富士宗学要集第十巻

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四節三益筆記詳師随聴記

 四節三益筆記
往昔仏在世の時、維摩長者と申す長者あり、年八十有余にして、仏の御説法聴聞のために参詣あり、道の間其の家より四十里隔つるなり、此の事を仏説かれて言く、聞法のために四十里の歩を運ぶ功徳、応に汝が歩足の下の土を取つて塵として、其の塵の数に随つて、一塵に一劫宛ての罪を滅すべし、乃至又世々に仏に値ひ奉ること此の塵に同じく無量無辺ならん等(已上)。時●に随つて勧進す云云。去れば戒旦の御座所亦復霊山なり、南条抄廿二(廿九)。に云く、糸心細き幽谷なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の処、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし、かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば争か霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に処尊しと申すは是れなり。(文八十四)
此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん等(已上)。然れば冨士山是れ霊山にして日蓮聖人の御魂の御坐処也、故に此に参詣し、南無妙法蓮華経と唱へば在世の維摩長者に劣るべきか、故に信心強盛に修行し仏法広流且つ又自他倶安同帰寂光の祈祷専要なり。
若し悪智識有つて邪法を勧めて、又或は父母国主等此の大法を捨て禅念仏を持つべきと言つて其の身を責むるとも、此の大法を退転する事なかれ、但恐るべきは、悪智識なり。
仏蔵経に云く、大荘厳仏の滅後に五人の比丘ありき、一をば普事比丘と名づく、二をば苦岸比丘と名け、三をば薩和多比丘と名づけ、四には将去比丘と名づけ、五には跋難陀と名づく、此の五比丘の中に普事比丘は正道を知つて多億の人を度し玉う。(蒙に云く、苦岸等の四比丘多劫堕獄の後たまたま人界へ生れ一切明王仏に値いて出家し精進すといへども少しも験なく命終の後亦堕獄せり、其の苦岸は即ち今日の調達なり已上経文なり、蒙二十六四十八)
苦岸等の四比丘は邪見に住して邪道を勧め、六百八十万億の無数の弟子旦那をして皆無間地獄に堕としき、此の六百八十万億の弟子旦那等四りの師匠と倶に生れ倶に死して多劫の間大地獄に在つて諸の焼煮を受け大劫若し尽くれば此の四りの邪師並に六百八十万億の人の此の阿鼻の中従り転じて他方の大地獄の中に生じ等(已上)、仏蔵経第三往古品の説なり。御書四十六(七)う、御書廿七 云く、例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百八十万億那由佗の人を皆無間地獄に堕せし等(已上)。
十六巻(七)う云く、大荘厳仏の末の六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘に誑らかされて、普事比丘を怨みてこそ大地獄尽劫が間無間地獄を経しぞかし等(已上)。又廿一巻 苦岸の事あり、又涅槃経に善星比丘、尼乾苦得外道に値ひ生身に堕獄することを説き玉へり、書十一 出でたり。
報恩の下 云く、大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄に堕ちぬ、此は力の及ばん程は扶けんとおぼせども自業自得果の辺、又すくひがたし(已上)。
籤三(廿四)引玉ふ、又涅槃経に菩薩摩訶薩悪象等に於いては心に怖畏無し、悪智識に於いて怖畏の心を生ず、何を以つての故に是の悪象等は唯能く身を壊つて心を壊ることあたわず、悪智識は身心倶に壊るが故に無量の善身、無量の善心を壊る等(已上)(十一廿二を引く)。
(此の文を章安大師宣べて言く諸の悪象等は但是れ悪縁にして人に悪心を生ずることあたわず、悪智識は悪を作すを以ての故に人の善心を破る。これを名づけて殺となす、即ち地獄に堕つ文(已上)。右の如く善智識の正法を失すべき故に悪智識に親近せず正法を持つべきなり。
十六 云く、天台大師釈して云く、若し悪友に値ふ則んば本心を失す云云。本心と申すは、法華経を信ずる心なり、失と申すは、法華経の信心を引きかへて余経へうつる心なり。されば法華経を信ずる人の恐るべき物は賊人強盗夜討虎狼獅子等よりも、当時の蒙古の責めよりも法華経の行者をなやます人々を恐るべきなり(已上)。
然れば信心に退転無く、息の通はんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱ふべし、又身を任するとも、心をば任すべからず者なり。
故に廿四(四十七) 王舎城抄に云く、一切の事は父母に背き国王に随はざれば、不孝の者とて、天の責をかうむる、但し法華経のかたきに成りぬれば父母国主の事をも用ひざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候等已下云云。
去れば普賢経に云く、仏三種身従方等生(文)。
涅槃経に云く、諸仏所師所謂法也(文)。
此の中に法なりと申すは、久遠の本仏の所証得の妙法にして、余事を雑へずして大法を修行し給へり。方等と申すは元意に約して、久遠最初の本因妙法を信敬し修行して成仏し玉へば此に能生の仏は久遠元初名字即の本仏、即ち是れ内薫自悟の下種仏自受用報身如来なり、此の仏の教に堕つて妙法を崇敬して修行し玉ひて三世十方の諸仏とは成り玉へり、故に仏三種の身は方等より生ずと説き玉へり(三種とは三身の事なり)。諸仏所師所謂法なりとも説き玉へり。
御書十八 云く、弥陀仏等も凡夫にて御坐ませし時は妙法蓮華経の五字を習ひてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申し正覚をならせ給へたりとは見えず、(已上)同廿一 云く、種熟脱の法門は法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏には成り給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず(已上)。
妙楽記の一つの本(四十三)云く、最初無数の時には則ち内薫自悟す。有数の日何んぞ迷を守ることを得ん。百の迷盲倶に路を知らざるが如き、一つの迷先に達して以つて余の迷を教う等(文)。
無数の時とは先仏も無き時なり、是れ則ち久遠元初の名字即の釈尊の時なり、内薫自悟とは即ち自行の本仏自受用報身所証の妙法なり、人法倶に一躰にして能化の師なり。如百迷盲倶不知路とは、所化の衆生なり、故に知んぬ久遠元初自受用身は名字の凡夫の当躰なり。如百迷盲の所化の衆生は理即の凡夫なり、本未有善の機類なり、名字即の釈尊内薫自悟して内証已満するが故に無縁の大悲止むことを獲ず、即ち最初所証得の妙法を以つて一切衆生に下種結縁し玉う者なり。
時に爰に或は聞いてこれを信ずるあり、或は聞いてこれを謗ずるあり、信ずる者は順縁となる、謗ずる者は逆縁となるなり、しかりと雖も信謗彼此決定成仏なれば逆縁の者も遠く下種と成る。終りに此の仏に値つて発心して菩提を成ず。又法門毛孔より入つて遠く菩提の種と成ると言ふもこれに同じ。
御書九 法華取要抄に云く、逆縁のためには但妙法蓮華経の五字に限るのみ、例へば、不軽品の如し、我が門弟は順縁なり、日本国は逆縁なり(已上)。
右此の順縁の中に退不退の二節あり。又逆縁の中に、中間に邪を捨て正に帰し今日霊山に捨邪帰正するとの二節有り、是れを四節の三益と云ふなり。
御書十四巻 云く、釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時、我身地水火風空の五大なりと知ろしめして、即座に悟を開き後に化他のために、世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏す等云云。
此の文の中に五百塵点劫と申すは、久遠元初の本地の所を指して云ふなり、凡夫にて御座すとは、名字即の位妙なり。
知ろしめすとは、智妙なり、我が身地水火風空とは、境妙なり、即座開悟とは行妙果妙なり、並に種が家の本果妙なり、故に本地難思境智冥合人法躰一事の一念三千無作本有の覚躰、本門の御本尊なり。又本門事行の題目なり。亦其の住所は本門の戒旦なり。
扨て此の最初所証得の妙法を聞法下種結縁するに、聞信する中の二節とは、
第一には退本取迹の人なり、謂く始めて妙法を信受すと雖も後に悪智識に値いて誑らかされて下種を退転し、六道を流転して、方に塵点劫を経るなり、爾りと雖も納種在識永劫不失と云て、久遠の下種漸々に薫被、故に仏亦影の形に随ふが如く、更に異の方便を以つて第一義を助顕してしかして最初の成熟し、漸く今日に至つて方に度脱することを得る者なり。
故に天台文第一(七)う云く、衆生久遠に仏の善巧を以つて仏道の因縁を種えしむることを蒙むる。中間に相値いて更に異の方便を以つて第一義を助顕し而してこれを成熟す。今日雨華地動して、如来の滅度を以て而してこれを度脱したまう(已上)。
妙楽記の一の本 初の一節は本の因果に種し果の後に方に熟し王城に乃ち脱す。
此の中に本の因果とは種が家の本因本果なり、内薫自悟の仏の所にて下種するなり、故に此の衆を本眷属と名づくるなり。
故に亦妙楽記一本 初の第一節は、脱は現に在りと雖ども具に本種を騰げたり、故に本眷属と名づく(已上)(文)。
故に御書廿五 問ふて云く、華厳の時別円の大菩薩乃至観経等の諸の凡夫の得道如何。
答て云く、彼れ等の衆は時を以つてこれを論ずれば、其の経の得道に似たれども、実を以つてこれを勘うるに三五下種の輩なり。
問ふ其の証拠如何。答て云く、法華経第五の巻涌出品に云く(文九五)、(記九本十七)是諸衆生世々已来常受我化此諸衆生始見我身聞我所説即皆信受入如来恵等云云。天台釈して云く、衆生久遠等云云。妙楽大師の云く、雖脱在現具騰本種等(已上)文。
第二には始終不退の人なり、謂く信心退転せず只だ久遠下種の大法を修習し玉ふ、故に本仏の近世にして得脱し玉へり。
故に天台大師文句第一 云く、久遠を下種となし、過去を熟となし、近世を脱となす、地涌等是なり(已上)。
妙楽師記の一の本 云く、本の因果に種し、果後に近く熟し、適て適世に脱せり、地涌の者を指す。故に知んぬ、地涌を本眷属と云ふとは乃ち是れ本に種し近世に始めて脱すればなり。(已上)。
涌出品に言く(妙楽師云く先に師弟を釈す)我れ伽耶城菩提樹下に於て坐して最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、しかして乃ちこれを教化して、初めて道心を発さしむ(次に所を釈す)我れ久遠より来た是れ等の衆を教化せり(已上)(文)。
此の中に菩提樹下坐とは、本地自受用身の生処なり。
天台文句十 云く、坐道場は是れ法身の生所なり(文)、謂く法身に理法身、智法身あり、理法身は理即の法身なり。智法身は自受用身なり、是れ則ち自受用身を指す、亦法身と名くるなり。最正覚とは即ち自行内証の真身の成道なり。転無上法輪とは但だ是れ妙法蓮華経の説法なり。
故に御義上 云く、無上とは南無妙法蓮華経なり、無上の中の極無上なり(已上)(文)。
爾乃教化とは聞法下種なり。
然れば所詮地涌千界の菩薩は聞法下種発心下種倶に釈尊の本因名字即の本仏の所にあるなり。所以に釈尊の初発心の弟子とは云ふなり。
故に廿五 云く、此の四大菩薩は釈尊成道の始め寂滅道場の砌にも来らず、如来入滅の終り抜提河の辺りにも至らず。乃至釈尊に随逐して久遠より初発心の弟子なり(文)。
右件の法門は当流文の底の深旨にして、文の上の法門には非ざるなり。
御書十三(十二)云く、法華経は相伝にあらずんば知り難し(文)云云。近世為世の近世とは、久遠の近世にして大通仏已前なり。
故に妙楽の云く、弥勒識らず、極近に非らず(文)、是れ若し今日の近世ならば弥勒これを識る、故に今日の近世に非らず故に極近に非らずと云へり。
さて第二久遠聞法下種の時、不信謗法の者亦二節あり、一には捨邪皈正の一類の人なり、謂く中間大通十六王子の第十六の王子の覆講法華の時初めて捨邪帰正して大乗父子の縁を結ぶなり。是れは発心下種なり。四味に調熟し今日得脱す、即ち中間逢値の第二類三周得悟の身子日連等の一類なり。
故に天台文句一 云く中間を種となし(発心下種なり)四味を熟となし王城を脱となす、今の開示悟入の者是れなり(文己上)。
御書十六 云く、されば舎利弗目連等が三五の塵点劫を経しは十悪五逆の罪にもあらず、謀叛八逆の失にもあらず、但悪知識に値つて法華経の信心を破つて権教に移りし故なり(已上)。此の御妙判に准ずるに、中間に発心して、後悪智識に値つて本心を失ひ三千塵点劫を経て今日王城に得脱すと見へたり。
問ふ然らば三五の塵点とは如何、答ふ五百塵点劫の当初聞法下種するは逆縁の下種なり、中間逢値して第十六王子の覆講法華を聞いて発心するは、即ち久遠逆縁の引く処に由る。又今日王城に来つて得脱するは中間已来の悪智識に依つて塵点を経たり、然れども永劫不失の故に久遠下種に依つて今日得脱する者なり。二には始終誹謗の一類なり、謂く三五の塵点劫を経て捨邪帰正して今日に至つてこれを信受す、是れ則ち中間逢値の第三類なり。
天台文句一 云く、今世を種となし、次世を熟となし、後世を脱となし、未来得度の者是れなり(文已上)。言ふ所の未来とは正像二時を指す末法に至らずと見へたり。
故に御書廿五(三う四)云く、仏滅後に於いて三時あり、正像二千余年には猶ほ下種の者あり、例せば在世四十余年の如し、今は既に末法に入つて在世結縁の者は、漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ云云。
謂く此の一類は久遠聞法下種の時信ぜずして謗ずる故に転々無数劫を経、六道に流転す。爾りと雖も逆縁の下種に由つて、終には皆発心得脱するなり。常に信謗彼此決定成仏と云ふ是れなり。
問ふ久遠下種の人尚今日に至つて度脱す、第一節の如し、何んぞ大通結縁及び在世下種の人末法に至らざらんや。
(書三四十二折云く久遠大通の皆三五塵点をふる悪知識に値ふゆへなり。善につけ悪につけ法華経を捨るは地獄の業なるべし云云)答ふ四節の不同有りと雖も皆久遠聞法の下種なり。而かも順縁の衆なりといへども、但悪知識に値うて退本取迹する故に三五の塵点を経て今日得脱するなり、又逆縁の下種なりと雖も、中間に発心す、是れ則ち悪知識に値つて亦今日に来り、即ち信心強きが故に入実す、第三節の人、舎利弗目連等の類なり。故に経に言く、以信得入非己智分(文)。
又御書十一 云く、昔三千塵点劫の当初大通智勝仏と申す仏います、其の仏の凡夫にていましける時、十六人の王子御座す。彼の父の王、仏にならせ給ひて一代聖教を説き給ひき、十六人の王子亦出家して其の仏の御弟子と成らせ給ひける、大通智勝仏法華経を説き畢らせ給ひて、定に入らせ給ひしかば、十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給ひけり、其の所説を丁聞せし人幾千万と云ふことをしらず、当座に悟をえし人は不退の位に入りにき、又法華経ををろかに意得る結縁の人もあり、其の人々は当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫を経たり、其の間又備さに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給ふに不退の位に入る、所謂舎利弗目連迦葉阿難等是れなり(已上)。是れは第三節の人の中間に発心結縁して悪知識に値つて六道四生を流転して今日釈尊の説法を聞いて信心を以つて入実する相なり。第四節の人の如きこれに習つてこれを知るべし云云。
若したひと久遠順縁の者なりと云ふとも、信心薄く弱き者は三五の塵点を経るべし、是れ信心の強弱に依るべきなり、故に第四節の人必ず末法に至ると言ふべからず、但し少分は有るべし。
故に御書十一 云く、猶々信心薄き者は当時も悟らずして未来無数劫を経べきか(文)、又十一巻 当世の風流を見るに末代には善無き者は多く善有る者は少し、 人皆堕獄の機のみ(已上)。然らば末法今時の中に於て一機一縁の者の為に像仏等を許すこと少分はあるべし、しかりと雖も少在属無の故に無に同ずる者なり、依つて大段は本末有善の機のみなり、故に宗祖判じて人皆堕獄の機のみといへり、脱し終れば種に還るなり、所詮末法の大綱は久遠元初下種の時節に立ち帰るなり、故に寿量品の肝心本因下種の大法を弘む可き時節なること決定せり。故に廿五 云く、今は既に末法に入つて在世結縁の者は漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ、彼の不軽菩薩出現して末世に於いて毒皷を撃たしむるの時なり云云。
天台大師文十(十二)云く、本と己に善有るをば釈迦小を以つて而もこれを将護したもう、本といまだ善らざるをば不軽大を以つて強いてこれを毒す、譬へば人の大地に倒れて大地に従つて立つが如し等(已上)(文)。書十一 同廿五、 具に解釈したまへり云云。
又妙楽記の十 云く、問ふ若し謗に因つて苦に堕せば、菩薩何が故ぞために苦の因を作くる。答ふ其れ善の因無くんば謗ぜずとも亦堕すべ、謗に因つて悪に堕するは必ず由益を得、人の地に倒れて地に従つて起つが如し文(已上)。(廿八)((九)云く日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継す故に軽段の人は頭七分に破れ信ずる者は福を安明に積む)文。
御書に云く、日蓮は不軽の跡を紹継す、彼の廿四字と此の五字と是れ同じ。又外十五 像法には南岳天台亦題目計り南無妙法蓮華経と唱へ給ひて自行のためにして、広く他のために説かず、是れ理行の題目なり、末法に入つて今日蓮が唱る所の題目は前代に異なり自行化他に亘つて南無妙法蓮華経なり(已上)(文)。
此の中に前代とは天台等を指したまふ、彼は自行は妙法の口唱なれども化他は双用権実なり。又廿五 云く、仏滅後に三時有り正像二千年には猶下種の者有り、今は既に末法に入つて在世結縁者漸々に衰微して権実の二機悉く尽きぬ、末法今の時は題目の五字を以つて下種となすべき機なり(已上)。
又同 云く、今親り此の国を見聞するに人毎に此の二悪有り、此れ等の大悪の輩は何かなる秘術を以てかこれを扶救せん、大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知して此の逆謗の二罪を対治せしめんがため一の大秘法を留め置きたまへり等(已上)。
又三十八(六)云く、天台所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり(已上)。
此の文の中には直機とは熟脱には亘らず、但本未有善の下種の機なり、権実の二機皆悉く尽きて最初聞法下種の機計りなり、故にに久遠元初の如く本因下種の妙法を以て説き聞かしめ下種をなすべき時なり、畢竟して末法下種の機に其れ二人あり、一には順縁下種の機なり、是れ則ち蓮祖の教を信じて(九巻五う云く此土の我等衆生は五百塵点より已来愛子なり我門弟は順縁なり日本国は逆縁なり)。本門寿量品の肝心たる是好良薬事の一念三千の御本尊を信敬して南無妙法蓮華経と唱る者是れなり。二には逆縁下種の機なり、是れ則ち法華誹謗の罪人なり、此の法華誹謗の罪人も一度謗罪の失に依つて地獄に入ると雖も法華経に値遇するが故に後に縁となりて即身成仏する者なり、故に此の大法をば信謗彼此決定成仏とは云ふなり。
然らば右の如く順縁逆縁あるが故に今度宗祖日蓮仏の教を信じて(若し日蓮仏を謗ぜば全く堕獄の事)猶も信心に此の正法を修行せば本門寿量品の当躰蓮華仏とならん事(四十の九をには大なる歎の下詳にす可し四けの大難の下是に挙ぐ云云)疑ふべからず全く成仏の遅速は釈迦の四節の三益に習てこれを暁らむべき者なり。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
若し他門の題目は是れ文上脱益の妙法なり。宗祖の佐渡已前の御弘通は天台伝教等弘めたまふ所の序品の上の妙法蓮華経なり。故に十九巻三沢抄(廿三)云く、又法門の事は佐渡の国へ流され候し已前の法門は但仏の爾前の経とおぼしめせ、去る文永八年九月十二日の夜竜の口にて頸をはねらんとせし時より後不便なり、我れに付きたりし者共に実の事を云はざりけりと思ふて佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり(文)。佐渡已前は日蓮仏御本意は宣べず但天台等不順の題目なり、若し佐渡已後は正しく御本意の事を宣べたまふ者なり。
其れとは開目上 云く、一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘して沈めたまへり(文)。
観心本尊抄云く、在世本門の時と末法の始とは一同の純円なり、但し彼は脱此れは種なり、彼は一品二半、此れは但題目の五字なり(已上)。禀権出界抄に云く三十一 惣じて御心得候へ法華経と爾前の経とを引き向えて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事に三の様有り、日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三は申さず候(已上)。
法華経に三重の法門とは、一には権を去つて実を取る。是れ権実相対なり、二には迹門は水月の如くなる故に有名無実なり、本門は本有常住なり、是れ本迹相対なり、三には脱迹の本門は迹中化他応仏の本門なれば従本垂迹の迹の中の一代応仏の説法なり、本門の文底の法は久遠自行内証の本門にして種が家の本因本果本国三妙同時の妙法にして余行に亘らざる秘法なり、故に文上の脱益を去つて文底下種の要法を取る。是の第三の法門は広略要の中には要の法華経、文義意の中には意の法華経、種熟脱の中には種の法花経なり、秘すべし秘すべし。            故に又三十四 云く法華経本門の観心の意を以て一代聖教を案ずるに、迹門の大教起れば爾前の大教亡ず、本門の大教起れば迹門爾前亡ず。観心の大教起れば本迹爾前倶に亡ず(已上文)。
右件の如くなる故に爾前迹門本門を去つて文底深秘の観心たる自行の大法を取つて以つて末法の正行とするなり。
上の如く釈迦仏弥陀仏等も因位の時は此の下種の要法を修習したまひて仏になり玉ふ、三世の諸仏一同なり。諸仏所師所謂法なり、仏三種身従方等生等これを思へ、故に今末法の本未有善の輩は此の法に下種して成仏すべき時なり。有り難くも爰に我れ等は其の義趣は弁まへざれども蓮祖仏の弟子となり知らず計らず下種の要法を持ち奉る、何ぞ成仏疑ふべきか。若ししかなりといへども信心弱き者は叶ふべからざる者なり。
故に十三(廿七)云く、我が弟子等の中に信心薄く浅き者は臨終の時阿鼻の相を現ずべし、其の時我を恨むべからず(已上)。
外廿五(終)云く、此の法華経は三途の河にては船となり死出の山にては大白牛車、冥途にては燈となり霊山へ参る橋なり、霊山へ御坐して艮の廊にて尋ねさせ玉へ、必ず持ち奉るべく候、但各の信心に依るべく候、信心だに弱くば何かに日蓮が弟子旦那と名乗らせ玉ふとも御用ひ候はじ、心に二つ御坐して信心弱く候はば峯の石の谷へころび空の雨の大地に落つと思食せ、大阿鼻獄は疑ひ有るべからず、其の時日蓮ばし恨みさせ玉ふなよ、返々も各々信心に依るべく候(已上)。
               已上畢んぬ。
若し畢竟して詮を取つて云はば、
第一節の人の下種は久遠元初の本仏の所にして法を聞いて信受すといへども悪智識に値つて退本執迹するが故に其の悪知識と倶に堕ちて而る後に猶を生死に流転する所に本仏の大悲止むこと獲たまはずして世々番々に迹を垂れて色相荘厳の化他の応仏となり給ひて更に権智方便力を以つて種々に説法して他を教化して成熟し後に法華経を説いて度脱し玉へり、是れは第一類の人なり(已上)。
さて第二節の人は是れ亦久遠元初無作三身の本仏より下種の要法を聞き奉つて無上菩提の大心を発して信心少しも怠転無し、たとへ悪知識来つて障●をなすとも聊かも退転無く信行したまへり、故に過去を熟となし近世を脱となすと云つて最初本仏の近世に度脱したまへり、是れ則ち本仏いまだ垂迹せざる已前の事なり。即ち本化上首上行菩薩等是の人なり妙楽大師の云く弥勒識らず極近に非ざるなり(已上)。大通極は已前にして久遠元初の近世に度脱したまへり、故に補処の弥勒識りたまはず云云。さて第三節第四節の人は久遠元初本仏のに所にして聞法すと雖も結句信ぜずして謗法をなす所の人なり、此の中に第三節の人は誹謗罪によりて多劫を経て罪を滅せずして生死に流転する者なり、爾れども久遠の逆縁あるが故に再び中間大通十六王子の覆講法華経に値遇し奉つて此に於いて大乗父子の縁を結んで発心下種して当座に得脱するもあり、又は中間にいまだ猶を尽きず還つて今日に至つて得度するもあり、此れ全く悪知識に値ふと値はざるとなり、値へる者は退大して漸く今日に至り得悟し、又値はざる者は信心増進して中間の近世に得悟したまへり。
故に天台文句七 云く、仏告諸比丘是十六菩薩の下第二に中間に常に相ひ逢値することを明す。逢値に三種あり、若し相ひ逢値して常に大乗を受けしは此の輩中間に皆已に成就して今に至らず、是れは第一類の人なり。若し相ひ値遇するに其の退大に遇ては仍ち接するに小を以てす、此の輩中間に猶いまだ尽きず、今還つて大乗の教を聞くことを得ん(是れは第二類の人なり)三には但小に遇ふを論じて大に遇ふことを論ぜず、則ち中間にいまだ度せず、今に亦尽きず、方に始めて大を受く、乃至滅度に得道する者是れなり文(此れは第三類未来得道の者なり今日霊山にして父子結縁する一類なり。)
化城品に言く、我に従つて法を聞きしは阿耨多羅三藐三菩提を為たりき。是の諸人等まさに是の法を以つて漸く仏道に入るべし(中間逢値の第二)爾の時の所化の無量恒河沙等の衆生は(弟子の古を結ぶ)汝等諸比丘(弟子今を結す、第二の衆なり。)及我滅度の後未来世の中の声聞弟子是れなり(未来の弟子を結ぶ第三類の衆なり。)
是れ正しく弟子の古今を結する下の経文なり。此の中には第二類が第三節の人に当るなり。第四節(第三類の人なり)の人是れ亦下種の要法をば誹謗したる逆縁の者なり、中間大通十六王子に相遇すといへども悪知識に値つて但論遇小不論遇大の人にして中間にもいまだ猶尽きず今日方に始めて大乗の法を受け未来得度する第三類の人なり。故に今日に至るまで始終いまだ捨邪帰正せざる人なり。第三節の人は中間に捨邪皈正して発心結縁し今日得脱するなり、具に云はば此の中に於いも又得度未得度の二あるべきなり、上の如し、さて第四節の人は三五の塵点を経て今日捨邪皈正して今日大乗父子の縁を結んで未来得度する者なり。
斯の如く四節の人に於て順逆の二縁遅速の成仏ありといへども皆本已有善の人にして久遠下種の一類なり。今末法は多分本未有善の人にして下種の要法を今始めて聞き奉る所の一類なり、故に末法当時は(日本国は逆縁なり文九の五う云く此の土の我等衆生は五百塵点より已来教主釈尊の愛子なり我が門弟は順縁なり。)釈尊仏の久遠元初の時節に立ち還つて今下種すべき時なり、前段に習て暁らむべきの者なり、若し信ずる者は順縁となりて速疾に成仏し、若し謗ずれば逆縁となりて謗罪によりて無量劫堕獄して後に日蓮仏の垂迹仏に値ひ奉つて父子の縁を結んで仏になるべき者なり。
十三巻廿八云く、今日蓮が弟子旦那等も名のみこれを仮て心中に染まず、信心薄く弱き者は設ひ千劫を経ずとも、或は一無間、或は二無間乃至十百無間は疑ひ無き者なり、信心薄く浅き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし、其の時我を恨むべからず等(已上)、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
一、前に脱し終るが故に末法は根本の種に還ること分明なり、種脱の事観心抄の下の如し云云。種とは籾米の如くなり、脱は白米の如くなり。春の時白米を種として田地に下して豈に菓の取らるべきや、故に知んぬ、籾米を以つて我れ等が新田に種を下して仏に成るべき時なり、是れ則ち久遠元初の妙法蓮華経なり。此に余事を交へば順縁の弟子旦那なりとも成仏遅かるべし、余事を交ゆる程ならば悪知識に従ふべき故に正法正師の正義を信じて疑ひ無くして本門寿量文底下種是好良薬の南無妙法蓮華経と口唱せば親子兄弟一家一族無量生の父母等、存の外に仏に成るべき事なり云云。
 当躰義抄云云
御書十四(六十三)云く、末代の凡夫此の法門を聞かば唯我れ一人のみ成仏するに非らず、父母も又即身成仏せん、是れ第一の孝養なり(已上)。同 云云。
(十一巻廿一云く我等も大通智勝仏の十六人の結縁衆にもあるらん、此の結縁衆をば天台妙楽は名字観行の位に叶へたる人なりと定めたまへり、名字観行の位は一念三千の義理を弁へたる人なり一念随喜五十展転と申すも天台妙楽の釈の如きは皆観行五品の初随喜の位と定めたまへり薄地の凡夫の事にはあらず。)
御書十二 云く、此に日蓮案じて云く、世すでに末法に入つて二百余年、辺土に生をうく、其の上、下賤其の上貧道の身なり、輪廻六趣の間に人天の大王と生れて万民をなびかす事大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡内凡の大菩薩と修しあがり一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も強盛に悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来たれるか等(已上)。此の御妙判は日蓮仏法且く示同凡夫し玉ひて斯の如く御判断あるか云云。
御書十七 云く、日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひしなり、今謗法の酔さめて見れば、酒に酔る者父母を打て悦びしが、酔さめて後歎きしが如し、歎けれども甲斐なし、此の罪消えがたし、何に況んや、過去の謗法の心中にそみけんをや、経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし(已上)。
同 云く、当世の王臣なくば日蓮が過去の謗法の重罪消え難し、日蓮は過去の不軽の如く当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し、人は替れども因は是れ一なり(已上)。
此の二ケの御文章は文の上は示同凡夫にして今生念仏者等と遊すなり。爾りと雖も文の底の実義は久遠元初の一迷先達の前を遊すなり、能く能く拝誦すべし。上件の開目抄の御文躰は正しく示同凡夫か。但しは垂迹の時の事を遊ばしたまふか云云。
 已上四節三益畢る 大石寺沙門孝察日善(在)判
右一章は明師の相伝を禀承し、将た又年来見聞の一段を加ふ、一亳も誹謗すること莫れ、此の一条を拝見せば永く堕苦を脱れんのみ。
 文句第一(七)う四節三益の下
問ふ何んの所表有つて四節に約するか。
答ふ反詰して云く、四釈は何んの所表有りや。若し処中にして其の義足んぬと(云云)、今亦しかなり今経の所説の大途に依つて大概四節を挙げて其の中に三世九世を摂するに其の義宛も足んぬ、何んの所表を求めんや。
問ふ本種現脱の一を何んぞ最初にこれを挙ぐるや。答ふ今は是れ本門の意に依つて四節を釈して以つて如来遠々の化益を知らしめたまう。故に久遠下種今日のため脱の人を先づこれを挙ぐるなり。既に第二は脱益尚を大通の前に有り、第一節に望むるに遠々の化益に非ざる故にしかるのみ。
孝今私に云く、此の義早く聞ゆるけれども又難の残る様に覚たり、既に第三、第四節の人等遠々の化益の義、顕に聞えたり、何んぞ一概にしかこれを会せんや云云。
問ふ今の久遠とは如何、答ふ記の一本 云く此の四節は且く大●を取る、本因本果より訖り中間近世今日に至るまで、竪に深く横に広し等(文)、末疏の意りに任せて本因本果を指すこと顕然なり云云。
若し私志記廿七八九の意に任せて云はば経文に塵点非算と云ふ故に此れ大通を指す意なり云云。
今謂く一向非義なり、如何となれば次の第二節の久遠とは本地を指すこと曽つて諍ひ無し、是れ地涌の種の故なり、何んぞ次の第二節と相違して大通の久遠とするや。又第三節の中間とは大通を指すこと是れ又諍ひ無し、しかるに今の久遠若し大通ならば第三節の時もまさに久遠の種と云ふべきなり。何んぞ改めて更に中間と云ふや、豈是れ久遠を簡ぶに非ずや、更に私志記に兼ねて解釈有りと雖も実に是の難通ぜり、故に非義なり、余はこれを略す。
問ふ四節に約する所以如何、答ふ四義あり、若し私志記 意は第一は迹門、後の三は本門なり。所以何となれば迹門は但一世の利益、本門は三世常住の化導なる故なり云云。難じて云く、第一を以つて迹門とすること甚だ非なり、既に久遠と云ふ、上の難問に准じてこれを破すべし云云。
若し示童記 意の云く、凡そ因縁とは応の利物の機感の得益なり、益に種熟脱有り、而るに今日の現益とは脱を正とす、傍に又種熟有り、是れ正意を示す、故に初の三節有り、兼ねて傍を示す、故に後の一節有り、初めに現脱の者を論ずるに是れ脱は必ず種熟に依る。
故に過現の初中後に約して三益を示す、是の故に初の三節有りてこれを示す、又今日下種の者三益の次第有ることを明さんとして第四有り、但し傍益の中にも熟益の義は今法華の大節の始終に非ず、故に又これを釈せずと雖も自ら顕るる故にこれを略す、故に四節なるのみ。私に云く是の義は現益の傍正に約するなり。
難じて云く、第二節は既に是れ近世のため脱の人なり、何んぞ初の三節は現脱の者と云ふや、況んや又何んぞ種脱に傍正を論ぜんや。
三益に必ず謗正を論じて四節を分別したまふ、天台の判釈にはあらず。若し強いてこれを論ずれば第一節は却つて種を応に正意とすべし。既に妙楽 云く、唯初の二節を本眷属と名づく、初の第一節は雖脱在現具騰本種と云ふ、これを思へ云云。啓蒙十八(五十已下)これを斥く。
若し中古の義に云く、凡そ今日現脱の者始終久中今の三世に約せざる則は、三益きざる故に初の一節に於て此の三世に約して化導の始終を尽す者なり。而も猶脱は以つて本となしこれを釈す、後の三節は三益有りと雖も種を以つて本となす。故に次の如く、久遠為種、中間為種、今日為種なり。是れ種の三世を挙ぐ、是れ則ち初節に始終の三世を挙ぐる故に後の三節に次の如く其の三世に約して種を明すと(已上)。
今難じて云く、今は四節ともに三益を論ず、何んぞ初一後三に種脱に傍正を論ぜんや、況んや又現脱は必ず久中今の三世に約すと言はば、惣じて現脱の者は悉く本地下種の人なりや。若ししかなりと云はば、今日の正機は経歴の二乗なり。
故に第三節の人正しく現脱の本意なり。況んや其の本種現脱は義立にして経の現文の外なり。其の所以は玄義第三竹玄義第七の如し。何んぞ今の第一を必ず現脱の本となすや。若し爾らずと云はば久遠の言は豈本地下種に非ず耶是二。若したとい種脱の傍正を論ずとも、第一も必種正意ならん、正に云ふが如し云云。
                                     若し中古の義なれば凡そ今の四節は序正流通の三段を出でず、所謂第一は序、二三は正宗、第四は流通なり、正宗の中に本迹の二あり、是れ序正流通に約して三益の義を尽すなり(已上)。
此の義を以つて心得べきなり。但し第一節の人序品得度に付いては異義有りと雖も大旨穏なり。今日雨華動地の文に付いては随問の意に准ぜば序品得道なり。若し崇抄の意に依れば第三の一義可なり。
問ふ若ししからば正宗の中に何んぞ経文の如く迹本と次第して列せざるや。
答ふ前来の如く既に初節に既に本地下種を挙ぐる故に一双して次に久遠下種の類を挙ぐるなり。釈相の次第なり。又且く脱の果に近世今世の過現の次第もこれあるべきか云云。已上四節に約して所以畢る。
問ふ久遠下種の人王城為脱の相いまだ経文に見ず、大師何んぞ此の人を出したまふか。
答ふ玄義七(廿五)眷属妙の下に意に准ずるに既に久遠下種の上行等尚を因位に在り、例知するに必ず未入位の人有る可し、故に探つて此の人の種等の益を出すのみ、此の下の真記云云。
問ふ久遠下種の人何んぞ今日に至らんや。
答ふ玄三の真記(三十三)云く、縁微少の故に、惑に厚薄の有る故に、根回らし難き故に、退して脩せざる故に塵劫を妨げず(已上)。
竹三 云く、故に知んぬ菩薩本と初めに心を発してより已後所化の衆生乃至成道已後に於て如許塵界の劫数を経て処処に成熟して方に今に実に入れしむることを。まさに知るべし、実道何んぞ易く階ふべき。況んや復た今世に猶自らいまだ入らず、尚を未来に在つて遠々に方に得ん、豈に煩悩厚重にして相性廻らし難きに非ずや。如来善巧の力を蒙らずんば何んぞ入る期有らんや、斯の妙旨を覩てまさに勤めて思ひ勤めて聴くべし。これを重しこれを重せよ(已上)。常に記憶すべき事なり。
今更に問ふて云く実に本種現脱の人経文にこれ無しと言はんや、答ふ若し宗祖の意に依るに、彷彿に経文を推尋するに、涌出品に云く、世々已来常に我化を受く云云、此の文久遠下種の人今日に至る証拠なり、此の文若しは順次に迹門の意を以つてこれを論ぜば、世々已来とは大通已来の義なり、若し逆次に本門の意を以つてこれを論ぜば、世々已来とは則ち本因本果及び中間已来の義なり。
此の両意有るを以つて、蓮祖は太田抄廿五 此の経文を引いて三五下種を証したまへり、次下に(第一節の類)天台の衆生久遠の文妙楽の雖脱在現具騰本種の文を引きたまへり。故に知んぬ、此の文久遠下種の人今日に至る証文なり、今日の中に於いて利根徳厚の者は華厳に於いて入実し尚鈍根徳薄の者は法華に於いて入実するなり。
故に天台文句九(五)利根徳厚の者は即ち華厳を禀けて如来恵に入り鈍根徳薄の者は今法華を聞いて仏恵に入る(已上)。
私に言く、此は是れ且く其の始終を挙ぐ、謂く始め華厳終り法華なり、中間三味の入実これに例して知るべし、皆是り三五下種の輩なり、又尚此れは是れ今日一世の入実なり、若し具にこれを論ぜば本因下種の人或は本因の時に於いて入実する一類これ有るべし、多分は入実せず、猶本果に至るべし、本果の時或は入実する一類これ有るべし、亦尚いまだ入実せず、尚大通に至り入実し又大通にも入実せずして今日華厳に至つて入実し、尚華厳に入実せずして漸く法華に至つて入実するものもあるべし、其の間の節々の入未入を知るべし。亦上来の入未入をば当分々々相待して徳の厚薄又利鈍を分つ。知るべし、此れ等の意玄義第三(廿二往)見。私に云く今の三世九世時々念念の三益これを思へ、又失心不失心の下の如し、斯の如きの番々の入実皆是れ本因本果の下種の人なり、豈久遠下種の人今日に至るに非ずや、真記の四故云云。故に涌出品の世々已来の文は則ち久遠下種の人今日に至る証文なりと云ふべきか。
又大師の御意も処々の大意に准ずるに此等の文意より探り出したまふとも云ふべきなり、又中間節々に新に下種結縁の人無量無辺なるべし。
問ふ迹中下種の人何の法を以つて下種するや。答ふ凡そ種子とは一念三千の妙法なり。故に円乗に限るなり、亦本迹相対せば迹門は但だこれ始覚の十界互具なり、いまだ真実の一念三千に非ず、故に本門の一念三千を以つて種子となすべきなり。故に番々無窮の下種も定めて本門の妙法を以つて下種となすべきなり。故に知んぬ本因本果大通乃至節々の下種の人今日に至つて入実す。既に入実すと雖も寿量顕本の妙説を顕はさざれば種を知ることあたはざるなり、故に妙楽記一本 云く若しいまだ仏智を得ず、猶いまだ種を知る能はず(已上)。
故に下種は但だ是れたとへ中間なりと云へども其の種子は本門所説の妙法に局る、たとへ迹門に入実するともいまだ下種を知らず、若し種を識らざる成仏は超高が位にのぼる云云。
まさに知るべし、若し下種の時を論ぜば、或は本因本果大通中間今日無窮なるべし、若し種子の法を論ぜば何時にても本門の妙法を以つて種子と定むべきなり。
宗祖廿三 云く真実の断惑は寿量の一品を聞く時なり(已上)。
第八巻 云く、爾前迹門の円教すら尚仏因に非ず、況んや阿含大日経等の諸の小乗経をや、いまだ種熟脱を知らず、還つて灰断に同ず、化導の始終なきは是れなり(已上文)。
第三 云く、真言華厳等の経々には種熟脱の三義名字すら猶無し、何に況んや其の義をや、華厳真言等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし、宗々互に種を諍ふ。予此れをあらそはず、但だ経文に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり、天台の一念三千是れなり等(已上)。
竹一末 妙楽の云く、余経を以つて種となさず(已上)。
廿五(三折)云く経釈顕然の上は私の科簡を待たず、例せば王女と下女との如し、天子の種を下さざれば国主とならず、所詮彼の経々に種熟脱を説かざれば還つて灰断に同ず、化導の始終無きの経なり。今時の学者時機に迷惑して、或は小乗を弘通し、或は権大乗を授与し、或は一乗を演説すれども題目の五字を以つて下種となすべきの由来を知らざるか(已上)。
 右是れ等の一条は台門に所用を成ぜずと雖も因にこれを出す、口外に及ばざる重なり。経に言く、仏種縁起是れ故に一乗を説く(已上)。
衆生久遠、仏の善巧を蒙る等。
随聞 云く、善巧とは方便の異名なり。此の意は三教を指して善巧と云ふなり。此の例文玄一(十九)竹一末(九)云云。若し崇抄の意は善巧の言は必ず三教ならん、玄文の巧為、今の文の善巧、惣じて仏の化他を指して善巧と言ふなり。竹三(五十)如来の善巧の力を蒙らざれば、何んぞ入る期有らん云云。此の文豈三教ならんや、竹九(四十三)善巧利他等(已上)。
或師の云く、惣じて善巧の言は三教を指し、或は化他を指す、一准なるべからず、中に於いて玄文竹文等今の文は崇抄の如し云云。
今私に言く、或は四教とし三教とする事、金山抄等に准ずるに与奪の両判有るを以て各妨げ無し云云。今の文の意は広く四教の法を以つて機を調へ、扨て一仏乗に於いて衆生のために仏因を種せしめたまふに今善巧と言ふなり、又既に本地の機に万品ある故に円乗を以つて直に下種せしむる類有るべし、豈に是れをも善巧と名づけざらんや。所詮豈師可なり。
令種仏道因縁。
或は云く、令種の種を以つて下種の種に合すべからず、今の種は弘一下(四十九)云く、仏の種子を下し衆生の田に於いて正覚の芽を生ず云云。さすれば下の字に当るなり。仏道因縁の言は下種の種に当るなり例せば人記品の於此仏法中種仏道因縁のごとくなり。種仏道因縁の言は下種の種に当るなり云云。(下に当り)今種(種に当るなり)仏道因縁。
並に下種は法華に限る事。
金山三(九)同五(七)諌迷四(八)玄私末(四)往見。
竹二 云く、法を聞くを種となす、発心を芽となす、賢に在るは熟の如く聖に入るは脱の如し(已上)。
御書廿三 云く、夏は熱く冬はつめたく、春は華さき、秋は菓なる、春種子を下して秋菓を取るべし、仏法亦復是の如し等(已上)。三益に配して談ずべし。
種の字、経に云く則ち断一切世間仏種等又仏種従縁起等と云ふ(已上)。
弘一下(四十九)華厳を引いて云く、仏の種子を下し衆生の田に於いて正覚の芽を生ず(文)。
竹一末(九折)云く、調停の種を下すを復た巧為と云ふ、所以に中間に七教を受けるを得て、長養調伏せり、調に由つて而して熟するを名づけて調熟となす等(已上)。
記七(四)云く、大乗の心を発するは種の如く、二乗の心を発するは草木の芽茎の如し等(已上)。
記五本(廿三)云く、納種在識永劫不失(已上)、是れ等種名譬に約する明文なり。
次に熟の字、文九(五当熟当脱果熟易零)云云。大論七終、同(廿三、廿四)云云。
次に脱の字、玄随二 云く、脱の義いまだ詳かならず、大論二(廿)云く、仏心種子後世田中生ぜず無明の糠を脱する文、此等亦熟益脱益と云も譬に従う義なり、啓蒙十八(五十)私志記二玄二(四十九)譬へば田家の如く先種し先熟す等(已上)。
愚案十七 云く、惣じて下種結縁の始めより得道の終りに至るまで種熟脱の三益有り。此の三が仏法の肝心の法門なり譬へば春米の種子を田地に下すが一衆生有つて初めて師の説法を聞き信心肝に銘じ能く納得して成仏の種を心性の田地に植え付る是れを種益と云ふなり。さて次に熟益と云ふは聞法発心したる儘で打ち捨てば詮無し、其の数を朝夕修行し練磨するを熟益と云ふなり。釈尊の成仏も積功累徳とて功を積み徳を累ねて仏になりたまふなり。譬へば春植えたままで打ち捨てば稲米をそだたず。蓼葉をぬき嫁苗を養ふと云つて草木を取り水を入れて養育する故にそだつなり。是れを熟益と云ふなり。さて脱益と云ふは終に修行の功積つて正しく成仏するを云ふなり、譬へば秋収冬蔵と云つて春植え夏耕したる功に依つて秋一粒万倍して苅り取つて蔵に収むる如くなり。此の三益の始終が一にして最初下種の仏菩薩に如影随形の熟益にあずかりて終に其の仏菩薩に値て得道するなり。但し熟益は余仏に亘れども種脱は一双なり等(已上)。
今私に言く下種と云ふとは、応に約し人に約するなり、種子と云ふとは法躰に約するなり。因縁とは、私に云く感応由籍の中には感応か。記の一の本 云く前には直に三時に寄せて感応の人に対して以つて種等を明す(文已上)。
中間相値、第二番已後今日已前を中間と云ふべし、若し委しこれを論ぜば記の下の如し云云随義なり。
更以異方便。
弘三中(四十五)通別有り、別しては三蔵、通じては三教なり、弘六末(卅三)通の義に同ず今の本疏又通の辺なり。私に言く惣じて爾前の四教を異方便と言ふべし善巧の言の如し云云。
問ふ異の字の貌如何。答ふ止随三末五云く、異とは一実躰に異する処なり、是れ則ち躰外の意なり。更とは一実躰を教えるに其れを悟らず亦更に異方便を以つて助顕するなり。
今日雨華動地。
真記(十八)随聞(五十三)並に序品得道と云云、是れ二意を以てりなり、謂く一には雨華等の言有るが故に、二には三段に相配する時第一は序第三は正第四は流通と云云。
崇抄に随聞を斥へり云云、一師評して云く、序品得道の有無を弁ずべし、先づ有無両途なり。若し文に約せばこれ無き故に竹六(七十六)序の中の益を言はず、上の記 諸品は多は是れ結集の者置く所なり、聞品の益無きを以つての故に(已上)。輔記 真記 。
若し道理に約せばこれ有るなり。此れに大段七重を以つて心得べし。
一には衆生得道の因縁一に非ざるが故に、大論七(廿七)云く、衆生得道するの因縁同じからず(文)、竹八 名疏十(十四)真記 これを引く。
二には時々念々に種熟脱有るが故に、竹一末十を云く、世々時々念々皆種等の三相有るが故に。今の記 其の間節々に三世九世を作して種となし熟となし脱となす、亦まさに妨げ無かるべし(已上)、本疏 なり。
既に節々にこれ有豈序の中にこれなからんや、記 云く、故に知んぬ尽未来際までに三世九世の種熟脱の三あり等(文)。
同 云く、既に其れ倶に種等を生ず、則ち知んぬ字々句々会々味々世々念々に常に衆生のために一仏乗の種熟脱を作す等(已上)。先き大段此の二重の道理を以つての故に序品の中に於いて又必ずまさに得道有るべし云云。
三には正しく序の中に文無しと雖も其の理有る故に、記 云く、無量義経を説くが如き、種等の三益を得る不同なり(文)。
又悦可衆心の文を入実に約して釈するが故に文三(廿五)入実を以つて悦となす。
同(六十四)記の三下(七十二)今随聞 随三末(九十一)。
又大品の瑞に例する故に、大論(八十二)云く、福徳多き者光を見て得度す。罪垢深き者地力に乃ち悟る(已上)。初の一重は記に引いてこれを挙ぐ、後の二重は真記 これを引く、此の文理を以つての故に序品の時必ず瑞縁に依つて得道有るべき者なり。
四には今の序に於いて必ず得度の者有る理なり。一には序等の三段に各三益を論ずるは正しく因縁の相なる故に記 云く且く三段を示すに即ち種熟脱あり、然るに種等の三亦すべからく序等の三法に約して以つて因縁を弁ずべし(已上)。
二には序等の三は必ず種熟脱の処従の法なる故に序品の時に於いて得度を闕くべからざる故に記 。若し唯序等ならば則ち過未の因果を階降することを無けん。若し唯種等ならば聞くに所従無けん。種等の三、序等の三に於てするは所従の得益不同なるを以つての故なり(已上)。
輔記 云く、序等の三段に約して以つて其の益を明さずんば何の処に於いてか此の種熟脱を得ん(已上)。三には妙経の序等の三段は三益のために本となる故記 云く、節々重々極り無けれども終に仏乗の三段を以つて本となす(已上)。
故に今の序の時に於いて豈に得道する者の無けんや。
五には正しく今の序品に於いて得道有り。文証一には今の本疏に且く三段に約して(序等なり)。因縁の相を示す(已上)。因縁の躰とは豈に種熟脱に非ずや、是れ序に得度有りと云ふに非ずや。並に下(十)う已でに三分に約して(序等三)四種の相を示す(因縁等の四釈なり)此の票結の一意なり。
二には記 且く三段を示すに即ち種熟脱あり(已上)。三には記 種等の三、序等の三に於けるは所従の得益不同なるに於いての故なり。(已上)。
四には記 別序は五が中に節々に益異なり。無量義を説くが如き、密に種等の三益を得ること不同なり、故に定を覩、光を見、地動を覚り、雨華を蒙り、乃至問答するに亦種等の三益有りとしるべし(已上)。分明に序を縁として益を得云云。
六には是の文理を以つての故に今の初節は正しく序の得道なり。故に雨華等云云。後の三節は分明に正宗流通の相なり、故に初節は序品に配すべし云云。
問ふ若ししからば本種現脱の人必ず序品得道に限る所以如何。
答ふ上の如し。必ず序の時に限るに非らず、此の人亦正宗に至るべし、謂く本因本果従り已来竪に深く横に広くして乃至未来永々不絶の理なる故に豈に正宗に至らざらんや。故に今に初節と第三と互現なり。種脱の互現は啓蒙十八(五十一)往見、熟の互現は、私志記 前則通じて其の時等を挙ぐ、及び此の其の法等の挙ぐる言を借る可し、此の初節も二番より大通中間及び今日前四味を熟となし、第三節も大通より及び前四味を熟となす。しかれば何んぞ本種の人序の得道に限らんや。故に序品は必ず局て本種とすると謂わんとには非ざるなり。只是れ得道の場なり。序の意は正しく正宗のためなり。故に結帰は是の得度亦正宗の由とするべきなりこれを思へ。
然らば所詮上件の六重の文理を以つて序品の得道ありと知るべき者なり。此の中に初の二重は是れ惣じて何れの時処なりとも機類万差なれば熟する則んば脱すべき故に時々念々の益有り、しからば何んぞ序の時これ無しと云はんや、是れ惣じて有るべき道理なり、第三は別して序分に於いてこれを分つ道理。第四は正しく今の序、第五は今の序の証文。第六は遮難。付けたり、序の得脱は其の義となるなり。正宗等は其の所説の経力に依り及び機熟の故なり、今結して云く此の如き先づ随聞親切なり、然りと雖も随聞是れなりと謂ふには非らず若し序分得道の道理を立てては是の如きか。
付けたり、本種の現脱の人今日に至る事上来の真記云云。
御書三(四十三折)久遠大通の者三五塵点をふる悪知識に値ふ故なり(已上)。
同十(五十九)云く、大通結縁の者三千塵点劫歴しは法華経を退いて権教に遷りし故なり、此れ等の御書は四故の外ならんか、或は退いて修せざる故の一句と同じきか。私に云く、羽翼(廿四)止私四(廿六)を引く、右の御書に同じ云云。
付けたり、種類相待の二種の事、文七(廿五)記七(三十一)又仏法僧三種の事、弘一下(四十九)又下種の名義上来の如し。
又種脱一双の事、玄私記六(廿七)中正論上来の如し。
近世為脱。
近世とは真記の如し久遠の遠々に望む故に近世と云ふなり。而も今日よりも遠近を云ふなり。久遠に近き故に近世と云ふと謂ふには非ざるなり。久遠に望めば尚遠世と云ふべきか。処々意同じきなり。正しく何れの時を指さんや、真記の意粗大通の前に有るべし既に弥勒これを識らず故に真記の如くなり。
問ふ今日の脱にあらず、何んぞ此の人を挙ぐるや。答ふ、随聞に真記を斥けて云く、更に経の中に彼の遠益の相分明なり、故に出す云云。
又中古の云く、随聞又穏かならず、若し分明の故にと云はば、化城品の三類の中の不退大の人亦是れ其の相分明なり、何んぞ彼れをも又挙げずして別して地涌を挙ぐるや。故に今謂く地涌の菩薩は是れ現を示し当を益するの本躰なる故に別してこれを挙ぐるなり云云。又一義に中古を斥けて云く、今は化の化導を釈す何んぞ弟子本躰の功に約して以つて今の文を消する、甚だ不可なり。
更に云く、上に三段に配する所以の義の中の第四の中古の義に准じて謂く、中間の二節は正宗の得益を挙ぐ、是れ則ち迹門は四一を以つて得益を論じ、本門は増損を以つて得益となす。若し地涌の増損を除けば顕文に得益の文これ無し、故に別にしてこれを挙ぐ、是れ近世為脱なりと雖も本門は分別品に於いて二往已上増損の益を得。これを思へ、故に、
示記 云く経の中に既に地涌の一類を挙ぐ、若し彼を挙げざれば経文処説因縁尽きず故に別して挙ぐるのみ、此れはまさに右の一義に当るべきか。(已上一義)。今私に云く、此の一義疑ひ有り。
既に増損は今の所論に非ず。上の如し今は是れ入実の論なり、しかるに何んぞ本門増損の故に別して地涌の一類を挙ぐるや。彼れに与へて義の如くなりとも問難に酬へず、今所論の難勢は今日現脱にあらず(何んぞこれを挙ぐるや今の大旨は豈に現脱に非ずやと。問ふ現脱是れ入実なり。)然るに増損を以つてこれを会せば是れ今の本意に非ず、論の限りに非ず、重難せん、しかれば畢竟してこれを会する能わず。
又増損を除き顕文に得益無き者は地涌自ら益を得たりと言はずと云ふや、将に仏得益せしめたる文無しと言ふことなりや、両向倶に疑はし、涌出品の爾乃教化之初発道心今皆住不退悉当得成仏の文此の文に異義有りと雖も所詮先づ初住入実の義は諍ひ無き依文なり。
此の文豈に応より得せしめて又地涌益を得たりと言ふに非ずや、何んぞ顕文に無しと云はんや。
又神力品の我等亦自欲得是真浄大法もこれを思へ。若し或はこれを会して涌出品の文は是れ今日入実の義に非ずと云はば、又反詰して増損も又地涌の今日初めての入実と云ふには非ず如何。
又示記を引類することいまだ穏ならず彼の意に当らず。示記は既に若し彼れを挙げずんば経文所説の因縁尽きざる故と云云。因縁とは何物ぞ是れ種熟脱に非ずや、脱は是れ入実にあらずや、示記の意は増損を論ずるに非ず、しかるを何んぞ増損の義に類するや、示記の意に当らず。
汝既に中古の義を難じて今は既に仏の化導を尽す、劫つて此の難意を以つて今の論難に酬ゆるには其の会当るなり、所謂今は仏の化益の始終を尽す故に現脱に非ずと雖もこれを挙げて以つて因縁の相を顕はす、経文に爾乃教化之令初発道心等と分明に得益これ有ればなりとこれを会せざるや、何んぞ直徹せずして直至一部の処を置いて数十町の道を廻るや(已上)。上或は衆の一義信じ難し云云。
今謂く只是れ今経所説の大途を挙げ其の種熟脱の相を知らしむるなり、何んぞ得道の場所を論ぜんや。余も亦これに例してしかなり云云。
地涌等是也。
問ふ地涌は是れ最上利根の人なり、故に但一世の中に三益を得べき義なり、爾るに何んぞ三世に経て種熟脱するや。答ふ或る師の云く二意有り、一には始終不退の中に於いて亦まさに三根有るべし、若し其の極上根は本果の時に於いて已でに得無生し(已得無生とは是れ正経文なり今真記)中根は果後一両世の間に脱すべし、しかるに近脱とは最下根の人に約す、経文に今皆住不退と説きたまふ下根近脱の人なり、是れ則ち経説は多附下根の故に而も上中下の人無きに非ず、彼の釈亦下根に約す云云。
二には本種の菩薩に於いて智増悲増の二類有るべし、(私言涌出入文崇記)其の智増の人は、或は本果、或は果後一両世間に、或は無生を得或は極果に登るべし、若し悲増の菩薩は化他を専とし、自らの得脱を専にせず、是の故に今世に近じて得脱するなり。
今の経釈は只是れ悲増の一類に約する故にしかなり。是れ観行已去化他を論ずる故に初住已前にも悲増有るか(已上)。
謂く初の意は始終不退の中に於いて三根を論ずるか、若し本種現脱の人は経文にこれ無き故に置いてこれを論ぜざるなり。
若し亦惣じて本種の人に約して広く機類を収むれば既に今日現脱の人真記の四故の如し、故に是れ下根なるべし、尚亦未来に至つて脱する人有るべし、是れは極下根の人成るべし、竹三(五十六)まさに知るべし、実道何んぞ易く階べし、況んや復今生に猶自らいまだ入らず尚未来に在つて遠々に方に得ん、豈に煩悩厚重にして根性廻し難きに非ずや(已上)、若ししからば近脱の人は亦た中根と云ふべし(已上)。
さて右の二意中に後意はしかるべし、初意は今の地涌等是れなり中の最下根と云ふ。予は疑しきなり。経文には勿論文義倶に見えず、但判釈の中に今日の地涌を惣じて最下根と立てる相似の文釈なりともこれ有りや、いまだ審ならず、但無量無辺の本化の衆の故に、其の中に亦機類万差の故に尤も三根有るべし、理はしかるべし、しかりと雖も始終不退の中に三根を分け今日地涌の大士は、其の中の最下根とは如何、其の理ありや、先づ経文の相は、四大上首並眷属の大士都て弥勒さへもこれを識らずして仏に問ひ上る、畧開の中に仏答ふの相は我於伽耶城菩提樹下坐得成最正覚転無上法輪爾乃教化之令初発道心と説法したまふ、然らば今の地涌の大士久遠に発心得脱せしめたまふ相なり。此の中に於いて我於伽耶城とは寿量品の顕本により還つて仏意を窺へば、仏意恐らくは久遠本地の娑婆伽耶城なり。しかりと雖も現事今日始成の時の伽耶の故に弥勒重ねて疑ひを越し畢る、然れば涌出品の経意尤も仏最初第一番の時の最初の弟子なり、其の中にも上行等は上首と見へたり、経文の次第を拝見して経意を探るべきなり。これに依つて本疏九 上行等を召の三義の中の是れ我が弟子応弘我法の釈意、経文の此れ等是れ我が子も其の意、今の上行等は本化の中の頂上最勝の上首と見へたり。熟らこれを思へ、然るに何んぞ本化不退の中の最下根と云はんや(是)一。
若し最下根なりと云はば、已に此れ等是れ我が子の故に我が法を付属す、輔記六(十二)法是れ久成の法なるに由つて久成の人に付すと云ふに准ずるに、久成の法とは、何んぞ是れ寿量所説の本地難思の妙法に非ずや、此の本地甚深の奥蔵は是れ一代の中に分絶し今経の中の大事、如来の極意秘密、真実の中の真実已証にして久遠所証の法躰余になき一大事の重宝なり。故に付属尚九代の師の影響衆の文殊菩薩を始め応生迹化の菩薩をこれを除く、猶又補処の大士すら許さざる所の法躰なれば五類の発誓も許したまはず、簡び斥けて方に下方の空中自り召し出したまふ大菩薩なれば、豈に最下根ならんや。会して尚下根あるべし、得脱近世に至ればなりと、其の上根は或は即也、或は二世三世に入実し及び等覚に登り是れ勝たる上根は速疾なり、根劣るるは遅々すること三類の如し、如何んぞ近脱を最上となさんやと云はば、近脱は悲増の故に自行の脱を務速せず。近脱には正に上下倶に有るべし、下根は常の如く根廻し難し、故に多世を経、上根は悲増の故に脱を務がず、次に当抄に即世或は二三世に妙覚に至る。是れ智増の故に然も妙覚登至の衆は今に来るべからざる所以は玄七の云云、平生の大綱久成の大法の故に第一番の成道の時所化の中にも最上惣領たる利根の弟子に付すべし、文殊等に許したまはざるを以つて、これを思へ、若し深く得意せば本因最初の弟子ならん。惣じて本化の中の大将ならん、何事にか下根の名を与へんや恐れ有り(是)二。
又経は多附下根とは正しく所破の機に約するか、何んぞ其の説の時、上中無からんや、今皆住不退とは異義有りと雖も彼の下崇抄可なり、是れ初住不退なり、是れ近脱の相なり、是れ悲増の故に下根なる所以に非ず、既に如来双答の時是の諸の大菩薩は無数劫従り来た仏の智恵を修習し昼夜常に精進し仏道を求むるための故に娑婆世界に在つて下方空中に住す志念力堅固にして、常に智恵を勤求し種々妙法を説く、其の心に畏るる所無し云云。是れ其の徳に至つては、説法等惣じて諸の大士に越へて説法す、豈に悲増の故なるに非ずや。能々これを思へ、多所下根とは法華経は二乗のためと云ふ類なり。甚だ経意に違ふか。又彼の今皆住不退の経文は仏弥勒に答ふる文にして敢へて本化下根と云ふにあらず、対告の故に、若し下根なりと云はば弥勒何にか又下根ならんか(是)三。故に前の問、来たらば悲増の故に多劫を経て得脱すと云ふに何んの妨げ有らんや、初意は其の便を求めんとして却つて本化を蔑如するに当るか。故に彼の義は一向無用ならん、且く当位の愚推なり、難も不当有り、但だ琢磨のため筆を費す(已上)。
復次今世為種等。
問ふ今経に於いて但種脱を挙げて熟益を論ぜざる所以如何。
答ふ私志記二(廿九折)云く、問ふ若ししからば此の経には熟の義無きや、答ふ斯の旨信とに幽かなりとなす矣、諸の方便即ち是れ法華の能なるを以つて七種の皆方便と名くる所以正しく此に在り、彼の華は是れ蓮なるが如き故なり。
故に法華の下種を用ひ、終に法華の度脱を用ふ。中間は即ち法華方便成熟を用ふ、本に従ひ意に従ひ、法華に非ざること無きが故なり。然るに此れ且く文に約し、別して説く、若し義通ぜば皆これ有り、宜しくこれを思ひこれを見るべし。
意の云く義通ぜば三益倶に有り、しかりと雖も今経に熟を云はざる事は其れ四味調熟の本意は法華一乗の種脱の為に設くる故に功法華に有り、故に別してこれを挙げず是れ本に従ひ法華に非ざるはなし。今は只義通文別なりと(已上)。
又一義に云く、大段は私志記の如し、しかも今経は、種脱は正、熟は傍なり、傍の故に四味に譲るか云云。
今謂く此の義は偏なり、若し五時経歴の正義に約すれば今経は熟傍なり、然るに今経の三益只爾らんや、上の記 定を観、光を見、地動を覚り、雨華を蒙り、乃至問答するに亦種等の三益有り、○況んや正宗をや(已上)。
下の記 三段既に其れ倶に種等を生ず(已上)、故に今は四節に約す、只正義のみなるべからず、故に先づは只私志記の如く経の顕文に従ふに、三周得益は脱なり、五千起去の上慢等は種の顕文なり。故に法華に熟を言はず、しかりと雖も義通ぜば熟益無きに非ず。何んぞ傍と云はんや。竹二 聞法を種となし発心を芽となす、賢に在るは熟の如く聖に入るは脱の如し(文)。
或は云く、今は大判に約す、法華は種脱の経、爾前は熟の経か、故に大判に依つて四味を熟と主し付けてこれを挙ぐ云云。
此の義可なるか更詳。
追下の記 此れ降りの外、余は皆種熟なり、故に未脱の者は益流通に在り、故に遠霑妙道と云ふ(已上)。専ら法華に約して種脱を論じて熟益を論ぜず、而も惣じて上には三段に於いて三益を論ずる事何んぞや。
答ふ各々所以有り、別してこれを論ぜば法華は但是れ種脱の経か、而も亦機未だ脱せざる者には又是れ熟益ともなるか、始終円人ごときこれを思へ、別しては余経のみ熟益の経なり、亦私志記の意は別意の中に本意に約する義を成ずるかこれを思へ。
雖未是本門取意説耳、随聞私志記不可なり。
今謂く凡そ始め如是より終り而去に至る、皆四悉を用ゆると雖も且く因縁約教は迹門の意に依り、若し本迹の釈は本門の意に依り、観心の一釈は或は迹門、或は本門に依る。既に因縁釈は迹門に約すべし、しかるに本門に約して因縁の相を釈する故に此の言は有るか。故に通別の中には別意有り云云。又能釈所釈の中には本門の言は正しく是れ所釈か、何んぞ直に本迹釈と云はんや。
妙楽の(三十七折)云く、今因縁を明すに文の次第に准ぜば且く迹に在るを合し、探つて本地中間に約するとは正しく本迹を兼ぬ。一部の相を示すことは後の文意を取り、化儀の意を取るなり(已上)(文)、所釈は後の本門の意なり。
其の間節々。
意の云く、久遠中間今日未来の其の間の節々なり。故に重々無窮の三世九世の種熟脱これ有るのみ、何んぞ但四節のみならん。竹六(十七)。又玄一(十九)。弘一中(五)。今の妙楽(三十六七)云く、此の四節は且く大●を取る。本因本果より訖り中間近世今日に至るまで竪に深く横に広し。何んぞ但四節ならん乃至未来永々として絶えず等(已上)。
末三十六折う初一節本因果種果後方熟王城乃脱。
輔記の意は或は一人に約し、或は本因下種し、本果に下種するとも見えたり、此の時は後の字、機に約すると見るなり。
随聞の聞法発心合するの義を正しく説くならん云云。
又崇抄の意は輔記の義はしからず多人に約するに是れ或は本因に下種する者もあり。或は本果に下種する者もありと見たまふなり。多類惣じて挙ぐる故なりと云云。輔記を斥り云云。
一師評して云く、崇抄可なり、一には機類を論ずるに多類有るべき故に、或は本因に下種し本果に下種する者あるべし、しかれば多類に約する事最も然るべきなり。二本疏の下の如し云云。
問ふ既に同じ是れ王城為脱の人なり、脱既に同時に有り、下種何んぞ異時ならん、答ふ中間下種の人既に王城に脱す、脱の同時を以つて種の異時なることを妨げんや、若し本因に下種し又本果に発心下種すと云はば、全く地涌に同じ、何んぞ近世に脱せざるや。況んや真記の四故聞法微縁の人に約すると見へたり、これを思へ、故に第一の人は聞法下種に約すと見えたり、第二の人は先は発心下種に約す、是れ則ち経文の相は分るるが故なり、発心結縁することは必ず聞法に由るが故に惣じて本因果種と云ふか。真記の意見るべし云云。
果後方熟。
輔記に第一番の中の亦有八教の設化を指して果後と言ふなり、若し本因下種の人に約せば則ち此の義有り、随聞何んぞ此の義を難ずるや、亦本果下種に約せば第二番已来か。随聞の如し。輔正記は意を探つて釈するか云云。
次復次の下は本の因果に種し等(文)。真記云云。
問ふ何を以つて本果発心と知るや、答ふ経文に任する故なり。
経に云く、我於伽耶城菩提樹下坐得成最正覚転無上法輪、爾乃教化之令初発道心(已上)。是れ本果成道の時の発心なり云云。
俊の云く、上の本因果とは同じく多人に約す云云。今謂く先は経文に依りて故に真記に従ふべし(已上)。
果後近熟。
此の近の字前後に異るなり、是れ則ち本地に近く中間に熟するなり、過去を近と云ふが故なり。随聞云云。二には弥勒故来を識らざる故なり、若し迹の弟子ならば何んぞ識らざるや弥勒識らず、極近に非ざるなり。
弥勒菩薩は既に等覚の菩薩なる故に迹門の三千塵点劫をば推知すべし、しかるに此の塵点は久遠の五百塵点劫に対せば猶昨今の如くなる故に極近と名づく、若し近脱の人は久遠今日の中間にして今日に近し、今日に近しと雖も三千塵点劫の内に非ず、故の極近に非ずと云ふなり。依つて真記に近世とはまさに道理大通の前に在るべきなりといへるも今の記を依文とするか云云。
有る師の云く近世とは義の如く今日に近き故なり、而るに極近に非ずとは必ずしも三千塵点の前後には拘はるべからず、但是れ今日に近しと雖も一世二世等の近世に非ず、故に非極近と云ふか。然して此の上に真記に大通の前と云ふ時は、しからば近世とは云ふべからず等云云。
問ふ、若ししからば真記は何れの文に依つて大通の前と云ふことを知るや。
答ふ補処の智力を以つて故に三千塵点の間をば彷彿に推知すべき道理なり、既に近世を識らず、故に大通の前に在るべきなり(已上)。
問ふ私志記二 近世とは補処既に識らず、固く是れ近なるに非ず、蓋し前の二最遠なるに望む、此の世に望んで以つて近となるに非ず(已上)。今の妙楽と同異如何。
答ふ有るが云く、私志記の意は久遠今日の中間の中にして今世に近き義なり、然かも記と異あり、記の意は今日より中間に望んで近と云ふ。私志記の意は中間より今日に望んで近と云ふか、文勢これを思へ、此の義尤もなり、或は又両師全く同じきか。私志記の非望此世の下記の非極近世の句に同じきなり。是れ一二世を近に非ずと簡ぶ、次に望前二最遠とは久遠今日の間にして今日に近きことを顕はす、是の如く見れば全く同じきか。
追つて云く、私志記も今日より近を指す義なり、然かも記と異なるなり、謂く久遠今日の中間にして而かも久遠の方に近き脱者なれば是の故に近と名づくるに非ず、尚を今日に遠き中間なりといへども久遠の最遠なるに望むるに又近なり。
譬へば十里の道を七八里の処は初の一里の所より近しと雖も第十里の所に対して、これを見れば尚一里の方へ近きがことし、一里は今日の如く十里は久遠の如く七八里は中間脱の如しこれを思へ。
取後文意等。
意の云く、取意とは余意にあらず、即ち後の本門の意を取るぞとなり。化儀を取るとは本門の中に於いて本地已来化導の大旨を取るぞとなり、准文の次第、後文の意を取る、同じく所釈を指すべきか、正兼本迹とは因縁釈、正しく本迹を兼ねるか、亦一部の相も一部の因縁なり。
                    (已上)
是の一条は詳師の随聞記を以つてこれを写す。しかりと雖も短才未熟の愚輩、全く校合に能はず。但一両義の得意を挙ぐるのみ。促明師願聞之(而)已。
 宝暦五年二月八日功畢
   大石沙門孝察日善
      依雪山文庫蔵日善正本(美濃十四行三十丁)令高芳謄写更加朱訂了
        昭和十三年七月五日    日亨在り判

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