に無縁慈悲の本体の出家と云うは、当宗出家の当躰即仏法僧三宝なるが故、又本理を以て法と為し、智水慧を以て仏と為し、慈悲を以て僧と為る故に、僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし、若し仏法を難る僧は是名聞利養なれば之を供養すべからず何に況や謗法の他宗の僧をや故に吾宗祖の云く由井か浜に引き出て頚を切れ或云く其の施を止めよ等云云・即此の意なり。
 
問ふ当家の盂蘭盆供養の仏事儀式如何、答ふ当山には毎年七月十四五六日、法会の儀式・宗祖開山已来仏事なり、十四日夜の一夜不断の経他門に之無き仏事なり、十四五六の廟参・説法亦他山に之なし・具に別帋の如し云云、応に知るべし唯信心の法会なるのみ。
 
一第五段本書云又云く国王の御寺を勅願寺と号するなり・将軍の寺をば祈願寺と号するなり、京都に於て尼が崎の慶林房の寺にて候本能寺は祈願寺なり、然れども将軍未だ宗旨に入らざる謗法にてある間・寺号を成される時は只偏に彼寺謗法の所なり、此等に信を成さるゝ真俗一同必々大謗法なり、当宗の御堂は如何様に造たりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども・高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり已上。
 
日因私に云く此の中尼崎即本興寺・京都は本能寺皆日隆の建立なり、京都妙蓮寺は日忠の建立なり、妙願寺の地中より出てて8品所顕宗を立つ、然るに8品宗の根本は駿州岡宮光長寺日春を以て最初と為すなり、光長寺日春は8品の所顕の法門を甲州鰍沢妙法寺日伝に受るなり、日伝は寂日坊日華の弟子にて違背の弟子なり、門徒存知に云く甲州に肥前坊日伝と云者有り、寂日坊違背弟子なり云云、日伝後刑部闍梨と号するなり、妙法寺三代なり、家中抄に云く妙法寺・蓮花寺・経王寺は高祖御名を付玉ふ最初の寺号なり、妙法寺血脈、日興日華日伝云云、日伝私に本尊抄に依つて本門八品所顕宗を立て四苦薩を造立す専ら本勝迹劣の法門を弘める故に門徒存知に云く日興が義を盗みとり、甲州に盛に弘通す・又身皆金色の四苦薩の脇士を造り副える云云。
 
次に彼の寺々の謗罪の事は第一に蓮祖の御本懐に背いて私の一見を起し八品所願を立つ故に、信仰の真俗倶に大謗法となるなり第二にはたとひ勅願所願所たりとも君臣未だ宗旨に皈入せざる故に、謗法の祈願と成るなり、故に今之に付玉うなり。
 
次に当宗の御堂の事・本門御本尊堂と広宣流布の時之を建立す、故に当山但祖師堂計りなり、故にたとへ十界勧請の御本尊を安置し奉るとも御影堂なり、若し国主此法を持ち広宣流布御願成就の時・戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置すること・御遺状の面に分明なり、されば広宣流布の時・本門寺を建立し額を掛くべき証文に云く、額・大日本国富士山本門寺根源・此の本尊は日蓮が大事なり、日蓮在御判、日興上人に之を授与す已上、又重須御御影堂御棟札に云く、一日蓮聖人御影堂・一本化垂迹天照太神宮・一法華本門根源・永仁六年二月十五日・国主此法を立てらるゝの時は、三堂一時造営為すべきなり、願主白蓮阿闍梨日興在判、大施主地頭石川孫三郎源能忠、合力小泉法華衆等、大施主南条七郎次郎平時光、同上野の講衆等已上、故に知ぬ本門寺建立並に御本尊堂造営正く広宣流布の時に在るなり、御遺状に云く一つ日興が身に宛て給う所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す本門寺に掛け上る可しと云云、余は之を略す具に之を拝見し奉るべきなり。
 
一第六段本書云日有上人仰せに云く、佐渡にて然るべき禅宗に相値ふて当宗の即身成仏の法を申して候へば珍敷き会通候ひしなり、法華宗の信の当躰にて愚者迷者の上にて即身成仏するは・法界同時の成仏と御無沙汰有る事殊勝なり、然る処に立帰り念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と沙汰有る時は輪廻かと云へり、答へ給ふ・されば信の上と云ふは先師日蓮聖人の仰を堅く信ず処が信なりと云ふ時、さてこそ実の法華宗にて御座候と印可するなり已上。
 
日因私に云く此は是日有上人佐渡国に於て禅僧との対論なり、当家の意は有智・無智・愚者・迷者・一切皆唯信心の当躰即身成仏なり・此れ即事の即身成仏なり・堅く蓮祖の仰を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は本門寿量の当躰蓮華仏なり、但し彼の禅僧の云ふ法界同時の成仏とは理の成仏なり、十法界一切衆生・皆同一仏性なるが故に今法華本門に顕本し已れば法界同時に即身仏なり、然る処に立帰り折伏禅天魔等と云う事・緒宗人々謬つて法華本門の意を知らざる故に・本門宗に入らしめん為の序分に之を責む、若し信伏随従して法華宗に入る人は唯信の一字を即身成仏を以て、所謂堅く高祖の仰を信受して南無妙法蓮華経と唱うる処が即身成仏なり、故に彼の禅僧印加して実の法華宗と云うのみ然れば則彼禅僧内心には深く法華宗を信受する者なり。
 
一第七段本書云遠江国橋本云ふ処に・天下に隠れなき禅僧あり、尋ね行き値ふたれば何宗ぞと問ふ,日蓮宗と答ふ、其の時云ふ様・法華経に深入禅定見十万仏と見へたり是如何、答へ給ふ様・深入禅定と信じて候・さて見十万仏は其れも信じて候と云へば、悉く取り置いて禅定は信なり、十万仏は実に我能信の時は法華経なり、法華経は三世の諸仏の惣躰なりと取り置き・褒美するなり已上。
 
日因私に云く此は日有上人・遠江国橋本に御旅宿の間の御法門と見へたり天下名誉の禅僧と聞かせ給ふ故に熊々御出会の御法門なり、然るに彼の禅僧深入禅定の分を拳げて難を為す意は禅家にては此の法華の文を禅覚の証文とせり、其の故は深く禅宗に入れば吾心中に十万緒仏を見る何ぞ外に他仏を求めんや、故に引て以て難文を為すなり、日有上人御答の意は唯信の一宗なり、但深入禅定を信じ亦見十万仏を信ず・悉く皆他事を捨て唯我信心のみ所謂能信倶に妙法蓮華経なり、此の妙法蓮華経は即三世諸仏惣躰なるか故に・信の一字を以て深入禅定等の文と決するなり、然るに此文は本と安楽行品の偈・夢中に十地に入るの文なり、今の意は深入及見仏倶に唯信の一字なり、禅定及十万仏・即法華経なり・故に我等凡夫の能信所信の合する則妙法華経の即身成仏なり、故に彼禅僧も唯信心の一句に屈伏せりと見えたり。
 
一第八段本書曰京都相国寺の鹿園院に住しける僧に越後にて値ふて当宗の即身成仏は信なりと、沙汰すれば・軈て云ふ様さては法華経は別なし、能信の人即法華経なりと云ふ・去る間佐渡の東光坊にかけさせたる文袋より当躰義抄を取り出して、高祖の御金言に日蓮が弟子は妙法蓮華経なりと、遊ばされたる処を見せたれば・能々拝し奉り頂き奉りて当宗の躰を讚して申されたるなり、先ず御書を拝し奉らずして云く仏法の大綱を学したらん者が是躰の事を云ふべきなり、加様に天下に隠れなき善知識と云ふ人達には寄り会ひ・当門流の法理を申し聞かせたりとの給ひ候已上。
 
日因私に云く・此より上第六七八の三段の御物語の大意は・日有上人諸宗弘通して御法門を仰せ聞けられ候趣なり、中に於て第六段は佐渡国にて禅僧に対しての御法門なり、第七段は遠江国橋本の宿にて禅僧と問答なり、第八段は越後国にて京相国寺鹿苑院の住僧を御教化なり、今此中に相国寺鹿苑院とは尊氏第三代将軍義満公・永徳三年癸亥相国寺を建立し・禅僧妙葩亦春屋と号す南禅寺住持なり此の僧開山と為る、然れとも妙葩・師匠夢窓国師を以て推して開山と為すなり、又康暦二庚申年義満公鹿苑院並に宝幢鐙寺を建立するなり、相国寺建立より四年前なり、将軍義満永元甲戌十二年十七日将軍を嫡男義持に譲る時に義持九歳なり、同廿五日義満太政大臣に任ず歳三十七、同く応永二乙亥六月義満落飾歳卅八・道号天山法名道義と云ふ応永八辛巳、年道義・書簡を大明の皇帝に贈る・黄金千両及器物若干遺す、大明建文帝返簡を道義に寄す・中に云く日本国王道義と云へり、
 
応永十五年戊子五月六日、前の征夷大将軍太政大臣従一位准三宮源義満法名道義・北山館にて薨す満五十一・鹿苑院殿と号す・天山と称す・勅して太上天皇の尊号を贈る・而るに義持辞して受けざるなり、又同年十二月大明成祖皇帝・義持に贈り祭文を作つて義満を吊い泰献と謚するなり云云、王代一寛六(四十三下五十)又和漢合運下(卅一う)卅三ら云云、此即人王一百代後円融院、同百一代後小松院御宇なり、北山殿と申すも通義の事なり、淳和奨学両院の別当、源氏の長者と云義満公より武家に下る・本は鳥羽院の勅にて代々久我家の補任なり寔に以て武家繁昌・将軍猛威此の時に在るのみ、然る間の義満公五山の座位を定む、南禅寺を以て五山の上と為す、天竜寺を第一となし相国寺を第二となし建仁寺を第三となし東福寺を第四となし万寿寺ヲ第五となす、鎌倉五山は建長寺を第一となし天竜寺に次ぐ円覚寺を第二に寿福寺を第三に浄智寺を第四に浄妙寺を第五に此を十刹と云うなり云云、仍て五山の禅宗国中に遍満し学行する者を・散僧と云ふ、学業成就して住寺となり長老・和尚・国師・僧録と云ふなり、然るに此の相国寺鹿苑院の住僧を越後国に於て御教化遊ばさるゝ事は、彼僧根機純熟して法華経と行者と人法一躰と悟道し王ふ故に当体義抄を示すなり、彼僧先つ御書を手に取り頂戴して称歎して云く・法の大綱を学したらん者が是躰の事を言うべきなり、而して後能く々頂き拝見し奉り・当宗の信者当体の妙法蓮華経の法門を讃難する事は即禅僧皈伏の相なり、当宗の躰とは文の面は宗旨の躰相を讃め玉ふ様なれども・元意は当宗当躰妙法蓮華経の法門を讃歎し玉ふ意なるべし。
 
次に加様に天下に隠れなき善知識等とは、上来三段の文意を結し玉ふなり、謂く佐渡の禅宗・遠江の禅宗相国寺の住僧・是の如く天下に隠れなき善知識達に出で合ひ当門流の法門の極理を申し聞かせ教化し玉ふぞと云ふ事なり、されば日有上人の御化導室て尊高なり今の僧は身に覚えなく説法教化すと云へども・畢意は名聞利養なり、たとへ学力之有るの人も禅僧等知識長老を見ては恐れ隠れて対面もせず、何に況や教化訓練をや、然るに予は去る延亨三丙寅年三月御朱印御改めの時、秋元但馬守別席に於て甲州の禅家曹洞寺の僧録に対面す・大泉寺と号す、彼の宗義此の宗旨を談す、且く彼の僧信仰の意を生す而も彼の寺は武田信玄公の祈願所なり、信玄の本生は曽我がの五郎時致が再生なり・其の由緒支証具に之を聞く、
 
又吾祖の聖教多之を有す・謂く金泥の法華経一部延山より信玄之を取り納め置くなり、御書多く之有る皆是信玄之を聚め納むるなり、寺内に池有り富士見の池と称す・常に富士山の影を浮べる故なり、此の池より出で流る川水を富士川と云ふなり、其の時吾も大泉寺に行きて聖教を拝見することを約す、然れども未だ之を果さざるなり、されば信玄は過去には少し親孝の心ありて再ひ人間に生ると云へども身に八逆罪を造る、第一に父信虎公を追い出し吾が子を殺す、一門を亡し仏神を焼く、中かんづく永録十二年己巳二月七日重須の堂を焼き、同六月当山堂閣を焼き僧衆を責む、剰へ永録十三年信玄出陣し当山の境内を以て陣屋となして・根方興国寺城之を責む、然る処に八月十二日大風大波立ち寄り・原吉原の道にて源氏重代の八幡の旗を津波に取られ軍勢を流され漸く信玄近習の侍のみ此の大石が原を逃げ帰る、終に甲府に入る後出ることなくて死去し畢ぬされば信玄が本生は曽我の五郎時到・大石が原にして祐経を打つて孝の一分に似たれども実の孝に叶はず、故に悪人なる信玄を生するに至り罪障を重ぬ、此大石が原の仏法に敵対する大罪至極なり、何ぞ浮ぶ期有らんや・後代の為に之を記し置く、具に武田軍記・甲陽軍記・信長軍記等の如し云云。
 
問ふ甲陽軍記に云く永録十三年信玄興国寺城を責む・駿州大石駅に宿す云云、故に知ぬ当山の回禄永録十二年に非るなり、答ふ寂日坊日誉が記既に現証なり、当山の堂舎を焼くのみに非ず・其時の呵責言語に絶するなり・具に記文の如し、今日因云く大石原既に陣屋となる故に信玄興国寺城を責めんと欲して・先づ永録十二年当山及び在家を焼き払い・而して陣屋を造るのみ、故に知ぬ永録十三年には信玄公正く出馬して此の処に到つて以て興国寺城を責む所以に甲陽軍記には永録十三年駿州大石原を焼くと云うなり。
 
追加今日因大泉寺和尚の物語を聞く、和尚云く先代大泉寺和尚・或時駿州に出づ帰る時富士曽我の森在家に宿す、其の夜夢に云く曽我の五郎時致・一分親孝の功徳有る故・今甲州武田信虎の子と生る、其の証は左の手に目貫一を指にして生るべし云云、和尚夢寤めて不思議と為し甲府に入つて之を聞く信虎の妻懐妊す生れんと欲れども難産なり而して生る・左手を握り開かず、時に和尚信虎に申して祈念・即ち手を開いて之を見る一の目貫あり・仍つて証となす、是より以来大泉寺を以て祈願所と為すなり、今尚一の目貫在り大泉寺の重宝となる、一つ金目貫今曽我十郎左エ門殿に在り云云。
 
一第九段本書云当宗は第一化儀なり、されば四五年已前に悉且つ能化・阿耨と云ふ僧に知音候て・且をく当山に逗留候ひしが、有る時・呉竹を一間所望する間・大なる間を一つ出したれば・やらうに作る、其の夜より二夜・天魔乱入して悪魔増長す・如何様なる事ぞと能く々く案じたれば・当宗の即身成仏と進め申す我れが・禅家の道具たる・やらうを作らせたる故なり、去れば経に云く捨悪知織亦不親近と説き給ふ・釈には悪人に親近すれば復悪人と成つて悪の名天下に満つと見えたり、去る程に此の沙汰を彼の阿耨と云老僧に語りたれば・乃ち能く取り置き此の僧文を引いて云く・官には針をも入れず・私に馬車をも倶せよと云云・尤も殊勝なく殊勝なくと云つて、乃ち物語りに云く・禅僧の四十八道具の中の十八道具なり、去れば大覚禅師の風爐焼き維那に・ゆかたびらを・をどらせ・念仏を修せよとて、五箇道具とて第一には・やらうを授く・此の維那を一遍上人と云へり、去れば芥爾にも謗法の道具なんどを・当宗より・そだつる事之有るべからざるなり已上。
 
日因私に云く、一つ此の段是れ即日有上人御自身の謬を挙げて・以て末弟の謗罪を誡る者なり、第一化儀即仏法なるが故に謗法宗の化儀に同ずべからざるなり、若し謗法に同せば与同罪なるべし、何に況や芥爾も謗法の道具等を造らしめんや、故に興師波木井殿の三個の謗法を誡む、而して之を用いざる故に延山を引いて富士山に移らせ給ふ・何そ謗法の具を教育せんや、故に誡を芥爾乃至不可有と云うなり、然るに文中に四五年以前と云うは・寛正元年よりの以前・長録二三年の此見へたり、又悉且の能化とは梵字を書く指南の能化なるべし、本と悉且梵字は真言家にあれども・此の憎は禅にして而梵字を書くか或は八宗兼学の憎なるか、其の名阿耨と云ふ日有上人知る人音信の僧なり、故に当山に且く逗留せり、其の中に呉竹一間所望するは乃ち薬籠を造らん為なり、然るに其夜より二夜の間天魔入り乱れて日有上人悪魔を御覧有しかば・当宗即身成成仏の法門を障碍せん為に阿耨の薬篭を造るの便を得て・日有上人を脳乱し奉る故に悪魔増長し玉うなり、日有上人悪魔の所以を開悟するを以て之を示す、加之・阿耨を教化して造具を止めしめ・終に謗罪を誡しむ、若し智者に非んば何ぞ是の如きの教誡有らんや、所謂末法の智は当今知識の仏なり、智者覚者是なり故に顕の益有るなり。
 
呉竹とはくれたけと云ふなり、竹類六十一種有り六十年に一ひ易る・即花実あつて枯死す・実落る復生す・六年種と成る云云、昔し漢土舜王の両婦舜崩して呉竹と成る。
 
次に経に云く捨悪等とは・譬喩品偈に云く又舎利弗若し人有りて悪知識を捨て善友に親近せんと見る是の如きの人の為に説くべし云云、又安楽行品に四安楽の法を説く第一菩薩行処親近処の文に云く諸外道梵志及び世俗文筆讃詠の外書を造る者に親しまず云云、又偈に云く常に国王及び国王子乃至外道梵志等に離れ・亦増上慢の人・貪著小乗三蔵の学者等に親近せず云云、今第二巻の意を取つて引いて示すなり、涅槃経に云く・悪知識に於ては畏怖の心を生ず等云云、
 
御書一十云云、旧華厳四十八に云く・善知識とは則慈母と為て仏家に生る故に、亦慈父と為て無量の事を以て衆生を益す故・亦養育守護を為し一切の悪を為さず故に、亦大師と為て教化して菩薩戒を学ばしむる故に、亦導師と為て教化して彼岸道に到らしむ故・亦良医と為て一切煩悩患を療治す故・亦雪山と為て長養して浄智恵業を明す故・亦勇将と為て一切緒の恐怖を防護す故云云、亦牢船と為て悉く生死の海を越度せしむ故、亦則ち船師と為て一切智・法宝の淵に至らしむ故云云、仏蔵心宝廿一(五十三)之を引く、
 
又新華厳七十三に云く・善知識に於て十種心を生ず等云云・已下具に之を出す、又大論七十六に云く三種聖人及び此の六波羅密法・通して善知識を具す云云、又菩堤資粮論の六に四種の悪知識を明す、謂く世論とは近く種々雑弁才を習う故・摂世財物とは法を摂らざる故に、独覚乗とは少義利少事を作す故・声聞乗とは自利行故云云、又増一阿含八六無信・無聞・無戒・無施・無知を以て名づけて悪知識と為す、彼れ信戒聞施智恵有ること無きを以ての故に・身壊し命終して地獄中に生ず等云云、又第四十五に云く・仏偈を説いて曰く・悪知識と愚と共に事に従ふ莫れ・当に善知識智者と交通すべし・若し人本悪無く悪人に親近すれば後必ず悪因と成り悪名天下に遍し云云、類雑十廿七諸文を引く、弘四末七此増一の文を引く、
 
成実論第十七に云く善知識猶明灯の如し、日有り灯無き則ち見ること能はず、行者福徳利根の因縁有りと雖、善知識なければ則ち所益無し云云、付蔵経第六に云く、又此の法は得道利余分因縁の為云云、善友勧奨門第十九に云く・書に云く善人と居れば芝蘭の室に入るが如く久して偕に芳し・悪人と居れば鮑魚の餌に在るが如く之と倶に臭し・又云く墨に近づける必ず緇く・朱に近けば必ず赤し・故に善友を以て能て仏事を作る是大因縁・是全梵行善知識とは・今能く我を将て浄土に昇ることを得、悪知識とは今能く我を陥て地獄に墜す云云、其の外諸文広く引く云云、されば悪知識とは世間の悪知識・出世の声聞縁覚菩薩の悪知識・迹門の悪知識・本門の悪知識・重々之有り。
 
次に釈に云く悪人親近等とは、弘決第四末七増一阿含の文を引く若人本無悪親近等の文意なり。
 
次に彼の老僧文を引く等とは・即ち外典の文を引きて云く官には針をも入れず私には馬車を倶に為す云云、此本文未だ之を勘へざるなり、今の意は公官の地には針をも入れず、况や一身を入れんをや・私宅の処には馬車を倶に入ても苦しからざる事なり、此の如き此の大石寺に入て我が道具を造ること・あるべからざる事なり、何ぞ私ゆ官寺に馬車を入れて自用を作らんや・故に尤も殊勝なりと称歡す・亦能く薬籠道具を取り隠すなり。
相次て物語に禅宗四十八道具の中の十八道具なりとは・今此薬籠即十八道具の中の一なり、一代法数六十三(廿二を)云く・晋の遠公盧山東林寺に在り・白蓮池有り・同じく浄土を修す、白蓮社と号す・十八賢人有り、其の中社主・東林弁覚大師恵遠法師を第一世と為すなり、随身の十八種物・一楊枝・二澡豆・三三衣・四瓶・五鉢・六座具・七錫杖・八香爐匲・九漉水嚢、十手巾・十一刀子・十二火燧・十三鑷子・十四縄床・十五経・十六律・十七仏像・十八菩薩像なり云云、此中第九の漉水嚢の類を薬籠とも云ふなるべし・水こしの道具なるが故なり。
 
次に大覚禅師とは蜀道隆・弘安元年寂す溢を大覚禅師と賜う、此号道隆に始る、平元帥なり、建長元年己酉年建長寺を創め蜀道隆蘭渓を開山と為す、又王代五(卅四を)合運下(廿四廿六)往見。
 
次に風爐焼維那にゆかたびらをとらせ念仏を修す等とは、即ち風は是れ風教にして大覚禅師の教へなり、爐は即香爐として香薫するの器なり、くすむる又爐はひたきいろりなり又風呂焼は湯を立る役人なるべし、維那に湯帷子は湯焼き役人なるべし、躍り念仏は即一遍上人より之を始む、正応二己丑年寂・合運下(七十四)啓蒙十一(六十五)云く・維那とは禅家にはいな・律家にはゆいなと云ふなり云云、此の維那を一遍上人と云ふなり、今の意は風呂焼き維那に湯帷子を着せて・躍念仏を修せよとて・五個の道具の中の第一の薬籠を授けたりと云ふ事なり、仍是薬籠を造せたるは大謗法なり、故に悪魔を御覧し玉ふは魔王の乱れ入る故なり。
 
問ふ夢は妄想なり何そ天魔破旬の乱入と知らんや、答文句八(九十九)に云く夢とは初果より支仏に至る悉く夢有り唯仏夢みず云云、故に法華経の行者但仏事を見る、安楽行品に夢の中に妙覚に入る云云、大毘婆婆論大卅七に云く異生の聖者皆夢有る事を得・聖者の中預流果より乃至阿羅漢・独覚亦皆夢有り・唯世尊を除く所以は何ん夢顛倒に似たり・仏一切顛倒に於て習気皆已に断尽す故に夢有ること無し文・又大論の六に五種の夢を明す・皆事なし而るに妄に見ると云云、此は人身の中調はず若は熱気多き則は多く夢に火及び黄と赤と見・若は冷気多れ則水と白とを見・若は風気多れは則多く飛及び黒を見・又聞見する所の事多く思惟念する故に夢に見る、又夢に予て未来の事を知らしめんと欲す故云云、
 
又摩訶僧祇律第五に五種の夢を明す・一には実夢・如来菩薩時五種の夢を見・実の如く異らず、二には不実夢・若人夢を見て不如実を覚る・三には不明了夢・謂く其夢の如く前後中間を記せず・四には夢中夢・謂く夢を見るが如く即夢中に於て人の為に夢を説く五には先づ想つて後夢む謂く昼成作所想の如く夜便ち輙く夢む云云、又毘婆婆律第十二に云く夢に四種有り・一には四大不和・謂く眠る時夢に山崩を見・或は虚空に飛騰し・或は虎狼師賊の逐うを見る此虚不実・二には真に夢を見る・謂く昼日・白黒男女等を見て夜夢に見る三には天人夢に善人成る天人有り・悪人成る天人有り・善人成る善夢を顕し人をして善を得せしむ・悪人成人をして悪を得せしむ、此の夢真実なり、四には想夢・此人前身或は福徳有り或は罪有り善夢を現し悪夢を現す、菩薩の母の如き菩薩を夢む・始め母胎に入んと欲る時夢に白象・・利天より下つて其右脇に入ると見る、此は是れ想夢なり、若し礼仏・桶経・持戒・布施・種々の功徳を夢む・亦想夢なり云云、仏蔵心宝卅(廿一)・此中夢の天人想夢は実事なり常に夢想と云うなり・又実夢と云う安楽行品の如し・夢中妙覚に入る等を見る云云。
 
一第十段本書云蔍僧なんどは上界に仏無し・下界に地獄なしと放下す、加様の物に芥爾も口さい・せさすべからず、惣じて謗法の者・立寄り茶を請い、ろさいと云はん時は、法華宗と云つて正法の名を云つて聞かすべし、此事甚深の功徳なり、其の余のあいしらは人ことに有り、家ことに有るべきなり已上。
 
日因私に云く蔍字恐くは応にに作る応きか蔗か之甘蔍なり、通志に三種有り・赤は崙崐蔗・白は竹蔗亦蝋蔗と曰う・小にして燥く者荻云云、今仏法を知らざる禅宗の僧を蔍僧と云ふなるべし、故に上界に仏無く下界に地獄無し、放逸無懺にて仏法正道に下す物なり、故に之を誡めて芥爾にもろさいせすべからず云云、ろさいと者、くれろ云ふ云ふ言なるか、今此の国風の言に物申し請くる事をくさいと云ふ是なり、惣じて謗法者等は惣じて之を誡むるに法華宗と名乗り、正法の名字を聞かするか即甚深の功徳なり、聞法下種の類なるが故なり、其外斟酌は人毎に之有るべき事なり・我家ごとに之有るなり。
 
一第十一段本書云又云く当宗に於て五門徒の方は天台宗につめられ給ふべし、故は日蓮宗の当位は愚者・迷者・無智・三毒強盛の凡夫の上にて・余事余念なくして南無妙法蓮華経と唱る処が、即身成仏の当躰と立てながら広の修行のみなり、さながら智恵の沙汰計りなり、然る間日蓮宗にても無し・又天台宗とも云へず、偏に天台宗の仏法をぬすむ法盗なりと云つて詰り給ふべし、惣じて仏法の外道と云ふは別の子細なし、外道と書いて・ほかのみちと読んで候、高祖の御仏法を御本意のまゝに直に興行なくて別の道に建立候・是則外道なり、外道とて目口鼻も替らず角も生えず人躰とても別ならず候なり已上。
 
日因私に云く此の中には宗祖六老僧中に五門徒鎌倉方・一門徒富士派・五人所破抄には具に五門徒の邪立を破つて以て富士日興上人一門徒の正義を顕す是なり、然れは即ち当宗所立の迷者・愚者・無智・三毒強盛の凡夫の当位に法華経を信受し・南無法華経と唱うる当躰・即本門寿量の当躰蓮華仏なり、何ぞ末代の悪世の凡夫広の修行を好んや、広の法華受持・読誦・解説書写は是観行五品の中の第一初品聞法解了・二品受持読誦・第三品更加説法・第四品兼行施・第五六度具足なり・然るに今末法我等衆生は而も愚迷の凡夫にして尚天台の初品の中の円聞妙理に及ばす・況や円信解を起して能く一心の中に十法界を具するを信受せんや・何に況や第二品の広読誦をや、故に彼の五門徒の輩は天台宗にも非ず・亦日蓮宗にも非ず・而して名を日蓮宗に仮り、亦法を天台宗に盗む・豈法盗に非ずや。
 
次に外道とは御書十三(廿一)一代大意抄に云く外道に三人有り・一には仏法の外の外道・九十五種の外道なり、二に学仏法の外道・小乗なり、三に附仏法の外道・妙法を知らざる・大乗の外道なり云云、此の中仏法外の外道・九十五種とは亦九十六種と云うなり、毘婆婆第五に云く・六師各一師に十五種の教有り以て弟子に授け教と為す、各弟子を異にし受行各異見を成す、是の如く一師十五種の異見を出す・師別に法有り弟子と同じからず、師・弟子と通して十六種と為す、是の如く六師九十六種有り、師の所用の法及び其の将に終んとす必ず弟子に授く、是の如し師々相伝して常に六師有り云云、仏蔵心宝廿八(廿三)之を引く。
 
今の意は附仏法の外道なり、進みて天台の仏法に附き・退いて蓮祖の仏法に附く、故に口に題目を唱う日蓮宗に似れども・而も高祖の御本意・仏法の外の故に是れ附仏法の外道なり、亦天台の仏法を盗み取り・日蓮宗の仏法に雑る故に法盗亦天台宗に附くの外道なりと御誡の言仰で之を信ずべし信ずべし。
 
又九十五種を合て十一宗と為す・華厳演義抄一代教法数六十三之を引く。
一第十二段本書曰佐渡阿仏坊の孫に如寂日満と云ふ・如寂とは修行名なり、当宗には六部・八卿・国名・有職などは交衆会合の時なり、修行の時・隠居の時は別に名之有り、左様の名をば我が好に吾付るなり、されば上代・下山の三位阿闍梨日順と申しけるは・高祖の御弟子の中老の衆なり、大学匠にてましましける間、御聖作に名を我が書かざる抄には三位房・名を付よと御免を蒙りたる人なり、此の日順老躰の時、不思議に両眼しいて隠居召されし時は、大石寺え御状を捧け給ひて隠居仕り候、今日より已後は愚老をば行音と御呼ひ有るべく候と云云是も権者なり、加様の事末代の為とてぞ弁へて申され候、是手本にて候なり已上。
 
日因私に云く此の中に佐渡阿仏房の孫・如寂坊日満とは別に一巻の書之有り、幼少より登山・日興上人の御側に給仕す二十余年なり、興師御遷化已後佐州に下向して阿仏房の寺を建立す、北陸道七箇国弘通の大将と成り玉ふ、然るに如寂日満と号するは如寂即本因妙行なり、日満即本果証得智得なるべし、因果同時・即身成仏の故に如寂日満と称するなり、所謂る如・即真如の妙法なり、寂即実相冥寂なり、不思議なる処を寂すと云う、即如寂の妙法華経なり、此如寂の妙法を修行する故に即身成仏して日満と称する者なり。
 
次に当宗には六部・八卿等とは式部・治部・民部・刑部・織部・掃部・已上七部あれども、織部をば俗に之を用て出家の名に用いる故か、八卿是散一位より八位に至る、謂く宮内卿、太夫卿、少輔卿等の類なり、国の名は六十六国名なり、有職は阿闍梨号の事なり、此れにも三の有職有り、当家にては但阿闍梨号を用いて有職と為すのみ、今の意は交衆会合の時には卿公・阿闍梨号を名乗をすべしと云ふ事なり、若亦修行の時・隠居の時別名を名乗るべし、其証拠に下山日順尚隠士の名行音を引き王うてなり。
 
又本文の中に高祖の御弟子中老日順と云うは・恐は高祖の二字謬なり、応に開山御弟子と云うなり、精師家中抄の下日順伝に云釈日順甲州下山の所生なり、誕生は永仁二甲午年なり、七歳正安二年・富木寂仙坊日澄を師と為て出家ぬ、其の比本迹問答最中なる故に鎌倉身延富士法門混乱す、然りと雖も興師の弁説に破られ・身延日向の弟子日澄・富士に皈伏し興師の弟子と為つて、大学頭職に居す、故に日順・師に従て富士に到り興澄両師の教訓を蒙り・長大の後・叡山に登り台学を修し・三講の結衆に列して・三千の衆徒に秀で終に富士に帰山し本門寺建立の時を持つ、本門心底抄・摧邪立正抄・思抄等・製作甚た多し、然るに元徳元己巳年卅六にして両の眼病を愁い終に一眼を亡す、興師御入滅の後下山の大沢草庵に閑居し両眼永く閇つ云云、故に知ぬ三位日順は高祖の御弟子に非ず・又興師御弟子・本六新六の外なり、日澄の弟子なるが故なり。
 
一第十三段本書云他宗当宗に帰する時、多年修する処の善根・今徒に成ると云ふ事意を得ざる条なり、其の故は経に云く於一仏乗分別説三と説き給ひて候、法華経より諸宗は出でて候、又諸宗・法華に帰し候、さる間・他宗にての善根も法華経に帰し候てこそ尚功徳甚深になり候へ、去れば大海の水とても・雨とても・河の水とても・池の水・惣して諸河水・又大海の水と成り候なり、此分にて能く々く此経に帰られ候て・多年の修善をも・此法華経を信じて実の善根に成り給ひ候へ、塵を大地に埋み・露を大海にあつらへ候が如く、実に信田に仏種をうゆると申すも・爰元にて候と云云、惣して親・祖父などの為と限りて修善を成すこと意を得ざる条なり、一人・即身成仏すれば法界皆即身成仏にて候なり、さてこそ法界有縁無縁・平等利益とは廻向申し候へと已上。
 
日因私に云く・此の段は今経の開会・無差平等即身成仏の意なり、故に方便品の文を引き薬王品の川流・江河・諸水の中に海第一の文意を取るなり、御書卅三薬王品徳意抄云云、妙楽籤一本に云く一代教化還て実本に帰す云云、一代聖教は本門実本より開出するか故に・亦実本の内証に皈するなり、文底下種の妙法華経即実本なり、故に今末代の我等愚妄の凡夫なれども実本妙法華経を信受し奉れは即身成仏なり、此を本門寿量の当躰蓮華仏とは云ふなり、然れは即ち多年の間権教方便善根を修するも・其の人法華本門の大法に皈入すれば・自然と真実の善根と成る故に実に無益に非るなり、方便品廿行の偈・小善成仏是なり、寿量品の偈に云く広供養舎利等の文意亦小善成仏を明す者なり、次に塵を大地に埋み等の事、未だ之を勘へず、只是れ小善成仏の意を顕すなり。
 
信田に仏種を植うとは、釈に云く八識の心田に仏種を植う云云、此の意は八識の心は無明法性同躰にて二名を分ちて無明法性と云う、故に八識の無明の心田に九識本覚の仏種を下す、即ち無明即法性なり、仍多年の修善根皆本覚の仏種に皈入する者なり。
 
次に惣して親・祖父の為等とは・偏局の回向を誡めて以て法界平等廻向の意を顕すなり。
一人即身成仏すれば法界皆成仏とは上の如し、文に理平等・事平等之有り、今は事の即身成仏の意なり、天台・然我実成仏の文を釈して云く一成一切成・一切成一成等云云、此れ即ち釈尊・久遠実成仏と申すは一成一切成にして釈尊一人成仏すれは十万法界の一切衆生皆成仏の旨を説くなり・今亦爾かなり、唯此本法を信じて一人即身成仏すれば十法界の衆生皆成仏の旨を顕すなり、仍て当宗には常恒の廻向にも有縁無縁・十万法界・平等利益、草木国土・悉皆成仏と廻向申すなり。
 
一第十四段本書云或る時御物語に仰に云く・日本国の七の海道は役の行者踏み元たり、去れば役の行者の跡を継たる山臥に関を取らざるなり、海道は山臥のの物なり、山臥の頭巾は後白河の時・那智にこもりたりし人・余りの寒さに巾を頭に巻きたりしなり、結び袈裘は七条の袈裘を結ひてかけたり、されば結び袈裟と云ふなり已上。
 
日因私に云く此中に或時御物語と云うは日有上人別時の御物語なり、上来は同時の御物語なるか。
編者曰く七の海道の注に先代旧時及び大成経等を引かれたる冗長の文は且く之を削れり。
 
次に役の行者の事は・王代二九文武天皇二年・彼小角を伊豆の大嶋に流す・小角は役の行者の事なり、此の人怪しき術を知り大和国葛城山に住し鬼神を召し仕う、其の下知に従はざる神は之を捕て縛す、韓国の広足と云ふ者・行者を師として其術を習う・怪事を以て人を惑す由・奏聞有るに依つて行者を流罪せらし年を歴て赦免せらるなり云云、又盛衰記卅八に役の行者と申すは小角仙人の事なり、俗姓賀茂氏なり、大和国葛上郡茅原村の所生なり、三歳の時より父に後れて七歳まて母の恵にて成人す至孝の志し浅からず・仏道修行の思ひ・ねんごろなり、五色の兎に御て葛城山の頂に上る、藤の衣に身を隠し・松の緑に命を継きて、孔雀明王の法を修行する事卅余年なり、只一頭を尋ねえたりしに・鳥帽子皆破れ失せにければ・大童に成って一生不犯の男聖なり・大峯葛城を通りて行き給ふなるに・道遠しとて葛城の一言主と云ふ神に・二上の嶽より神山まで石橋を渡せと宜ひける、顔の見悪にくければとて、昼は指しも出でずして夜々渡し給けるを、行者遅しと腹立す、葛にて七遍縛り給ひてけり、一言主恨を成して御門に偽り奏しければ、役のうば塞と云ふ者の帝位を傾け奉らんと云つ企ありと申しければ、御門驚き思召して行者を搦め捕らんとするに・孔雀明王の法を験にこたへて虚空を飛ぶ事・鳥の如し、之に依て行者の母を召し禁められければ・我故に母の罪を蒙る事こそ悲しけれとて自ら参り給ひたり、則伊豆の大島に流し遺されけり、大島に行き夜は鉢に乗つて富士の山に上つて行きけり、一言主・至て行者を害はらるべき由・奉し申ければ・則官兵を下され誅せられんとせしに・行者の云はく願くは抜ける刀を我に与へよとて刀をとり、舌にて三度ねぶりければ富士明神の表文あり、天皇此の事を聞し召して此れ凡に非す定て聖人ならん、速に供養を演ぶべしとて都に召し返さる、爰に行者母もろともに茅の葉に乗つて大唐に渡りし人なり云云、三国塵滴問答八(十三を)。
 
今文に日本国の七つ海道は彼の行者踏みそめたると云うは、即是れ山臥の元祖なるが故なり、五畿七道の山々路をば踏み始めたる義なり、故に山臥をば関所関所にて手形無くとも自由に通るなり、義経の奥州下向・弁慶が勧進帳に之有り。
 
次に山臥の頭巾の事、後白川時の沙汰未だ之を見ず所詮今に之を引て仰せらる意は・山臥の元祖は海道を踏みそめたる故に行者の跡を継ぐ山臥は関所を云はず自由なり、故に海道は山臥の物なり、彼の山臥行者を慕い難行苦行を厭はず法衣を捨てず・何こ況今末法宗祖・不惜身命の立行を立てゝ、諸宗を折伏す、此れ則法華本門の海道を踏み元る其の跡継の我等争てか難行苦行を為さざらんや、如何成る大難ありとも本門行者の法衣を捨つべからざるなり。
 
次に後白河院とは、大治二年丁未九月十二日御誕生・久寿二乙亥年十月廿六日に御即位・御年廿九歳・在位三年・御位を守仁に譲り太上天皇と号す、嘉応元己丑六月出家して行真法皇と号す、院中の政を聞く・三十四年、建久三壬子三月十三日崩御・年六十六歳なり、合運下(十六う廿一う)・王代四(二十一を五十う)。
 
次に那智とは紀州熊野三山の一なり、王代一覧四(十四)云く天治二年五月三井寺の行尊・大僧正に任じ車を免除さる、此の僧初て熊野三山の検校と為て山伏修験首の事に預る云云、今所引の事未だ之を見ず追て之を勘へん。
追て云く大峯山には法華経の二十八品を勧請すと・行者皆参籠すと云云、参詣僧物語なり。
 
一第十五段本書云・高祖の御言には、王臣の御信用なからん程は卒都姿の本・橋の下にても弘通すべし、一日片時も屋などに心安く有るべき事有まじ事なり、然る間・世事の福貴之有るべからずされば、孔子の言にも国道無き則は冨る是れ耻なり・国に道有る時は貧なるは是れ耻なり、只其の人間の有様は・人畜共に前生に恩を蒙りし者・今爰に生れ合ひて其の人の下人と成り・馬丑と成り・犬猫万づ眷属と成るなり、日本将軍・勝定院殿の御時・照月和尚と云ふ禅僧を帰依せられけるが、此の僧死去候て後四五年有て・勝定院殿・或夜の夢に見え給へるは、明日何物にても候へ・御前に参りたらん者は・我にてあるべし、御恩を封じ申さんが為なりと申す、明ての日・奥州より照る月と云ふ黒駂毛なる名馬参る、照月和尚とて崇敬するなり、親り此の僧馬と成りたるなり已上。
 
日因私に云く中宗祖此仰を引くは即御書の意を取るなり、又興目両師御聞書を引き玉ふなるべし、卒都婆の下・橋の下・弘通の御書判未だ之を見ざるなり、此れは尊卑を挙て以て弘通広大の相を顕す。
又一日片時も屋などに心安く有るべからざるは誡門なり。
然る間・世間の福貴之有るべからざるは、只弘通の志無く・世の富貴を求る者を誡しめ玉ふ・仍て孔子の言を引て以て証と為すなり。
次に只其の人間の有様は即人畜前世の因縁を明すなり、凡人間の果報は皆是宿世の因縁・人畜等の眷属有るを以て・其の現証に照月和尚名馬に生れ・将軍義持公の乗馬と為す事を引くなり・仏在世五人の比丘懶惰懈怠にして経法を修せず・波斯匿王夫人の為に輩者に生ること・弘決一の中卅未曽有経の下に引く・御書十五法蓮抄云云、同注十六よ之を引く。
 
今勝定院殿と云うは尊氏将軍の第四代義持将軍・治世廿一年・正長元戊申正月十八日薨して・勝定院殿と号するなり、王代一覧六(五十六う)、義持舎弟五人・一は義嗣・一人は仁和寺御室法尊・一人青蓮院准后義円天台座主なり一人梶井門跡義承・一人大覚寺門跡義昭なり・然に義持病中に管領畠山左衛門督満家入道道端・石清水の八幡宮にてを取り・青蓮院殿に継嗣を定ぬ、三月十二日義円還俗して室町殿に入り義宣と号す・卅五歳なり、永亨元年三月十五日征夷大将軍に補し名を義政と改むるなり、此等今用に非ずと雖之を述るなり。
 
一第十六段本書云・其れ京都妙満寺開山日什は・本は天台宗の能化たりしが、冨士大石寺の日時上人え帰伏申して・後に六門跡に皆々帰伏しまはりて・後に直受と立てたり、結句三の札を立つる・富士門徒無間・諸門徒無間・諸宗無間なり、日有御上人・彼の日什門徒の中に大学匠と云ふ人達を尋ね給ひて・此の札の由来を尋ね給ふ様・諸宗無間は事旧りぬ、又諸門徒無間はとの玉へば・高祖の不本意の仏法なれば無間なり、さて冨士門徒無間はと問へば・高祖の御本意至極の御仏法なり、然れども不律なる処を指して無間と云ふなり、其の時仰せ給ふ様は・夫れ日什発心の根源は武蔵仙波の玄妙法印にて有りしが、冨士大宮の学頭に成り給ふて・有し時・渋沢の浄妙と云ふ大石の檀那の処にて・日時上人の御代官日阿上人に対し奉りし御訪門候ひてつまり給ひて・乃ち帰伏し給ひて候ひしが、当門徒の化儀に謬り仏法に退屈召されて・退大取小の面々にて御座候・是第一の謬なり次に不律の事・高祖御出世の元由を尋ね申し候へば・戒律の持破を御沙汰なし・三毒強盛の凡夫信を以て即身成仏と御定判候位、戒躰の事未た我等は存せず候と仰せければ・直につまり候と御物語り候已上。
 
日因私に云く、京都妙塔山妙満寺開山日什上人・人皇百一代後小松院御宇・永徳三発亥五月上旬草創なり、霊場記四三具に之を記す往見、又日什奏聞記・又寸刀記等云云、又日什の本国奥州黒河・天台山慈遍僧正の弟子なり、武州仙波談林の能化と為り玄妙院と号す天台・六十巻を講すと雖末法相応の宗義に非ず、此に於て発願して仏目を開んと欲す・時に一僧秘笈を什師に預て曰く今我故郷に帰る若し三年を過て来らざれば則之を開くべし、然る後遂に来らず・終に之を閲するに宗祖の御書開目抄上下・観心本尊抄一巻有り、之を拝見して則多年の疑網忽に破れ・愚盲速に聞き歓喜身に余る、此より一流を開き而して終に一精舎を建て更に直受相承の法を弘むなり云云、然るに此の伝記は未だ甚実義を尽さず何となれば、一僧秘笈日什に預け置く者は当山日時上人なり、日什玄妙能化武州仙波に於て天台六十巻を講す、時に日時上人仙波学門なり、序を以て日什玄妙能化を教化す・故に宗祖の書抄を拝見さしむ、故に日什玄妙・内得解すと云へども忽に天台の講解を捨て難し・
 
故に序を以て富士大宮千眼学頭として移り来る、仍て内々当山に通用して当家を学す・故に渋沢浄妙の所にして日阿上人と法門之有り、終に当山に皈伏し日時上人の弟子と為る而も当山の行躰・勤め難く終に当山を出て身延山・岩本実相寺等と六門徒を学行し終に直受相承を立つ、一品二半宗と云う、此の宗義を以て天奏する者なり、されば小泉より当山を難する一箇条に、大石寺は大宮方の供養を受る故に大謗法なりと云うは・日什玄妙大宮学頭に居して内々帰伏して時々供物を奉る故なり。
 
次に日什存命の建立寺ととは・出羽顕本寺・第一の弟子日金住持なり・次に遠州見附玄妙寺・第二の弟子日妙法師住持なり・次に相州鎌倉本興寺・第三の弟子日穆住持なり、次に会津妙法寺日什・此寺にして遷化するなり、又遠州吉美妙立寺・武州品川本光寺等なり、第四の弟子日全法師・玄妙寺二世なり、第五の弟子日義法師・妙満寺二世なり、第六日仁・妙満寺三世なり、此れ日什六老僧なり、其の後永正年中・心了院日泰僧都大に什の法を弘むるなり、上総下総・悉皆帰伏して今大寺十箇処之有り、土気二郎東金領主等日泰に帰伏する故なり、下総浜の村には日泰堂有るなり。
 
次に戒律の事、出家必す三衣を着す・末法相応の律儀之有り・何ぞ爾前・迹門・小乗等の律義を行はんや、但今戒律持破及び三毒凡夫・但信の一字を以て即身成仏を定む等云うは・大聖出世の御本意に就て申す事なり、初心成仏抄廿二三恵心一乗要決文を引て云く此文の心は日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西・みちのくに・遠きも近きも・法華一乗の機のみ有つて、上も下も貴きも賤きも持戒も破戒も男も女も・皆おしなべて法華経にて一切衆生成仏すべき国なり云云、又云く利根・鈍根・等雨法雨と説き・乃至・文の意は利根にても鈍根にてもあれ・持戒にてもあれ破戒にてもあれ貴もあれ・賤もあれ一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道すべしと云ふ文なるをや云云、但し宗旨を立つる必ず化儀有り、開山廿六箇・卅七箇・中古日有上人百廿一箇・皆法華本門宗を弘る化儀律儀なり、何ぞ不律と云うべけんや、又日什私に本門一品二半直受相承を立つとは・宗祖違背の人なり、況や亦一品二半の法門は天目所立に同じ・宗祖の本意を失う、豈日什の直受相承は無間に非ずや。
 
一第十七段本書曰・日朗門徒は鎌倉比企谷を本寺とす、日尊は奥州会津の実成寺を本寺とす、日昭は安房の吉浜を本寺とす、されば浜門徒と云ふ、日向は身延山を専とす、既に日興上人謗法の所とて捨て給ひたる身延山に執着す・大謗法の根源なり、日弁は上総国鷲巣と云ふ処を本寺とす云云。
日昭上人相州由比浜草庵に在り表は天台
宗為り後豆州玉沢に法華寺を立つなり
安房国吉浜妙本寺は日郷上人之を立つ
然れば此中記文筆者聞謬なるべし
 
日因私に云く本文比喜谷津に作る謬りなり・今比企谷妙本寺是なり、然るに日朗上人かまくらにて本寺は即大光山本国寺なり、本とかまくら松葉谷に在り宗祖の法華堂の廃地に建立す、文永十一年五月七日頼綱状之有り、霊場記一(十九を)・又一(六を)貞和年中京都に引き移すなり仍本国寺歴代日朗日印日静次第相承なり、此の三師の記・霊場記・一(八十九)往見云云、又京都妙顕寺門徒之を破れて曰く松葉谷本国寺は此れ日朗の再営に非ずして日印の営構する所なり。
 
其証は日印の弟子日静制札を直義に乞うの状に云く爰に摩訶一院法日印は日静が師なり、名越松葉谷に於て霊地を卜し堂宇を構う已上、故に知ぬ朗公再営に非ること、又日親伝燈記に云く名越谷に本証寺を立て三箇の霊宝を相続す已上、是に知ぬ本証寺は即今の本国寺なるか、又朗聖始終比企谷妙本寺に住して、松葉谷本国寺に居らざるなり。
 
故に本国寺より門徒の比企谷参詣を定るの状に云く申し合する筋目の事、一つ朗師御法水の嫡流一宗広布の砌を期し帝前に於て相定むべき、一つ広宣流布已間に於ては住職御同位なるべき事、一つ妙本寺は朗公久住の寺たる上は御存日の思を成し門流真俗参詣有るべき事、大永二年十二月日・本国寺。
 
又比企谷蓮成院日如の状に云く、日朗聖人御遷化の砌り高祖御付属の旨に任せ、御弟子各法味一同の連署の処に、日印独り此旨を破り各挙の義を構るに依つて義絶為すと雖末弟等をして改悔為さしめ書状を捧げ、朗公御遺跡え参詣懇望の義京都に於て相調ひ候、然して法水嫡流付属の御筆跡の事は者、広布の期に於て互い糺決せられ御弘の儀有る可く尤以て肝要に候、皈国候はば披露せらるべく候、仍て状件の如し大永二年十二月廿四日比企谷蓮成院日如在判、妙顕寺已上。
 
今妙顕寺に在るなり、而も妙本寺日朗を開山と為すと雖実には大学三郎妙本の開基する所なり、かまくら志に云く日朗遷化の地妙本寺なり云云、然は則日朗門徒には比企谷妙本寺を以て本寺と為ること明白なり、京都本国寺は日印弟子三位阿闍梨日静則是れ尊氏将軍の叔父の故に、貞和元年乙酉三月十日かまくら松葉谷の道場を引て京六条に移す、故亦六条門徒と言ふなり亦六条法華堂と号するなり、池上本門寺、平賀本土寺以て関東三ケ寺と為す・又摩訶一坊日印朗師の内証を立て越後に本成寺を建立し勝劣宗を弘るなり云云。
 
次に日尊上人は京都要法寺を本山と為す而るに本多宝山上行寺同多宝山住本寺と号す、天文年中二ケ寺を引て合て要法寺と号す、第十二代日在上人御代なり、霊場記四(四十八 三十七 四十四 已下)。
 
次に日昭上人は豆州玉沢法華寺を本山と為すなり、本相州かまくら由井が浜に在り故に浜門徒と云うなり、此の人は面は天台宗なり、内々蓮祖の弟子と為る故に蓮祖度々流難の砌も無難に住居する具に伝記の如し云云、然るに今安房吉浜と云うは日郷上人の事なるべし、日郷門徒にては房州吉浜妙本寺を本山と為すなり、富士大宮久遠寺は妙本寺八代日安上人の建立なり云云。
 
日向上人は本と上総国茂原常在山妙光寺を建立するなり、宗祖第七回忌の砌り身延山に登り波木井入道日円をして三箇の謗法を作らしむ、仍て興師頻に入道の謗法を教訓す、而るに入道日円強く日向の教化を信して興師の教誡を用いず、故に正応元年十一月身延山を引て富士山に移る、且く下の坊に居し而る後に大石寺を建立するなり、具に御伝記の如し云云。
 
次に日弁上人は初め当山新六蓮成坊に居る、越後阿闍梨乗観坊日弁上人と号す、後嘉暦元徳の比上総国に下向し鷲巣に法華堂を建立す今の鷲山寺是なり、而に最初下総国に峯の大法院を建立し後常州に下向す、処々に法華堂を建立す、中に於て常州多珂庄赤浜村妙法寺にて遷化す、行年七十三歳応長元年辛亥潤六月廿六日酉刻云云、具に伝記の如くなり、但赤浜村今願成寺と云う、同国新田成顕寺、成沢宝塔寺等之有り、願成寺、宝塔寺、水戸黄門公御代に水戸山寺久昌寺の末寺と成るなり、但成願顕寺のみ上総鷲山寺の末なり。
 
又日向上人記は此の比身延山日潮の世家に云く日向は佐渡阿闍梨と呼ぶなり、父は藤原氏、小林民部実信正治の帝衞兵曹と為り、高祖皆衣冠なり、高祖の父貫名重忠通家の好有り、建仁三年癸亥実信重忠と同じく伊勢平氏に与して叛逆し、上の総州埴生郡藻原郷に放たる人衣冠の裔を以て復太だ軽しめず、建長五年癸丑二月十六日母悩なくして産む、児容貌端正、生れて能く言ふ、四才に甫めて論盂を肄む見る人異と為す、父母養育児性僧儀を慕い、嬉戯毎に巾を結て袈裟と為し貝を貫いて念珠と為し合掌三宝の名を唱う、実信之きを厭い早く髪を修理し烏帽を加え名を藤三郎実長と呼ぶ時児五歳なり弘長二年壬戌児年十歳疫に遭て殆し、父母驚て医力を竭すに効なし、児父母に告げて言く我病医術力及ぶからず若し仏神の助を祈ては即免れんか、父母之を聴し、房の千光山に告ぐ虚空蔵菩薩に祈る、誓て言く児若し活けは捨て仏子と為ん立つところに験を得、時に比叡山高乗院主某実信の配処を想いカマクラに至るの次に来訪す、実長院主と仕官の日香花の縁有る故なり、逗留の間児の利なるを見、復蔵菩薩の感応を聞く、父母に告て曰く吾後嗣無し器を簡び未だ果さず、此児吾に与へよ、児聞て大に喜ひ病も癒え、父母愛すと雖も比叡山に登せ薙髪染衣め民部卿と号するなり、
 
文永元年甲子高祖母を省み郷に皈る母子相見て大に喜ひ二三日を過ぐ母病を感じて頓に死す、高祖衆に告て曰く吾将に招魂を修せんと且く須叟を待て乃ち新浄室を構え咒を持し天に訟を水を加えて之に灑ぐ、慈母倏忽に起て常に復す、母子見て悦ぶ、実信総に在て之を聴き尋て以為らく我に通家の好み有り、一は其の疾を問い一は日蓮を見ん、霽に因つて嶮を陟り弊を齎して住く、高祖之を見るに礼を以てす、実信曰く吾に小児有り比叡山に登り出家せしむ、願くは法子の数と為さん、高祖聴許す、実信文永二乙丑児を召下す高祖之を見て日を択び剃度の宴を設け名を日向と賜う時年十三歳なり、高祖の母老且つ疲る、高祖と離るを欲せず高祖亦去るに忍びず孝行力を竭す向師之に待ること実母の如し暇あれば則朗兄に随い学を受く、
 
同四年丁卯八月十五日高祖母妙蓮終に卒す、十二月高祖将にカマクラに皈らんとす路富木五郎に遇う、五郎曰く年迫り雪深し年を超えて皈れ高祖諾す、五郎熟ら朗向二子を見て感嘆已まず、高祖具に之を語る、五郎曰く郎兄は前に已に之を知る向弟今之を見る、藻原邑主藤兼綱は五郎か妻の父なり、吾も一児を投せん即真間日頂是也、五年戊辰年五郎強て高祖を留め妙経を講す、八月母の忌を修し松葉谷に皈る、昭尊出迎て北堂の魂を招て供養す向頂二子弁阿闍梨を見て喜悦す、8年辛末九月十二日高祖竜口巨難あり向と興と昭尊と輔佐し名を隠し蹤を晦し艱難細に堪ゆ、六尊更る佐渡に待す、同十年癸酉高祖御書を向に差はし道善房の寿を賀す、向遥に清澄に上り酬書を取つて皈る、又父母に相見し数日にして復佐渡に還る、同十一年甲戍高祖カマクラに皈り長興山に入り身延山に蔵る、日向奉待し須叟も離れず、高祖の法話少く宗義を宣ぶ之を記して秘珍す今世に行る、日向記是なり建治二年丙子の春道善房化す、高祖報恩抄を製し向を以て之を送る、向師彼に至り、道善房の墓所に之を読む、浄顕房義浄坊に在り落涙す、又副使日実法弟と倶に中陰を修し、一石一字妙典十巻祖父の礼を以て、供養して去る、高祖悦ふ、乃至、弘安五年壬午高祖池上に入滅を唱え身延山に塔す、守塔者六尊輪次し各子院を造る向師構る所を安立院と呼ぶなり茂原兼綱高祖の入滅を聞き悲歎梵宇を構う今、常在山妙光寺是なり、向師を請して開山と為す、
 
弘安八乙酉向師身延山に直す、檀越波木井実長師に告て曰く守塔輪次の直高祖の遺命と雖而も法の為山の為甚だ宜しき所に非ず、之を如何にせん師以て諸哥に謀り遂に檀命に任す、実長重て告て曰く昭尊者守文の命を承け宝刹に倚らず、朗尊は両山職有り、興尊は吾と交を絶つ之をいかんとするなきのみ、願くは師老拙の請を受け身延山第二代の主と為れ、師又諸哥に謀る、昭朗二尊聞て之を是とす、焉に於て進山の式を調へ開堂祝釐す、昭朗頂持の尊乃ち緇介を遺し之が賀を展ぶと、斯より祖山輪次の直無く主位整々獅床堂々今に迄山中清規粛々済々然、向師在位三十年偶微恙を感ず総の旧梓坂木村に法華谷有り師其の名美し隠を築て退く、法弟日進に命じ身延山に補す、正和三年甲寅九月三日に化す、寿六十二云云、前後文に在り今之を畧す。
 
日因私に云く此中に正治帝とは人王八十三代土御門院、建久九年戊午三月御即位時四歳なり、正治、建仁、元久、建永、承元と十三年治世なり、日潮の所存は正治元年御即位と心得らる、故に正治帝と云うなり。
 
次に建仁三年伊勢平氏の叛逆に与すとは王代一覧五六云く元久元年甲子四月平家の余党富田基度三浦盛時等伊勢国にて謀叛し伊賀伊勢を攻取る等云云、東鑑十八九建仁四年甲子正月廿日元久元年と為す、同三月九日京守護武蔵守朝政飛脚到着申そ云く去月日雅楽助平維基子孫等伊勢国に起り、中宮長司度光の子息等伊勢国に起り、各叛逆す云云、彼両国守護人山内首藤刑部亟経俊子細を相尋るの処、左右無く合戦を企つ経俊無勢に依つて逃亡するの間、徒等二箇国を虜領し、鈴鹿関八峯山等の道路を固む、仍て上洛の人無し云云、同く十日京都の飛脚帰洛す謀叛人の事彼国に発向し糺弾せしむべきの由朝政に仰せらる云云、同く四月廿一日武蔵守朝政の飛脚到著し申して云く去月廿三日出京、爰に伊勢平氏等鈴鹿の関所を塞き険岨を索るの間、縦い合戦を遂げずと雖人馬之を通し難きに依つて、美濃国を廻り、
 
同く廿七日伊勢の国に入り計義を凝し、今月十日より同十二日に至るまで合戦し、先づ進士三郎基度を朝明郡豊田の館に襲い挑戦尅を移し基度並に舎弟松本三郎盛光、同四郎同九郎等を誅す次に安濃部に於て岡八郎貞重及び子息伴類を攻撃す、次に多気郡に到り庄田の三郎佐房、同子息師持等と相戦ひ彼輩遂に以て敗北す、又河田刑部太夫を生虜る、夫れ凡狼唳両国の蜂起を靡すと雖三日に軼ぎず、件の残党猶伊賀国に在りて重て之を追討すべし云云、又五月六日朝政の飛脚重て到来す、去る月の廿九日に伊勢国に到り、平氏雅楽助、三浦盛時並に子姪等城郭を当国六箇山に構え、数日相支うと雖朝政武勇を励すの間、彼等防戦利を失うて敗北す、凡そ張本若菜五郎城郭を構る処謂く伊勢日永、若払、南村、高角、関小野等なり、遂に関小野に於て其命を亡す云云、又卅五(五う)云く元久三年丙寅四月二十七日建永元年となす、七月一日伊勢平氏蜂起の時、朝政朝臣大将軍と為り、近国御家人を相催し発向の処、不参の輩所領士之を召放すと雖面々救に子細を申すに依て、五条蔵人長雅已下所領返付せらる云云、又(四十一ヲ)近江国住人盤五郎次を生虜りカマクラに具し参る云云。
 
又蓮祖継図御書に云く聖武天皇十一代遠江守貫名五郎重実其子三人、仲太、仲三、仲四是なり、所領相論に依て度々上訴に及ふと云へども、其下知なきに依て、合戦を致す一族を亡す事之多し、然る間配所安房国東条の片海と云ふ所へ流され畢んぬ、次男仲三其子日蓮是なり云云、今因に此等の文を出す、然に蓮祖御父仲三重忠流罪未だ分明ならざるなり、若し其れ土御門院御宇と者諸国成敗皆鎌倉の沙汰に在り何ぞ其下知無かるべけんや、又私戦流罪東鑑等之無き者なり、又霊場記並に延山日潮記の如きは伊勢平氏に与して叛き上総安房に放たる其謂い在るに似たり、然に東鑑等流罪の事之無き、又流罪に及ぶ者必す先つ関東下向有るべし、盤五郎次等の如し、何ぞ関東に於て其沙汰無らんや但京守護朝政大将軍として近国御家人を相催し発向之時、不参之内所領を召し放さる故に所縁を求めて安房上総に至るか、亦実に流罪なれども東鑑等には之を載せざるものか測り難きなり。
 
次に建仁四甲子年より蓮祖御誕生貞応元年壬午二月十六日に至る、其間十九年なり、建長五年癸丑年日向出生まて五十年に当るなり、若し爾らば日向父実信七十有余にして一子日向有るなり信じ難き其一なり、又日向年十歳弘長二壬戍病に遭し安房空蔵菩薩に祈るは亦信じ難きなり、其故は房州と上総茂原と其道里三十里に及ぶ、何ぞ近処の上総観音不動等の霊所を置き遠く千光に祈らんや是二なり、又文永元年甲子蓮祖母の寿命を祈る時、日向父実信通家の好を問う、亦末詳なり、何となれば実信七十余にして遠路輙く越し行て而蓮祖に謁せんや、是三なり、今日因之を推するに身延山日潮の元意は日向と蓮祖と深縁有るの旨を述べんと欲する故なるべし、然れども其の妄説ならば何そ聖意に契んや。
 
一第十八段本書云当宗の衣は俗衣なり、公家も位により色品定まらず、去りながら只此衣なり、武家も剃髪すれば此の当宗の衣に五条の長絹の袈裟を懸けて出仕有るなりされば俗衣なり、禅宗の衣も唐土の俗人の衣なり、唐音と云ふも唐土の音を学ぶなり、仏の御衣は律僧の衣是なり、其故は釈尊鹿野苑にして小乗を説き給ひと説き麁弊垢穢の衣是なり、仏の御袈裟は廿五条なり、既に御長丈六尺にして御座す故なり、其れを禅宗は三するなり、七条の袈裟は栂於の明恵上人は高尾の文覚上人の弟子なり明恵の歌に、松が本岩根がうへにすみぞめの袂の露やかけし白玉、奥ふかくさこそ心は通へども須間で哀半しらるべきかは、皆仏法なり、文覚は明恵を讃して云く恐くは在世の迦葉阿難も明恵には及び給はずと常々云ひ給う巳上。
 
日因云く凡そ弟子の衣には必三衣有り此に三説有り、一には通して在家出家の仏弟子は三衣を用う、謂く一に単縫の衣即袈裟なり、二も俗衣即俗服亦衣なり、三に俗服の白衣なり。
 
二には袈裟三衣と名づく、謂く一に大衣此に亦上中下三品あり、三品亦各三品有り、則九品とするなり、所謂大衣梵に僧伽黎と云う九条、十一条、十三条、下品衣と名づく、次に十五条、十七条、十九条中品衣と名づく、次に廿一条、廿三条、廿五条上品衣と名くるなり、六物に羯麿疏を引き云く廿五に至る所以は廿五有と為て福田となさんと欲する故云々、二に七条梵に欝多羅僧と云う此を中価衣と云う、用に従て入衆衣と名づく、礼拝と読誦と斎会と講談の説きと之を著す、三に安陀会衣下衣と名づく最も下に居る故に、或下着の故に用に従て院内道行雑作衣と名づく、衆に入り衆に随う則は着するを得ず、若し相に従へば則五条、
 
七条、九条乃至廿五条と名くるなり、此は別して出家法衣なり、通して名て或は袈裟と名づく染色に従う故に或は道服と名け或は出世服と名け或は法衣と名け、離塵服と名け、或は消痩服と名け、煩悩を損する故に或は蓮華服と名け染着を離るゝ故に或は間色服と名け、三色を以て成する故に或は福田衣と名け或は臥具と名く、亦敷具と云う云々、六物(三を)又要覧上、類雑三(四十九)之を引く、又雑阿含経に云く四無量を修する者並に鬚髪服を剃除して三法衣を服す、僧祇律に云く三衣と者賢聖沙門の標幟なり、四分律に云く三世如来並に是の如き衣を着す智論に云く仏弟子中道に位す故に三衣を着す、薩婆多論に云く未曽有の法を現さんと欲する故、九十六種の外道に此の三名無し、外道に異せんがために故に三衣を著す、華厳経に云く三毒を捨離せん為の故に云々、三に袈裟、衣、数珠を名て三衣となす此れ日本国僧衆の義立なり。
 
問ふ数珠は是道具要覧の中の如し何ぞ三衣と云んや、答う今末代大衣及び中衣を用いず但五条を用う故に義を以て五条の袈裟並に法衣数珠を以て名けて三衣となすのみ、此れ則日本国天台宗及ひ吾祖宗の習いなり。
 
問ふ俗の服衣を以て名て三衣とする証文如何、答ふ法苑珠林第四十七三に大方陀羅尼経を引き云く仏言く若し道場に趣向する応に比丘法の如く諸の浄行を修すべし、三衣楊枝、澡水、食器、座具を具う、行者是の如く応に畜うべき、仏道場に至るに比丘の法の如くせん、仏阿難に告はく衣に三種有り一には出家衣とは三世諸仏の法式をなす、二に俗服とは我弟子道場に趣く説き当に一の服を著せしむ、常に身に随逐し寸尺も離さず、若し此の衣を離るれば即障道罪を得、第三の衣とは俗服を具して将に道場に至るべし常に用いて坐起せよ、其名是の如し汝当に受持すべし已上、但し此文は是れ在家の弟子大方等陀羅尼経典を修行し道場に赴く説き三衣等を具するを説く文なり、然るに今の文は畧なり、彼の文に云く阿難仏に白す此の行者家を辞し出る説き応に是の如く語るべし、
 
我陀羅尼典を修行せんと欲す、父母聴すや不や若し聴すと言はば我当に出て去るし、是の如く語り已て心中黙自念言すらく、我亦婦児家屋を捨て陀羅尼典を修行せんと欲し道場に趣向す、応に比丘の法の如くあるべし、浄行を修行するには三衣・楊枝・澡水、食器、座具を具う、行者是の如く応に畜て道場に至り比丘の法の如くすべし、乃至、阿難仏に白す此人家を辞し出る時髪を剃除するや不や、仏言く不なり、阿難仏に白して言く若し除かずんば何か三衣を具すと言はんや、仏阿難に告て言く三衣とは一には単縫、二には俗服と名く、阿難仏に白して言く世尊向に説く一には出家衣、二には在家服在家の如きは三種を用うるや否や、仏阿難に告く一に出家衣とは三世諸仏の法式に作る、二に俗服とは我弟子を道場に趣かしめんと欲する時当に一服を著け常に身に随逐して寸尺離れざるべし若し此衣を離せば即ち障道罪を得、第三の衣とは俗服を具して将に道場に至んとす常用坐起せよ、其名是の如く当に受持すべし文。
 
私に云く此の本文に依るに在家の行者の三衣は出家の三衣に同からざる者か、謂く一には単縫の衣、今着用する所俗の十徳出家素絹等なり、二には俗服今用る諸の明衣白衣なり、三は具俗服此れ下著の衣なり、然るに是は道世玄暉が珠林の引文と不同なり、今日有上人の御物語に当宗衣は俗衣なり、禅宗の衣も唐土の俗衣なりと云うは、大方等陀羅尼経の中の第一の単縫の衣なるべし、天台宗の口伝に云く三衣とは袈裟と衣と白衣となり、衣の袖口に白物を附するは即白衣に代るなり云々、故に知ぬ当宗に一には下に白衣を著し二には其上に素絹衣を著し三に最上に五条の袈裟を掛く即通法の三衣なり。
 
問ふ六物の六に云く、第五に三衣の色相を明にして云く律に上色の染衣は服するを得ず当に壊して袈裟色となすべし此を不正色染と云い亦壊色と名づく、即戒本中に三種の染壊皆如法なり、一には青色青銅を謂う、三に木蘭色西蜀木蘭の皮を以て染て赤黒色となすべきを謂う、然るに此の三色名濫し躰別なり須く俗中の五方の正色及び五間色を離るべし、此等皆之を相伝す仏並に制断す云々、又云く近比白布を以て頭絰となす者を見る斯れ又恠べし法滅の相なり云々、又伝教大師の末法燈明記に大集経摩耶経等を引き袈裟変して白と成るを以て則正法滅尽の相と成す、何ぞ白袈裟衣を用ふべけんや、答ふ六物の意専を戒律の法衣を明にす故にしか云うなり、又大集経等の意は即仏滅後小権正法を滅する瑞相を説く故なり、法華本迹二門正法滅尽の相を謂うには非ず、何ぞ小権正法滅尽の瑞相を以て法華正法末法広布の衣体を難することを為さんや、況や彼の経経の意は即出家行体変して俗人白衣の行相となることを説く、故に袈裟変して白となる即法滅の相なりと云うなり。
 
又仏五種の律衣を許す故に舎利弗問経に云く羅旬踰比丘文衛して食を得ること能はず後五種の律衣を以て更互に之を着し便ち大いに食を得乃至我法出家純を幣帛及び死人衣を服す、羅旬踰に因る故に種々の衣を受くるなり云々、彼経の中に具に五部律の五色の衣之を用うるを明にするなり、法苑珠林四十七四に之を引く、又唐西明寺道宣律師の感通伝を引いて、云く四王臣子師に告て云く又釈迦仏初成道の時乃至涅槃を見る、麁布僧伽梨及び白三衣を服す、未だ曽て蚕衣繒帛を著せず、乃至、爾時世尊又大衆に告ぐ我初成道の時河に入洗んと欲す、河神身を現し手五寸の宝塔を執る内に黄金凾有り、一の五条座具一鉢袋を盛る、此は是れ迦葉仏我に付世尊に付せしむ、澡浴せしめ竟て安陀会を披るを請う我即取著す、地六種に震動して而五条四方より光を放ち百億国土を照す、十万書梵天王光を尋て我所に来至し前て我に白して言く此白五条是拘留孫仏の衣なり、仏涅槃已て展転して相付す乃楼至仏に至る、釈迦仏涅槃後沙竭竜王に附属す、乃至此五条四角及ひ条節の頭に皆卍の字を安く、此衣は賢劫の中の最初に造れり云々、故に知ぬ仏袈裟実に白色也と云ふ事。
 
又雑阿含経四十二十八云く仏祇園に住する時、舎衛国の中の婆肆・婆羅門女仏法を信じて三宝に皈す、父母亦法を聞て道を得即好き法衣を作り悉く鮮潔白を以て法衣を作らしめ持ちて仏所に至る髪を剃り袈裟衣を著け出家学道阿難漢果証を得たり云々、此亦白袈裟なり、然るに大集経等に袈裟変り白と成ると以て法滅の相となすと云うは、是即出家の行躰変て俗人の行相となる事を説く故に袈裟変じて白衣と成る云うなり、故に仏正法滅尽相なり。
次に文覚の事盛衰記十八九四十七七巻、東鑑四(四十七)。
 
一、第十九段本書云当宗は化儀也、一所之住持なんどのさのみをちぶれても、檀那などについせうえしやく礼なんどすべからず、上代は上座は是非なし衆僧も別々に盃を召しけるなり、日時上人御第三廻の時奥州七ヶ所の坊主達登山申され幾日歟逗留候らん、日影上人は御盃一度も末寺の坊主達に下し給はず。
 
一、第廿段云檀那の崇敬して足付けの折敷ついがさねなんど、膳をして備えたらば相構て其まゝ有るべからず、若し左様の時は別の折敷を請出して其にすえ移して然るべきなり、一人もその座に他宗有らば緩怠に有るべからず、さやうの座にては公界をふるまうべきなり已上。
 
日因私に云く此十九段、廿段、倶に当宗の化儀を叙す故に合して之を挙るなり、一寺之住持大小零落しても吾檀那に追従軽薄会釈の礼などをするは是れ出家の化儀に非す、檀那は是弟子なり、一寺の住持は是師なり、何そ追従軽薄等の礼有るべけんや、尤も出家の心得之有るべし、況や当宗は化儀即法躰なり、檀那は、必す三宝を敬う、還而僧衆檀那の心を取り機嫌に入る事は仏法を売物する売僧と云ふべし。
 
次に上代等と者祖師、興師、目師の御代也、上座とは御三師なるべし、衆僧は即大衆なり、御酒も別盃に之を用ゆ、当山仏事等に格盃にて順逆に廻はす比例なるべし。
 
時に日時上人三回忌、即応永十五年子六月四日なり、応永十三戊年御遷化なるか故なり、然而奥州七ヵ所坊主達と者新田本源寺、森上行寺、加賀野本道寺、柳目妙教寺、宮野妙円寺、会津実成寺、下野平井信行寺なるべし、又小金井蓮行寺、狭島福成寺小薬浄円寺なるべきか、
 
日影上人(下野平井園部御出生俗姓不知)日時上人に随順し出家学道す、武州仙波に台家を学びて後下野平井園部に弘通し会津実成寺に住居すの時日時上人御遷化なり、之によって日阿代官として当山大坊に居住して日影上人を請す、然るに会津雪国にして翌年応永十四丁亥四月御登山なり、日阿代官老衰病に遭い而応永十四丁亥三月十日遷化なり、此に於て天大御相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す、又精師家中抄日影伝記には日影上人俗姓南条日時に随順し法華を習修す、乃至平井の本尊に云く右妙経妙一卅三年菩提のために之を書写す、施主薗部住少輔阿闍梨日経応永廿癸巳三月十五日、大石寺遺弟日影判云々、応永廿六己亥病中に及び血脈を伝うべき器なき故に柚野の浄蓮に血脈を授く、下山日順血脈を大妙に伝うるに例す、此則白衣なりと雖深信の故に之を授け御弟子日有をして御成人の時を待たしむるか、応永廿六己亥八月四日寂す云々、
 
今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐は時人の口伝を記するものか、後人能々之を尋すべし、但柚野浄蓮授与の板御本尊今岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊の写なり、端書に云く応永廿七年大伴浄蓮に之を授与す云々、今推するに国替に付き浄蓮子孫岩城に移る者か、岩城妙法寺の旧地石川入道と云う処に有り山の頂に経塚有り中に廟所有り、寺地は今畑となり前は皆田場なり、故に栄昌山妙法寺日時上人を以て開山とする者なり、然も妙法寺最初建立の僧は日庵と号す血脈は日時、日位、日庵なり、日庵建立年号死去年月知らず、但小金井七代日位入寂、文明元己丑九月十二日なり、妙法寺血脈次第日時上人を以て開山とすれども実には埋境坊日秀、小金井日位、妙法寺東光坊日庵、日与、日妙、日能、日伝、日教、日番、日得、日敬、日純、日悦、日要、日顕、日諦、日完、日悟、日言、次第するなり、今序に之を書き畢す。
 
然るに末寺坊主御盃之事は登山の砌り初対面には必す御盃之有り、信心登山の間、師弟相対事の一念三千を顕す心なり、但し日影上人、末寺坊主達へ逗留中一度も御盃之なき事と者初対面之後の事なるべし、今の時も初対面の盃より外には更に之無し。
 
次に第廿段に檀那の崇敬して足付之折敷等とは他宗同座の時には檀那尊敬して吾師には足付の折敷、他宗の僧には平折敷と同座にて同輩僧衆を別々にするを誡め玉ふなるべし、又別之折敷を請出すは謙退至極の事なり、若し一人も他衆座にあらば公界を振舞ふべし、公界者公所出合には他宗法華同格なるが故なり、但し他宗の人も人に依て高下ある故に時の宣なるべし、檀那崇敬而足付膳を用るの時は必す他宗他門の僧衆は別座なるべし、たとひ同輩の僧衆座にありとも施主の意に任すべきか、況や俗人をや。次に他宗あらば緩怠有るべし者異本には他宗あらば緩怠あるべからずとあり異本能く聞へたり。
 
一、第廿一段本書云夫れ高祖の俗の一の弟子とは三人との給ひて候は、南条殿大行、遠江総嵜殿、甲斐の秋山殿泰忠なり、又重須地頭石河殿などをも一の弟子と仰せ玉ふ、甲斐秋山、後に所領に付いて四国の讃岐え下るなり已上。
 
日因私に云く此は高祖身延山に住するの時の仰せらるべきなり、かまくらにては俗の一弟子は四条金吾殿、太田殿、池上門太夫兄弟等、是れ俗の一弟子なるべし、又冨木常忍、曽谷殿等も俗の弟子なり、然るに近代冨木常忍日常、曽谷法蓮日礼等を以て十八総たる事未だ詳ならざるなり、南条大行殿、当所地頭御信心の檀那なる事御書の如くなり、秋山殿亦爾なり、遠江総嵜殿と申すは未だ御書に見えざるなり、但し妙一一妙等の事なるか追て而之を勘うべし、重須石川殿も御書に之なし、南条へ下され候御書の内に石川息女之事之あり、但し興師御筆には俗第一の弟子南条大行となり、御本尊当山に在り、之を拝見すべし、石川殿亦重須御影堂を建立す、御棟札之を拝見すべきなり。
 
次に秋山殿国替の事、初には土佐の国、後に讃州え移るなり、故に日華上人土佐に法華堂を建立す、又讃州一寺を建立す、百貫坊又上蓮坊日仙を代官として興師より遣されたり、今の法華寺是なり。
 
一、第廿二三段本書云御上人拝の御盃の様あまた候、児の御座有らば一喉は上より末座の児の御前に下る、二喉めは下より上へ進すると也、三喉めは又上より下へくだる也、又衆僧と俗人とへ盃一つ其盃の位有る座頭には下る無位の盲者には下らず、其れには又次なる盃を呑まするなり、御上座の御盃は惣て下らざる御法なり。
 
廿三又云く女房檀那の然るべきは中老御僧の上に居らるゝなり已上。
日因私に云く此の中一喉二喉の喉の字献に作るべきなり、又一盞に作る盃事なり、若し喉に作れば者魚類肴を云ふなり、若献に作るに者精進を云ふなり、然るに上人御盃品多し、第一児の御座の盃の仕様、又衆僧の盃、又俗人盃、又有官座頭盃、又有官盲人盃等なり、但児の座の盃は何故順逆なるや、謂ふ児は是出世之因位なり故に先づ順に下し又逆に上るなり、第三献の時亦順に下るは下化衆の意なるべし、初順逆の盃、自行中に聖人垂教開示は是順盃なり、児童子の逆盃は是上求菩提の意なるべし。
 
次に衆僧俗人の一盃は聖人垂教開示の一辺なるべし、又其盃の座敷に有官の座頭之あらば順盃下すべし有官の座頭は、俗人に属る故なり、又無位無官の座頭及ひ盲人は僧俗の外なり、仍別盃を以て之を呑ましむ、此則上代より巳来の御法式なり、されば此中の児、衆僧、俗人、皆仏法信者となして之に言う故に無位無官盲人等に惣して御上座の御盃をは下さざるの法式なり、若し檀那の中の盲人等の信心をばあらん俗人の中に属すべき故に御盃下るべき者なり。
 
次に廿二段に女房檀那等と者然るべき檀那の女房は是れ信者なるか故に中老の上に居る法式なり、但し時宣に随うのみ。
 
一、第廿四段本書云又云く当門徒の死去の時は出家在家上押なべて其人の跡継く人其人を持つなり、其遺跡の人余りにをさなければ手をかけさせて代りに持たするなり、其跡継が持つ処が宗旨なり、其故は其死去の人乃ち妙法蓮華経なり、されば御僧様も御倶なれば後陣なり已上。
 
日因私に云く類雑五十二僧一阿含経を引て云く浄飯王崩す白を以棺歛す仏難陀と与に前に在り、阿難羅云後にあり難陀仏に白す父王我を養い願くは但棺を聴せ阿難羅云く亦爾なり、仏当来兇暴父母を報せざるを念う故に躬自ら棺を担う、大千六反震動す、釈梵諸天皆来り喪に赴き仏に代って之を担う、仏香炉を取り前に引き山に就く文、仏在世如来尚爾なり況末法凡夫をや、故に門流の人は上下大小皆悉く父母師匠の棺を担う、此則報恩の為の故なり、然れとも当家の意は父母の尊体を持担する処か即身成仏、血脈相続なり、法華経の行者は死人の色心即妙法蓮華経の故なり。
 
法華骨目抄に云く法華経を学する智者、死骨を供養せは生身即法身是なり、是即身と云は去りたる魂を取返して死骨に入れ彼魂を返て仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法なり、成仏の二字は心法なり、死人の色心を返て無始の妙境妙智と成す是即身成仏なり、故に法華経に云く所謂諸法如是相は死人の身なり、如是性は死人の心、如是躰は死人の色等云々、此意なり。
 
但し前陣後人士あり其先陣是導師なり、後陣是御供奉なり、今意宗旨の本意に約すれば死人即妙法蓮華経なるか故に此妙法経の仏体を持担する処を先陣となす、前後左右僧衆俗人皆妙法蓮華経の供奉となる故に後陣となる御意なるか。
 
一、第廿五段本諸又云天奏の儀式公界にては先づ袈裟を抜いて同宿にもたせて両のひざをつきて申状をばのつと音に読むべきなり、されば日行上人の暦応年中の御天奏の時、白砂にひざまづき御申状を読給しかば、紫宸殿の御簾の内に帝王御迁有りて揣々と日行を御覧じけるが少し打そばむき給ひける程に、日行上人是如何なる御気色なる覧と在りければ、奏者御袈裟を抜き給へりと在りける程に、其時白砂の上に扇を開き其上に袈裟を置いて御申状を遊しければ、又打向ひ給いて聞かせ給ひけるとなり、是も我は九善の位にて而も高き所に御座す、又出家は十善の位にて白砂にあれば其恐れかと覚ゆと云々。
 
日因私に云く天奏の儀式公界にては先づ袈裟を取り申状を読むとは上代の儀式なるか、今当世には此の式なきなり、又王城の公場にては白砂に出仕するか、今は俗人に是白砂、出家は板縁、亦座敷之上に出る者なり、又訴状読みとて彼役人之あり訴状を読むなり。
 
次に日行上人、暦応五年壬午三月上洛奏聞、人王九十七代光明院の御宇、源尊氏将軍之時代なり、此中御迁み字に作る非なり、又黒本には帝王御座に迁有てとあり、又揣々は初委丁果二切高下を度すなり、之累切治なり、今意に非るなり。
 
次に打そばむきと者側向き玉ふ意なるべし側趣も同意なり。
次に我は九善、出家は十善と者常には十善の帝王と云ふ也、此則十善を修め以て帝王に生る故なり、又神は九善、帝王は十善とも云ふなり、此は三十番神帝王を守護する故にしか云うか、今帝王仏子と相対して之を言う故に帝王は九善、出家は十善と云ふなり。
 
次に日行上人の御事は精師家中抄の下に云く、釈日行下野国の人、父は奥州三の迫の内、森の地頭本名加賀野殿なり、目師の一家なり、興師の御本尊に云く、加賀野宮内卿に之を授与す、元徳二年十月十三日、日興在判云々、父鎌倉に寓居し時光の息女を妻となし師を生む、幼少より出家とならんと欲し当山に居住し日道の弟子となる、後日道の附属を受く御本尊に云く日行に之を授与す一中の一弟子なり云々、又下野国小金井に至り法華堂を建立す今の蓮行寺是なり、御弘通廿九年血脈を日時に相伝す、応安二年八月十三日寂云々。
 
私に云く加賀野は森と別処なり、森は新田殿在城なり、加賀野は加賀野殿の在所なり、其道路三里計り之有り、本と加賀野には本導寺と云ふ一寺野あり、森には上行寺今に之有り、加賀野の寺は今転して在家と成る、但庵室に在り、先年奥州下向野節、本導寺に一宿せり、仙台仏眼寺の出家感応坊と云ふ僧知人なるが故なり、彼地に加賀野殿の城地之あり。
 
一、第廿六段又云武家にも目安を奉るに、直奏とて外へ御行の時の、禁より右の方にひざまづき、禁を左に成して目安をは左の手に扇に取副へて、首より高く持て更に面を持ち挙げて禁なんどを見るべからず、さて六人の御童子、禁の前後を走り候が、一人走りよりて目安を取て御禁へ進上候、御覧して是非の御返事還御之時有り、還御まで初の処を去らず、前の如くねまり、ひざは左のひざを立るなり、仍て左の手に目安をも持つなり、くつじやりをば我より一丁あとに置くなり、善悪の御返事有り御奉行所に仰付け給ふ古へは左様になかりしかども今程は乱更なる間、六人の御童子の内に当時御気色よき御童子に兼て一候の分を入るゝなり已上。
 
日因私に云く、此の中武家に目安を奉るとは、精師家中抄の下に云く日行亦鎌倉に趣き武家に訴う是より来つて弘通あるなり云々、然に行師御代は京鎌倉大乱なり、正慶二癸酉五月廿二日、相州平の高時自害已後延元二年に至り義貞尊氏合戦止むことなし、然るに延元元年丙子五月楠木正成湊川にて討死、源義貞同顕家延元二丁丑年討死、暦応元戊寅八月尊氏正二位に叙し大将軍に任ず、而も鎌倉には尊氏の嫡男源義詮カマクラに住し東国を収る、故に度々合戦之ありなり、貞和五年己丑十月義詮鎌倉より上洛し直義に替て政を行う、義詮の弟基氏カマクラに下り管領となり、高の師冬、上杉憲顕其家令となるなり、王代六廿の如し云々、然らば則日行上人御住職暦応三庚申年より応安二己酉年まて卅一年なり、爰に知ぬ京武家は将軍尊氏義詮御代なり、カマクラ管領は基氏、氏満代なり。
 
次に六人の童子と者、王代(廿九)を勘るに貞和六年十二月七日将軍義詮薨、卅八、治世十年なり、其子義満十歳にして将軍に任し細川右午頭頼之幼君輔佐し善言を以て教道を作らんと欲し六人の法師に異累の衣を著け脇指を帯刀して、侫坊童坊と名け人々をして謟媚せしむ諸人追従軽薄なる者を侍童坊と名けはづかしむ、其心義満の讒侫を遠ざけしめ武士の風俗をなほさん為なり云々、然れば今六人の童子と云う即此六人の事なるべきか、御童子に兼て一喉の分入るゝと者、即樽代を遣す事なるべし、一喉は即一献の酒代なり、古代には之無し今程は乱更なる間等と者日有上人の御代の事に似るなり。
 
一、第廿七段云出家の上は上藹下藹全く親疎あるべからず、行躰給仕有るべく候、鎌倉永安寺殿の御代建長寺の僧達、床へ上る時履を踏み捨て置くを喝食役に細き熊手にて沓を床の下に収め勤め終れば亦沓を懸け出して僧達にふまするを、鎌倉殿の子にて候喝食に此役をさせず、永安寺殿是を御覧じて長老をうらみ給ひ、某日本半国の将軍にて候へば、幾くの罪障候覧、罪障は分斉によりて軽重在るべく候、よの喝食達より某が子にて候ふ喝食に能々行躰をせさせて御助け有べしと申されし程に、其より高位高官を撰ばす喝食達に沓の役あり諸の出家の法是なり。
 
されば無慈詐親為彼為怨なりとも見へたり、為彼除悪為彼親なりと見えたり、在家の大檀那上藹などの行躰を致さんを出家の恐れいたはる事は大比興の至極なり、其故は人を助くる様を知らざるなり、中々大なる人の罪は又大なり、其罪消滅は善根無くば深く獄闇に沉まん事疑なきなり。
 
されば猿江橋本の会下の長老は比興の僧と云へり、既に越後の守護に上杉兵庫頭遁世して有りければ、中間も二人遁世す有る時会下の屋葺かやを僧達運びける程に、上杉兵庫頭も此のかやを持ける持ならはぬ事なれば持死けり、中間共此のかやを取分けて持べき様を云へば、上杉云ふ様は我は志の遁世なり、和殿原は志亡き遁世也、志は我こそとて持たせず、其時長老上杉をは留めてかやをもたせず候、へつらいまがる僧也人を助る様を知らざるなり已上。
 
日因私に云く出家の行躰給仕は上下親疎なしは、上求菩薩の志深き故なり、提婆品の国王出家して仙人の所にして千歳給仕、不軽菩薩杖木瓦石是なり。
次に永安寺を引くとは、応永五年十一月鎌倉管領源氏満卒し永安寺と号す、年四十二、其子満兼相続上杉朝宗家老たり、満兼か弟満直は奥州の管領たり篠河殿と号す云々、王代六(四十七を)云ふ同月道義、畠山基国を管領とす、此より以後欺波、細川、畠山かはるがはる管領となり、関東にも此をにせて、かまくらの管領をは私に将軍と云ひ御所と称して其家老上杉を管領と称し、千葉、小山、長沼、結城、佐竹、小田、宇都宮、那須を八家と称す云々。
 
次に喝食と者、下学集上(卅二)云ふ喝食行堂行者聴叫以上の四種は禅律の使令なり云々。
 
次に収め勤め終るとは、異本に云く勤収終れば又沓を懸出して云々、即是熊手にて沓を懸け収め懸け出ぬ義なり、永安寺殿即氏満なり、貞和五年丁未四月鎌倉管領基氏卒す、其子氏満相継く、後応永五年迄卅二年之間是の如き事之有り然れども何の書釈に出たるや未だ見ざるなり、但時代の俗説物語なるか。
 
次に無慈詐親即是彼怨、為彼除悪即是彼親とは涅槃経の文なり、御書処々に之を引く又建長寺長老及ひ遠州橋本会下の長老の事並に上杉兵庫頭遁世の事未だ其伝記を見ざるなり云々。
 
今の所詮は出家の身は都て上下親疎なく行体を作さしめ以て真実寺僧となる意なり。
又持死とは応に持に作るなり、它計切喘なり、持来り因ること極るなり。
又云く志は我こそとて持たせずと者、持ち給へぬと云ふ事なるか云々。
 
一、第廿八段本書云日興上人、伊豆走湯山、式部僧都に御対面の時、小野間の老僧日盛御供なり、興師より一喉の分候ひける日盛御なりける二、三献目の盃の御論七十三度なり、其時日盛中座にて老僧元申さんとて酒を呑給ひて収め給ひけるなり、是則使付けなり已上。
 
日因私に云く日興上人御対面式部僧都、文永十一年甲戍之比なるか、此の時日目上上人御弟子となるなり、精師家中抄の中に云く、文永九年壬申日目十三歳伊豆山蓮蔵坊に登り出家作んと欲す、日興熱海にあつて走湯山の出家と熱海に参会す、彼僧徒懐中より児童の文を取落す日興之を見てかくぞ詠し下ふ。
 
通ふらむ方ぞ床敷浜千鳥、文すてゝ行く跡を見るにも、茲の一首によつて蓮蔵坊に御対面なり又走湯山五百房中第一の学匠と聞えし式部僧都に相看し即座に法門あり蓮蔵坊熟を聴聞して信奉し奉る故に児童を以て日興に奉り弟子となす時に十五歳なり建治二丙子年夘月八日落髪受戒本に従て名を立て蓮蔵坊卿阿闍梨日目と号するなり、同十二月廿四日身延山に詣て大聖人に値い奉る時十七歳なり、是より侍者なり、七年の間常随給仕す其間御説法を聴聞せざるなし、之に依て習学せざることをも亦能暁了し玉へり云々。
 
亦日道上人伝に云く日目上人文応元庚申御誕生なり、処胎十二ヶ月上宮太子の如し、豆州仁田郡畠郷の人なり、族姓藤原氏、御堂関白道長の廟音行、下野国小野寺十郎道房の孫なり、奥州新田太郎重房嫡子五郎重綱五男なり、母方は南条兵衛入道行増孫子なり、文永九年壬申十三にして走湯山円蔵坊に御登同十一年申戍日興上人に値い奉り法華を聴聞す即時に解し信力強盛十五歳なり、建治二丙子十一月廿四日身延山に詣て大聖人に値い奉り常随給仕ぬ十七歳なり云々下之を略す追て予先年熱海湯治之節円蔵坊に対面す昔し走湯山両派なり、上五百坊真言派下五百坊天台派なり、今天台派皆潰て之なし、但其寺其寺坊之跡之あり、右円蔵坊は上五百坊の内山臥一派なり、今多分潰地と成漸く十五六坊あり云々、
 
其中円蔵坊今に之あり、予熱海入湯之砌元文五庚申三月対面して具に之を聞くのみ、然は則今走湯山大坊般若院と号するなり、然に精師記中に走湯山蓮蔵坊者恐は謬なり、又云く建治二年夘月八日落髪受戒従本立名蓮蔵坊郷阿闍梨日目と号す、同十二月身延山に詣でる等、亦恐は謬なり、凡坊号有職日文字は大聖人より下し置かられ給うなるべし、日興上人何そ私に之を授んや、况や大聖人に値うと雖も而して年十七何そ坊号有職に有らんや、初卿公と号す、此れ畠郷の人なるか故なり、亦新田卿公と称す後に蓮蔵坊と号し新田卿公阿闍梨と称するのみ、所謂新田は奥州三迫の新田なり、祖父小野寺太郎重房始て新田庄を領する故に新田殿と称す、而して重房嫡男新田五郎重綱か五男なる故に新田の卿公阿闍梨と云うなり、又豆州畠郷の人なる故に卿公阿闍梨と云うなり、祖母は妙法尼御前尾張二郎兵衛殿の妹なり、母は南条行増息女蓮阿尼と号するなり、父新田五郎重綱は文永元甲子七月卒、日目上人幼名を虎王丸と云ふなり、但亦精師伝記の中に嘉暦三年七月廿七日の日興上人の御本尊に小野寺虎王麿予弟子なりと云うを引くなりと者亦是恐は謬なり、嘉暦三年授与之、虎王丸は是日目上人の娚の虎王丸なり、此の虎王丸は日興上人の御所にして常随給仕し給ふ虎松童子是也、仍て予弟子と云うなり、又日目上人御遺状に之あり、况や嘉暦二年は日目七十歳なるをや云々。
 
又房州妙本寺日要記に云く、日目上人新田四郎源信綱舎弟新田五郎重綱か子なり、身延山に落髪・後宮内卿新田卿公と号するなり云々、亦此記大に謬るなり、新田四郎は上州なり、日目上人の新田は奥州なり、又藤原にして源氏に非ず何ぞ源氏の新田の一類と云わんや、又小野寺、新田との事別に之を勘う云々。
 
次に小野間の老僧日盛の事未だ之を勘へず。
次は三献目、盃七十三度と者、即是興師より一献二献三献と式部僧都に指し玉ふ時に七十三度の酒論ありと見へたり、其論相済まざる故に老僧日盛中座に之を取り納む口上には老僧初め申さんとて呑み納め玉ふは誠に気転の人なり故に歎して仕付と云うなり、若し老僧之を呑み納めざらんは盃論相済むべからざる故なり。
 
一、第廿九段本書曰尼崎の慶林坊の師匠広覚坊日学冨士大石寺の門徒讃州高瀬大弍阿闍梨日寿と土州幡多、庄山田郷在岡の法華堂真静寺と吉奈の富士門徒との問答は神力品の五重玄義は約教の五重玄か、約行の五重玄かと問ふ、日学は約行の五重玄と云ふ、日寿は約教の五重玄と云へり此問答なり已上。
 
日因私に云く日寿と日学との問答に七箇条あり、富士学頭三位日順摧邪立正抄を作つて之を破責するなり、故に摧邪立正抄の序に云く爰に貞和四年天仲夏五月頃、富山門徒尾弍阿闍梨と日像邪法の顛誑日学と遠国土州に於て問答記録有り、すべて大聖出世の本意に違うのみに非ず、剰へ放逸鳴呼の過言を加載し尾籠の迷者に対して捨て置くべしと雖も余人の徒輩の為に寄せて当宗の体を示す云々、此中に大弍阿闍梨と云うは日華上人の伝票なり、精師家中抄に云く、日華下、日華上人弟子分、第一摂津阿闍梨日仙、次に第二肥前部阿日伝、此は寂日坊違背の弟子なり、今鰍沢妙法寺血脈日興日華日伝之を列す、次に第三式部阿日妙重須三代目なり、鰍沢蓮華寺血脈日興日華妙之を列す、経王寺日興日華妙之を列す、此三箇寺、高祖御寺号を付る最初の寺なり、
 
次に第四は大弍阿日寿、下野国曽根部人なり、秋山余一源信綱所領替に就て土佐国幡田庄吉奈に移り亦法華堂を建立す今の大乗坊是なり、日華彼国に到る故なり、血脈は日興日華仙日寿と之に列るなり、当山日院御代迄通用已後来らざるなり、亦讃岐高瀬に移り法華堂を建立す、今高瀬の大坊是なり、血脈は日仙日華日寿日山と之に列すなるなり云々、取意畧。
 
次に日蔵と者、即日像、尼崎慶林坊は即日隆の事なるか、広覚坊応に広学坊に作るべきななり、然に土佐の問答は両度と見たり、故に一度学と寿と又一度は真静寺吉奈等と云ふなり、而も問答記録は貞和四年戊子五月比なるか故に日順之を聞召して彼の日学の邪義を破責すること摧邪立正抄の如くなり。
 
次に神力品の五重玄義約教約行の異論は日寿義尤も好なり地学の約行と云うは天台玄文の判釈に違うなり、玄一(廿四)云く神力品、中に教の次第に約す一切の法本皆仏法なり序品方便品は行の次第に約す等云々、籤一末(廿二)云く然ニ教に約する中妙法を以て在纏の法となす若し行に約せる中妙法を以て能除の名となす等云々又神力は教に約する故に名を先にし序品は行に約する故に文中所立の次第の如し云々、何ぞ神力品の五重玄義は行に約すと云わんや、日学は天台の玄文を見ざる人なり。
 
問ふ神力品何か故に教に約して名要躰宗教と次第するや、序方便の中には行に約して名躰宗用教と次第せるや、答ふ仏在世及ひ正像機縁專ら過去結縁の者を利するが故に約行五重玄義を專要となす、正宗の開示悟入是なり、若仏滅後末法には本未有善の機專ら悪逆の機縁を救う故に教の次第に約して而も説て之を付属するなり。
 
問ふ末法悪世亦約行五重の次第を用うべきや、答ふ少分開示悟入の機有らば之を用うべきか、故に御書に云く上根上智は観念観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり云々、又十章抄に云く日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経と唱さすべし、名は必す体に至る徳あり云々、又廿八(卅二)卅四(廿八)十四惣勘文抄、五種成仏及ひ十如是御書云々、今末法の時順逆二縁有り、順縁の中に亦信行観行有り亦迹門の順逆有り本門の順逆二機有り等云々。
 
一、第卅段本書云又云く当門流に於て番匠鍛冶座頭等、万づ職人の当道の子など出家に成す事あるべからず、第一の化儀なり已上。
 
日因私に云く、若し爾らば四姓出家皆名為釈の文如何、仏在世には四姓皆出家して仏弟子となす何ぞ之を簡ばんや、然るに今の意は当山貫首上人の弟子にすべからず、其の故は一閻浮提の座主日目上人の後を紹継するが故に筋なき人の子を弟子となし而して大石寺を相続し難き故なり、此則当山第一の化儀なり、若し地中末寺等の弟子には苦かるべからざる者か、所謂四姓出家故なり又貫主の弟子なりと雖も下輩眤近等のために使仕奉公は苦かるべからず、祖師海山御弟子の中にも下輩衆僧之多き故なり、又末寺等に於ても尤も之を簡び寺法を譲るべき者なり。故に広く当門流と言うなり。
一、第卅一段本書又云人死去の時葬礼の次第は然るべき俗人には唐櫃をもかゝすべし、禁をかざらずば只棺ばかりなるべし、禁を指すはかざらんが為なり、絹綾錦(女へんに幾という字)物くちは北野物などにてもかざるべし、さればとて服物をいたづらに切合切合なんどしてすべからず、見吉き様にすべし、服物ならば其儘にて面白く引きつくろいてかざるべし、さて早々の時は棺計りには其の上にあはせんなどをば打ちかけて能きなり、葬送の趣は吉奈の入道日経の時の事を申て候へば御褒美なり、但し唐櫃をかゝせめなんど仰せ候なり、御経をば火を指す時元るなり読誦成るべし、御本尊守り申したる出家は三匝すべし、導師は別に踏み分けて有るなり已上。
 
日因私に云く然るべき俗人とは大名高家の人なり。
唐櫃とと此事未だ之を見聞さぜるなり。
 
次に禁棺とは棺槨の事なるか、子曰く鯉や死棺有つて槨は外棺なり云々、玉篇四に云く内棺之を槨という云々恐は倒に応に外棺を槨と謂ふと云ふべきなり、又札記壇弓上第三大全三(十二を)云く有虞氏は瓦棺、夏后氏は周、殷人は棺槨、周人は牆翣を置く周人殷人の棺槨を以て長殤を葬り夏后氏の周を以て中殤下殤を葬り有虞氏の瓦棺を以て無服の殤を葬る、夏后氏、黒を尚び大事歛には昏を用う、殷人白を尚ぶ大事歛日中を用ゆ、周人赤を尚び大事歛日出を用う云々、大全注厳陵方氏を引て曰く椁の棺に於ける城の郭あるが如きなり牆ぐるに帷を以て柩して周囲墻の如くす、翣以て柩を飾りて翼蔽する羽蓋の如し世兪久して礼兪備故なり云々、又云く布幕殯棺の上に覆う所以、衛は布を以て幕となす諸侯の礼なり、魯は綃を以て幕となす蓋し天子の礼を僭す、又云く瓦棺始め衣薪せざるなり、周或は之を土周と謂う、は火の余燼なり、蓋し土を治め甎となして棺の坎に四周す、段の世始棺槨をつくる周人又棺を飾るの具をつくる蓋し弥よ文なり、牆は柳衣・柳は聚なり、諸飾の聚る所なり、此を以て柩を障う猶垣牆の家を障るがごとし、之を牆という翣は扇の状の如し、画て黼となす者あり、画て黻となす者あり、多寡の数貴賤の等に随う、馬氏日虞氏より瓦棺而して夏后氏に至り周、周の椁の象有る商人瓦棺周を以ゆる皆陶治の器而て陶治土に出て其久しきに及ぶなり、
 
必土に復る土膚を侵さしむるなき能はず、遂に木を以て之に易う、木は以て土に勝るに至る、而て仁人孝子深く慮り長く思う所以は未だ此に易る有らず聖人の法相伝て後備る故に、周人即商人の棺椁に縁り之を飾るに牆を以て置き孝子の心を尽くし、之をして死を悪ましむなきのみ已上。又礼記に云く、国子高日く葬なりは蔵なり、蔵なりとは人の見るを得ざるを浴するなり、是の故に衣は以て身を飾るに足り棺・衣に周す、棺に椁す、土椁に周し反て之を壊樹せんや、注云く疏に日く子高の意人の死は悪むべし、故に飾を備え衣衾棺椁を以て其の深邃人をして知らしめざらんと欲す、今乃反て更封壊し墳をつくり樹を植え以て之を標するや国子の意倹に在り、周の礼に非ず云云、此国子を破す倹約の意の故。
 
又礼記に云く天子の棺四重、水兕革棺之を被う、其厚三寸、杝棺一、梓棺二、四者皆周云云、註に云く水牛兕牛の革は湿に耐る、故に以て親くの棺となす、二革合被の一重となす、杝木亦湿に耐る故に革に次ぐ、即前章所謂梓木棺二、一は属とし一は大棺とす杝木棺の外属湿あり、属棺の外又天棺有り四者の棺上下四方皆周布なり云云。
 
今日本国風多く儒家の送式による故に武家に棺椁(挙の上の下に車)、布飾等あり、或は白輿棺上に覆い其上に亦小袖布飾等を懸く、皆周人の礼により孔子を尊む故なり、仏家は釈尊の送式を以て手本となす故に長阿含四十八に云く時に諸末羅童子城に還り葬具を供弁す香華劫具棺椁香油及ひ白と己に還て天冠寺に到る、浄香湯を以て仏身を洗浴し新劫を以て周布して身に五百張のを纏い、次に之を内身に纏うが如く金棺に灌ぐに香油を以て金棺を棒挙げ第二大鉄槨中に置く其外に重衣し衆名香を以て其上にむ等云云。
 
次にさて早々の時は棺計り等とは論語三に云く顔淵死す顔路子の車を請ひて之が椁となす、子曰く才不才亦各其子を言うなり、鯉や死して椁有り而て椁無し、吾徒行以て之が椁を為らず等云云、注に云く椁は外棺なり車を請うは車を売つて以て椁を買んと欲するなり云云、又云く顔淵死す門人厚く之を葬らんと欲す子日不可なり、門人厚く之を葬る、子曰く回や予を視る猶父の如くなり、予視ること子の如きを得ざるなり、我に非るなり、夫二三子なり云云、注に云く喪具家の有無に称う貧して厚く葬る理に循はざるなり、故に夫子之を止む、次に子曰已下葬鯉の宜しき得たるが如きを得ざるを歎じ以て門人を責むるなり云云、仏家又然るべき者なり。
 
次に葬送の趣き吉奈入道日経の時の七を申し候らえば御褒美なりとは、即是日有上人の御褒美なり、吉奈入道日経とは土佐国幡田庄、吉奈法華堂大乗坊檀那秋山与一源信綱の末孫なるべし。
 
次に御経は火を指す時元むるなりと者、火葬の時なるべきか、又山の法式炬火をふる時なるべし、元と者読み始る也、読誦と者静に読誦するを云ふなるべし。
 
次に御本尊守り申したる出家とは、御番役を相勤たる僧の事なるべし、今の吊は皆右遶三匝するなり。
 
次に導師は別に踏み分けて有るなりとは、凡導師に二人有り、一人は大導師一人は小導師、当宗の意は上人は是れ大導師なり、葬礼の時には前陣後陣の列に非る故に別段に道踏み分け行て居する北の上座にあるなり、小導師は宿坊僧、亡者の先達案内者にて葬礼の先陣なり必す一心合掌して亡者を引導する事なり、要覧上に云く衆生類をして其の正道を示さしむる故に能く人の為に生死の道を説く故に能く菩薩の道を退せず菩薩の道を断せざるを以て故に此道に住す、已に能く衆生をして成熟を得せしむる故に導師と名づく、正路を以て涅槃の径を示す、無為常楽を得せしむる故に大導師と名づく、即五経を引く云云、今当家の意は一一の菩薩皆是大衆唱導之首、乃至、是諸の菩薩衆の中に四導師有り、最上首唱導の師となす、即是南無妙法蓮華経と唱え一切衆生を引導して寂光の宝刹に至るの師なり。
次に絹綾等とは応に絹綾錦布織物と云うべきなり恐(女ヘンの横に機という字字謬なるべし、又布一字落ちたるべし。
 
次にくちば北野物等と者異本には朽葉此の野物などにてもかざるべし云云尤好なり、朽葉は即草木の葉の紅葉したるを云ふべきか、仍次下に朽葉を押て此の野物と云ふなり、此皆野山にある物なるが故なり。
 
次にさればとて服物徒に切り合せ等とは、上に挙る所の絹綾錦布等の一服をる物を切り合するは是れ徒事なり。
面白く引繕ひて飾るべしとは、上の絹綾等の一服一端其儘にて用ひて面白き様に取り繕て飾るべしと云ふ事なり。
 
一、第卅二卅五段に云く又云く例時には安国論は上座の役、さうしごえによむべき也、読む度に次なる老僧一人に礼之あるべし双紙音をは公家の読み給はんを聞くべし云云。
 
又卅五段に云く御経の上に論之を置くべからず、論の上に申状を置かざるなり、申状の上に書有るべからず、又我か書きたる時節の年号之あるべからず、軸表紙有らず、既に公界の物なれば更に私の義之有るべからず、申状読まん度にいたヾきたりなんどすべからず、今我奏聞申す義成れば我奏聞する処の目安を我がいたヾくべきか已上。
 
日因私に卅二、五を合す、同類なるか故なり、例時と者正月廿六日・日中始めなり、又毎月十三日御講の時、安国論申状之を読む、今は毎月七日、十三日、十五日御講之あり故に十三日例を以て御上人より先に日有上人の申状之を読む、次に安国論、興師、目師、導師申状を次第に之を読むなり、日有上人の申状最初なる子細は日有上人已後天奏之人之なき故に、日有上人の申状に有つて上代の祖師開山已来の筋点火を諫暁する事を知らせんなり、若し今申状をもつて天下を諫暁するに有つては其の申状を以て最初となさんのみ。
 
次なる人に一礼有る事は私なるべし、公界にては其義之あるべからず。
双紙音とは未だ之を勘へず更詳。
第卅五段に云く、御経の上に論を置くべからず等とは、経論釈書等の次第なるか故なり。
次に年号月日之事は天奏之時必す年月あるなり、然に之を誡むる者只是天奏をなさんと欲る書調時節を之を誡るか。
次に軸表紙の事と者、勿論天奏の時には但白紙の上之を包む往古天奏之人之を読むなり、今は目安訴状の読人役有つて之を読む、尤役人内々にて難字等を聞き合せ給ふ事なり。
次に申状を戴き申す事は尤無礼なり。
 
一、第卅四卅三段又云く大石寺は天下の御祈祷所たるべし、そこつに人の菩薩訪ふ処なとゝ云つて過去帳なんど捍したりなんとすべからず。
又卅三段に云く遠近共に信者、上人の御前に参りたる時上意にて御座をなをされ申さば、我等分の座に置き如何様なる人御座に有りとも其方え私の式躰すべからず已上。
 
日因私に卅四三、前後之を挙るなり、大石寺は天下の御祈祷所とは広宣流布の時は天下安全の御祈祷所と之を定む、此則近く現世安穏を祈る故なり、而して後生繕処を兼ねたり故に傍ら滅罪の寺となす、今正意を以て之を言う故に卒爾の義を誡むるなり、謂く卒爾に人の菩薩を吊し寺と謂い他寺他山の如く過去帳等ををしひらき、仏前に位牌等を出すべからずと誡しめ玉ふなり、文の中に過去帳の張字謬なり応に帳に作るべきなり。
又捍と者伊呂波韻上卅九抵捍はをしひらく也云云、字彙に云く云く抵擠也擠は排なり又排は推排なり、又推は排なり云云。
 
次に訪は応に吊に作るべきなり、訪は問なり、謀なり、小補に云く説文に汎く謀る訪と日うなり、徐云く此は汎謀を言う謂く広く人に問うなり云云。
次に弔と者俗字なり吊ふ、字彙に云く終を問うなり傷なり、愍なり死を吊を吊と曰い生を吊うを唁と日う然れば今人の菩薩を吊う故に吊の意然るべきなり。
次に卅三段に云く遠近の信者と等は、上人其人々の位を知て御座を定る故に、宿坊案内の僧衆は方に我か居すべき座席に其信者達我等か分座と者、宿坊達居るべき座なり。
 
次に如何様なる人御座に有るも其人の方に向つて我か私の式礼を申すは還て無礼なるが故之を誡るなり。
 
一第卅六段又云く逆修の事は順善七分一得とて六分我か得と成り一分聖霊の得と成る逆修七分共に我が得と成るなり已上。
日因私に云く此中には順逆二修の不同を弁ずるなり。
順善七分一得とは未だ出処の経文を勘へざるなり、又云く全得七分と意は十分の内三分は聖霊七分は自身之を得る事なり。
次に逆修は自分の為に後世善根を修する故に七分倶に我之を得る者なり、問ふ若爾らば聖霊追善回向全得七分に非ずや答ふ此は是れ他経一説の意なり、法華経の施者亡者倶に全得七分なり、何となれは十界互一念三千妙法蓮華経を以て聖霊に供養する則能施所施悉皆妙法蓮華経則身成仏となす故なり、具には法華骨目抄の如きなり云云。
 
一第卅八段に云く又云く当宗の信者の仏事を修するに他宗他門徒の指し合せは順義他尤也、他人来って相伴交衆なんどは苦しかるべからずさて他宗の仏事を修する当宗より指合せは有るべからず、第一の化儀なり。
又卅九段に云く俗の聖霊の霊供をば一段下りて備ふべし、御仏供御影供をは御僧膳の飯にも副ゆるなり、霊供をは御僧膳の飯に副ざるなり已上。
 
日因私に云く第一の段は当家檀那仏事自他出会等与捨なり。
指合とは、仏事の料物を出し合せ合力する事なり、又相伴交衆之を許す、他宗他門当宗より指し合せ大謗法に非ずや、答ふ若し世界悉檀に依つては互に指合等も之を許すべきなり、今為人、対治、第一義悉檀の意に依る故に不可有りと云うな第卅九だんに僧俗聖霊供物備え様を示すとは、此れ亦通局有るべし、何となれば現生を以て之を言へば僧俗の異あり、而も即身成仏の義によれば当家の行者は皆忝く仏なり、但し成仏に分極高下の不同有る故に霊供僧膳亦其品有るべき者なり、此の中に御仏供御影供御僧膳と云うとは、惣は十方法界、聖霊供物皆仏供僧膳と名づくるなり、孟蘭盆経に十方聖僧供養を云う是なり上野殿御返事に云く上野殿御忌日僧●料壱駄慥に御仏に供しまいらせて自我偈一巻らみまいらせ候ひし云云、又云く故上野殿法華経にて仏に成らせ給て候、乃至此程読み候御経の一分をは故殿に廻向し進らせ候云云之を思え、
 
別して僧俗を分つ仏弟子には四衆あり、謂く比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷なり、優婆塞此に信女と云う倶に俗なり、比丘は出家なり、比丘尼亦出家に属するなり、倶に僧なり、然に仏供を備うる必す其品有り、当家には御本尊供養仏器一つ二つなり、一は即境智不二の意なり、二は即境智二法なり、二而不二、不二而二なる故に或は一器を備え或は二器を備う、一に妨げなきのみ、今文に仏供と云う是なり。
 
次に宗祖御影供養即御膳なり、若略を存せば仏器茶椀等にせ之を備う。
次に御僧膳とは通んは三師供を以て名けて僧膳と為す、若し別して僧宝を論せば興師目師已下の僧衆を以て名て御僧膳となすなり。
 
次に霊興は亦僧俗に通す過去聖霊の供養なるが故なり、今文中に副飯と云うは、副は謂く弐なり、並なり、離なり、代なり、今意は略して高祖御僧膳計に捧上るときは、即御僧膳の飯之内に御仏供をも御両尊の供御代々の供をも副へ並て御供養申す意なるべし、然れども霊供をは御僧膳の中に副えざる故必す別器に之を備うべきと云ふ意なり、異本御僧さま云う恐は謬りなり。
 
一第四十段又云く当門徒の御勤の事一大事なり、何にもしづかに然るべきや、高下有るべからずゆるべからず、何にもすぐに終り強に読むべきなり、日時上人は御勤の座ごとに御せつかんを召され候ひしなり、勤の時目つかいにより貌の持ち様手の持ち様ひざのくみ様にても其人の余念を顕はすと御沙汰候、況や外見之有るべからず、余事余念なくして唱る処の題目を事行の妙法蓮華経と申す即身成仏の当体と仰せられ給ひ候已上。
 
日因私に云く此中には当家朝夕の勤行一大事の心得を示し玉ふなり、一大事と者、事の一念三千の妙法蓮華経の即身成仏を顕はす故に一大事と云うなり、天台文句第四(廿五)一大事因縁を釈して云く一則一実相なり、其性広博なる故に名を大となす諸仏出世の儀式なり故に名を事となす云云、此仏の化事なり、又云く諸有所作常為一事は、行一なり円の為の故に衆行即是一事なり云云、此は迹門の意なり、迹門既に爾なり、本門亦爾なり、故に寿量品に云所策仏事未曽暫廃と、天台文九(四十九)に釈して云く不虚を結する上の如し、若干已他形声は皆衆生をして仏道に入れしめ人天二乗小事の為にせず故に所作仏事と云うなり云云、
 
又云く此経は一向仏眼を以て衆生万善究竟仏を得る観知すと明す、一大事出世の正意なり云云、此等は皆仏在世の化事なり、今末法の行事も亦是所作仏事にして即身成仏の御勤なるか故一大事と云うなり、故に下に宗旨を示して余事余念なく唱る所の題目事業の妙法蓮華経即身成仏当体なりと云うなり、然は則ち音声雅正にして静にして長短高下なく健に読経すべし終り強に之を読む心は次第に広宣流布願望成就せんか為なり、縦令ひ回向祈念たりとも広布祈願忘るべからざる故なり。
 
次に日時上人御勤の座毎に御折檻遊され候とは、此一大事を思召す故なり、折檻とは古事有り、前漢代朱雲と云ふ人、成帝に仕へし時張禹と云ふ人成帝の師匠にして威勢ありければ朱雲此人をにくみて切らんと奏聞しければ、成帝忿り給ひて還て朱雲を引き出し切らしめ給ふに朱雲御殿の檻干に取付き居て出でず、終に檻干れたり、時に辛慶忌と云ふ人之を許す巾由を奏聞しければ、朱雲許さる、是より已来勅誡の事を折檻と云ふなり。
 
次に勤の時眼遣ひ等とは、我等の六根の中に心は国王の如く表の五根は臣下の五位の如し、皆一念の心王より出て五根振舞を作す故に世法にも君臣に譬たるなり、況や仏法には正法念経に心如画師手画出五綵と説き、華厳経には、心如工画師造種々五陰と宣ぶ、故に人々内念相顕五根に表る眼耳鼻舌面皃等に文明なり、此の事経論釈書判釈する所の故に御沙汰の為と云うなり、況や外見曲身等をや、故に誡て外見之有るべからずと云うなり。
 
次に余事余念と云う下は正く当家の一大事を示す此則結皈文なり、余事は謂く余行なり、余念は謂く唱題成仏の外念慮あるべからず、故に当家の行者は若は誦経、若は唱題一向余事余念無して南無妙法蓮華経と唱る処に妙法の即身成仏を立たる者なり、等躰義抄廿三(十三十二)云く妙法蓮華経を信ずる日蓮か弟子檀那等の肉身是なり等云云、亦云く正直に方便を捨て正直に法華経を信して南無妙法蓮華経と唱る人○本門寿量の当躰蓮華仏等と云云。
 
一第四十一段又云く芥爾にも御僧膳に供養布施を進らせる人をは在世の竜女の代三千大千世界に宛る如意宝珠を仏に供え奉る思をなすべし、又布施供養を受る出家も宝珠と思ふて之を受べし、何かにも少しき物をも重く思ふて之を受くべし、されば釈に云く布施軽想の科によりて悪道に堕つと見へたり已上。
 
日因私に云く此の中に布施供養の志重きことを示して以て受物の罪福を勸誡するなり。
初に芥爾とは止観第五に云く介爾有心即具三千云云、止観の文は一念三千を釈せるなり、弘五中(十二)云く介爾と言うは謂く刹那の心言う言う、又(十二)云く介者弱也詩に云く介爾景福とは謂く細念なり云云、又(四十八)云く爾と者助なり介は謂く微弱の念云云、珠篇一(十五十四)云く爾而紙切語の助なり、又詞の畢なり、介者徴き云云、今文に芥爾と云うは芥は草芥をいうなり、又織芥なり又細徴なり故に極少分の物なりとも御僧膳供養に之を捧上する時には童女の仏に如意宝珠を奉るが如く之を思うべきなり、施物極少分なれども其志至て重きか故に全く在世の童女成仏の如意宝珠に同すり者なり。
 
南条殿返事に云く白麦一俵、川苔五帖送り給ひ畢、仏の御弟子に阿那律尊者と申せし人はさなくしての御名をは如意と申す、如意と申すは心のおもひの宝をふらししゆえ也、○迦葉尊者の麦の飯はいみじくて光明如来とならせ給ふ、今の檀那の白麦はいやしくて仏にならず候べきか、乃至山河をこえわたり送り給ひて候御心ざしは麦にはあらず金也、金には非す法華経の文字也、我等が眼には麦也、十羅刹は此麦をは仏の種とこそ御覧候らめ云云之を思え。
 
又上野殿御返事御書に云く、法華経こそ女人の成仏する経なれば八歳の童女成仏し、仏の姨母等記莂にあつかりぬ、されば我等か母は但女身の体にてこそ候へ、畜生にもあらず蛇身にもあらず、八歳の童女だにも仏になる如何そ此経の力にて我母の仏にならざるべき云云。
 
御義口伝(五十二)云く有一宝珠と者、一即妙法蓮華経なり、宝即妙法の用なり、珠即妙法の躰なり、妙の故心法なり、法の故に色法なり、色法は珠也心法は宝なり、妙法と者色心不二なり、一念三千を所表して童女が宝珠を奉るなり、童女か手に持てる時は性得の宝珠なり、仏受取り玉ふ時は修得の宝珠なり、中に修性不二有るなり、妙法蓮華経是なり云云。
然は則ち檀那の供物微小なれもども之を以て三宝に供養する則は即身成仏するか故に童女の有一宝珠に同じ何そ布施の軽想を致すべけんや、嗚呼今の僧衆多く布施軽想を作す、豈三悪道の苦報を免れんや。
 
仏蔵心宝十二(四十)に百十三の大宝積経を引て云く迦葉若し沙門に非して自ら我は是沙門と言い梵行に非仕手自ら我に梵行有りと言うものあり必ず信施に報じ一毛の端の如くなる能わず、何を以ての故に聖衆福田猶大海の如し、最妙最勝なり中に於て若し施主有り浄心信敬の故に施種子を以て福田の中に種え此の如き施主無量施想を起す、迦葉若し破戒の悪比岡有り信施を受け一毛分の如き所受の毛分を経す即施主爾所の大海の福報の分を損失す、畢報する能わず、迦葉是故応に其心を浄して他の信施を受くべし云云。
 
此文の意は施主の心は浄心にして大海の如く仏道を求む故に諸物を施す、然に破戒の悪比丘は梵行浄法を修せず、而て自ら之を修すと言う故に必ず他の信施の恩を報する能わず、還つて施主の信施の一毛を失うなり云云。
又優婆塞戒経に云く若し眷属を悩まし奴婢を困苦し物を以て布施せは、施なり、是人未来大報を得と雖も身病苦に当り財宝常に失して出用する能わず云云。
 
又止一(五十三を)に宝積経を引く弘一下(五十三を)、仏説く人の信施を食う後に牛馬となり以て施主に償う、乃至若徳無して施を受けば後に肉山になる云云、又中(卅六)云く徳なくして供養を受けば彼の提羅の如し云云、又云提韋は直心に供養せる福の故に八千劫を経て其施主に償う云云、止一廿を。
 
次に釈を引て云く布施軽想の科に由り悪道に堕つとは此釈未だ之を勘えず。
一第四十二段本書云く上代にも事の外不信なる人有り、高祖聖人身延御住の御説き・本は京都人なり四条の中務と云人と墨平三郎と云人御前にてはばかりなく一座の口論有り、本より中務は信心も有り当面の道理もありけるや、墨平三郎を座を立て給ふ墨平三郎腹を立申様は日蓮聖人はひるは諸宗無間と折破し夜るは念仏を申さ候と讒言を申す、又重須にて日興上人御弟子の出家を御折檻有りければ刀を抜いて興上人を害し申さんとす、其時日妙上人御前に居相ひ給て浅猿や貴辺が刀にて然るべからず、此刀にて害し申せとて日妙我刀を抜いてなげやり給へば其を取らんとする境に、日妙くみ給ひて引出し給ふと也、上代にも是の如し何况や末代に於てをや、師弟の中にも用心大事なり、大石寺の御沙汰に寺中にをいていさかい有しは、さい人そ人とて両方共に出仕をやめらるゝ事は此の墨平三郎の義より理非共に両方を御折かんありて、軽重により御免の前後ありと云云已上。
 
日因私に四条金吾中務三郎左衛門殿はかまくら大名江馬殿の御家中衆なり、日蓮聖人御檀那随一の信者なり、文永八年九月十二日の聖人御難の時には金吾兄弟四人御馬の口にすがり、かちはだしにて竜口まで御供奉申し既にかうとあらば切腹せんと刀を手をかけし人なり。
 
後に土籠に入り玉ふ御書を下さる之を拝見すべきなり、然に中務三郎殿は短慮成る人と見へたり、御書の中にも殿は腹悪しき人と遊されたり、後には四条金吾身延山に居住し日興上人に随い正応二年已後には冨士中井出と云ふ処に引移り玉ふ今に其末孫あり金吾と名字を名乗る人是なり、身延山にも其子孫之孫之有りと云へり。
 
次に墨平三郎事未だ余の伝記に見えざるなり。
次に日妙上人之事、精師家中抄に具に日妙上人の伝記あるなり、俗姓平氏甲州之人なり、幼少にして日華の弟子となり鰍沢法華堂に住す後に蓮華寺と号する是なり、日興上人授与の御本尊に云く、延慶三年庚戍六月十三日寂日坊弟子式部公に之を授与す云云、妙公廿六歳時也又云く甲斐国西郡蓮華寺前住僧寂日坊弟子式部公に之を授与す、正和四乙夘年7月十五日云云、此二幅御本尊今下条妙蓮寺に在るなり、其後妙公冨士に移り興師の御所に常随給仕の砌り興師弟子の悪行を教訓す、其弟子応せず刀を以て師に向う妙公其座にあり之を留るなり云云、又京鎌倉に奏状の使節之を勤む、御本尊の端書に云く、奏聞御代官式部阿闍梨日妙、武家四度公家一度、元徳三年辛未二月十五日日興在判云云、今重須にありなり、又正慶年に新六に加える後興師御入滅日代退出す、石川実忠妙公を請して重須の別当となす、住する卅一年貞治四年乙巳八月朔日、八十歳御入寂なり云云、余は具に伝記の如し云云。
 
次に大石寺御沙汰と者当山の法式なり、細人麁人倶に過を犯す過の辺に従て説て倶に麁人と名づく云云、籖一本卅、故に今両方倶に出仕を止て後罪過の軽重を論じて以て免許に前後有る者なり。
 
一第卅七本書又云く当門流起請の次第は其寺の住持より案文を給ひて、其の起請の主の執筆と相対して御影堂の正面にて書いす其のまゝ 本堂の正面に備え奉り、御かてを参らせて檀那も執筆も倶に住持の前に参り此起請を住持に参らする住持よくよく御覧して御本尊箱に収め給ひ候、然る間此請文字落ちたり書き違ひたりする事は其起請の主の失と沙汰候なり、去り乍ら三度までは書きなをさする三度までも落字書き違ひあらば其起請収らず候、其沙汰破れ候なり、男は氏姓官途受領名乗は能々尋ねて書くなり、女は氏姓幼名を書いて判を何も其の主にさするなり、女は母方の氏姓を書く事も苦しからざるなり、御布施は十文、連判の時はふせ一文つつ執筆に参するなり、是上代より定められたる化儀なり、又起請の文言他宗門徒の起請の様に知恵にて書くべからず、是躰の事も宗旨に違背なき様なるべし、先つ惣則のとをりに敬白と書なり、さて右件の起請は如何様の事とも其題目を書いて、若し此分偽り申し候はば御本尊殊にに高祖代々上人法華経中の諸仏菩薩の御罰を罷り蒙り後生には無間地獄に堕ち申すべく候と計りなり、当門徒に限りて信世法倶に沙汰の至極には起請を書かせられ候、他門徒なんどに難ずる事に候へ共上代に定められたる事にて候、末代は人の心諂曲し信世法共に謬りの心底を弁え難し、只仏意の御照覧にまかせ奉るべしとて加様に定られ候となり、御影堂にて書れたばとて相構て御影堂にて備へ申すべからすと仰せ給ひ候已上。
 
日因私に云く此の段は惣して事に付き起証文を書く心得を仰せらるる者なり、当門家に必す世出世倶に起証文を以て其沙汰を決定する故、何事も仏の御聖覧に任する処なり、此則祖師開山より已来定る所の式法なり、故に他宗他門の如く知恵了簡を以て書いたる証文は宗旨に違う故に不可なり、唯信心の一筋を以て之を書き奉る者なり云云。
 
一第四十三段本書又云く仏に花香仏供等を備え申す仏の三因仏性を供養し奉るなり。
又四十四段に云く出家に於て上中下の三品有り、下品の出家は糞を食すると見るなり、されば出家の信施を受けんとて夢なんどに、上品の出家は無量の華を翫ぶと見るなり、中品の出家は肉食をすると見る、下品の出家は糞を食すると見るなり、されば何にも信心行躰をたしなむべし。
又四十五段に云く私の檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云ふ義は有るぶからざるなり、其小筋を直すべし、血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり、信心の人は譬へば暦しし退し鏡にすると云へども終には成仏を成すなり已上。
 
日因私に云く今此の中に三段を合して以て之を挙るなり。
第四十三段の文と者、即華香水飯食等を供する心得なり、今此の中に仏三仏性供養に云うは且く因に約して果に従う則ち仏の三身如来に供するなり、此三因仏性乃至三身三宝は上仏界より下地獄に至るまで皆之具足する故に仏の三性三身三宝を供養するは軈て我身の三因仏性三徳三身の如来と供養するなり、されば我が身の三仏性を供養するは則我身三仏を養育し成長せしむる意なるべし、又我身の三身を供養するは、則ち我身の如来の三徳の為なり、此即教観二門の意なり、末法我等か観心と者唯信心なるか故なり。
次に上中下の三品の出家信施を受る夢の事追て之を検すべし。
 
次に私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり。
 
次に云く暦退鏡とは此譬意之を解せず、或は歴縁対境と云う釈を暦退鏡と宣へ玉ふか、又譬という字恐縦令に作るべきか、意に云く縦令縁を歴て境を退する如しと雖も終に成仏をなすと云ふ心なるべきか更詳
 
一第四十六段本書云く今日釈尊出世の最初、三教得悟の衆は者、既に過去大通仏之時に信楽懴愧の衣の裏に玉をかけたりしが、其より以来三千塵点却、悪趣に輪廻せし事は何事ぞと云へば、余り法華経を貴く信じたりし自慢の信を以て、結句法華経の上が別教になる意なり、然る間信心の得道も大事なり已上。
 
日因私に云く異本に云く三周得衆云云、若爾を者今日釈尊出世最初の文如何か之を直せんや、若し亦三教得悟と云うは是亦最初三教義如何、今謂く応に今日釈尊法華最初三周得悟の衆者というべきか、故に次に大通結縁の事を列するなり、此則本門得悟に対する故に迹門三周得悟を以て最初とてすなり。
 
次に信楽懴愧の衣裏に珠を繋ぐは、五百弟子品に云く親友官事当に行うべし無価の宝珠を以て其衣裏に繋け之を与えて而去る文又云く無償の宝珠を以て内衣の裏に繋著し黙して与て捨て去る云云此即大通十六王子下種結縁の事を指すなり、宝珠即一念三千の妙法なり、内衣即信楽懴愧の衣なり、然るに三千塵点却を流転せる事は不信謗法の失なり、今自慢と云うは不信謗法中の一を出せり、五千起去の如き未得謂得未証謂証の増上慢の過失之有り、故に法華を聞かずして退出せり、今亦爾なり、三千塵点却の最初下種の時法華経を信行すと雖も而も自慢の心念を起す故に法華経を退て権教に移り亦小乗に移り外道乃至三悪道と展転流窂して今釈尊に値い法華迹門を聞て三周得悟するなり、仍て法華経も別教の次第得道に成る意なり。
 
一第四十七段本書云我が所領の内に有る謗法の寺社なりとも公方より崇敬する処ならば卒爾に沙汰すべからず、私所ならば早々改むべし云云。
又四十八段云く信者の用心は只著心なり、されば栂尾の明恵上人は檀那の美者を供養するに灰を入れ鴨居の鬼箭、塵などを取り入れて食し給ふなり、是は著心輪廻を思ひ給なり已上。
 
日因私に云く上段は領分の寺社改不を示すなり。
次段は末法行者の用心を示す若し執著心深き者は必す障碍有つて仏道成しがたきのみ、故に経論釈書の中に広く著心の失を誡るなり。
次に栂尾明恵の事未だ之を聞かず。
 
一第四十九段又云く教弥高教弥実位弥下れり、されば高山の水は深谷に下る、無上の仏法は下機の前に蒙らしむる益有りと云へる事、当宗の名字の初心に宗旨を建立する心なり已上。
 
日因私に云く教弥実位弥下等の釈は弘六末(五十三)止六(七十九)云く前教其位を高くする所以は方便の説なればなり、円教位下者真実の説なればなり云云、弘決之を承て云前教下正く権実を判す教弥実なれは位弥下、教弥権位弥高云云、御書十六(六十五)四信五品抄に云く四味三教より円教は機を摂し、爾前の円教より法華経は機を摂す、迹門より本門は機をつくすなり、教弥実位や下の六字に心を留め之を案ずべし云云、即当宗名字初心の行者の機法は正く本門寿量に在り何ぞ之を留め之を思はざらんや次高山の水は深谷に下る等の文は未だ之を勘えず。
 
一第五十段又云く当宗は折伏尤なり、何もの言葉にも折伏の言は有り、他宗にはひそかに経を読むを看経と云ひ当家には内行と申す他の寺の増坊にてはたらく事を普請すると云ひ、当家にては行躰と申すと云ふ、谷は在家出家を請用する言葉には御茶一服申さんと云ひ、当家には白酒を一つ申さんと云ふ酒なくんば晨なれば朝飯を申さんと云ひ、夕部なれば夕飯を申さんと云ふ、何様の言にも化儀有り已上。
 
日因私に云く此中には自他宗の言葉遣いの同異を示す、謂く折伏の言自他に通ずるなり。
次に看経と内行と普請と行体と茶と酒と是別の化儀なり、朝飯夕飯亦自他通言の化儀なり。
 
一第五十一段又云く、古は仏法に不審なる事あれば遣唐使とて唐土へ使者をつかはして尋ね明らめ、又天竺にて楽法梵志は十二年が間、皷を打て法を求め給ふ、善哉童子は身を売り東に法を覓め給ふ、加様こそ候ひしか、何とて今程は志もなく候事口惜しとの給ふ已上。
 
日因私に云く此中に求法の志を示す、故に和漢唐土天竺の求法者を引て今人の志なきの事を悲歎するなり。
先遣唐使と者ひゑい山より漢土の天台に遣し疑を決す所謂四明決等唐決の如し云云。
次に楽法梵志と者、止観一に常啼は東に請ひ善財は、南に求む薬王は臂を焼き普明は頭を刎ぬ云云弘一上に求法の為の故に七日七夜閑林に非泣す故に常啼と名づく云云、善財童子初、託胎の時其の宮内に於て七の大蔵有り種々の財宝を出す、故に善財と日う御書註十八(十三四)楽法梵志大論を引く云云、今善哉身を売り東に求とは恐謬なり、応に善財南に求むと云うべきなり、又売身は善財童子に非るなり、大経廿二釈尊因行身を売り一偈を得るを明す、具に文を引て類雑四五の如きなり。
 
梵志所得の偈に云く法の如く応に修行すべし法に非れば行すべからず、今世若は後世法を行する者は安穏、おお論には此偈なきなり、釈尊、因位に身を売て得る所の一偈に云く如来涅槃を証し永く生死を断つ若し至心に聴くあらん当に無量の楽を得べし。
 
一第五十二段又云く、高祖上人の御髪をば和泉阿闍利日法剃手に御参りありけると也、御ぐしの湯をば茶碗に召されると候又御弟子等に御そらせありても後には恐れ入つて候との給ふ已上。
又日法の事此下巻にもあり。
 
日因私に云く日法の伝精師家中抄下巻にあり、又此下巻十五段目に略記あり、今略して之をいう、日法上人正嘉二戊午年御出生八十三歳暦応四辛巳正月五日御遷化なり、父下総国小山の曽根佐野殿嫡子なり、御年十八歳出家し甲州身延山蓮師の所にて興師を以て小師となし剃髪染衣して高祖に随従す、身延山九け年の間常随給仕して能く細工に長ず常に高祖の御髪を剃る、御遷化已後興師に随い身延山に七け年住居、而して高祖御在生の弘安年中の比富士の根方甲州の郡内辺に弘通す後岡宮に法華堂を建立す今の、光長寺なり、並に郡内吉田に法華堂之を建立す今の吉田の元徳寺是なり、然に蓮祖御存生の弘安二年に板本尊を彫し奉る本門戒壇の御本尊是なり、
 
又一体三寸の御影を刻り奉る、後御免許にて大聖人等身の御影を之を刻彫し奉る、伝に云鳥養助次郎、太郎太夫と云ふ人と日法と与に之を刻彫し奉り後御覧に入るるの処に御背脊少し高し釿を取て之を鏟り奉る時、大聖仰に日く背脊甚た痛し云云仍之を相止む、今に以て御影後欽目高し故に生御影と号し奉る、又正御影と申す今重須に之在り云云、今御生仏の寸尺を記せん御長金さし弐尺六寸五分、御ひざ両の御そでまず壱尺八寸五分余、又横ふかさ御うしろより御ひざのまへまで弐尺弐寸余あり、又御耳の長さ三寸、御つむりの丸さ御耳の上まで弐尺八寸、又御つむりのたけ・ぼんのくぼより御鼻筋の通りより御あごまで弐尺、又両御眼の長さ壱寸四分、又御衣の袖八寸宛両方へ出るなり、又御ひざのあつさ五寸弐分已上、古筆之有り、今之を書写し奉るなり次に最初仏長け弐寸弐分なり、此最初亦造初御影とも六坪の御影とも看経所の御影とも号するなた、当山に之有り日奉の作なり、
 
次に本門戒壇の御本尊、寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、仏滅後二千二百廿余年等と云云、御端書、右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、弘安二年十月十三日云云、当山に之有り、又之に就て二箇御相承、又興師より日目上人に御遺状当之有り後体の為に之を書きおく者なり、但最初仏御影日朝当山に納る証文之有り云云、又松野殿御書中に御影造立の御称美之有り。
 
御書に云く安房国東条小松原の道善坊持仏堂にして念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の姿を申出し候へば数百人、兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打つ太刀は電光の如し、当座に弟子一人打死し既に日蓮は頭に疵を蒙り法華経の御為に命を捨る事まのあたりなり、殊に伊豆佐渡の大難は申すに及ばす種々の難に値へり、先札に申尽し候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候て身延山に隠居せしむ法華経を読み奉る折節我弟子の中に和泉阿闍梨と申す僧一人御座候、朝夕身を離れず給使奉事致さるゝ 事比類なく秘蔵弟子なり、然るに彼の泉阿闍梨行功をはげまし日蓮か形をあらわさんか為に七面の明神に祈念せし故か、又天道道の至りか浮木出来せり、此の木を以 一躰ならず三尊まで造る一尊は大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、爾も闍浮第一の弟子なり、然るに予は妙法蓮華経の中の字を取て日蓮と名乗り候間彼の泉の阿闍梨には法の字を取て日法となづけて候、然る間日蓮や前き日法やさき日蓮やさきと云ふ意を以て日法となつけて候、定て弟子達うらやましくやをもはんずらん、又はあだみめねみやすらん、兎に角末代に於て法華宗たらん者は日法一人を信仰せば日蓮を信仰するに成るべきなり。
 
諸宗の中には妙法蓮華経第一の良薬なり、一切衆生の中には日法一の人第一の導師なり、上行所伝の寿量肝心是好良薬の妙法を口に唱へ入れ候えば悪人女人如何なる人非人成り共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故に日蓮か弟子檀那は日法に不背、日本国の一切衆生の口に上行所伝の要法を入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりに法華経をひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度の出世とは此の木像を申すなり、頼母敷く思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判已上全文。
 
此御書は世間希なる間今具に之を書くなり、然に此の中に一体に非ず三尊まで造ると者当山の最初仏重須正御影なり、一躰は岡宮に之有りと云へり、又七面の明神者本来之有るか、七面の池之有り此池水に浮ひ出たる楠木なり、此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり。
 
次に日法を御称歎の御意は大聖人尊像の顕させ給ひて末代を利益し玉ふ旨を示さん為め成るべし、故に結皈して末世日蓮二度の出世此の木像を申なりと云うなり。
 
又妙法蓮華経の中に日法日蓮前後と者、法の次第に約す日法は是前なり師弟の序に依る日蓮日法の故に日蓮は是前なり、又日法は前、日蓮御木像は是後なり、若し御内証に依つては日蓮日法の前後次第有るべからず、倶に妙法蓮華経の故なり、故日法一人を信仰するは日蓮を信仰せん為なり云云。
又日法一人第一の導師の者、上行所伝の寿量品の是好良薬妙法蓮華経の弘通なり、一切衆生の口に入れ唱へせしむるが故なり、故に日蓮か弟子檀那は背くべからず日法か弘法に誡め玉ふなり。
 
問ふ若し爾ら者日興日朗等の御弟子檀那等日法を以て大導師となさざるや、答ふ此の御書は是日法有縁の檀那に対して日蓮の御木像を造立することを称歎する故に云うなり、若ししからずんば御遷化の砌り撰て以て六老僧と為さざるや、又何ぞ六人上首及び惣檀那衆中に対して御書となさゞるや、故に日法有縁の檀那松野殿一人に対して以て之を称歎する者なり、之を思え々々。
 
又御義口伝下(六十一)云く御義口伝は者六老僧の為に身延山に於て御談有るなり、此の已前甲州春日法所望に依て御談有り等云云、又精師家中抄に云く蓮師延山居住の砌日法等の請に因つて、法華経の御講釈日興亦指南を加う、日法の書籍日興の助筆多きなり云云。
 
私に云く御義口伝中甲州春日法と云うは恐らくは甲州日春日法と云うべきか、日の一の字脱落也、家中抄相伝を引て云く日法檀那の請に因つて卒都婆を書て沼津谷の段に立つ、時に六十六部之を見て近隣の人に問う、是れ誰人の手跡そか、答ふ日法と云ふ僧の御筆なり、又問ふ其師は何処に住するか、答う其僧檀越の家に在り未だ住処に皈らざるなり、時に部聖尋て檀越の家に往き日法に対面して始て法華経を聞即受法す、日法部聖を具して蓮祖に値い奉り御説法を丁聞し則ち改名して如法房日春と号するなり、其後岡宮光長寺を建立して日法日春倶に住す、而も兼日薬諾して日く先に死するを以て開山となさん云云、然に日春老て死去す故に日春を以て開山となす、而に日春の三十三回忌に日法自ら板本尊を刻彫して以て日春の菩提に擬す、其本尊の端書に云く延慶三庚戌年日春上人三十三御菩提の為に開之弟子日法云云、此本尊甲州小梅村妙本寺に在るなり。
 
又大聖人御筆漫荼羅をもつて死人に覆うて葬ける輩之有り故に御筆の本尊を写し形木彫して之を授与す今光長寺に在るなり、故に富士門徒存知の事に云く御筆の本尊を以て形木に彫り不審の輩に之を授与し軽賤に非るの由諸方に其の聞えあり、所謂日向日頂日春等なり云云、日春形木彫の初なり云云。
 
私に云く日春延慶三庚戌年三十三回忌ならは弘安元年戌寅死去と見へたり、若し爾らば前後相違之多し、又弟子日法と者甚た未審し、既高開両師の御弟子なり何そ日春弟子と書んや、又日春はたとへ年老いたりとも日法の弟子なること宗祖の御前にして之を定め畢ぬ何ぞ亦私に之を異変するや、今此義を推するに日春は本師なるべし後日法蓮師の弟子となる、故に日春尋ね来く日法と倶に身延山に詣で蓮祖に値い奉る者か、故に弟子日奉と書く者なるべし、又過去帳には日春延慶四辛亥年三月十六日死去云云、弘安五年より三十年に当るなり、又延慶四年より暦応四辛巳年日法死去まで卅一年なり、又岡宮伝記には文永十一年二月十四日、蓮祖佐土御勘気赦免の御帰に信州の佐野氏家に御一宿、御教化に因り先ず子息を以て御弟子に推す其名を日法と号するなり云云、家中抄引之、又彼の伝に大聖鎌倉より身延山に通ずる時、甲州郡内大原村の内に石あり鼻連石と号す此の東に小堂有り大聖此堂に入り休む郷中の男女多く集りて僧衆を視る、時に御説法有り丁聞し奉る、渡辺等即受法す、丁聞の人衆御本尊を所望す受法人廿八、白紙一枚宛持参す、聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す、而に此石中窪なり、時に大聖仰に云くあらかきえずじやとの給ふれば此の石即平になりけり云云、此御本尊渡辺藤太夫光長に授与す、仍て、藤太夫黄梁焼米を供養し次に妙法寺に入るなり云云、
 
又霊場記冠(五十三)云く師五十三歳、文永十一年五月十二日鎌倉を出て相州酒に匂に御一宿なり、同十三日駿州竹下、十四日同車返、同十五日富士大宮、十六日甲州南部、十七日波木井郷、十九日領主南部六郎実長所に御入御対面なり、実長渇仰、六月十七日小庵実造営あり今身延山久遠寺と号す云云、此の伝記によるに甲州郡内を御通に非ず豈相違に非ずや、今予之を案るに身延山九け年の間に郡部御越し富士山に登り給う、仍て富士山中程に経塚有り蓮祖法華経を納る之処、故に近年宝塔之を建立し、此山五重の宝塔建立と同時にして寛延元辰巳の比成就するなり、故に知す郡内吉田渡辺藤太夫光長等廿八枚続の御本尊も其頃遊されたるかと、覚え候なり、身延山より郡内の道中、古関に大石あり御休息之処なりと云ひ伝へ仏峠に御休息所之あり、然れば岡宮伝記は分明ならす云云。
 
又精師家中抄に云く鎌倉に至り日興に逢い出家を望む則ち許諾し蓮祖の室に入り出家入道す等云云、日有師の説なり云云、私に云く日有上人御物語には直に甲州身延山に参り、興師の御弟子と成り給ふ云云、鎌倉に至るの闇なきのみ故に知ぬ応に身延山に至ると云うべきなり。
 
一第五十三段本書云本迹一致と云ふ事心得ざる条なり其故は迹門の成道は最初華厳の成道より押通し迹門也法華経も迹なり、されば高祖聖人の御言には末法に入ぬれば余経も法華経も詮無し、只南無妙法蓮華経と唱ふべし、嬰児に乳より外の物を養べきか云云、名字の初心に宗旨を建立する上は無智迷者の上の信の即本門也事なり已上。
 
日因私に云く本迹一致と立ることは、法華経一部の上に於て以て本迹一致と言ふなり、故に法華一部の所詮妙法蓮華経の一致なり、文に非ず義に非ず一部の意のみと判し、又広略要の中には法華経の題目を要法と為す等皆是本迹一致の証拠なり云云、若名字初心等は天台の判釈に本迹二門倶各六即修行有る故に信の一字を以て本迹の義分別し難きのみ、知恵にも亦本迹の同異有るなり、今謂く本迹法門重々あり一には久近本迹謂く久遠実成仏を以て則本門となし中間今日垂迹示現の仏を以て則迹門と為す、故に今経寿量品久成法門を除くの外は皆迹門なり、華厳、阿含、方々、船若、法華迹門、涅槃経等豈迹門法門に非ずや、二には躰用本迹、謂く如来所証妙法の体を以て則本門となす、体より用を起すを以て則迹門となすなり、此の本迹通して爾前迹門十四品に在るなり、其外天台の玄義の第七に六重本迹之有り、本迹各六重迹有るなり云云、然るに今本迹一致勝劣を論ぜば、先ず大小権実を判じ後に法華経一部に就ても亦本迹二経有り、所謂迹門十四品本門十四品なり、迹門十四品所詮の妙法は事理教乃至躰用、悉皆迹門始成正覚の法門なり、本門十四品所詮の妙法、事理等皆悉く本文久成の法門なり、又文上脱益法華経、皆是迹門なり、文底下種の妙法即是本門なり、但他門所執本迹一致の妙法蓮華経は者事を約して本迹不同なるも理を約する則法華経一部所詮の妙法なる故に本迹一致なりと云へり。
 
今日因難して云く吾祖の判文に両意有り、一二は理に約して以て判す所謂御書の中に妙法蓮華経五字は文に非ず義に非ず唯一部之意のみ云云、又云く法華経一部の肝心妙法蓮華経、二に事に約して而判す所謂御書に云く寿量品の肝心妙法蓮華経云云、又文底下種の一念三千云云、又云く彼は理の一念三千此は事の一念三千等云云、此則天台未弘の正法なり、豈本迹一致と可けんや、又理に約する則本迹一致に似たり而も迹門に於て爾前諸経の人法を開会し以て一妙法蓮華経を顕すなり、本門寿量品に至り悉く久遠所証の妙法を顕す故に法華経一部の所詮の法躰、元意の妙法は唯本門寿量品に限るのみ、故に惣勘文抄に云く但し今は迹門を開して本文に摂す一の妙法と成す等云云、妙楽籤一本に云く一代聖教還て実本に皈す云云、既に本門実本より出たる開出爾前迹門なるか故に今本門寿量品の時に至る還て久遠実成の実本に皈入して唯一の妙法蓮華経な、宗祖所謂独一本門とは是の義なり、理を約すれば法門此の如し、何況事に約する則末法弘通の妙法は天台伝教の御思量にもおよばず、謂はゆる本文三大秘法の妙法蓮華経是なり、何そ輙く本迹一致の僻見を執せんや、今日有上人の御意は今日一代皆垂迹為り、久遠最初の妙法蓮華経を以て而本門と為す故に南条抄を引証となし直に久遠最初の妙法を信ずる処を本門の行者とするなり、若し此の旨を知らず凡夫の智慧才覚を以て成仏の根源を尋ぬる則猶迹門なり、知恵の法門なり、理具の法門なり、久遠最初名字の本門妙法に非ず故に之を破して唯名字初心に久遠最初の本因妙法を信ずる処を本門行者の事の一念三千の妙法と云ふなりと結皈し玉ふ御意なるべし云云。
 
一第五十四段本書云く仏法の御沙汰に付いて非義の衆に同心無き事を、やゝもすれば門徒各別と云く事心得ざる事也、正理為るの仏法興行之衆は同心也、正理の仏法に非る義をなす方は門徒各別なり、此の心得なり、結句日目上人の御仏法興行の方を門徒各別と云ふ事心得ざる条なり。
又第五十五段云く仏法は平等なり、法者何事も平等なるべし、仏の御跡を継き申したる出家は何事にも一切の人を偏頗に之れ有る可からず若し偏頗有ては必餓鬼道に堕つべきなり。
以上上巻二十二枚畢已上。
 
日因私に云く当家は日蓮聖人の門徒也、一致八品所顕、一品二半、唯一品等は大聖の門徒に非ず何となれば彼人々宗祖の御本意に違背し私曲をう以て一致八品等と立る故なり、当家は大聖御本意の如く専ら本門三大秘法の題目を弘通する故なり、故に知ぬ他門の人々正理の仏法に非す大聖人の門徒に非す、其の法門皆天台宗に同する故に須く天台法華宗と云うべきなり、故に六老僧中に五人は天台沙門と名乗る唯日興一人日蓮聖人の弟子と称す、故に富士門徒存知の事に云く五人一同に云く日蓮聖人の法門者天台宗なり、日興云く彼は迹門なり、像法所持の戒なり、日蓮聖人受戒は法華本門戒なり、今末法所持正戒なり、此に依て日興五人と義絶し畢ぬ、此等の相違に因り本迹一致勝劣の論起て而天地水火の違目出来せり云云、然は則一致八品等の所立初め五老僧天台沙門と称して而して後立つるを一致等と立つるを以て日蓮宗と為す豈蝙蝠鳥に非すや。
 
又仏法平等と云うは、即法華経開会の法門なり、御書十四(卅三)云く故に四十二年の夢中の化他方便の法門をも妙法蓮華経の寤の心に摂て心の外に法無し、此を法華経開会と云ふなり、乃至故に生死の虚夢を醒めて本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大会とも分別法とも皆成仏道とも云も只一の法門なり云云、又云く但今は迹門を開して本門に摂て一の妙法と成す故に等云云、此則当家の法門は仏法平等法界なり、本門久遠実成仏の妙法なるか故に餓鬼も畜生も地獄も皆悉く本門躰内の妙法なり、況や人間天上の衆生をや何に況や仏菩薩二乗等の上界をや、法華本文の行者は十法界の衆生に於て偏頗の心無く平等すべし、此事肝要なるか故に之を結皈するなり。
右上巻の註畢。
 
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経
 
宝暦第七丁丑年卯月八日 冨士大石寺卅一代日因華押七十一歳
 
日応上人隠棲の蓮葉庵に於て因師自記之佳跡上巻を捜し得・整理貼合して完本と成す歓喜して尚存す、然に中下両巻今に其影を見ず憾むべし憾むべし、斯本読難く漸く訂す後賢更に嚴訂を加えば又幸なり。
 
大正八年夏          雪仙窟日亨判
 
現本曽て疏釈部に編入せしも今日有上人の深義あるを見て更に相伝信条部に改輯せり。
 
昭和三十一年十二月 日        雪山日亨判
 

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