富士宗学要集第一巻

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有師化儀抄

日有仰に曰く
 
一、貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚癡にして等閑有りとも我れは其の心中を不便に思ふべきか、之れに於いて在家出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是れ則ち世間仏法の二つなり。
 
一、人の志を仏け聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらはす所の志は全く替るべからず、然る間、同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云。
 
一、名聞名利は世事なり、仏法は自他の情執の尽きたる所なり、名聞名利は自身の為なるが故に世事なり、出家として此の心有る時は清浄の仏法を盗んで名聞名利のあきないになす処は仏法を盗むなり、然るべからざる心中なり尤も嗜むべし云云。
 
一、手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能く々取り定めて信を取るべし、又我か弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮花経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり云云。
 
一、行躰行儀の所は信心なり妙法蓮花経なり、爾るに高祖開山の内証も妙法蓮花経なり、爾るに行躰の人をば崇敬すべき事なり云云。
 
一、仏事追善の引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んて此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益。
 
一、同朋門徒中に真俗の人を師範に訴ふ時、さゝへらるゝ人、起請を以て陳法する時、免許を蒙るなり、然るに支へつる輩は誤りなり仍つて不審を蒙る間、是れも又起請を以て堅く支へらる時は両方且らく同心なきなり、何れも起請なる故に仏意計り難し失ちに依るべきか云云。
 
一、実名、有職、袈裟、守、漫荼羅、本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず云云。
 
一、真俗老若を斥らばず、いさかいを寺中に於いて有る時は両人共に出仕を止めらるゝなり云云。
 
一、本寺直檀那の事は出家なれば直の御弟子、俗なれば直の檀那なり云云。
 
一、末寺の弟子檀那等の事、髪剃を所望し名を所望する事、小師の義を受けて所望する時望みに随ふ云云、彼の弟子檀那等が我れと所望する時は爾るべからず云云。
 
一、仏法退大する輩、子孫なんどを信者に成し度く所望候、是れは用ひられざる事なり、志の通ぜさる故なり云云。
 
一、夏中の間勤行を成す人、夏に入るとは申さゞるなり別行の子細候よしを申すなり、案内を申す事は夏中の間にら一もじを御前にてたまはらざるは緩怠なるが故なり。
 
一、信者門徒より来る一切の酒をば当住持始めらるべし、只し月見二度花見等計り児の始めらるゝなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給ふ姿なり。
 
一、天台伝教の恩徳を報する事有り是れは熟益の通りなり、さて本門下種の宗なる所には混乱すべからず、内鑒冷然、外適時宜等云云。
学問修行して一字一句をも訓へらるゝ輩をも正法にて訪ふべき事なり、其の外歌道を学ぶ時は人丸の恩徳を大切にし、管絃を学ぶ時は妙音の恩徳を報じ、釜をつかう時は釜の恩徳を大切にし、臼をつかふ時は臼の恩徳を大切にする事有り云云。
 
一、手水の事、塩気に限るべし不浄の物なるが故に、たゞし酒には手水を仕ふべし破戒なるが故に云云。
 
一、仏法同心の間に於いて人の遺跡を相続する時は別の筋目の仏法の血脈にも入るなり、同心なき方へは、たとへ世事の遺跡を続ぐとも我が方の法の血脈にはなすとも、同心せざる方の邪法の血脈には入るべからず云云、邪法の血脈に子供を入るゝ時は其の親の一分謗法になる姿なる故に親に中を違ふべし云云。
 
一、二親は法花宗なれども子は法華宗に成るべからずと云ふ者あり、其時は子に中を違ふなり、違はざる時は師範の方より其の親に中を違ふなり云云。
 
一、二重、十二合、瓶子等は其の時の亡者を翫したる躰なり、此の世界の風俗なり、仍つて仏事作善の時は先づ三獻の酒の様有り、点心は有れども所具に用ゆるなり能具は酒なり、たとへ湯なんどを引けども酒過ぎて点心の前に引くなり。
 
一、紫香青香等の色有るけさを懸くべからず律師已上の用る所なる故に、但し五帖長絹、重衣等斗りを用ふべきなり云云。
 
一、内衣には老若に随つて其の時分の色有る小袖を用ふべし、衣付きには必ず白小袖を著るべきなり云云。
 
一、出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし折伏修行の化儀なるが故なり、但し礼盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり云云。
 
一、仏の供養を取り次き候に祝の時は如法目出度く候と申し候、訪ひの時は如法有り難しと云云。
 
一、弟子檀那の供養をば先づ其の所の住持の御目にかけて住持の義に依つて仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師々々は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たまふ所が諸仏聖者の見たまふ所なり。
 
一、他宗難して曰く謗施とて諸宗の供養を受けずんば何ぞ他宗の作くる路、他宗のかくる橋を渡るや、之れを答ふるに彼の路は法花宗の為に作らず又法花宗の為に懸けざるハシなり、公方の路、公方のハシなるが故に法花宗も或は年貢を沙汰し或は公事をなす故に公界の道を行くに謗施と成らざるなり、野山の草木等又此の如し云云。
 
一、絵師、仏師或は鍛冶、番匠等の他宗なるをつかう事は御堂坊等にも苦しからず作料を沙汰するが故なり。
 
一、信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是れ三途の業因と文。
 
一、経を持つ人の事、今日持つて明日退するとも無二の志にて持つ時は然る可し、何れの年何れの月とも時節を定めて持つ事爾るべからず云云。
 
一、師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮花経なるが故に、本尊の前より外に亡者の前とて別に供具をもり又は三具足を立つる事之れなきなり、霊供なんどをも高祖代々の御霊供に対して備うるなり、代々の御薹はあれども何れも師の方に付けて仏界の方にをき、今日の霊供をば九界の方へ付けて備ふる時、十界互具一念三千にて事行の妙法蓮花経なり、仏事の時は必ず仏界へ向はずして通途の座にて御経をも読むなり、仏界より九界を利益する姿なり、是れも十界互具を躰とするなり云云。
 
一、経を読むには必す散花あるべし、信の時は法界妙法蓮花経なる故に
一仏なり、其の一仏の三身に供するなり、是れ則本門の無作なり、天台宗の沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり。
 
一、率都婆の事、縦ひ能筆なりとも題目計りをば書くべき人にかゝすべし、余の願文意趣の事は然るべき作文の人、能筆尤も大切にて候、又一向其の時の導師無筆ならば代官しても書かすべきなり、是れも師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり、但し導師計りの外には沙汰あるべからざる事なり云云。
 
一、法花経をば一部読まざれども一部本尊の御前にもをき我か前にも置くべきなり、方便寿量品につゞめて読むも本迹の所詮なる故に一部を読むなり、又寿量品の題目を読みそへて自我偈計り読むも一部なり、又題目計り読むも一部なり、されば経文には皆於此経宣示顕説文、御書には皆於此経宣示顕説とは一経を指すに非ず題目の五字なりと遊ばさるゝ故なり、仍法華経に於て文義意の三の読み様あり、夫れとは一部二十八品を読むは文を読むなり、又十界互具の法門を云ふは義を読むなり、亦題目計り唱ふるは意を読むなり云云。
 
一、当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍て今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我れ等根性には対せらるべからざる時分なり、仍て方便品には若遇余仏便得決了と説く、是れをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思ひ合はすべし。
 
一、唐朝には鉢を行ふ故に飯をもち上げて食する事、唐土の法なり、日本にてはクギヤウにて飯を用ひる故に持ち上げざるなり、同しく箸の礼も唐の法なる故に日本にては用ひざるなり、日本にても天台宗等は慈覚大師の時分までは律の躰にて唐土の振舞なり、慈恵大師の代より衣鉢を捨てゝ折伏修行の躰たらくにて一向日本の俗服を著らるゝなり、聖道は何れも日本の風俗なり云云。
 
一、法華宗は不軽の礼拝一行を本となし受持の一行計りなり、不軽は威音王仏の末法の比丘、日蓮聖人は釈迦仏の末法の比丘なり何れも折伏修行の時なり云云、修一円因感一円果文、但受持の一行の分の読誦解説書写あるべし、夫れとは梅桃のさねの内にも枝葉になるべき分、之れ有り之を思ふべし。
 
一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其れ文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云ひ立るは説法なり、是をば当宗にゆるすべきなり愚者の聞く耳なるが故に云云。
 
一、率都婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立つる所にて又十如是自我偈を読むべし、是れ又事の一念三千の化儀を表するか。
 
一、一日十五日、香爐に香を焼いて天の経の内へ参らすべきなり云云。
 
一、法楽祈祷なんどの連歌には寄り合はず、其の故は宝号をう唱なへ三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云。
 
一、帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は勝鬼大臣の影をばかくべきなり云云。
 
一、仏事引導の時、理の廻向有るべからず智者の解行は観行即の宗旨なるが故なり、何かにも信者なるが故に事の廻向然るべきなり、迷人愚人の上の宗旨の建立なるが故なり、夫れとは経を読み題目を唱へて此の経の功用に依つて成仏す等云云。
 
一、龕など用ゆべからず唐土の躰たらくの故なり、但し棺を用ふべきなり。
 
一、霊山への儀式なるが故に、他宗他門自門に於ても同心なき方をばアラガキの内へ入るべからず法事なるが故なり云云。
 
一、上代の法には師範より不審を蒙る族らをば一度訪ふべし、二度とは訪ふべからずと云ふ大法なり、其の故は予同罪の科大切なり、又堅く衆に同心に会せずしてこらさん為めなり、亦衆に見こりさせむ為めなり。
 
一、師範の方より弟子を指南して住山させ、又は我が身も住山仕らんと披露するより全く我か身なれども我れとはからひえぬ事なり、既に仏へ任せ申す上は私に・はからひえぬ事なり、然るを行躰にさゝるゝ時は我れは用が有ると云ひ、又我はしえぬなんと云ふ人は謗法の人なり、謗とは乖背の別名なりと妙楽大師釈せられ候、即身成仏の宗旨を背く故に一切世間の仏の種を断つ人に候はずや。
 
一、当宗の経を持つ人二親をも当宗の戒名を付けて又仏なんどをも当宗の仏を立つる時、初七日より乃至四十九日百箇日乃至一周忌乃至十三年三十三年までの仏をも立てゝ訪はん事然るべし云云、何の時にても年月日などは訪はん時を始めとして仏をも書く事子細に能はず云云。
 
一、学問修行の時、念比に一字一句をも習ひ候ふ人、死去なんどの後は経をも読み仏をも立てゝ霊供なんどをも備へて名をも付け訪はん事子細に能はず、其の謗法の執情をこそ同せざれ、死去の後執情に同せずして訪はん事子細なきか、縦ひ存生たりと云ふとも其の謗法の執情に同せずして祈祷をもなさん事子細なきか。
 
一、父親は他宗にて母親は法花宗なる人、母親の方にて其の信を次ぐべき間、彼の人には経は持たすべきなり、其の故は人の種をば父の方より下す故に、父は他宗たるが故に、母方の信を次ぐべき人には初めて経を持たすべきなり云云。
 
一、白腰をさしたる摺をば法花宗の僧も着べし染袴きべからず。
 
一、一里とも他行の時は十徳を著べし裳付け衣のまゝは然るべからざるなり、裳衣は常住の勤行の衣なるが故に、たゞし十徳の上へに必ず五帖けさをかくべきなり、只十徳計りにては真俗の他宗に不同なきなり。
 
一、有職免許の後は状なんどには有職を書くべし緩怠の義にあらず、俗の官堵寿領の後状井に着当なんどには書くが如し云云。
 
一、謗法の妻子眷属をば連々教化すべし、上代は三年を限りて教化して叶はざれば中を違ふべしと候けれども、末代なる故に人の機も下機なれば五年十年も教化して彼の謗法の処を折伏して同ぜざる時は正法の信に失なし、折伏せざる時は同罪たる条分明なり云云。
 
一、当宗は折伏の宗なる故に山居閑居、宗旨に背く云云、然れども付弟を立てゝ後は宗旨の大綱に背かず云云。
 
一、他宗なんど祈祷を憑みて後は此の病御祈祷に依て取り直し候はゞ御経を持ち申すべき由約束の時は祈祷を他宗に憑まれん事子細なきか、左様の約束も無くして他宗の祈りを成さん事は謗法に同する条、更に以つて遁れ難し云云。
 
一、学問修行の時は宗を定めざる故に他宗の勤行の事をなし又他宗のけさ衣をかくる事一向子細なきか、宗を定むる事は化他門なり、学問修行は自身自行なるが故なり云云。
 
一、親先祖、法華宗なる人の子孫は経を持たざれども真俗血筋分るに皆何の代なりとも法華宗なるべし、根源となる躰の所仏種を断つ時、自ら何れも孫ひこの末へまでも断仏種なり、但し他宗他門の真俗の人、法花宗の真俗の人に引摂せられて師範の所にて経を持つ人は、縦ひ引摂する真俗の人、仏種を断つ故に不審を蒙るといへども、引摂せらるゝ他宗他門の真俗の人は仏種を断つ引摂せらるゝ人に同せずんば師範の不審を蒙るべからず云云。
 
一、法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背の別名なるが故なり、門徒の僧俗の中に加様の人ある時は再三私にて教訓して用ひずんば師範の方へ披露すべきなり、其の義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。
 
一、門徒の僧俗の中に人を教へて仏法の義理を背せらるゝ事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失かなり自身の謗法より堅く誡むべきなり。
 
一、法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違ふる事、一定弁へず違へたらば罸文起請を以て義理を違ふると云はゞ免許有るべきなり云云。
 
一、遠国住山の僧衆の中に本尊守り有職実名等の望み有らば、本寺住山の時分たりとも田舎の小師の方へ、本寺に於て加様の望み候、如何為す可く候やと披露して、尤も然るべき様、小師の領納を聞き定めて、本寺に於いて加様の望みを申す時は田舎の小師に談合を至し、加様の望み申す由し申され候時、諸事の望みに随つて本寺に於て免許候へば信の宗旨に相応して事の宗旨の本意たり、其の義なき時は理の宗旨、智解の分に成り候て爾るべからず云云。
 
一、居住の僧も遠国の僧も何れも信力志は同じかるべき故に、無縁の慈悲たる仏の御代官を申しながら遠近偏頗有るべからず、善悪に付いて門徒中の事をば俗の一子を思ふが如くかへりみん事然る可きなり、但し機類不同なるが故に仏法の義理をひずみ又は本寺のうらみを含まん族有りとも尚此くの如くひずむ族の科を不便に思はん事、仏聖人の御内証に相叶ふべきか、但し折伏も慈悲なるが故に人の失かをも免すべからず能々教訓有るべき事なり、不思議に有り合ふ世事の扶持をも事の闕げん人を本と為して少扶持をも成さん事尤も然るべし云云。
 
一、諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事、本寺の上人の状を所持せざる者、縦ひ彼の寺の住僧なれども許容せられざるなり、況や風渡来らん僧に於てをや、又末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於いて許容なきなり云云。
 
一、諸国の末寺より登山せずんば袈裟をかけ又有職を名乗り日文字などを名乗る可からず、本寺の上人の免許に依つて之れ有るべし、坊号又此の如し云云。
 
一、法華宗は天台の六即の位に配当すれば名字即、始中終の中には名字の初心聞名の分に当る故に、寺は坊号まで、官は有職までなり、仏教の最初なるが故なり云云。
 
一、他宗他門より納る所の絵像木像等を他宗に所望すれども出ださず、又は代を以てかうとも売るべからず、一乗より三乗に出で又一乗に帰る姿なるが故に無沙汰にすべからず云云。
 
一、六人上首の門徒の事、上首帰伏の時は元より六門徒なるが故に門徒を改めず同心すべし、さて門徒の先達未た帰伏せざる者の衆僧檀那に於ては門徒を改むべし等云云。
 
一、事の即身成仏の法花宗を建立の時は、信謗を堅く分ちて身口意の三業に少しも他宗の法に同すべからず云云、身業が謗法に同ずる姿は法花宗の僧は必ず十徳の上に五帖のけさをかくべきなり、是れ即誹謗法花の人に軈て法花宗と見へて結縁せしめんためなり、若し又十徳計にて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼ノ折伏を心中に油断すれば心業が謗法に同ずるなり云云。
 
一、仏の行躰をなす人は師範たりとも礼儀を致すべし、本寺住持の前に於ては我か取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞ふなり、信は公物なるが故なり云云。
 
一、法花宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我か弟子門徒の中にて公家の振舞に身を持つなり、夫れとは盃を別にし、しきのさかなの躰にする事も有り、又はなげしの上下の如く敷居をへだてゝ座席を構ふる事も有り、此くの如く振舞ふは我か宗我か門徒にての心得なり、他宗他門に向つて努々有るべからざる事なり云云。
 
一、法華宗は何なる名筆たりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり、是れ即法華経なり、今の時の諸人は愚迷なるが故にあまた事を雙べては信心が取り難き故に只法華経計りに限りて本尊とするなり云云。
 
一、他宗初めて法華経を持つ時、御酒を持たせ酒直等を持参する時、法花経を未だ持たざる已前なるが故に世事にして仁義に用ふるなり、仍つて此の方よりも紙扇のさたあり云云。
 
一、他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像井に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。
 
一、法花宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法花経の信が取られざる故に、諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて妙法蓮花経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるゝなり、信を一法に取り定る時は諸仏所師所以法也と釈して、妙法蓮花経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶ふなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏亦然と説けり云云。
 
一、本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云ふ故に初従此仏菩薩結縁の道理爾らしむる故なり云云。
 
一、他宗の神社に参詣し一礼をもなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と思し召さん垂迹の謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還つて諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。
 
一、謗法の人の所に勧請の神社に垂迹有るべからずと云ふ義は爾なり、我か正法の人として正法に神社を修造せん事は如何と云云、是れは道理然かなれども惣じて此の国は国王将軍謗法の人にて在す故に、謗法の国には垂迹の義有るべからずと云ふ法門の大綱なるが故に、我か所に小社などを建立しては法門の大綱混乱する故に、謗法ならん間は神社を必す建立なきなり、此の国正法の国ともならば垂迹を勧請申して法花宗参詣せんに子細有るべからず云云。
 
一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。
 
一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。
 
一、日蓮聖人の御書を披見申す事、他門徒などの御書も書写しこい取りつゝなどして見るべからず本寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云。
 
一、田舎より児にて登山して本寺にして出家するは本寺のをいたちに同ずるなり、田舎には児なれども田舎にて出家すれば爾るべからざるなり云云。
 
一、霊供を備ふには仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備へて今日の亡者の霊供に備るなり、皆大儀なれば日蓮聖人の御薹計り備へ申して、余の代々をば御さんぱ斗り備へ申して、さて其の日の亡者の霊供を備ふべし、代々上人の御薹をしたてぬは略義なり云云、亦亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備ふべし云云。
 
一、茶湯有るべからず唐土の法なるが故に霊供の時も後に酒を供すべし云云、此の世界の風俗は酒を以て志を顕す故に仏法の志をも酒を以て顕すべしと云ふ意なり云云。
 
一、俗の亡者乃至、出家たりとも余の常の出家の霊供の飯をば出家に与ふべからず、俗の亡者は位ひ出家に劣なるが故なり、高祖己来代々の御霊供を給はらん事は子細に能はず云云。
 
一、門徒の僧俗の謗罪を見隠し聞き隠すべからず与同罪遁れ難き故なり、内々教訓して用ひずんば師範に披露なすべきなり云云。
 
一、親類縁者一向に一人も無き他宗門の僧俗近所に於いて自然と死去の事有らば念比に訪ふべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり、若し一人も縁者有つて見次がば自其所に謗法の執情を次ぐ故に然るべからず云云。
 
一、他宗他門の人死去せば知人ならば訪ふべし、但し他宗他門の本尊神座に向て題目を唱へ題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向つて之れを読むべし、惣して法界の衆生の死去の由を聞き受けては之れを訪ふべし云云。
 
一、縦ひ禅念仏の寺道場の内なりとも法華宗の檀那施主等の之れ有らば仏事を受くべきなり云云。
 
一、縦ひ昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主等無くんば仏事受くべからず、但し取骨までは訪ふべし云云。
 
一、法花宗の法師は他宗他門の人に交はる時は我か人躰の分程と振舞ふべし懈怠すべからず、又卑劣すべからず俗姓程どなるべし、我か法花宗の中にては貴賤上下を云はず仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云、但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。
 
一、本寺に於いて小師を持ちたる僧をば小師に届けて仏の使ひなんどにも檀方へも遣はし其の外の行躰をも仰せ付けらるゝなり云云。
 
一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は三日の間は仏の客人たる間だ賞翫之れ有り云云。
 
一、釈迦の末法なる故に在世正像の摂受の行は爾るべからず一向折伏の行なるべし、世嶮なるが故なり云云、仍て刀杖を帯するなり之を難ずべからず云云。
 
一、法花宗は折伏修行の時なる故に断酒定斎夏に入るなんどゝいひ又断食なんどと云ふ事有るべからず云云。
 
一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云はず、又有智無智をも云はず、信志無二なる時は即身成仏なり、但し出家の本意なるが故に何かにも持戒清浄ならん事は然るべし、但破戒無智にして已上すべからず云云。
 
一、法花宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、其故はかたき太刀刀をばとぎて出すべきか、敵のようがいをこしらへて無用なるが如し、仍て他宗の仏事合力を為すべからず云云、但し公事なんどの義は別の子細なり。
 
一、他宗の親兄弟の中に病災等に付て祈祷を成すべき子細あらば、我か信ずる正法法花宗の出家を以つて我か所にて祈祷せば尤も仰せに随ふべし、既に兄弟が正法の檀那なるが故に彼の仰せに子細なしと云云。
 
一、他宗の親師匠の仏事を其の子、其の弟子、信者にて成さば子細有るべからず。
 
一、末寺の事は我か建立なるが故に付弟を我れと定めて此の由を本寺へ披露せらるゝ計りなり云云。
 
一、日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり内には本尊を懸けらる、是れは本門寺の朽木書と云云、今の義にならず、天下一同の法花経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅の八幡宮の石の文に昔は霊山に在りて法花経を説き、今は正宮の中に有て大菩薩と現すと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書とは手本と云ふ意なり。
 
一、他宗の仏事善根の座へ法花宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時、点心を備ふには食すべきなり、既に請せず又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備ふるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法花宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡来らるゝには有りあへたる時、点心を備ふるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。
 
一、法華宗の仏事作善に縁者親類の中に合力の子細之れ有り、是れは法花宗の人を能開とする故に世事に於いて他宗の合力有りとも世事は自他宗同時なり、法花宗能開と成れば所開の世事は自他同時なるが故に子細なきか云云。
 
一、他宗親を其の子法花経を持ち申すべく候訪つて給はるべき由し申さば訪ふべし、子とは親の姿の残りたる義の故に子が持つは親の法花経を持つ全躰なり云云。
 
一、師匠の法理の一分を分けたる弟子が正法に帰する時は、謗法の師匠の正法を信ずる姿なるが故に弟子の望に依て謗法の師匠を訪ふべきなり云云。
 
一、親師匠は正法の人なれども、其の子、其の弟子謗法たらば彼の弟子、子に同しては訪ふべからず、但し謗法の弟子、子はイロハずして正法の方へ任せ彼の亡者を訪ふべし、但し孝子なくんば取骨までは其の家にて訪ふべし、其の親の姿が残りたる故に、其の後は謗法の弟子、子の供養受くべからず云云。
 
一、師範の時世間の義に依つて所領等を知行あらば、其の跡を続く弟子縦ひ他人たりとも真俗の跡を続ぐに子細有るべからず、謗法の所領を領するには成るべからず、其の地頭のそ子の分に当るなり云云。
 
一、謗法の人の子を法花宗に成して彼の子の供養を号して法花経を供養する事有り、子が能開と成る上は子細なく之れを納むべし云云。
 
一、所にて仏事作善を広大になす時、其の所の謗法の地頭などの方へ酒の初をを進らする事一向世事仁義なり、又其の所などに他宗他門の仏事法会を成す時、其の所の然るべき法花宗なんどの所へ酒の初ををつかはす事有り是れは世事の仁義なり受け取る人も世事仁義と心得、請取る可きなり云云。
 
一、法花宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧くる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。
 
一、非情は有情に随ふ故に他宗他門の法花経をば正法の人には之れを読ますべからず、謗法の経なる故に、但稽古のため又は文字を見ん為めなどには之れを読むべし子細有るべからず、現世後生の為に仏法の方には之れを読むべからず云云。
 
一、袈裟衣等惣して仏具道具等の事、一向他宗に借すべからず、又他宗の仏具道具等をも法花経の法会に借るくべからず、既に非情は有情に随ふが故に、謗法の有情の道具は自ら謗法の道具なり、但し世事の志にて謗法の道具を正法の方へ取り切り、乃至料足などにてかい切つては正法の方に成しては子細有るべからず云云。
 
一、仏聖人の御使に檀方門徒へ行いて仁義にても引出物を得、御布施などをも得たる時は本寺の住持の前にて披露するなり、其のまゝ我か所には置くべからず云云。
 
一、世間病なんどの有る檀方の方へ御仏の御使に行いて帰りたる時は、水をあびて本堂へ参りて其の後上人の御前へ参りて後小児などのそばへも行くなり。
 
一、法花宗は人の死去円寂の所をばいまず、只今荼毘のにはより来る禁忌の人なれども一向に忌まざるなり、只産屋月水等をば堅く是れをいむなり云云。
 
一、法花宗の御堂なんどをば日本様に作るべし唐様には作るべからず、坊なんども結搆ならんは中門車寄なんどをもすべし云云。
 
一、薄袈裟うづら衣はスワウハカマに対するなり、イクワンの時は法服なり、帷を重ねたる衣に長絹の袈裟は直垂に対するなり云云。
 
一、釈尊一代の説教に於いて権実本迹の二筋あり、権実とは法花已前は権智、法花経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法花已前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり、さて法花経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約教と釈して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは蔵通別の三教は権教なり円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約するなり、仏身に於いて因果の身在す故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行成道なれども既に成道と云ふ故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より已来だ機を目にかけて世々番々に成道を唱へ在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云ふも迹の世道なり、故に今日花厳阿含方等般若法華の五時の法輪、法花経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹ともに迹なり、今日の寿量品と云ふも迹中の寿量なり、されば教に約すれば是本門なりと雖も文。
 
さて本門は如何と云ふに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以つてそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熟の位、分真究竟の脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと釈して脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是なり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり、仍つて迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則法華経の本意滅後末法の今の時なり。
 
されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為めなるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、属累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故に住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字ありと遊す是れなり云云。
 
一、神座を立ざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書き之れ有り、師匠有れは師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向ふ所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則事行の妙法、事の即身成仏等云云。
 
一、当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と釈する此の意なり。
 
されば儒家には孔子老子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし陰陽にはセイメイを本尊とするなり、仏教に於いて小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文珠を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云、故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属は受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終つて脱する所を終りと云ふなり、脱し終れば種にかへる故に迹に実躰なきなり、妙楽大師、雖脱在現と上の如し云云、是より迹門無得道の法門は起るなり云云。
 
一、法花経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したまふなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用ひ給ふなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。
 
一、一乗要決に曰く諸乗の権実は古来の諍ひなり倶に経論に拠り互に是非を執す、余・寛弘丙午の歳冬十月病中歎して曰く仏教に遇ふと雖も仏意を了せず若し終に手を空うせば後悔何ぞ追はん、爰に経論の文義賢哲の章疎或は人をして尋ねしめ或は自ら思択し全く自宗他宗の偏党を捨て専ら権智実智の深奥を撰み終に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得たる者なり、既に今生の朦を開く何ぞ夕死の恨を遺さんや文。
 
一、涅槃経の九に曰く諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思はく我か至る所何れの処ぞや則自ら知ぬ是れ阿鼻地獄なり、二には自ら思はく何の処より而も此に来生する則自ら知りぬ人界の中より来る、三には自の思はく何の業因に乗して而も此に来生する則自ら知りぬ大乗方等経典を誹謗するに依て而も此に来至す。
仰に曰く二人とは然るべからざる由に候、此の上意の趣を守り行住坐臥に拝見有るべき候、朝夕日有上人対談と信力候はゞ冥慮爾るべく候なり。
時に文明十五年初秋三日、書写せしめ了ぬ。
御訪に預るべき約束の間、嘲りを顧みず書き遣はし候なり、違変有るべからず候。
                       筆者 南条日住。
 
編者曰く本山蔵南条日住の正本に依つて此を写す、主師(十四世)已下の写本数々あれども参校に足らざるが故に、顕著なる動詞の誤まりは自ら直に訂正を加へ、名辞中の誤字、擬字古文、仮名書にて難読の分には皆右旁に( )して訓註を施し又少しく延書とせり。
本抄は有師の弟子南条日住が其平素の御談を集記したるものにして、巻頭の「日有仰曰」の外に立題せざりしを後人表紙に「日有上人御談」と題したり、上人の御談は此外に三四種あるが故に今は通称に従つて「有師化儀抄」として簡別せり、但し化儀のみの記ならざれども多きに従つて且らく立てたるなり。
本抄の条目番号なし今読便に依りて数字を以て此を示す百廿一箇なり(内弍条は無意義なり)又要山辰師已前に何山(大石寺か妙本寺か要法寺か不明)にてか興師卅七箇条目と云ふものを作りて今に流布す、是全く開山上人に関するにあらす、本抄の中より抄録せるものなるが故に、条首に「卅七箇条の第○条」と記し書く。

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