富士宗学要集第一巻

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年 中 行 事

                       妙本寺 日我述

正月
元日、雞より前に年男手水を持て参る、其の後御前に於て茶のこにて茶一服年男給仕なり、上人一人許り相伴無し、其の後御堂に参詣、客殿に皈つてつとめ二座、初座は寿量品一品、天のつとめなり、次は両品なり其の已下はつとめなし、両品の間に茶のこ茶皆同に参るなり、つとめ過ぎて宿老より始めて一人宛、上人の前に指し出で頭を地につけ拝せらる、ひねり御茶など直にふところより取り出して傍に置いて左右の座に礼有つて本座につかるゝなり、老中若共に此の分なり、至つての新発意などは大躰の礼儀なるべし。

其の後ひやざけの盃二つ参る、若輩の中にも得心ある人の役なり、其の次ひきわたし各へ参るなり、いはく、ひしかたののし餅なり、両爵両くわゑまかい一尺、一加は下座にかしこまる、一尺上人の前に盃を持つて参る時、宿老中ゑ各三度宛の礼、中老は二度、下は一度、白衣の新発等には御礼なし。

かくて詞を出たす何にても礼有つて上人参るなり、くわえ共に三度申すなり、何れも同前上人の盃を宿老頂戴申され、夫れより両尺にて左右の座両盃なり、自然小人など御座ある時は先づ小人へ三度の礼なり、其の時も盃上人初めらるゝなり、残る所の一尺小人の前に参るなり、然る間上人の盃は宿老頂戴あるなり、初献の尺取たる人二献目の盃持つて参るなり、二献の尺は初献のくわへ持ちたる人勤むるなり、是れも両尺なり。

肴は芋羹なり、謂く、いもすいものなり、所礼は定らず、あたゝめさけなる間、上座計り三返二返などの礼なり、但た宿老一両人には三献共に三度の礼なるべし、是れも上人始めらるゝなり、二盞宛押し重ね参るなり、三献目の盃は二献の尺取の役なり、尺は二献のくらへ勤めたる人取つて、二献已下はつき酒と号し、初献くはゆる事是れなし。
肴はくみ肴なり、謂はく野老、神馬、菓の類なり是れも二盞宛なり、已上三度の尺に酒は五献参るなり、酒盃等の多少は寺の興廃により年の飢に随ふなり、但た礼儀恒例と為すべし。

一、寺家の下人等何にも上人の盃いたゞかするなり。
穂田吉浜の檀那中参らるゝなり、何れも引渡にてめし出の酒なり、大小貴賤とも各上人の盃をいたゞかするなり、檀那宿老えは二反の礼、其の外地下人も大なる者、譜代重代の檀那には一返の礼、其の以下常の百性人の召仕などには礼なし、人に依つて目礼詞の礼等之れ有り、庭の礼は之れ無し、人に依て皈る時御免あれと詞にての礼なり。
但た御所御奉公、屋形奉行などの人には檀那為りと雖も盃も二三度の礼、又庭の礼も之れ有り兼日定め叵きなり。

妙顕寺出仕、酒肴以下元三の祝の如し、庭の礼之れ有り大涯は朝祝の同座に出仕なり、若しひるなれば彼の同宿にも各へ盃いたゞかするなり。

一、吉書始め御薹の前なり、其の故は死縁病様に付いて自然所用有るべき間、早々吉書なり、是れ世界悉檀なり、取肴にて酒、上人斗り参るなり。

御影供同く椀飯あがるなり、俗には荷饗と云ふ十月などは我家にも荷の御薹とも椀飯とも云ふなり。

問ふて云はく椀橋は何事の所表ぞや、答へて云はく何事も代々の定め置かれし所の法式ならば其の道理を知らずと雖も自門の化儀に任かすべきなり、殊に是れ躰の事、引付等之れ無し但た正信を以つて御内意を探るべき者なり、去り乍ら愚信敬の趣き粗之れを示す、先つ王家に於いては饗膳と云ふなり、大膳職之れを司るなり、天子供御の御薹、大炊内膳など右の通りなり、米供御饗膳などは天地長久、王法繁昌の政なり、之れに依つて仏法に於いて一ケ王道と云ふ意を以て是れを用ふ、武家には椀飯と云ふなり荷饗とも云ふなり、此の椀飯は何相を表するやと云ふに蓮台をまぬるなり、俗も菓実充満の意なり、当宗の本意は末法の主師親妙法蓮薹の師弟因果、十界互具一念三千の菓実、然我実成仏の当躰蓮華と信を付け奉るべき者なり。

問ふて云はく椀飯の外に同時に別の御薹あがる意如何、答へて云はく世間の王法に別の供御あるが如し、内証の得心は三ケの大事其の一なれば之れを略す、去り乍ら当日は醍醐の正主、大王膳の五味の主の妙法、是好良薬、久遠元初の種子本因の五味なり、服し給ふ処の高祖は久遠常住の恵命、寿命無数劫の宝算、真実の千秋万歳、三世常住の祝言なり、分別する時は此の二膳即依正境智の二法なり、十界因果盛り備へたる荷の飯は当躰蓮華蔵世界、本時の寂光なり、はしを立つる御薹は本仏の寿命を継ぎ畢る処の妙法五味の御食相なり、是れ即定恵力荘厳、境智不二、一味平等の所表なり、此の趣を以つて深く御内証を推すべきのみ。
問ふて云はく朔日の朝勤何ぞ二座に限るや、答て云く上代より儀式なり、予之れを推するにつとめ六座なれば朝祝ひ遅かるべし、をそきときんば檀那中参らるゝ故此くの如きか。

疑つて云はく夫れならば夜半已下行事之れ有るべし、而も年始勤行を致し略せらるゝや、答へて云はく予上代を推するに世界悉檀の意か。
求めて云はく其の意如何、答へて云はく日天は四季常住、日夜不変の行道なり、之れに依つて其のつとめ之れ有り、本尊は三世常住、久遠元初そのまゝなり、茲に因つて祝言の意か、其の已下は遷化無常の代々の諸聖霊等のとびらいなればなり。

尋ねて云はく代々已下は然るべし何ぞ御影と鎮守のつとめ之れ無きや、知りぬ仏道神道は常住をなるべし、答へて云はく通惣し後座のつとめやむる故、是れに准して略せらるゝか、しかのみならず要略の時は鎮守の勤は天の勤に之れを収め御影の勤は本尊の勤め同意なり、然る間之れにゆづるか。

求めて云はく廻向如何、答ふ初座は天に廻向申すべし若し然らば諸天善神自然と影向之れ有るべし、次に両品は本尊御影に廻向申すべし。

問ふて云はく本尊斗りに廻向如何、答へて云はく此の事は一ケの相伝なり、惣じて本尊御影は二而不二の習ひ之れ有り、一座と二座と堂と客殿との不同之れ有り、其の上元日は世界悉檀の日は先つ面は久遠常住の御本尊の勤と心得べし、其の久遠常住の本尊の当躰とは御影なり、南無妙法蓮華経の御影なり、本尊の勤と云へば則御影の勤なり、御影の影向あれば則代々の勤なり、代々の影向あらば何ぞ諸聖霊影向せられざらんや、此くの如く意得へば二座なれども六座の意なり、さて両品の事は二而不二の廻向、信心落着の上は心に任かする処なり、扨鎮守迄なる間本尊御影のつとめの後之れ有り、然る間天の勤の時并べて廻向にはすべからず、さて鎮守の勤を略して意得る時は天の摂属なり秘すべし秘すべし。

寺内門前よりいもかん参る、ひねりとらする又は茶已下なり。
円鏡の参る方には末びろ、つくりだんし、持夫にひねりとらするなり、紙の帖数は定まらず。

日中は安国論の入文よまず、立正安国論、釈日蓮勘つとばかりよむなり。
問ふて云はく其の意如何、答ふ前の如し上代已下の儀式なり、愚之れを推するに入文に飢饉疫病、或は尸、或は牛馬斃れ巷に等の御文章之れ有り、僧中は苦しからずと雖も当参の檀那聴聞の耳をいむ意か、世界悉檀なり。

疑つて云はく若し然らば奥の段々をあそばすべし如何、答へて云はく年始なる間、中間はよまず、しかのみならず謗法の災難を対論なれば何段も同文章なるべし、然る間外題斗りよむなり、深く先師の内意をさぐるに元日は年中祝言を申し納る日なり、然る間当宗の祝言は立正安国が本意なり、然る間、此の論一巻よみはたすべき事正意なり、一部よみをわるときんば世出の障り際限無し、一段をよめば事をはたさず、之れに依て外題をよめば一部よむになるなり、例は略挙○一部の意なり、然る間、元日より折伏の修行を広くなすべき心持にて外題をよむなり、全く存略に非ず祝言に非ず、一切当流の御沙汰此の心遣ひ有るべし、不信浅智に至つては分別有るべからざるものか。

夕つとめ三座なり、初は両品、次は二座寿量品なり。
元日已来出仕人にも檀那に依り三献の肴参る人之れ有るべし、然るべき女中衆、又は遠方の侍衆此の分為るべし、兼日其の人躰定まらざる処なり。

何時にても正月中に地主来儀の時引渡、雑煎、素麺、三度の肴、又其の上も之れ有るべし時代に依るべし酒数献なり、代官又此の分為るべし、但た時宜に随ふへき者か。

二日、朝勤六座なり、当時は日継の御命日なる間、其のつとめ之れ有り。
朝祝元日の如し二献目の肴は素麺なり、尺取盃礼などは強に定まらず但た宿老二三人に三度、其の次二度、中老へ一度其の以下は礼無し、二献以下は上座一両人に二度か一度かの礼なり、御影供上かる、椀飯あがらざるなり。
上人一人よみ物始め開目抄観心抄の間に一帖一丁斗り拝見、酒一献斗り相伴無し。

大行寺出仕、礼儀元日朝祝の如し、二献目の肴は素麺なり庭礼之れ有り、同宿に盃をいたゞかする但し時によるべし、顕徳寺出仕、礼儀前に同じ前々は、めんすにて酒なり、当代は御影供の前後に参らるゝ間、飯なり、其の時は素麺は之れ無し庭礼之れ有り、妙勝寺出仕、鏡二まい恒例檀帋、末広、通、通礼、所礼、自余前に同じ、取り分け当寺の各坊同意なり、故に其の得意有るべきなり、坊中へ上人并に衆中何れも礼に行かるゝ、寮者等は時日定まらず門前の者に飯くはする、伯楽いはい鏡一まい銭五十、夕勤三座なり。

三日、朝祝前の如し、二献目の肴はいもがしらなり、御影供上かる、妙顕寺大行寺え上人并に衆中何も礼に行かるゝ、常住僧衆へかうしいだす帖数定らず新発意等少なり、年男に祝儀五十、鏡一まい下す、下人男女共にひねり十銭下す、わらべには五文宛。
夕勤一座なり。

四日、当代より始める守護所へ出仕、同宿三人小僧己下、御茶十袋ひげこ一つ其の外は時に随ふべし、盃三度の御礼之れ有り庭之れ有り、御薹御曹子などへは茶五袋宛なり、但た御父子各別の時十袋宛なり、天気悪敷き時は延引なり。

早朝髪そり、そり始る人に檀帋茶出す。
おり湯はじめ晩景なり、下女に茶とらする。

五父、地頭に礼に出つる鳥目二連、代官へ一連、其の外は皆茶なり、女中御息等何も茶なり、境五度、酒五献、作らざる大奉書二帖、然るべき扇子一本出さるゝなり、同宿へつくり檀帋、小者以下にひねり十銭宛出すなり、天気悪鋪き時は延引早朝掃除始め。

六日、近所へ礼に行く、只今大涯百首越るなり、若し延引なれば九日十日に越るなり、茶十袋ひげこ一つ其の以下は定まらず帋扇出たさるゝなり。
夕勤三座。

七日、餅糝上がる、遠所檀方参らるゝ間他行せず、本乗寺出仕、礼式自余の如し鏡二まい恒例だんし末ひろ返礼。

八日、対夜のつとめ寿量品なり、日永の御正月之れ有るなり、何れも代々の御正つきの対夜は寿量品、元より正月も朝勤寿量品なり。

八日、大工始め御堂縁に於てひやざけ大工に三度の式題、銭百文、作り檀帋、末ひろ、鏡一枚、白米少し大工に出すなり、小番匠にだんし末ひろなり、末ひろなきときんば何れも茶なり何れも其の分なり寺に於て雑煎朝飯、大工にふるまうなり。
日永上人の御正つきなり、俗生は鳥倉氏、藤原或は平にて生国は房州佐久間郷大崩の村なり、俗躰殊の外福裕なり、御円寂の歳記慥なる伝記今に見当らず後生之れを添ふべし、永享年中より当寺に御住持と覚えたり、其の故永享七年に日周より日祐へ譲状之れ有り、程無く日祐御円寂なり、然る処に永享は十三年に嘉吉と改む是れを以て知るべし云云、長禄三年日永より日要に御付弟なり、然る則は御円寂は長禄寛正の比か云云。
前代今日は出仕始めとて当寺の僧檀会合、日中あかりに檀方中の御頭之れ有り、近代檀那零落の故に中絶す、代々の御正つきには必ず御膳挙かるなり、余是れを以つてしるべし。

九日、遠本寺出仕、所礼自余前に同じ時代に依つて賞翫之れ有り、妙顕寺、遠本寺、定善寺は昔は同輩なり、近代子細有り尋ぬべきなり。

十日、遠本寺今日出仕の年も之れ有り。

十一日、学文始め所化衆斗りへ酒。
前代は毎月今日は女中衆の御とう之れ有り、近代中絶す。

十三日、御講常の如し。

十四日、夕勤三座、目上の御つとめ自我偈。

十五日、御粥上かる。
前代十七日の撫射のまとはりなり、檀方中より十七日頭銭の内にて御酒仏前へ参る日中あかりに衆僧へ参るなり近代之れ無し。
日中の後仏前の盛物一、方瓶子、内陣に僧檀頂かるゝ、一方は下陣の檀方へ遣す。

千万歳恒例、今日出仕申すなり日中の後、堂の庭にて祝ひ申すなり、代々竹太夫役なり、銭百文、白米少、作り檀紙、末ひろ,鏡一まい、清酒の瓶子かたがた白酒かたがた庭にて出すなり、年男の役なり、寺に於いて太夫一人に座を召して盃をいたゞかするなり、自余は縁に置くなり、あめをこし米など持ちて来る時は別して作り檀紙扇など引出物之れ有り。
御宮殿の御戸今日閇ぢ申すなり。

十六日、祈祷始め寿量品三巻、珠数斗りにてかね打たず、御せん米上がる吸物にて衆僧に酒呑するなり。

問ふて云はく祈祷必ず寿量品三座如何、答ふ上代より儀式なり、惣じて当門家には祈祷の時は三座よむが本なり、大石等で今平生も此の規則なり、檀那愚癡の経を多くよまば功徳則来るべしと思ふ、之れに依つて経数増すなり、内意を探るに其の所表之れ有るべからず、一座は亡霊のつとめに似たり、二度はてうなり、祝言は半を以て本と為す五座七座之れ多し、祝言中に自然悪事出来之れ有る故に三座を以つて処中の義として然なるか。

疑つて云はく必ず平生も三座為るべきか、答へて云はく祈祷始め是くの如くなる上は異論なし、然りと雖も愚癡の檀那座功を以て大儀と為し供養をいかめしく思ひ法力を軽する間、是れになぞらへて或は五座七座などよむなり、殊に当病の時は以軽病者も施主もちからにする間、巻数をよむなり、但し檀那は巻数をこのまず、正信忽ち存して一座なりともよませしむ、僧衆は巻数をよむ事くるしむべからず、檀那の善知識によらずんば無行不道の僧、仏経を誦すべからず是れ豈に人の為ならんや手拭をあらへば手垢の落つる如く自分の身口意の三業のあかをそゝぐ処の口唱なり、

今時分は僧布施供養をのぞんで経行をいやがり檀那は経数をこのんで信力更になし凾蓋不相応の故に感応道交之れ無し、求めて云はく去り乍ら三座如何、答へて云はく世間に祝言の時は三五七を以つて儀と為す、三献七献等思ふべし云云、仏法亦三観、三諦、三徳、三身、三世の所表之れ有り推してしるべし、今云ふところは必ず此の所表に非ずと雖も名詮自性の道理に相叶ふか、去り乍ら寿量品を以つて祈祷の本意とせず仏も三度迄、汝等当信解と云云、久遠常住、三徳秘蔵の南無妙法蓮華経は是好良薬してなを末法本師は譬如良医ぞと云ふ事を三度ことはつて、秘奥容蔵の題目の本咒を以つて八方四千の煩悩を対治するなり、此の時の寿量品は題目の功能をことはる処の引付なり、其の題目のあるじは末法の高祖にて御座すなり、こゝこそ観心本尊の得どころなれ、其の日の導師は観心本尊の直達正観する処こそ当檀那の災難を対治し現当の巨益をうる施主なれ、師の利益と檀那の布施と煩悩即菩提のかえものなり、大切なれども筆に任せ殊の外の秘中の秘事なり卿爾に口外すべからず、当時僧俗信心余り浅薄なる間之れを記す。

問ふて云はくかねを打たれざる子細如何、答へて云はく前々の如く前代よりの法式なり其の引付を見ず愚推にかね無常のひゞきあり、諸経論、外典などにも諸行無常の鐘と定めたり、祈念は無常を以つて其の依拠と為さず、然る間今日は令法久住の祈祷なれば之れを捗ず平生之れに準するか、信心落着の上は苦しからず、然りと雖も上代の法式、上代に任かすべきなり、何事も理は無くとも開山已来の御法度を背くべからず、道理有りと雖も他宗他門のにせ新儀をかまうべからず、日是の住日但鐘を捗つてよむべき由し頻なり、爰に宿老云はく上代の法式なり、日是云はくさては先師は手拍子にて経をはじめけるか云云、是れ躰に上代を軽慢す之れに依つて遂に外道となり去乍ら三悪四趣を感ず之れを思ふべし。
天のつとめにかねを打たざる事之れを習ふべし相似たる事なり。

十七日、前代は今日撫射あり、檀方中十銭充の出、銭、其の内百〆御薹料と号して寺に上くる、其の以下にては酒なり、的の儀式御所まとの式躰なり、凡そ御所的は射手、本間、海老名、座間、名字など射らるゝなり、何れも御奉公の役なり、上代は五番、射手十人,近代は三つがい六人なり、弓法の習に一ケ条の相伝別して巻物之れ有り、百余巻のまきもの愚之れを習ふ其の内なり爰に所用無き間之れを書せず事広きなり、当寺に於いて一番の射手二人なり、昔は烏帽子直垂、近代はかみしもなり、吉浜の檀那宿老は弓太郎を勤む、穂田の檀那宿老は弓太郎を勤む、小的は一尺二寸、大的は五尺二寸なり、五尺二寸の的をいるなり日要の代、吉浜には妙覚六郎と云ふ者、穂田には長井彦四郎と云ふ者之れを勤む、其の後檀那法式を知る人之れ無き間、衆僧中にて之れを射る、謂く蓮浄坊、少弍公之れを勤む、其の比より今に中絶し畢ぬ、日我、亡夫要甘も住山の時、藤平九郎右衛門尉道心に之れを教ゆ之れに依つて手組に之れを勤むと云云。

今日申状安国論之れ無し、問ふて云はく其の意如何、答へて云はく引付見当らず愚之れを推するに今日は師檀一味の祈祷的なり宗内に於いて摂受順化の座席なり、然る間謗法の折伏其の依怙無き故に之れを読まざるか、疑つて云はく若し然らば日中のつとめいかん、答ふ時は日中を以て是れををぎのい申状論を読まざる事をきわうををきのうなり、しいてふしんなき処なり、求めて云はくまとも捨悪持善、対治破悪なり、其の替り目いかん、答へて云はく的は煩悩悪業の躰なり、之れを射る事は魔障、災難、乱飢等を対治せん為なり、故に謗法に準すべからず、然りと雖も災難等の起る事は末法当時の謗法による間、いる処の的は則謗法対治ともなるべきなり、此の時は弓矢則申状安国論の本意をあらはし、爾前迹門の謗法の豈尤を射殺して法華本門の正法の世となさんがためなり、摂受の上の折伏とは是れ躰のたぐいなるべし。

難じて云はくまとはしゆうが眼なり何ぞ煩悩悪業ならんや、答へて云はく夫れ世間浅近之一往なり、再往仏法に会し神道等に約する時はまとは以三毒と口伝するなり、三毒の肉眼なり、弓は定、矢は恵、立場は戒壇、射手は三学の惣躰なり、定恵力荘厳、釈には虚空不動○三学口伝名曰妙法と、御抄に正直に方便を捨て但南○三道○三徳○日蓮○自在神○能と唱ふるなりと云云、三道は的なり、三徳は弓矢射手なり、正直は弓矢なり、捨方便は射破る処のまとなり、日蓮とは射手なり、南無妙法蓮華経とは射手の心法なり、自在神力とは定恵不二、不思議の弓矢なり、惣じて当門家の境智の習ひ定恵の口伝、本尊御影の口決、三大秘法相承等思ひ合すべし思ひ合はすべし、但た不信の人は之れを咲ふべし浅智の者は之を哢ぶべし不敏なり不敏なり、是れは材木なり、能々添削すべし塩味有るべきのみ。

十八日、日清の正つきなり、血脈の人其の沙汰に入らざる之れ有り別して之れを習ふべし、左京阿闍梨、仙陽坊と申し俗生は曽我、氏は藤原、生国相州なり、日信の御舎弟なり、日要の当家第一の弟子なり、文亀三年円寂、天文十四乙巳に至りて四十四年なり。
廿五日、昔は御とう毎月之れ有り郷上の御斎日の故なり、十三日講の外の人数是れをつとむ、近年之無し、上行寺、本顕寺、本勝寺などは出仕の日定まらざるなり、但し本勝寺元日に出仕なり当時中絶、已後は再興有るべきなり。

正月中に座頭衆衣米、時の会釈の事、引出物定まらず惣じて平生ロサイなどの時、又諸侍のつきあひには、たとひケンギヤウ、コウトウ分の人たりとも出家侍の下に置くなり、座頭とはざのほとりとよまする是の故なり、当道乞士の中にて座のかしらとよむなり、盃の礼も詞斗りにてする者なり、然りと雖も年始など殊に俗姓高貴の人、時の賞翫の人などは其の礼之れ有るべし、検校、勾当、衆分、打懸と次第す、座頭分の人と云へば衆分なり、ひたゝれ衆と云ひ打かけと云う同事なり、此の位の人同座ならば次第のごとく其の所礼之れ有るべし、めくらなれば一ツと心得べからず、殊に座頭を座敷になをす様・位の次第による、酌の取り様是れ又常に替るなり之れを習ふべし、所礼盃の様躰、時宜に随ふべし堅く一譜なるべからざるなり。

舞人楽人出仕申す時は太夫一人座に召すなり、若し児などつれたらば座によぶなり盃いたゞかするなり、酌の取り様習ひあり中にも御紋ゆるされたる太夫舞人はかうわか、みそこしなど楽人は四座の太夫などは常の太夫より。に賞翫なり、田舎に於いて其の国の賞翫之れ有るべし、当時はまひまひには新太夫、新助太夫、若松太夫、余に勝るゝなり、猿楽には松太夫などなり、後代亦之れを思ふべし、村太夫等は皈る時庭礼之れ無し座に於いて目礼斗りなり、盃等の事は其礼無しと雖も又其の時の為合せ之れ有るべし、是れは其の国其家の風俗にまかすべし、公家を知りて又まぐる事之れ有り、内外親疎能く々之れを案すべきのみ。

他宗の侍衆の礼儀、正月其の外常の時其の得意有るべきなり、公方の御一家、外様の大名、其の国屋形など如何にも賞翫なり、縦ひ其の官位下劣なりと雖も国主に至りては賞翫為すべし、何に況や当御代などの如く高位ならば申すに及ばず、座は大涯対座なるべし、別座の時は又別儀なり、盃礼常に三度、年始などは五度七度時に依るべきなり、庭礼の門までをくり申すべし地主なども賞翫なるべし、其の外御奉公、屋形奉公、其の以下倍臣、時に依り人に随ひ何れも盃庭礼等之れ有るべし、惣じて侍衆に於ては前座の礼之れ有るべからず、檀那などの事は別儀なり、檀那と雖も高貴の俗方へは公場の礼はいたすべし、余に緩怠なるは還て凶事為るべきか、万端器用と無器用によるべし、

系図さぶらい譜、包丁のしあはせ中々自他の嘲弄為るべきのみ。他宗他門の僧中と付合の事、所礼兼日定知し叵しと雖も不知と敬と軽と互に思惟すべし、然りと雖も次第を分別するとき天台真言の法印僧正、禅律長老、浄土念仏の上人など賞翫を為すべし、其の以下も寺号院号其の寺をあがめ其の人を重んずること是れあり、平生の僧中は其の時に随ふべし、一宗の内に上人と等輩なり、然りと雖も六老以下家々の上人は公界に於いて賞翫を為すべからず、当時は一門の内も重須の上人、当寺の上人、等輩の文章、同輩の礼儀上下有るべからず、久遠の本尊の寺と本門の御影の寺と両寺一躰已上なり、不二の上の而二なりと之れを思ふべし、此れ一ケ条の習なれば別書に之れを示すべきのみ。

当寺の末寺衆登山の時は上代は前座の礼なり、近代は或は乱中、或は仮屋、彼れ是れ以つて其の時に随ふなり、但た信心を以つて心得る時は前座為るべし、其の中に学頭坊若くは定善寺など自身登山の時、庭か縁か出合はされ敷居のもとの礼あつて先つ上人着座なり、座に於いて互に高下の式躰有つて次第次第に登つて本座につかるゝなり、日継の御代、日杲登山の時も此の儀式なり、学頭は上人の代官、仏法の政所にて御座候故に門家に於いて第一の賞翫なり、定善寺は九州導師役頂戴の故に九州末寺衆に於いて賞翫為るべし、学頭は本末を兼る間、余に順すべからざる者なり、代々の置文に任かする処なり、定善寺へは縁迄出合はさるるなり庭へ指向はるる事先例なし、日要御代、日学登山の時の儀式此の分なり、惣じて遠国より参らるゝ間近所の衆、同輩の人をも賞翫あること是れ偏に行躰を褒美の意なり、何れも盃の礼等は其の時に依るべし兼日其の定め無き所なり。

久遠寺衆是れは当寺衆同前為るべし、但し時の代官分の人は自余の衆中に順すべからず、其の外客人の日、其の得心有るべきなり。

二月

七日、開山上人御正つき、尊年八十八、正慶二年御入滅なり、天文十四乙巳に至る二百十三年なり、御縁起四の申状の抄に之れを書く間略せしむなり、今日は門中会合、六日の晩より集まらるゝなり、両人の頭役御薹申さるゝ、酒は出銭正日日中御法事あり、御影供あがるなり、昔は檀方中今月の今日斗りは御とうの御酒挙げらるゝ近代之れ無し。

十五日、釈迦のつとめなし昔は檀方中御影供申さるゝ今はなし自然論義之れ有り、問ふと云はく釈迦は三界の独尊唯我一人の教主なり、釈氏として何ぞ報恩謝徳なからんや、答へて云はく然る間つとめ之れ無し、求めて云はく其の意如何、答ふ末法の唯我一人、三界独尊、在世の釈迦なるべしや、若し爾らば種脱の本尊にまよひ在世滅後の主師親を混乱すべきり、当宗の神秘は在世脱形の釈迦は有為報仏夢中の権果なり、具騰本種の時、久遠本因の因形、名字本覚、無作三身の釈迦とならるゝなり、其の釈迦は在世にも顕本せず復倍上数云云、然る間当門流は権迹の釈迦を閣き本地の釈迦を崇む、其の本地釈迦と云ふは御大事の御抄等拝見申すべし、こゝこそ真実の報恩謝徳なれ、下例にだに仏神は本地をとけばよろこび、人間は本地を云へばかなしむと云云、末法の釈迦の外に別に釈迦をもとむるは唯我二人なり、三界二尊なり、却つて不知恩の者り、能く々分別有るべきのみ、文の底の寿量品、過去の自我偈顕れて後、釈迦に全く二仏之れ有るべからず、同く名異躰同の本尊能く々之れを習ふべし。

十七日、日信の御正つきなり、俗生は曽我、氏は藤原生土は相州、大蔵阿闍梨蓮浄坊と申す、日安の御代に中間役勤められ半ば住持の如しと云云、法頭職者十九月持ち給ふなり、延徳三年円寂に至る、天文十四乙巳五十七年になるなり。

二十五日、学頭坊日杲正つきなり、生国日向国在国なり、俗生は福永、氏は藤原、天文十三甲辰七十七にて逝去、日我学法の師、殊に彼の代官と為て当寺に居住す、之に依つて毎月御茶あぐる、今月は対夜正日をつとめ皆同にて之れ有るべし、年忌に於ては其得心之れ有るべし、日我一代此の分たるべし、已後は当住の進退にあり。
彼岸中日昔は檀那中頭役申さる今はなし。

三月

三日上巳の節と号し御影供参る、節供ことに御膳皆参るなり、上代已来日々六膳宛参るなり、蓮興目郷伝周の六代なり、日要の御代まで参るなり、近代乱入に依り檀那弁ぜざる故に霊供料挙らず、之れに依つて中絶す、近年は月はじめなる間一日、其の外は十三日廿五日参るなり。
年始歳暮の外、国主地頭代官節供の礼なし、つねの時は心に任かするなり。

十三日、日祐上人の御正つきなり、俗生は、藤平氏は藤原或は平と云云、生国は房州吉浜なり、二位阿闍梨と申す永享七年二月四日に日周よりの譲状之れ有り、而れども程なく上洛あつて中途に於いて御遷化なり、相続の其の年の三月上洛と云ふ説も之れ有り、引付を見当らず、其の由来は佐々字名字の出家に美濃と云ふ者之れ有り、いま吉浜の彦右衛門が先祖なり、学問者なり学問の為に国を出づ、爰に途中に於いて日祐の御上洛をうかゝひ害ひ申すなり、其の意は日祐御座なくんば我か身必ず住持と為るべき意地か、其の後美濃知らざる躰にて当寺に帰入す、日祐に御伴之れ無きか又御供の僧之れ有りと雖も当寺に皈らざるか、日祐をんゆくえ年月其のきこへなし、然る間御遷化あるかとて当寺を御出の日を以つて御正日として今月十三日を用るなり、其の後修行者当寺に於いて彼の子細をかたる当国の法華僧此くの如し此くの如しと云ふ処少も疑ひなし、之れに依つて寺家并に藤平名字の檀那談合を遂げ美濃を害はんと欲す、

爰に是れをつみしらする者有りて、穂田下浜より夜中に舩をしたて武州しな川を心さして行く処にかつさ、ふつとのすにて、にはかに悪風吹き来て舟破損す、然る間美濃公并に舟主没死す誠に以つて冥感のつくる処なり、日我之れを案ずるに上代佐々字左衛門尉当寺を建立す、日賢其の弟なれども当寺に住せられず其の意恨か、上代に於いて当寺と取合あり、彼の美濃又同名なり、此の霊魂已後に於いても住持に付き逆心を挿むべし、殊に彼の名字当寺真俗共におとろへたり、尚以つて妄念之れを思ふべし、然らば永享七年より天文十四乙巳にいたるまで百十一年なり、御円寂年紀月日分明ならず、上洛の時、出寺の日を以つて正つき正日と仕る処なり。

四月

八日、釈迦誕生のつとめなし、自然論義之れ有り。

廿五日、日郷上人の御正つきなり、御生国は越後、俗生は太田氏は源みのゝ土岐の一姓なり、宰相阿闍梨と申し奉る、委は二の申状の抄に之れを書く、文和二年御円寂、天文十四乙巳に至るまで百九十三年なり、御年齢々慥なる記文見当らず、就中当寺開発の上人にてまします間、門徒衆廿四日より会合、頭役両人酒肴斗り、正日も御台は寺の役、正日に御法事有るなり、御影供上る。

五月

一日、檀那宿老、若しは宿願の僧檀今日より七日参る御布施百文宛なり、前代は百人に及ぶ、今は然らず御布施又定まらず、去り乍ら未来に於て百メ本為るべし酒三盃。

三日、粽くさそろへ衆中皆同し、四日粽ゆひ衆中皆同じ、五日端午の節と号し諸檀方参らる、ひねり十銭、若しは麦などなり酒三盃、妙顕寺大行寺出仕す、ちまきは豊年の土岐は有り寺不弁の時は仙なり。

六日、菜料取に常住の若僧何れも行かるゝなり。

七日、七日参の衆に先づすいものにて酒二献、其の後飯にて酒数献、飯も再進両度なり、しるさいは数定まらず、去り乍らほんそうなり。

十二日、大御斎日なる間勤行已下厳密なり。

六月

一日、正月のもちひをこまかにして、こほりと号し仏前に参るひむろの故事なり。

二日、学頭日朝の正つきなり、之れに依つて日要代にはつとめ之れ有り其後つとめれなし、日我代に又つとめ之れを興す、毎月は日要代にもつとめ之れ無し今月斗りなり、後代は当住の処に任かするなり。

四日、伝教のつとめなし時に依つて論義あり。

十三日、日周上人の御正つきなり、俗生は木の内、千葉一門なり、氏は平、生国は下総、侍従阿闍梨成就坊と申す、日永も成就坊と申すなり、代々当寺の坊号は成就坊なり、学頭は一乗坊たるべし、之れ依つて両役者の外之れを望まず、末代に於いて此の分為るべし、代々御一代の新発意名、坊号などは人躰に依り赦免の事之れ有り、惣じて日目門流の本坊号は蓮蔵坊たるべし、是れ又当寺の住持為りと雖も思慮有るべし久遠寺の本坊号なればなり、日周御住持の次第御円寂の年記慥なる記文見当らず、日伝より御付弟は応永十三年の日付なり、八十八歳の御時、永享九年丁巳卯月廿二日の日付の御本尊当寺に之れ有り御自筆自判なり、今時分ならば名筆とも申すべけれども、蓮興目郷伝五代名筆の其のつぎなる間、前代ををそれ本尊等さのみあそばさず、之れに依つて今に不知案内の人無筆無能なんどと申すなり以ての外の悪言なり、日永をも知らざる人は無筆なんどと申すなり、御自筆之れ有り殊に控字の御本尊の譲状等御自筆自判あり、是れも御思慮と覚えたり、何事も能く々知らざる上代はをしかけ雑談思慮有るべき者か、愚後に年代を案ずるに御円寂は永享嘉吉の前後たるべきか。

七月

一日、今日よりうら盆の対夜とて勤行等厳密なり。

二日、日継の御正つきなり、俗生吉田、氏は平、生国は房州吉浜、永正十四年より大永七年迄在住十一年なり、六十五歳、二位阿闍梨蓮薹坊と申す大永七年円寂、天文十四乙巳に至る十九年なり。

七日、御影供参る同く素麺参る。
聖教已下虫ぼし塔中其の外道つくり寺よりゆつけふるまう。

十三日、高灯楼あぐる其の外盆の仕度の御影供参る。

十四日、御影供参り、早朝諸檀方へ手分にてつとめに遣はす、日中の前に御たまの飯参る何もはすの葉にもるなり、はしは十文字に立つるなり、御膳かくのごとし、自余棚にはち二つにもる、又ちらし飯なり、其の後日中のつとめ次でに棚に向て寿量品一座諸聖霊のつとめなり、其の座にて僧檀へ酒一献寺より出るなり、但し年に依るなり。

日中のつとめに申状よまず、問ふて云はく其の故如何、答ふ天下一同の斎日、殊に僧檀一味平等菩提廻向の日なる間、謗法対治の申状、安国論其の拠無きか、去り乍ら三時不断の心にて日中に之れを読まざるなり、深き子細之れ有るべからざるか。

塔中参は上代各廟堂之れ有り、然る間其の儀式事多し、近代乱入に依つて悉く破損す、然る間代々以下一所に安置申すなり、代々には各に自我偈一巻宛其の外代々の墓所、つくし、塔中、芝原塔中、川嵜云云、谷山云云、各々にて自我偈一巻宛、相広前に於いて諸聖霊の前につとめ、自我偈一巻其のそばに佐々宇左衛門尉、郷伝の前に自我偈一巻、是れは当寺開発の大檀那なる故なり其の外は時宜に随ふべし、夫れよりすぐに浜塔中に参る代々のつとめ是れは座数定まらず、其の外僧檀のつとめ之れ有り。

十五日、御影供上る、其の後みたまはあらい米なり十四日の如し、其の後御法事之れ有り、別して諸聖霊のつとめなし、但た法事なき時は日中の外に寿量品一巻之れ有るべし、十四日の如く申状安国論よむべからず、昔は檀方中頭役あり今は大躰なし。問ふて云はく御影供の上に又みたまの御薹とは何意ぞや、答ふ御影供は日々の事なり今日に限らざる如し別してのまつりなり、世界の法軌に任かするなり、たまと云ふ字は霊の字なり、たましひなり、いふころは聖霊なり、仏果聖位のおんたましいをまつるの義なり、別して深意之れ有るべからざるか。

廿日、日我学法、台当家の小師蓮住坊日柔の正つきなり、之れに依つて僧衆にをりゆふるまふ、日我一代此の分為るべし。

廿二日、日安の御正つきなり、生国は相州三浦、俗生は南条、氏は平なり、鎌倉にある長老の平僧にてのかくし子なり、彼の長老名筆なり此の種子の故か安上御名筆なり、按察阿闍梨蓮薹坊と申す、九州へ御下向は嘉吉三年なり、其の時定善寺本尊あらためらるなり、日掟逝去の年なり,七十五歳長禄元年丁未御円寂なり、天文十四に至る五十九年なり。

八月

一日、八朔と号す御影供上る。

十五日、前代は放生会と檀那中頭役あり近代之れ無し流布の日迄は断絶も苦しからざるか、其の故は今時分の信者愚にして他宗信仰の八幡の放生会と同意に存すべきなり。

十五夜、月天に芋参るなり、上代はつとめ之れ有り、近代は定まらず、日要も思ひ定めざるか有無今に定め叵し、日我が愚意は有つても苦しからずなくとも苦しからず大躰は無用か。
問ふて云はく其の意如何、答へて云はく前代皆同にて月天に向ひよまれしを其の後日要衆中を略して一人にて内経云云、愚之れを推するに惣じては三天子一ケに習ふなり、別に云ふ時は日天子なり、然る処或は月天の或は明星天の云つて別してつとめ好まざる事か、唯存大綱の修行を之れを思ふべし、但し今夜月天の最中なれば一人にてもよまるゝか、他宗他門の月待日待なんどの如く日月等を存すべからず、夫れは始覚の日月始覚の修行なり能く々之を思ふべし、当代も日我一人の内経なり、但し後日の信者に任かする所なり。

九日、重陽節と号し御影供上かる菊花上かるなり。

十二日、大斎日なり御影供上かる、一夜不断の経あり近代中絶、日我之れを興す、役者ある時は五座も三座も法事之れ有り、若しは平座にて御抄其の後経なり、寺より仏前へ掻餅参る僧衆へ夜中に糝か粥か出るなり、檀方中通夜、女中霊供米、或は御酒、或はかきもち持参。

問ふて云はくかき餅何事ぞや、答へて云はく大聖今夜竜口に趣き給ふ時、桟敷殿と云ふかまくらのけいせい御檀那なり、之れに依つて折節かき餅をみづから持参申し中途に於いてあげ申すなり、之れに依つて今に女中専ら之れを挙ぐ殊に自身持参なり。

十月

一日より十三日の対夜とて勤行等一入厳密、上代は今日より十三日迄椀飯御影供参るなり、一日より八日迄は檀方中、九日十日十二日僧衆中、

十一日十三日は寺の役なり、引付今に之れ有り中古已来之れ無し。
妙顕寺会式、七日本乗寺会式なり。

十日盛物已下仏前かざる。須弥盛物、華足の盛物、菓の盛物、其外かこさし、せんへひ、こめのこつくり花、いりたで、いつけなどなり、仏具二面、瓶子一双、其の外立花なり。
問ふて云はく二面の仏具其の意ありや、答へて云はく子細無し仏前荘厳のためまでなり、一面は白銀の蓮華仏具なり菊などをつむ是れ荘厳のため斗りなり、別して其の意趣之れ無し。
御戸ひらき、門中衆来る、日伝御仏事の御対夜なり。

十一日御影供上る、日伝上人の御正つきなり、俗生は南条、氏は平、伊豆出処の侍なり、時に駿河在国なり、童名牛王丸、中納言阿闍梨、最初は日賢と申す、後に日伝と改めらるゝなり、川崎の日賢にまぎるゝ事多し、能く々之れを習ふべし、此の子細伝上人の御自筆今に之れ有り、日郷より御付弟は文和二年なり、御童躰の時なり、之れに依つて日明代官を勤めらるゝなり、日伝より日周へ御付弟は応永廿三年丙申卯月八日、同十年十一日御円寂なり、但し御円寂御年齢慥なる見当らず伝記聞き伝ふる処此の分なり、文和より応永廿三までは六十四年なり御長命と覚えたり、応永廿三より天文十四に至る百三十年なり、此の御代迄久遠寺妙本寺を一人にて御住持なり、応永廿三に当寺を日周に御付弟、富士をば日宣を以て御代官なり、同日付の譲状之れ有り二通、血脈は当寺を以つて本と為し富士は何時も御代官なり之を思ふべし、代々の引付之多し、日中に御法事あり昨日今日は日伝の御仏事なり。

十二日御影供挙かる、檀方中もとあけの御酒、日中に御法事あり、夜に入り又御法事あり。

十三日御影供上る、又荷の御薹挙かる、其の子細正月の処に之れを記す、去り乍ら今日一宗の正意真実の蓮薹なるべし、正月は俗諦常住、世界悉檀なり、信心落居の上は真俗一躰、不変随縁之れを思ふべし、日中の御法事上人の役なり、檀那中もとあけの御酒参る、已上御法事四座あり、おはつをにて参る人には寺にて、酒あり、座頭衆へは寺より引出物あり、まいまいには寺と衆と出銭、檀那にすわうぬきの出銭○十四日門中衆皈らる、惣じて当寺に於いて四ケの法会と申すは二月七日、四月廿五日十

月十一月十五日なり、日伝の御仏事を分る時は五ケなれども、十三日と一度に会合の故一〆四ケなり、さる間四ケの法会共、四ケの会合共云ふ、門中会合が四度なり、御報恩の御仏事は五度得意べきなり、又他門台家等の四ケの法会と云ふは二月十五日、四月八日、六月四日、十一月廿四日なり、此の自他公界の事なり、愚者の疑をはらさんため之れを記す。
十五日下沢妙勝寺会式、十六日山中顕徳寺会式、但し山中は十三日の前後不定なり、大躰近年は此くの如きなり、廿日芝原大行寺会式何れも上人越着、時に依り代官も越るなり。

十一月

十一日大斎日なり、問ふて云はく御抄に大難四度云云、何ぞ九月斗りを本として五月又は今日などをば、さのみ、かしづかざるや、答ふ御抄の如し其の故は大難の中に於いて又軽重有るべし、十一月は及加刀杖の難、五月は佐渡の流罪はそくそくの難九月十二日夜は不惜身命の難なり、然る間そくそくるさいは住処の飢寒の難、財難なり、手頭の御疵は身業の御難、九月十二日の夜は御一命の難なり、身命財中に一命をましたる事なし、之れに依つて開目抄にも、日蓮と云ひしものは九月十二日竜口にして頭をはねられぬ、魂魄佐渡の島にいたるとあそばしたり、是れ能々思ふべき者なり。

十五日、目上御正つきなり、俗生新田、御所御一家なり、氏は源、童名虎王丸、御名は卿の公、具には宮内卿の公と云ふなり、蓮蔵坊と申し奉る、開山より当門の血脈御相承、久遠御補任なり、委く申状に之れを云ふ、正慶二年美濃の樽井にて御寒死、七十四歳の御時なり、開山とひとつとし、御円寂なり、天文十四に至る二百十三年なり。

十四日より門徒会合、頭役両人、御薹と申され正日御法事あり、御影上る。

十六日、日要の御正つきなり、生国は日向細島、俗生は中村、氏は藤原、
五十四より当寺に在住、七十九歳にて永正十一年甲戌円寂なり、新発名は要学、所化名は三河阿闍梨、坊号は惣持坊、学頭坊職の日、本蓮寺と号す、此の時登山則上人に定めらるゝなり、其の後本永寺を以つて学頭坊と為し日杲に付属なり委くは申状の抄に之れを書く。

廿三日、晩日に大師のかゆにて衆中斗り参るなり、仏前に挙がらざるなり。

廿四日、天台の日なる故自我偈のつとめ之れ有り対夜にも自我偈なり、問ふて云はく天台のつとめ之れ有れば釈迦のつとめも之れ有るべし、三界の独尊のつとめさへ之れ無し何ぞ迹化の菩薩の垂迹たる天台のつとめあらんや、答へて云はく釈尊は唯我一人の教主、一切衆生の主師親なり、故に一仏の外之れ有るべからず、故に末法に入り具騰本種の釈尊は名字因形の仏なり何ぞいたつかはしく在世応仏の釈迦に著せんや、経に云はく方便現涅槃、或は雖近而不見と云云、御抄に云はく在世今にあり我皆与授記は我れなり、○無疑云云、開目、観心、四信五品、三大秘法等能々拝見有るべし、さて天台は像法の熟益の導師、迹化他方の大士なり、経には止善男子、釈には必無巨益等云云、然る間、在世脱益の釈迦の枝葉なり、更に末法に於て依怙無し、然りと雖も迹門法華の行者として内鑒の釈を儲け、末法の本化を待ち給へり、遠沾妙道等云云、然る間、内鑒助舌の方の恩を報ぜん為のつとめなり、全く彼の加力を請ひ化度利生をたのむに非ず、迹門熟益の凡薬をのぞかせ、本門下種の良薬を結縁する意なり、是則具騰本種の心ばせなり、扨て又在世釈尊の根本は久遠本因妙の処なり、本因妙の釈尊は末法の本尊なり然る間、此の重々之れを習ふべし、但た浅学不信の人は咲ふべし咲ふべし却つて大咲ひなり大咲ひなり。
問ふて云はく天台のつとめはあつて何ぞ伝教のつとめ之れ無きや、答へて云はく伝教は天台の再誕なり剰へ迹門の依所は漢土なり、殊に前身は薬王、後身は伝教なり、然る間迹化の惣躰、梵土日域を兼る処中の天台を以て正意とするなり、天台のつとめ則伝教のつとめなり、迹々の末まで求る事唯存大綱の本意にあらず、本化弘通の所詮にあらず、天台のつとめさへあまりの事なり、能く々之れを思ふべし、今日時に依つて論義あり。

十二月

十日の内に惣普請、二三日あり、しへき以下なり、若し屋作などの時は日数定まらず。

十五日、御堂のすゝはきなり、客殿以下は廿日なり、当代何れも十五日にはくなり、廿日ははしかきの隙入る故なり、廿日はしかき白酒二献、門前の者、召仕の者などにも酒のまする、昔より廿日酒と号して別して作るなり、盃大小年に依るなり、節木、廿日の内十日以上にきらする、天気次第なり、廿六日、餅こしらへ衆中下人以下くわする、皆同茶袋つくり、廿七日五色の盛物もる、又四季の盛物とも云ふなり、廿八日にもる時もあり、餅の遅速によるなり、問ふて云はく五色は如何、答へて云はく青皮はあをき色、春東を表す、正月は青皮はまれなれば、つねのかうし用ゆ表事迄なり、あづき餅は赤色、夏南を表す、上のかぶすは黄色、中央に置く是は土用中央を表す、白餅白色、秋西を表す、くし柿は黒色、冬北を表す、其の外かちぐり、ところ種々をもる、千菓万果の果報を表するなり、

高一尺二寸は十二月、まはり八角は八方なり、左は天の五大八極、右は地の五大八方なり、是れ則四季常住、天長地久の盛物なり、大裏に此の盛物是れあり、但し高さは表事は此くの如くなれども今は不定なり、問ふて云はく何ぞ王法の盛物を当門に之れを用るや、答へて云はく世間にも一家の王道と云ふ事之れ有り、しかのみならず仏法に於て正法は末法の唯我一人是れなり御抄に当帝の父母、或は主と云云、経に今此三界我此土安穏と云云、教門に約する時、一切衆生中、最為第一文、第一は王法に非ずや、其の外自有六万と云云、

今あらためたるにあらず、をのづから本時娑婆の本主なり、真浄大法の王法のまつりごと、境智冥合久遠常住、本有の五大、名字本覚の証道の八相、無作本覚の十二因縁なり、世間少国の王法の四季、五常等遷化無常の土、移転生滅の五大なり、本門本地、寂光不壊の我此土安穏の本時の娑婆、今此三界の王法は三災をはなれ、四劫を出でたる常住の土なり、爰を以つて見る時は世間には名詮自性の道理として、本仏の王道を移す一筋と心得るが当門の正意なり、世間の王道を写すと見る分は始覚始成なり、万事当家の信心、此の心遣ひ之れ有るべきのみ、円鏡二まいは世間の天地日月、仏法の境智なり、ひとつかさぬることは境智冥合の表事なり、左右の六の餅は六万恒沙、六度六大の表事なり、分つ時は左は境の三諦、右は智の三観、躰の三身、用の三身等の所表なり、酒は左右にある事、下種の法水と血脈の智水と、人法一個の法流なり、仏前の松は三毒の霜雪も犯さざる処の法王、君子、常住不変の無始色心を表するなり、

当寺には仏前に立る間、門に立てざるなり信心尤もなり、寺に依つて門に松を立つてもくるしからず、恒例に依るべきなり、ゆづり葉は上行要付の妙法血脈のゆづり、門葉繁昌の表事と心得べし、其の外世間には蚩尤が因縁を用ゆ、当宗は三障三魔、三毒の悪鬼をしえたぐる、まつりごとゝ心得べし、仮令世界のよりどころを、かる斗りなり、万事此の得意有るべし、正信に任する処なり。
晦日、除夜と号し晩景に御影供上かる、同時に諸聖霊にみたまの飯参るなり、年中のかぎりなる間、まつりをさむる意、常楽我常、自受法楽の結願なり。
御戸ひらき。
元日の対夜なる間つとめ三座なり、初両品、次二座は寿量品なり。
問ふて云はく三座如何、答へて云はく上代より儀式なり三堂のつとめと云云。
疑つて云はく三堂は如何、答へて云はく一ケの相伝なり両儀有り、先づ今用る処は本尊堂、鎮守堂なり。

求めて云はく廻向の次第如何、答へて云はく三堂各別の時は先づ御堂にて両品、其次き本尊堂にて寿量品一座、鎮守堂にて同く一座なり、両堂の時は御影堂にて両品一座、本尊堂にて二座なり、一堂の時は三座とも同座なり、客殿之れに同じ、但た堂と客殿との行事次第相替るなり、両義有り能く々之れを習ふべし、正月朔日、二日、六日、十四日の晩、何れも明日の対夜なる間三座なり、節分の夜も三座なり、何れも年の夜と云ふいはれなり、夜に入り上人御堂へ歳末然して年中諸願皆令満足なり。

右条々件の如し。

右此の抄は冥慮計り糝しと雖も末代に於ては定めて己義を構へ異論を存せらるゝべき間、上代の恒例に任せ、当代の追加等記す処なり、末代に於いて当宗の正儀は之れを加ふべし、他宗他門の傍説を移すべからず、世間雑用等は寺々家々弁せざるに依て、随つて時日の飢乱其の沙汰無しと雖も仏法の軌則に於いては粗此の抄に任かすべき者か、但し興廃時に依つて盛衰限り有る道理後代計り糝し、但た偏に冥慮に任かすべき者なり、仍て爾か云ふのみ。

天文十四乙巳十二月十日之れを始む、同十二日草案筆に任かする処なり、

仍年中行事と号し文章等之れを記する所矣。
妙本寺常住 述者日我
乙都丸(六才迄) 要賢坊(廿六迄) 進太夫阿闍梨 (廿七比代官分、時の名なり)惣持坊(公界に於てよばれず) 長友大炊助安部安治、要甘が子なり。日我卅八才
永正五戌辰九月十六日辰時出生。

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