富士宗学要集第十巻

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主師親三徳抄

大弐日寛
今此三界皆是我有(主)、其中衆生悉是吾子(親)、而今此処多諸患難唯我一人能為救護(師己)上。
涅槃経に云く、今日如来応供正●知、衆生を隣憫し衆生を履護す(己)上。疏に云く、内徳無量なり、但だ三業を挙ることに三事を明さんと欲す。初めに如来を歎ず。允に諸仏に同じ其の尊師を生ず、是れを世父と為す。応供とは是れ上福田に能く善業を生ず、是れを世主と為す。正●知とは能く疑滞を破し其の智解を生ず、是れを世師と為す(己)上。会疏第一巻十(を)。
一、今此三界とは。欲、色、無色の三界なり。是くの如き三界、十方に之れ有り。今は娑婆を指す。故に今此と云ふなり。
問ふ、釈尊の化境、実に十方に●す。故に竜樹菩薩の大論九に、是くの如き十方恒河沙の三千大千世界の国土、是れを名けて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実に一りの釈迦牟尼仏なりと(文)。曷んぞ但だ三界と云ふや。答ふ、実には所間の如し。今、三界と云ふとは出世現在の所に約する故なり。例せば閻浮提人病之良薬の如し。(文真記十六紙往見)。
一、皆是我有。有とは持なり、正の主の徳なり。
問ふ、此の品、迹に在るが故に仏は始成なり。今此の三界は劫初己来梵天帝釈第六天の所領の国なり。故に序品に云く。娑婆世界の主梵天王と。文二(六十一)に、帝釈は欲界の主と。大論五十六に云く、魔は自在天の主と名づく。福徳の因縁を以て彼に生ずと雖も、而も諸の邪見を懐く。欲界の衆生は是れ己が人民を似て復た死生すと雖も、展転して我界を離れず等(文)。何ぞ釈尊の国ならんや。答ふ、若し迹中の説は弘一上、大集観仏三昧等に云く、魔王初め来りて仏と戦はんと欲して、先づ民属に会し、次に太子に会し、三女を遺はす。皆譲ること能はず。乃ち大いに嗔忿して便ち自ら軍を領し纔に仏所に至る。魔に語て云く、我は三増祇、苦行を修集して乃ち菩提を得。汝は但だ一無遮の会を設けて報ひ天王と為る。何ぞ我と斯の戦諍を興すことを得ん。魔の云く、何を以て証と為す。手を以て地を指して云く、是れ我を知れり。当時に地神告げ、空神乃至梵世まで伝ふ。天魔降し己ぬ。不動三昧を得て無上道を成じ玉へり(己上略抄)。
取要抄第九(四)折に云く、諸経は釈尊の因位を明すこと或は三祇、或は動逾塵劫、或は無量劫なり。梵王の云く、此の土には廿九劫自り己来知行の主なり。第六天帝釈四天等も以て是くの如し。釈尊と梵王等と始めて知行の先後之れを諍論す。爾りと雖も一指を挙げて之れを降伏してより己来、梵天頭を傾け、魔王掌を合せ、三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむ是なり(己)上。
次に本門寺の意は塵点己来釈尊の所領なり。我此土安穏とは是れなり。開目抄第三(八折)に云く、仏三十成道の御時は大梵天王第六天等の知行の娑婆世界を奪ひ取り給ひき。○教主釈尊始成ならば今此の三界の梵帝日月四天等は劫初より此の土を領すれども○今久遠実成あらはれぬれば東方薬師如来の日光月光、西方阿弥陀如来の観音勢至乃至諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化は申すに及ばず、何に況んや此の土の劫初より己来の日月衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや(己)上。
梵釈等此土の主とは顕本の後に約す。但だ是れ仏の御代官の故なり。
御書卅一(五)に云く、梵天帝釈○仰がれ候(文)。釈尊は我等が親父、釈迦如来の御所領を預る正法の僧をば養ふべき者なり。
一、皆是れ我にて有り。
御書卅九に云く、経に云く三千大千世界を観ずるに(乃)至芥子の如き許りも是れ菩薩の身命を捨つる処に非ざること有ること無し(文)。此の三千大千世界は皆釈迦如来の菩薩におはしまし候ひける時の御舎利なり。我等此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等は釈迦菩薩の舎利なり。故に経に云く、今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子等云云。私に言く、立ち還つて之れを見るに菩薩とは本因の我本行菩薩道復倍上数己来なり。然れば則ち釈尊は久遠塵点本因本果己来此の娑婆世界の御主にて御座すなり。
一、末法下種の主君は蓮祖大聖人の事。
開目抄上(初)に云く、夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂主師親これなりと(文)。同下巻に云く、日蓮は日本国の諸人にしたしき父母なり(己)上。一には仏の妙法を付属するに由る。謂く神力品の結要付属の文是れなり。既に能弘の法を付す、豈に処弘の国無からんや。故に神力品に云く、所在国土(文)。薬王品に云く、於閻浮提(文)。故に妙法五字を付属して閻浮提の主と定め玉ふなり。例せば三種の神器を授け葺原国の主と定めたるが如し。
一、三種の神器の事 神璽・宝劒・内待所なり。
神璽は玉なり。天照太神の岩戸に籠り給ふ時、諸神折り申して天の香久山の坂樹の上枝にかけたる八坂瓊の御統る是れなり。
又、八坂瓊の曲玉とも申す。天照太神、素盞鳥尊と誓ひ給ひし時、御髪にまとひ付けさせ給ひける者なり。又、素盞鳥尊此の国の羽明る玉と云ふ神より受けて、後に天照太神に奉り給ふとも申すなり云云。
妙法を付属すると神璽を譲ると、其の品異なりと雖も其の趣き是れ同じ。妙法は即ち是れ●中の明珠の故なり。安楽行品の如し。
第八本尊抄(終)に云く、妙法五字の袋の中に此の珠を裏み末代幼稚の頚に懸けさしむ(文)。袋は即ち珠なり。故に●一末に云く、妙即三千三千即法(文)而るに袋中裏珠と言ふとは例せば心は即ち是れ仏なりと雖も而も心中有仏と言ふが如し云云。
宝劒とは素盞鳥尊出雲の国にて八岐の蛇を切り給ふ時、大蛇の尾の中に有りしを取つて天照太神に奉る。後、人皇に及んで伊勢大神宮にありしを、日本武尊東征の時是れを申し出し帯し給ふ。駿河国にて賊徒火を放ちて尊を焼かんとしける時、尊此の劒を抜いて草をはらひ給ひければ、火●賊徒に吹きかゝり逃亡す。是れより草薙劒とも申す。其の長き十抱ある故十抱の劒とも申すなり云云。
妙法の付属は宝劒を授くると其の意之れ同じ。
御書六に云く、法華経と申す利劒をはらみたり(文)。
又廿八に云く、此の妙法は文字は五字七字にて候といへども元品の無明を切る大利劒なり(己)上(引意)。十抱は十界互具なり云云。
内待所とは神鏡の事なり。八咫鏡とも申す。八寸有るが故なり。是れも天照太神、天の岩戸に籠り給ふ時、天の香久山の中枝にかけて祈り給ひしなり。是れは諸神はかりて日神の御影をうつして鋳給ふ鏡なり云云。職原大全一に云く、往古の神勅とは日本紀に、天照太神手に宝鏡を持ち天忍穂耳尊に授けて之れを祝して曰く、吾が児此の宝鏡を視る当に吾を視るがごとくすべし云云。愚謂へらく、曰く、天照太神初め忍穂耳尊を以て葺原中国の主と為す。此の時此の鏡を授けて云く、汝此の鏡を見る、吾が姿を見るが如くせよ。夫れより代々地神相伝ふ○古事記に云く、此の鏡とは専ら吾が御魂と為して吾が前に拝むが如し(文)。天照太神の御魂鏡に在るが故に、鏡を以て御魂と曰ふ。今の伊勢内宮の神躰是れなり(己)上(略称)。
妙法の付属亦是れ同じきなり。
御書六に云く、専ら法華経を明鏡として一切経の心をば知るべきか(文)。同八の巻に云く、法華経の明鏡等(文)。
孝真院日善の云く、明鏡相似の文御書卅一。
一、鏡八寸は一部八巻の如し。文底の眼を開く則は一部八巻、下種の妙名を顕さゞることなき故なり。
往古仏勅に云く、此の経巻に於て敬仏を視るが如くせよ云云。宛も符契の如きなり。又、八咫とは周の代の尺なり。故に韻会十一(十五)に云く、咫は説文の中に婦人の手長八寸、之を咫と謂ふ、周の尺なり(文)。今世も両種あり。呉服の八寸は工匠の壱尺なり。一尺は十寸なり。十寸は百分なり。十界互具百界千如、一幅の本尊は即ち是れ鏡なり。
外卅二(十五)経王抄に云く、此の曼荼羅を能く能く信じさせ給ふべし。日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ。仏の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経(文)。
日善私に加へて云く、釈に云く仏意即経意、経意即仏意(文)。能く能く之れを思へ云云。既に葺原国の主と為し、三種の神器を譲る。仏亦是くの如きなり。閻浮提の主と為す時、五字の妙法を譲るなり。若し然らば末法今時の主君、寧ろ蓮祖に非ずや。故に宗祖自ら云く、日本国の諸人の主君なり等(文)。二には今此の三界は皆日蓮にて有るが故に、一人に地涌の四大を具する故なり。止観尊舜見聞(注の五の巻三十三)に云く、地涌の四大士は即ち四大なり。地大は万物を育つ。清水は塵垢を洗ふ。火大は寒苦を妨ぎ、風大は九夏の熱を凉す。皆是れ本化の慈悲、本覚の所施なり(文)。仲尼の云く(古路篇三)、必ず也名を正せしや。名正しからざる則んば言順はず(文)。
今謂く、上行は火大なり、火は上り行く故なり。無辺行は風大なり、風は辺り無く行く故なり。浄行は水大なり、清浄にして東行する故なり。安立行は地大なり、地は能く万物を安立する故なり云云。見聞は且らく世間に約す。出世の利益准知せよ。此くの如き四大の利益、蓮祖一人に具する故に皆是我にて有るなり。甫記九(四)に云く、有る時は一人に此の四義を具す(文)。惣躰別躰云云。問ふ、一切衆生皆四大を具す。何ぞ蓮祖のみならんや。答ふ、四大を具すと雖も之れを覚知せず。故に我有に非ず。譬へば珠を繋くと雖も之れを覚知せざる故に貧窮下賤なり。後に之れを覚知して長者と成るが如し(五百品)。蓮祖は覚知の故に我有なり。惣勘文抄に云く、釈迦如来五百塵点の当初凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知して即坐に開悟す(文)。
本因妙の釈尊は即ち蓮祖の御事なり。位行全く同じく名字の妙法なり。例せば申鑒に、之れを前に行ふ則は古の沛w、之れを後に行ふ則は今の沛wと曰ふが如し。宗祖は末法下種の主君なること理在絶言なり。故に知んぬ。在世の釈尊は脱益の主君にして猶ほ先帝の如し。末法の蓮祖は下種の主君にして猶ほ当帝の如し。然るに諸宗の族、先帝を毀謗し勅語を蔑如す。故に宗祖は身命を惜しまず之れを折伏するなり。是れ先帝の命に由るなり。
一、諸宗謗法之事 先帝を毀謗すとは、孟子二(七十五)。
選択上(十二)に云く、第三に礼拝雑行とは上の礼拝を除きて己外の一切の諸余の仏菩薩等を礼拝恭敬するを礼拝雑行と名づく(文)。
今謂く、礼記に云く人の臣と為る者は外に交ること無かれ、敢て弐はざれ。若し他国の君に交らば我が主君に於て疎なる故なり。法然尚ほ外典に劣る、但だ他国の弥陀を敬ふのみに非ず、吾が主君を謗る故なり。罪過、軽に非ず、何ぞ之れを誅せざらん。
秘蔵宝鑰の下、一道無為心の下に云く、法華経寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位なりと(取)意。開目抄に出たり。
今謂く、寿量品の仏は久遠己来此の土の主君なり、経文の如し。大日如来は所従なり、是れ垂迹の故なり。
故に宗祖、九巻に云く、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来等の十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に影を浮ぶる是れなり(文)。貞観政要一(初)未だ身正して影曲り、上理して乱るゝ者有らざるなり(文)。是れ君は躰、臣民を影と為す。法に合して知るべし。而るに弘法は所従を敬つて主君を謗る。責めずんば有るべからず。仏祖通載十三(卅九)に云く、(中正論十九廿四丁を出す)、南陽の恵忠禅師に詔して闕に赴く○帝亦問ふ、如何が是れ無諍三昧と。答へて云く、檀越、毘盧の頂上を踏みて行く(文)。釈迦牟尼を毘盧舎那と名づくと云云。今謂く、周の穆王、慈童を寵愛す。謬つて御枕を越ゆるのに罪に依つて、尚ほ●懸山に謫せらる所況んや主君の頂上を踏む者をや。過罪至つて重し。何ぞ之れを罰せざらんや。
勅命を蔑如すとは。徳山禅師の云く、十二分教は瘡を拭く紙(文)、(中正十九廿四ヲ引)、直ちに論旨を破り捨てたるなり。
勅命に云く、諸経中王最為第一云云。弘法、違背して、第三戯論と云ふ。勅命に云く、但楽受持大乗経典(乃)至不受余経一偈(文)。不軽品に云く、常応受持読誦(文)。
神力品に云く、是人於仏道決定無有疑(文)。
法然、違背して云く、選択上(十)に云く、第一読誦雑行とは上の観経等の往生浄土を除きて己外は、一切大小顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく(文)。故に法華経を捨てて現罰を蒙る者多し。
沙石集一(廿八)に云く、千部法華経を読みたる者あり。有る念仏者に勧められて念仏門に入りて、法華経を読む者は必ず地獄に堕するなり、浅間敷き罪障なり、雑行を行ずる者とて拙き事ぞ、と云ひけるを信じて、さらば一向に念仏を申さず年来経を読みける事の悔しさよ口惜さ、とのみ起居に云ふ程に、かゝる邪見の因縁にや、悪病つひて物くるわしくして、経を読みたるくやしさ々とのみ口ずさみ、はては我が舌も唇も皆喰ひ切つて血みどろに成りて狂ひ死にに死にけり。勧めたる僧の云ひけるは、此の人は法華経を読みたる罪を懺悔して其の報ひに舌唇もくひ切つて罪を消滅し決定往生しつらん、と云ひけると(己)上。既に此の如く先帝を毀謗し、勅命を蔑如す。何ぞ誅罰せざらんや。日善私に加ふ、会疏一仏の正法を誹謗する者有らば当に其の舌を断ずべし(文)。此の所破に当る歟云云。
一、先帝預て法度を定めて曰く、涅槃経第一に云く、会疏に云く、無雑無主、家を亡し国を亡す(文)。既に主君を蔑にす、寧ろ国を亡すに非ずや。故に諸集は亡国の逆敵なり。又涅槃経(南本)邪正品に云く、若し仏の所説には順はざる者有らば、是れ魔の眷属(文)。首楞厳経に云く、我が所説の如きを名けて仏説と為す。是の如く説ざるは即ち波旬の説なり(文)。故に知んぬ、諸宗は天魔なり。
今、所●の文、次下に云く、雖復教詔而不信受(乃)至其人命終入阿鼻獄(文)。豈に諸宗倶に無間に非ずや。
而るに宗祖、念仏無間禅天魔真言亡国とは是れ別に従ふなり。但だ吾祖蓮祖聖人のみ専ら法王の宣旨を重んじ、教詔の如く妙法を弘む。先王を毀謗し、勅詔を蔑如する処の朝敵を呵責するは、是れ宣旨に由る故なり。哀れなる哉、朝敵の諸宗、無間の底に入らんことよ。喜ばしき哉、味方の信者、重く忠賞を蒙らんことを。
如説修行抄廿三(三十)に云く、日蓮仏勅を蒙り、此の土に生まれけるこそ時の不祥なれども、法王の宣旨背き難ければ、経文に任せて権実二教の軍を起し、柔和忍辱の鎧を着て妙教の利劒を掲げ、一部八巻の肝心妙法五字の旗を指し上げ、未顕真実の弓をはり、正真捨権の矢をはげて、大白牛車に打乗り、権門をかつぱと破り、彼こへをしかけ此こへをしよせ、念仏真言禅律等の八宗九宗の敵人を責るに、或はにげ或は引退き或は生け取られし者は我が弟子となる。或は責め返し責め落しすれども、敵は多勢なり、法王の一人は無勢なり。今に至つて軍やむ事なし。法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人も無く責め落して法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理り顕れん時を御覧ぜよ。現世安穏の証文、疑ひ有るべからざる者なり(己)上。
日善私に云く、初の法王宣旨とは釈尊なり。次の法王の一人とは末法宗祖の御事なり。
一、其中衆生悉是吾子 是親徳也。
文五(六十一)に云く、一切衆生等しく仏性有り、仏性同の故に等しく是れ子なり(文)。仏性とは金●論(十九)に云く、仏は是れ果人なり。言く一切衆生皆果人の性有り(己)上(文)。具に三因有り、所謂正了縁なり。
玄九(五十)に云く、凡そ心有る者は是れ正因種、随て一句を聞くは是れ了因種、指を弾じ華を散ずるは是れ縁因種(文)。此の中の正了縁と果中の法報応と同じきなり。故に仏性と同じきが故に等しく是れ子なりと云ふ。譬へば石中の火と現具の火と同じきが如し。猶ほ子の身と親の身と同じきが如し。故に悉是吾子と云ふなり。
中に於て今別して了因子に就いて具に之れを論ずべし。
先づ迹門に約すとは。玄六(五十五)に云く、大通履講に於て大乗の父子を結するを得(文)。大通十六王子の時即ち仏種を下す、豈に父に非ずや。仏種とは妙法なり。身子目連等之れを聴聞し一念の信を生ずるを即ち了因と名づく。亦是れ所生なり、寧ろ子に非ずや。文六(五十)に云く、我に従つて解を起す、是れ我が所生なり、常に大法を教ふ、故に我は是れ父なり(文)。九巻取要抄に云く、釈尊の因位は既に三千塵点劫より己来娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり。此の世界の六道の一切衆生は他土の仏菩薩に有縁の者一人も之れ無し。法華経に云く、爾の時に法を聞く者各諸仏の所に在り等云云(己)上。一には其の時節を論ず、三千塵点劫己来結縁し給ふ故なり。二には既に有縁の故に此の界に生ず、若し他仏有縁の者は其の仏国に生るなり。譬へば琥珀の塵を吸ひ磁石の鉄を吸ふが如し。故に各在諸仏所と云ふなり(己)上。迹門の所談、大通下種の意なり。
次に本門の意は五百塵点劫より己来此の界の衆生は皆釈尊の子なり。顕本己後大通結縁尚ほ是れ熟益なり。
本尊抄に云く八久遠を以て下種と為し、大通前四味迹門を熟と為す、本門に至つて等妙に登らしむるを脱と為す(文)。
故に知んぬ、実に是れ久遠下種塵点己来の父子なり。
取要抄九、此土の我等衆生は五百塵点劫より己来教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依つて今に覚知せずと雖も他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水にに浮かべるが如し。無縁の仏と衆生とは譬へば聾者の雷声を聞かず、盲者の日月を見ざるが如し。○寿量品に曰く、我亦為世父為治狂子故等云云。天台大師の云く、本と此の仏に従つて初めて道心を発し、亦此の仏に従つて不退地に住す、乃至猶ほ百川の潮海に応須するが如し、縁牽て応生ずること亦復是くの如し等云云己上(文)。一には時節弥よ久しき故。二には有縁の故に。譬意解すべし、是れ父の徳なり御書卅九に云く、観三千大千世界乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処(文)。
此の三千大千世界は皆釈迦如来の菩薩にて御坐し候ける時の御舎利なり。我等此の世界の五味をなめて設けたる身なれば又我等は釈迦菩薩の舎利なり。今此の三界皆是我有其中衆生悉是吾子等云云。法華経を知ると申すは此の文を知るべきなり(己)上(文)。本因妙の釈迦菩薩の御舎利をなめて此の身を生養すること、母の乳味を甞めて此の身を長養するが如し。寧ろ悲母の徳に非ずや。
一、末法下種の親とは蓮祖聖人の御事なり。
御書卅五に云く、日蓮は日本国の人々の父母ぞかし(己)上。同廿六に云く、日蓮は日本国の人々には上一人より下万民に至るまで三の故有り、一には父母なり(文)。
一には仏妙法を付属するに由る、所謂これを付属する所以は、末法の衆生に下種せしめんがための故なり。釈尊久遠下種の輩せは、寿量品に於て悉く得道する故なり。
本尊抄八に云く、寿量品に云く、見此良薬色香倶好即便服之病尽除兪等云云、久遠下種大通結縁乃至前四味迹門等の一切の菩薩二乗人天等本門に於て得道する是れなり(文)。又在世の輩正像二時に於いて、小権迹を縁となして在世の下種を熟脱するなり、故に釈尊下種の仏子は在世以び正像に皆悉く得道す故に末法の衆生は本未有善にして、曽つて過去の善苗無し、釈尊遠くこれを鑒て上行菩薩に妙法五字を付属し始めて成仏の種子を下さしめ給ふ。成仏の種子を下さしむるは、むしろ末法の衆生の父になる義に非らざるや。如来既に末法の父と定り玉へり、故に吾祖仏勅に応じて日本国の人々の父母と云ふなり。是れ吾祖の私に非らず、御義口伝下(六十)に云く、妙楽釈して云く、子父の法を弘るに世界の益有り(文)、子とは地涌の菩薩なり。父とは釈尊なり、成果とは日本国、益とは成仏なり、法とは南無妙法蓮華経なり。今復是の如し、父とは日蓮なり、子は日蓮が弟子旦那なり、世界とは日本国なり、益とは受持成仏なり、法とは上行所伝の南無妙法蓮華経なり(文)、此の文能く思へ、又地水火風の恵に由り世界の五味を甞めて此の身を長養す、寧ろ悲母の徳に非らずや、上に准じて知るべし。
二には父母とは慈悲広大の義なり、慈は謂く愛念いとをしむ、悲は謂く愍傷かなしむ、一切衆生六道輪廻をいとをしみかなしむなり、又大慈与楽として無漏の楽を与へんがため預め灸治を加うるなり。是れ夫の徳なり。故に慈父と云ふなり大悲抜苦して飢寒の苦を抜かしむ為に衣食を与ふるなり。是れ母の悲なり。撰時抄上に云く、法華経を弘る者は日本国の一切衆生の父母なり、章安大師の云く彼のために悪を除く、即ち是れ彼の親也等云云。されば日蓮は当帝の父母なり等(文)。諸宗謗法の悪を除かんがために、専らこれを折伏し玉ふは灸治を加るが如し、子、父を罵ると雖も而して聴かずして灸治を加ふ、是れ後の楽を与えんがためなり、諸宗宗祖を罵ると雖も聴かずして折伏を加ふ、是れ後末の楽を与へるがためなり。寧ろ大慈に非らずや豈父に非らずや。
諌暁八幡抄に云く、日蓮は去る建長五年四月廿八日より今年弘安三年十二月に至るまで廿八年の間、又他事も無く只南無妙法蓮華経の五字七字を日本国の一切衆生の口に入れんと励む計りなり、此れ即ち母の赤子の口に乳を入んと励む慈悲なり文。是れ則ち地獄餓鬼の苦を抜かんがためなり。寧ろ大悲に非らずや豈母に非らずや。故に宗祖出世己前は皆釈尊の子なり、高祖己後は皆蓮祖の子なり、然るに諸宗の族、達磨弘法法然等慈父の釈尊を誹謗し及び親の命に違背す、故に宗祖これを折伏し玉ふ。
一、諸宗謗法の事、慈父を誹謗すとは、禅家伝燈録十一に云く、滝洲国清院の奉禅師問ふ如何なるか是れ仏法の大意、師の意く、釈迦は是れ牛頭の獄卒と、五祖弘忍の云く、釈迦牟尼仏は下賤客作の児なりと(己)上。(中正これを引く)十九、今謂く文選廿八楽府の下の註善云く、孔子勝母に至つて暮ぬ苦、而して宿らずして過ぎぬ、盗泉に渇すれども飲まず去る、蓋し其の名を悪むなり。設ひ遺著の手段なりと雖も慈父を悪口する豈世典に劣るに非らずや。何んぞこれを責めざらんや。丹霞木仏を焼く事。
伝燈録十四に云く、●州丹霞天然禅師は恵林寺に於いて天の大寒に遇つて、師木仏を取つてこれを焚く、人或はこれを譏る、師の曰く吾焼いて舎利を取らん、人の云く、木頭何んぞ有らん。若ししからば何んぞ我を責めるや(文)。
丁蘭母像を刻む孝の名天下に弥る、丹霞これに反す豈不孝に非らずや。中正論十九破して云く、丹霞大寒に遇つて木仏を焚いてあたれるは一分当下に著を遺る利益ありとも、後代衆人の破法罪の因縁これより大なるはなし。
況や実は初心即仏の慢心空見邪無の弊惑なるをや等(己)上云云。黄檗修行に出でて後、母床敷さのまゝに泣き暮し盲目となれり、故に大儀渡と云く、渡にて往来の人の足を洗ふ是れは黄檗の来らば是れにしるしあれば是れをしるべく、あはんとなり或る時黄檗にあひぬ母悦んで我は汝が母よと云へば黄檗の云く、一子出家すれば九族天に生ず、天に生せずんば仏妄語なりと云つて母を川の中へ蹴入れける。
今謂く一子天魔と成るか故に九族無間に入るべし。土宗の云く、釈迦は無縁、弥陀は有縁なり、故に釈迦を礼するを雑行と云ふ。今謂く文六に云く、西方は仏別縁異なり、故に父子の義成ぜず(文)。記六に云く、弥陀釈迦二仏既に異なり。況や宿昔の縁別にして化導同からず、生養縁異なり、父子成ぜず等云云。宿昔とは大通の時なり、故に弥陀は父に非らざること皎在目前なり。而して二月十五日釈尊御入滅の日乃至十二月十五日も三界慈父の御忌日なり。而るを取つてこれを奪ひ弥陀の命日と定む、是れ高養の者か(己)上書九(四五六の意なり)。孔子の曰く其の父を敬せずして而して他人を敬するこれを悖礼と曰ふ(文)。尚外典に及ばず、何んぞこれを誅せざらんや。
御書に云く、彼の伝法院の本願と号する正覚房が舎利講の式に云く、尊高なる者は、不二魔訶衍の仏驢牛の三身は車を扶くることあたわず、秘奥なる者は両部曼荼羅の数也、顕宗の四法は履を採るに堪へず云云。此等の仏を真言師に対すれば正覚房弘法の牛飼履物取る者にもたらぬ程の事なりと書て候。悪口に非らずや大不孝に非らずや。
孝経に云く、五荊の属○三千○卯罪不孝により大なるは莫し(文)。
五荊とは墨●●宮大辟なり、墨はいれずみとよむ、ひたひを刻て墨を入る。●は鼻を切る、●は足の節を切る、宮は男根をさく、女をば幽閉とて女根をとづるなり、大辟は死罪なり。既に罪不孝より大なるは莫しと云ふ、これを思ひ知るべし。正覚房は現罰を蒙り打殺されて死せるなり。故に七帖見聞一本に云く、高野伝法院の覚鑁は法華の学者を謗じて逆罪を造るの間加持の即身成仏の分有りと雖も十羅刹女の責めを蒙り打殺され畢ぬ。脳乱説法者頭破作七分仰ぐべし、仰ぐべし(己)上。台宗貞俊の作なり。太平記十八に云く、高野山伝法院覚鑁上人行業年終れども即身成仏と談じながら猶有漏の身を替へざるを歎き、求聞持の法を七日迄行れども三品成就の何を得たりとも覚へざれば覚洞院の清憲僧正は一印一明を受けて又百日行じ智を得て習はず聞かず底を究めたまへり、此に天狗とも有る時上人の温室に入り倉をたてられあるが心躰快く絶々の楽に謡着す是の時天狗とも造作魔の心をぞ付たりける。
是れより覚え鑁伝法院を建立して己に成れり後に入定の扉を閉ぢ慈尊の出世を待つ、高野の衆徒これを聞いて何条其の御房我慢の心にて堀埋めらる。高祖大師の入定に同じからんとすべきようやある一院を破却せよとて伝法院へ押寄せ堂舎を焼き払ひ御廟を堀埋めて見るに上人は不動明王の形像にて坐したまへり。
大衆恐れず穴ことことし何なる狸狐なりとも妖ける程ならば是れにや劣るべき、よし実の不動か、覚鑁が妖けたるか。打て見よとて大なる石を十方より投げるにあたらず智の時覚鑁さればこそ汝が礫は我身に中るべからず●慢の心起かされければ一の礫上人の御額に中つて血の色潮にして見へたり、さればこそとて大衆同音にどつと笑ひ院々谷々へぞ帰りけり(略)抄。
七帖に加持の即身成仏の分は覚鑁不動の形と成る故なり。惣じて密家に三種の成仏を立てるなり。所謂理具の成仏、加持の成仏、顕得の成仏なり。これを略す、具さには伝法院記五の巻(廿五)の如し。但し彼の文に云く、加持成仏に於いて、外人の所見に非らず(文)今は大衆皆見る加持の成仏に非らず大衆の言の如く是の覚鑁の妖けたるに疑無し(是一)若し顕得成仏と言はば礫中らずと雖も何んぞ●慢を起さんや(是二)。又彼の義の如くんば慈父の釈尊は弘法覚鑁の牛飼履物取りにも及ばずと云ふ。然るに釈尊の御足より血を出だせる提婆達多は厚さ八万四千由旬の大地破裂して現身に無間に入る、何んぞ車に乗じて上●の如くなる。覚鑁が頭を七分に破たる、高野の大衆は安穏快楽にして一同にどつと笑つて院々谷々へ帰るやこれを以つて知るべし誹謗悪口の大罪なることを(是三)。故に十羅刹女大衆の意に入り替り覚鑁を打ち殺すなり、何を以つてこれを知る、謂く十羅刹女仏前に契約して云く、頭破作七分如阿梨樹枝(文)。大衆の飛礫覚鑁が頭に中つて七分に破る故なり。始めて符節合するが如し、故に七帖に十羅刹女の責を蒙ると云ふなり。
御書三に云く、真言宗は釈尊を下して大日等を本尊と定む、天子たる父を下して種姓もなきものを法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身阿弥陀仏を有縁の仏とおもいて教主釈尊をすてたり。禅宗は下賤の者一分の徳あつて父母をさぐるが如し。仏をさげ経をくだす此れ皆本尊に迷へり、例せば三皇己前父母をしらず人皆禽獣に同ぜしがごとし、寿量品をしらざる諸宗の学者畜生に同じ不智恩の者なり。故に妙楽の云く、一代教の中にいまだかつて父母の寿の遠きを顕はさず知らずんばあるべからず、徒に才能と謂ふも全く人の子に非らず等云云。徒謂才能とは華厳宗の法蔵澄観、真言宗の善無畏(文)、これに准じてこれを知れ。達磨弘法法然等豈不智恩の畜生に非らずや。
一、法然近来円光大師と号す、十六観中の第一勢至観の下に云く、勢至昔し円光囲百廿五由旬云云。彼宗の云く、法然勢至の再誕云云。今謂く宜しく猿猴に作るべし。宗祖兼て此の事を知る。十巻国家論に云く、観経等の下劣の乗に依つて、方便たる称名等の瓦礫を翫ぶ。法然房の●猴を敬ひ智慧第一の帝釈と思ふ(己)上(文)。●猴は即ち猿猴なり、弘五上に云く人有り猴及び帝釈を識らず、昔し人天帝飛行すと説くを聞き、後林中に於いて群●猴を見て是れ帝釈なりと謂つて、而して敬重を生じ便ちために礼を作す(文)。
次に師の命に違すとはこれを略す、前後に准じてこれを知るべきなり。況や復釈尊の命に背き末法下種の父母を誹謗する諸宗の末弟等地獄に入らん事の不便さよ。又如来の命を仰ぎ末法の父母を尊敬する輩の頼母しさよ。卅五一谷入道抄に云く、日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし、是れを背かん事よ、念仏を申さん人々は無間地獄に随ちんこと決定なるべし、たのもし、たのもし、此の法華経をいただき頚にかけさせ給て此の山へ登らせ玉へ若し命とも成るならば法華経ばし恨みさせ給ふなよ。又閻魔王宮にしては何とか仰あるべき、おこがましき事とは思ふとも、其の時は日蓮が旦那なりとこそ仰せあらんずらめ、又是れはさて置きぬ、日蓮が弟子と名乗るとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用あるべからず南無妙法蓮華経(己)上。
一、而今此処多諸患難唯我一人能為救護(文)。
此れ師の徳なり、先づ三界の衆生は病身の三毒五欲の為に脳さるる故なり。又盲目なり。出離の要道を見ざる故なり。而るに大道の衢に大深谷あり、又分段変易の大海有りて病身なり、盲目なり、何んぞ大道の深谷を越ることを得ん。何んぞ自ら生死の大海を渡ること得んや。而るに仏は大医師なり。此経則為閻浮提人病之良薬を与へて一切衆生三毒五欲の病を治し玉ふ故なり。故に譬如良医と云ふ、又大眼目なり。己に一切衆生をして出離の要道を見せしめ玉ふが故なり。故に無量義経徳行品に云く、大良導師大導師と作り、能く衆の生盲の為には而も眼目を作し、医王大医王なり病相を分別し薬性を暁了して、病に随ひ薬を授け衆をして薬を服せしむ(己)上。
又大棟梁なり、一切衆生仏を所依となして、六道の衢を度る故なり、故に須摩提経に云く、仏一切衆生のために大橋梁と作ると(文)。又大船師なり。生死の大海に如渡得船を浮べ分段変易の波涛を渡つて寂光本有の彼岸に到らしめ玉ふ故なり。故に無量義経に云く、船師大船師なり。群生を軍載し生死の河を度して涅槃の岸に置く(文)。既に是の如く衆生を導て常在霊山の宝所に至る故に大導師と云ふなり。此の土の衆生弥陀大日等の救護に非らざる故に唯我一人と云ふなり云云。御書二大覚世尊は此れ一切衆生の大導師、大眼目、大橋梁、大船師、大福田等なり(文)。一、末法下種の師とは、宗祖大聖人の御事なり。一には本師釈尊の付属に由るが故な。所謂妙法を付属する所以は末法下種の導師と定むる故なり。故に涌出品に云く、唱導の師云云。伝教大師註釈上に云く、但衆生の為に如応説法す故に導師と為り能く通塞を知り宝所に達す、是の故に名けて大導師と為す(文)。
如応説法とは、若し宗祖に非らざれば、是れ誰とかなさんや。捨閉閣抛の法然か。第三戯論の弘法か。能く通塞と知るは、権実本迹種脱と云云。御義口伝上に云く、唱導の師の事、本化の所作は南無妙法蓮華経なり。此れを唱と云ふ、導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり。末法の導師とは、本化に限ると云ふことを師と云ふなり(文)。
二には蓮祖は只是れ日本国の一切衆生の眼目なり。宝塔品に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼(文)。能解其義とは権実本迹種脱云云。御書十七に云く、日蓮は日月なり、眼目なり(文)。師は弟子の眼を開く豈に弟子のために眼目なるに非らずや、若し師無ければ則ち盲目なる故なり。故に七に云く、日蓮が日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり(文)。
盲目とは二意有り。
一には謂く、衆生成仏の直道を見ざる故なり。成仏の直道とは、文底下種の妙法事の一念三千是れなり。二には、末法の主師親を見ざる故なり。末法の主師親とは、下種の教主宗祖大聖人是れなり。而して蓮祖の教に依つて本因下種の直道を見、末法下種の主師親を見る。豈一切衆生の盲目を開くに非らずや。
開目抄の題号の意此に有り云云。故に高祖を以つて末法の師と定め給ふこと文理明白なり。
是の故に高祖世に出現し玉ふ。諸衆但本師の命に背くのみに非らず、亦本師釈尊を誹る是れを以つて高祖これを折伏し玉ふなり。
御書十八に云く、実に仏になる事の道は師に任るには過ぎず(文)。
一、諸衆謗法之事、本師を誹謗すとは、
禅徒の云く、牛頭獄卒下賤客作云云。土宗の云く、釈迦無縁礼拝雑行云云。密徒の云く、無明の辺域牛飼履取云云。大凡是の如く師範を嘲るべしと云ふこと外典に尚なし何に況んや内典をや。蒙求中(六)に云く、辺韶経筍云云、註に後漢辺韶名は孝、先づ文学を以つて名を知らる数百人に教授す。韶弁口あり曽て昼日の仮に臥す弟子私にこれを嘲けて曰く、辺孝先づ復便々として書を読むに懶し但だ眠らんと欲す、韶潜かにれを聞き時に応じて答て云く、辺を姓となし孝を名となす、腹の便々たるは五経の筍但眠らんと欲するは経の事を思ふに寝て周公と夢に通ず静孔子と意を同ず、師嘲けるべしとは経の典記に出でたるや嘲ける者大に慙づ云云。次に師の命に違ふとは。師命じて云く、於此経巻敬視如仏(文)。禅徒云く、不浄を拭ふ故に又瘡を拭ふ紙と云云。
御書廿六に云く、禅宗の三階の信行禅師は法華経等の一代聖教を別教と下し、我が造れる経をば普経と崇重せし故に、法華経持者の優婆夷に責められて声を失ひ現身に大蛇と成つて数十人の弟子を飲食へり(文)。
優婆夷に責められ声を失ふとは、自鏡録上に云く。慈門寺の僧孝慈年五十幼少己来信行禅師に依り三階の法を説き曚俗を幼誘す、大乗経を読ま令めず、若し読誦せば阿鼻獄に入らん、後一時岐州に在つて三階の仏法を説く、時に一りの優婆夷有り法華経を持つ、又有縁を勧めて同じくこれを持たしむ、而して禅師彼等を勧めて云く、汝等法華を持つ地獄に入ら令む、これに依つて数個の優婆夷法華経を持つ禅師の所に於いて衆中法華を持つの罪を懺悔す。元首にこれを勧む優婆夷情中忿らず。遂に大斉日に於いて禅師衆のために三階の仏法を説く、此の時座下万人優婆夷衆の中に於いて焼香発願して云く、若し法華を持つて仏意に称はざれば願くは某現身にして悪病を受け、又願くは生身に地獄に陥ち入り、大衆をして同じく見せしめん、若し法華を持つて仏意に称順せば、願くば禅師又爾らん、此の時に当つて禅師神打ちせられ声を失して語らず、更に五箇の老禅師有り亦声を失して語らず、其の前に法華を捨つる数人これに依つて則ち発心し法華経を誦す(文)。法華伝九(十九)全く同じ。
現身に大蛇と成り弟子を飲食すとは。
自鏡録上(十三)に云く、神徒福光寺の僧一時の中に於いて、惣然に命尽き、業道の中に於いて、信行禅師大蛇と作つて、遍身惣て是れ口なるを見る。又三階を学る人の死する者皆彼の蛇身の口中に入り去所を知ること莫んと見る。其の僧即活す(文)。声を失なふ弟子なれども師を推す乎、或は合するや。又仏勅に云く、若有聞法者無二不成仏(文)。善導違背して云く、但使専意作者十即十生雑修不至心の者千中無一と往生礼讃(六十)これを出す。御書廿六に云く、念仏者の本師導公は其中衆生の外か、唯我一人の経文を破りて千中無一と云ひし故は現身に狂人と成り楊柳に登り身を投げて賢地に落ち死に兼ねて十四日より廿七日まで十四日が間顛倒死し畢んぬ(文)。統記廿七(九)往見る。敏中待従が新修伝に云く、導人に謂つて曰く、此の身厭ふべし諸苦逼迫し情偽辺易して暫らくも休息無し、乃ち所居の寺柳樹に登つて西に向ひ願つて云く、仏威神驟以つて我を摂して観音勢至亦来つて我を助けよ。我心をして正念を失はず恐怖を起さず弥陀法の中に於いて、以つて退随を生ぜしめよと願畢つて其の樹の上に於いて身を投げて自絶すと云云。門伝記の中に狂人と言はず、吾が祖何んぞ現成狂人と云ふや。答えて云く道理分明なるが故なり。
往生礼讃十に云く、願くば弟子等臨命終の時心に顛倒せず、心に錯乱せず、身心に諸の苦痛無く、身心快楽にして禅定に入るが如し(己)上。導公平生に臨終の方軌を願へり身心諸苦痛無しと云へるに、既に身を投げて死せり。縦ひ覚悟すとも身に苦痛すること治定なり。己に平生本心の願の時に違せり狂乱する事隠れ無し(是)一。
又身心快楽入禅定と云へり、身を賢地に投死するは如入禅定とは云ひ難し、諸禅定の中に身を投げて捨身することを聞かず、何んぞ身心快楽ならんや。(是)二。又往生礼讃(五)に云く、上の如く念々相続して畢命を期となすとは十即十生百即百生すと云云。他を勧化するには畢命為期と釈して自らは捨身自絶すること豈狂乱の故に非らずや(是)三。問ふ十四日狂死の事亦伝記に見えず如何、答ふ吾宗の深意なり。既に上に弁ずるが如く狂死すること皎然なり。此の上にて善導臨終の日を新修伝には三月十四日と、西明寺の釈玄賜の年代録には三月廿七日とあり、然らば十四日より廿七日まで中間十四日あり、吾祖此の両説を勘へ玉へて新修伝に十四日と云ふは、身を投し日を死期と取る。年代録に廿七日と書きしは正しく死に切りたる日を挙ぐる故十四日死兼ねたりと云へり、善導死期の両説は浄土家にも諍ふこと無し。
良中伝期二(玄義分記)五に云く新修伝に云く、春秋六十有九永際二年三月十四日入寂すと、帝王年代録に云く、高宗皇帝永際二年三月廿七日善導和尚亡すと(文)。中正論八(取意)。
一、御書二六に云く、真言宗の元祖善無畏三蔵は親父を兼ねたる教主法王をば立て下し、大日他仏を崇めし故に閻魔王の呵責に預るのみならず、又無間地獄に堕ぬ、汝等信ぜん者は眼前に閻魔堂を見よ(己)上(文)。大日教疏(具縁品余下)に云く阿闍梨の云く少し時●つて重病に因つて神識を因絶す冥司に往詣して●魔王及び後尋ねて即階より降りて受帰戒を求む因つて此に却還せしに、蘇後に至り其の両譬の繩に繋持する所猶瘡痕有り旬月にして方に愈るなり(文)。義釈四止私二末(十)六啓蒙七これを引く。御書三十(初)うに云く善無畏一時に頓死有りき蘇生して語つて云く、我死ぬ時獄卒来つて鉄縄七筋を付け鉄杖を以つて散々にさいなみ閻魔宮に到にき、八万聖教一字一句も覚えず唯法華経の題名計り忘れざりき、題名を思ひ鉄縄少き許り息続いて高声に唱て云く今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護等云云。七の鉄縄切砕して十方に散す。閻魔冠を傾けて南庭に下り向ひ給ひき、今度は命尽きずして帰へらるなりと語り給き(己)上(文)。此の文を唱うる所以は三徳に背くことを悔ゆる故に又救護を乞う故なり。又無間地獄に堕つる者は臨終の相に由る故なり、色黒の故なり。御書七に云く床の高僧伝二の巻を引いて云く、今畏の遺形を観るに漸く加々縮小し黒皮隠々として骨其れ露なり云云。人死して後色の黒は地獄の業と定ることは仏説の金言ぞかし(己)上。既に先師釈尊を謗る罪報是の如し、今の師たる蓮祖に違背する罪業知ぬべし。
故に平の左衛門尉頼綱は蓮祖の滅後十二年に当つて永仁元年に誅せらる。鎌倉の代も高祖五十二年に当つて正慶二年(癸)酉五月廿二日に九代の繁昌一時に滅亡せり云云。華報尚爾るなり果報知ぬべし。当世違背の族天下に充満す、懼るべし慎むべし云云。
御書十四に云く、身は軽ければ人打はり、悪むとも、法は重ければ必ず弘るべし。法華経弘るならば死かばね返つて重かるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし。利生あるならば今の八幡大菩薩といはるるやうにいはうべし。抑一人の盲目をあけて候はん功徳申すばかりなし、況んや日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、法華経の第四に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼等云云。法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説れて候(文)。
師に礼有る事沙石六寿福寺の荘厳房法印に鎌倉の大臣殿師弟の礼を存し玉へり事云云。
三井の証空師の智興の命に代る事、画讃一(五)釈書十二(十)六。
一、蓮祖の三徳経に文証有りや、答えて云くこれあり。一には結要付属の文即ち是れなり。謂く既に能弘の法を付属す豈所弘の国土無らんや、故に神力品に云く所在国土、薬王品に云く於い閻浮提云云。故に能弘の法を付して即ち所弘の国土を譲る豈主なる義に非らずや、例せば三種の神器を付して日本国を譲るが如きなり。又己に下種の要法を付属す、末法の衆生をして成仏の種子を下さしむ、豈親なる義に非らずや。例せば玄六大通履講大乗の父子を結ぶを得と云うが如し。又既に文底の妙法を付属して閻浮提の衆生に教受せしむ、豈師なるの義に非らずや、故に涌出品には唱導の師(文)。御義口伝云云。又結要偈頌、随義如実説(師)徳。斯人行世間(主)徳。畢竟住一乗とは(是れ主徳なり)。
二には万物を生育す(是れ親徳なり)。三に冥闇を除去すとは(是れ師徳なり)。会疏二末に云く、世尊譬ば国王の諸子を生育して形貎端正にして心常に愛念して先づ枝芸を教へ悉く通利せしめ、然る後これを棄て旃陀羅に付かん如し(文)。故に御書十七巻に云く日蓮は日月なり(文)。又廿六巻に云く、日蓮は眼目なり(文)。又廿巻(三)うに云く日蓮を恋しく御座まし候はば日月を拝ませ給ふべし、いつとなく日月に影を浮かべる身なればなり(文)。二には今此の三界の文即ち是れなり。御義口伝上(三十)に云く、世尊大恩の事、世尊とは釈尊なり。大恩とは南無妙法蓮華経なり。所詮南無妙法蓮華経を下種すればなり。今日蓮も是の如く南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生に等しく授与すと(文)。又廿九に云く、釈尊は一切衆生の父なり。今日蓮は日本国の一切衆生の父なりと(文己)上略称。此の例太だ多し故に知んぬ三徳の中に吾我と言ふは、若し在世に約すれば則ち釈尊なり。若し末法に約すれば則ち蓮候なり云云。三には我亦為世父の文即ち是れなり。御義口伝下(十)六に云く、我とは釈尊は一切衆生の父なり。迹門の仏の主師親は今此の三界の文是れなり。本門の仏の主師親は、主の徳は我此土安穏の文なり、師の徳は常説法教化の文なり、親の徳は我亦為世文の文是れなり。今日蓮等南無妙法蓮華経と唱ふる者は一切衆生の父なり。経に云く一切衆生異の苦を受けるは悉く是れ如来一人の苦云云。日蓮が云く、一切衆生の異の苦を受けるは悉く是れ日蓮一人が苦と云云。又(六十)に云く、妙楽云く、子父の法を弘むるは世界の益有り。子とは地涌、父とは釈尊なり。今亦以つて是の如し父とは日蓮、子とは弟子旦那なり。世界とは日本国、益とは受持成仏なり。法とは上行所伝の南無妙法蓮華経(文)。故に知んぬ我亦とは脱益に約す、則ち本門の教主釈尊なり。下種に約せば則ち末法の蓮候なり。法華経は但是れ一経なりと雖も義に約せば三部なり、謂く種熱脱なり云云。
宗祖廿五に云く、日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし明師ぞかし(文)。故に下種の法華に約せば、宗祖の三徳経文明白なり。問ふ蓮候三徳の文理粗聞えたり。然れども其の功を論ずれば、仍ち釈尊に在り。是の故に釈尊蓮祖倶にすべからく仰いで三徳と拝し奉るべしや如何。答ふ既に唯我一人と定め玉へり。全く二人とは見えず。例せば頼基抄廿九に云く、今此三界皆是我有乃至唯我一人能為救護の文の如くならば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり(文)。唯我一人と定め給ひぬ、全く二人三人とは見えず。随つて人父二人母二人なし云云。又不軽菩薩の弘通は威音王に由る、王子の結縁は亦大通に由る然りと雖も種脱倶に不軽と王子とに有り。威音王及び大通に在らず。先例既に爾かなり、故に知んぬ、種脱並びに蓮祖に在ることを。故に今末法は但蓮祖を以つて三徳と仰ぐべきなり。
問ふ経に文証有りや。答ふこれ有るなり。法師品に云く、若し人仏道を求めて一劫の中に於いて合掌して我前に在り、無数の偈を以つて讃す、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美する其の福復彼に過なん(文)、今三重を以つて此の文を消すべし。
一には文の重、法蓮抄十五(此の文を釈して云く、貴き仏を一時二時ならず、一月二月ならず、一年二年ならず、百千万億乃至一劫が間仏前にして掌を合せ頭を低れ他事を思はず。渇して水を思ひ、飢いて食を思ふがごとく間もなく供養し奉る功徳よりも戯論にも一言継母の継子を讃るが如く、志は無くとも末代の法華経の行者を供養せん功徳は、彼の三業相応の信心一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍過ぐべしと説れて候なり。是れを妙楽大師は福過十号とは書して候なり。此の法門は仏説にては候得とも心得られぬ事なり。何んぞ仏を供養し奉るより凡夫を供養せしが勝るべき、而れども是れを妄語と云んとすれば、釈迦如来の金言を疑ひ、多宝仏の証明を軽んじて十方諸仏の舌相を破るに成ぬべし。若し然らば阿鼻地獄に落つべし。又これを信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何してか今度法華経に信心を取るべき、信無くして此の経を行ぜば、手無くして宝山に入り、足無くして千里の道を企るが如し(文)。二十巻全く同じ拝合すべし。
二には義の重、謂く下種結縁の在無に約す。大凡在世正像の衆生は釈尊下種の子なり。故に亦弟子所従なり。故に在世正像に於いて、悉くこれを脱せしめ玉ふ。末法の衆生は釈尊の所に於いて曽つて、下種無き故に本未有善の衆生と名く、故に蓮祖始めて末法に出現し一切衆生に成仏の種子を下し給ふ。故に是れ父なり。亦主師なり。例せば中間の三類は是れ王子の子にして大通の子に非らず。上慢の四衆は是れ不軽の子にして音王の子に非らざるが如し(己)上。御書廿巻(初)に云く、法師品に云く、人有り仏道を求めて○日蓮を恋しく御座し候はば日月を拝ませ給ふべし(文)。御書四(廿)うに云く、されば日蓮は当帝の父母念仏者禅宗真言師等が師範なり。亦主君なり(文)。同五に云く、提婆達多は釈尊の御身に血を出ししかども臨終の時には南無と唱へたりき、仏とだに申したりしかば地獄に堕つべからざりしを業深くして但南無とのみ唱へて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人と唱へんとすとも南無と計りにてやあらんずらん、不便不便(文)。此の意能くこれを思へ。
三には意の重、謂く妙法を広布して衆生を成仏せしめ玉ふなり。釈尊既に是れ末法の弘通を本化に付属して意易く思食めして本覚の都に還り給ふ、上行菩薩己に付属を受け末法に出現して無量の大難を凌ぎ三大秘法を広布して一切衆生をして成仏せしめ玉ふ。寧ろ下種三徳の深恩蓮祖大聖の慈悲に非らずや。御書廿二に云く、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の所なり。舌の上は転法輪の所。喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし、かゝる不思議なる法華経の行知の住処なれば争か霊山浄土に劣るべきや。妙法なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是れなり(文)。同七巻日本月氏漢土一閻浮提一同に人ごとに有智無智慧をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし、此の事いまだ弘まらず、一閻浮提の内に仏滅後二千二百廿五年が間一人も唱へず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と声も惜まず唱るなり。日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流布すべし。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり。無間地獄の道を塞ぬ文。文義意に約すれば末法今時は蓮祖を以つて主師親と仰ぐべき事分明なり。問ふ経文に但歎美持経者と言ふ。何んぞ只蓮祖の御事ならんや。答ふ御書十四うに云く、仏滅後二千二百余年が間恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ玉はず数々見擯出の明文は但日蓮一人なり(文)。天台大師尚然るなり。何に況や余人をや。如説の法華経の行者とは蓮祖一人なり。
一、蓮祖唯我一人の事。
一には主君に約す。顕仏未来記廿七云く、疑つて云く、如来の未来の記汝に相当れり。但し五天竺並に漢土等に法華経の行者これ有るか如何。答て云く四天下の中に全く二の日無く、四海の内豈両主有らんや。疑つて云く、何を以つて汝これを知る。答て云く、月は西より東を照す。日は東より西を照す、仏法又以つて是の如し、正像には西より東に向ふ。末法には東より西に往く(文)。月は三日四日乃至十五夜と次第次第に西より東に向ふなり。蓮祖日本に出現し玉ふは東より出るが如く、日本日蓮と自然の名号なり云云。
二には父母に約す。八幡抄廿七、涅槃経に云く、一切衆生異の苦を受るは悉く是れ如来一人の苦(文)。日蓮が云く、一切衆生の一切の苦を受るは悉く是れ日蓮一人が苦と申すべし(文)。文の意は在世は如来一人の苦、末法は日蓮一人が苦なり云云。
三には師範に約す。御書七に云く、かゝる謗法の国なれば天もすてぬ、天すつれば守護の善神もほこらをやいて寂光の都へかへり給ぬ。但日蓮一人計り留り居て此の由を告げ示す(文)。
同十七に云く日本の法然国中を誑惑すること長夜に迷ふ、これを明むる導師は、但日蓮一人のみ(文)。而して下種三徳に背く輩は国中に充満し謗者は罪を無間に開く、良に燐むべし。若しこれを信ぜば信者は福を安明に積まん実に喜ぶべきなり。法華伝九(三)に云く、昔天竺魔訶蛇国王舎域の中に旃蛇羅有り悪意と名く一の男子有り。初生の時衆の毒宅に雨す、号して毒意と云ふ、生命を殺害す、及び衆肉に耽けり劫盗となる。故に夜僧房に往く、此丘経を誦す、其の義を釈するに随つて即ち法華経の奥偈なり。毒意これを聞いて即ち還る、久しからずして鬼病に遇ひ吐血して死す、父母塚間に捨つ狐虎狼敢いて食●せず、己に七日を過ぎ還つて活き塚間に悲泣す、親友来つて問ふ敢いて酬答せず時に父母是奴嬪なりと云つて捨て去る、時に一の沙門有り塚間に往き不浄を見、次に毒意を見る。問ふ汝奴嬪なるか、答ふ然らず、問ふ何故ぞ悲泣す。答へて云く吾は是王舎城の旃弥羅悪意が所生の毒意是れなり。愚頑にして因果を知らず、専ら殺生を業とす。生業己に尽き初死の時八人の夜叉吾を馳つて火の車に入れ各火炎を吐いて一一に呵責す。汝閻魔の悪人なり。悪果忍びずその時五体焼折の苦痛無量なり。遍く大城に到り閻王門外に於いて罪人千万軽重を推問す。我を呵責して云く、汝宿業に依つて旃弥羅に生ず、倍々重罪を犯す報無間に有りと。云ふ時に通人有り閻王に謂つて云く、今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護と毒意己に法華の句偈を開き、罪即ち軽微なり。まさに人間に放つべし、即ち時に道人帰路を示す、七日に還活(治)す、親族に来つて問ふ皆是れ悪友なり。唯願くは慈悲を以つて吾に出家を聴し玉へ、即ち将て寺に帰り度して沙弥となす。勤行精進す諸の親族等これを聞いて発心す(己)上。何に況や信心にこれを聞かんをや。御書七巻に意く、一閻浮提総与の内仏滅後二千二百廿五年が間一人も唱へず、日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と声も惜まず唱るなり。日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流布すべし、日本国の一切衆生の盲目を開ける(師範)功徳あり。無間地獄の道を塞ぎぬ。此の主君の功徳は天台伝教にも超へ竜樹天親にも勝れたり(己)上(文)。
主師親三徳抄畢ぬ

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