富士宗学要集第一巻

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本尊三度相伝

一、本尊口伝
 
(図、略す)
示して云はく此の五形は我等が本分なり、迹門には此の五形一々に挙げず只ふさねて境と説く、此の五形の境を始覚の智と云ふ、爰を以つて方便品に云はく其深無量乃至諸法実相と、釈に云く境の淵・辺り無き故に甚深と云ひ智の水・測り難き故に無量と云ふ文、
 
又諸法は境なり実相は智なり、宝塔品の時多宝の境・釈迦の智と一塔に座し玉ふ事は境智不二の淵源を表するなり云云、此の境智不二は何物ぞ即我等衆生無始より今に至るまで受る所の生死なり、色心境智なり、千草万木の動静なり云云、多宝已に入滅は是れ死なり、釈迦未だ入滅せず是れ生なり、此の動静の二を色心に当つる時心は動なり色は寂なり、故に多宝は我等死々の死相、釈迦は我等生々の生貌なり、二仏一塔に座すとは即生死即死生なり、此の如く生死一躰なるを不生不滅大涅槃とは云ふなり、若し理智に約せば釈迦は我等が四陰心躰なり、心には動転の用有る故に釈迦には説法あり、多宝は我等が色陰の躰なり色は寂なり故に多宝は法を説かず、若し此の意を得ん者は我等が色心を動かさずして全く釈迦多宝なり、是を迹門にては即身成仏と説けり本門にては我実成仏と説けり、釈には無始の色心、本是れ理性・妙境妙智なりと釈す、伝教大師は一教の玄義に此の智と是の境とあり文。
 
一教とは法華独一の教なり玄義とは此の五形玄微の故に玄と云ひ深く由ある故に義と云ふ、凡そ法華二十八品の肝要只境智妙法の五形なり、本迹各境智不二の義有りと雖も迹門には始覚の転迷を論ず故に恵能く惑を破するに約し・面に智門を立つ、故に釈迦は右なり智なり、本門には本覚即徳を談ず、故に理に約して断結に能はず・面に理門を立つ、故に多宝左に在り左は理なり、然りと雖も互ひに境智色心・定恵、生死等は具足するなり是れを境智冥合とは云ふなり、余は之れに准じて知る可し、爰を以つて大智の文殊は序品に居して此の経を発起し大理の普賢は経末に出でゝ此の典を流通す、証前起後・宝塔品に二仏一塔に住する即ち此の義を表するなり、所詮此の如き種々の深義何物ぞ但た我等が五形は境智なり、我等が色は多宝・我等が心は釈迦と談ずれば我等が無言は多宝の無説・我等が言説は釈迦の有説なり、釈に云く若し此の意を得ば掌菓を観るが如く法華一部の方寸知る可し文、此の方寸とは我等が五形の根源なり、此法門最秘々々口外に出す可からず口外に出す可からず。
 
次に二明王の事は愛染王は煩悩即菩提の躰なり、是の色赤きは媱欲の色なり、此の媱欲即是れ道と観ずれば明王なり、さて不動明王は生死即涅槃の躰なり、其の色黒きは界内険氷・生死黒業は改めざる即不動明王なり、されば愛染は恵なり・不動は定なり、此の愛染不動は何物ぞ定恵の二法なり、此の定恵の二法は何物ぞ我等が境智の二法なり、我等が境智の二法何物ぞ只是れ我等が本分の妙法なり、爰を以つて経には歓喜して愛敬し能く千万種善巧の語言を以つて分別し演説し法華経を持つ故とも説き、又云く無量義処三昧に入つて身心動ぜずとも説けり、されば我等が煩悩愛染する時も妙法と唱ふれば即菩提の明王なり、我等が生死の動転する時も妙法と観すれば即涅槃明王なり、全く愛染不動とて別躰なし、只是れ我等が色心境智定恵の妙法是れなり、余准じて之を知るべし云云。
 
本尊の口決秘曲之に在り努め聊爾に之を伝ふ可からず。
 
(図、略す)
 
合掌の口伝、三種の合掌之れ在り、経に云く合掌し敬心を以つて具足の道を聞かんと欲す文、天台云く手に巻を取らざれども菩提掌中に在り口に言声せざれども万徳舌上に備る、妙楽云く若し此の意を得ば掌菓を観るが如し法華の一部方寸知んぬ可しと。
 
此の三箇の大事其の志有るに依つて 日興に相伝す 日蓮在御判
伝に云く。
 
今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり、末法広宣流布の時分に於いて本化弘通の妙法蓮華経を受持せん輩は霊山一会の儀式を直に拝見し奉る者なり。
 
経に云く若しは園の中に於いても若しは林の中に於いても若しは樹の下に於いても若しは僧坊若しは白衣の舎に於いても是の中に皆応に七宝の塔を起つべしと、我が滅度の後に於いて応に此経を受持すべし、是の人仏道に於いて決定し疑ひあること無けん。
 
二度
本尊の聞き書き。
 
一、釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす、左れば釈迦上行天照太神、日蓮聖人只一躰の習にして釈迦幼少の御名は日種と、天照幼少の御名は日神と云ふ最も謂れあることなり、其れ天照太神と云ふときんば法華本迹の躰にて御座すなり、天照太神は面は女躰にて御座せとも実には陰陽和合神にて御座すなり、天と云ふ字は二人と書く是れ則陰陽の二なり、明神の明と云ふ字は又日月と書けり則ち日月は陰陽の躰、本迹の二門なり。
 
一、日蓮聖人は上行等四菩薩にて御座すなり、日蓮の蓮字は遶辶をば行と読むなり、行と云ふ字一合するなり、日蓮の蓮のそばに点を打つ事則有想無想の二点なり、是れは字点を表するなり云云。
 
一、四天を書く時は北方多聞天と云つて鬼門の方を守るなり、本尊は爾らず是れは本門寺の戒壇建立の時の面なり、然り而るに本門寺の戒壇は西面に立つ可きなり、其の故は像法の時は仏法東漸す西土より仏法を渡す、末法に至つては西土へ仏法を渡すなり故に西を守て西面に立つ可きなり、西面に立つ自ら鬼門の方と成るなり。
 
一、八幡大菩薩の躰即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり、幡とは篇は巾篇是れ則衣裳の類なり、作りは米と云ふ字を上に書き下に田と云ふ字を書く是れ則米穀の類なり、左れば衣食二つ併ら八幡の恩徳なり、仏性の種子を心田に下す之を思ふ可し、大明神の手本には八幡にて御座すなり明と云ふ字は前の如し。
 
一、上行菩薩は多宝の脇に居し玉ふ事、天竺の礼法然る可き人、客人の脇に居するなり、多宝如来は客仏にて御座す故に地涌の上首たる上行多宝の脇に居し玉うなり云云。
一、本尊は皆漢字なり何ぞ不動愛染の二尊を梵字に書くやと云はるるは大師悉曇梵字を知る故に梵漢に通ずる義を顕はし玉ふなり。
 
一、天照太神は善神そさのをの尊は悪神にて御座すなり、天照太神は元品の法性と顕はし、元品の無明は第六天の魔王と顕はる、天照太神と第六天の魔王と夫婦と顕はれ御座すなり、是れ即煩悩即菩提を表する形なり、其の上天照太神日神と申す、そさのをの尊は出雲の国に宮作りし玉ふ、日をは法性に譬へ雲をば無明に譬ふ、そさのをの尊の悪事の故に日神は岩戸に籠り玉ふ、是れ則法性無明の為めに覆はるゝ形なり、然りと雖も終に日神天の岩戸を出で玉ひてそさのをの尊を出雲の国に流し玉ふ、是れ則無明法性の為めに断ぜらるゝ形なり、左れ共日神そさのをの尊と兄弟にて御座す事は法性無明全く一躰なりと表する形なり、朝日の出んとする時東に横雲の覆ふは是れ則日出づる先表り、日出づれば横雲則消滅す是れ則無明極重なれば法性弥よ明と云ふ観門なり。
 
三度
本尊相伝
 
大聖人云く既に諸仏の本意を覚り出離の大要を得る其の実は妙法蓮華経なり、又云仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり、朝に低頭合掌し夕に端座して勤め奉り末法弘通の大導師を歎ず御本尊は竪に十界現前し横に三諦相続する事明白なり、所以は何ん中央の経題を案じ奉る円融空諦所謂る森羅万法は妙法五字に摂して敢えて闕減せずと雖も而も已に其の躰を泯す故に是れ仮りに円融空諦を証するなり、惣躰所顕の十界は互具の仮諦と号するなり。所謂る釈迦多宝十方分身の諸仏所在の仏界なり、上行、無辺行、浄行、安立行等の四大士は本化の菩薩界なり、
 
普賢、文殊、弥勒、薬王等の諸薩・は迹化の菩薩界なり、迦葉、阿難、身子、目連等の尊者は縁覚声聞の二乗界、梵王帝釈、目月星宿、二王四天等は則天界なり、転輪聖王、阿闍世王等は又人界なり、阿修羅大竜等は次の如く修羅畜生の二界なり、鬼子母神十羅刹女等は餓鬼の大将なり、極悪の提婆達多は地獄界の手本なり、但不動愛染の二尊は十界に収納定らざるなり、天照太神、八幡大菩薩等の諸神は現前に付いて鬼神に摂す、之に加ふるに竜樹天親天台伝教等は正像二千の高祖大師なり、普く之を勧請し聊も載せざる無し、此れ即善悪凡聖大小権実皆悉く具足し擣篩和合本門至極の大漫荼羅の故なり、貴い哉上は仏界より下は地獄界に至る一界互具九界即ち百界と成る百界皆十如有り呼んで百界千如と云ふ、千如に三世間を加へ束ねて三千の法門を開く故に仮に十界互具と号するなり、委細解釈の如し彼の止観を見る可し、但彼の止観は己心に於いて之を観ずる故に理の迹門なり云云、今此の本尊を紙上に顕はし之を拝する故に事なり本門なり、円融空諦互具仮諦二法宛然として無二無別なり、是れ仮名相即中諦なり、釈に云く即此の仮法即空即中、中空二諦、二にして無二なり云云。
 
問て云く至心敬礼し本尊を拝見するに皆以つて漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて西天の梵字を用るや、答て云く異説有りと雖も且く一義を述ぶ不動愛染の自躰梵字に於いて利益す可き故に漢字を略して梵字を載せ例せば陀羅尼品咒の如き梵音を聞いて得益す可き故に直ちに梵語を説いて漢語に翻ぜず、之に准じて知る可し云云。
 
是れ等当宗の大事秘蔵の奥旨なり、正機に非ざるよりは千金も伝ふる事なかれ、願くば門徒の法器を撰んで密に面授相伝す可し。
 
(表紙に云く)
初度本尊口伝上内三度あり日源之、本書日源の筆。
 
編者曰く本山蔵水口日源筆を以つて此を写す二三校訂を加へたるあり一所不明あり後賢之を訂せ。

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