第二章 人を思いやる心
 
 ◇他とともに生きる
 
 もう二十年以上も前のことです。結婚式の披露宴で、スピーチに立った人が、「夫婦生活で必要なものは、ヤリとカイです。」と述べていました。何をいいたいのかと気をもんでいると、「ヤリというのは思いやりというヤリで、カイというのは理解というカイです」との話でした。
 
 いままで他人同士だった二人の男女が、これから一つ屋根の下で暮らしていくには、相手への思いやりをもち、お互いに理解しようという姿勢が欠かせません。それは夫婦の生活にかぎったものではなく、人と人の関係によって成り立っている社会全体にわたっていえることでしょう。
 
 子供たちはよくケンカをします。とくに年齢差の少ない兄弟・姉妹は、何かにつけてケンカをして親を困らせます。子供は、二、三歳になると「自我」の意識がめばえるといいます。自分のものと他人のものを区別し、自分にとって、何がトクで何が損かが、ある程度わかるようになるのです。」 
 
 幼いころの子供は、いつも自分が中心でなければならず、まだ相手を思いやるという心が芽ばえていないので、親が「こんなことで」と思うようなことがらでも、りっぱなケンカの原因になってしまうのです。
 
 けれども、ケンカをして手をあげたり、逆に痛い思いをしたり、両親に叱られたりするうちに、どうすればケンカにならないようにするかという知恵がついてきます。ケンカの原因になっ一箱のチョコレートを、「いっしょに食べよう」と、仲よくわけ合って食べているのを見ると(自分以外の人間がいることに気がついたな)と感じさせられますし、その意味では、幼いころのケンカの体験は必要なものなのかもしれません。
 
 だからといって、いつまでたっても、子供と同じようなケンカをしているというのでは困ります。そういう人たちは、体こそ大きくても、精神的には未熟だといわれても仕方ありません。
 
 もちろん、人間は正しく生きなければなりませんから、過ちを見て見ないふりをしたり、力の強い人を見て真実を曲げてしまっては、けっして正しい生き方であるとはいえません。しかし、自分の考えを主張するあまり、他の人の考えをまったく受け入れようとしない態度があるとしたら、それは改めるべきでしょう。つねに他の人の考えに自分の考えを合わせなさい、というのではありませんが、どうすれば「和」の状態が得られるかを考え、また、ときには自分の主張をおさえて辛抱することも必要です。もし、相手の過ちを悲しみ、哀に思えるようになれば、もうケンカにならないはずです。
 
 おとなのけんかは、子どものそれとはちがって、ともすれば殺人や戦争へとエスカレートすることがあります。その原因を考えれば、やはり大部分は、自分の主張が通らないことから、相手をにくみその存在自体まで否定してしまうところにあるようです。
 
 また、たとえケンカはしなくても、親しい友人ができないとか、他の人に好かれないという人もいるでしょう、そういう人は、まず「人を思いやる心」が自分に欠けていないかどうか、一度じっくりとふり返ってみてください。
 
 中学生くらいまでなら、腕力さえ強ければ、話し相手がなくても「とりまき連中」ができて、あまりさびしい思いをすることはないかもしれません。それは、小さいけれどもクラスという頑丈なワクで守られているからです。しかし、一歩社会へ足を踏み出せば、他の人たちとの接点は大きく拡がりますから、わざわざ自分勝手な人を相手にはしようとは思いません。いつも自分本位で、仲間や相手のことなど少しも考えないような人とは、付き合いたくない・・・・これはだれもが思っている処世術です。当然のことなのですが、他の人への思いやりに欠けていては、私たちは一人前の人間として認められていないことを知ってください。
 
 こうした人間関係を、わずらわしいと思う人もいるでしょう。他人に迷惑さえかけなければいいじゃないか、自分はそんな交際などせずに、好きなことをしていたいと考える人もいるでしょう、ところが、学校を卒業して会社に勤めれば、必ず上下関係や同僚とのつき合いがあり、商売をしようとすれば、お客さんと接しなければなりません。農業や、漁業など、自然を相手に仕事をしている人でも、それなりのルールと人間関係があって、他人との関係を断ち切って生きていくことなどは不可能です。
 
 それでも、なるべくつき合いを少なくして生きていこうとすれば、できないこともないでしょうし、他の人たちは、自分を「いてもいなくてもいい人」として無視してくれるかもしれません。でも、それで本当に意義ある人生を送れるでしょうか。
 
 私たちは一人では生きられません。おコメや野菜は農家の人たちが作り、自動車は工場つくられます。服もクツもCDプレーヤーも本も、自分の知らない人たちがつくり出したものです。名前も知らない人びとがいるからこそ、私たちの生活は成り立っているのです。この社会は、もちつもたれつの関係です。他人と交わらずに自分の好きなことをしたいというのは、「あなた方は私のために努力してください。でも、私は、あなた方になにもしてあげたくありません。」といっているようなものです。
 
 とくに若い人たちには、生きるということが、「他とともに生きる」ことであると知ってください。
 
 ◇たいせつな自分
 
 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。」
 
 文豪・夏目漱石は、小説の中でこのように述べて、人間関係のむずかしさを嘆きました。
 
 避けてとおれない他の人とのかかわりの中では、誠意が通じなかったり、親切が仇になったり、行為が誤解されたり、信頼が裏切られたりします。そのうえ、意地を張ったり、気をつかったり、交際費まで必要ということになれば、いっそのこと投げ出してしまいたくなるのも人情です。
 
 しかし、一見損ばかりしているように見える他人とのかかわりも、実際には他人のためではなく、自分のためになっていることが多いのです。
 
 「情けは人の為ならず」というコトワザがあります。最近は、「情をかけることは、その本人のためにはならないので、やめたほうがいい」と解釈する人があるそうで、なるほど素直に読めば、そう読めないこともありません。しかし、もともとこの意味は、他人にかける情も、結局は自分のためだということです。
 
 数年前、ロサンゼルスに大地震が起きると、アメリカ全土から一万人以上のボランティアが集まって被災者を助けたというニュースが流れました。それ以来、日本でもボランティア活動がさかんになり、全国いたるところに、ボランティア関係者が生まれたのは喜ばしいことです。
 
 ところが、長い間ボランティア活動に取り組んできた人から、「近頃は自分のための活動のような気がする」との声がもれ伝わっています。困っている人たちを助けるために始めた活動が、いつのまにか、自分の生きる「よすが(=たより)となり、証となっているというのです。
 
 仏教には、「布施」という修行の方法が、説かれています。施しを布くと書いて「ふせ」と読みます。欲をかきつづけ、たとえ何でも自分のつもりにしていたとしても、人は死をむかえれば、何もかも手離さなければなりません。結局、何ひとつ自分のものとはなりません。だから、「自分のもの」というこだわりを捨てて、みんなのものとして、めぐまれない人に施ししなさいという教えです。
 
 この「布施」がさかんになれば困っている人びとも恩恵を受けて、社会は一段と平等になるだろうと考えられます、けれども、もっともたいせつなのは、布施をおこなった本人が、これまで自分の欲望のため見失っていた、人間のあるべき生き方を知る教えだということなのです。
 
 こうして、世のため、人のために精いっぱい努力していくことが、いつのまにか自分自身の成長につながっていることを「情は人のためならず」というのです。
 じっさい、人にとって自分ほど大事なものはありません。妻がかわいい、子どもがかわいい。愛する彼女や彼のためには死んだってかまわない。という人もいますが、それは、そう思う自分の心をたいせつにするから、彼女や彼が大事になっているのです。恥を吉奈って切腹したむかしの武士は、自分の命より、「武士道」に価値を置き、それを大切にする心を、命にもまして優先させたということです。彼女や彼のために死んでもいいという人も、自分の中の愛する人を、何よりも優先させているのです。
 
 だからといって、その自分が一番大事なものばかりを前面におし出してしまうと、市街はたちまち衝突して、原始時代の殺し合いに逆戻りしてしまうかもわかりません。公害をたれ流ししても自分たちが儲かればいいという利己的な人がふえれば、人類に希望の光は見いだせません。打算的になって、エゴイズムが進めば進むほど、人は不幸になってしまうものです。
 
 たしかに、私たちにとっては自分ほどたいせつなものはありません。しかし、自分のことだけを考えていたのでは、害を他の人におよぼし、その結果、自分まで不幸におちいることになってしまいます。むしろ自分を大切にするいっぽうで、自分のことは捨てて置くくらいのおおらかな気持ちで他人のために尽くすならば、かえってその行為は、自分の幸せにつながっていくものです。
 
第三章 自分を発見しよう
 
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