第四章 生き方を学ぶ
 
 ◇ 生きる姿勢(アルツハイマー症公表について)
 
 アメリカの元レーガン氏は、つい最近、自分が老人性の痴呆症・アルツハイマーの病におかされていると公表しました。若いころは俳優として映画に出ていたレーガン氏は、共和党の大統領として二期八年ものあいだ、アメリカ国民に支持された人です。任期を終えたあとの彼のここ数年にわたる言葉や行動のなかには、常識ではちょっと考えづらい食い違いがあって、不可解に思っていた人もたくさんいました。その懸念が、本人の発言によって裏づけられたのです。
 
 アメリカ国民の象徴である大統領として、世界に大きな影響力をもつ大国を指導し、名誉と栄光に輝いたその人が、最晩年になって、まだ治療法が確立されていないアルツハイマー症にかかっていたことを公表したのです。病は多くの場合、プライベートな問題としてあまり公表されませんが、レーガン氏は公人だったという立場、また自分の本当の姿を直視し、社会への影響を考えて、勇気ある公表に踏み切ったのではないかと思います。
 
 自分にとって都合の悪いことが起きたとき、不愉快な状況におかれたとき、人間はあんがい、その原因を他人のせいにしたり、事実そのものを隠そうとしたりするものです。普通ならば、大統領として、世界でもっとも強大な国の大衆の尊敬と信頼を集め、栄誉である人生のままに終りたいと思うのではないでしょうか。ところがレーガン氏は、勇気をもって自分の病を公表し、今後かぎりある人生を前に、ふたたび「どう生きるか」を求めはじめたのであろうと思います。
 
 多くの人びとを苦しめているアルツハイマー症が、いま、社会的な問題として大きくクローズアップされています。この問題は、高齢化のすすむ日本の社会を、これから背負って立つ若い人たちの問題でもあるといえましょう。よりより治療方法の確立や予防の道を大きく開いてほしいものです。
 
 私たちとは宗教的な信条のことなるレーガン氏ですが、その勇気ある公表は、社会に大きな影響を与えずにはおかないでしょう。もちろん、政治家としての彼の評価はまちまちです。しかしそこに、ひとりの人間の生きる姿勢、困難に立ち向かう意志を見ることができます。
 
 ◇ 現実を見つめる
 
 レーガン氏の例をあげるまでもなく、私たちがよりよく生きようと思うならば、まずは自分の置かれている足もと、そして自分自身を素直に見つめなければなりません。目の前の現実を正しくとらえることができるならば、人生の意義もおのずから定まってきます。
 仏教では因果の法則・因縁の法を説いています、簡単にいえば物事にはすべて原因があって、それはかならず何かの縁に触れ、そうすることによって結果としてあらわれ、報いを受けるということです。
 
 たとえばこのような法則は、「因果」論だけでも、その立て分けや相互の関連などを考えるとき、参考とするような文献は膨大で、それこそ学問的にアプローチしていこうと試みたとしても、一生をついやしても理解し尽くすことはできません。
 
 そのような複雑な法則の積み重ねによって、私たちは命を授かり、現代という時代に生きているのですから、自分を過去・現在・未来の流れ、社会との関係、両親との関係、自然との関係、その他無数の関係から切り離して「単独」な存在として考えていては、現実を正しくとらえていることにはなりません。
 
 私たちはこの国土に生まれ、一人ひとり、ことなる環境や社会のなかで生きています。大きな志をいだくことも、夢を見ることも、人が生きていくためには、たいせつなことですが、自分をとりまく現実から目をそらして、夢ばかり追っていては、人生を「まぼろし」についやしたといわれても仕方がありません。なかには「そもそも、人生なんて、まぼろしなんだ」という人もいるでしょう。それは、自分の人生を「まぼろし」にしようと宣言しているもので、現実を直視しない極端な考えだと思います。
 
 私たちが信仰している「仏法」においては、原因と結果を別々にとらえるのではなく、それが私たちの一瞬の命のなかに同時そなわっていると説きます。ここでは、その説明をはぶきますが、この「因果」のとらえ方が、信仰のなかでは重要なポイントとなりますので、記憶にとどめておきたいと思います。
 
 ◇ 正しくものを見る
 
 いちがいに「正しくものを見る」というと、「丸いものは丸い。四角は四角。この目に映るものはすべて、そのままの姿で映っている」と思う人がいます。そうではありません。時間や空間のなかにおかれた事象をつらぬいている本質、それを見きわめるということなのですが、もとより私たちは、深遠で高尚な哲学を学び、論文を読破し、また論文を書くことによって人生に役立てようという立場にはありません。
 
 ふだん、私たちが物事を判断するとき、これまで自分が体験をとおして学んできた知識や感覚、好き嫌いや美しい、醜いという感情によって知らずに判断しています。こうした判断の「ものさし」は一人ひとり違っています。ところが人は、よく「自分がこのように見るのだから、人もそう見るに違いない」と思い込んでしまいます。そこには誤解やトラブルの発生する原因があります。ですから、だれでもが、いとも簡単に正しくものを見る目を獲得できるというものではありません。
 
 ことに感情というものはやっかいで、正しい判断を誤らせるものの筆頭ともいえましょう。理性のある人は、自分の欠点も長所も素直に認めることが出ます。また信頼できる人の前では、自分の欠点を素直に認めることができます。しかし、好ましく思ってない人、敵対関係にある人、軽蔑している人から、もし同じような指摘を受けたとしたらとても素直に認めることはできません。まったく同じことがらでも、指摘する人によって、こちらの受ける印象がまったく変わってしまいます。それは、物事を見るとき、自分の感情が、事実をゆがめる大きな偏向フィルターになっているからです。
 
 私たちがものを判断するうえで、大切にしているこれまでの体験も、正しさの目安になっているようで、あんがい、そうでもないのです、体験というものは、時や場所や人などを総合した複雑な状況のうえに成り立ちますが、これらの要素がいつも同じであるとはかぎりません。時がことなり、場所が変わり、相手が変わったときは、それらの関係も変わっていきますから、かならずしも、前に正しかった判断が、いまも通用するとはいえません。
 
 このように考えると、たしかに「正しくものを見る」ことの大切さがわかります。しかし、ではそのような目を、どうやって見につけるかと問えば、これも大変むずかしそうな問題です。
 
 それでも、現実というものを正しく見ていこうとする姿勢は、私たちが生きていくうえでたいせつです。認めるべき現実を、自分の好みや都合で否定し、ごまかし、隠そうとするならば、判断を誤って不幸をまねく結果になるということを忘れてはなりません。
 
 現実を正しく見ていこうとする心、真実を守ろうとする心、苦難を乗りこえて、自分の責任において人生を切り開いていこうとする姿勢、虚栄や怠惰にうち勝っていこうとする心、それを獲得する方法を、仏法は説いています。
 
 自分の心の中にある無尽蔵の宝を発見しなさい・・・・・仏法は私たちにそのように示しています。
 
 
 
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