第七章 日蓮大聖人の教え
 
 ◇ 正しい教えに学ぶ
 
 「この世のなかは、なぜ乱れているんだろう。」
 
 「その原因はどこにあるのだろう。」
 
 「人はいかに生き、いかに死ぬべきか」
 
 大聖人は、このような問題を追求するために、先に紹介した『立正安国論』をはじめ、たくさんの御書をあらわしています。第一章から第五章までに述べてきたことがらは、すべて大聖人の御書にもとづいたものです。鎌倉時代と現代とでは、たしかに時代はちがいますが、大聖人の教えは、時代をこえて私たちにの心に、人としての生き方を強く訴えかけているのです。さまざまな問題をかかえた現代社会のなかで生きる私たちも、大聖人の御書を学び、その教えを自分のものとして行動することによって、現代社会のかかえている問題に、真正面から、力強く立ち向かっていくことができると確信しています。
 
 さて、第六章では、日蓮大聖人とはどのような方なのか、そしてその大聖人の教えが、どのように伝えられてきたのかをごく簡単に述べて「富士門流」の存在を紹介しました。ここでは、大聖人の教えを学び、現実の生活のなかに生かすための基本となることがらについて述べてみます。
 
 ◇ 寺院は修行の道場
 
 日本には、「浄土真宗」「天台宗」「真言宗」「禅宗」などの宗派を名乗る、数えきれないほど多くの寺院があります。そしてその各宗各派とも、「仏教」と称しながら、その教えもまちまちです。むかしは、寺院といえば修行の道場だったのですが、現在の有名寺院の多くは、ほとんどが観光寺院と化してしまい、歴史的な由来や景観、仏像などの仏教美術をほこるのみで、その寺院がどのような本尊を中心として、どのような教えを立て、どのような修行を説いているのかさえ、知らない人がたくさんいます。
 
 本来、修行の道場であるべき寺院の運営が、たんに観光客の「拝観料」によって成り立っているという現状もなさけないことですが、それ以上に、仏の教えが人間としての自分の生き方を支えてくれるものだという、たいせつな点が見失われていること、そして現代の人びとの「仏教」たいする軽視も、大きな問題ではないかと思います。
 
 鎌倉時代、大聖人は各宗各派の教えを学ぶために諸国の寺院を遊学しました。そして、どの宗派も仏の遺言にそむいているとして、真実の仏法を建立しました。大聖人が、「仏の教えではない」とされたのは、たとえばつぎのようなものでした。
 
 一、この現実の世界を否定し、そこから逃避して、はるかかなたの別の世界に浄土(じょうど=理想の国土)を求める。
 
 一、始から自分の心のなかに仏が存在していると主張して、仏教を軽んじる。
 
 一、自分のもっているさまざまな欲望をそのまま認めて、それを実現するために祈る。
 
 一、修行が大切だといいながら、現実には不可能な修行をすすめる。
 
 このような教えの間違いを明らかにし、この社会のなかで生きる人たちが、すべて等しく救われる教えを示したのが大聖人です。そしてそのような修行の方法を明して、みずからも救い、他の人たちも救っていこう、それがこの世に生を受けた私たちのほんとうの生き方である、この世界に生かされているという「恩」に報いていく道であると大聖人は説きました。
 
 ◇ 正信会の寺院
 
 さて、このような大聖人の仏法を、ともどもに学び、修行していこうと訴えているのが富士門流、日蓮正宗であり、その流れを根本とする正信会の寺院・布教所です。
 
 最近では、寺院というと「葬式や法事などをおこなう儀礼的な場所」であると思い込んでいる人がいます。私たちの生活とはあまり関係のない寺院ならば、必要ないと主張する人たちもいます。そこでは、寺院が本来的に「修行の道場」であることまで否定されてしまいます。また、寺院を否定することによってしか、自分たちの正当性を主張できない在家教団があることも悲しい事実です。
 
 もとより、正信会では、葬儀や法事を、たんに儀礼的なものとは考えてはいません。むしろそのような儀式の場においても、人間が正しく生きる道を求め、ともに人生の荒波を乗りこえていこうと確認するという積極的な意義を見いだしています。
 
 正信会では、僧侶も信徒も、ともに法華経の方便品・寿量品のお経を読み、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えています。法華経は、すべての人たちが本来は平等であると説いています。その平等感に立って、僧侶は僧侶として大聖人の教えにもとづいて修行し、信徒は信徒として、それぞれの生活のなかで大聖人の教えを生かしていこうと努力するのです。正信会の寺院は、僧侶と信徒が互いの役割を認めあいながら、ともに「南無妙法蓮華経」の教えをいただいて、人間としてよりよく生きていくことを確認する場であるのです。
 
 ちなみに、毎月十三日に、正信会の寺院でおこなわれる御講は、真実の仏法を示された大聖人に感謝し、僧侶と信徒が一堂に会して、その教えを研鑽する行事です。ですからこの日の集いを「日蓮大聖人ご報恩御講」といいます。
 
 ◇ それぞれの個性
 
 この社会に生きている以上、悩みのない人はいませんが、同じような悩みでも、その悩み方はそれぞれです。立場や生活環境のちがいによって、いろいろな悩みや疑問にぶつかるのは当然です。特技も能力も性格もちがいます。これを桜梅桃李(おうばいとうり)というのです。桜と梅とでは、気の性質も咲く花もことなります。中国で春の代表的な花とされた桃と李とでは、木や花は似ていても、そこになる実の味わいがちがいます。仏法では、このようなちがいを認めながら、それぞれに共通する命のあり方に光をあてています。性格のちがうそれぞれの木が、等しく自然のめぐみを受け、大地から養分を吸収して育っていくように、仏法では、人びとのそれぞれの個性を尊重したうえで、桜は桜らしく、梅は梅らしく、美しい花を咲かせていきなさい、個性を十分に発揮していきなさいと説いています。
 
 ◇ お題目を唱える
 
 私たちの仏道修行の根本は、大聖人が顕した御本尊に向かい「南無妙法蓮華経」と唱えるところにあります。これが仏法の肝要である「お題目」です。わかりやすくいえば、妙法蓮華経という仏様の命の中に、私たちが生きていくために必要なすべての智慧が納っているから、その命(妙法蓮華経)に、自分の命をゆだねていこう〈これを帰命(きみょう)といい南無といいます〉ということなのです。
 
 先に、私たちの命が「むさぼり」「いかり」「おろか」(これを三毒と呼びます)に支配されていると述べました。しかしこうした命であっても、さまの命に自分をゆだねる(南無妙法蓮華経)を唱えることによって、あたかも仏さまと同じように、私たちの命が清浄になると大聖人は示しています。
 
 「むさぼり」「いかり」「おろか」などに汚されている私たちが、お題目を唱えることによって、仏の清浄な命と智慧とふるまい〈これを三徳と呼びます〉を自然にに得ることになるのです。
 
 私たちの心が清浄になれば、知らず知らずに自分の姿や周囲の物事を正しく見、判断できるようになります。これがお題目の「功徳」なのです。この功徳によって、私たちは真実の自己、自分の心のなかにある無尽蔵の宝を発見し、たいせつな個性をかがやかせていくことができる・・・・・これが大聖人の教えです。
 
 ◇ 仏法を信ずる
 
 先に「信」のたいせつさを述べました(五章)。
 
 仏法がいかに勝れた教えであっても、その教えはひじょうに深く、私たちの理解をはるかにこえています。そこで大聖人は「南無妙法蓮華経」への信のたいせつさを強調し、私たちに必要なのは「信をもって智慧に代えることである」と示しています。また「信をもって、はじめて仏法に示されている清浄な世界に入ることができる」と説いています。
 
 私たちがほんとうの人生の目的を知り、正しく生きていこうとするとき、いちばんたいせつな姿勢を、大聖人は「南無妙法蓮華経」への信であると述べているのです。
 
 どうか仏法に縁したみなさんは、大聖人の仏法を信じ、その教えを真剣に学び、人生の意義を見いだし、それぞれの個性をおおいにかがやかせてください。
 
 そして将来の社会に向かって、大きく羽ばたいてください。
 
付・正信覚醒運動の意義
 
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