富士宗学要集第一巻

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当家引導雑雑記

                             日繼
           (御正本を以つて之れを書写し奉るものなり。)
 
一、導師心持の事。
一、曼荼羅の事。
一、入祓の事。
一、出祓の事。
一、火指す事の心持の事。
一、荼毘処の観念の事。
一、四門行道の事。
一、三返行道の事。
一、落髪法名を授くる事。
一、題目を勧進する事。
一、臨終の善知識の事。
 
引導の事。
 
一、問ふて云はく引導の時節の心持ち如何、答へて云はく一代の教法を学ぶと雖も又多年の行功ありと雖も、引導の刻に心持ち悪しき者は亡霊速疾頓成ありがたし、導師は且らく無二の信心に住し亡霊を寂光浄土へ引導すべきなり。
 
一、引導師は智者に非らずんば叶ふべからず、其の故は死人は無心にして草木の如し、而も無心の者に心を入るゝ事は且らく導師の心地に有るべきなり、色々の心持ち相伝之れ有りと雖も初心の行者にては無二の道心に住して余念を絶し三世の諸仏御影嚮と祈念し、大聖人の御引導にて先師の取次きをし其の間の使と心得べきなり、其の時以信得入非己智分の文肝要なり、又云はく唯我一人の文、第七巻能解一切生死之縛の文・第八に云はく四者発救一切衆生之心と唱ふべし、第一に無欲にして大慈悲心道心に住し其の亡霊に引導すべきなり、既に死人の色心を妙境妙智と成さん事、愚者にては如何と思惟あるべき事なり、既に去りたる魂を取り返して本の如く之れを入れ仏身に成さんに少々の義にては如何、設ひ不惜身命の行を立てて法華経の業者と成りても無益なり、其の罪は法然弘法にも過ぐべきか、中々彼れは謗法なれば沙汰に及ばず、是れは能所共に持経者なり、然るに弟子檀那は偏に師範に打ち頼む間だ責め一人に帰する道理なり、されば愚にして導師共最も深重すべきなり、祐師の御義なり。
 
一、日進の御義に云はく身命を久遠寺に責め一人に帰する道理なり、尤も導師の心持所詮なり心得に染むべし云云。
 
一、報恩抄に云はく衆盲を導かんに生盲の身にては橋河渡しがたし、方風を弁へざる船主は諸商を引いて宝山に至るべきや云云、此の御文躰重々心得之れ有り云云、衆盲とは日本国の一切衆生、生盲の者とは法然弘法等なり、何れも生死の大海なり云云、仰せに云はく当家に於いて習ふ時衆盲とは末代の見思未断の凡夫一文をも弁へざる無智盲者の事なり、此の盲者をば眼目明にして日月の如くなる智者引導すべきなり、其の智者とは本化の菩薩にて御座すべきなり、如日月光明○、次に方風とは順風の事なり四方風のをいてなり、此を知らざる渡海は大切なり、宝山とは霊山、諸商とは持経者なり、故に諸商とは法花の持者惣して一切衆生と云ふ義、如何にも商の字はアキンドと訓む惣して物売る人のことなり、うり物とは無明煩悩の悪業の事なり、かいてとは十方の諸仏の事なり、但し我等は釈迦一仏と心得べきなり、経に云はく今此三界皆是我有○唯
我一人能為救護。
 
一、御書に云はく人は死しぬれば魂去る、智者ありて法花経を讃歎して骨の魂となせば死人の身なれども意は法身なり云云、生身得忍と云へる法門是れなり○、去りたる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を返して仏の意となす成仏と申すは是れなり云云、此の御書に智者ありと御遊ばす之れを思ふべし、此の文躰に四箇条の口伝、二字の相伝之れ有り、四箇条とは智者と讃歎と取返すと魂変すとなり二字とは返と変となり。
 
一、示して云はく口伝に云はく死人の本心の去り行けるを又取り返すなり、取り返すとは本来死人の魂なり、其の魂変して仏の御意とすと云へり、悪逆煩悩の心法を変じて仏意と成すこと引導師の難儀なり、故に御抄には智者讃歎すとは能く々思慮して引導すべきなり。
 
一、示して云はく今の御文躰に於いて三観三諦の相伝之れ有り、其れとは魂、去るは空諦なり・取返すとは仮諦なり、有無不思議は中道なり、三諦一躰非三非一には己証癡明一躰不二、良由無始一念三千云云、当知心土、一念三千且心是一切法、々是心とも無始色心、本是理性、妙境妙智云云、一念三千即自受用身、々々々々者出尊形仏云云、諸法本来寂滅相、仏子行道得作仏文、此等の肝文唱ふべし観念すべし云云。
 
一、明師云はく、仰に云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是れは法然弘法に超え過きたる罪障なり、彼れは謗法の衆生を悪道に引く、是れは持経者として其の霊を悪道に引き入れん事浅間敷き事なれば、我が檀那なりとも智者を頼み引導さすべきなり云云。
 
一、明師云はく、愚者は遠くは釈尊多宝上行等の地涌の菩薩、近くは元祖日蓮聖人代々先師聖人等偏に頼み奉り、彼の新霊を寂光浄刹へ令め引入せ給へと信心無二無三にして御本尊を念すべし云云。
 
一、入祓の事。
示して云はく入祓とは三昧定を表す、仍つて死人は入定の者を表す、故に入祓の時は入於無量義処三昧身心不動の文を唱ふべし首題は意に示すと云云、是れ則ち釈尊無量義経を説き畢つて入定したまふ事を表す、意の内の首題は未だ正宗を説かざる事を顕すなり。
 
一、出祓の事。
示して云はく此の砌りには祓つて動くなり勤を致し首題を唱ふべきなり、既に世尊は三昧より起つて正宗を説きたまひし事を表するなり、次に三反の行道は三諦を表すと云云、経に云く以仏経門出三界苦・怖畏険道得涅槃楽と唱ふべきなり云云、棺と天蓋と凾蓋相応と習ふなり、死人は多宝を表するなり、去は生する説き、草木に助けられ死する時草木に助けらる、之に付いて四菩薩の相伝之れ有り、衣服火炭等は上行菩薩、行水の水は浄行菩薩、焼きたる在処は安立行菩薩、天然出づる風は無辺行菩薩なり、示して云はく一人の死人を四大菩薩取り籠めて守護したまふ意なり、一義に云はく無辺行の風大には題目を唱えて取るべきなり云云。
 
一、位牌の事。
自他宗之れ同し、示した云はく位牌とは宝塔なり多宝如来の扉を閉ぢたまふ時を表するなり、首題を書き顕はす事は釈迦の地を表し、孝子集つて回向を致すは分身を表するなり、釈迦多宝は法身を表すと云云。
 
一、曼荼羅の事。
示した云はく曼荼羅をば衣と習ふなり、死後の耻をかくす信楽慚悔の衣なり敢て余の事には非ず経に云く如裸者得衣と云云、又此の曼荼羅は世間の挙状なり、当来世の関所を通するなり、此の事は当家の口伝なり経に云く為説実相印と云云又云く我此法印、為欲利益世間故説と云云、状の正しき事は判を以つて本と為す仍て印とは御本尊是れなり、御書に云はく仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印なし正しき文書に非らず全く実仏無し云云、○炭すみあらすみ。
 
一、火指す事。
示して云はく今此三界云云、亡霊の名と年号月日と引導師の実名等心得べきなり、二丁のたいまつは本迹二門と心得べし、口伝に云はく此の火は仏の御胸中より大智光明火坑三昧より火出来して之を焼き奉つる、此の事法蓮抄に出づるなり、示して云はく其の火とは南無妙法蓮華経の智火、衣薪タン死人を焼く意なり、又導師は顕説法華、死人は隠密法華、火は根本法華なり、孝子と導師と火を取り違ふる事は煩悩の事と悟の智火と一躰に成る三諦一諦非三非一の義なり。
 
一、荼毘処の事。
示して云はく寂光土と心得べきなり、先づ野辺へ出でゝ又見娑婆世界○宝樹行列の文、七巻云く如説修行所在国土、若有受持読誦諸仏於此而涅槃の文、釈に云く二経所在皆常寂光、豈離伽耶別、求常寂、非寂光外別有娑婆と之れを唱ふべし云云。
 
一、三度行道の事。
示した云はく三度廻る事は我等衆生は生死の縛にしばられたるを拝む心なり、一切衆生は煩悩のきづなに左まきにまかれたるを右へめぐりほどく心なりされば経に云く右遶七匝文。
 
一、日祐上人の御義に云はく導師としては信心所詮なるべし、又如浄明鏡・悉見諸印像の智者学匠なりとも無信力にて余念欲念に住して引導せば大切なり、信智整束しての導師こそ尤も然るべく覚えたり、信心強盛ならば無智なりとも相違有るべからざるか、信をば恵に代たりと云云、能く能く自他彼此の情量を捨てゝ仏法の道理に一切を任すべきなり。
 
一、初心成仏抄に云はく問ふて云はく無智の人も法花経を信じたらば即身成仏すべきか、又何れの浄土に往生すべきや、答て云はく法花経を持つに於ては深く法花経の心を知り、止観の座禅をし一念三千、十境十乗の観法を凝らさん人は実に即身成仏し悟を開らく事も有るべし、其の外法花経の心をも知らず無智にして平信心の人は浄土に必ず生るべしと見えたり、されば生十方仏前と説き或は即往安楽世界と説き、是即法花経を信する者の往生すると云ふ明文なり、五大院云はく上品の行者は即身成仏し中品の行者は十方の仏前に生れ下品の行者は人天修羅に生ると文、東陽和尚口決に云はく開仏知見は東方十住断無明発心門、示仏知見は南方十行修行門、悟仏知見は西方十廻向菩提門、入仏知見は北方十地涅槃門、是れ則ち一切衆生、示して云はく荼毘処にて四門行道是れ等の観念に住して引導すべきなり、又云はく遊於四方○直至道場の文、四仏知見の文を唱ふべきなり。
 
一、御書に云はく上根上智は観念観法も然るべし、下根下機は但南無妙法蓮華経々々々々々々々云云。
 
一、初め此の仏菩薩に従つて結縁し還つて此の仏菩薩に於いて成就すとの文、之を思ふべし。
 
一、落髪授法の事。
不染世間法如蓮華在水、若持法華経、其身甚清浄、剃除鬚髪而被法服、或見菩薩而作比丘文。
 
一、死人に衣を著する事。
澡浴し塵穢を著く新浄の衣を内外倶に浄し文、流転する三界を中恩愛不能は断る、棄て恩を入る無為に真実の報恩者文、示して云はく師弟共に三反授戒文に之れを唱ふべし云云、此経難持等云云。
 
一、御書に云はく智者有つて法華経を読誦して骨の魂となせば死人の身は人の身なれども意は法身なり、生身得忍と云へる法門是なり、○涅槃経に云はく身は人身なりと雖も心は仏心に同じと云へる是れなり、生身得忍の現証は純陀是れなり、法花経を悟る智者死骨を供養すれば生身即法身なり是れを即身と云ふ、魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を返つて仏意と成す変成仏と云ふは是なり、即身の二字は色法、成仏の二字は心法なり、死人の色心を変して無始の妙境妙智となす是れ即ち即身成仏なり、故に法華経に云はく所謂諸法如是相は死人の身、如是性は死人の心、如是躰は死人の色心等云云、文永九年月日、弟子檀那人々御中、日蓮在御判。
 
一、臨終の説き、口に水を入るゝ事。
仰せに云はく得意有り人に生るゝ時、水より生るゝなり、其の故は父母の婬は水なり、其の水最初生ぜし一念に帰る時、最後臨終と同しなり、故に最後共に水を以つて本と為す、以て舎利をそゝぐは臨終正念の秘事なり、臨終の一念に三身即一身の事、病者が有も無も起らず無念に臨終せば法身の臨終と観念するなり、死ぬるきはに生死出離の□を立て智解を起せば報身の臨終と心得べきなり、さて死にぎはに慈悲の念を以て題目を唱ふれば応身の臨終なり云云、御相承に云はく病人の口に仏若諸比丘未来世中○仏前此動心の文を唱へ入るべし。
 
土葬の事。
 
相伝に云はく三身とは境智用の三なり、釈に云はく境に就いて法身と為し智に就いて報身と為し用を起すを応身と為す文、境の字、土に竟ると書くなり、久遠寺日現案して云はく夫れ万物地より生して地に竟るなり、経に云はく一地所生而諸草木文、地とは中道真如なり、草木とは人天三乗菩薩なり、又十界の依正共に大地より生るゝなり、止に云はく一色一香無非中道、已界及仏界衆生亦然文、無量義経に云はく一法出生無量義文、一法とは真如の理なり無量義とは依正の二法なり、其の所生の無量能生の大地に帰ると説く是れ法花なり、法花迹本の二門は不変随縁の真如なり、良に以つて生は随縁真如なり死は不変真如なり、伝教大師云はく文一言妙法見開て両眼を見る五塵の境を時応す随縁真如に、閇て五眼を成る無念と時は当る不変真如に也、夫れ人死せば久滅度の多宝如来なり生るれば現在教主釈迦如来なり、一期の起用吐く所の言語は応身、転妙法輪なり、人死して土に竟る土即法性なり真如なり中道なり法身なり、境に就いて法身と為すとは此の謂ひか、又此の時土は本の土、火は本の火に帰して和合は衆生、離散は法身なり、色法界に帰れば心亦法界に帰るなり、色心法界に周遍するを妙境妙智と云ふなり、所詮生死の転変は法華本迹の徳、色心の二法は法報二身の徳義なり、此くの如く観念して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば亡者の得脱疑ひ有るべからざるなり、又案して云はく土は境なり鍬は智なり鍬は土を穿ち智は境を照らす意なり、理本有なれども之れを顕すは智、死人は境の如く導師は智の如し、死人の成仏は導師の観念に在る者なり云云。
 
地取り方の事。
 
先づ方便寿量等の勤めをなして堅窂地神の札を立て其前を鎌を以て地をなぎ、其の後袈裟を取つて札の方に威儀の方を置き袈裟を広げ、中に三所に米を祭り今此三界皆是我有の文、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩薩捨身命処文此の文を唱へて三所の米のある所を先づ中に取て、さて左右を三鎌づゝ・さて中を一鎌取て鎌起ざるまはりをはづして取つて元の如く懸くべし文、教門の日は法花の如説修行者寂光土へ帰りたまふ、堅牢地神に依地を借り奉つる、尤も実義の時は尤も釈尊の土、死人は是真仏子、四土一念、皆常寂光、当知身土一念三千、故成道時一身一念遍於法界文、豈離伽耶別求常寂、々光外非別有娑婆と観念すべし、之れにも委くは口伝有り云云。
此の書当家深秘唯授相伝也
 
編者云く房州妙本寺蔵(寛保二年了賢写本)を以つて校訂を加へ延べ書にす但し猶不明の箇所には□符を施し後賢の校補を俟つ。

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